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「家庭連合は異端?--「三位一体”説”」は諸説に過ぎない」で紹介させていただいたkimagure-orさんから「tomy4509様へのお詫びとお願い(*'ω'*)」ということで、彼の記事に説明不足(「神性と神学の違い」等)があったとのことで弁明のメッセージをいただきました。
この個所(原理講論>キリスト論>重生論と三位一体論)を読んでいてtomy様が私の意図を誤解されていることに気付きました。統一原理(以下「原理」)の見解としての「三位一体論(三位一体説)」に関しては、第7章 キリスト論全体、特にはその「第4節 重生論と三位一体論」に書かれています。「重生」は原理独自の用語ですが、古い「原理講論」では「新生論と三位一体論」のタイトルで書かれていました。 (一) 重 生 論(新生論)イエス様は、ニコデモにキリスト教の奥義ともいうべき「新生」の内容を語られていたものでした。イエス様の使命は十字架ではなく、人類は「重生(新生)」させることにあったというのが原理の解釈であり、十字架を前に再臨の約束をされたのもまた、その使命をこの地上で完遂しなければならないという理由からでした。 さて、「三位一体”説”」ですが、聖書そのものに記載はなくアウグスティヌス(キリスト教神学者)が説いた諸説の一つということには同意がいただけたことと思います。5世紀に彼が説いたものでしたが、それに代わるだけの説がなかった故に、キリスト教も教派分裂をしながらもその説が世界に「定説」として広まったに過ぎません。 キリスト教がローマの国教となるまで400年を要しましたが、統一教会は、「異端だ! カルトだ!」と批判されながらも1世紀を待たずに世界的宗教となってきています。その原理にスポットを当ててみる時に来ているのではないでしょうか。原理では「重生”論”」として提示したものです。それが「三位一体説」に代わるものであるかどうかは、これからの神学界でも課題となってきています。 ・「なぜ、イエスキリストの復活を信じるのか!」--十字架による救いの限界 2020-11-27付でkimagure-orさんのブログ記事で過去のそれをまとめていました。 原理はイエス様の復活を受け入れています。但し「イエス・キリストの肉体的な復活の事実」はまったくもって非科学的というものです。神様は全知全能だからそれも可能だったということでしょうが、「神様も法に従われる」いうのが一般的見解ではないでしょうか? 次の聖句を挙げては「肉体的な復活」を信じておられるということでしたが、 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」(第一コリント15:3-8)12名、そして、500名に同時にイエス様がどのように現れることが出来るというのでしょうか。忍者のような「分身の術」でも使われたとでも…… 使徒行伝第1章、40日後に昇天したイエス様を見ても、その肉体が昇天したとは考えることは出来ません。昇天後にも「月足らずで生まれたようなわたし(パウロ)にも現れ」たイエス様は肉体をもってでしたでしょうか。聖書の記述とも矛盾しているように思います。 ・「三位一体説」と聖書にもズレ 私からは、イエス様がご自身のことを「人の子」と語られていた一例を挙げていました。それに対してはダニエル書の「人の子」をもってイエス様はメシヤ宣言をされていたという弁明でした。 tommy様はイエス様ご自身が「人の子」と言われているから「イエス様は神様ではない人間だ」というお考えでしょうか?これについては前書の記事「家庭連合は異端?--「三位一体”説”」は諸説に過ぎない」で原理講論からの引用をもって応えていたはずです。 イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。ほか、いくつかの聖句を取り上げては「三位一体説」の聖書的根拠を説明しようとされておられたようです。そのいくつかを確認してみましたが、御子(イエス様)も万物被造世界を創造される前からおられた、複数形はそれを意味しているということでした。残念ながら、それらもまた「諸説の一つ」から脱却するだけの力がないことは、kimagure-orさんの方がはるかに聖書を読まれていることと思います。 三位一体のイエス様(神様)が十字架に架かること自体が信じ難いものです。ほか、聖書からは「三位一体説」では説明できない記述もご覧になられているのではないでしょうか? ・「神性」と「神学」は心と体のようなもの 神性と神学の違いつまり神性とは、神様、あるいは、それに類する聖なるものの状態や属性(永遠、絶対性、愛等)を指し、神”学”はその学問ということでしょうか。 一概的には「神様はいる」から出発しているのが神学と考えがちですが、学問ともなれば、神学は「神様はいるのか? いないのか?」から始まると思います。 宇宙はどのように出来てきたの、その宇宙の根源が何であるかといった「哲学」的根拠によって私たちの価値観や人生観・社会構造にまで大きな影響を与えてきました。家庭連合では「原理」を学問的(思想的)にまとめた「統一思想」というものもあります。それをまとめられた方が(故)李相憲先生ですが、その方の講座を文章にまとめた一部を参考に考えてみてください。 神様がいる・いない、信じる・信じない、また、その神観(神性)がどうであるかで人生観も大きく違ってきます。 無形の神様を見られた人は誰もいません。聖書等でもって神様を人々に知らしめてきたのが宗教でした。ひとりの人間に例えるならば、目に見えない神様を「心」とすればそれを形で表現しようとしたのが宗教・神学は「体」といえるでしょう。 「三位一体説」はその体の部分とは言えるかもしれませんが、「諸説の一つに過ぎ」ません。いわば、「盲人と象」の譬えもあります。 ・改めて「三位一体説」見直しの必要性 科学の発達とともに現代人の知性も発達してきています。5世紀に説かれた「三位一体説」でもって現代人を納得させるには、もはや、時代遅れとなってきているというものです。 聖書を根拠にといっても、聖書そのものも口伝伝承されてきたものが後に文章化されたものです。神様の啓示によって書かれた書物であっても、その知性によってさまざまな矛盾点も発見するようになってきています。 こんにちなお、「家庭連合は異端だ」と頭ごなしに否定される方もいますが、その一方ではそれを見なおしていこうとする動きもあるのも事実です。 キリスト教では神様と人間の関係は「父子関係」だとも言っていますが、「三位一体説」からはそれを説明することが出来ません。閉鎖された三角形でしかなく、そこに人間(や被造物)創造など「愛の関係」が生まれてきません。以下は神様とイエス様、そして、私たちもイエス様のように実子なることを願望していることを書き記した聖句を挙げたものです。恥ずかしながらそれをまだ十分に理解できていない分派記事からの引用ですが。 「お父様み言と違った「父子関係」解釈の『郭錠煥教』」(2020.07.25) 引用開始>----- 神様と人間との関係は「父子関係」であるとキリスト教では説いています。 最初にそれを説かれたのは2000年前のイエス様でした。当時、神様はイエス様ただ一人を「独り子」と呼ばれました。そのイエス様を仲介として神様を知るようになったクリスチャンたちはというと、直接的な血統のつながりはないにしても、養子養女の位置だと言われています。 聖書を見れば
と霊的には「子たる身分」を授けられたことを喜んではいても、なおも、「心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること」「からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と更なる願いを吐露したりもしていました。つまりは、養子養女の位置からイエス様のような神様の実子となることへの願いでした。 へブル人第 11 章1節~40節過去の義人聖人らの信仰(願い)が必ずやクリスチャンたちによって成就されることへの確信も書き記したりもしていました。 -----< 人間・イエス様であったとしても「創造理想を完成」した位置で「神性」を持たれていたといっても何らの不足もないと思います。
奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2020.11.29 07:18:13
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