詩編131編《 安 ら ぎ 》【 はじめに 】 現代人は不安の中に生活しているとよく言われます。科学技術が進み、社会の構造が複雑化すれば、それに適応するには高度な知識や理解力が要求されることになります。また、様々に入り組んだ人間関係に対応して行くには柔軟な知恵が必要となります。数日前の新聞によるとここ数年で覚醒剤の使用で逮捕された人は7倍以上になったと報道していました。人はみな、逃れ場・安らぎを求めています。 【テキストの解説】 この詩は15ある「都に上る歌」の後ろから3番目の詩です。ここには人生の深い平安と、恵みに満ちた詩人の神への信頼が満ちています。 【メッセージのポイント】 1)1 【都に上る歌。ダビデの詩。】 主よ、わたしの心は驕っていません。 わたしの目は高くを見ていません。 大き過ぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。(1節) ⇒ 謙遜! 詩篇 131篇の作者は「主よわが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばなます。詩人は、ある種の信仰的な体験をして、神様への信仰に目が開かれたようです。それはなんであるかは定かではありません。彼は、「おごらず」「高ぶらず」と歌っています。あるがままで、主に愛され、受け入れられていることを自覚した信仰者の謙遜がここにあります。無理に背のびしなくてもいいのではないでしょうか。真の謙遜は被造物である自分を自覚し、自らを空にして創造主の栄光を現すことです。 2)2 かえって乳離れしたみどりごが、 その母のふところに安らかにあるように、 わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。 わたしの魂は乳離れしたみどりごのように 安らかです。(2節口語訳) ⇒ 潔め! 2節で2回「幼子」と言う言葉を使用しています。これは口語訳では「乳離れしたみどりご」と訳されていました。この言葉は、わたしどもに一つの霊的体験を語っています。「赤ちゃん」はお母さんのオッパイが大好きでなかなか離れられません。しかし、ある時からおかあさんのオッパイを卒業してゆきます。そして、二度とオッパイを欲しがらなくなります。詩人はこの子供の姿に例をとって、かつて心引かれていたこの世の何物かに決別でき、神様を第一に出来るようになった心境を語っています。ここに霊的な成長があります。この世の何かに囚われ続けるのではなくて、神様を第一にしながら、霊的な成長をなすのです。 パウロも言います「この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまった」(ガラテヤ6:12)。この世からの「乳離れ」して、神に結びつくのです。 3)3 イスラエルよ、主を待ち望め。 今も、そしてとこしえに。(3節) ⇒ 平安! 口語訳には2 節に3回「安らか」という言葉が出ていたのですが、今回は消えてしまいましたので、口語訳を書いておきました。乳離れして母のふところに抱かれて安心しきっている幼子の姿。主に信頼するとき、謙遜、潔め、平安はやってきます。「われは幼子、われ、主にすがらん、小さくあれど、信仰いだきて。絶えず主イエスの手に依りすがらん。静けき昼も、風吹く夜も』(聖歌490)。「幼子のようにならなければ天国に入ることは出来ない」(マタイ18:3) 【結論】 主イエスのある生涯は、この「謙遜」、「潔め」、「平安」の中にやすろう、祝福の生涯なのです。ハレルヤ! |