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原理講論の『創造原理』の冒頭を見れば、
人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく解答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。さらに、我々にはもっと根本的な先決問題が残っている。それは、結果的な存在に関することではなく、原因的な存在に関する問題である。ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。創造原理はこのような根本的な問題を、広範囲にわたって扱っている。と書かれている。「人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。」ということで、神様の呼称問題はその根本ともいうべき内容を扱っている。それによっては、私たちの人生も大きく変化していかざるを得ない。 大きくは、神様は居るか? 居ないか? 霊界はあるのか? 無いのか? の違いだけでも人生観は180度違ってくる。 そういった中、神様の呼称もまた人生観、宇宙観、歴史観にもその違いが出てくることは当然のことだ。 2000年前のイエス様は「天のお父様」としたが、今日においては真の父母様は「天の父母様」と呼ばれていた。 ところが、H3やH4、そして、その支流人らはこれを否定している。 これまでも原理原本 →(原理解説)→ 原理講論 → 原理本体論から「天の父母様」呼称の正しさを照明してきたし、黒・天聖経ほかからもお父様み言から探ってきた。明らかにあるもの(目に見えるもの)を前にしながらもそれを否定する根拠は何かあるのか? ただただ「批判のための批判、反対のための反対」以外の理由を見出すことが出来ない。 今日もまた、自称ルポライタイーtomy4509がそれについてルポしたい。 今回は、TWJ 2011年天暦1月号からの引用。 手元にそれがある方は全文を読まれることをお薦めする。 以下は引用: 16歳のときにイエス様に会われてその使命を継承されたときのことを語られていた。 そのときも信仰生活をしてはいましたが、祈祷するときに私が神様に対して「天のお父様」と呼ぶのが父親だとすると、母のいない父がありうるのか? イエスは男で、……花嫁もいて家庭もなければならないのに、家庭もなくて妻もいません。との疑問を持たれたと。 このことと「原理原本 →(原理解説)→ 原理講論 → 原理本体論」につなげて、さらには「天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会」まで行けば、真の父母様の「天の父母様」呼称は誰も否定することは出来ない。 もしもそれが違うということであれば、原理と違う原理(非原理)を語っているということであり お父様がH4をして語らせた説教を素直に聞き入れていくべきである。 小さいように見えるが、神様呼称の違いによって人生観、歴史観(摂理観)まで狂わせてしまうことになる。どなたが真のお父様と一致して歩まれているかは、呼称一つからも明白であることは言うまでもない。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.22 23:01:48
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