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カテゴリ:本や映画の感想
2013年制作の日本版の『許されざる者』は、1992年制作のクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画『許されざる者』のリメイクだという。
そんなことも知らずに日本版の『許されざる者』を先に観た。 この映画は小池栄子を貶めるための映画なのかと思えるほど、不幸が拡大した元凶が小池栄子演じる女郎頭のお梶にあるように思えてならなかった。まるで、バカな男がそう思い込むことを見越して作られたかのような映画だった。そしてそんなことを私のように軽々しく口にして、こいつは差別主義者だとか女性を蔑視していると非難され、自分の考えを矯正させられることを目的としている映画なのではないかと思えた。 そんな映画監督の策略に自分も乗ってしまったのか、小池栄子が憎らしく思えた。 要は、とにかく女の子は誰でも、稼動中の外付けHDDを移動する時のように丁寧に扱わないと壊れてしまうということなのか? 前半を観た感想はそんなものだった。 しかし後半は結構面白かった。 特に十兵衛が女郎屋に一人で切り込む最後のシーンは迫力満点だった。 あれこれ考えずに、こういう暴力シーンを楽しむ映画なのかもしれない。 ところで、「許されざる者」とは誰のことなのだろう? 普通に考えれば渡辺謙演じる十兵衛のことだろうが、十兵衛と同じく元悪党で拷問を受けて死んだ柄本明演じる金吾のような気もするし、最後に腹を半分切られて死んだ佐藤浩市演じる悪徳警官の大石一蔵のような気もする。 忽那汐里演じるなつめの顔を切った小澤征悦演じる堀田左之助のような気もするし、問題を大きくしたお梶のような気もする。 しかし、そもそもこの問題の原因を作ったのは客のあそこが小さいとバカにしたなつめではないのか? 顔をずたずたに切り刻まれたという割に、傷はそれほどでもなく、この顔じゃ客も取れないよと言っても、自分が客ならあの程度は気にしないと思える傷だった。 顔を仕事の武器と考えるなら、女郎頭のお梶より、顔に傷のあるなつめの方がよっぽど商品価値が高いような気がした。 なつめのシャープな切り傷より、私も含めて生まれながらにして顔にダメージを負っている人は多い。 それなのに、いくらなんでも賞金首にかけて農夫の兄弟二人を殺すまでする必要は無かったのではないか。 「目には目を歯には歯を」というのが妥当ではないか。 おまけに一段落したその後は、なつめは柳楽優弥演じる沢田五郎と一緒に十兵衛の子どもを引き取って、幸せな家庭を築くのだろうと思うと、巻き添いを食って殺された堀田左之助の弟、卯之助が可哀相で、とてもなつめに同情する心境にはなれなかった。 この映画は、映像が綺麗で最後の立ち回りシーンも派手で面白かった。しかし、何か割り切れない思いが残った。 元の映画も同じなのだろうかという疑念が湧いた。 「許されざる者」とは誰なのか結局よくわからない。 誰が、何の罪を、誰に許されないのか私には理解できなかった。 何十人も殺した極悪人と、あそこが小さいとバカにされて女の顔を切ったために命まで失った男の罪の重さにどの程度の違いがあるのか。 個人的には、映像で見る限りの傷跡では、お詫びに馬5頭は、まっとうな補償に思えた。 明治時代はわからないが江戸時代の物価換算表によると、馬1頭は現代の価値に換算すると165万円くらいの価値があったという。農夫にとって馬5頭は全財産に匹敵するくらいの価値があったのではないだろうか。 それを女郎宿の主人にではなく、すべて被害者のなつめに払っていれば問題なかったのかもしれない。それを大騒ぎにしたお梶は怒りの矛先を履き違えているように見えたし、権力を傘に無謀な取り調べをしていた一蔵の罪を十兵衛が裁くのも何か違う気がする。あれは単に金吾の敵討ちではないか。 元になったアメリカ映画、1992年版『許されざる者』はどうなんだろう? 私の勝手な予想では、本家の『許されざる者』は、日本版に比べて娼婦がもっと残忍な切られ方をしたか殺されてしまったから、娼婦たちが一丸となってやった男を賞金首にかけたのだと、娼婦たちの正当性を信じていた。 しかし、こちらも日本版と同様に、切られた娘デライラの傷は大したことなかった。 加害者のカウボーイ(牧童)2人が賠償の馬7頭を連れて戻ってきた時、デライラの顔の包帯は既に取れていて、顔の傷は目立たなくなっていた。自転車でコケた程度の傷のようだった。ズタズタとは程遠い。 それに、日本版の忽那汐里に比べても、アメリカ版被害者の娼婦デライラを演じたアンナ・トムソンは金髪美人で、顔に多少傷跡があっても充分客が取れる器のような気がしたのも日本版と同様だった。 いったいどうしてあの牧童二人は殺されなければならなかったのか? 実際に顔を切ったクイック・マイクはともかく、それを止めようとしたデービー・ボーイまでもがなぜ? 日本版の場合、加害者二人は兄弟の設定だったが本家の方は友人同士だった。 時には稼いだ金で風俗に行くこともあるが、普段は真面目な牧場労働者のようである。 その牧場労働者が自分がした行為に対して最大限の償いをしているように見えた。 そしてマイクの友人デービーは、自分に瑕疵がないにも関わらず、被害者のデライラに同情し、自分の馬をあげようとして娼婦頭のアリスに断られ、石を投げつけられている。 結果的に賞金稼ぎのマニーらに腹を撃たれ最初に殺された。 日本版の卯之助同様、デービーには同情せずにはいられなかった。 細かい設定は日本版と違うものの、映画から受ける印象はほとんど日本版と変わらない。 しかし、その描き方が詳細で、どこに問題があるのか本家の方がわかりやすいような気がした。 私のピントはズレているかもしれないが、私にとってこの映画は、人間の原罪について描いているのではないかという気がした。 創世記に描かれた人間が最初に犯した罪との類比である。 佐藤優氏の『はじめての宗教論 右巻』によると、性欲があるとか林檎の木の実を食べたとかそういう実体的なものが罪を作り出すのではなく、罪とは神と人、人と人との関係性において生じるものだという。 創世記を読むと、エバは神の言ったことを不当に拡大解釈して蛇に伝え、蛇の口車に乗ってアダムと共に善悪の知識の木の実を食べてしまう。アダムはアダムで、自分が神の言いつけに背いたのに、それをエバのせいにしている。 (神が禁止したのは「善悪の知識の木」から食べることだけなのに、「命の木」と「善悪の知識の木」その両方から食べることを禁じられたと言っている。しかも触れてもいけないと言われたと蛇に伝えた。アダムは善悪の知識の木の実を食べたのかと神に聞かれた時、食べたか食べないかだけ答えればいいのに、あなたが与えた女が言ったから食べたとエバのせいにした。) つまり、人は人との関係において嘘をつき、物事をちょっとでも大きくしたがる性向があり、話を膨らませたがる。 それが原罪なのだという。 顔を数箇所切られただけなのに、賞金稼ぎのキッドに伝わった時には話が大きくなっていて、目をえぐり、耳を切り落とし、乳房を切り落としたことになっていた。その話を聞いたクリント・イーストウッド演じるマニーは怒りを覚え、もう人は殺さないと亡き妻に誓ったにも関わらずまた銃を取った。 そしてその怒りを友人のモーガン・フリーマン演じるローガンに話した時には更に話がデカくなっていて、乳房を切り落としたのに加えて指を切り落とし、性器以外はすべて切り落としたことになっていた。 間違った情報が二人に平和な生活を捨てさせ、暴力と混乱の過去に逆戻りさせる。 罪が人を滅ぼすという聖書の寓話が現実になった話である。 そもそも、この問題の元凶を作ったクイック・マイクとデライラの関係においても同じではないか。 あそこが小さいと言われたことを、マイクは男が小さいと解釈したのかもしれない。 ひいては人格が小さい、人間が小さい、お前のやっている仕事は小さいと連鎖的に拡大解釈し、怒りを爆発させてしまったのではないか? 原題の『Unforgiven』とは、人・罪などが許されていない状態を示す形容詞だという。 この映画は、主人公のマニーに関しては、許されざる者=Unforgivenではなく、『Forgiven』の方が適切ではないかという気がした。 Unforgivenという意味においては、殺されてしまったクイック・マイクやデービー・ボーイ、リトル・ビルの方が当てはまるように思える。 日本版の方では、そこに気づかなかった。 そもそも、『罪』という概念が異なっているからかもしれない。 映画を観た後、ネットでレビューを見ていたら、マニーはキリストを象徴しているという意見があった。それを読んでなるほどと納得した。 しかしそのキリストとは、福音書に描かれている他人の罪を許すキリストではなく、やられたら100倍返しするアメリカ的なキリストを象徴しているようであった。 そう考えると、顔を傷つけたお返しに、財産を没収し命も奪うのが正義だと主張するのも納得がいった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.10.02 20:33:49
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