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2021.03.03
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​​​​​​​​​​​​神の選民である選ばれたイスラエルになれ​

一九五八年二月九日(日)前本部教会


皆さんとしばらくの間考えてみる御言の題目は「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」です。「神の選民である選ばれたイスラエルになれ」という題目でしばらくの間、お話しします。

 創世記にはヤコブがひどい苦労の路程を経た後に、天を代身して試みを受けた内容があります。

 ヤコブはその試練の過程で、自分がイサクから祝福を受けた選民であるということを心に抱いて、そのみ旨をさえぎろうとする天使と、最後まで闘ったのです。それで勝利して神が許された選民圏内に入ったということを、我々が知っているのです。ヤコブが神のみ旨を中心として、あらゆる逆境と闘って勝利した者として、神が許されたのが「イスラエル」という名詞です。今日我々はイスラエルという言葉を、沢山使っています。

 ところでこれは単純な名詞として、残っているのではありません。この言葉は歴史的な生命を代身している名詞であり、天と地を復帰するための、アダムからヤコブまでの二〇〇〇年の歴史を終結させる勝利の名詞であることを、我々は忘れてはなりません。また神がヤコブを立てて、イスラエルという祝福をされる時、喜びがあったということは勿論ですが、反面悲しみもあったという事実を、我々は悟らなければなりません。


 ヤコブを苦労させた神のみ旨

 神様がヤコブを捜し求め、数千年の間苦労されて摂理されてきたことは、ヤコブの祖先であるアダムが堕落したからです。アダムが堕落することによって、神様がされようとした祝福を失ったのです。それでその祝福を再び求めたのですが、失った神の祝福を再び捜し求める歴史過程には、言葉にもならない哀しい事情があったのです。ヤコブをイスラエルという名で祝福された神には、こんな哀しい心情があったということを、皆さんが知らねばなりません。

 神がイスラエルという祝福の御言をくだされたことは、ヤコブ一代だけに許された御言ではなく、全創造の理念と理想を代身した御言であり、神の全体心情がこの一言に込められていることを、皆さんは知らねばなりません。

 ですからラバンの家に行って数十年間、苦労して疲れたヤコブ、神が許されたカナンの地を立てるための困難な路程を経たヤコブは、イサクが手をのべて祝福した天のみ旨を実践する場において、自分が持っているすべての財物を失っていって、エドムの地のエサウを訪ねたのです。

 ところが訪ねた故郷は、自分一代に幸福を与える本郷ではなく、喜ばしい場ではなかったのです。懐かしい故郷と兄を訪ねたのに、心配と苦労をしなければならない事情に直面したのです。これはヤコブ一身だけの事情ではなく、全人類が歩むべき路程であることを見せてくださったという事実を、皆さんは忘れてはなりません。

 故郷を訪ねたその前には、ヨルダン川が横たわり、ヤボク川が立ちふさがっており、許された祝福の地を前にして、夜の眠りもままならず、涙を流して祈祷しなければならなかったこんな事情は、先祖たちが残していった事情であり、天倫の摂理をされるアボジの事情であったことを、ヤコブは誰よりも骨身に感じたことを、皆さん知らねばなりません。このような事情は、ヤコブ一代においてのみの事情だはなかったのです。選民イスラエル民族が歩んだ歴史路程であるのみならず、神のみ旨に対して現れたすべての我々の先烈たちは全部、このような心情を抱いてアボジの懐にとび込むために、暗闇の障壁を前にして闘いの峠を越えなければならない事情に面したことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。

 それではイサクの手を通して祝福された神、すべてのものを捨てて故郷に帰れと告げた神様は、どうしてヤコブを案内して行く道を平坦にしてやらず、またヤボクの川岸で夜を明かして天倫のみ旨を抱いて、切ない心情で天のまえに訴えるヤコブに、励ましの御言をかけてあげるどころかむしろ天使を送ってヤコブを打つという、そんな非情な環境においたのか!

 言うこともできない事情、人間が知るべくもない切ない曲折の心情がここにあったということを、今日我々は忘れてはなりません。このように神が許された故郷の山川を訪れたヤコブの道は、荒野の道であったのです。今日我々が歩んで行く路程にも、こんな曲折があるということを、ヤコブの路程を通して悟らなければなりません。

 それではどうして天は、このような環境を提示しなければならなかったのか。人間一人を選んで立てることも勿論、神の摂理のみ旨ですが、背後のサタンを押し退ける足場を造ることが、さらに重要な摂理のみ旨なので、人間の知らない、神とサタンが知る見えざる世界の曲折の垣を、人間を通してつき崩さなければならないそんな曲折があるので、これを壊すことができる条件を立てるために、ヤコブに無理な行動を天は提示せざるを得なかったのです。これを皆さんは知らねばなりません。

 ヤコブには祝福を受けたその日から、エサウがいる故郷の地に帰ってくるときまで、喜びの一日がなかったのです。これは何を我々に見せてくださるのかといえば、神のみ旨を代身して神の祝福を受けた者がいるなら、彼は天地のまえに一つの祭物の立場でこれに判決を下す時までは、憂愁の生涯路程を経て行かざるを得ないことを、見せてくださるのです。

 このような歴史路程が残っているので、今日皆さんが神の祝福に責任を負ってゆくというとき、ヤコブのように怨讐の世界にも訪ねて行かねばならず、難しい環境と独り闘う、闘いの路程も歩まなければならないのです。

 このような闘いの路程においてヤコブが疲れて倒れたなら、彼にはイスラエルという名は与えられなかったのです。イスラエルの名を通した祝福の恩賜が、ヤコブとは関係ないのです。しかしヤコブがイサクの手を通して下された祝福を成すために、どんな苦難と難関にぶつかってもこれを克服してゆくという燃えるような心情を持って、天に対して忠誠であったので、ヤボクの岸に現れた天使との闘いに勇猛果敢に闘い、勝利の足場を築いたことを、皆さんは知らねばなりません。


 ヤコブが受けた「イスラエル」の内容

 このようにヤコブは天が許した御言を中心に、生命を失う恨があったとしても、これを失わないために凄い闘いの道を歩んだ代表的な天の精兵であることを、皆さんは知らねばなりません。

 それではこれは何を預告しているのか。我々の先祖であるアダムとエバが所望の一日を迎えるために最後まで御言を守らなければならなかったのに、彼らはそうはできなかったのです。この一つの事実を蕩減するためには、アダム以上に神の御言を死守する存在がなければならないのです。ヤコブが正にこんな人物として天のまえに呼ばれたことを、皆さんは知らねばなりません。

 こんな立場に立ったヤコブ、天の試練を受ける立場にあったヤコブは、一時も心をゆるせなかったことを、皆さんは知らねばなりません。彼は神の祝福の御言を固く信じ、闘いが終わるまでは腕が抜ける恨があっても退かないという、固い信念を持っていたのです。このように闘って勝利した後にこそ、祝福が臨んだのでした。これがイスラエル選民の勝利の基礎になったということを、皆さんが忘れてはなりません。

 それではどうしてヤコブが、こんな立場に立つようになったのか。それは人間祖先、アダムとエバが神の御言に不信して、神に背反したために彼の後孫たちは、神様が自分を捨てられる恨があったとしても、この御言を中心に最後まで神を信じなければならなかったからです。ヤコブはこんな立場で御言を中心にして最後まで信仰を守ったので、サタンのすべての讒訴条件を越えることができたのです。

 ヤボク川の岸で徹夜していたヤコブに、神を代身して天使が現れなかったなら、ヤコブはサタンの試練を受けるべき立場に立つのです。神はサタンが讒訴できないほどに信じることができ、その御言を中心に闘うことができる代表的な人物として現れるために、ヤコブに天使を送って夜通し相撲を取らせたのです。

 ヤコブは一人の人間として、天使を問題なく退けるために死ぬ恨があっても、自分に与えられたこのみ旨を成すという、心を抱いて闘ったのでした。このようなヤコブのまえにサタンはあえて讒訴の条件を示すことができず、どんな弁明もできませんでした。こんな勝利がヤボクの岸でなりましたので、天は第二試験の対象であるエサウを感動させ、ヤコブのまえに屈伏させることができたことを、皆さんは知らねばなりません。

 このようにヤコブによって立てられたイスラエルという名と、ヤコブによって立てられたイスラエルの基台は、一代だけの祝福の対象として成立したものではないのです。ヤコブを通して個人的なイスラエルが始まり、ヤコブを通して家庭的なイスラエルが始まり、民族・国家・世界的なイスラエルを形成するためのイスラエルの名であり、イスラエルの基台なのです。こんな神のみ旨があったということを、ヤコブの後孫たちは歴史路程を経ていって感じ、信じなければなりません。

 ところがヤコブの後孫たちはヤコブによって自分たちにまで及んだ祝福を、ただ自分たちのものとしてのみ信じ、行動してきたのです。それで選ばれたイスラエル民族は、今日この地上にその事跡を現すことができないでいるという事実を、皆さんはよく知らねばなりません。


 民族に対するモ-セの愛と彼が歩んだ苦難の路程

 ヤコブがハランで家庭を形成して勝利したのですが、また越えなければならない峠、即ちヤコブ家庭における、天使との闘いがあったのです。これをヤコブの後孫たちは知らなかったのです。即ちヤコブの後孫たちはエジプトに入って、四〇〇年間パロの懐で、民族的な試練を経なければならなかったのです。このときモ-セが現れ、イスラエル民族を再び収拾して、昔ヤコブから約束されたカナンの地を、回復すべき責任を背負ったいったのです。

 ヤコブ一代で造られた勝利的イスラエルの足場のような、民族的な勝利の足場をイスラエル民族は、エジプトにおいて持たなければなりませんでした。即ち、イスラエル民族はエジプトで疲れるだけ疲れて、ヤコブがヤボク川の岸で天使と闘って勝利した足場を、怨讐の国において立てなければならなかったのですが、これを立てられなかったのです。言い換えれば、イスラエル民族は団結して、民族的な天の試練と情を通過しなければならない立場に立っていたという事実を、忘れてしまったのです。

 こんな立場に立っていた民族を再び収拾するために、天はモ-セを立て、民族を代表してパロ宮中で四〇年間の準備をさせ、ミデアンの羊飼の生活四〇年の路程を経ていったのです。選民イスラエルの祖先であるヤコブが昔、ヤボク川の岸で成したその祝福を、エジプトにいるイスラエル民族が成すことができないでいるので、彼らを再収拾するために、モ-セはヤコブのような民族的な路程を歩むために、荒野に去って行ったのでした。

 ヤコブがエサウの祝福を再び受け、ハランの荒野を訪ねて行ったように、モ-セもイスラエル民族を代身して、神からの祝福を再び立てるべき責任を担ったのです。このようなモ-セが、同族同士が一つになれずに争うのを見て憤激し、また民族が異邦人のまえに屈辱を受けているのを見て、その異邦民族に対抗して命を懸けて闘っていったのでした。

 こんなモ-セの後に従って、エジプト民族に対抗しなければならないイスラエル民族がむしろモ-セを押し退ける立場に立ったので、これはちょうどヤコブが神の祝福を受け、自分の故郷を去って行ったような立場だったのです。また、ヤコブが祝福を受けなければならない家庭を去り、サタン家庭へと行ったように、モ-セも祝福されるべきイスラエル民族をエジプトに残しておいて、ミデアンの荒野生活四〇年の路程に出て行ったのです。 このようにモ-セが荒野に向かって去った事実は、モ-セ一身のみの問題ではなかったのです。

 それではどうしてモ-セは、こんな路程を歩まねばならなかったのか? これはヤコブが神の心情を代身して築いた、勝利の足場がなかったからです。そしてこの足場を民族的に再び築かなければならない責任感を、誰よりも切実に感じるモ-セだったのです。

 怨讐の懐で苦役をなめるイスラエル民族のために、誰よりも懇切に祈祷したモ-セ、一日一時であろうと苦役の路程にあるイスラエル民族を、忘れることはなかったモ-セの心情を、皆さんは骨に徹して感じなければなりません。

 羊飼として、荒野で寂しい生活をする自身の事情が惨めであっても、自分の惨めさを忘れ、エジプトの地で怨讐にいじめられて苦労しているイスラエル民族を見やり、同情の涙を流したモ-セであることを、皆さんが知らねばなりません。こんなモ-セの寂しい事情と心情が天に染みて、モ-セが天のために案じ、選民のための代表的な兄として現れたので、神はモ-セを再び呼んでパロの宮中へと送られたのです。

 これはちょうどヤコブがエサウを恐れて、二一年の間ラバンの家で苦労した後、自分のすべての所有物を持って、エサウがいる所に訪ねていった路程と同じことなのです。このようにモ-セも、ヤコブと同じ難しい路程を歩んで行ったことを皆さんは知らねばなりません。

 こうして三大奇跡を見せられ、御言を代身するアロンとミリアムを立て、天が行けといわれるパロ宮中を目ざして行ったのです。

 ところで、ここにまたどんな事が起こったでしょうか? モ-セの行く道は神が後押しする立場ではなく、眠っているモ-セを殺そうとされる事が起こったのです。これもやはり、ヤコブが歩んだ行ったことと同じ路程だったのです。ヤコブがヤボク川の岸で天使と相撲を取っている時、腰骨が外れるのも知らないで闘ったその事情を通さなければならないモ-セの立場であったので、モ-セも今、神のまえにそれと同じ立場に立たされたのです。モ-セはこんな試みを無難に越えた後に、選ばれたイスラエル民族に再び会い、神と民族を代身して、民族的なイスラエルの祭壇を積むようになったことを、皆さんは知らねばなりません。


 モ-セに対するイスラエル民族の責任

 今ここに我々が知るべきことが何でしょうか? 我々の先祖たちのヤコブとモ-セだけがこんな路程を歩み、こんな責任を背負うのかといえば、そうではないのです。ヤコブだけがこんな責任を担うのではなく、ヤコブ家庭のすべての食口たちもヤコブ以上に切ない心情をもって天のまえに訴え、責任を担う立場にあったのです。ところがヤコブに従っていったその食口たちは、この事実を知らなかったのです。これが正に天の悲しみだったのです。事実、ヤコブよりも食口たちが、より切実でなければなりませんでした。

 イスラエル民族を訪ねていったモ-セ、神がミデアンの荒野で、天地が変わってもわたしの約束は変わることがない、と言われた御言を信じていったモ-セは、固い覚悟と決心をもってイスラエル民族のまえに再び現れたのでした。

 こんな立場にあったモ-セには神の試みだけがあったのではなく、ヤコブがエサウから受けた反対のような、パロ宮中の反対があったのです。皆さんが原理を学んでよく知っているでしょうが、ヤコブが十回だまされた事を蕩減する十災禍をエジプトに下して、パロを屈伏させて、イスラエル民族は第二次の民族的な祭壇を造成したという事実を、皆さんは再び回顧して見なければなりません。

 それでは神様に哀しみがあるなら、それが何であったのでしょうか? それは怨讐によってもたらされた哀しみではありませんでした。また、神に悲しみがあったとしたら、それは怨讐たちが悪であるゆえに感じる悲しみではなく、神の苦労の道に従ってきたイスラエル民族の祭壇が崩れることが、神の悲しみであり、人類の悲しみであることを知らねばなりません。

 六〇万大衆を率いてカナンの地に入らなければならないモ-セには、また他の試練が横たわっていたのです。これが正に紅海の路程と、荒野路程でした。これは何を意味するのかといえば、モ-セが個人的に歩んだ試練の荒野路程を、民族的に経るということを意味しているのです。こんな運命へとイスラエル民族を押し出していったことを、皆さんは知らねばなりません。

 荒野でイスラエル民族は、モ-セが手を挙げれば自分たちも手を挙げ、モ-セが行けば彼らも行かなければなりませんでした。即ち、六〇万大衆が全部第二のモ-セになって、モ-セと神を代身しなければならなかったのに、彼らはこれを忘れたのです。言い換えれば、神がパロの宮中から導き出された時は感謝して、我々を愛される神であると知り、鉄石のような約束によって、自分たちをカナンの地まで導いてくれると思っていたイスラエル民族であったのです。

 それではこの民族が、どうして荒野で倒れてしまったのか? 四〇年の間、荒野において放浪の生活をして、牧者の生活をしながらも、神が愛する選民のために気概をもって闘った、モ-セの心を持っていなかったからなのです。イスラエル民族がその心を少しでも持っていたら、荒野で倒れはしなかったのです。

 民族をおいて、民族的なイスラエルの祝福を立てようとされた神の願いは、民族を代表するモ-セと、その民族が一つになるところにあるのですが、二つに分かれたので民族を代表するモ-セもやられ、民族を代表するモ-セがやられるにつれて、イスラエル民族も壊れたことを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは荒野に出ていって、腹がへった時にはウズラを食べさせ、マナを降らせてくださった神様が、どうしてアマレク族を通してイスラエル民族を攻撃する事が起ったのでしょうか。これは天倫のみ旨に反逆した人間であったので、人間が天倫のみ旨を捜し求めようとするときには、神も反対の立場で打つべき摂理的な条件が残っているので、アマレク族を通してイスラエル民族を攻撃せざるを得なかったのです。こんな天の切ない心情があったこをを、皆さんは知らねばなりません。

 この試験を通過できなかったので、死んではならないモ-セが死に、死んではならない民族も滅んでしまったことを、皆さんは知らねばなりません。この時モ-セには民族に対する指導者としての責任があるので、モ-セ自身に過ちがなくても、不信する民族を代表してシナイ山に登り、食べず着ないで倒れようとするイスラエルを求めて四〇日の間、贖罪の祭壇を積んだのでした。

 もしもイスラエル民族に選民の資格があったなら、モ-セがシナイ山に登って切なくやるせない時、その山を取り囲んで六〇万大衆が、寝食を忘れて天に向かい「神よ、我々の指導者モ-セを下ろしてください」という祈祷に力をこめたのです。しかしそんな人間は一人もいなかったのです。

 モ-セが飢えて祈祷しなければならない事情は、自分一身のためにではなく、民族のためであったにもかかわらず、民族は夢にも思わなかったので滅びる他はなかったのです。モ-セは、ヤコブがヤボク川の岸で祈祷したように、難しい峠にあったのですが、モ-セを代身してイスラエル六〇万大衆を指導する人間がいなかったのです。もしもこんな人間が一人でも出て民族を率いたら、彼らは困難な立場におかれることはなかったのであり、平安な場にいたのです。そうではなかったので、サタンが民族を籠絡していったのです。このような歴史路程を、我々の先祖たちは歩んだのでした。

 試験と試練の意味

 こうして再びモ-セを代身する指導者、ヨシュアとカレブを立て、二世たちを率いてカナンの地に入ったのでした。イスラエル民族はカナンの地に入ったなら聖殿理念を実現して、聖殿と一つにならねばなりませんでした。ところがこのような立場に立てなかったので、イスラエル民族は倒れてしまったのです。このように御言を中心として一つになれない民族は、時が来る前に必ず神から見捨てられるのです。

 アダムとエバが全被造万物の主人公になれなかったので、この被造万物は御言を中心に六段階期間を通して創造されたので、万物復帰の民族的な峠を越えて、世界的な峠を越える時にも必ず六数の過程を歩んで、神の御言を立てるか立てないかという試験、即ち天使長の代身、アダムを攻撃する事が起こるのです。

 それでイエス降臨六世紀前に、イスラエル民族は旧約の御言をよく守るか、守らないかという試験を受けたのです。即ち、天はイスラエル民族がみ旨を世界的に伝播しなければならない時に至るや、民族を打ったのです。これがイスラエル民族が、バビロンに捕囚になる期間なのです。それで過去に神に背反したこの民族が、再び御言に背反するか、背反しないかという重大なる岐路に立ったのでした。

 天に背反した民族ですから、天を代身してこの民族が新しい六数の出発の峠を越えるときには、サタンの攻撃と打撃を許さざるを得なかったのです。それでバビロンをしてイスラエル民族を占領させる時があったのです。

 この時、イスラエル民族はどのようにしなければならなかったのか? 神がくだされた御言を抱え、モ-セが荒野をさまよっても神の為に、民族を愛したその心情を抱き、怨讐の国であるバビロンに行って最後まで闘って、この御言を死守しなければなりませんでした。このような民族になるべきなのに、そうはならなかったイスラエル民族は壊れてしまったのです。

 旧約聖書を中心に、第二次民族的な御言の基準を復帰しなければならない歴史的な路程に立つイスラエル民族が、神の選民である気概を抱いていったなら、たとえバビロンに捕囚になったとしても、モ-セのような新しい指導者が出て、彼らを率いて行ったのです。 ところが六世紀が過ぎた後に、どんな形態が起こったでしょうか? 意味があってヤコブがエサウの直系を無視し、モ-セが選ばれたイスラエル民族を無視したように、イエスが地上に来られ、意味あってエサウの立場にあったイスラエル民族、エサウ的な御言である旧約を無視していかれるとき、歓迎しなければならなエサウの立場にあったイスラエル民族が、イエスを歓迎しなかったので、世界的な死亡圏を形成してしまったことを、皆さんが知らねばなりません。

 それではこのイスラエル民族はどんな型なのか。エデンの園でアダムとエバを試みた、天使長型と似ているのです。そして今から五〇〇年前には、新約聖書を打つということがありました。即ち、人本主義思想を中心とする文芸復興によって、今日のキリスト教を中心とする封建社会が、根本的に崩壊してしまったのです。

 法王庁の主権が壊され、フランスの攻撃によってアビニヨンの捕虜期間を経なければならない運命があったのですが、これは何でしょうか? 復帰路程において、こんなイスラエル民族を代身する第二イスラエル民族が、イエス当時に形成されねばならないのに、第二イスラエル民族を代身した新しい使命を背負うキリスト教が、使命を果たさなかったので、キリスト教を世界的に打つことがあったのです。これは皆さんは原理を通して、よく知っています。

 ここにおいて、法王は天のまえに悔い改めなければならず、神が立てた気概の心を抱いて、終わりの日までこのようなみ旨を継承して、今日に至らなければなりません。それでは終わりの日に至って、どのようにしなければならないのか。その時に残る既成の御言と既成の教団は、エサウの立場であり、イスラエル民族の立場に立っているということを、彼らが知らねばならないのです。


 キリスト教信者に対する神の願い

 ですから神に願いがあるなら、その願いが何でしょうか。堕落することによって失ったこの世界人類を、代身して求めた選民イスラエルを復帰することが、神の願いであることを、皆さんは知らねばなりません。イスラエル民族を復帰されようとする天の摂理のみ旨を、皆さんは知らねばなりません。

 ヤコブを通して、モ-セを通して立てられたイスラエル民族は、二〇〇〇年前にどこへ行ったのか。イスラエル民族とユダヤの国を世界復帰の足場として立て、この足場を中心にして世界的な復帰の電撃戦をやらなければならないイエス・キリストの路程であったのですが、イエスが逝かれることによってイエス様はモ-セのような事情になってしまい、それで今日になるまでキリスト教は荒野時代にあるのです。主人を失ったイスラエル民族と同じように、荒野路程に留まっているということを、皆さんは知らねばなりません。

 それではイエス様は地上に来られて、第二イスラエルを回復して、ヤダヤ民族はイエスを中心に世界的なカナンの地を復帰しなければならないのですが、このような責任を背負ってイエスのまえに立つ、選ばれたイスラエル民族はどこに行ったのか。またユダヤ教はどこに行ったのか。イスラエル民族がなくなり、ユダヤ教団がなくなり、イスラエルの家庭がなくなり、ヤコブやモ-セのような個人的なイスラエルもなくなることによって、哀れなイエスになって死んで逝かれたのです。

 死にたくて死んだのではありません。今日、既成神学者たちは、死ななければならなかったと、誤って認識しているのです。民族と教団のまえに追われ、家庭から追われ十二弟子から背反され、最後には三弟子からまで背反されたので、行くところは死の他になかったのです。

 イエス様が三〇余年の生涯を哀れに死んだことは、神がイエスを送られた目的ではありません。イエス様は神の皇太子であり、独り創造理念を代身することができる天上天下の主人公として送られたのであって、神が愛される独り子イエスが地上に来て苦難を受けたのは、イエスが誤ってそのようになったのではないのです。民族と教団が知らずにそうなったのであり、社会と家庭が知らずに苦難の道を行ったのでした。

 このように、イエスを殺す歴史的な犯罪を犯した我々に、イエスが求めたイスラエルはどこにいるのか! 心から訴えてみなければなりません。またイエスが求めたイスラエル教団はどこにいるのか! 心から祈祷してみなければなりません。イエス様は二〇〇〇年前にこの地上に来られ、イスラエル民族と教団を捜し求めたことを、皆さんが知らねばなりません。

 イエスはこの地上に来られ、選ばれたイスラエルが反対することによって逝かれたのです。それで自身を信じるキリスト教徒を、失われた第一イスラエルを代身する第二イスラエルとして立て、世界に広げてもう一度再収拾されておかれるのです。今が正に、そんな時なのです。

 それで今日世界に広がってイエスを信ずるキリスト教信者たちには、どんな使命があるのか。イエスに背反して十字架で殺すことによって、最初に選ばれたイスラエルを失ったので、これを代身する第二イスラエルを建設すべき路程が、今日のキリスト教徒に残っているのです。

 今日世界に広がっているキリスト教徒たちは、どんな立場に処しているのかといえば、イエスの十二弟子のような人物を中心として、またはイエスの三弟子のような人物を中心として、一つの教派に団結しなければならないのに、こんな条件を失っているキリスト教ですから大変なのです。モ-セのまえに六〇万大衆は、十二支派長と七〇長老を中心にした班形態の組織内において、各々の位置が定まることによって荒野路程を経ていったのですが、今日第二イスラエルにならねばならない使命を背負う世界のキリスト教徒たちは、班列がないでしょう。

 イエスのまえに十二班列を代身して現れた十二使徒と、三弟子が責任を果たさないでイエスが逝かれることによって、全世界キリスト教は世界の代表的な教派を中心に、十二教派の形態をもって結束しなければならない時期が訪れていることを知らねばなりません。 イエスは今、どんな生活をされているのでしょうか? イエス様が天のみ旨をこの地上に成せなかったことにより、ヤコブとモ-セが牧者生活をしたように、今イエスもあの世にいって牧者生活をしているのです。霊界にいって休むことなく、皆さんのために祈祷されているので、これが牧者生活です。

 ですから何をされたのでしょうか。イエス様は今までの二〇〇〇年の歴史路程で、イエスを信じていった人々、即ちイスラエルになることができる人々を集めて、霊界において失った第二イスラエル型を造っておくことが楽園なのです。イエスを殺した第一イスラエルを失うことによって、蕩減復帰原則によってイエスのまえに捜し求めてきた使徒たちを集め、イエスが復活した後に霊的に第一イスラエルを復帰した型が、今日の楽園世界なのです。


 地上天国の主人公の資格

 楽園世界はどのようになっているのか? 楽園世界に行った霊人たちも、第一イスラエルの祝福を受けてイエスを歓迎する足場を地上に立てるべき条件があるので、天上のすべての霊人たちは地上に再臨して、現在生きているクリスチャンたちを第二イスラエルの祝福を代身する立場に立てて、彼らと一つになって、第一イスラエルがイエスに反対したことを蕩減復帰するために活動しなければならない運命にあるのです。これを皆さんは知らねばなりません。ところが今日のキリスト教徒は、これを知らないのです。

 今日終わりの日は、いかなる時でしょうか? 旧約の御言を信じていたユダヤ民族を、異邦民族が打ったように、新約の御言を信じているキリスト教徒を打つ時があるのです。それで人本主義思想を中心に、唯物思想がキリスト教を打っているのです。このように新約の御言を信じるキリスト教が打たれている中で、御言を抱えて出る一つの教派が現れねばならないのですが、この教派は改革教派なのです。

 ところでモ-セ路程において、幕屋を祭る時代が過ぎ、聖殿を祭るべき時に民族が結束して闘うべき試練が残っていたことを、ユダヤ民族は知らなかったのです。そして聖殿を祭る時代から、実体聖殿を完成しなければならない時代に変わる時も、宇宙的な闘いがなければならないのです。この闘いを防ぐことはできないので、今日この闘いが世界的に起こったのです。

 終わりの日においても同じように皆さんは今、実体聖殿を持たねばならないのです。そして実体聖殿を成した次には、何をすべきか。地上天国を建設しなければなりません。

 人間は堕落することによって、御言を失いました。それで新・旧約御言がでて、人間を善なる方向へと導き、今新しい御言がでて、その御言と一つになる人々を実体的に復帰させるのです。封建主義時代は、神のみを主とする時代でした。ところが宗教改革が起こって、この宗教改革によって神のみを主とするのではなく、人間と結合している神として考えたのです。人間がこのような過程を経ていったのですが、今実体聖殿を復帰する時代に入ったのです。

 それではここにおいて、皆さんはどうすべきかといえば、新約を中心とするこの時に、これから世界的に成約の理念が現れる時、皆さんが世界を抱くことができる主人公にならねばならず、イエスの代身存在にならねばなりません。地上天国の主人公になるには、実体聖殿が成った後に、環境的な主人公にならねばなりません。こんな存在になるには、理念的な革命過程を越えなければならないのです。

 それではこの過程は、どのような型によって成されるのか。歴史は蒔かれた通り、または植えられた通りに刈り入れるのであり、今日世界的な終末時代においても、既成観念に属している信仰者たちと、既成主義の御言を持つ者たちは全部、天を背反する立場に立つのです。彼らが誰かといえば、天使長のような立場にある者たちなのです。エデンの園で天使長がアダムとエバを誘惑したように、終わりの日の時代において、天使長のような霊的な教団が現れ、神のみ旨に対して反対する時が不可避なように現れるのです。

 神様はこのような原則を通して、復帰摂理をされるということを感じるとき、終わりの日に面している我々は、どうすれば選民であるイスラエル民族になることができるのか。覚悟をしなければなりません。皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? 皆さんはヤコブの後継者にならねばなりません。二〇余年の人生を経て、ヤボク川の岸で闘ったヤコブの代身者にならねばならず、荒野路程においてイスラエル民族を抱えて哀願して歩んで行ったモ-セを、あるいは世界人類を代表するイスラエルの国に対して、ゲッセマネの園で祈祷したイエスを、代身することができる人間にならなければなりません。

 末世におかれたキリスト教徒の立場

 それでは今、世界に広がっている第二イスラエルよ! おまえの行くところがどこか?世界に広がっているキリスト教徒は、天のまえに訴えなければならない時がきました。イスラエル民族が塗炭の苦しみの中でエジプトのパロ宮中を憎み、我々の約束の地カナンの福地へと誰が導いてくれるのかと、指導者を捜し求めてさまよったように、今日のキリスト教徒も自分が処すべき班列と種族がどこであるかを、捜し求めなければなりません。

 ですから既成教会はこわれます。そのようになってこそ、十二班列に分けることができるからです。どうにでもしてみなさい。班列を構成して世界的な復帰の運命を経なければならない立場にあるのですから、国家の運勢を動かすキリスト教であっても、社会と家庭そして個人において、威信を失ってしまう時がくるのです。

 イスラエル民族がエジプトにいる時、班列編成をしなかったのですが、荒野に出発しなければならない時には班列編成をしたように、世界的なキリスト教も、世界的なカナン復帰のための再臨理想が近づいてきたので、班列編成を開始しなければならない時が来ました。

 過ぎし日イエスが地において、ペテロ・ヨハネ・ヤコブを中心に十二弟子を通して班列を編成して、信仰者は誰でもこの支派に属するようにして逝かれたなら、今日世界のキリスト教は混乱を起こさなかったのです。これを再び収拾しなければならない時が来ているのです。ところで最もどん底で排斥されている一つの集まりを立て、証しする時が来ているかも知れないのです。統一教会が正に、こんな教会であるかも知れませんよ。

 それで今日、韓国のキリスト教において神霊役事をする人間、ナ長老やパク長老という新しい教派が現れました。このような派が今、教会を壊しています。班列を組織しなければならないのに、こんな役事が起こっているのです。ここに今、問題点として残ることが何でしょうか? 既成主義的な観念です。これは神のまえに怨讐です。既成主義的な観念即ち自分はエサウのように長男であるから、神の祝福を受けなければならないという、こんな下らない思想を、捨てなければなりません。ひょっとして誤ってエサウの観念に立って、イエスを殺したユダヤの民になりやすいのです。

 これを越えなければならない歴史の終局に至っているので、今この関門をどのように越えるのか。この時におきまして、誰が怨讐なのか。エデンの園でアダムに最も近かった天使長が怨讐になったように、アダムを復帰するための、第二アダムとして来られたイエスのまえに、霊界の天使長型に該当していた当時のユダヤ教の祭司長が、最も怨讐であったのです。彼らは天使長型を第二次として受け継いで、イエスを攻撃したので地獄に行かなければなりません。

 今日終わりの日にもやはり、世界に広がっている教職者たちが再臨される主のまえに天使長になって、天の名において天を打つ、こんな型が起こるのです。しかしこんな立場に立っても環境に影響されることなく、歴史的な運勢は越えてゆくのです。こんな道を誰が歩むのか。このような祭壇の前に新しい御言と、新しい終末を告げる一つの先知者的な使命者たちが出なければなりません。しかし彼らは既成教団のまえに排斥されなければならないのであり、それで新しい段階に越えて行くのです。

 それでは同時に、どんな時代が来るのか? 霊的な世界の攻撃時代が来るのです。天使長がヤボク川の岸でヤコブを苦しめ、またモ-セを攻撃したように、世界的な終末時代におきましても、この地上のすべての人々が反対すると同時に、天までも攻撃する時代が来るのです。


 サタンの讒訴を逃れることができる信仰

 イエス様が亡くなるその時「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七:四六)と言われたことは、満宇宙復帰の主人公を代身して現れたイエスであるので、宇宙を代表したアダムが天に背反したことを、蕩減しなければならなかったからです。このようなイエス様はご自分を知らないというときも「知らない」という神を「知った」されたので、その「知った」という条件が霊的復活を起こさせたのです。皆さん自体にもこのような、歴史的な峠が残っていることを知らねばなりません。
 世界的な終末の運勢が、今日皆さんの生活圏内に染みいっていることを、皆さんが感じたならこれが皆さんに、モ-セと民族が結束しなければならなかったその時を預告しているのであり、モ-セがパロと闘ったその時代を預告していることを知らねばなりません。それでは神の悲しみは、どこからもたらされたのか? その指導者たちが誤ったために神が悲しむのではなく、後に従う人々が駄目なために神を悲しませているということを、皆さんが知らねばなりません。

 今日皆さんは人が知らなこ、人が行かなこを歩んでいる目的が、何でしょうか?

 皆さんは力を合わせて団結して、神の運行される一つの班列となり、食べても飢えても個体を失っても、天倫のみ旨に対して身悶えたモ-セの足跡を死守する後継者になり、イエスが行った足跡に従う後継者として、使命を完遂しなければなりません。これが終わりの日の聖徒たちが、選ばれたイスラエル圏に入ることができる条件です。

 天を代身したイエスはこんな原則を知っていたので、生きんとする者は死に、死なんとする者は生きる、といわれたのです。即ちサタンを屈伏させるには、神を中心とする死の場であっても越えなければなりません。天が人間を排斥されてもこれに動揺しないで、引き続いて天を信じていってこそ、サタンが離れ、サタンのすべての讒訴条件を逃れるのです。

 それでは今、天は失われた第一イスラエル型を霊的に立て、世界に広がる世界の教徒を第二イスラエルとして立てて、彼らを合わせて一つにした場において、第三イスラエルの建設をされるということを、知らねばなりません。

 それゆえ皆さんは、アブラハムのような第三イスラエルの祖先、ヤコブの代身第三イスラエルの祖先、民族の代表者であるモ-セのような第三イスラエルの代表者、世界の代表者であるイエスのような、第三イスラエルの代表者にならなければなりません。また皆さん自身は神の復帰摂理歴史過程を振り返って見て、過ぎし日に父なる神に対して讒訴したサタンを踏み越えて、神を慰めることができる個人、民族、国家、世界になるということを、知らねばなりません。

 それでは、サタンとは何か? 神に背反した逆族です。ところでサタンも、神が悪くないというのです。それで神がサタンに対し、与えざるを得ないのです。サタンも神を好きなのです。こんな条件があるので、六〇〇〇年間の長い歳月を経なければならなかったのです。ではサタンも神を好きだという立場で「アダムを通して満宇宙を主管すべきこのようなみ旨を、わたしを立てて主管するようにしてください。であれば神のまえに絶対服従いたします」このようにいうのです。

 サタンは神に対抗していって、神のまえに肯定せしめるための役事をしているのです。摂理のみ旨に最後まで反対して、肯定させるための立場に立つのです。

 忠臣のふりをする奸臣たちも、王を嫌う法はありません。ところが忠臣を取り除いて、自分の言うことを聞けというのです。

 このような立場に立つサタンの圏内に全世界が入っているので、これ一つだけ認定すれば、世界が神に帰ってくることができるのです。ところが、なぜしないのか? 天理法度を破ることができないからです。神は法度の神であれば、秩序を壊すことができないのです。ですからあらゆる苦労をされても、世界を主管するサタンを肯定することなく、世界を主管するサタンのまえに人間を立てて、讒訴するサタンを阻むのです。これが神の切ない心情であるのです。

 もしもサタンの讒訴を阻む人間が現れたなら、神に対してとやかく言わせないのです。天理原則が回復されるので、エデンの園で天使長がアダムとエバの主管を受けなければならない原則を持ちだす主人がいれば、サタンが根本的に屈伏しなければならないのです。それもイエス様のように霊界で、神の玉座に行くことではなく、地上においてこのような一日を立てなければなりません。こんな一日を立てる時が、再臨時代なのです。

 皆さんは今、反対するサタンの立場に立ってはならず、六〇〇〇年苦労された神の足跡に従って行かねばなりません。今日終わりの日の皆さんは、神の無限の世界の初めての出発であるアダムとエバから今日に至るまでの、復帰過程において苦労された神の心情を体恤して、神の後に付いて行かなければなりません。このような運命におかれているにもかかわらず、夢にも見ないでいるのですから大変です。


 サタンの試験に勝利する道

 「神よ! 私を通して栄光を受けてお休みください」とすることのできる天の国の選ばれたイスラエルがなければなりません。このような使命を代身したヤコブであり、モ-セであり、イエスであったのです。神がサタンと闘う闘いを代身して受け継ぎ、サタンに対抗して闘うことができる一つの姿になってこそ、ここから決定的なイスラエルの主権が天のまえに立てられるのです。こうして今まで神を讒訴していても、戦争の目的を終結させておかなければならないのです。いかなる抗議もできないので、戦争は終わるのです。こんな人々を中心にしていって、第三イスラエル建設のために出発すべき時が来なければならないのです。

 モ-セ時代のエジプトの地のイスラエル民族は、自分たちの故郷であるカナンの福地を攻撃する戦いが残っていたのであり、イエス時代にはイスラエル民族を中心に、世界的なカナンの福地を建設する戦いが残っていたのであり、今日第三イスラエルを建設しなければならない我々においては、団結して第三イスラエルを成就するための激戦が残ったのです。

 それでは今日皆さんは、どんな人間にならねばならないのか? イスラエル民族を再編成してゆくとき、天に対して神のまえに立てられたイスラエルの選民として自ら進んで、三人組の一員になり、小隊長になり、中隊、大隊、連隊、師団長にならねばなりません。こんな天の精兵の指揮官に、誰がなるかということが問題です。これをやらねばならない時が必ず来ます。歴史的な終末にはすべてのものが、一つの世界に統一されるのです。多くの人々が思想統一を要求しており、地上世界が統一理念を要求しているので、必ず天の理念を通す、統一の時が来るのです。

 今までの歴史過程ではどのようになったかといえば、二つが戦えばその中で少しは善なるものが勝ったのです。これが原則です。地上世界が一つの理念圏内に入ってくれば、どのようになるでしょうか? 地上よりも少し善なるものが勝つのです。これが霊界の地上攻撃時代です。ですから今日、名を神経症などという神経系統の病気が、多く発生するのです。薬では駄目です。これは天地サンファ湯(疲労回復の煎じ薬)を飲まなければなりません。

 天を和動させ、地を和動させることができる、そんな理念のために霊界が地上を襲撃する時が来たのです。地上人が地において神のみ旨を代身する時ですから、一つになるためには必ず戦いがあるのです。二つが戦った後に一つになるその世界が、天を中心にして合わさる正に審判の時なのです。このように霊界が地上を襲撃するこんな場面で、地上を代表する総指揮官の使命を持ってくるお方が、再臨主であるのです。

 第三イスラエル建設路程の出発に立つ皆さん! 皆さんはどうしなければならないか?霊界の法度を知ってこそ、逃れることができるのです。この命令系統がどのようになっているかを、知らなければなりません。その国の軍隊は、自分の側の軍隊が使っている暗号を知れば、戦争する時に自分の側から攻撃されることはありません。

 この時は天の国の暗号が聞かれる時代です。今は暗号通信時代です。摂理的な暗号、歴史的な暗号、時代的な暗号、また人間的な暗号、使命的な暗号の通信時代なので、このような暗号を通して連絡でき、作戦計画を遂行をして、地上統一の理念を代身することができる時代なのです。

 今日、既成教会で反対するパク長老やら、ナ長老やら、統一教会やら、あるいはいわゆる異端やらいうこと、よろしいです。現代は科学も天宙時代を論議するそんな時代です。このような時代に至ったのに、未だに古臭い宗教観念を持っていては駄目です。これを踏み越えて上がる、一つの包括的な統一主義が出てこそ成るのです。

 今日暗号に通じることができる短波装置があるように、神の秘密に通じる短波装置の所有者があるなら、彼は勝利するのです。ですから霊界が地上を襲撃して来る時は、戦争方法が変わるのです。起きることは起きるのですが、限界を知りません。このような様相の戦いが地上に起こるのですが、この時に良心ある人々は、ここに動員されてくるのです。


 第三イスラエルの先祖になる道

 今皆さんは終わりの日のこの一日に備え、良心的な善なる人々を犠牲にして、今日まで歴史が流れて来たことを知らねばなりません。今日、堕落の運命におかれている我々は、最後の帰一的な理念世界を捜し求め、すべてのものを失って犠牲にならねばなりません。そしてイエスの肩にのっかって「神様、私に任せてください」と自信をもって言うことのできる天の息子・娘にならねばなりません。神もこんな息子・娘が現れることを願っているのです。

 皆さんは楽園世界のすべてのものを解怨して、天国生活を教えてあげるべき使命がイエス、あるいは神にあるのではなく、今日終わりの日の皆さんにあるということを、肝に銘じてください。イエス様の代身、すべての作戦計画を任され、神の代身、闘ってゆく代表者が出て、責任を完遂してこそ神を解放してあげられるということを、知らねばなりません。このような宇宙的な使命を前にして、皆さんは勝利的なイスラエルの路程を捜し求めて行かねばなりません。

 そのためには皆さんが、自分が属している班列を捜し、自分の指導者を捜さなければなりません。また自分が留まっている位置が、天のまえにどんな位置かということを知り、変わらぬモ-セ、アブラハム、ヤコブ、イエスの代身存在にならねばなりません。それでサタンに対して号令してゆくときも「君、このときは宇宙の創造理念を代身して神のまえに栄光をお返しする資格者である神の息子・娘だなあ」という賞賛と共に、サタンから敬礼をされる一人の存在になってこそ、地上天国の園で世界的な聖殿理念を代身して、神のまえに立つことができるのです。

 そのようになる前に、皆さんは一大激戦にぶつかるのです。皆さんを各教派が攻撃するのです。皆さんを霊的に試験もします。モ-セを神が打ったように、皆さん自身にもこのような路程があり、モ-セを民族が背反したように、皆さんのまえにもこのような路程があるのです。イエスが十字架上で天から捨てらたように、皆さんのまえにもそんな事があるのであり、イエスが民族から背反されたように、皆さんのまえにもこのような路程があるということを知り、皆さんはここで落胆してはなりません。

 神のみ旨というものは優しいみ旨ではなく、極めて難しいものです。それで皆さんは世界的な艱難を背負い、極めて凄まじい反対を受けても闘いの路程で倒れてはなりません。世界と天地の、一つの帰一点を発見するときまで、皆さんは闘争し続けなければなりません。

 この過程において皆さんは、イスラエル民族がエジプトを離れて荒野に出て、食べる物がない、飲む水がないと恨嘆したように、恨嘆しないでください。誰が知ってくれないと恨まないでください。自分を知ってくれるモ-セのような指導者が、一人だけいてくれたら最高と考えてください。自分を知ってくれる神だけを抱えてこれが最高と信じて、すべてが排斥したとしても、このお方だけを抱えて行けば、このお方がなさることを自分が受け継ぐことができる、という心を持たねばなりません。こうしてこそ皆さんは、第三イスラエルの選民たる資格を得て、神の栄光に参与することができるのです。

 こうして神の栄光の姿となることができると同時に、歴史的な栄光の姿、全天宙の理念を代身する栄光の姿になるのです。即ち我々が栄光の息子・娘として世界を代表し、天のまえに現れてこそ、初めて神が休まれるのです。

 ヤコブに天使が祝福したそんな祝福ではなく、神が直接イエスに手を差しのべて祝福された、その祝福を下さるのです。即ち、終わりの日に訪ねてきた皆さんに神は手をのべ、イエスを代身するわが息子・娘、永遠の第三イスラエルの主人公としての、わが息子・娘になれと祝福されるのであり、永遠に天が喜ぶことができる実体的な、喜びと栄光と美の存在になれと、初めて祝福されるのです。

 このようにイエスの愛を通して、神の愛の圏内に入り、神の愛を成してこそ第三イスラエルの祖先になるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2021.03.03 00:32:11
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