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奇   知   外   記

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2020.06.07
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カテゴリ:UCI、サンク
​​数日前から痛みを伴った闘病生活送っています。原因は、姿勢の悪化から骨と筋肉の位置がズレて炎症を起こしてのもののようです。お医者さんの診断では『五十肩』ということでしたが、痛みは肩ではなく鎖骨付近ですので別の病名が付けられるのではと思い、再診のときにもう一度確認してみましたが、「つながっているから」と軽くあしらわれてしまいました。
現在、理学療法師の指導のもとリハビリに専念中です。
ママさんも専属介護士としてよくしてくれて、寝起きから服の着せ替え等感謝の言葉がいくつあっても足りないくらいです。

ところで、体のバランスを崩した状態が「病気」だとすれば、堕落人間もまたこのような状態にある、というのが原理講論・総序に書かれていたものでした。心の中を見れば、本心と邪心の葛藤が人類の闘争歴史を綴って来ました。
ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。​人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。​​

(『​原理講論・総序​』から引用)
また、この人間の矛盾(破滅)状態を知的に見たときには「無知に陥った」ということです。
​​ 人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。ところで、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。​​

(『​原理講論・総序​』から引用)
ところで、​太初から続いてきたこの闘争に終わりはあるのでしょうか?​
​​ それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができるのである。それゆえ、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。
…(省略)…
 このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。​​

(『​原理講論・総序​』から引用)
というように人類歴史は闘争に明け暮れてきただけでなく、その一方で、内外の無知を克服しようとしてきたのが宗教と科学であったということです。しかも、これまでは宗教と科学であっても、心と体のように反発しあって来ていましたが、「新しい真理」を見いだすことによってそれも解決されていくということです。
堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。

(『​原理講論・総序​』から引用)
ここに文鮮明総裁が解明された「統一原理」(​『原理講論』​)がその「新しい真理」である、と『総序』では紹介していたものでした。

このように(堕落)人間は「心と体のアンバランスの状態」、知的には「無知の状態」にあるがゆえに十分な幸福を得られないでいましたが、それが『統一原理』によって開門されたということでしょうか!
特には、もしも神様がおられるとすれば、その神様がどういうお方であるかを知らない人生ほど悲惨な人生はないでしょう。

これまでのキリスト教は神様を「天のお父様」と呼んで来ました。ところが、新しい真理「原理講論」の随所には神様を「天の父母様」として紹介されていましたし、文鮮明総裁み言選集からも多く発見することもできました。


最後になりましたが、支流人(分派)の方々も同じ原理講論を学ばれたのですが、家庭連合からその「天の父母様」を知らせてもそれを認めようともしなければ、知ろうともしませんでした。小さな良心の欠片でも見出だすことが出来たならば、新しい真理「原理講論」をもう一度受け入れていくことも可能でしょう。
心と体のバランスを大切にしていきましょう。


一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2020.06.07 03:48:21
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