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2017.01.15
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カテゴリ:独生女考

ルカによる福音書/ 14章 07節

客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。 その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。





イエス・キリストの系図



これまで聖書に出てくるイエス・キリストの系図を中心として人間始祖アダムとエバ堕落以降に登場した女性(妻)について取り上げてきた。

まずもって堕落前の人類始祖アダムとエバ、どちらが神様にとって清い存在であったかといえば「エバ」であった。聖書からは、神様はアダムを「土のちりで人をつくり」(創2.7)エバは「人から取ったあばら骨でひとりの女を」造られたからだ。
それに続く聖句は以下。

創世記/ 02章 24節
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

このように、本来ならば神様からの祝福式(結婚式)を通して夫婦となったのである。

ところで、この聖句から一言付け加えておかなければならないことは、聖書に神様を「父と母」、と書かれていることだ。
とりわけ分派の方々の中には、原理講論の「被造世界に対しては性相男性格主体としていましたもう」神様のみを強調し、お母様が神様の呼称を「天の父母様」にされたことへの批判をされていた。聖書的観点からみてもその批判は誤った考えである。
また、私のこれまでの記述「文総裁」などと他人行儀に書かれていたことに違和感を感じておられる家庭連合の方々もおられるかもしれないが、訪問される広い読者層を考慮してのものでありお許し願いたい。

さて、話を元に戻そう。
人類始祖アダム・エバが堕落したが、その復帰摂理は「アダム家庭」から出発する。
もしも、堕落がエバのみでアダムが堕落しなかったならその復帰摂理は容易であったとあるが(原理講論P.111)、神様はどのようにされただろうか。アダムを眠らせもう片方のあばら骨1本を「ボキッ」(痛ッ)、本然のエバ(独生女)を復帰(再創造)されたに違いない。
統一原理からは信仰基台と実体基台、男性中心のアベル・カインによる「生命の木」、つまりは救世主・メシヤ・「本然のアダム」復帰摂理について書かれていた。
ところが、堕落したアダム自身を用いることが出来なかった理由は原理に書かれており、アダムを善と悪の表示体(善悪分立した)息子アベル・カインに分けざるを得なかったのである。
「アブラハム家庭」復帰摂理からは「母子協助」という言葉が出てくるが、これが神様の女性の立場から見たエバ復帰のひとつのキーワードともなる。

本来「信仰の祖」と言われるべきノアがそうならなかったのは、聖書に名も記されない妻の故であった。信仰をもって神様の命で「山頂に箱舟をつくって」いたノアの姿を見ては周りからの人々のあざけり聞き、彼女も不平を毎日漏らしていた。賢い妻であったなら、息子たちにも父の手伝いを促していたであろう。
洪水審判の後、父ノアは「神の人」であることを息子たちは悟ったであろう。ところが、そのノアと一体となることが出来なかった。それが中心人物として立つはずの「ハムの過ち」であった。ハムは母子協助を受けることもなく信仰基台すら立てられなかった。

神様は次に「アブラハム家庭」を立てられた。アブラハムの「象徴献祭」の失敗、「イサク献祭」、そして、ヤコブの勝利へ三代が一つとなって家庭的勝利圏をなした。
もしもここで、アブラハムが「象徴献祭」を失敗しなかったならどうなっていただろうか。アブラハムを中心としてサラ=イサク(次子)とサラのつかえめハガル=イシマエル(長男)が信仰基台と実体基台でもって「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てたはずだ。ところが、失敗した故に「イサク献祭」でもってアブラハムからイサクへと継承されて、イサクを中心として妻リベカの母子協助を得ながらヤコブ(弟)とエサウ(兄)でもって「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てることが出来た。
ところで、「象徴献祭」に先立って、また、「イサク献祭」を前にしても一連の行事(?)のようなことが原理講論で何気なく書かれており、原理講義でも一応の説明程度で流されてしまいがちの一文がある。
原理講論P.318
アブラハムは、第二人間始祖たるノアの立場を復帰しなければならなかった。したがって、またアダムの立場にも立たなければならないので、彼は「象徴献祭」をする前に、アダムの家庭の立場を復帰する象徴的蕩減条件を、初めに立てなければならなかった。創世記一二章10節以下の聖句によれば、アブラハムは飢饉によってエジプトに下ったことがあった。そこで、エジプト王パロが、アブラハムの妻サライを取って、彼の妻にしようとしたとき、アブラハムは、彼女と夫婦であると言えば、自分が殺される憂いがあったので、あらかじめ計って、自分の妻サライを  妹  であると言った。このように、アブラハムは彼の妻サライと兄妹の立場から、彼女をパロの妻として奪われたが、神がパロを罰したので、再びその妻を取り戻すと同時に、連れていった彼の甥ロトと多くの財物を携えて、エジプトを出てきた。アブラハムは自分でも知らずに、アダムの家庭の立場を蕩減復帰する象徴的な条件を立てるために、このような摂理路程を歩まなければならなかったのである。

原理講論P.326~327
アブラハムは、イサクを供え物としてささげるときにも、「象徴献祭」をささげたときと同じように、まず、アダムの家庭を復帰する象徴的な蕩減条件を立てて、イサク献祭のための信仰を立てなければならなかった。ゆえに、再びアブラハムは自分の妻サラと兄妹の立場に立って、サラをゲラルの王アビメレクに奪われ、いったん、彼の妻になった立場から、再び取り戻すという摂理が行われた。アブラハムは、このときも、サラと共に人類を象徴する男女の奴隷と、万物世界を象徴する財物を取り戻して出てきたのである(創二〇・1〜16)。
蕩減復帰原則から見れば、原理講論P.275~
つぎに、我々が知らなければならないことは、蕩減条件をどのような方法で立てるかという問題である。どのようなものであっても、本来の位置と状態から離れた立場から原状へと復帰するためには、それらから離れるようになった経路と反対の経路をたどることによって蕩減条件を立てなければならない。

アダムとエバは神様の息子・娘(独生子・独生女)として創造され、兄妹の関係であった。ところが、霊的堕落によってまず最初にエバが、次に肉的堕落によってアダムまでがサタンに奪われていった。では、その反対の経路となると、最初に復帰されなければならないのは「アダム」か「エバ」か? と尋ねれば間違いなく誰もが「エバだ!」と答えてくださるだろう。
アブラハム家庭の上記記述はまさに、一旦はサタンによって奪われた娘が神側に復帰された娘(独生女)の立場であり、その母子協助を得てアベル・カインによる「堕落性を脱ぐための蕩減条件」が立てられていくことを示していた。

アブラハムーイサクーヤコブの三代、その妻選びにおいても復帰されたサラが深く関与し、サラーリベカーレア・ラケルの女性三代もまた同様に継承されていった(前に記述済)。




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最終更新日  2017.10.14 17:01:14
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