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カテゴリ:国際結婚の光と影
私は普通の家庭で育ちました。
日本の実家は、「普通」の家庭でした。経済的には、やや良かったのかもしれませんが、それもクラスの友達と比べて「やや良い」という話で、それこそ平均的な家庭です。 ダーリンの家族もカナダの普通の家庭で育ちましたが、ダーリンは幼い頃に父親と死別したので母子家庭です。 「普通」の違いを感じるのは、物質的な価値観が違うことです。ダーリンと私は5歳年の差があるのですが、私が幼かった頃の日本は、やはり貧しい国だったとしか言いようがありません。 一番違いを感じるのは、子供の頃の写真です。ダーリンの写真は、30年以上前のものを引っ張り出してきても、今の家庭の風景となんら変りはありません。家の内外の様子や、服装など少々古臭いものの、30年も40年も昔のものとは思えません。 私の子供の頃の写真の背景は、現代の「貧しいアジアの国」そのものです。 子供の頃のおもちゃやレジャーを語っても、違います。 私が子供の頃の日本は高度経済成長期でした。お父さんたちが、しゃかりきに働いて日本を一流の国にしようとしていた時代です。物質的にはまだ恵まれていませんでした。 ダーリンの家は、母子家庭でありながら、母親が専門職についていたために経済的にもカナダの普通の暮らしで、スキーに、リゾートにと家族旅行にも定期的に行っていたようです。 それを恥ずかしいことと思っているのではありません。 子供を育てていて、物を与える感覚の違いに戸惑います。我慢することが美徳だった私の子供時代はダーリンとは共通した感覚ではありません。 娘の誕生日のプレゼントに関して、プライベートでもいろいろなコメントをいただいています。 私がわからなくなっているのは、「物質的に与えること=甘やかし」という時代はすでに過ぎ去っているのではないかということです。 娘の友達の中には、バンクーバー・アイランドの祖父母の家に遊びに行くのに、祖父母が自家用セスナでお迎えに来るという家があります。 別の友達は、クリスマス・シーズンになると、祖父母だったか、おじ・おばだったか忘れましたが、トレーラーでプレゼントを運んでくるという人もいます。 公立の小学校に通っているお友達です。「普通」の範疇に属する子供たちです。 娘たちの世代の普通は、望んだものを与えられることです。場合によっては、望む前に与えられます。娘の携帯電話なんか、その代表です。 そういう中にあって、与えないこと、我慢させることではなく、「惜しみなく与えられる環境の中でどういう風に躾をするべきなのか」を考える時期に来ているのではないかと迷うのです。 それとも、自分が子供の頃そうだったように、質実剛健を主張して、親戚中に自粛してもらうべきなのでしょうか? それを続けたとしても、いつかは娘は物質文明の中に放り出されます。我慢させる生活を続けたとして、いつか私たちの庇護下から離れた時に、物質に目を眩ませることが起こらないのでしょうか? 過剰反応をして、物質を避けるほうが今の時代にそぐわないのかもしれません。 答えが一つではないのはわかっています。 私や、私のような育ちをした人は、娘への誕生日プレゼントに驚き、あきれますが、もっとずっと裕福な人からしたら驚くに値しないことでしょう。こんなところに書くほどの疑問も持たないことでしょう。 私の中で「普通」が揺れています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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