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2018.06.30
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カテゴリ:独生女考
7月1日のさいたまスーパーアリーナでの2万名大会を巡って批判的ブログ記事をいくつか見かける。

kimuchi氏の「『7/1日・スーパーアリーナ・2万人大会に向かって!』」と「「7・1 埼玉スーパーアリーナ日本大会」は “女メシア宣言大会”の挙行」、コスモスさんの「猫も杓子も・・・大会」…。これらは憶測でしかない。その実際を見、あるいは聞いたのか。
「霊界メッセージも、なにそれ? デマねつ造?!」である。
家庭連合が分派で分裂して教会員が減少の一途を辿っているかのような「風評」だ。

キリスト教が広まった歴史を眺めれば、一人が殉教すれば数名が復帰されて世界宗教へと拡大していったように、こんにち、分派へ一人行けばその五倍十倍と増えていることを考えていないようである。
「独生女を信じられない」からといって家庭連合を去った後に、それを受け入れる方々が入ってきているということも事実である。
ヨハネによる福音書/ 03章 11節~

イエスは彼に答えて言われた、「……​よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。……それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 ​​​​​

​「よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。」​は、こんにちの分派の方々の姿そのものでもある。原理講論にも書かれた「独生女」、お父様が語られた「独生女」を見ようともしない。​
である。

ところで、文総裁(お父様)がこれまでされて来られたことを見れば、「大会」「大会」の連続ではなかっただろうか!!

三男さんへ行った前能登教会長・郭炳憲氏もまた、そのようなことを礼拝で語っていたような記憶がある。お父様の戦略戦術は「宣布大会」を行って後にそれを実現していかれる(現実のものとなっていく)。その中の一つ1985年の「共産主義の終焉」は有名な話だ。お父様がダンベリー収監のなかでカプラン教授にそれを宣布するように指示されたものだ。

さて、実体聖霊であるお母様の場合はどうか?
お母様の大会はそれとはまったく性格が違っているように思う。
今回の7月1日の大会は「女メシヤ宣布」だなどと書いていたブログもあったが、お父様が宣布され「原理講論」にも書かれた「独生女」を今さらに宣布して回る必要もないことだ。
むしろ、このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。(原理講論P.265)。


コリント第一手紙12章1節~​​​​

……そこで、あなたがたに言っておくが、​神の霊によって語る者はだれも「イエス(また、「独生女」)はのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。​
 ​​霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。……すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。​​
 ​からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマ(祝福)を受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。​実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 ……​​
さて、キリストにあって分派の方々は「手なのか? 足? 目、耳…」。

コリント人への第一の手紙11章7節~からも見てみよう。
男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女は、また男の光栄である。なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。あなたがた自身で判断してみるがよい。……
 ところで、次のことを命じるについては、あなたがたをほめるわけにはいかない。というのは、あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。まず、あなたがたが教会に集まる時、お互の間に分争があることを、わたしは耳にしており、そしていくぶんか、それを信じている。たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいるというのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。

現在もまた、以下のような人たちばかりか。
ヨハネによる福音書/ 16章 12節
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
イエス様の「独生子」一つをとっても国教となるまでは400年の年月を要した。
こんにちの「独生女」、お父様が語り、また、原理講論とも矛盾したところはない。
分派子女様といえども、霊的にも真の父母様によって「重生」されなければならない方々である。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2018.06.30 15:18:13
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