6245190 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2020.03.15
XML
​​​​韓鶴子総裁自叙伝『平和の母』(韓国語)のプレビュー(30ページほど)は以下URLでも読むことが出来ます。

http://www.yes24.com/Product/Viewer/Preview/87313220




さて、今日は『トゥデイズ・ワールドジャパン(TWJ)』2011.天暦3月号から韓鶴子総裁の証しを紹介していきます。



​​​ 真のお母様の証し ​​​


天基二年天暦一月三十日(二〇一一年陽暦三月四日)
米国・ラスベガス、天和宮

天に保護され、導かれた道

​三月四日、真のお母様は米国・ラスベガスの天和宮で、真のお父様の願いを受けて証しをされました。以下は、その証しを翻訳し、整理したものです。なお、タイトルは編集部で付けました。(文責・編集部)​

 再臨主を待ち望んだ祖母、母と共に南へ

 神様が理想となさった地上天国をアダム・エバの堕落によって実現できなかったため、復帰摂理歴史がなされてきました。四千年が過ぎた後にイスラエル民族にメシヤを送り、イエス様に出会わせましたが、イエス様は、真の家庭を成すことができなかった立場のまま保護すべき民族と国を持てなかった立場に
おいて、十字架上で逝かれるしかありませんでした。

 その神様の悲愴な事情の前に、「再び来る」と約束して逝かれて出発した二千年のキリスト教歴史において、韓国の地を中心に神様が経倫してこられ、解放(第二次大戦終戦)直後の驚くべき、直接天が役事される新しいキリスト教文化がありました。特に以北(現在の北朝鮮)を中心に盛大なものとなりました。神様の内的なアダム・エバを捜すためのキリスト教を中心とした歴史でした。

 今までのキリスト散文化圏においては、再臨役事は知ってはいたものの、雲に乗って来られる主を信じていました。ところが、天は、新たに、新イエス教を立ててその当時に韓国では実体で肉身をもって来られる、主を迎える準備をする、そのような天の役事が起きていました。そこに内的にエバを捜してくる役事が金聖道(キムソンド)女史の集団と許孝彬(ホホビン)女史の腹中教を通じて、極めて驚くべき天の復帰摂理歴史の内容として展開されてきました。

 そのとき、私が一九四三年一月六日の明け方四時三十分に生まれました。それ以前には、新しい教会を率いていく李浩彬(イホビン)牧師の主礼により父と母が立てられ、そのときに人が特別に善男善女のこの夫婦を通じて天の大きな祝福の恩賜があるだろうと言われました。
 そのような過程において、母方の祖母である趙(チョ)氏の祖母と洪(ホン)氏の母は、全てを捨てて、新しく来られる主を迎えるため、そのような新しい契機になるなら何事も厭わず渾身の力を尽くし
て捜し回りながら、熱心に精誠を込めて最善を尽くそうという、そのような立場から私が生まれてきたのです。

 それゆえ、その時代に平壌を中心に新たな復興運動が活発に展開されていました。そして、祖父母と父母は全てのみ旨が、天の摂理がその平壌を中心として成されると思い信じていました。

 ところで、母方の叔父が一人いて、そのかたが日本で薬学を学んでいたのですが、解放(終戦一)後も平壌に帰って来ないで南(韓国)に行って軍隊に入ったという消息が届きました。祖母には子供が少なく、息子はそのかた一人しかいませんでした。ですから、そのかたが南に定着するようになった理由を知
らなければならないということで、趙氏の祖母と洪氏の母と私が南に行くことになったのです。祖父は以北にそのまま残っておられました。平壌がエデンになると徹底して信じておられたので、「私はこの平壌の地に残るから行ってきなさい」ということで、それで祖母たちは南に行く歩みになったのです。
 
 ところでその頃、私が六歳の時の記憶ですが、許孝彬女史が監獄に人っている時に、お父様のみ言の中にも出ているように、お父様は、同じ監獄にいる人を通してそのかたに「全てを否認し、そのまま出なさい」と伝えられました。そのとき、許孝彬女史は監獄にいたのですが、私の母が代わりに許孝彬女史の立場で精誠を立てている中で啓示を受けていたのです。

 その頃、そのかたが(監獄に入る前に)私を特別な所に呼び出し、一階ではなく二階だったという記憶が残っていますが、特別に私を一人連れて行って頭に手を載せ、祝祷をしてくれました。その祝祷の内容が何だったかはっきりとは覚えていませんが、「おまえは特別な子だ、天が愛する子だ」といったような内容だけ記憶しています。そうして母について南に行った二年後に六・二五動乱が起こったのです。


 うまく表現することはできませんが、この間、何か我ならぬ大きな力によって私が育てられ、導かれてきたということを感じさせられています。ですから、その時代、一九四三年度と言えぱ本当にまだ韓国が真っ暗な時代でした。母が夢示によって、どういうわけか私が生まれたその部屋に、庭先を通って、海を通って、玄界灘を通って……、その当時は戦争を起こすために韓国から金物という金物を全てかき集めていきましたが、それらの品物が、私が寝ていた部崖に全て戻って来るというのです。限りなく入って来続けました。それは変な話ではありませんか。

 その時はその内容を母が夢で見ただけだと思っていましたが、今になって思うと、私が知らない中で、天はお父様に出会わせ、また真の父母の立場で全ての物質が入って来るようになるという、そういう啓示ではなかったかと思われます。

 多くのことがありましたが、はっきりと記憶に残っているのは、その物質の祝福の他に、サタンが「おまえが生まれることによって私が亡びるようになったので、おまえを殺さなければならない」と言って正に首を絞めて殺そうとしたのですが、私を出産して間もなかった母が渾身の力を尽くしてサタンを防いで私は生き延びたということです。

 そして、六・二五動乱の時にも、その当時は韓国の全国民が非常に苦労しましたが、母方の叔父によって私は比較的楽に南に避難することができました。南に果て大邱で避難生活をやや長い期間続けましたが、その当時、祖母と母は雑貨屋のような店をしていました。私はその頃まだ十歳にもなっていなかったのですが、その店の前で遊んでいると、そこを通りかかった修験者か修行僧のような人が、母に「あなたの娘ですか?」と尋ねるので、母が「そうです」と答えると、「息子を十人くれると言われても取り換えてはいけない。大切な娘だから、しっかりと育てなさい」と言ったのです。そして、当時はまだ避難生活中で、何もかもが困難な中にあったのに、「この子は十七歳で結婚するようになるだろうが、その夫になる人は少し年齢が行っていて、陸海空を支配するお金持ちだろう」と、十歳にもならない少女にそういう話をするのです。

 このような多くのこと、行く所ごとに、私を保護し、証しした出来事は無数に多いのです。その全てを話すことはできませんが、私が言いたいのは、私も知らないうちに天の導きによって私がこの場に立つようになったことは間違いないということです。ですから、私としては最善を尽くそうとしましたが、天から見れば、また真のお父様から見れば、不足な点が多かっただろうと思われます。

 ところが最近、三十六家庭の人たちが集まって、こういうことを言っていたという話を聞きました。それはつまり、統一教において私たちのお父様がお母様に出会わなかったら、どうなっていただろうか、というのです。天がお母様を立ててくださって本当に良かったと言うのです。三十六家庭のおばさんたちが集まって、「私たちはお母様に対し感謝しなければ,ならない」ということを言っていたという話を聞く時、私が努力したことをそれでも認めてくれているのだなあと思います。

 ​天に与えられた七人の息子と七人の娘​

 それで、最初は何も知りませんでしたが、十七歳で結婚するようになるはずだと言った、通りがかりの修行僧の言葉を忘れて過ごしていました。ところが、自分も知らないうちに十七歳になる年に聖婚することになったではありませんか。

 そして、そうなってから、私として復帰摂理歴史に鑑みながら、聖書歴史を見てみると、非常に複雑なのです。本来神様が理想とされた創造理想を実現してさしあげようとするにはどうするのか、私には難しくても自分にできる最善の努力を尽くして、私は複雑な諸々の事情を一つにしようと決心しました。そ
れで天から賜ったものですが、子供たちも一生懸命に生んできました。

 その当時、一九六〇年度から始めて、一九七二年度、そして本格的に一九七三年度にアメリ力で摂理なさる間はあまりにも大変でした。共産党は直接お父様が行かれる所に付きまといながら、さまざまな妨害をし、到底言うこともできないような脅迫をするなど、危険な問題が数多くありました。あまりに神経を使い、またずっと車に乗って移動し続けたので、およそ五年の間は何度も流産しました。

 一九七五年に権進が生まれ、その後にさらに五人の子供が生まれましたが、実はとても大変でした。

 病院でも、「今生んだ子供たちのためにも母親が健康でなければならないはずなのに、どうしてこのように自分のことを考えないのですか?」と言われました。

 しかし、私の立場からは「もう(子供を生むのを)やめます」とは言えません。天は私が何人子供を生むことを望まれるのか尋ねようと祈祷しました。それで、私はどうすればよろしいでしょうかと天に尋ねるために、よく霊通する教会の勧士のかたに特別祈祷を頼んだりしました。

 それゆえ、その勧士のかたが約三日間特別に山へ行き祈祷をしてきて、「お母様、十三人だけ生んでください」と言うのです。その頃は榮進が生まれた時で、自然分娩する途中で子供の
頭があまりに大きくなっていたために生死の境をさまよいました。

 その頃、お父様はドイツヘ行っておられたのですが、三十分内に決断しなければ母子共に危険ということで、仕方なくその時に帝王切開手術をして榮進が生まれました。

 一度、帝王切開手術をすると、自然分娩は難しくなるのです。メスを入れた部位の伸縮性がなくなるので不可能なのです。ですから特別祈祷をせざるをえませんでした。するしかなかったのです:それなのに天は私が十三人の子供を生むのを待望しているというのです。

 その後、息子としては一番の末っ子の亨進が生まれ、その次に娘を二人生みましたが、それも本当に不思議なことです。

 一九六O年代には尹清浄心(ユンチョンジョンシム)女史(仏教徒の霊通者)が非常に多く協助してくれ、熱心に教会にも通って祈祷もしていました。その頃のこと、私がある日そのかたに子供を何人生めばよいのか尋ねたところ、その数は答えてくれずに、「最後に娘が二人できるだろう」と言うのです。実際、どうせ生むのなら息子だけ生めばよいだろうに、「最後に娘が二人できる」という答えでした。ですから、最後に娘が二人生まれて、そのかたが思い出されるわけです。
 息子としては亨進が七番目になり、最後に娘を二人生んだので娘も七人です。ですから、息子も娘も同じく七人ずつ全部で十四人生んだわけです。

(お父様「オンマ、きょうはいい話をしましたね。ありがとう」)(拍手)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.03.15 08:39:20
コメント(0) | コメントを書く
[平和の母・平和を愛する世界人として] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.