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カテゴリ:説教
敬愛するブログメイトのobasanがアメリカで足をくじかれたことやヨブ記に興味を持っておられることを書いておられるので、老婆心ながら、2002年のアドベントにした説教をお送りしたいとここに書き込ませていただきます。ヨブ記の理解には構造の理解が大切だと思いますが、一応、19章25-27を中心に語ったものです。ごちゃごちゃしているところもありますが興味をお持ちの方読んでみて下さい。 ハリー
《礼拝説教》 「このわたしが仰ぎ見る」 2002・12・01 ヨブ記19:25‐27 - アドベント礼拝 ― 【はじめに】 今日は教会暦に依れば一年の最初の礼拝、アドベント礼拝である。教会暦で行くと、この日から一年が始まる。心機一転。後のものを忘れ、先のものに向かって体を伸ばして進もう。アドベントは、もともとadventusというラテン語(ad-へ+venire-来る+tus過去分詞語尾=「-へ来ること」から「到着」の意味)である。「キリストの到来」、「出現」という意味である。これからクリスマスまでの時、わたしどもは主イエスに会う備えの時とする。王の王、主の主なる恵みのお方が来られる。教会暦にはひとつの教えがある。人生が真実に始まるのは、「主イエスを心に迎えるための備え」から始まるのである。イザヤの言葉によれば「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を広げて上る」人生がここからスタートする。ハレルヤ 【テキストの位置と概略】 さて、今朝与えられているヨブ記19章は、旧約聖書の中心的な個所であると言われる。内村鑑三は大正9年、60歳の時に東京丸の内の聖書講演会で、ほぼ一年、4月から12月までヨブ記の連続講解説教を行った。ヨブ記19章25節に至ったときについに心熱して病に倒れ、数回の休講を余儀なくされた。10月11日の日記に「眩暈(めまい)いまだ去らず、頭を冷やし終日床にあった。床中に彼女(妻)に看護せられて言った。『ヨブ記19章を講じてこんなくらいのことは当たり前である。床につくくらゐに一生懸命にならざればヨブ記がわかったということはできない』と、しかし、これで峠を越えてあとはらくである、一先づ大安心である、こんな力の要る部分は聖書の中にも多くはないのである」(「ヨブ記の研究」『あとがき』内村美代子より)。翌大正10年からは「ロマ書講演」に入った。 1-4節 ビルダデへのヨブの二回目の答えで、友に捨てられた絶望の叫び 5-21節 自分には恥ずべき行為はない、わが身の病は神の不正の暴虐の結果 22-24節 彼は自分の潔白を、鉄の筆で岩に刻むように熱望する 25―27節 失望の最中で啓示される「天における贖うお方」への信仰の飛躍 内村鑑三はここから3つの大きな「思想」があるとして次のように指摘する。 (1)贖う者は神である。これはキリストの神性を示す。 (2)「贖うお方」が地上に現れる。これはキリスト再臨を指す。 (3)時来たらば、明らかに神を直視する。復活および復活後の神を見奉る。「絶望の極みにて、この三思想、心に起こるとき、絶望の人は一変し、希望の人、歓喜の人となるのである」。 【メッセージ・ポイント】 1)わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。(25節) ⇒ 贖う方は生きておられる! 「贖う者」という言葉は、ヘブル語では「ゴーエール」という語であり、この言葉は独特の響きを持っている。キリスト教の中心的なメッセージはこの「贖う」という一語にかかる。 「贖う方」(ゴーエール)とは 次ぎのような場合に使用された言葉である。 (1)親族中の助力者「親族が血を流した場合、その復讐をする」(申命記19:6-12) (2)親戚が捕虜になった場合、身代金を払って自由の身とする(レビ25:48) (3)親戚が破産をした時は賠償金を払ってその財産を買い戻す(レビ25:25) (4)やもめや幼児の保護者、非圧迫者の解放者(箴言23:10-11) (5)エジプトからイスラエルを解放した主ヤーウェ(出6:6、15:13) (6)バビロニアから民を解放したヤーウェ(イザヤ43:14、44:6、24、エレ50:34) (7)メシヤ(=救い主)への適用、「最後の方」(イザヤ44:6、48:12) (フランシスコ会「ヨブ記」その他による)。 ヨブは信仰深い、真実な、豊かな人であった。しかし、サタンの攻撃にあい、家族、親族、仕事、財産に問題が生じて全てを失う。更に、ハンセン病のような恐ろしい病気にあって、健康とあらゆる人間関係に破綻をきたしてしまう。彼は「人生の苦難の問題」を友人たちとの議論し、自分の無罪を主張し、神の歴史支配に異議申し立てをする。しかし、因果応報の思想に立つ友人たちに責められて、孤立無援、絶望の只中で、この「ゴーエール」(=贖い主)を待ち望む信仰に至る。法廷における弁護者というイメージを主張する者もいる。とにかく、ヨブは人間としての全てを失う中で、自分を弁護し、失われたものを取り戻し、自分の人生を救い、回復する、「贖い主(=ゴーエール)」を待ち望んだ。人生はまず、「贖い主」なるお方に待望の目を注ぐところから始まる。 2)ついには塵の上に立たれるであろう。(25節b) ⇒ 後の日に彼は必ず地の上に立たれる! ここでヨブはこの「贖い主」なるお方が、地の上に立つという。ここでは二つの大きな考え方がある。 (1)地の上は、文字通りには、「塵(=オーファール)の上として、死人の行く、塵の積もった場所、死者の国、陰府(よみ)の国を指すという理解の仕方がある。そうすると「贖う者」は、陰府の世界に立つことになる。 (2)「塵」という言葉は、「土(=アダマー)7:21、14:8参照」や「地(エレツ)8:19、41:25参照」と同義語として使われている。アダムも「土の塵」から造られているが、実質的に同じ。この場合も、陰府よりも、地上と取ったほうが妥当と考えられる。教会の伝統でも、70人訳以来、この「地の上に立つ」を、地上に来られるキリスト、肉体をとってこられる「受肉の神のことば」と理解してきた。更にこの「贖い主」は再臨のキリストを指すと内村は言う。「贖う者」は最後には地上に立たれる。その時、彼の義が、正しさが証明されるのである。 3)この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。(26、27節a) → わたしは神を仰ぎ見る! ここでは更に、「見る」という言葉が3回も記される。厳密に見るとここには「仰ぎ見る(=ハーザー「幻を見る時に多く使われる語」)」と「見る(=ラーアー「一般的な見る」)という言葉が使用されている。また、「わたし」も3回使われる。「わたしは仰ぎ見る」、「このわたしが仰ぎ見る」、「わたしの目をもって見る」。ヨブは、神に合うことを唯一の望みとする。伝統的には復活のことを指し示していると見る。 しかし、実際はなかなか難しいところもある。「ミ・ベサリ(=この身を持って、あるいは、この身を離れて)」という言葉の複雑さがあるが、今回は触れない。 この最後の部分でヨブは歌う。 「その時には、神は厳しい裁きの神としてではなく、わたしの味方として、わたしの弁護者として神を見る」と。口語訳では「しかもわたしの味方として見るであろう。」(27節)と訳していた。ロマ8:31では、「神はわしたちの味方となった」と語る。罪の僕、神の敵であったわたしどもを、主は十字架の上で贖い取り、全ての罪と死ののろいを打ち砕いて、勝利と祝福の人生を開いてくださったのだ。 ヨブは、この「贖い主」を切望し、お会いできる時を「腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(27節b)ほどに待っていると告白する。「わがはらわた絶え入るほどに!」贖い主を慕うものでありたい。 【結論】 アドベントのこの時、この世の全てのものから目を転じて、「贖い主」を仰ぎ見よう!このお方を、この目で見上げよう!この方が、われらの罪と死の世界を打ち砕くために来られた。馬小屋の汚れた飼い葉桶の中に身を横たえ、カルバリの十字架の上で身代わりの死を遂げるために。やがて復活の朝には、この主と顔をあわせてお会いするのだ。ヨブが「内臓が焼けるような思い」で主を焦がれたように、祝福の主を見上げよう。よきかな、クリスマス! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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