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カテゴリ:説教
《説教要旨》 「神癒―使徒たちの場合」 2006.7.16
使徒3:1ー10 【はじめに】 最近暑い日が続きますね。ラジオの川柳で「今日もまたたったの一行暑かった」と言うのをやっておりました。暑い中、皆様の健康が支えられますように。 さて、キリスト教信仰の中心は十字架の贖いによる罪の許しです。それは「新生」の恵みです。魂の癒しと言っていいでありましょう。そこでわたしどもは値なくして義とせられ、罪許され、父なる神と和解し、神の子とせられ、新しい命によみがえらされ、永遠の命を受け、キリストの花嫁とされます。 更に、罪の許しは、わたしどもを「聖化」の恵みの世界へと導きます。神の子とされたわたしどもは心の王座に主イエスをお迎えします。復活のキリストが、わたしたちの心の中に御内住くださり、古き自分が死に、キリストに生きる者となります。これは聖霊の充満の生涯とも表現されます。 今日は「神癒」すなわち信仰による癒しということを共に見て行きたいと思います。 まず、癒しの信仰に関する、わたしの愛唱聖句は(文語訳や口語訳まちまちですが・・)以下のものです。 「われは主にして汝を癒すものなり。」出エジプト15:26 「その打たれた傷によって、癒されたり。」イザヤ53:5 「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」3ヨハネ2節 「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。」マラキ4:2 【聖書のテキスト】使徒言行録3章の記事はペンテコステ(聖霊降臨)を体験した弟子たちの行動が描かれています。ペトロとヨハネは神の霊に満ちて力強い活動を始めました。その一つの働きが「美しい門」で物乞いをしていた足の不自由な男の癒しの話です。神様の恵みと力に満たされた弟子たちは、ローマの政治的な支配、ユダヤ教の伝統的な束縛、社会からの偏見、誤解と迫害、あらゆる困難を打ち破って、大胆に証し、世界中に福音を伝える者とされました。その霊的な勢いの最初のできごとが足の不自由な男の癒しの業でした。 【メッセージのポイント】 1)1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。(1-2節) ⇒ 美しい門の前での悲しみの人生! まずここには、午後3時の祈りの時にと時間が限定されています。このすばらしい奇蹟は、「ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行った」時に起こったと記されています。それは実に象徴的です。初代教会の使徒たちは、いつも祈りの中に歩んでいたようです。1章の記事を見ると、ペンテコステ前の使徒たち、すなわち、主の教会が誕生する前から弟子たちは祈りのために10日間の備えの時を持っていました。いわば、教会は祈りの会から生まれてきたのです。そして、この弟子たちの大きな働きの出発も祈りのために神殿にのぼってゆく所から始まりました。奇蹟は祈りから始まります。 更に2節に「すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」とあります。彼は生まれながらの足の不自由な男でした。どんなに苦しい人生を歩んできたことでしょう。彼は自分で歩くことができずに人々に「運ばれてきた」のです。そして彼は、美しい門のそばに物のように「置かれていた」のでした。この神殿の「美しい門」というのは、エルサレムの北の方に神殿があって、その東の一番正面の門でありまして、多くの人々がそこを通って礼拝に境内に入ります。しかし彼は神殿の境内に入りません。そこに置かれ、そして夕方になると、またそこから運び出してもらうというふうなそういう毎日の生活が想像できます。彼は生まれて40年、自分の足で歩いたことがないのです。神様の美しさとこの世界の美しさの信仰の告白をする門である、その「美しい門」のまん前に、悲しみにうち震えながら、物乞いの人生を送るこの男性の矛盾と恨めしさが伝わってくるようであります。 わたしどもの人生も同じようなことがあるのではないでしょうか?全能の神様の美しい臨在のまん前で、神様のすばらしい御力に気付かないで、自分の非力さに悩み、うつむきながら、まわりを過ぎてゆく人々に「お恵みを下さい」と物乞いをする人生を歩んではいないでしょうか?聖書は、神の美しさ、人生の美しさが、主イエスの十字架と復活を通してすでに表され、燦然と輝く太陽の日の出のように、今救いの業が始まったことを告げています。 今、失意と悲しみの宿命に支配され、神の世界の美しさを知らなかったこの一人の男に、主御自身が触れようとされているのです。 2)3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3-6節) ⇒ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩け! 彼は、「美しい門」の前で施しを乞うていました。すると、恵みに輝いた二人の人が向うから歩いてきました。ペトロとヨハネでした。彼らが境内に入ろうとするのを見て、何かもらえると思ってこの二人に施しをこうたのでした。すると4節にはこう記されます。「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見」つめた。そして、それから言いました。「わたしたちを見なさい」。この男は、何かもらえると思って二人をじっと見詰めていました。見つめていると、6節でペトロの言った言葉が記されています。「わたしには金や銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい!」どのような声で、どのように語ったかは記されていませんが、きっと祈りを込めた、力強い言葉だったのでしょう。「わたしには金銀はない!しかし、あるものをあげよう!」とペトロは語りました。ここでこの男は、「金銀」をほしかったのでしょう。しかし、ペトロもヨハネも、金銀はなかったのです。しかし、金銀貨幣に勝るものを彼らは持っていたのです。それは一体、何だったのでしょうか?それはナザレ人イエスキリストの名」でありました。「ナザレの人、イエスキリストの名!」これこそが、金銀貨幣に勝るこの世の最高のものなのです。ペトロやヨハネはこの「主イエスの名」を信じる信仰をこの男に与えたのでした。 わたしの友人も教会献身をしているときに、お財布の中に主イエス様の肖像画を入れておいて、時々教会に物乞いに来る方に「わたしにも金銀はない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人、イエスキリストの名によって歩きなさい!」と祈ってあげる友人がおりました。 3)7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。(7-10節) ⇒ 躍り上がって立ち、歩きだした! 「主イエスの名によって歩け!」と言ってから、右手を取って彼を立ち上がらせました。7節に「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8 躍り上がって立ち、歩きだした」と書いてあります。彼は今まで歩いた体験がありません。それなのに、祈りの思いをこめて必死で立ちあがるや、足やくるぶしがしっかりして、彼は立つことができて。歩き出したのです!しばらくすると彼は、癒された恵みに満たされて「歩き回ったり、躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」と記されています。まわりの人々は、「彼が歩き回り、神を賛美しているのを見」ました。そして、たった今まで、神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いたのでした。 「ここに躍り上がって立ち、歩き出した」とあります。これは主イエスの恵みに触れ、癒しを経験して、喜びに満たされた初代教会のクリスチャン達の姿があると思います。「歩き回ったり、躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」のです。 現代は大変ストレスの多い社会となりました。現代のように科学の発達した社会は病気が減るのではないかと想像されておりましたが、現実はそうではありません。いや現代は本当に病んでいる状態が深刻な問題となっています。戦前は結核等の気管支系の病気が大きな恐怖でありましたが、現代は強度のストレスから来るメンタルな病気が人々を悩ましています。そのような意味で、19世紀の後半にABシンプソン先生が体験し、説いたような信仰による癒しの必要性が説かれる必要があるのではないでしょうか。半徹夜祈祷会で、米国の大学のガン細胞学の権威と言う方が話してくださったことがあります。人間の体には通常、2000個ぐらいのガン細胞が毎日できるのだそうです。このガン細胞は、NK(natural killer)細胞というフラグメンチンなる酵素によって食べられるので、ガンが発生しないのだそうです。しかし、さまざま要素が重なって免疫性が落ちてしまうと、NK細胞が活発に活動できずにガンが発生しやすくなると言うのです。笑ったり喜んだりすると1回200のガン細胞が死ぬと言われます。皆さん、一日10回以上は、元気に笑い、神様に感謝して、明るく生きることですと彼は言いました。「聖書に書いてあるとおりです。救いを経験して、『いつも喜び絶えず祈り、すべてのことに感謝する」事が、人間の健康の秘訣でもあります」。中田重治先生は、新生、聖化、神癒、再臨を、人間の救われた魂の変化の方から言うと、「新化」「聖化」「健化」「栄化」と呼ぶ事ができるといわれました。神様のみ救いの業を経験しながら、充実した毎日を進み行きましょう。ハレルヤ。 【祈り】 父なる御神。「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の四重の福音について学ばせていただき、今日は「神癒」の恵みを学びました。主よ、わたし達の心も魂も健やかなものとして下さい。自分ではできないと不信仰になるのではなく、主の美しい門の前で、ナザレ人主イエスキリストの名によってすでに為してくださった恵みを信じ、立ち上がり、躍り上がって主を讃美するまでにならしてください。魂も肉体も生活万般に健康を与えてください。わたしたちの癒し主、主イエスの御名によって祈ります。アーメン 更に読んで見たいと思う方は以下のHPをどうぞ! http://home.att.ne.jp/wave/akabane-ch/church/index/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.15 21:00:46
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