ロートレックアンリ・ド・トゥ-ルーズ・ロートレック(1864~1901)先日お約束のロートレックです。画家であり、グラフィックデザイナーの先駆者としても有名な人ですね。36年の短い生涯のなかで、油彩、水彩、素描、石版画など、6000点以上もの作品を残しました。 豊かな環境に育ちながら、身体的なハンディーを生涯背負った彼の心には、埋まる事の無い穴が開いていた様な気がします。絵画はその穴を塞ぐ唯一の手段であったのでしょうか? 芸術家はハングリーでなければならない”と言う言葉を思い出しました。 アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックは1864年、南仏はアルビで生まれした。 名前にド”が入っているのは、彼が貴族の出身である事を示唆します。また、トゥールーズは南仏の地名です。 貴族の子息としてなに不自由なく育った思春期の彼に、悲劇は起こります。 14歳と15歳の二度に渡る骨折事故で下半身の成長が止まり、上半身はその後も成長したので、アンバランスな容姿となりました。 また、ロートレックは生まれながらに病弱で、息子の教育のために、彼が8歳のときに一家は南仏からパリに出るのですが、パリの気候が合わなかったようで、2年ほどで南仏にまた戻っています。 当時の貴族は乗馬や狩りを好み、かわいい宝石(petit bijou)と呼ばれた幼少の頃のロートレックは、よく父親に森に連れて行かれたようです。一方、母親は読書の好きな淑やかな人で、父母の仲はあまり良くなかったと言われています。活発な父はパリに滞在することが多く、別居に近い状態が長く続いたと。 ロートレックは17歳のときにパリで大学入学資格試験に失敗し、故郷トゥールーズに戻って取得しますが、大学進学をあきらめて画家になる決意をします。 その頃には、既にロートレックは父方の叔父によって絵の手ほどきを受けてパリで賞讃を受けるようになっていました。叔父はアマチュアの画家でしたが、その師はプランストーという画家でした。ロートレック一族と関係の深いこの画家は聾唖者でした。当時の貴族の周辺には障害者は普通に存在していて(近親結婚の関係か)、障害者は生きるために芸術の道を進むのがひとつの決まり事のようになっていたのでしょうか。ゆえに、ロートレックの父は息子が画家の道を進むことを拒否できなかったとも言われています。 両親の許可を得て再びパリに上京したロートレックの最初の絵の先生は、プランストーの紹介で、ボナという画家でした。今からすれば、1880年ごろのパリの画界は印象派一色だったような感じがするのですが、実際はアカデミックな絵がなおも主流だったようです。ボナはアカデミックな絵を代表する画家です。しかし、ボナの画塾は閉鎖されたので、ロートレックは師をコルモンという画家に替えます。コルモンもアカデミックな画家でしたが、ボナよりはずっと親しみやすく画塾生ひとりひとりの個性を大事にする人で、ロートレックはここでゴッホ”に出会います。しかし、ロートレックはコルモンからも離れて、のちモンマルトルで独自の世界を展開するようになって行きました。 モンマルトルの酒場を夜な夜な回るようになったロートレックの挨拶は「さあ、飲もうぜ」・・・カクテルを最初に発明したフランス人ともいわれ、美食家、冗談好きのアンリさんとして、多くの人に親しまれたようです。 彼は、酒場ムーラン・ルージュ”の踊り子や娼婦、大道芸人などとも親交を暖め、その人々の内面に潜むものをキャンバスに懸命に映し出そうと描き上げました。 19世紀後半、フランスの美術界には印象派の誕生に見られるように、大きな変革の波が押し寄せていました。西洋の絵画伝統を超えることを求める若い画家たちは、浮世絵をはじめとする日本の美術に強く惹きつけられました。 西洋の絵画にはなかった空間表現やモティーフの捉え方。それらはジャポニスムとして、印象派の画家にもその後の世代にも大きな影響を与えました。 この時代の社会に目を向けると、産業構造の変化に伴い、種々の商品が世の中にあふれるようになっていました。またパリには農村から大量の人口が流入、一挙に大都会に変貌しました。そのような中で、大衆に対し商品を宣伝し購買を促すために、あるいは各種の興行を告知するために、ポスターの重要性が増していました。 当時、ポスターのほとんどは18世紀末に発明されたリトグラフ(石版画)で印刷されていましたが、初期には技術も未熟でした。しかし、早くからポスターの制作を手がけていたジュール・シェレ(1836―1932)がロンドンで多色刷りの研究をし、1866年にパリで印刷工房を開設、華やかな大判のポスターを次々に生み出し、一世を風靡しました。 ロートレックが故郷アルビからパリに出、本格的に絵を学びだしたのはまさにこのような時期だったのです。 1891年、ロートレックは最初のポスターである《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》を制作、大成功を収めます。 浮世絵の影響色濃い大胆な構図や平坦な色面による構成、そしてポスター界の大先輩シェレの、愛らしい女性が陽気に微笑むポスターとは対照的なクールな表現は、人々を瞠目させるに充分なものだったことでしょう。 その後、アリスティード・ブリュアンやジャヌ・アヴリルといった、彼が親しく交友した芸人たちの興行の宣伝ポスターなどを制作、それらはポスターの歴史のみならず、近代の美術を語る上でも欠かすことのできない作例となっています。 モンマルトルで一世を風靡した歌姫イヴェット・ギリベール(Yvette Guilbert)。 イヴェット自身はロートレックを理解していたが、絵を見たイヴェットの母が激怒してポスターの制作を中止させたと伝わっている 右:ムーラン・ルージュ・ラ・グーリュ ロートレックはアートには決して妥協しない人でした。 対象を凝視し、その内面を率直に暴きたてた絵を描きました。生活に困って依頼者にへつらう絵を描かざるをえない職業画家ではここまで徹底する事は許されない事だったでしょう。イベット・ギルベールの絵など最たるものです。 ロートレックは名声を得るのにつれて飲酒がひどくなり、ついに35歳のときに、せん妄症に至り、身を案じた母親によって精神病院に入院させられます。自由を奪われたロートレックの落胆は大きく、自分の正常さを証明するために昔し見た光景を絵に描きます。しかし、その絵は全盛期に比べて輝きを失っていることは否めません。 その後友人たちの助力で精神病院を抜け出ることに成功し、退院後は母の待つマルロメ城で静養生活をおくります。 マルロメ城から見渡す美しい景色を眺めながら、母が「何故、貴方は風景を描かないの?」と言う問いに、「風景を描いたら僕の友人にかなわない」と答えたそうです。この友人とは、あのヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことでした。 その後、母の制止を振り切るようにパリに戻りますが、お酒を止めず、再び病が悪化して母の看護を受ける事になります。 「人は醜いが、人生はなんて美しい」 「かあさん、貴方だけです。死ぬってなんて辛いことでしょう。。」 1901年9月9日にそう言い残して、36歳の若さでこの世を去りました。 http://www.artcyclopedia.com/artists/toulouselautrec_henri_de.html 画像が多数収録されています。 NHK ふたりのアンリ”レポートより抜粋。 グラフィックギャラリー特別企画 没後100年記念 ミュージアム・コレクションに見る ロートレックとその時代 2001年7月17日(火)~10月28日(日)パンフレットより抜粋。 |