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キリスト信徒やまひでの心の窓

ルター著「キリスト者の自由」石原謙訳

新訳「キリスト者の自由」「聖書への序言」
マルティン・ルター著 石原謙訳 岩波文庫957

岩波書店 昭和30(1955)年12月20日第1刷発行
     昭和38年7月10日第10刷発行

思慮深く賢明な、
特に愛情の濃かな私の友にしてまた後援者であられる
ツヴィッカウの市長ヒエロニムス・ミュルフォルト君に、
   アウクティ派修道士にしてマルティヌス・ルターと名づけられた私は
    私の心からの奉仕とあらゆる所有とをささげます。

 思慮深く賢明な主君でありしかも慈愛に富まれる友よ、あなたの、讃美に価いする市の説教者、尊敬するマギステル・ヨハン・エグランは、あなたが聖書にたいしていだかれる愛と熱心とについて、あなたがこれを勤勉に告白しかつ人々の前に称揚していられるとのことを、ロをきわめて賞賛していられました。そして彼は、私があなたと熟知の間柄であるよう懇望されるので、私自身はもとより喜んでこれに従いたいと願っています。というのも神の真理の愛せられるのをきくのは私にとって特に大きな喜びであるからです。然るにキリスト、言い逆らわれざるをえない蹟きと徴とのためにおかれたこのキリストにおいて、多くの人々がつまずいたり倒れたりまた起きあがらなければならないのに、ーーかくも多数の者が、殊に己れの肩書きに信頼して誇る者が最も多く、あらゆる権力と策課とをもってこの真理にさからおうというのはまことに遺憾至極なことです。このゆえに私は、私たちの相識と交誼との初めにあたってこのささやかな論文また説教をドイツ語の形でーーというのはそのラテン文をローマ教皇に献じたからですがーーあなたにささげたいと思います。これによって教皇権についての私の見解と論議とに、望むらくは何人からも排撃を受けるようなことのないように、その論拠をすべての人々の前に証示したいのです。これをもってあなたとまたすべて神の御恵みとに、私自からをゆだねます。アーメン。
   1520年ヴィッテンベルクにて。

 イエス

第1 「キリスト教的な人間」とは何であるか、またキリスト者にキリストが確保してあたえたもうた自由とはどんな性質のものか、これについては聖パウロが充分に論述していることであるが、われわれもこれを根本的に認識できるように、私はまず次のニ命題をかかげたいと思う。

  キリスト者はすべてものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
  キリスト者はすべてものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。

 これら二つの命題は、聖パウロがコリント人にあたえた第一の手紙第9章に「わたしはすべてのことに自由であるが、自ら進んで何人の僕ともなった」と語り(9章19)、またローマ人への手紙第13章に「あなたがたが互いに愛し合うことのほかに、何人にも債務を負うてはならない」と教えたところによって(13章8)、明らかである。しかし愛は、それが愛するところのものに仕えまた服従するものである。それはキリストについても同様で、ガラテヤ人への手紙第4章に「神はその子を女からうまれさせ、律法に服従させて送りつかわしたもうた」とあるとおりである(4章4)。

 第2 自由と奉仕とついてのこれら二様のたがいに矛盾する命題を理解するためには、キリスト者は何人も霊的と身体的との両性質をもっていることを記憶しなければならない。たましいの面から見ればキリスト者は霊的な新しい内的な人と呼ばれるし、血肉の面から見れば身体的な古い外的な人といわれる。そしてこのような区別のあるところから、私がいま自由と奉仕とについて指摘したようなまともに矛盾することが、キリスト者について聖書のうちに説かれているのである。

 第3 さてわれわれは内的な霊的な人をとり挙げて、これが義しい自由なキリスト者であるか、またかようにキリスト者と呼ばれるのに何が必然であるかを見よう。そうすると外的なものは何と呼ばれているにしても、決して人を自由にすることもないし義たらしめることもできないのは明白である。なぜかといえば人の義も自由も、またその反対に悪も束縛も、これらは何れも身体的でも外的でもないからである。身体が束縛されないで強壮且つ健康であり、思うままに食らい飲み生活したところで、そのことがたましいに何を益するだろうか。反対にまた身体がその意に反して束縛され、病み疲れ、飢え渇き、悩み苦しんでいるとしても、このことがたましいに何の損失をもたらすであろうか。これらのことはたましいにまで深く影響して、これを自由にしたりまたは束縛したり、これを義としたりまたは悪くしたりすることの絶対に可能なものではないのである。

 第4 同様にまた身体が、かの司祭や聖職者が着ているような聖衣を着たところで、それがましいにとって何の飾りにもならないし、また教会や神聖な霊域に詣でたとしても無用であり、神聖な行事にあずかつても役にたたないし、身体だけで祈願し断食し巡礼に加わり、更にまた身体をもってまた身体において行われ得るような善行をことごとく完うしたところで、すべて無益である。実にたましいに義をもたらし自由を与えることのできるものは、およそこれとは全く異なるところのものでなければならない。なぜなら以上に挙げたこれらすべてのもの、行為と方法とは、邪悪な人、欺瞞者や偽善者であってもこれを所有しまた行うことが出来るのであり、またかようなことによってはただ偽善者のほか決して何者もうまれては来ないであろう。これに反して身体が聖衣ならぬ平服を着用し、神聖ならぬ場所に住み、普通の飲食を取り、巡礼も祈祷をもなさず、上述した偽善者の行う動作を全くなさないとしても、そのことがたましいに何の障害をもたらすこともないのである。

 第5 たましいは、聖なる福音すなわちキリストについて説教された神の言のほかには、これを生かし義たらしめ自由にしそしてキリスト者たらしめる如何なるものをも、天にも地にも所有しない。これについてはキリスト自身かく言われた、ヨハネ伝福音書第11章「わたしは生命でありよみがえりである。わたしを信ずる者はとこしえに生きる」(11章25)。同じく第14章「わたしは道であり、真理であり、生命である」(14章6)。同じくマタイ伝福音書第4章「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るすべての言で生きる」(4章4)。これによってわれわれは次のことを確言しない訳には行かない。すなわちたましいは神の言以外のあらゆるものを欠くことはできるが、神の言なしには他の何をもってしてもその代りにはならない。しかしたましいがもし神の言をもつなら、もはや他の何ものをも必要としない。それは言だけで充分であり、そのとき食物も喜びも平和も光栄も技能も敬虔も真理も知恵も自由もあらゆる財も充ち溢れるばかりに所有する。そこでわれわれは詩篇において、その中でも詩篇119篇から、預言者は神の言に向かってのほか何をも呼び求めないことを知るのである。また聖書では、神がその言を人間から取り去りたもうときに、これよりも恐ろしい災禍はなく神の最も激しい怒りとされ(アモス書8章11以下 )、これに反して詩第104篇に「神はその言をつかわして彼を助け給うた」とあるように、神がその言を送りたもうたときよりも大なる恩恵はないことが理解される。そしてキリストの来臨したもうたのは神の言を説教するという使命のためにほかならないし、またすべての使徒たち、司教、司祭と霊的階級(聖職者)の全体とが、ただ神の言のために召されまた立てられているのであるが、残念ながら今や事態は違ってしもうた。

 第6 しかしあなたが、かくも大きな恵みをもたらす言とは一体どういうものであるか、またそれを私はいかに用いたらよいのかと尋ねられるなら、私は答えよう。神の言とは福音書のうちに含まれているようにキリストのなされた説教以外にはない、すなわちあなたのあらゆる生活も行為も神の前にはなきに等しく、むしろあなたのうちにあるすべてのものと同様に永久に失われてしまわなければならないと神の告げたもうのを聴き悟ること、それでなければならないし、またそうされているのである。このことをあなたが、あなたのなさなければならないように打かたれ、かくてあなたは正しくあり真実となれ平和に且つ殺とせられ、すべての絞めは充たされ、あなたはあらゆることから自由にされるであろう。それは聖パウロがローマ人への手紙第一書に「ぬけ信仰によって生きる」てしまわなければならないと神の告げたもうのを聴き悟ること、それでなければならないし、またそうされているのである。このことをあなたが、あなたのなさなければならないように正しく信じるなら、そのときあなたは自分自身に絶望し、「ああイスラエルよ、あなたがたのうちには滅びのほかに何もない、けれどあなたの救いはただわたしのうちにある」というホゼアの言(13章9)の真実さを告白せざるを得ないであろう。然るに神は、あなたがた自身から、言い換えればあなたの滅びのうちからのがれ出ることのできるように、そのいつくしみたもう御子イエス・キリストをあなたの前にたて、その活ける慰めにみちた言によってあなたにかく言わしめたもうのである。曰く、あなたは確乎たる信仰をもってキリストに己れをゆだね、敢然と彼を信頼すべきである。そうすればこの信仰の故にあなたのすべての罪が赦され、すべての滅びが打ちかたれ、かくてあなたは正しくあり真実となり平和に且つ義とせられ、すべての誡めは充たされ、あなたはあらゆることから自由にされるであろう。それは聖パウロがローマ人への手紙第1章に「義とされたキリスト者はただその信仰によって生きる」(1章17 )、また第10章に「キリストは、彼を信じる者に対し、あらゆる誡めの終りまた充実である」と言っているとおりである(10章4)。

 第7 この故に言とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰を不断に鍛練し且つ強からしめることが、当然すべてのキリスト者のつとむべきただ一つの行いであり修行でなければならない。なぜならこれ以外のどういう行いも、人をキリスト者たらしめることの不可能なことは、ヨハネ伝福音書第6章に、ユダヤ人たちが、神的なまたキリスト教的な行いを完うするのにはどんな行いをなすべきであるかを問うたのに答えて、キリストが「神の遣わされた者を信じること、これがただ一つの神的な行いである」と語られたとおりである(6章28以下)。これは父なる神の始めてかく定められたところであって、この故にこそキリストを信じる正しい信仰が実に充ち溢れるばかりの富といわれるのである。けだしこの信仰はあらゆる祝福をともない、すべての不幸を除き去ること、マルコ伝福音書が最後の章に「信じてバプテスマされる者は祝福され、信じない者は罪せられる」と記しているとおりである(16章16)。この故に預言者イザヤは第10章にこの信仰の富を仰ぎ見て、「神は地上に些やかなものを残したもうであろう。この些細なものから洪水のように義が溢れ注がれるであろう」といった(10章22参照)。すなわち信仰、あらゆる誡めがそのうちに簡潔に要約されて充実されるところの信仰は、溢れ出でてこれを有するすべての人々を義とし、かくて彼等はもはや正しくまた義とされるために何をも必要としなくなるのである。されば聖パウロもローマ人への手紙第10章に、「心から信じるによって人は正しくあり、義たらしめられる」と語っている(10章10)。

 第8 然るに聖書のうちにはかくも多くの律法や誡めや行いや階級や態度などが定められているのに、しかも義たらしめるのは信仰のみであって、これのみが何の行いもなしにかくも充ち溢れれるばかれりの富を与えるとあるのは、どうしてであるか。との点については後にもっと詳しく論述されるであろうが、今はまず、信仰のみがあらゆる行いなしに義たらしめ自由を与え救いにいたらしめるということを、はっきりと認識し真面目に確信することが大切である。もとより聖書全体が二種の言に区別され、神の誡めすなわち律法と、約束すなわち呼びかけとがあるということを、われわれは承知していなければならない。誡めはわれわれに種々の善行を教え且つ規定するが、それだからとてそのとおりになるのではない。誡めはいかにも指令するが、助力しない。何をなすべきであるかを教えるが、実行する力を与えない。故に誡めはただ、人間がこれによって善に対して無能なことを悟り、自己自身に頼り得ないことを知るのに役だつばかりなのである。従ってそれはまた古い契約と呼ばれて、すべて旧約聖書に属させるのである。例えば「悪い欲望をもつな」(出エジプト記20章17)という誡めは、われわれの全体がすべて罪人であって、何人といえども己れの欲することをなそうとするにあたって怒い欲望をいだかずにはいられないことを証している。そこから人は、悪い欲望なしに活き、己れ自身からでは充たすことのできない誡めを他の者に助けられてみたすために、まず己れ自身の力をあきらめてどこかに援助を求めるほかはないとのことを学び知るのである。これと同様に他の誡めもすべてわれわれには不可能なのである。

 第9 さて人間は自己の無能力を誡めから学び且つ終験するが、そのためどうしたら誡めを充たしうるかという不安に襲われる。というのは、誡めはどうしてもみたされなければならないので、さもなければ滅びの運命をまぬかれないからである。そこで人は全く心砕かれ、己れの眼にては何ともみじめな姿となり、何一つ自から義たり得るようなものを見出さない。かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束また告知が現われて、そして語る、「あなたがもしすべての誡めをみたし、また誡めが強要し要求するままにあなたの慾い欲望と罪障とから解き放たれたいと願うなら、さらばキリストを信じなさい。キリストにおいて私はあなたにすべての恩恵と義と平和と自由とを約束しよう。あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない。なぜなら誡め、それば必然的に数多くあり、しかも何の役にもたたない誡めの要求するすべての行いを課せられて、あなたは全く無力であったのに、今やそれがいともたやすく簡単に信仰によって完うされるのである。その理由は、私がすべてのものを圧縮して信仰のうちにおいたからで、これをもつ者はすべてをもって義とされるし、これなもたない者は何をも得られないのである」と。このようにして神の呼びかけは誡めの要求するところをみたし、誡めの命じることを成就し、かくて誡めとその充実と、すべてを神のものたらしめる。命じたもうのも神のみであり、充たしたもうのもまた神のみである。この故に神の呼びかけが新しい契約のき言であって、また新約聖書に属するのである。

 第10 そこでこれらの、またすべての神の言は聖くあり、真であり、義しく、平和的で、自由であり、すべての善にみちている。故に人が正しい信仰をもってこれにかたくすがりつくなら、かような人のたましいは神の言と合体し、しかも全く合一して言のあらゆる徳がやがてまたたましいのものともなり、たましいはまた信仰によって神の言から、聖く義しく真実に平和的に自由で且つすべての善に充ち、真正な神の子となり、ヨハネ伝福音書第1章に、「その名を信じた人々には、彼はすべて神の子となりうるカを与えたもうた」と言われているとおりである(1章12)。
 この点から容易に認識されることは、 どうして信仰はかくも多くをなしえられるのか、そして他のどんな善行もこれと比較されることができないのかという理由である。なぜならどんな善行もこれと比較されることができないのかという理由である。なぜならどんな善行も、信仰のように神的な言に頼っていることはないし、またたましいのうちにあることもできないので、ただ神の言と信仰とのみがたましいのうちに支配するからである。あたかも鉄が火に投げ込まれ焔と一つになって焔のように赤熱するのと同じように、たましいも言の有するものを言から受けとる。そこでキリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法とから解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかに彼は自由なのである。これがキリスト教的な自由であり、「信仰のみ」なのである。それはなすことなしになまけ怠たり気儘勝手に振舞ってよいというのではなく、われわれが義と祝福とに達するのに何の行いをも必要としないとの結論に導くものなのである。このことについてはなお後段に述べるであろう。

 第11 更に信仰には次のことが関係している。われわれが他の人を信じるという場合、それは対手の人を正直な真実な人格として敬重するからであって、この尊敬は他人にささげうる最大の栄誉であるが、これに反して人をだらしない嘘つきな軽薄な人物として認めるなら、それは最大の侮蔑である。了度そのようにもしたましいが神の言を確信するならば、たましいは神を真実にして正直な義なる者として認めるのであって、たましいはかくすることによって神に帰しうる最高最大の栄誉をささげているのである。なぜならその場合たましいは当然帰すべきものを神に帰し、当然ゆだぬべきものを神にゆだね、神の聖なる御名をあがめ、神の聖意のままに己れをまかせているのであるが、これは神がそのすべての言において義であり真実であることをたましいが疑わないからにほかならない。反対にたましいが神を信じないなら、神に対してこれよりも大きな侮蔑を加えることはありえない。この不信仰によって、たましいは神をやくざ者、虚偽者、信頼し難い者となし、かかる不信仰をもってなし得る限りに神を拒み、あたかも自分の方が神よりも賢明だと自負するかのように、神に逆らって自己の意に適する偶像を心のうちに造りあげるにほかならないからである。この故にたましいが神に真実さを帰し、その信仰によって神をあがめるのを、神が見たもうたとすれば、神もまたたましいに栄誉を許し、これをもまた義にして真実な者と認めたもうし、そしてたましいもまたかような信仰によって義且つ真実なのである。なぜなら人が神に真理と義とを帰するとすれば、それは義しく且つ真実であり、また正当且つ真実ならしめるものである。神に真理が帰せられるということは真であり義しいことだから。しかし信仰によらないで、しかも多くの善行を追求し労告する者はこのことにあずからないのである。

 第12 信仰は単にたましいが神的な言と等しくなり、すべての恩恵にみち自由に且つ祝福される(救われる)ようにするばかりでなく、更にたましいをして、あたかも新婦をその新郎にめ合わすようにキリストと一体ならしめる。この婚姻の結果として、聖パウロのいうように(エペソ人への手紙5章30)、キリストとたましいとは一体となり、従ってまた両者各々の所有も幸運も不運も、あらゆるものが共有され、キリストの所有したもうものは信仰ある有となり、たましいの所有するものがキリストのものとなる。そこでキリストのもっておられたすべての善きものと祝福とはたましいに所属することになり、同様にたましいに属していたすべての不徳と罪過とはキリストに託せられる。かくて今やあり難い交換と取り合いとが始まるわけである。けだしキリストは神にしてしかも人であり、かつて罪におちたことなく、その義は破られることなく、永遠且つ全能であるために、信仰あるたましいの罪をとって、たましいの有する信仰という結婚指輪の故によって自己自身のものとなし、あたかも自身がその罪に触れたかのようになしたもう。そこで罪はキリストのうちに呑まれ、溺らせられざるをえなくなるが、それはキリストの破りがたい義があらゆる罪にたいしてあまりにも強いからである。かくてたましいはひとえにその結納品すなわち信仰の故に己があらゆる罪過から潔められ、釈放され自由にされて、新郎であるキリストの永遠の義を慰み与えられる。かように富裕な高貴な義なる新郎キリストが貧しい卑しい賎婦を娶って、あらゆる悪からこれを解放し、あらゆる善きものをもってこれを飾りたもうのだとしたら、それは何とすばらしい取り引き(家計)ではないか。その際に罪がたましいを滅びに陥れるということはありえない。なぜなら罪は今やキリストの負いたもうところとなり、キリストのうちに呑まれてしもうからである。かくてたましいはその新郎において、かくも豊満な義をもつので、たといあらゆる罪がその上に押しかかって来ても、敢然としてこれに対抗することができる。このことについては聖パウロがコリント人への第一の手紙第15章にかく記している、「神を讃めたたえ感謝せよ。キリスト・イエスにおいて、罪と共に死も呑まれるばかりの勝利をわたしたちに賜わった」と(15章57)。

 第13 しかしあなたはここで再び、信仰があらゆる誡めをみたし、その以外には何の行いもなしに義たらしめるとのことが、果してどういう根拠に基いてかくも正当視されるかという理由を解するであろう。なぜならここであなたは、「あなたはただひとりの神をあがむべきである」と命じる十誡の第一の誡めをみたすものが信仰のほかにないことを知っている筈である。たといあたたが足の爪先までも純粋に善行のみであったとしても、それによって義とされもしないし、神に栄誉を帰し得るのでもなく、従って第一誠をみたし全うしたわけでもない。というのは神が実際真実そうありたもう如くに、真理とあらゆる善とが神に帰せられないなら、神はあがめられているとはいえないからである。しかしこれを全うするのは、どんな善行でもなく、ただ心からの信仰のほかにはないのである。
 この故に信仰のみが人間の義であり、あらゆる誡めの充実なのである。なぜなら第一の主要な誡めをみたす者にして始めて確実にまた容易に他のすべての誡めをもみたすからである。しかし行いは死んだものであり、もとより神に栄誉と讃美とを帰するためにその行いがなされたりまたなされるままに許されたりすることはあるにしても、それ自身が神をあがめることも讃美することもできない。しかしわれわれが今ここで求めているのは、行いのように他動的になされるものではなく、自から働き自から主たる者、神をあがめ行為を働くものであって、これは内心からの信仰以外の何者でもない。つまり信仰が義の首であり、否、その全存在なのである。故にもし行いをもって神の誡めをみたすものとして教える者があったら、それは甚だ危険な恐るべき教である。なぜなら充実はあらゆる行いにさきだって信仰によりなされ、充たされた後に行いが随伴しなければならないので、これについてはなお後述され心であろう。

 第14 更にわれわれはキリストにおいて何を得られるか、また正しい信仰というものがどんなに大きな宝であるかをあきらかにするためには、旧約以前においてまた旧約聖書においても、神は人間からも動物からもすべて男性の初生児を選み抜いてこれを自から保留したもうたとのことを想起するがよい。初生児は大切であり、他のすべての子等にさきだって二つの大きな特権すなわち支配権と祭司権とを、言い換えれば王者の権威と祭司職とを与えられた。従って地上では最初に生れた児は他のすべての弟たちの上に位する君主であり、また神の前にたつ僧侶、つまり教皇であった。この物語は、実は処女マリヤから生れたもうた父なる神の初生男子であるイエス・キリストを比喩的に象徴するので、すなわちキリストが王者であり祭司なのであるが、もとより霊的にである。なぜならキリストの国は地上のではなく、また地上の宝によって存するのでもなく、真理、智恵、平和、喜び、祝福(救い)などのような霊的な宝によって成立するのである。もっともそのために現在の宝が排棄されるわけではない。なぜならキリストは霊的不可視的に統治したもう故に、何人も彼を見ないとはいうものの、天にあるもの、地にあるもの、陰府にあるもの、すべてが彼に従属せしめられているからである。
 同じようにキリストの祭司職もまた、普通の人間において見るような外的な動作(儀礼)や服装にって保たれているのではなく、それは眼には見えない霊において存立している。従って彼は彼を信じる者のために絶えず神の御前にたち、己れ自からをささげて義しい祭司の行うベきすべてのことを行いたもう。聖パウロがローマ人への手紙第8章に語っているように、彼はわれわれのために執りなし祈願したもうている(8章34)。かようにキリストはわれわれを内的に心において教えたもう。この二つのことは、祭司たる者の固有の正当な職務なので、それであればこそ外的人間的現世的な祭司も同じように祈願しまた教えているのである。

 第15 さてキリストは栄誉と品位とを兼ねそなえた初生児であるが、彼はこの地位特権を彼に属するすべてのキリスト者にも頒ち与えて、彼等も信仰を通してキリストと共にすべて主また祭司たらしめたもう。聖ペテロが第一の手紙第2章に「あなたがたは祭司なる王者、王者なる祭司職である」と言ったのはそのためである(2章9)。そしてそれは、キリスト者は信仰を通して高く万物の上にあげられ、霊的に、なぜなら何ものも彼の祝福を傷けることはできない故に、すべてのものの王となることによって成就される。実際聖パウロがローマ人への手紙第8章に「選まれた者には生も死も、罪も義しきも、善も悪も、どういう名をもって呼ばれるにもせよ、すべてのものがこれを助けて益となる」と教えているように(8章28以下 )、あらゆるものが彼に属して、その祝福を助けざるを得ないのである。同じくコリント人への第一の手紙第3章にも「あらゆるもの、生にせよ死にせよ、現在のものも将来のものも、ことごとくあなたがたのものである」とある(3章21以下)。もとよりこれは、地上にある人間のなしているようにわれわれがあらゆるものを身体的に自分の勝手に所有したりあるいは使用したりすることをいうのではない。なぜならわれわれは身体的には死ななければならないので、何人も死を免かれることは出来ないし、またキリストと彼の聖徒たちにも見られるように、他の多くのものにも服しなければならないのである。さればここに説かれているのは霊的支配のことであって、身体的には強制の下におかれていても、支配しうるのであり、つまりたましいにしたがえばあらゆるものなしに私自からをより善くし、死と悩みさえも私には役だって祝福にいたるのである。まことにこれは、高貴な栄誉ある品位であり、正しく全能な主権であり、霊的な王国である。信じさえすれば、どんなに善くともどんなに悪くとも、何ものも私に益しないものはない。しかも私は何をも要することなく、ただ私の信仰だけで私に充分なのであ。見よ、何という貴重な、キリスト者の自由と権威とであるかを。

第16 しかもその上にわれわれは祭司なのである これは王者たることよりも遙かにまさっている。なぜというに祭司職は、われわれをして神の前に進みいでて他の人のために祈願するに価いする者たらしめるからである。神の御顔の前にたって祈願するということは祭司以外の何人にも許されないことであるが、ただキリストがわれわれをとらえて、あたかも祭司が身体的に人々に代って進みいでて祈願するように、われわれは霊的におたがいのために進みいでて祈願することをえさせたもうたのである。従ってキリストを信仰しない者には何ものも働いて役だつことなく、彼はすべてのものの奴隷であり、何ものにも妨げられ躓かざるをえないのみでなく、彼の祈願は受け容れられないし、神の御顔の前に価いしないのである。誰がこのようなキリスト者の栄誉と尊貴とを考えいだすことが出来るか。キリスト者は王者たることによって万物を支配し、祭司たることによって神をも動かす。というのは詩篇に「神は己れを畏れる者の願いをみたし、その祈りを聴きたもう」とあるように (145篇19)、神はキリスト者が祈願し求めるものを行いたもうからである。そしてキリスト者がこのような栄誉に達するのはただ信仰を通してであって、どんな行いによるのでもない。ここからキリスト者はあらゆるものから自由であり、あらゆるものの上に立ち、従って義とされ祝福されるためにいかなる善行をも必要としないで、却って信仰が彼にすべてのことを充ち溢れるばかり豊かにもたらすとのことを、明らかに確知しうるであろう。そしてもし彼が愚かにも、善行によって義とされ自由になり祝福を受けようとし、すなわちキリスト者になろうと思うなら、あたかも一塊の肉片を口に咬えながら水中に映った自分の影に飛びついて、肉と影とを共に失ったあの犬のように、彼はすべてのものと共に恐らく信仰をも失うであろう。

 第17 然らばキリスト教界において、かように彼等がすべて祭司であるとすれば、祭司と平信徒との間には一体どういう区別があるのかと問う者があるかも知れない。私はこう答える。祭司とか僧侶とか聖職者とかこの種の用語が一般の人から取りのけられて、今や聖職者階級と呼ばれる少数の人々にしか適用されなくなったという事実が、これらの用語法を不当ならしめたのであると。聖書には、学者たちや聖職者たちを単に奉仕者、僕、執事と呼んで、つまり他の人々に向ってキリストと信仰とまたキリスト教的自由とを説教すべき任務を負う者となしているだけで、それ以外に何の差別をも認めていない。なぜならわれわれは成るほどすべてが同じように祭司ではあるが、しかしわれわれすべての者が奉仕し事務に携わり説教するわけにはゆかない。故にパウロはコリン卜人への第一の手紙第4章に「わたしたちは人々から、キリストに仕える者、福音の執事以外の何者とも思われたくはない」と語っている(4章1)。然るに今やその執事職から現世的外的な、輝かしい威厳ある主権と権力とが発生し、正当な地上の権威でさえどんな方法をもってしてもこれに匹敵することができなくなり、平信徒のごときはほとんどキリスト教的信徒とは別の者ででもあるかのようにされるにいたった。そのためにキリスト教的な恵みも自由も信仰も、またわれわれがキリストから受けるあらゆるものについての理解が全く失われ、キリスト自身さえも奪い去られ、その代りとしてわれわれの得たのは夥しい人間的な律法と行いとに過ぎないで、われわれは全く地上において最もやくざな人たちの奴僕となってしまったのである。

 第18 以上論じ来ったことからわれわれは次のことを学ぶ。すなわち、もし人がキリストの生涯と事業とを皮相的にしかも単にある物語か年代誌的記録として語るにとどまるなら、それだけでも説教として充分なものではないが、まして彼については全く触れることなく、ただ教会法とかもしくはその他の人間的な法律や教法を講述するにいたっては全く論外である。またキリストについて説教したり朗読したりするが、彼に同情してユダヤ人に憤慨し、あるいは更に子供じみた方法を用いたりする者が少なからずある。けれどもキリストは、私にもあなたにも、それを聴いて信仰が呼び覚まされ且つ堅うされるように説教されるべきであり、またされざるを得ないのである。しかし信仰が呼び覚まされ保持されるのは、キリストは何故に来りたもうたか、彼をいかに用いまた味うべきであるか、彼は何を私にもたらし且つ与えたもうたか、というなことの私に語られたときにである。従ってそれは、われわれがキリストから受けたキリスト教的自由の正しく解釈されて、すなわち私が以上に述べたように、われわれがあらゆるものを支配して王であり祭司であり、かくてわれわれの行為するすべてのことが神の眼前に嘉納され且つ聴かれるとのことの理解されたときにである。なぜならかように心がキリストを聴くときに、心はその奥底から歓喜に溢れ、慰めを受け、キリストに対して甘美になり、彼に向って愛をささげざるをえなくなる。これはもはや決して律法や行いをもって行きつくことのできるところではない。その際に何人がかかる心を傷害しまた恐怖させたりするだろうか。たとい罪と死とが襲いかかって来ようとも、心はキリストの義が己れのものであり、自己の罪がもはや自身のではなくなってキリストのであるとのことを信じている。然らば上に述べたように、罪は信仰においてキリストの義の前に消え去らざるをえない。そして使徒とともに、死と罪とに逆って臆することなく、「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。おまえのとげは罪である。しかし神は讃美すべく感謝すべきだ、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのであるから」(コリント人への第一の手紙15章55以下 )と言い切ることができるのである。

 第19  以上の論述によって、同なる人とその自由ならびに主要な義とについては既に充分であるとしよう。それはいかなる律法も善行をも必要としない、否、それどころか何人にせよ律法や善行によって義とされることを求めるとしたら、却ってそれは障害となるというのであった。そこでわれわれは第二部、外なる人についての論述に入る。ことでわれわれの答えたいと思うのは、以上の所論からつまずいて次のように主張するのを常とする人々に対してである。彼等は論ずる、「ああ、もし信仰がすべてであって、信仰だけで充分人を義たらしめるのに足りるとすれば、それなら何故に善行が命じられているのか、われわれは善きものになりたいと思って、しかも何をも行わないでいてよいか」と。否、愛する人よ、そうではない。もしあなたがたが単に内なる人であって、全然霊的且つ内的になったとしたら、そうであるかも知れないが、それは終末の日に至るまではむずかしいであろう。地上にあってはその発端が見出だされまた進歩もあるにしても、その完成は彼岸の世界において遂げられる。そこで使徒はこれを「御霊の結ぶ最初の果」と呼んでいる。故に最初にかかげた「キリスト者は奉仕する僕であって、何れの人にも従属する」という命題はここにかかわっているのである。言い換えれば、自由である限りキリスト者は何をも行う必要はないが、僕である限り彼はあらゆることを行わなければならない。どうしてこれはそうなるのか、以下これを述べよう。

 第20 人間は内面的にたましいに関しては、信仰によって充分に義とされ、彼がもつべきであるすべてのものを既にもっているーーただこの信仰とこの充全であるとのこととが、来世にいたるまではどこまでも増進されなければならないということだけを除いては。ーーしかしそれにしても彼は地上ではなおこの身体的生活のうちにとどまり、従って彼自身の身体を制御しまた人々と交りを続けなければならない。ここに行いが始まるのであって、彼は無為に時を費やすということは許されない。肉体は断食、徹宵[勤行]、労働、その他あらゆる適度の訓練をもって強制され鍛練されることによって、内なる人と信仰とに服従しまたこれと等しい様相に化し、かくて強制されない場合にあり勝ちな妨げや反抗を試みることのないようにならなければならない。なぜなら内なる人が、かくまでに彼にたいして多くをなしたもうたキリストの故に、神と合一し、よろこび楽しむとともに、彼自らもまた報いを期待することなしに自由な愛をもって神に奉仕しようとする、ここに彼のあらゆる喜びがかかわっているのである。同時に彼はまた自己の肉のうちに、この世に仕えまた己れのよろこぶところのものを追求しようとする不従順な意志の存するのを見出すが、信仰はこれを看過しにすることができないので、かかる意志を抑制し阻止するために、力を尽くしてその頸を捉える。聖パウロもローマ人への手紙第7章に「わたしは内なる人としては神の聖意を喜びとするが、わたしの肉のうちに別の意志があって、罪をもってわたしをとりことしようとしている」と告白し(7章22以下)、また「他の人に宣べ伝うベきわたし自からが棄てられるようなことのないために、わたしは自分のからだを打ちたたいて、これを強いて服従せしめる」(コリント人への第一の手紙9章27)と語り、ガラテヤへの手紙第5章にも「キリストに属するすべての人々は、己れの肉をその悪しき欲情とともに十字架につけた」と記している(5章24)。

 第21 ただしこの種の行いほ、人間がこれによって神の前に義しくなろうとする意図をもってなされてはならない。なぜなら神の前に義でありまた義であらねばならないのはただ信仰のみである故に、かような誤まった偽りの意欲を信仰はそのままにしてはおかないからである。そうではなく行いはただ、身体が従順になりまたその劣悪な欲情から潔められ、そして眼はただ劣悪な欲情を駆逐するためにのみこれを注視するという意図をもってなされなければならない。たましいは信仰によって潔くなり、神を愛するので、それはまたあらゆるもの、殊にそれ自身の身体が潔く且つ何れの人もこれと共に神を愛し讃美するにいたることを希ってやまないのである。さればこそ人間は己れの身体を荷なって、無為にして生活することはできないし、同時に身体を強制して多くの善行を全うすることが大切になる。それにしてもその行いは、神の前に義たらんとしまた義なるところの善であってはならない。そうではくただ神の聖意に適うために報いなしに、自由な愛から、これをなすきであり、しかもこれをなすに当っては、神の聖意を最もよく行いたいという心からの希願をもって聖意に服するということ以外に、何をも求めたり意図したりしてはならないのである。そうすれば各自自身そこから適度と思慮とをえて身体を鍛練し、かくてその自恣の心を抑制するのに必要と思われるかぎりに断食し徹宵し労働することが可能である。ところが他の人々は行いをもって義とされることを思念し、鍛練を期することなく、ただ行いだけを求め、ひたすら多くのまた大きな行いさえすれば間違いなく且つ義とされるものと思い込み、ややもするとそのために頭脳を砕き己れの身体を滅ぼすにいたる。彼等が信仰なしに、行いによって義となり救われることを努めるのは、キリスト教的生活と信仰とについての甚だしい暗愚であり無理解といわざるをえない。

 第22  このことについてわれわれは幾つかの譬喩を挙げよう。キリスト者はただその信仰によってまた神の純粋な恩恵によって何の価いもなしに義とされ祝福されたので、彼のなす行いは、アダムとエヴァとの楽園においての行いについて、創世記第2章に、「神はその造りたもうた人間を楽園に置き、そこを耕させまた守らしめたもうた」と記されているが(2章15)、そのようなもの以外には考えられない。
 さてアダムは神から義しくまた善く造られ、そこで罪の汚れなくあり、従って彼はその勤労と監守との務めによって初めて義とされなければならないという必要を見なかった。けれども彼が無為に過ごすことのないように、神は彼に楽園にて植樹し耕作しまた看守することの勤労を命じたもうたのである。これは全く自由な行いであって、それはただ神によろこばれる(聖意に適う)ということのほかには、如何なることのためになされるのでもなく、もとより義を到達するためのものーーアダムは既にあらかじめ備えていたし、われわれもまたすべて生れながらに本有していたと思われるところの義ーーでは決してなかった。信仰ある人の行いもこれと同様である。かかる人はその信仰によって再び楽園に置かれ、新しく創造されたので、義となるのに何の行いをも必要としない。ただ無為に怠ることなく、その身体を緊張させ保持するために、ただ神にのみよろこばれるようにかような自由な行いをなすべく定められているのである。
 次に聖職にある司教も同様である。彼が教会を聖別し、堅振礼を執行しその他自己の職務に属する行事に携わるときに、これらの行いは彼を一人の司教たらしめるためのものではない。否、むしろ彼はすでにあらかじめ司教に叙品されていなかったなら、かかる行いは何の役にもたたないし、全く道化役者の芝居に過ぎないであろう。同じく信仰によって聖別されたキリスト者が善行をなすときも、彼はこれによってより善くもより多くも聖別されてーーこれは信仰の増し加わるということのほかに意味はないーーキリスト者になれるというのではない。否、彼があらかじめ信仰してキリスト者となっていなかったなら、彼のあらゆる行いは何の意味もないばかりか、却ってまったく愚かな罰せられ呪わるべき罪にとどまったであろう。

 第23 この故に次の二つの命題が共に真実である。すなわち、善い義しい行為が決してもはや善い義しい人をつくるのではなく、反対に善い義しい人が善い義しい行為をなすのである。次には、悪い行為がもはや決して悪い人をつくるのではなく、悪い人が悪い行為を生ずるのである。つまりどんな場合にも人格が、あらゆる善い行為にささだってあらかじめ善且つ義しくなければならないのであり、善い行為がこれに従い、義しい善い人格から生ずるのである。
 キリストが「悪い木がよい実をならせることはないし、よい木が悪い実をならせることはできない」と言われたのが (マタイ伝福音書7章18)、まさにこれである。もとより果実が木を結ぶのでないことは当然であるが、木も果実の上に生ずるのではなく、反対に木が果実を結び、そして果実が木にみのるのである。そこで木は果実よりもさきになければならないので、果実が木を善くも悪くもしない。反対に木が果実を善くもし悪くもする。そのように人は善いまた悪い行いをする前に、その人格においてまず義しくあるいは悪くあらなければならない。そして彼の行いが彼を善くしたり悪くしたりするのではなく、彼が善いあるいは悪い行いをするのである。すべての手工業についても同様のことが見られる。善いまたは悪い家が善いあるいは悪い大工をつくるのではなく、善いまたは悪い大工が悪いあるいは善い家を建てるのである。作品がその作品をつくる師匠を生ずるのではなく、師匠の如何によってその作品もきまるのである。人間の行為もこれと同じく、人が信仰において立つかまたは不信仰にあるかに従って、その行いも善くあったり悪くあったりするので、反対にその行いのどうであるかに従って、その人が義しくまたは不信仰であるのではない。行いが信仰的たらしめないように、また義たらしめることもないのである。
 これに反し信仰は、それが義たらしめると同様に、また善い行いをつくり出す。行いはいずれの人をも義たらしめないので、人は行為する前にあらかじめまず義であらねばならないとすれば、信仰だけがキリストとその言とによる純粋の恩恵から人を義たらしめ祝福されしめるのに充分なのであることは、まったく明白であろう。かくていかなる行いもいかなる誡めもキリスト者には祝福を受けるのに必要ではなく、彼はむしろあらゆる誠めから自由であり、従ってその行うところのすべてのことをまったく価いなしに純粋の自由な心から行うべきで、これによって決して自己の利益や祝福を希願しない。彼はその信仰と神の恩恵とによってすでに充ち足り、祝福され、従って行為においてはただ神によろこばれようとするのみなのである。

 第24  これに反して信仰のない者にとってはどんなに善い行いも義と祝福とに資するところはない。他面ではまたどんなに悪い行いも彼を悪くし呪わるべき者とするのではなく、むしろ人格と木とを悪くする不信仰が悪い呪わるべき行いをきたすのである。それ故に人が義しくあるいは悪くなるとすれば、それは旧約の賢人が「あらゆる罪の始めは神から離れ、神に信頼しないことに存する」と言っているように、行いにではなく、信仰に起因するのである。同じくキリストも行いに頼ってはならないことを教えて、「木がよければその実もよいとし、あるいは木が悪ければその実も悪いとせよ」と言われたが(マタイ伝福音書12章33)、それは善い果実を得たいと思う者はまず木から始めて、木をよくしなければならないとの意味なのである。かように善い行いをなしたいと思う者は行いから始めないで、行いをなさしめる人格に就かなければならないのはもちろんであるが,人格を善くすることは信仰をほかにしては何人も不可能であり、また不信仰のほかに何人もこれを悪くする者はない。キリストもマタイ伝福音書第7章に「その実によって彼等を見わける」と言われたように(7章20)、行いがある人を人々の前に義しくもし悪くもする、言い換えれば誰が義しく、誰が悪くあるかを外面的にあらわすということはたしかに真実であるが、そればすべて見かけであり外見である。この見かけは多くの人々を誤まらせる。これらの人々は、いかに善行をなして義とされるかを書いたり教えたりしながら、しかも信仰に関しては少しも考えようともしない。その道を歩みながら、しかも常に盲人を導く盲人たるにとどまる。彼等は多くの行いをもって自から労苦するが、決して本当の義には達しない。彼等について聖パウロはテモテヘの第二の手紙第3章に、彼等は敬虔らしい外見をもっているが、そこには根がない。ますます歩み進んで学びはするが、真実の義には決して行きつかないことを警しめている(3章5以下参照)。
そこでこのような盲人とともに踏み誤ることを望まない者は、行いと誡めとあるいは行いの教を超えて更にそれ以上に眼を向けなければならないのであり、何よりもまず人格を見、どうしてそれが義となるかを悟らなければならない。しかしそれは誡めと行ないとによるのではなく、神の言、すなわち神の恩恵の約束とまた信仰によって義とされ祝福されるのである。それは神がわれわれを、われわれの行いによってではなく、彼の恩恵的な言によって、価なしにまた純粋の憐れみから祝福されしめ、かくて神の栄誉の保たれしめたもうためである。

 第25  以上述べてきたところからあきらかに知られることは、善行はどういう場合にこれを棄て、どういう場合に棄ててはならないかということ、並びに善行を説くすべての教をいかに理解すべきであるかということである。というのはもしそこに、行いによって義とされ祝福されたいと願うような謬った附帯条項、つまり罪深い意図が潜んでいたとしたら、それだけで行いは善くはないし、むしろまったく呪わるべきものとなる。なぜならかような行いは自由ではありえないし、また信仰によってのみ義とし祝福されしめる神の恩恵を蔑ろにするものと言わなければならない。この義たらしめることは行いのよくなしうるところではないのに、行いが敢てこれをなし遂げようと企だて、かくて恩恵からその作用と栄誉とを奪おうとするものだからである。さればわれわれは善行を、善行それ自身の故にではないが、しかし行いが真実善くないのに、その外見だけを善く見せかけようとする悪い附帯物、謬まった罪深い意図の故に、廃棄せざるを得ないのである。それはあたかも羊皮を纏うた狂暴な狼のように、己れをも他の人をも欺くものにほかならない。
 しかし行いにおけるこの悪い附帯条項と罪深い意図とは、信仰のない場合に、これを克服することはむずかしい。それは、かような「行いの聖者」のうちに、信仰が来ってこれを絶滅するまでは残り存するに違いない。自然の本性が自分からこれを駆逐することはできないし、否、それどころか、認識することさえ出来ないで、却って貴重な、祝福をもたらすものであるかのように思い込み、そのためにかくも多くの人々が惑わされるのである。
 それ故に痛悔や懺悔告解や滅罪について書いたり説教したりするのは善いことであろうが、そこから更に進んで信仰にまで達しないならば、それはたしかに単なる悪魔的な惑わしの教に過ぎない。神の言はただその一面だけではなく、両面を共に説かなければならない。罪人を怖れさせ、その罪を曝露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである。けれどそこにとどまってはならない。そして他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきであり、それなしには誡めも痛悔もその他何を加えても空しくいたずらなのである。罪の懺悔と恩寵とを語る説教者はもとよりあるであろうが、神の誡めと呼びかけとを証しするために、痛悔と恩寵とがどこから、またどうして来るかを教えようとはしない。要するに痛悔は誡めから生じ、信仰は神の呼びかけから発するが、これに応じて人間は神の誡めへの畏怖によって心砕かれて謙虚になり、自己認識にまで導かれ、かくて神の言の信仰を通して義とされまた高くされるのである。

 第26  以上をもって一般に行いについての、またキリスト者が自己自身の身体に対して修練すべき行いについての説明を終わって、次には彼が他の人々に対してなすべき行いについて述べよう。なぜかと言えばこの地上では人間は、単に自己の身体だけで生きているのではなく、他の人々のなかに生活している。そのため人は他の人々に対して行いなしにいることはできない。彼等と語り、彼等と交渉をもつときに、これらの行いの何れをも、義と祝福とに達するために決して必要とする訳ではないが、これを避けることはできないのである。そこであらゆる行いにおいて彼の意図は自由であり、ただこれを以て他の人々に仕えまた役立つようにそれがむけられなければならないが、その際彼は彼等にとって必要なもの以外は何をも念頭におくべきではない。これがすなわち真実にキリスト教的な生活であって、ここでは信仰が、聖パウロもガラテヤ人に教えたように喜ひと愛とをもって行いに移ってゆくのである。彼はまたピリピ人にも、彼等がキリストへの信仰によってすべての恩恵と祝福とをえていることを賞讃しているが、更にこれに添えて、「あなたがたがキリストにおいてもつすべての慰めと、あなたがたに対するわたしの愛によってもつすべての慰めと、あなたがたがすべての霊的にして義なるキリスト者とともにもつすべての交わりとによって、わたしはあなたがたにすすめる。どうかわたしの心を喜びをもってみたし、かくてこれより後一つ思いとなり、他に対しては愛をあらわし、たがいに他に仕え、またおのおの己れ自からをも己のものをも念とすることなく、他の人とその要するものとを顧みるようにしなさい」と教えている(ピリピ人への手紙2章1以下)。
 見よ、ここにパウロはキリスト教的な生活を説いて、あらゆる行いが隣人に益することを目的とすべきゆえんを明かにし、そして人はそれぞれ己自身にはその信仰においてみち足り、そのほかにはすべての行いも生活も余分であり、まったく自由な愛からおのが隣人に仕えるためにこれを用いるべきであるとしている。このために彼はキリストを模範として挙げて言う、さればあなたがたがキリストにおいて見ているのと同じ思いをいだきなさい。彼は神のかたちにみたされ、己れ自からには欠けるところなく、義となり祝福されるために自身にはその生活も行いも苦難も必要とされなかったにもかかわらず、彼はこれらすべてのものを脱ぎすてて、僕の姿をとり、あらゆることを行い且つ忍び、わたしたちの最善のほかに何をも顧みられなかった。すなわち彼は自由であったにもかかわらず、われわれのために僕となりたもうたのである。

第27  かようにキリスト者はその首であるキリストと同じく、満ち飽きるばかりにその信仰によって満足を与えられ、更にますますこれを増し加うべきである。そは信仰が彼の生命であり義でありまた祝福であり、上述したようにキリストと神のもちたもうあらゆるものがこれによって彼に与えられるからである。パウロもガラテヤ人への手紙第2章に、「わたしが今なお肉にあって生きているのは、神の御子キリストを信じる信仰によって生きているのである」と記している(2章20)。そのようにキリスト者は今や全く自由ではあるが、しかし彼は喜んでその隣人を助けるためには己を僕となし、あたかも神がキリストを通して彼と関わりたもうたように、彼とかかわり行うべきである。しかもそれらすべてを価いなしに、神のよろこびのほかにはそこから何一つ求めることなく、ただ次のように意図する。すなわち「まことにわたしの神は、全く価値なき呪わるべき人間であるわたしにさえも、何の功徳もなく全く価いなしにしかも純粋な憐みから、キリストを通し且つキリストにおいて、あらゆる義と祝福とにみちた全き富をあたえたもうた。そのためわたしは、これより後それがそうであると信仰すること以外に、もはや何をも要しないところのものとされた。かくもみち溢れるばかりの財宝をあたしに注ぎ与えて下さったかかる父に向って、わたしもまた自由に、喜びに溢れつつ、価いなしに、神のよろこびたもうことを行いたい。キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。そして隣人にとって必要な有益なまた祝福と思われることをのみ努めよう。わたしがわたしの信仰によりすべてのものをキりストにおいて充分にもっているからには」と。
 見よ、かようにして信仰から神への愛とよろこびとが溢れいで、また愛から、価いなしに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びにみちた生活か発出するのである。なぜならわれわれの隣人が窮乏に陥ってわれわれのもとにある残物をも必要とするのと同じように、われわれも神の前には窮乏を訴えて神の恩恵を必要としていた。さればこそ神はキリストを通してわれわれを価いなしに助けたもうたように、われわれもまた身体とその行いとによって隣人に助けを供することの外に何をもなすべきではないのである。かくしてわれわれは、キリスト教的な生活がいかに気高く尊貴な活き方であるかを理解するのである。然るに残念なことには今や全世界を通じてこのことはおろそかにされている、否、それどころでなく、もはや知られもせず、説教されてもいないのである。

第28  それ故にルカ伝福音書第2章には、次のような記事が記されている。それによると処女マリヤは六週日の後に教会に詣でて、すべての他の婦女たちと同じように律法にしたがって己れを潔めたとある。もとよりかの女は他の婦人たちのように穢れてはいなかったし、またかような潔めを受けなければならない義務も必要なかった。けれどもマリヤは他の婦女たちを卑下することなく、普通の者と同じように自由な愛からこれをなしたのである。また聖パウロが聖テモテに割礼を受けさせたのも同様である。それは割礼が必要であったからでななく、信仰の弱いユダヤ人に誤った見解をいだかせる理由を避けようとしたためであった。然るに他方では同じパウロはテトスに割礼を受けることを許さなかったが、これは人々が、テトスも祝福にあずかるためには割礼が必要であると固執したからである。キリストについて見てもマタイ伝福音書第17章に、弟子たちが貢納金を請求された際彼はペテロと、主の子たちは納税の義務から解かれている筈であることを語り合って、ペテロが然りと答えたにもかかわらず、これに海辺に赴くことを命じて言われた、「彼らをつまずかせないために海にいってつり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると銀貨一枚を得るであろう。それをわたしとあなたとのために納めなさい」と(17章24以下)。これは今ここに述べている教の適切な例証である。キリストは己れと弟子たちとを、何をも必要としない自由な王の子らと呼びながら、しかも進んで自から服役し且つ貢納金を与えられた。この行いがキリストにとってその義あるいは祝福のために必要でもなく役にたちもしないように、それと同じく彼と彼にしたがうキリスト者とのあらゆる他の行いも彼らの祝福にとって無用であり、むしろそれらはすべて他の人の意志にしたがいその益のためになされる自由な奉仕にほかならないのである。
 更にあらゆる聖職者や修道院や聖会などの行いもこれと同じく、各自がただ他人の意に頼ってその身体を抑制し他の人々に模範を示し、彼らも同様にその身体を強制する必要のあるに応じてこれに倣って行わしめるために、その階級と教団との行いをなすべきである。ただそのためにのみであって、これによって義となり祝福されることを要求しないように常に注意しなければならない。これはただ信仰のみのなしうるところなのである。聖パウロもローマ人への手紙第13章及びテトスへの手紙第3章に、この世の権力に服すべきことを、しかしこれによって義とされるからというのではなく、他の人々と有権者とに自由に奉仕し且つその意志を行うのに愛と自由とからなすことを常に心がけなければならないことを、同じように命じている。この点をよく理解する人であったら、教皇、司教、修道院、聖会、王侯及び君主たちの数限りない規定や法律にもたやすく適応することができるであろう。ところがある曖昧な高僧たちはあたかもこれが祝福を受けるのに必要ででもあるかのように誣い教え、これをはなはだ不当にも教会の誡めと称している。これによって自由なキリスト者はかく言うのである、「わたしは断食し、祈祷し、命じられていることのこれもあれも行おう。けれどそれは、わたしがこれを必要とし、もしくはこれによって義とされあるいは祝福されたいからではない。むしろわたしはこれを、あたかもキリストが、彼自身にはわたしなどよりも遥かに必要とされなかったにもかかわらず、遙かに大きなことをわたしのために行いまた行わしめたもうたように、わたしもまた教皇、司教、教団、修道院団の兄弟たち、君主たちのために、模範と奉仕とをささげまたなさしめるのである。そしてたとい暴君たちが不当にもかかる要求をなすとしても、それが神に逆らうものでない限り、わたしに対して何の損失だとも考えないのである」と。

 第29  以上の論述から誰でもが、あらゆる行いと誡めとについて正確な判断をなし、また聖職者の何れが盲目暗愚であり、あるいは正しい理解を有するかを識別することができるであろう。なぜなら人が神に背き逆らうよう強制しない限り、他の人に奉仕しあるいはその意志をなさしめるように己れの行為をむけないとしたら、それは決しはて立派なキリスト教的な行いとはいいえない。ここから聖会,教会、修道院、聖壇、ミサ、寄進が必ずしもキリスト教的ではないし、更にまた断食やある聖者に特にささげられた祈祷もそうではないかという懸念が生じてくる。なぜならすべてのことにおいて何人もただ己れのことのみを求め、かくて己れの罪過をつぐなって祝福されると自惚れているのではないかを、私は恐れるからである。これらすべてはひとえに信仰及びキリスト教的自由の無理解から由来している。そしてある盲目な高僧たちは人々をここに導いてこれらのことを称讃し、贖宥(赦免状)を以て飾り立てはするが、決して信仰を教えようとはしない。けれども私は勧告する、あなたがもし何かを寄進献納し、祈願し、断食したいと思うなら、あなた自身に善いことを求める意図をいだくことなく、他の人々がこれを喜びとすることのできるように惜みなく施しあたえ、彼等に益するようにこれを行うべきである。そうしたらあなたは真のキリスト者である。あなたは信仰において既に充分であり、その点で神からすべてを与えられているときに、あなたにとって過剰な財宝と善行とが、あなたの身体を支配し且つ養うのに一体何の用に役だつとなすのか。
 見よ、このようにして神の財宝は一人から他者へと流れ注いで共有せられ、おのおのがその隣人をあたかも自分自身であるかのように受け容れなければならない。財宝がわれわれのうちに注がれるのはキリストからであり、キリストは彼自から、われわれのあるところのものであるかのように、その生命のうちにわれわれを受けいれたもうたのである。故にこれはまたわれわれから、これを必要とする人々の中に注がるべきであり、あたかもキリストがわれわれすべてのために行いたもうたように、私は私の信仰と義とをさえも私の隣人のために神の前にささげてその罪を掩い、私自から荷ない、これが私自身のであったかのように行う以外のことを行ってはならないのである。見よ、これが愛の本性なのであり、それの真実の場合のそれなのである。しかし愛が真実であるのは、信仰が真実な場合にである。この故にかの聖なる使徒はコリント人への第一の手紙第13章に、「己れのものをではなく、隣人に属するものを求める」ということを(13章5)、愛に固有なこととして教えているのである。

 第30 以上の全体から次の結論が生ずる。曰く、キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活する。彼は信仰によって、高く己れを超えて神へと昇り、神から愛によって再び己れの下に降り、しかも常に神と神的な愛とのうちにとどまる。キリストがヨハネ伝福音書第1章に、「あなたがたは、天が開けて天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見るであろう」と言われたのはそれである(1章51)。
 見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と誡めとから自由ならしめるところの、真の霊的なキリスト教的な自由であり、あたかも天が高く地を超えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由なのである。神よ、われわれをしてこの自由を正しく理解し且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。


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