詩編123編《仰天の歌》【はじめに】 クリスチャンの人生は巡礼の旅ですが、その中心ともいうべき内容は「礼拝」です。礼拝においてわたしどもは必要なすべてを与えられます。神の慈顔を仰ぎ、神の言葉を聞いてゆく中で、わたしどもは、この世の虚しさ、自分の弱さ、自分の罪を知ります。そして造り主、救い主なる神を知ります。十字架を知り、復活を知り、聖霊への明け渡しを知り、聖霊の満たしを知り、再臨を知り、永遠の命の世界を知ります。主の御前に静まり、天を仰ぐ礼拝は信仰生涯の中心です。ここに慰めと平安と喜びの源なのです。 【テキストの解説】 詩篇123篇は都もうでの歌の4つ目の歌にあたります。120篇が神の救いを切望する巡礼の「志望の歌」、121篇は「出発の祈りと旅の安全祈願の歌」。122篇は「エルサレム到着と救いの門への入場の歌」、123篇は詩人はさらに進んで神殿に入り、礼拝堂で「臨在の玉座を仰ぐ礼拝の歌」として歌われています。 【メッセージのポイント】 1)3 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 4 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。 ⇒ 傷つき、悩める、汝の心を主に向かって開け(3、4節) この詩人は今、困難な旅路を越えてエルサレムに到着し、シオンの丘にあった神殿で礼拝をしています。この詩の中で不思議な驚きを感じるのは最後の部分です。詩人は言います。「3 わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。 4 平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」「飽かされています」という訳は、口語訳では 「主よ、われらをあわれんでください、あざけりと侮りがわれらの魂に満ちあふれています」と訳されていました。毎日のように続く「あざけりと侮り」で、信仰者の心の中は、一杯となっているのです。それは悲しみの偽らざる告白、吐露がここにはあります。異民族によるあざけりと迫害、心に受ける傷と痛み。詩人は率直にこれらのことを告白します。ここにまたわたしどもは礼拝の真実を見ます。この詩人は礼拝が何であるかを知っています。 聖歌707番に「心にもだえあらば、イエスに話せ、イエスに話せ」とあります。長血を患って主に足元にひれふした女性のように、愛するものを失って主の足元で泣いたマリヤのように。われらも今、主よ、あなたの前に嘆きを捧げます。 2)2 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。 ⇒ われらの神、主に目を注げ(2節) 詩人はここで繰り返し、「目を注ぐ」と語っています。「僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ」ますと告白します。そして「憐れみを待ちます」。 わたしたちはいつも何に目を注いでいるのでしょうか?あなたの目の前には何があるでしょうか?ある人には自分の仕事かも知れません。あるいは結婚、あるいは病気、あるいはお金、あるいは空の財布、あるいは愛する人、あるいは嫌いな人、自分の過去の栄光、現在の困難・・。 しかし、聖書は言います。「目を注ぐべきものは「主の手」であると。何たる幸い!「主の手」!全能の主のみ手。エジプトから奴隷の民を導くみ手。荒野で反抗する民に差し伸べられた御手。盲人の目に触れられる主のみ手。十字架に釘づけされしそのみ手。トマスの触れし復活のしるし、愛のしるしなる主の恵みのみ手! 3)1 【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。 ⇒ 仰天の時!礼拝の時(1節) この詩は「天に座しておられる方よ、わたしはあなたに向かって目をあげます」と歌いはじめました。彼は天を仰いでいます。「仰天」とは日本では驚いたときに使う言葉です。「びっくり仰天」と言います。あまりの意外な出来事にびっくりし、思わず天を仰ぐという意味です。礼拝とは「新鮮な驚き」です。驚きをもって天を仰ぐことなのです。造り主は天におられます。驚くべき愛とゆるしとをもって、われらを見つめておられるのです。われらはその慈愛の深さ、大能のみ力に驚き、見上げるのです。絶望の荒野で石を枕しつつ、主の臨在に驚いたヤコブのように、その罪が暴かれ許しの愛に驚いたヨセフの兄弟たちのように、その神の御子の栄光に驚いた百卒長のように、そして、驚きつつ主を崇め「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ロマ11:33 口語訳)と歌ったパウロのように。パトモス島で主の臨在に触れたヨハネのように! 【結 論】 聖日礼拝はわたしども地上を旅する神の民にとって最も大切なときであります。われらはそこで、傷つき、悩める、心を主に向けて、癒していただき、われらの神の御慈顔と全能のみ手に目を注ぎ、その豊かさと恵みの深さに思わず天を仰ぐのです。礼拝のときこそ、癒しと回復と力の充満の時なのです。ハレルヤ。 |