6201086 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2021.02.22
XML
​​​​​​​​イエスの摂理的生涯とその勝利的目的

一九五七年十月二七日(日)前本部教会



 堕落した以後、今日まで神の復帰摂理がなかったなら、罪のうちにある人間の口を通して神に向かって「アボジ」と呼ぶことがなく、また死亡の血統を受けた姿としてもやはりアボジに対して、天の恩賜や愛の恩賜などということを、考えることができないのです。


 イエスを通して人間を抱こうとされた神

 イエス様の摂理的生涯といえば、ここには全体性がみな入るのです。イエス様を送られるまで、神の摂理は四〇〇〇年の歴史を経過し、イエス様がこの地上に来られることによって、神様はイエス様を中心にして新しい摂理を出発することができたのです。即ち、神様は地上の人間たちと自由に対することができないので、数多くの天使たちをみ使いとして摂理してきた旧約時代を過ぎ、地上に直接的に役事することがきる実体を持つキリストを立てることによって、堕落した人間を再び抱こうとされた神の摂理が、出発することができたのです。こんな内容を持つキリストの誕生であることを、皆さんは知らねばなりません。

 キリストが来ては行って後、今まで二〇〇〇年の歴史が流れました。それで今日皆さんは、アボジの恩賜圏内に入ることによってイエス・キリストを主として侍り、聖霊の保護を受け、恩賜を受けることができるそんな時にあるという事実を、知らねばなりません。イエスが来られる前の二〇〇〇年の間、人間に直接対することができないので、数多くの天使たちをみ使いとして、人間を捜し求めるアボジの苦労の摂理があったということを皆さんは知らねばなりません。また、霊界と肉界を分けておいて摂理されたお父様は、人間のまえに直接的で平面的な摂理を立てるために、イエス・キリストを送られたということを知らねばなりません。

 イエス・キリストが来ては行った二〇〇〇年の歴史が経過した今日、皆さん自体がこの恩賜のまえに選択を受けるなら、イエスが来る前の四〇〇〇年の間、霊的な面で人間を求めてこられた神の心情を、体恤しなければなりません。また、イエス様がこの地上に来られ、ご自身の生活と生涯と永世の目標を懸けて、皆さん一人を彼の生活に同伴させ、彼の生涯に同伴させ、彼の永世に同伴させて導いて行こうとされる摂理のみ旨に対している、歴史的な過程に立っていることを、皆さんは忘れてはなりません。

 イエス様はこのようなみ旨を、三〇余年の生涯の生活目的として、また全体的な人生の目的として立て、これを成就させるための二〇〇〇年を経て、皆さんの先祖たちを率いてきたのです。またこれからも、皆さんの後孫たちを率いて行くべき摂理的な責任が、イエス様に残っていることを皆さんは感じなければなりません。

 こんな立場に立っているイエス様が摂理のみ旨に対するとき、イエスご自身だけが喜ぶ生活、イエス様ご自身だけが喜べる生涯、イエスご自身だけが永世を懸けて安逸の一日を迎えることができないという事実を、皆さんは良く知っているのです。

 それでは今日、天の安逸を求めることができず、天が要求する所望の一日を得ることができないこの時に、地上に生きている人間はどんな立場にあるのか。皆さんは安逸を求めようにも、求めることができないのです。心ではどんなに平和を求めていて、どんなに理想的で理念的な世の中を夢見たとしても、皆さんはこれを保障できない運命におかれているのです。

 なぜならば、天地を創造された神の摂理が、悲しみの摂理として残っており、この地の堕落人間の為に救援摂理を成就しようと来られた、万物の主人公であられるイエス・キリストもやはり、悲しみの心情を抱いて摂理のみ旨に対しているゆえに、地上のどんな人間もその心に安逸を求めることができず、私は勝利の栄光を得た者と誇ることができないのです。

 このような摂理の運命を背負い、人間を率いて行かなければならない神の悲しい心情が残っている限り、また皆さんを率いて行くイエス・キリストの切ない心情が残っている限り、そして千々万聖徒が摂理に対している悲しみが残っている限り、今日人類が希望とする善の園や、人類が欣慕する神の愛を、永遠に受けようにも受け取れないのです。

 こんな摂理に対している天が人間を抱えて行くことも容易なことではないのであって、ここにどんな事があるかといえば、悲しい心情のアボジのまえに人間を条件としてサタンが立ち塞がり、讒訴しているのです。これを皆さんは知らねばなりません。

 皆さんの生活と人生路程の中で、あるいは皆さんが望んでいる理想の中で天理原則、または神の創造理想に符合しない要素があるときには、どんな一つの条件も抜くことなく、サタンから無慈悲な讒訴を受け、皆さんの代わりに悲しみ、皆さんの代わりに打たれて闘ってこられた、アボジと主様と聖徒たちがあったことを、皆さんは悟らねばなりません。それで神の摂理歴史には神の悲しみが残っており、イエス・キリストの悲しみが残っており、今まで摂理に対してきた千々万聖徒の悲しみが残っているので、それよりさらに大きな神の悲しみが何でしょう。我々を守り、再びサタンと対決しようとのみされている悲しみです。こんな立場におられる神様であることを、皆さんは知らねばなりません。


 神と人間の距離を縮めようとされたイエス

 今皆さんは、イエス・キリストの誕生と生涯をづっと考えてみなければなりません。イエス様がこの地上に生まれる前までは、人間と神とは遠い距離があったのです。それで神は人間たちが持てる誠精を注ぎ、努力を尽くしてサタンの世のすべての条件を踏まえ、即ち空中権勢を握る闇のサタンの勢力を貫いて、神にまで捜し求めて上がってくることを願ったのです。それでこそ人間が神の恩賜を受けることができたのが、旧約時代の摂理でした。しかし人間の努力と苦労だけでは到底、ご自身を捜し求めることはきないことを知る神は、この地にイエス様を送られて、立体的な立場で空中権勢を貫いて上がろうとする立場にあった人間、天に向かって峠を見上げて悲しい涙を流してばかりいる堕落した人間をして、平面的な立場で相対的価値を持って、神を代身する一中心に対することができるようにされたのです。これが四〇〇〇年摂理歴史において、サタンに対する一大勝利の条件であり、誇りの条件であったのです。

 ところが人間が不信することによって、イエス様がこの地に来られた目的を成就できなかったがゆえに、未だに我々は天に向かって祈祷しなければならず、誠精を尽くす運命におかれているのです。

 元来、人間の視線は平面的に見て動くように創造されているのに、どうして心は天に向かう立場におかれているのか。皆さんが平面圏内において神の摂理のみ旨を成就すれば、神が喜び、イエスと聖霊が喜び、地上の万民が喜ぶことができるのです。こんな一時が成ってこそ、我々の希望がかなうようになるのです。こんな目標を成就するための初段階としてイエス・キリストを送られたのに、人間の不信によって逝かれたのであり、逝かれたイエス・キリストを再び迎えなければならない責任が、皆さんにあるということを、知らねばなりません。

 イエス様は地上に来られ、その摂理的な人生の初出発として、天の摂理のみ旨に従い、生活の第一歩を踏み出したのです。この生活の中心が何であったのか。まず人間を率いて神のまえに行くと同時に、人間を讒訴するサタンと対決して、闘うことだったのです。こんな両面的な立場で、イエスは出発するようになったのです。

 見えざる霊界においては、サタンから讒訴され、見える肉界においてはすべての不信の輩から反対される立場で、イエス様は独り四〇〇〇年の間、摂理された神の悲しみを代身して悲しみ、天倫の悲しみを代身して悲しんだのです。こんな心を抱いて、このお方の視線はイスラエル民族に向かったのであり、神の愛の心情によって選ばれたユダヤ教に向かったのです。

 しかしイエス様の使命完遂のために協助しなければならないイスラエル民族と、神のみ旨を受けてゆくべきユダヤ教団は、イエスのまえに一切現れず、全部が反対する立場にあったのです。今日これが必然的な事実であると信じているキリスト教徒たちは、イエス様の本当の心情を察して見るべき時が来たことを、知らねばなりません。

 イエス様は霊的に侵犯して入ってきたサタンの勢力を防ぎ、数多くの人々によって肉的に飛んでくる、すべての不信の矢を防がねばなりません。ところがイエス様はこんな闘いだけ、しているわけにはいかないのです。より大きく、より遠い神のみ旨と、その所望を望み見てそこに自身の体と心を、合わせていかなければならない立場におられたキリストの人生の出発を、皆さんが同じ立場で同情することができる心を持たねばなりません。

 こんな立場で出発したイエス・キリストにおいては、どうすれば神のみ旨を成就させ、どうすればサタンを屈伏させ、どうすれば堕落性を持っている万民を再び復帰させるかということが問題であったので、イエス様はこれを解決するために行かれたのです。


 イエス様が従順の道理を教えられた理由

 この地上で権勢を握るサタンは、神の栄光を自分たちが受けてきて、神が主管すべき人間を自分たちが主管してきたのです。このように人間はサタンの圧迫の下に生きてきたのです。それでイエス様はこの地に来てまず反対する人間よりも、人間をしてイエス様に反対させる霊的なサタンと、対決しなければなりませんでした。こんな闘いからキリスト教の歴史が始まったことを、皆さんは知らねばなりません。

 それではサタンの本質と対決するために現れたイエス様は、彼の生活圏内において、まず何を表示して現れたのか。サタンが出来ないことを、しなければなりません。こんな責任を完遂するために、彼の生活圏内において実践的な行動を示したことが、今日キリスト教の福音なのです。

 御言もそうであり、彼の心もそうであり、彼の生活もそうであり、彼の生涯もそうであり、彼の死までも、サタンが出来ない条件を捜し立てるための事であったのです。このようなイエス・キリストの生涯路程を、皆さんは知らねばなりません。天理法度が厳然としてあるがゆえに、言い換えれば、法度を中心としてすべてのものを治める神がおられるゆえに、イエス・キリストはこの天理法度によってサタンを分立したのです。

 サタンの本質は傲慢と血気です。こんな性質で世の人間に対するサタンであったのですが、イエス様は温柔と謙遜で、世の人々のまえに現れたのです。

 イエス様が至らなくて、温柔謙遜な立場に立ったのではありません。誰よりも最高に高くなることができ、栄光を受けることができるのですが、イエス様はこれをすべて捨て、温柔謙遜な立場に立たれたのです。サタンはこんなイエス・キリストと対決して闘おうとしたのですが、サタンには神のまえに屈伏しなければならない条件があることを知っておられたので、イエス様は最後まで温柔謙遜であられたのです。それでサタンの本質である傲慢と血気に反対の、温柔謙遜をもって現れたのです。

 また厳然と天理法度があることを知るサタンであるがゆえに、終いにはイエス・キリストを認定するようになったのです。即ち、言ってみれば温柔謙遜でありつづければ、サタン世界も自然屈伏するということです。こんな原則を知るイエス様はサタンがやらない、サタンが出来ない温柔謙遜の立場をとられたのです。このように温柔謙遜な立場に立てば中心を通して役事される神も行く新しこを開拓することができるということを、皆さんは知らねばなりません。

 それではイエス様は、何を与えられたのかといえば、従順と服従です。従順は応じることができる環境で命令に従うことであり、服従は応じることができない環境で従うことです。イエス様は不信する人間に、こんな従順と服従の道理を教えられたのです。これもやはりサタンの本質、サタンのすべての生活的な要素を防ぐためのものです。

 サタンは自分を中心にして、他人がどうなろうと関係しない存在です。これがまた一つのサタンの本質です。それでサタンの後を追うなら、不幸になるのです。それでイエス様はすべての人間が自分を信じ、自分に従順になり、天に従ってくるように教えられたのです。こんなイエス様のみ旨を知らないで、人々はむしろイエス様を、神のみ旨のまえに不義なる人間だと考えたのです。こんな立場で、口にもできない蔑視と冷遇を受けても、イエス様は従順の道を開拓して行かれたのです。

 また、イエス様は犠牲と奉仕の精神を、づっと現されました。その実、天の栄光を代身する神の独り子としてこの地に来たイエス様は、万民と万物・サタンまでも主管して、彼らの犠牲と奉仕を受けるべき立場であったのに、その反対の立場に立たれたのでした。サタンがご自身のまえに従順になり、奉仕し、犠牲になるように造るために、即ちこんなサタンのすべての勢力を屈伏させるために、イエス様は無限に犠牲と奉仕の祭物として捧げる路程を歩まれたのでした。これを皆さんは知らねばなりません。

 サタン世界は人間に対しても、あるいは被造物に対しても、無限に利用し搾取しようとするのですが、イエス様はその反対の立場を取られたのです。このようにサタンがやらない生活を、イエス様が代表的にされたので、即ち温柔謙遜であり、従順であり服従して、犠牲と奉仕の生活をされたので、サタンもこのような面では屈伏しなければならなかったのです。

 皆さんは自分を、イエス様が教えられた温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕に照らして見て、彼の教えを自分の生活圏内において実践することがきないと考えるなら、未だにサタンの宗族であることを悟らなければなりません。


 サタンと同伴しては行けない天の道

 今までの皆さんの生活はどうでしょうか? 自分を中心として血気と傲慢で生きる人間が今だにいますか? 皆さんは一日も早くこんな立場から抜けだし、イエス・キリストが立てておかれた基準、サタンを屈伏させる最後の闘いで勝利することができる基準である温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕の姿勢で、血気によって天を迫害する者たちに向かって闘って行くという、内的な覚悟を誓わねばなりません。

 み旨に対立し、み旨に反逆する立場に立つのがサタンであり、このようなことがサタンの生活になっているのです。それでわれ知らずみ旨に反発しようとする心がわくのは、自らの心ではなくてサタンの勢力が環境にさっと満ちて、その環境にしがみついているからなのであって、われ知らずサタンの勢力が自分を中心にして現れてくるのです。

 イエス様は怨恨と悲しみがサタン世界に結ばれているとしても、犠牲と奉仕を覚悟してこの道を解決しようとして行かれたのです。

 今日我々が面している終わりの日には、二筋の道があるのですが、サタンが行く道と天が行く道です。ところでサタンが行く道と、天が行く道は違います。天が行く道は、サタンが行かなこです。即ち、サタンはイエス様のように、神に対して従順に服従して、み旨を温柔、謙遜に実践し、摂理のみ旨のまえに全人類を代身して犠牲と奉仕はしないのです。

 それでイエス様は善において王の中の王であり、温柔謙遜において王の中の王であり、従順と服従において王の中の王であり、犠牲と奉仕をするにおいて王の中の王であったことを、皆さんは知らねばなりません。

 地上の数多くの人々は温柔を知らず、従順を知らず、犠牲と奉仕の祭物の道を行くことを知らないのです。イエス様は四〇〇〇年の歴史上に数多くの人々が来ては行き、数多くの聖賢たちが来ては行ったのですが、彼らがやれなかったこと、即ち天のまえに最高の温柔の道、最高の従順の基準、最高の祭物の基準を立てることによって、サタン世界のすべてのものを踏み越えて上がることができたのです。イエス様はこのようなサタンを屈伏させる血のにじむ路程を、我々に見せてくださったのです。

 イエス様はこの地に来られ、温柔謙遜に従順に服従して、犠牲と奉仕の生活をされましたが、神様が長い歴史を経て、この地に対して苦労されたその心に通じる心情を持って、このような生活をされたのでサタンが根本的に屈伏し、根本的に変わらなければならない歴史的な出発点となったのです。これを皆さんは知らねばなりません。

 サタンは神の心情を知ってはいても、人間が神のものへ行こうとする道を塞ぎ、かえって自分のほうへと引っ張る存在なのです。自ら高くなろうとし、自ら対抗しようとし、自ら人間を利用しようとするのです。こんなサタンですが、神様とイエス様が来られれば、あえて頭を上げるにも上げられないのです。こんな条件がイエス様の生活圏内において立てられたことを、皆さんは知らねばなりません。それゆえ、イエス様について行けば我々からサタンが分離されるのです。イエス様の生涯は、こんな歴史的な出発をなす生涯だったのです。

 こんな基準をイエス様は、どのようにして立てられたのか。イエス様はまず神とわたしは二つではなく、一つであるという基準を立てられました。神が永世であるならわたしも永世であり、神が不変であるならわたしも不変であり、神が無限に慈悲であるならわたしも無限に慈悲であるという心を持たれたのです。即ち神の内的心情をイエス様は誰よりもよく感じて、一つになることができたので、サタンに対する闘いの路程において勝利の基準を立てることができたのです。

 しかしイエスが逝ってから今日まで、サタン世界には神とイエスとの内的心情が連結されたこの御言、また神とサタンの間にいかなる曲折、いかなる染みこんだ内容があるかということを知る人間が、少しもいなかったのです。

 温柔と謙遜、従順と服従、犠牲と奉仕

 二〇〇〇年前にイエスがこの地に来て、サタンを屈伏させる方法として「温柔謙遜であれ」「従順服従せよ」「犠牲奉仕せよ」と人間たちに教えられたのですが、地の上の人間たちはイエス様の教えられた通り、温柔謙遜に感謝して、従順服従して感謝し、犠牲奉仕して感謝する生活環境を持つことができないがゆえに、われ知らず従順の心が変わって血気と傲慢、対立と反発をするようになり、奉仕と犠牲が変わって利用と搾取を常としているのです。

 イエス様がこんな問題点を解決することが出来たということは、神と切っても切れない因縁があり、神とサタンとの切って捨てるべき曲折と、サタンとどうしたら別れられるかを知っていたがゆえに、イエスはこんな道を行くことができたのです。ところがこんな内容を人間たちは知らないので、イエス様と同じ道を行くことができなかったのです。

 ですから皆さんは天に向かって「アボジ」と叫ばなければならず、イエス様に向かって祈祷しなければならないのです。そして神とイエス様の心情を知り、サタンの陰謀までも知って、歴史的なサタンの犯罪を暴露して、現実的にサタンの群れを屈伏させて、神の摂理の秘密を明らかにし、これを精算しなければならないのです。

 温柔であり謙遜でなければ、イエス様の心情を体恤できません。また従順と屈伏・犠牲と奉仕の生活をしなかったら、イエス様のまえに近寄ることはできません。これを皆さんは知らねばなりません。現在の我々であっては、このような生活を完全になして神を求めてゆくことは難しいです。それで人間たちは「おお ! 神よ、我々に臨んでください」、「神よ! 我々を哀れんでください」と訴えているのです。そうして「神の時がいつ来るのですか」「イエスと聖霊がいつこの地の万民に現れるのですか」とその時を待っているのです。これが歴史的な悲しみの状況として、残っているのです。

 皆さんは神とイエス様と、サタンとの間の曲折を知らない不信の人間たちですから、彼らに語りたかくても語ることが出来なかったイエス様の、切ない心情を知らねばなりません。

 こうして従順の祭物になり、歴史の祭物になり、犠牲と奉仕の祭物になり、サタンに対して「おまえはなぜ、神の摂理のみ旨に従わないのか?」と叱りつけ、霊と肉を合わせた実体として、サタンを屈伏させる天的な秘密を捜し求めなければ、イエスが霊的に勝利したサタンを、実体的に屈伏させることができないのです。

 ですから「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない」(ヨハネ一六:一二)「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三:一二)と言われ、語ることが出来なかったイエス・キリストの心情を、皆さんが解いてあげなければなりません。

 それではこのような歴史的な審判の一日が、我々の目的に至っているこの時において、皆さんが悲しみを抱くなら、どんな悲しみを抱かなければならないか。イエス・キリストがサタンを屈伏させるために悲しかった以上の、悲しい心情を感じる聖徒にならねばなりません。

 イエス様が十字架をまえにして、ゲッセマネの園に登って訴えた瞬間は、皆さんが想像することができない悲しい瞬間であったのです。自分一身が死ぬことが問題ではなく、天と地が、右と左になるからだったのです。サタンの勢力を精算することを願う立場で、一身に衝撃を受けてゲッセマネの園で祈祷され、泣き叫んだイエス様の心情を皆さんが蕩減して、さらには神の心情までも体恤して、サタンをその心のまえに呼び、サタンを屈伏させる皆さんにならねばなりません。でなければこの地上に再臨主が来られても、そのお方はまた、悲しみの主になるのです。

 それでは今日、我々はどうしなければならないのか。我々は今死を覚悟して、み旨であるなら温柔謙遜の先がけとして立たねばならず、み旨であるなら従順屈伏して、この地のどんな人間が反対しても、イエス様が独り行かれたように、皆さんも神のみ旨の為に従順と服従の祭物にならねばなりません。

 それでは、温柔謙遜、犠牲奉仕、従順屈伏の程度は、どの程度でなければならないか。神の威信があり、イエス・キリストの威信がある以上、皆さんが神とイエスの威信を立てるべき立場にあるのですから、三千万を代身して温柔謙遜に、サタンの血気と傲慢と対決しなければならず、三千万を代身して従順に服従して、サタンの対立反抗と対決しなければなりません。

 こうして利用し、搾取しようとするサタンに対して、犠牲と奉仕の心情を持ってゆかねばならず、神とイエス様が抱いたサタンに対する鬱憤の心情を持って、サタンに対して対決しなければなりません。皆さんがこのような聖徒にならなかったなら、来られる主様を地に迎えることができず、また主様が来られたとしても、そのお方と何らの関係も結べないのです。

 それでは今日、クリスチャンたちが持つべき生活的な理念が何でしょうか。自分がまず従順屈伏して、まず温柔謙遜であり、まず犠牲になり奉仕するという精神であるのです。こんな道を通してアボジのみ旨が成り、アボジの心情とイエス様の心情が解怨されるということを、知らねばなりません。歯を食いしばり、教会と民族を代身して犠牲奉仕して、天のみ旨の為に従順屈伏することができる聖徒が、三千万民族の中に多く現れることを、天は待ちわびておられるのです。


 栄光の主と同参できる者

 イエス様がこのように闘って勝利され、サタンを分別させたように、今日我々もサタンと闘って勝利し、アボジの懐に安らぐ子女たちになってこそ、イエス様がこの地に来られるようになるのです。

 終わりの日である今日、この地にはイエス様が内的にサタンと対決して闘った生活的な理念を継承する温柔謙遜な人間、従順屈伏する人間、犠牲奉仕する人間がいて、全体的な使命を果たさないとしても、神の蕩減復帰摂理のために世界万民を代身して、各々その使命を分担すべきなのです。またある一分野を独りで責任が持てなかったら、大勢が団結してでもその責任を完遂しなければなりません。こんな摂理的な運命が我々のまえに横たわっていることを、皆さん知らねばなりません。

 イエス様が四〇〇〇年歴史を代身して、祭物の価値を象徴的に立てられたように、この時代におきまして我々は、イエス様を代身することができる立場に立たねばなりません。そのためにはイエス様と従順屈伏の友となり、温柔謙遜の友となり、犠牲奉仕の友とならねばなりません。そのような一人の人間が現れることを、天は苦待しておられることを、皆さん知らねばなりません。

 皆さんがそんな姿になるためには、他人が何をしようと、サタンの非難や妨害、苦難があったとしても、それらに勝たねばなりません。そして、イエス様がゲッセマネの園を経て、十字架を背負い、ゴルゴダの山頂まで行かれた哀しい心情が付いてきても、そんな場にあってもイエス様が温柔謙遜であり、あらん限りの犠牲の祭物であられたように、皆さんは温柔謙遜であり、従順であらねばなりません。

 我々は神の息子・娘として、神の威信をお立てしなければなりません。イエス様が自身の立場を誇ったり、自身を表すことなく常に神の立場を表て立てたように、我々も神の息子・娘として天理法度を守り、自身を誇ってはならないのです。ところでイエス様が温柔謙遜であり、従順に服従して犠牲となり奉仕されたことは、神のゆえであったのです。神様が元来、そんなお方であるからです。

 死にゆく生命を救い、この堕落世界を救うには、早く早く従順屈伏して、早く早く温柔謙遜になれというのです。どうかどうか犠牲奉仕せよというのです。こんな群れが世界的に広がれば、サタンが主管し、怨讐たちが治めるこの地が帰ってくるのです。

 皆さんは温柔謙遜であり、犠牲奉仕して、他に与えるのも無限に与えなければなりません。であれば天に染みこんだ怨恨の心情を持って、サタンと闘ったイエス・キリストが再び来る時、審判の権勢を持って栄光の姿でこの地に来る時、同参者になることができるのです。


 神の国を回復して差し上げる御言の主人公

 イエスはこの地に来て、切なく怨痛なる生活をされたのですが、その人生において願った所望が終結する一日を持ってみなかったのです。それで自身の心情を打ち明け、自身のすべての福を預け、自身のすべてのみ旨を委ねることができる一日を望み見て、今日までの二〇〇〇年の歴史を苦労して来られたことを、皆さんは知らねばなりません。

 イエス・キリストはこの地において、言いたい事を言えず、やりたい事をやれず、持ちたい家庭を持ってみなかったのです。それではイエス様が言いたかったその御言が何であったか。それは神の玄奥(秘密)であり、サタンの玄奥(秘密)であり、人間の玄奥(秘密)を明らかにする御言であったのです。このような御言は、独りでやろうとしてやれるものではありません。神の創造原則、自律的運行法度を通して主管されるような御言をされるときにも、自由なる環境がまず造られなければなりません。こんな自由なる環境が造られる一日を、イエス様は持ってみなかったのです。

 皆さんはイエス・キリストが、人間たちに自由なる環境で心を許して御言を語ることができる一日を、迎えるようにしなければなりません。この御言の中に神が伴い、イエス様が伴い、自分が伴い、サタンも自分のすべてのものを捨てて皆さんに付いてくることができる勝利者になって、神も喜び、イエス様も喜び、我々も喜ぶことができる一日を、この地に成さねばなりません。そのようになってこそ、神のみ旨が成るということを、知らねばなりません。

 イエス様は御言と人格と愛の主人公として来られ、神様から天地万物を主管せよという祝福を受けたアダムとエバが堕落して、この御言を成就できずに怨恨を残したのですが、イエス様はこれを解消しようとして来られたのです。またイエス様は万物を主管することができる人格的な基準を回復して、万物を主管しているサタンを追い出し、神の主管圏を回復させることができる御言の主人公、真理の主人公であることを知らねばなりません。 さらにはイエス様は全万民、信じる人は勿論ですが信じない人までも愛して、サタンの束縛のうちに呻吟している人間を解放させることができる、無限の愛を抱いて来られたお方なのです。

 今日キリストの新婦の理念を求めている我々が、その新婦の理念を得るにはどうすべきかといえば、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ一四:六)と言われた御言。道であり、真理であり、命である御言を受けて、その御言の通りに生きなければなりません。

 我々がまたサタンを屈伏させるには、サタンが持っていない御言、サタンが持っていない人格、サタンが持っていない愛を持たねばなりません。そしてイエス・キリストが地上の人間たちに表せなかった切なく、懇切な心情を知らねばなりません。

 今日皆さんは、追われている統一教会に通っています。私は時々言うのです。「哀れな人間の道に従っている皆さんは哀れであり、哀しい人間の後に付いてくる皆さんは哀しいのです。しかしその哀れさと悲しさは、わたしの為のものではないのです」

 皆さんが真にこのような立場になるときに、ここに天が役事されるのです。こんな心情を通し「自分がキリストの心情を知り、キリストの生涯の目的を知りましたから、この目的を代身して自分がサタンと闘ってゆきます。キリストが霊・肉共にサタンを屈伏させるために闘った、その闘いに今自分が責任を負って悪党どもを追い払い、サタンを屈伏させます」と自分に言える一人の人間を捜し求めなければなりません。天はそのような人間を求めておられるのです。

 今審判の日が近づいて来て、我々は艱難と悲しみの峠を越え、死の祭物となって新しい真理の御言を握り、新しい人格を代身し、新しい生活理念を捜し立ててあげる天的な人間を中心に動き始めてこそ、真の生活をし、人生の目的を達成し、新しい永世の理想生活を出発するようになるのです。この事は神がなさることでもなく、イエスがなさることでもなく、皆さん自身がしなければならないのです。

 イエス様は神のような御言のみを聖書に表されましたが、今内的な御言を持って再び来られ、サタンの秘密を暴露し、サタンを永遠に底無しの地獄に閉じ込めるのです。それゆえ皆さんは、再び来られる主様から受ける真理の、主人公たちにならねばなりません。

 この真理の御言は、神も頷き篤実な聖徒も頷き、サタンまでも頷く御言でなければならず、この御言のまえには正しく、本然の心を持つ者であれば誰もが動かされ、引かれる御言でなければなりません。

 皆さんは真理の御言を持ったイエス様が、祭物になってまでも神のまえに畏敬なる心情を抱いたように、イエス様のまえに畏敬を感じる新婦になり、アボジのまえに祭物として捧げることができる人格を持つなら、人格審判の峠を越えるのです。そして真理審判の峠を越えることによって、神様がアダムとエバに祝福された、万物主管権を回復することができるのです。ここから新しい人生の出発が始まるのです。

 新郎・新婦の資格を得て、永遠なる神の愛を中心に、新しい生活が出発すること、これがいわゆる歴史的な所望であり、千年王国の基盤であるのです。皆さんは原理を学んで知っているように、天使長の愛以上の神の愛を受けることができる勝利の資格者となり「ハレルヤ、ア-メン!」としなければなりません。

 こうしてサタンの死亡圏から解放され、自由と幸福と愛と善と美を中心に生き、自分を中心にせず、神と天倫を中心にして生きなければなりません。そして主様の所願が私の所願であり、主様の愛が私の愛であり、主様の美が私の美となる一体として万象のまえに現れるとき、皆さんがイエス様を欣慕したように、万物も皆さんを欣慕するのです。こんな資格を持つ新婦となることが、終わりの日の希望なのです。

 このように皆さんが新婦の資格を完成して、地において霊・肉共にイエスを代身して、彼の念願を成就して、サタンに対して誇ることができる姿となり、全体を主管しなければならないのです。そうなればイエス・キリストの所望の一日が、勝利の一日として永遠に天地にまえに立ち、人間のまえに立ち、神のまえに立つことができるのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.02.22 22:34:51
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.