キリスト信徒やまひでの心の窓

2018/03/29(木)19:26

ゲツセマネのキリスト

キリスト教とは(202)

​今週は教会暦での「受難週」 キリストが十字架にお架かりになるのが、金曜日 日曜日は、イースター 木曜日のキリスト様の足取りは 最後の晩餐、弟子たちの足を洗う(洗足)、ゲツセマネの庭での祈り、捕縛、審問 ゲツセマネの庭では、3人の弟子を伴われて、天の父に祈りを捧げる。 わたしはもう少し向こうで祈るから、あなたがたはここで祈っていなさい そう言われた弟子たちは、ただならぬ主のご様子に、緊張のあまり寝入ってしまう。 主キリストは血の汗をしたたらせ、悲しみもだえて祈られる。 殉教を前にしての悲しみではないだろう。 殉教なら、それは信徒の勲章なのだから。 そうではなく、全人類の罪を一手に引き受けて、父の裁きを代理で受け、死を遂げることの、恐ろしい戦いである。 胸が張り裂け、その場で悶死してさえ、不思議でない。 罪なきキリストが、人類史上最大の罪人たる罪を引き受けて、刑死する。 裁かれるのは父なる神だ。 その父の強い決意がキリストの心を動かしている。 キリストは、罪との恐ろしくも激しい戦いを、戦っておられる。 キリストは苦しみの中で、見はるかしておられる。 こんなにも戦っても、そして救いの道を開いても、なお悔い改めを拒む人々があることを。 悲しみを、なお深くされる。  イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」マタイによる福音書26章36~39(日本聖書協会新共同訳聖書) ​

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