テーマ:日常の雑談(2717)
カテゴリ:思う
少し前からコンビニで気になっていたものの、躊躇していた商品。
あまおう大福ミルク。 買ってみました。 なんだろう、この微妙な青臭さのような味は、あずきのせい? 普通のイチゴミルクのほうが美味しいと思いました。 「イチゴミルクのほうが美味しい」 比較してそう思った。 これは「相対」です。 他と比べての感想です。 では「絶対」ならどうか。 特別まずいわけではないけれど、また買おうとも思わない。 という答えは「絶対」なのか? んー。あんまり良いたとえではなかったけど。 最近、「絶対」と「相対」についてよく考えています。 人はたいてい、「相対」で生きていると思います。 比較するものがないと、価値がわからないのかもしれません。 暗いを知っていなければ、明るいがわからない。 不幸を知らなければ、幸福もわからない。 冷たいを知れば、温かいを知ることができる。 片方だけでももちろん分かるのですが、 両方を知ればさらにより分かる、ということです。 さて、「相対」ではなく「絶対」を知ることができるのは、 例えば時計。 感じる時間は、行動によって違うように思えます。 はまっているとあっという間に過ぎますが、暇だと遅かったり。それが相対。 でも、時計の示す時間は絶対。 温度。 体感温度は相対、温度計の温度は絶対です。 つまり、はっきりとした絶対値を示すものがあれば良い。 でも人生にそういうものはない。 なら、自分が満足できればそれでいいじゃないか。 という答えが返ってきそうですが、その「満足」というのが、 「不満」と比較しての「満足」だと相対です。 それなら、「相対としての満足」でいいじゃないか。 ええ、そうですね。そうなのかもしれませんね。 何とも比較することをせずに「幸せだ、満足だ」と思うのと、 例えば昔と比較して「今は幸せだ、今は満足だ」と思うのは、 どうなんだろうとか思ったりしてるんですよね。 別に、どっちに優劣をつけようとしているんじゃないんですけど、 「老子」の言葉でね、 世の人は相対(他との比較)で物事を判断するが、 聖人は他と比較することはない、と。 まぁだから「聖人」なんでしょうけどね。 自分はそれほど比較してないよ、と思っていても、 無意識で比較してるんだな、と思ってしまったんですよね、イチゴミルクで(笑 そして給料日のたびに、なんでうちの会社はこんなに給料が安いんだろう、 と思ってしまうんですよね。 仕事があるだけで有難い、給料を(高くはないけど)もらえるだけ有難い、 という感謝の気持ちを忘れてしまっているのですよ。 イチゴミルクから話があっちこっち飛んでますが… ここまで書いて、今、浮かんだ結論。 感謝の気持ちを常に持っていれば、比較する必要はない。 うんうん、そうね。そうなんだわね。 よく考えたら違うかもしれんけど、今はそういうことにしておこう。 ほぼ思考の垂れ流し状態で長くなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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