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奇   知   外   記

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2019.10.16
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カテゴリ:UCI、サンク
​​​​「良心で判断できるはずです」
夫婦で顔出しビデオということだが、なんの意味があるのか?

ブログ村でも一時期「良心を磨く」などと言いつつもその良心を腐らせていたブロガーを見かけた。
明らかな間違いと誰もが分かる論理(証拠)を提示しても、エジプト王のように心を頑なしてはそれを認めようとはしない。



詳細は「リブログ「宣布文発表までの過程 書類写真」ーーヨンギ氏、デマ記事です!!」にて。

さて、顔出しビデオからは、お父様が語られた「独生女」、また、こんにちお母様が語っておられる「独生女」では違うというが、そこにどのような違いがあるというのか。
ほか支流人らもお父様のみ言「独生女」を紹介してもこれと同じ答えが返ってくるが、どこがどう違うのかについては語ろうとはしない。ブログ村で「真理」を求める自称ルポライターtomy4509としてはそこんトコロをハッキリして欲しいものだ。表面で「違う」というのは簡単だが、その根拠が見当たらない。

個人的にtomy4509からは以下でもって、お父様のみ言とお母様のみ言には違うところがない、との意見を述べていた。

1) 独生女自体がキリスト教歴史2000年間にはなかったものであり、お父様が1959年10月に初めて語られた。
イエス様が十字架に架からなかったならば、「独生女」を探して「子羊の婚宴」その時すでになされていたであろうと。
「独生女」のそれを明かして数ヶ月後に「聖婚式」が執り行われた。
もしも、文鮮明総裁が再臨されたイエス様であるとするならば、この「聖婚式」こそがイエス様が「再び来る」として黙示録に預言された「小羊の婚宴」ということではないか。
家庭連合(旧・統一教会)はそれを信じてきた。

2) 原理講論の「第七章 キリスト論」の『重生論』から。
​​原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。
……
ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。
 このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリントⅠ一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。​​
このように、「善の父母は、天から降臨されなければならない。」「堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。」ハッキリ明記されていた。​原理講論は教義書と信じられるならば、「お母様は天から」ということも容易なことだ。

3) ところが、「お父様は堕落圏から」は原理講論ではどうか?
これのヒントも原理講論には書かれていた。「脳トレ」でもして頭を少し柔らかくされたらいいだろう。



アダム → ノア → アブラハム

「アブラハムは、…復帰したアダム型の人物」として3番目。神様は「偶像商であるテラから、その長子アブラハムを連れ出」すことが出来た理由については講論のP.316~。
アダム → イエス様(第二アダム)→ 第三アダム(再臨主)も3番目。


「再臨復活から見た輪廻説」(P.231~)から。
​地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。このようになれば、その地上人は彼を協助している霊人の再臨者となるので、その地上人はしばしば彼を協助する霊人の名前で呼ばれるのである。このようなわけで、地上人はしばしば、霊人が輪廻転生した実体のように現れるようになるのである。聖書でこれに関する例を挙げてみれば、洗礼ヨハネはエリヤの協助を受けて、彼の目的を立てていったので、彼はエリヤが地上にいるとき完成できなかった使命まで、みな完遂してやらなければならなかった。したがって、洗礼ヨハネの肉身は、エリヤの肉身の代理でもあったので、イエスは、洗礼ヨハネをエリヤであると言われた。​
以下に書き替えて読むことも出来る。
『お父様はイエス様がが地上にいるとき完成できなかった使命まで、みな完遂してやらなければならなかった。したがって、お父様の肉身は、イエス様の肉身の代理でもあった。』


原理講論の「サタン屈服の典型的路程」(P.342~)から。
​​​ ところが、神にも屈伏しなかったサタンが、人間祖先として来られるイエスと、その信徒たちに屈伏する理由はさらにないのである。それゆえに、神は人間を創造された原理的な責任を負われ、ヤコブを立てることによって、彼を通して、サタンを屈伏させる象徴路程を、表示路程として見せてくださったのである。
 神は、このように、ヤコブを立てられ、サタンを屈伏させる表示路程を見せてくださったので、モーセはこの路程を見本として、その形象路程を歩むことにより、サタンを屈伏させることができたのである。そしてまた、イエスは、ヤコブ路程を歩いたモーセ路程を見本として、その実体路程を歩むことにより、サタンを屈伏させることができたのであり、​今日の信徒たちもまた、その路程に従って歩み、サタンを屈伏させることによって、それを主管するようになるのである。​​​​
また、ここでモーセ路程の「第三次民族的カナン復帰路程」ではモーセからヨシュアに摂理の中心のバトンが引き継がれたように、イエス路程の「第三次世界的カナン復帰路程」、特には、「(2)再臨主を中心とする実体的カナン復帰」(P.426~)をみても摂理的同時性からヨシュアと再臨主を重ねて考えることができる。


tomy4509の思いつくところの例として上記をまとめれば

ⅰ)神様がサタン圏から連れ出してこられた、といっても矛盾するところはない。
ⅱ)摂理的使命を中心として霊人の復活体(再臨者)として
ⅲ)モーセからヨシュアのような摂理的同時性という観点から

といったところか。
支流人の方々は、イエス様のようにお父様も「胎中から」というような旧態依然の信仰観から離脱すべきと思う。

私たちの聞くところの「主の路程」からも、その家庭は15歳までは儒教の信仰をされていたがキリスト教に改宗した。そのあと、お父様16歳のときにイエス様に出会われてその使命を継承されたと。お父様が「無原罪で生まれられた」などと、どなたか聞かれたことがあるか?



予定論からは、
​神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるものであるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの摂理の目的は、堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定されているのである(ペテロⅡ三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
 それでは、このように、​召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきであろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であっても、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場所に適合する個体を先に選ばれるのである。​

中心人物を予定して証明される神様であって「独生子」だ、「独生女」でないなどと、私たち人間が勝手に決められるものではない。ただ信仰によるものだ。
イエス様「独生子」も、そうだっただろう!

「三万双の祝福家庭を自認」されるとするならば、あなた方ご夫婦もまた「真の父母様(一つの種)から誕生された『真の家庭』」ということではないか。
万が一「神様の種をもっているのはアダムです」だけであれば、その種もいつしか枯れてしまうことは自然の理である。
種も「畑を選ぶ」ということは、聖書にもある。良い畑にまかれれば、実は百倍千倍になる。

1998年7月19日のH3世界副会長就任式におけるみ言「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」のことは私の最近の記事でも取り上げた。「絶対服従」についても、支流人らは封建時代の主従関係のような錯覚(偽教育)をお持ちのようだ。三万双の映像からもそのように捉えては家庭連合の組織批判が見受けられる。しかし、決して「絶対服従」を真の父母様はそのようには教えておられなかった。

H3副会長就任式におけるみ言からの引用:
真なる信仰が成立するときには、真なる愛がついてきます。真の愛が植えられて芽を出すようになれば、これを育てなければなりません。大きくするためには、絶対的に投入しなければなりません。それは、自分の意識までも忘れて投入しなければなりません。そこで、「絶対服従」という言葉が必要になってくるのです。……上下関係、左右関係、前後関係において、そのような内容があるということを皆さんは知らなければなりません。愛を中心として上には信仰、下には服従。愛を中心として右側が「絶対信仰」であるならば、左側は「絶対服従」であり、前を信仰というならば、後ろは服従です。一つの体(たい)を成しています。
「絶対愛」を中心として「絶対信仰」も「絶対服従」も一つの体、切り離して考えることが出来ないということを語っておられた。しかしながら、H3支流人らが嫌うものが「絶対服従」である。
まわりがH3を追い出したという「虚偽のストーリー」もあるが、堕落性本性の順番を辿っていかれたのがH3のようにも見える。そのキーワードこそが「絶対服従」ではなかったか?!
『真の父母様宣布文』にも従おうとしなかったその理由として考えられることは、「まず、全食口は、永遠・永生の世界にたった御一人である真の父母様の指示と命令に絶対に服従しなければならないことを忘れてはならない!これが統一家の永遠の伝統であり、信仰である!この点については、天宙的に真の子女も、一般食口も同様である。」

これもH3世界副会長就任式におけるみ言だ。
結論的な話は、「死んでも『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』」、「生きても『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』」、「永遠に『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』」。そのようなことです。死んで霊界に行っても永遠に同じです。分かりましたか?(拍手)​​




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2019.10.17 22:29:33
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