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2021.03.14
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​天国を捜して成そうとする悲しい父と息子・娘​

一九五九年五月一七日(日)前本部教会


 皆さんに暫くの間、お話する題目は’天国を捜てし成そうとする悲しい父と息子・娘’です。こんな題目で、暫くの間お話します。


​ 人間が善なる目的を追求する理由​

 人間始祖が失楽園の悲しみを体恤したその日から、今まですべての人間たちには心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあるようになり、その悲しみは全世界と天まで連なっているという事実を、皆さんは知っています。

 一つの目的を追求すべき我々人間が、二つの目的に対している立場に立つことによって一人の主人公に対すべき人間が、神の他にサタンに対している立場に立つようになったのです。ですから堕落した我々人間は、二つの目的の世界に対している立場に立っているということを、生活を通して体恤するのであり、これは誰もが否定することができない現実なのです。

 人間を創造された神のみ旨から見れば、人間は一人の主人公を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在なのですが、堕落したその日から二人の主人に対し、二つの目的の理念を望み見る人間になってしまったのです。

 このようになることによって、善悪は自分一個体の環境圏のみならず、全世界にまで因縁をもつということを、皆さんは知っています。さらには地のみならず、天にまでこんな因縁が及んでいるという事実を、我々は知っています。

 今我々は目的の世界に向かって 行かざるを得ない運命におかれているのであり、その何かは分からないが、自分の良心がある方向性を指向して、自分を催促しているということを、拒否しようにも拒否できないのです。ですから今日我々人間は、現実的な社会の矛盾に対するとき、世界の複雑なる実情を超越する新しい理念の世界を、心から追求せざるを得ないのです。

 それでは自分をしてこのような心情を感じさせ、自分自身も知らないある感触を通して自分の心を、そんな一つの方向へと率いている動機は、どこから始まっているのでしょうか? それは一つの目的と、一つの理念を持つ、一人の主人から始まっているのです。そうしてこのかたは、一つの理念を持って、一つの目的を指向してゆく人間と、一つの世界を再創建するために、皆さんの生活環境に干渉して率いているということを知ってこそなのです。

 今日人間は、新しい文化世界を創建していっています。のみならず、この文化世界を創建していって、この文化に通じることができる心の世界の理念まで指向しているのです。これを拒否できない立場に立っている自身であることを知るなら、皆さんは平安なる一日を持つことができないのです。

 なぜならば、我々の祖先が失楽園の恨を抱いたその日から、その悲しみの感情は我々にまで連結されているからなのです。こんなどえらい事実は、歴史的にも実証されている事実なのです。我々の心情を通して、生活的に体恤するこの事実を、どうして拒否することができるでしょうか? このような事をおいて深刻に考え、み旨を抱く人間がいるとしたなら、彼はこの恨となる悲しい曲折の因縁を解くために、天地に向かって両手を広げ、訴え喘ぐ立場を免れようにも、免れることができないのです。

 それゆえ皆さんは、今日の我々がこのような姿になるために、どのような目的と理念を持って、どのような中心に向かって生活する開拓者の立場に立つかということを、再びふり返って考えるべき時がきたことを、知らねばなりません。天はこのような時代を創るために、このようなみ旨を立てるために、歴史路程を経えきて良心を基盤にして、善を指向し、善の理念を捜し求めてゆく摂理を、我々の先祖たちを抱えてされてきたことを、知らねばなりません。

 従って皆さんの心情が善を指向させるために、ある衝撃を感じる瞬間があるならば、その瞬間は崇高な瞬間なのです。崇高な瞬間ですよ。歴代の我々の先祖たちが皆さんを立てて、全人類が願う善なる目的の方向へと行くように、催促している瞬間なのです。さらには天が、自身を立てようとされる瞬間であることに、間違いないのです。


 人間の心情が善を指向するように衝撃を感じる瞬間は

 ですから真の理念、真の心情のみ旨に向かって良心が動く人間がいるとして、彼はこれをどのように収拾して、自身の心の中心として、体の中心として、生活の中心として、理念の中心として、あるいは目的の中心として立てるために喘いでいるかということを、反省してみなくてはならないのです。

 このような境地から人間がそれ自体を批判し、自身を中心に因縁のある世界を批判し、さらにはこれらのすべてのものが、見えざる無形の創造主と因縁を持つということを案じる心情を抱いて喘ぐとしたら、我々人間の心情に結ばれた恨の峠は、きっと歴史路程のある一時に消え去るのです。天がこのような問題を解決できないなら、天としての責任を果たさないのです。

 それゆえ天は、このような事をある一時に、ある一人の人間、ある一つの集まり、ある一つの国家に預告させ、摂理されてこられないはずがなく、またこのような歴史の痕跡を残されぬはずがないのです。

 我々がこのような痕跡を捜して追求してみるとき、この恨の歴史を精算する事は、ある論理的な方便や、理論的な形式によってはできないのです。それで心の世界を捜し求め、善の理念を追求して、さらには霊的な世界、即ち超自然的な次元の感情を引き出す方法を捜し求めて、人間と因縁を結ばなければならないので、宗教というものが現れるようになったのです。

 宗教を通して我々が感じなければならないことは一つの目的、一つの理念、一つの中心が、歴史の始まりから終末時代まで、変わってはならないということです。一貫した思想によって流れなければなりません。なぜ、そうなのでしょうか?

 皆さんは善悪の基準、言い換えれば善なる民族、善なる人間、善なる事は、何を基準として判断するのか? 始まりと終わりが統一しているのが天であり、善であるのですからそれを基準として判断するのです。真の善、真の天というならば、昔であれ今であれ、その目的、その理念、その方向が変わることはないのです。ですから宗教が一つの理念を立てるなら、歴史の変遷はあったとしても、その理念は変わることなく、うまずたゆまずに行くのです。


 神の実存体が現れれば

 人間の悲しみは、堕落によってもたらされたのです。さらには神の悲しみも、人間の堕落によってもたらされたとして、この悲しみを解怨する一日を預告するあるみ旨がなければならず、これを実践する方便がなければならず、これを解決することができるある人間がいなければならないことは、間違いないのです。

 この事を担い、この事に責任を持つために送られたかたが、宗教的に見れば修道(道)の責任を負う者なのです。

 全世界的なある修道の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教的にいうとイエスの降臨というのです。

 このような中心存在が、天上の悲しみと地上の悲しみを解怨するために、この地上に現れるなら、絶対に栄光にみちた姿として現れることはないのです。なぜならば、神の実存体が現れるにおいては、歴史の過程を否定することができず、時代性を度外視することができないからです。

 天が悲しい過程を経る歴史があるので、イエス様が天宙の理念を代身する理念の主体として、目的の主体として、生命の主体としてこの地の上の現れるためには、このような過程を経なければならないのです。

 実存するということは、因縁の過程を経なければなりません。それでこそ実存の土台を持つことができるのです。ですからイエス様も、歴史的に因縁づけられたその悲しい心情を、体恤しなければならなかったのです。人間を代表して、そんな心情を体恤する反面、天を代身して神の悲しい心情まで体恤しなければならなかったのです。

 人倫的に見る観と、宗教的に見る観は違うのです。人間たちが見るときには、自分を否定して全体を代身して、大衆の苦痛を背負うという人間を、善なる人として仰ぎ敬うのですが、宗教的に見るときにはそうでないのです。人間的な悲しみを代身すると同時に、天倫の悲しみを代身する立場でなければならないのです。

 それは堕落によってたがえ、絡みついたその怨恨の曲折を解くべき人間が、必ず持つべき天的な要求であり、全人類の要求であることを、我々は知ってこそなのです。

 このような怨恨を解怨して、堕落によってたがえた曲折を打破するために来られたかたがイエス様であるなら、彼は四千年の人類歴史路程において、どこの誰も体恤することがなかった神の悲しい心情を、感じる道を行かねばなりませんでした。それでイエス様は、四千年の歴史路程に現れたどのような主義よりも、神の心情の奥深く染みている悲しみの感情を、体恤しなければならなかったのです。もしも地の上の人間の中に、天の悲しい心情を体恤した者がいたとして、彼は涙なしに地を見やることができないのです。天と地まで悲しみに染みて、嘆息し、慟哭する境地にぶつかってしまうのです。イエス様はこのような心情を感じられたのです。

 これが誰のゆえであったのか。初めは天のゆえであり、天が人間のために彼をこの地上に送らたのに、その次には人間のためであったと見ることができるのです。ですから天の悲しみを抱き、人間を抱いて泣かなければならなかったイエス様であり、人間の悲しい心情をにぎって天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエス様であったのです。

 神の悲しい心情を一掃したという一時、即ち神の心中に染みている悲しみを解消させる一時が訪れてこない限り、人類の平和も成せず、天的な一つの理念も、この地の上に結実の一時を迎えられないということを、皆さんは知らねばなりません。

 こんな曲折に処している皆さん、こんな曲折に染みて喘いでいる今日の人類が今、新しい覚醒をしなければならない時が来たのです。わき起こる警鐘の音に、我々は時が来たことを知るのです。

 今日この時は、歴史上に恐ろしい時が多かったとしても、これ以上に恐ろしい時がなかったのであり、悲しい時があったとしても、これ以上に悲しい時がなかったといえる、そんな時なのです。なぜならば、父母が子女を知らず、子女が父母を知らない時であるからです。このように貴い天的な因縁を、自分勝手に放棄して、破綻させてしまった彼らが、どこに行って自身の悲しみを慰められるかと考えるなら、これ以上の悲しみはないというのです。


 今日の人間がおかれた状況と我々が取るべき方向と態度

 悲しみがわが心に染みているのですが、また一面では恐怖の世界が、自分に襲いかかっているのです。このような状態で喘いでいる自分一自体において、安定した心情の園がどこにあり、安息と自由の園がどこにあるのか? これがこの時代の人類、この時代に生きている我々が解決しなければならない切迫した、かつ重大な問題であらざるを得ないのです。

 皆さんはこのような圏内に、おかれているのです。このような皆さんであることを、再認識すべき時が来たのです。それゆえ今、右手を挙げて’天よ、私たちの手を握ってください’と力をつくして叫び、左手を挙げ’人類よ、私と共に前進するのだ’と叫ばなければならない時が来たのです。ところがこんな衝撃を、心から感じようにも感じることがなく、こんな刺激を受けようにも受けることがないこの地の上で、どうするのか?

 人間は今まで自分たちだけで捜して見て、争い、いろんな事をやってきたのですが、これを解決することができず、その結果は絶望と、死亡と、滅亡の他はないのです。我々人間の努力に対する報いがないということを、理解する時がきたのです。

 天があるとするなら、人類は歴史的な努力を注ぎ、ある一分野において天と因縁を結ぶという信念を持って、天を求めてゆかなければなりません。このような日が個人から芽生えたなら、個人が蘇生するようになるのです。このような日を捜してさまようある集い、あるいは民族、国家、世界があるとして、その集まり、あるいは民族、国家、世界には、この新しい因縁の世界を捜し求めてゆく動機と、理念がないとすることはきないのです。 もしも天があって、このような世界性を望み見ておられるという事実を知るなら、我々はより多くの恐怖を感じるのです。心的な世界において、自分も分からない恐怖の刺激が日がたてばたつほど、時代が切迫すればするほど、よりましてくるのです。

 それゆえこの世界、この方向をこのままで行ったなら、駄目なのです。この道を行けば生命に脅威を感じ、生死の脅威を感じることは、間違いないのです。この道は本然の心情を持つ人間が行く道ではないことを再認識して、帰ってくることができる環境を捜して見る、余裕の心情なりと持たねばなりません。今まで皆さんが地の上で、天のまえに忠誠をなしたそれ以上に忠誠をなし、苦難を受けた以上の苦難を受け、いかなる情熱を注いだ以上の、情熱を注がなければなりません。

 本然の私

 ある善の主体、ある善の目的体、理念の世界がその心に染みていって、皆さんが感じないとしても感じざるを得ず、喘ぐまいとしても喘いでしまうのです。そんな姿になっているなら、皆さんはある目的世界を捜し求めて行く動機を持っていることに、間違いないのです。

 今まで自分が持っているある合理的な論理を通して立てた主観や認識を通して、自分の思い通りに立てた観念で、自分の全人生を委ねて生活し、安堵感を感じる人間がいたとしたら、彼はその学んだ知識が自分を、自縄自縛してしまう結果になることに間違ないのです。

 皆さんの心の底をさらけだして考えてみるとき、このような感情の流れを否定することができない一つの真理体であり、実存体である事実を知ったなら、この姿は宇宙的な姿であり、宇宙的な証拠物であり、歴史的な証拠物、理念の証拠物であり、一人の主体に対する対象的な存在であることは、確かな事実なのです。

 今天があるとして、我々は主体たる天の対象である自分の個体を、一〇〇%信任してくれるその一日を捜し求めなければなりません。この目的に対し、一〇〇%の信念を持って捜し求めて行かなければなりません。また、一〇〇%の信念を持って突進することができる、方向性を持っていなければなりません。これがこの時代に生きる人類が解決すべき、最後の重大な問題なのです。

 このような悲しみの環境を越えなければならない人間ですから、神はこれを解決するある条件を、立ててこられたことに間違いないのです。であれば神は歴史路程において、どのように摂理されてきたのか。人間始祖が堕落したのは、神を信じなかったためであったという事実を、皆さんはよく知っています。信じなかったので、堕落したのです。さらにいえば、神を愛さなかったからです。そして神に侍らなかったが故に、堕落したのです。これがキリスト教でいう信仰の三大要素、即ち、信仰、希望、愛を象徴しているのです。


 信仰者たちの希望の標準

 我々の最後の希望が何であるか? 神に侍ることです。人間が必ず求めなければならないことが、天的な因縁を回復することです。解怨される一つの歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとして、この条件は何を通して我々に訪れてくるのか? 過去の我々の先祖たちが信じず、愛さず、侍らなかったがゆえに、信仰の運動を提示して、愛の運動を提示してきたという事実を、我々は知っています。このようなことを通して、我々に訪れてくるのです。

 イエス様が来る前までは、信仰の基台を築くために喘ぎ、イエス様がこの地上に来られて人類を愛するために闘われたのですが、そのみ旨を成すことなく、新郎・新婦の因縁のみを立てて逝かれたのです。ですから人類を抱いて愛することができる、愛の主人公が来なければなりません。

 それではその主人公を迎えるその日以後からは、どのようにしなければならないのか?生活の中で、そのお方に侍って生きなければなりません。これが地上天国なのです。このように無限に侍って生きる、このような天国世界において生きることが、信仰者たちの希望であり、標準なのです。歴史の摂理路程も、このような方向へと動いて行っているのです。

 ですから天が悲しみに染みている人間を捜し求めているなら、逆説的な要素と逆理的な条件を通し、勝利的で法度的な条件を捜し立てなければならないのです。ここに天の曲折があるのです。人間の悲しみも大きいのですが、天の染みいる悲しみがさらに大きいのであって、人間はこんな天の悲しみを知らないでいるのです。無知なる人間のまえに法度を立て、勝利的な過程を経ていって訪ねて来る天の悲しみを、知る人間がいないのです。

 それでイエス以後、これまでの歴史は信義の歴史です。人類の歴史は信仰の一つの基準を造成して、またこの基準を高め、善の実績を積んできたということを、我々は知っています。イエス様が愛の一つの中心としてこの地に来られたのですが、来られた目的をすべて遂行することができずに逝かれたので、これからの信義の時代から、侍義の時代へと移っていかなければなりません。

 ですから天は悲しみの環境の中におかれている私一個体を、救援するために再び訪ね来られるのです。


 人間が神と因縁を結べる条件-信仰と実践

 歴史的には何を通して天が人間を訪ねて来られるかというと、信仰という条件をもって訪ねて来られるのです。天は人間をしてこの信仰の条件を立てさせる反面、人間に対して何を要求されているのか? 実践を要求されるのです。天と自分が因縁をもち、悲しみの感情を除去することができる一つの足場を立てるためには、信仰を中心にして一つの実践的な行路がなければなりません。そうしてこそ、歴史的な因縁を立てることができるというのです。

 なぜならば、私という存在は私個人のために生きるのではなく、私を否定して、天が行く方向に従うべき運命におかれているからなのです。天は我々個人をまとめて、世界と天宙のための方向へと、その方向性を得てゆくのであって、善の方向性というものは、私を中心にしてはいないのです。善の標準は、私を中心にしてはいません。これは国家が対象になり、天が対象になっているからです。ですから天は信仰と実践を強調して、人類に対して摂理してきたのです。

 今日まで信仰と実践を強調してきた六千年歴史、この六千年の歴史を検討してみれば、言葉にもならない悲しみの歴史です。しかし今日皆さんは、人類の悲しみよりも、人類を抱えて来られた天の悲しみが、さらに大きいという事実を知らなかったなら、天的な因縁を結ぶことはできません。今まで、これを知る群れがなかったのです。

 我々は人間たちが、天を追放し、先知先烈たちを殺した歴史的な先例を持つという事実を、知らなければなりません。

 天は人間が無限に信じて実践して、ご自身を求めてくれることを願っておられるのですが、人間には神に対する心情がなく、信仰を持って実践して実行することができる足場を持っていないのです。

 また信仰の足場があったとしても、人間は天の悲しみと伴なる感情を通した信仰、感情に通じることができる心情を持って実践してこそ、天の信仰と人間の信仰が互いにぶつかりあって、人間のすべての悲しみを解怨できるようになるのです。ところが我々人間が、そんな境地に立っていないということなのです。

 今日皆さんが新しい理念に向かってゆき、新しいみ旨を指向してゆくにおいて、自らの信仰に自信がありますか? 自信がないというのです。この自信と共に、歴史的な因縁を拒否する自分の生命体を得ていないならば、歴史的な因縁の環境を開拓しなければならない実践路程が残っているのです。たとえ信仰していることを実践する資格があったとしても、天情の悲しみを体恤し、神の信仰に心を奪われ、神の実践に心を奪われる感情が先に立たなかったならば、皆さんは神様が捜し成そうとされる天国とは、何らの関係がないのです。何らの関係もないというのです。

 人間同士の信義も、悲しい面と喜ばしい面が相対的な関係を結んでこそ、これが長く維持できるのであり、その信義を基盤として約束したことをどこまでも実践できるのです。天に対する信仰路程においても、実践路程においても、他なりません。天の喜ばしい面と悲しい面を感じていって、信じて実行できなければなりません。それゆえ喜びの自我になるには、悲しみの自我をまず、捜し求めなければなりません。

 ですから信仰の主人公として来られたイエス様は、万民を代身して信仰の中心となる心情をもって、真の信仰者の姿をもって、天のまえに現れようとされたのです。そして天はイエスが万民を代身して、ご自身と信仰の因縁を結び、そのイエスが万民とも因縁を結ぶことを願ったのですが、願った通りにはならなかったのです。言い換えれば、イエス様と天は因縁を結んだのですが、人間との間には所願とされたその因縁を結ばないままに、今まで過ぎてきたのです。

 それで今までの聖徒たちは信仰を立て、実践してきたとしても、信仰と実践が自身において完成したとする日を、迎えてはいないのです。


 真の信仰と実践

 天国とは、真の信仰とは’これこれである’と解釈することができ、真の実践とは’これこれである’と解釈できるところです。ですから今日人間が、このような真の信仰と、実践を成事させるための路程において、天が受ける苦難と悲しみの感情を体恤するにおいて、その感情の限界を分析して同感する場に立っていなかったなら、彼は未だに天国理念の世界においては、両手を挙げて歓迎することができない立場であることを、知らねばなりません。

 ですからイエス様が歩まれたその跡は、貴重なものなのです。イエス様はご自身の一言のみ言が立てば、天が立つのであり、そのみ言を実行すれば、天のみ旨が実行されることを知っていたのです。ここに基準を合わせて生きてゆかれるイエス様にあっては、人間を案じる心が大きく、天を案じる心が大きく、天と地の悲しみを体恤する感情が大きいのです。

 聖書の中にはイエス様が喜びにあふれ、踊りをおどってみ言を語る句節はありません。なぜ? 神様も未だに喜びの園で、子女である人間に語られていないがゆえに、イエス様は心中に喜びがあったとしても、天と地を越える喜びの感情で、自由にみ言を語ることができなかったのです。

 イエス様のみ言は、喜びの感情で伝えることのできるみ言でなければならないのに、語られるご自身は悲しみの感情を通してされるということを、知らねばなりません。従って皆さんは今こんな感情に染みて、み言の尊厳性を悟らなければなりません。

 イエス様と自分が歴史性を超越して関係を結び、現実の生の理念圏内において、因縁を結ぶみ言になっていないなら、そのみ言は天のみ言ではありません。

  信仰者の本質と神の願い

 皆さん! 今皆さんに真理の道を求め、信仰路程を復活させようという切なる心情があるなら、イエス様が悲しみの感情によって語られた信仰観念の最後の限界線がどこかを知り、その限界線を越えなければなりません。イエス様は天宙の悲しみを解怨しなければならず、人類の悲しみを解怨しなければならない中間的な責任者であったので、彼の心は推し量ることもできない悲しい心情だったのです。人類の悲しみが百なら百、千なら千の心情を感じて、さらには神の千万までの悲しみを感じたのでした。ですからすべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れるみ言に対して、人間の信仰の基準が立ってこそ、神と人間との間の塞がれていた因縁が、再び結ばれるのです。このような基準を立てることが、信仰者の本質であるといえるのです。

 ですからキリスト教は、笑いの宗教ではありません。涙の宗教なのです。従って我々がイエス様についての、一つことを知ってみれば胸がつまり、二つことを知ってみればわれ知らず慟哭し、知って知って、また知ってみるなら自分自らが祭物になるべき立場であることを、感じないとしても感じざるを得ないのです。こんな感情からの信仰、こんな感情からの実践をするなら、死せる人間を生かせるようになるのです。

 天のまえにどれほど素晴らしい功績を立てたとしても、その功績の結果は自身によって成されたものではないのです。それは天によって成されたものなのです。

 それでは摂理の糸口は、どこから始まるのか? 人間の心が天の悲しみと通じるその瞬間に、新しい摂理歴史は開拓され、積まれてきたことを、皆さんは知らねばなりません。 神は人間に対して、信仰と実践の路程を歩むことを促され、六千年の長い歴史路程を経てこられたのです。全人類に対して、このような存在になることを懇切に願われているのです。全人類のまえに神ご自身を、一〇〇%立ててさしあげる実体を願っているのです。 天は限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまう一つの存在を、捜し求めておられるのです。天の標準がそうなのです。信仰という言葉が必要なく、実践という言葉が必要ない、そんな存在を捜し求めているのです。イエス様を通して与えたみ言を立て、実践の名詞を立てることのみならず、天の感動を引き起こす存在を求めてこられたのです。ところがこのような天が、人間に求められるその限界線を越えて、実践したという人は一人もいないのです。


 神が求めている人

 今日キリスト教の数多くの信者がいるとしても、このような心情の限界線を越えて、実践路程を誇ることができる一人の天的な子女が、どこにいるでしょうか? 天的な子女がどこにいるでしょうか? 問題はここにあるのです。今日皆さんは信仰の名詞を、夢にまで立てなければならず、どのような一つの事実においても、時代性と歴史性を超越して、永遠から永遠にまで自由自在にわがものと思って愉み、わがものとして応じることができなければなりません。神様が人間に対して、信仰の基となる道を立てたという、そんな内容がなければならないのです。

 世の中の信義の法度を忘れてしまう一つの存在、実践の価値を忘れてしまい、実行の価値よりも貴く思うそんな境地で天のみ旨に染みるとき、天は初めて’わが息子よ、わが娘よ’とされるのです。ですから真の息子と娘を求められないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみです。この人類を息子・娘として対することができないのが、天の悲しみだというのです。

 今日絶対者をおいて、神と呼ぶ言葉を持っているのですが、神はこのようであると紹介するとき、真の感情が通じないのです。皆さんは感情を離れた言葉はあり得ないことを知っていす。それでは言葉が通じ、感情によって接することができる神は、どこにいるのでしょうか? 皆さんがこの信仰の路程を行くにおきまして、切実なる心情をもってこんな問題にぶつかり、信仰という名詞と実践という名詞を越えて、アボジに心奪われてわれ知らず、自身の細胞と自身の心情が動じ、アボジを呼ぶのでなければなりません。天はきっとこんな叫びが、生理的な状態として留まる一つの存在を、捜し求めておられるのです。 今日の人類が泣かねばならぬことがあるとしたら、人類自体が責任を負っていないことをおいて悲しみ、泣かなければなりません。六千年の間、天を悲しませた逆族であり、背反者である我々の先祖たちに対して、悲しまなければなりません。さらには今日の自分一個体をおいて、悲しまければなりません。

 今日の信仰的な観点から、我々自身がある限界圏内においてさまよっても来なかったかを、考えてもみないで動いて行くなら、このような我々に対して天は’その通りだ’とされるか’悲しい’とされるか? その心情は四千年を過ぎ、六千年の歴史の因縁を加えた悲しみでいっぱいなのです。そして皆さんは、天が皆さんに対して嘆息される立場におられることを、自認しなればなりません。

 人間が堕落することによって信仰を失い、愛を失い、侍る生活を失う心情に、流れこむものが何であったか。悲しい心情であったのです。何だか分からない悲しい感情でした。ですから皆さんも信仰生活におきまして、自分も分からないうちに悲しい感情が芽生え、ある意識的な基準を立てないにもかかわらず、生活的な分野におきまして、周囲の環境から悲しみが訪れてくる時があるのですが、天が訪ねてくる時間であると知るのです。このような時間に、その悲しみの実体を抱え、涙の因縁を結ぶことがあったなら、彼は蘇生することができる人間なのです。

 このような因縁を結ばなければならない人間なのですが、堕落した人間が天に対して、立体的に対することができないので、平面的な主人公としてこの地上にイエス様を送られたのです。堕落した人間には、実体の主様としてのイエス様が必要であったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。

 四千年の悲しみの歴史路程において、追われこずかれたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱いたイエス様を抱えて慟哭することができたなら、この民族は今日世界のまえに名を挙げる民族になったのです。であれば民族を失い、主権を失い、国土を失い、流浪する民族にはならなかったのです。そんな民族にはならなかったのです。そうではないでしょうか?


 喜びよりも悲しみがより大きかったイエス様の生涯

 統一教会は本来、険しこを行くためのものではなかったのです。私は皆さんが統一教会に入ってくるのを見やるとき、歓迎する心よりも案じる心が先立つのです。そんな心で見やるのです。歓迎するよりも、躊躇する心で見やっているのです。

 こんな天の内容と天の実情、即ち我々人間に対して求めておられる天の事情が、このように懇切であることを感じる人間であるほど、自分を捜し立てることができず、自分を否定する他はなくなるのです。

 自分の意識と、自分の主観からは批判することができない境地に、自分も知らずに引かれてゆくある存在になったなら、こんな境地の悲しみを感じる反面、主体的な立場で天を安心させ、慰労することができる一部分を任され、連結づけるその場においてのみ、この道を行くことができるのです。このようになれば、この道を行けるのです。

 平安な道を行くことを願う人は、この道は行かないでください。私が歩んでみるに、この歩みには親友がいない寂しい歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を通じ合えない歩みであり、維持することができない歩みであり、信じられない歩みであることを知るのです。歩んでみれば、こんな曲折を経てこられたイエス様の心情を、深くくみ取ることができるのです。

 私が今、イエス様を紹介するなら、まず悲しみの面のイエス様を紹介したいのです。めしを食べる時も忘れ、眠る時も忘れ、悲しい胸を抱えてこの村、あの村へと追われ追われたイエス様、その時代のどこの誰が彼の心情を知り、親友となった人がいたでしょうか? 天は悲しい天であったのです。天を代身しようとした先知者も悲しい祭物であったのですが、イエス様まで死んでしまったので、み旨を抱いておられた天、その天は悲しい天であったのです。

 この天が、誰であったのか? 知ってみればアボジであったのです。神と我々人間の関係を知ってみれば、父と子の関係でした。我々人類は、アボジの悲しみを知ることのない存在になっていたのです。ところで人間が知らないアボジの、その悲しい心情を知ってあげるべき責任は、神ご自身にあるのではありません。それは人間にあるのです。それでこれを遂行するために先知者が来て、イエス様が来られたのです。

 イエス様は悲しみの王者

 天は今まで待ち焦がれ、求めて来られたのです。イエスが行った悲しい信仰の路程、イエスが闘った悲しい信仰の闘い、その闘いを今日子女の名分を持とうとする者は、代身して闘って勝利しなければならないのです。

 人類は未だに地上に喜びの一日を持ってはみず、栄光の一日を持っていないのです。このような事情をおいて、悲しみの感情に動かされて天を呼ぶとき、われ知らず天があることを知るのです。

 私が知るところ、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。この事実を皆さんは知らねばなりません。聖書には何か所しか表されていませんが、イエス様は人知れず涙を多く流されたお方です。山川を眺めて責任感を感じたお方であり、散らばる民族を眺めるときにも責任感を感じたお方であり、無限なる天に対しても責任感を感じたお方であったのです。責任を背負って実践することができない分野があることを見やれば、さらに悲しみの心情を抱き、その他また天を慰労しなければならない立場で、慰労してさしあげられない悲しみ、人間を救援すべき救世主の責任を担うことができずに加わる悲しみ等、彼は本当に悲しみの王者であったのです。

 我々が信じているイエス様は、ある万王の王、栄光の王者、勝利の王者であるよりも悲しみの王者であることを、我々は感じてみなければなりません。

 こんな事を言えば、キリスト教の異端者として烙印を押されるかも知れませんが、知ってみればそうだというのです。’イエス様は万民のまえに、歴史のまえに初めて現れた、天の悲しみの心情に通じる王者であったのだ!’と感激がわき起こる瞬間を経てこそ、皆さんがこのお方と因縁を結ぶようになるのです。また、それのみなのです。イエス様は苦痛の王者であったのです。

 イエス様の深い心情と事情

 天に背反し、天に対して呪咀する先鋒に立つ者たちは誰だったのか? 彼らは信じ従うように立てられたユダヤ教徒であり、イスラエル民族だったのです。天はイエスを捕らえて殺すために四千年間準備して、イスラエル民族を立てる道理が万に一つもないのです。 これを見るとき、イエス様はすべてに勝利してゆかれたお方ではありません。完全な勝利ではなかったのです。皆さんたち、考えてみてもそうではありませんか?

 イエス様が十字架に逝かれたことが完全な勝利なら、受難の一日はそれ以上に喜ばしいことがないのであり、十字架に逝かれたその瞬間が、最後の勝利の瞬間であり、万民万象を動員して喜ぶ瞬間であることに間違いないはずですが、喜びの瞬間ではないことは誰もが知っているのです。ですからマクダラのマリアが歓喜の心で迎えようとするとき、イエス様は来るなとさえぎられたのです。イエス様は愛する弟子と共に喜びに染みて、天のまえに栄光をお返しできなかったのです。それはできなかったのです。であるがゆえに悲しみを抱くイエスであり、哀痛なる死であり、悲しみを抱えて成した復活であったことを、我々は知らねばなりません。

 我々は天の悲しい心情を体恤して自身の身のおきどころも知らず、生活の方便も忘れ、行く家々の門前で睨みつけられ、この村あの村へとさまよつつ追われていったその憔悴したイエス様の、同志にならなければならないのです。

 イエス様は民族のまえに追われ、教団のまえに追われ、親戚に追われ、愛する弟子たちにまでも追われたのです。このように、悲しみの中の悲しみを感じられたイエス様だったのですが、天の心情を抱き、世界人類に自身のすべてを与えるという心を持った、また人を信じようという心を持ったお方だったのです。

 イエス様は悲しみの感情で通じることができる人類に対する因縁が、過去と現在と未来にまで連なることができないので、自身の心中に抱いたその懇切なる願い、懇切なる心、懇切なる事情を、人類のまえにすべて知らせてゆけなかったのです。皆さんはこれを知ってこそであります。

 今日終わりの日にある聖徒たちは、み言をつかんだというそれだけで自身が天の王者のまえに立つことができる約束の新婦だと、自認しないでください。そのようにはなっていないのです。知ってみれば、そうはなっていないのです。

 それゆえ今皆さんは’アボジよ! 私たちはみ言が恐ろしく、私たちの行いが不足なのです’という恐れ多い心に染みて、アボジと呼ぶまえに涙が先にたち、アボジと考えれば胸がつまって堪らない心情が伴わなければなりません。自分が千万べん祭物となっても、歴史を率いて苦労されたアボジのまえに、自身を立てて何かを期待することができないことを、知らねばなりません。

 こうしてこの心が、天に向かって行っても行っても不足であり、行っても行っても恐れ多く、行っても行っても心苦しい心情に染みて、悲しみの涙を流す場であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の新婦になることができるのです。

 我々がこのような境地に入るならイエス様が’狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない(マタイ八:二〇)’また’カペナウムよ、まえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落とされるであろう(マタイ十一:二三)’と言われたみ言を理解するようになるのです。

 こんな心情に通じてみ言を明らかにしてみるとき、このみ言がイエス様のみ言としてではなく、皆さん自身のみ言として、骨肉に染みなければなりません。こうして皆さんが、新しい理念、新しい覚悟、新しい決心をもって、新しい目的の時代を指向しなければならず、このような衝撃の姿として周囲の環境を開拓する、信義の子女にならなければなりません。

 であってこそ、本質世界を通したイエス様のまえに、新婦として立つことができる一つの対象となり、信仰者であるといえる存在になるという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。

 我々を捜し求めるイエス様は、信仰の重要性を強調なさる一方、何を語られたかといえば、神は愛であるとされたのです。愛なる神、慈悲の神、義の神、等々神のいろんな面を語られたのですが、神のすべての面を代表する結論として’神は愛である’という定義を立てて我々を指導されたのです。即ち、真の愛を求めてさまよう神であることを、知らせてくださったのです。


 わたしをより愛せよという言葉の意味

 ’何よりもわたしをより愛せよ’というこの言葉は、何の意味か? わたしがあなたを信じ、あなたを愛するということであり、また天は我々に、このように対されているということです。天は我々を愛するに、時間を惜しまれないのです。

 今日宗教界に責任者たちがいるとして、喘いでいる羊の群れを見て、自身の骨肉に染みて彼らの生命を抱え、涙を流して慟哭することができる心がなかったならば、彼らは天法に引っ掛かる牧者になってしまうのです。天法に引っ掛かるのです。そうではない牧者がいたなら、彼は死んだ牧者なのです。

 神がなさることは言葉よりもまず、心情が先に立つことが特徴なのです。心情に染みて自分も知らずに溢れてくる言葉のまえに、サタンは屈伏してしまうのです。悪はそうしたところから屈伏してゆくのです。でなければどんなに良いことを言っても、悪は屈伏しません。染みる心情が発露されて、人間の生命が生死の岐路に立つことに憤り、これを自分一身の苦痛として感じるのみならず、自分の身の上を助けずに体を投げ出し、彼らを救うために抱きしめたい染みる心情が先だってこそ、ここから救援が始まるのです。

 イエス様は十字架を背負ってゆかれるとき、愛せよという言葉を残して、行かれたのです。十字架上にあっても、天を離れて怨讐のまえにゆく彼らを恨むことなく、呪咀されなかったのです。

 自分自身の痛む心情よりも、彼らに対する哀れみの心が先だつゆえに、怨讐のまえにでて行く彼らを防ぎ、手をのべて怨讐のために、祈祷することができたのです。このような祈祷のまえにのみ、サタンは屈伏するのです。

 ですから天のために生きようとし、天のまえに行こうとする人間ならば、自分が食べている物が他よりも良いときには、呵責を覚えなければなりません。着る物、暮らすこと、見る物自体をおいて、呵責の心を先だててゆく人間がいるとしたなら、彼は飢える法がなく、追われる法がなく、迫害される法がないのです。たとえサタン世界では追われることがあっても、天の心情を求める群れのまえには、追われる法がないというのです。

 それで天は、我々人間に対して’わたしを愛しなさい’とされたのです。その愛は今日皆さんの感情から感じるそんな愛の心情や、限界のある愛ではありません。六千年の悲しみを、解怨することができる愛でなければなりません。それはエデンの園において、アダムを追放しなければならなかったその悲しみの心情、さらには地獄に行った命まで哀れに思い、慟哭する心情を持つ愛であるという事実を、皆さんは知らねばなりません。

 神の愛は、当然罰を受けるべき罪人であったとしても、サタンと天のまえにおかれた条件の法度があるので、この法度の条件を実践させるために、彼を打って悲しませ、捨ててまた抱えてこられるのです。

 イスラエルの歴史を見るとき、反逆するイスラエル民族はどこの誰よりも、神のまえに背信者であり、背反者たちであったのです。しかし天は彼らを捨てても取り、再び捨てたが取ってこられたのです。取った個人を捨てて再び取り、ここに繁殖した家庭を取られたがまた捨て、一家庭を立てて天のまえに数百、数千、数万家庭を取られたが捨て、また取っては捨て、イスラエル民族を立てて今日、第二イスラエル民族型である世界キリスト教を展開させてきたのです。言い換えれば、第二イスラエルということができる世界キリスト教を、立ててきたのです。


 神の愛の世界と因縁を結べる出発点

 ここにいる信者たちは、サタンに対してまでも未練を持つ神の心情と、サタンまでも許すことができる法度を考え、摂理して闘ってこられた神の心情を、知らねばなりまねん。このような神であることを、我々は知らねばなりません。

 こんな心情を持つ神であることを知り、今日皆さんは天に背反した罪と、自身の不足なることと、違えた過去の生活を振り返り、愛する心のみならず無条件で仕えたい心、無条件で為になりたい心が、起こってこなければなりません。このような瞬間から、皆さんは天の愛する人間なのです。父母も忘れ、父母も記憶しないほどに動いてゆく、そんな境地が天の立場なのです。

 堕落した人類の父母も子供の過ちを忘れようとするのに、まして天情を代身しなければならない我々は、もっとそうであるべきではないでしょうか?

 今皆さんはこんな心情が動き、こんなアボジであることを体恤して、そのアボジを無限に尊敬し、無限に侍らなければなりません。こうして自分自体をすべて奪われ、また誰が自分のすべてを奪ったとしても’私は感謝します’とする心情にとらえられなければなりません。正にこんな時が、神の愛の世界と因縁を結ぶことができる出発点であることを、よくよく知らねばなりません。

 ですからイエス様は愛を強調され、愛の主体としての使命を完遂しようとしたのです。それで彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活であったのです。与えられずに喘ぐイエス様でした。彼は自身の命を与えようとし、自身のみ言を与えようとし、自身の栄光を与えようとし、自身の宝座まで与えようとされたのです。しかし自身のすべてのものを与えても受けようとしないので、ついには自身の体、自身の血と肉までも人類の為に投じて逝かれたのです。

 これが愛を標榜し、実践したイエス様の生活であったのです。我々もこんな愛を追求してゆく自身であるならば、永く信じてきた人を見れば自ら頭を下げ、天のまえに苦労した人を見れば、自ら仕えたいとしなければなりません。皆さんの信仰生活におきまして、このような心情がないとしたならば、天的な愛の因縁は断たれてしまうのです。

 人間が今まで持ってきた愛は、永遠なる愛ではないので、人々は愛という名詞をかけ、その永遠の愛を捜し求めるために、死ぬことを覚悟して喘いでいるのす。人間的な愛が、天的な愛の因縁にぶつかって愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権限を決定する価値のある、甘美さを感じるのです。天的な愛に接続するその瞬間は、すべてのものを失っても未練がないのです。このような世界は、妄想的ではありません。ある架空的な空想の世界ではなく、実存的な実相の世界なのです。

 こんな感情が今日人類の心情のうちに、大宇宙圏内にあるのです。我々が知ることのない天情の世界において、人類に向かって流れこむ感情があるのです。これを皆さんが否定してはなりません。イエス様は愛の神髄を教えるために来られました。これを教え、神の愛を立てるためには、人類を代身して数千年の間苦労された天に仕えるという心に、染みなければならなかったのです。

 今までの信仰の世界がこうだったのです。初めは信仰の世界であり、二番目は愛の世界です。愛の世界は新郎・新婦の世界を言います。今これからの時代がどんな時代かといえば、侍る時代です。ところで信仰の過程を通り、愛の過程を通過してこそ、侍る時代に入るのです。これを今日のキリスト教徒は、よくよく知らねばなりません。

 今まで信仰のみによって救援を受けると主張する人は多かったのですが、愛によって救援を受けると主張する人はいませんでした。使途パウロが言うに、’信仰と希望と愛の三つが常にあるが、このなかでの一番は愛’としました。信仰によって行くところはありません。それゆえ今日の統一勇士たちは、信仰の論理を主張し、信仰によって救援を受けると主張することよりも、愛することによって救援を受けるという標語をもって、行かなければなりません。


 世界を動かすことができる主人公

 愛は自分個人を愛することではなく、民族を越え、世界と天を愛することにまで及ぶ心情です。自分に熱があり、力があり、生きている限り誠精をつくしたく、叫びたい心であり、世界を越えて天と因縁を結びたい心です。

 このような愛を実践するために、今日も逆境、明日も逆境が迫ってきても、与えまた与え、仕えてもまた仕えなければならなかったイエス様の、三〇余年の人生だったのです。イエス様はパリサイ人に’偽善なる墓に似た者たちよ’と咎められ、呪咀されたことさえあったのですが、限りなく為に与え、限りなく受け与えたいのに、彼らがその心を分からないので、こんなみ言をされたのです。

 今日我々は、為に生きる人を捜すことができません。真に為に生きる人を捜すことができません。この韓民族は、為に生きる民族になっていないのです。為に生きるいかなる理念も持っていません。過去のこの民族の為にとする理念を持たず、現在のこの民族の為にとすることのできる理念を持たず、未来のこの民族の為にとすることのできる理念を持っていないので、為に与える天の摂理のみ旨とは、相反することを我々は知らねばなりません。

 皆さん自体もそうです。自動的な発露として、過去と現在と未来の為という心が現れてこなければなりません。自分が成功し、名を挙げようとする等、自分を中心にすることは堕落の道です。堕落の道がこのようであるのです。どんな主権者の立場に立つとしても、彼は高く上げられる者ではなく、三千万なら三千万全体の為に、与えるべき者なのです。 この民族すべてが、ごはん一杯食べるにも三千万の血と肉を食べる心情になり、着物一つ着るにもこんな心情が伴うならば、この民族は滅びないのです。今日キリスト教が強調すべきことが、このことです。このような個人、このような牧者、このようなキリスト教が出てきてこそ、民族が生きるのです。

 今このような悲哀と曲折の、嘆息圏内にある現実を見やる我々は、覚醒しなければなりません。

 天が提示された愛の標語を、実践することができるその一人の人が、何であるのか?

 肉が裂かれ、血を流しても為に福を願い、与えたい心が全宇宙にぎゅっと満ち溢れ、神様までもとらえることができる心を持つ一つの存在が現れるなら、彼は世界を動かすことができる主人公になるのです。そのようになれば、心情世界の理念を捜し立ててきた天までも、その人を抱き抱えなければならないと、決断する他ないのです。

 それゆえ天は皆さんの信仰路程において、重要な一面である愛という名詞を立てたのです。罪悪なる世の中にも、愛を捜し求めてゆくときには心情がなければなりません。そんな心情に染みてゆこうとする何かがなかったならば、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。

 それでは天の嘆息を解怨するために、立てられた目標が何であったか? 失われた天国の復帰です。失われた真の息子・娘、永遠に抱いて愛することができる息子・娘を捜し求めることです。生活的な面において神を失うことなく、永遠に同居することができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような、本然の人間として復帰することであることを、皆さんは知らねばなりません。

 天が成そうとされた目標

 堕落した人間が信仰路程をすべて経た後に審判の時を越え、天国に入ることができる姿となってアボジの子女として現れるには、まず本然のアダムとエバの型を持った立場で、信じるという言葉が必要なく、悲しみの境地を越えて愛するという言葉、侍るという言葉を言わなくても、感情から体から、行動的にも、また生活全体、理想全体がこのような面において、自動的に動いてゆかなければならないのです。

 ある法度的な条項によるとか、命令系統に従って動いてゆくことよりも、我々の心情の法度を先に立て、我々の良心作用がある論理、ある最高の法規を越えてゆく所であってこそ、天的な因縁が完成する世界なのです。天的な心情にとらえられ、動かないとしても動かずにはいられず、行わないとしても行わずにはいられず、愛さないとしても愛さずにはいられず、為にならないとしても為にしないではいられない、こんな崇高なる姿にならなければなりません。キリスト教徒には、これが最高の信仰の標準なのです。今日これが、現実に現れなければなりません。

 皆さんがこのような者に出会うその瞬間、マクダラのマリアが復活されたイエス様に抱きつこうとしたとき、イエス様が避けたその心情を体恤することができるのです。今皆さんは’ようし、死の道も行くぞ’という心で、難しい峠を越え、実践の道を経て愛の心情を抱いて行かねばなりません。喘ぎ追われてもこの峠を越え、復活の恩賜に感謝し、天のまえに栄光をお返しする瞬間、愛の心情を抱いて侍る栄光圏に入ってこそ、ここから天国生活が展開するのです。

 今日皆さんにおいて、天国という名詞が観念的な名詞として残っているのです。この観念的な名詞が自分にとって、いつ生活的な名詞として転換されるかが問題です。天があるなら、この転換点を成すことができる一点を捜し立てられるのです。この時を、いわゆる終わりの日というのです。

 このような境地で、天は我々を捜し求めてこられました。それでは今日、皆さん自身をおいて、反省してみてください。皆さんは天を信じていると、天を愛しているということを基盤にして、信仰の源泉である神を自分に隷属させようとし、大実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代身する小さな存在として立てようとし、宇宙的な愛の主人公を、自分の愛の心情圏内に捜し立てようとし、為なる主人公である神に対して、自分のための友にしてしまおうとした過去を自ら嘆き、悲しい心情に染みなければなりません。

 こうして復活の瞬間を迎えて’アボジよ! 私のアボジよ!’と呼ぶことのみならず、アボジのまえに自分の体が溶かされるのでなければなりません。さらにパウロが三層の天に入って体恤したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのか、分からない境地に出会ってこそ、天的な基準の生活に越えたと私は見るのであり、またそのように知っているのです。

 このような境地を捜してさまよう天であることを知るときに、その天がおられる所はどこであり、その天はどのような天なのか。それは我々の国、永遠なる私の国であるのみならず、私が暮らす所なのです。そしてその神は、私のアボジなのです。こんなアボジを、こんな国、こんな生活舞台を知らないで喘いでいる人間たちが、この事実を知らなければなりません。こうして神様に歓喜の歌を歌ってあげ、サタンに対しては激憤して打ち滅ぼすと出て行くその時が、正に審判の日なのです。

 ですから皆さんがサタンを打ち滅ぼし’主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください’とできる姿で現れてこそ、イエス様が皆さんを抱くことができるのです。

 イエス様はどうして、マクダラのマリアを歓待なさらなかったのか。サタンとの闘いに勝利しなければならない路程が残っているのに、彼女はこの路程を経ていなかったからです。勝利の路程を経ていないマクダラのマリアは、復活されたイエス様のまえに立つことができないのです。

 サタンとの闘いで勝利した場に入って、天に対して’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめれば、全宇宙を所有するのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのアボジを信じるほどにならなければなりません。そんな境地でアボジを思い、アボジを信じるとき、自分という感情がなくなるのです。

 今わがアボジを怨讐視してきたサタンに対して憤慨心を抱き、彼に審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れ’アボジ!’と呼んでアボジを抱きしめる人にならねばなりません。こんな場で、喜びと悲しみに染みて泣く信仰者であってこそ、天国生活の理念時代に入ることができると、私は断言したいのです。

 このような世界において、侍る生活をしなければならない我々なのです。希望の天国は迎えても、侍り実践して生活することができる天国は、迎えていないのです。即ち、生活的な主体の神を知らないのです。

 神と一体となる信仰生活をすべき我々

 天は預告されました。’あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう(ヨハネ十四:二〇)’とされたのです。これは否定的なみ言ではありません。

 観念上では神の実存を知っており、対象的な信仰の主体としておられる神は知っていても、直接的にわが良心の主体であり、わが体の主体であり、わが生活の主体であり、わが生活圏内に訪ねてこられる主体としての神が、実存されておられる事実を知らなかったのです。

 なぜ、そのようになったのでしょうか? 信仰の限界線を越えたことがなく、また愛の心情に触れたことがなかったからです。こうして復帰すべき使命を背負う終わりの日の聖徒たちは、こんな事実を知ってどんな犠牲、どんな困難、どんな迫害があったとしても、天情の悲しみと天宙の恨みを解いてさしあげるという心情に染みて、天の旗を上げてゆく群れにならなければなりません。

 そんな群れがある民族のまえに現れたなら、その民族には善なる心が主導する時代が来ることは間違いないのです。今日この世界は知的なことを追求し、真理的なことを追求する世界です。真理を動かしてゆく動機は、体です。体を動かすことができる動機は、心です。心を動かすことができる実体は何であるか、詳しくは分からなくても、霊的なものです。ですから真理のみによっては、万事を解決できないのです。ですから未来には我々の心を一つの方向へと指向させ、心情の動きを一つところに指向させ、霊的な感情までも一つところに指向させることができる世界が、来ることに間違いありません。

 こんな理念の世界が来ると信じ、このような世界を捜し求めてゆく今日の我々は、観念的なことに囚われて生きては駄目です。実際の生活において天に対し、歌うことのできる勝利の勇士にならねばなりません。こんな人間が、この地上に現れなければなりません。 もしもこんな信仰をすると考える人間がいるとして、彼は夢の中でもこれを考えなければなりません。また可能性があり、天があるとして実際に一度それを現実に見てみたい、懇切な心を持ってこそ、天のまえに近づくことができるのです。こんな懇切な心を持つのみならず、時間性を超越して、生活的な面で六千年前に人間が、エデンで歌った歌を今日の歌として歌うのでなければならず、その時の感情を今日の感情として生き、堕落した後で感じた悲しい感情を、今日になっては喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、侍る主体であると同時に、歴史的な解怨の主体なのです。

 このような存在があってこそ、皆さんは彼と関係を結んで勝利的な存在となり、天と地の悲しみを解くことのできる存在となるのです。こんな関係のうちに皆さんが、悲しみと苦難の心情を持つ神様が、永遠なる私のアボジであり、私の国、私の家の主人たるお方であることを実感するのであり、また皆さんは新郎たるお方の悲しみの、すべてを解怨してさしあげる真の息子・娘になるのです。

 今日我々がこのような道を捜し求めて見れば、アボジが悲しみのアボジであることを知りました。その悲しみのアボジの息子・娘は、どうしなければならないかを知りました。天国を回復するために、悲しみの場で闘っておられる天の憤りを知りました。天の悔しさを知りました。

 それゆえ皆さんは怨讐に対して、憤りと悔しさと、敵愾心を抱かなければなりません。こうしてどんな民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべての事に責任を負い、自分に勝利したという一つの基準が、皆さんの心に、体に、生活的な分野において確固として立つことによって、勝利の歴史が起こらねばなりません。こうしてこそ皆さんが実体をもって、復活圏内に入ることができるのです。即ち、実体をもって天国復帰の園に入って、皆さんが神に対してアボジだとし、神は皆さんに対して、息子・娘だとすることができる境地に入るというのです。


 神の願い-天国復帰

 このような境地で心情の世界を求める皆さんは、自身のために信じては駄目なのです。天国に行くという観念、自分が何かになるという観念を捨てるのです。

 イエス様は自分自身が、天国に行くと考えなかったのです。自身は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰観念を持ったのです。これは架空の話ではありません。事実がそうなのです。

 自分が行うことは自分のために行うことではなく、人類のためにやる、世界のためにやる、アボジを代身してやるという信仰、これはどれほど痛快でしょうか。

 自分が愛するということは自分一身を愛することではなく、民族をおいて愛するのだ、人類をおいて愛するのだ、神をおいて愛するのだ、天と地をおいて為にするということです。それゆえ我々の侍ることも人類をおいて侍り、天をおいて侍らなければなりません。また侍って感謝する心、信じて実践するという心を持たねばなりません。

 心で愛して体で仕え、心で侍って生活において感謝して、自分を越えて信じ、自分を越えて愛し、自分を越えて侍るという観念を持って、皆さんの信仰行路を歩んで行くなら、ここには絶対にサタンが侵犯しないのです。サタンの誘惑の手がどれほど強くても、こんな信仰者には触れることができないのです。

 それでは天の願いが、何でしょうか。失われた天国を回復することです。失われた父母を回復することです。失われた子女を回復することです。今我々は自分の国、自分の民、自分の父母を求めなければなりません。こうして真の父母の真の子女になって、六千年のすべての怨恨を忘れ、サタンを押し退けて勝利の条件、愛の条件を誇ることができなければなりません。それでこそ悲しみの歴史を経てきた神のまえに、真の息子・娘になるということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.03.14 23:11:18
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