6234021 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2021.03.18
XML
​​​​​​​​​​​​​一つになろうとされるお父様

エペソ人への手紙 四章:一節から一六節
一九六〇年五月二九日(日)前本部教会


 皆さんと共に考えてみる題目は’一つのなろうとされるお父様’です。’一つになろうとされるお父様’、こんな題目でしばらくお話します。

 地の上に生きている数多くの人間は、自分みずからを信じ、自分自身の価値を満天下に誇るには不足であることを、皆よく知っているのです。自身を信じられない場において、信じられる他の何かを捜し求めてさまよっているのです。私自身の価値を忘れたまま、他の所に私と因縁を持てる何かがないかと、求めてさまよっている我々なのです。

 自分が自分を百%信じることができ、自分の価値を満天下に晴々と誇ることができると同時に、満宇宙を創造された神のまえに行って’あなたが捜しておられる価値が、これであることを知りましたのでお受けください’とすることのできる人間がいたなら、彼は人生の最高の成功者でないはずがないのです。


 1. 葛藤を起こしている心と体

 今までの歴史上に、偉人や聖賢・賢哲が多く来ては行ったのですが、自分を信じて自分の価値を満天下のまえに公開して、’私のように生きよ’と自分に叫んでゆく人間はいないのです。

 我々は善なる目的、より大きな目的に向かって行くことを望みます。自分が楽しんでいる現実の生活環境を無視してでも、心はその所に向かって駆けようとしていることを、皆さんは体恤するのです。また皆さんは、皆さんが留まっているその環境が、永遠なる安息所ではないという事実を、自らの良心の作用を通してよく知るのです。この良心は、留まっているその場が喜ばしい場ではないので、私をして行けと促し、ある目的と価値に至っていない自分自身であることを、暴露させるのです。このような事実を、我々は生活の中で切々と感じなければなりません。

 心がある目的地に向かって行けと命令するとき、体が行かなかったなら、彼は善悪の闘いにおいて敗北者であり、天や人間の世において絶たれる者になるのです。反面、この命令に従って行動し、自身の環境を踏み越えて行く者は、歴史上において何かを貢献することのできる人であり、全体を摂理される天のまえに、何かを残してゆく人間であることに間違いありません。

 行けと促すこの心は、時間がたっても変わることを知らず、環境が変わっても変わることを知らないのです。しかし安息の基台を得て満天下のまえに、あなたは安息の王者であると誇ることができますか、と誰かが問うてみるとき、誰もがそうではないと答え、嘆息する他はないというのです。

 それではこれが、天を動機として創られた人間の運命なのでしょうか? 違います。ですから我々人類は、より高い良心の追求に従ってゆくために、時代と世紀を経て、闘いの歴史路程をたどって来たのです。しかしこれを解決することができないまま、今も目的の世界に向かって行っているのです。

 皆さんが一日の仕事を終えて家に帰って、一日の日課を反省する時に、心から満足して微笑み’天よ、地よ、万民よ、私のこの喜ばしい心情を手本にしてください’とするでしょうか? 本来、我々の心はこんな場にあることを望んでいるのですが、今日我々がそんな場にはいないので、これが嘆きであり、不幸であり、恨みであるのです。心は自己の生命と全体的な問題を解決することを待ち焦がれているのに、内的なある内容の条件も解決できない体をそれでも率い、生の運命を経てゆく悲しくも哀れな、人間の姿なのです。

 我々の体と心がこんな立場ですから、ある大きな目的に向かって行けと、催促と刺激を受けるたびに、体はここに抗うのです。このように抵抗するその何かに対して、対決する自己の立場を明らかにし、この問題を解決してゆくべきであるのですが、人生のすべての問題は解決不可能、という結論を下す他はないのです。


 2. 堕落人間と修道の道

 これらのすべてが、どうしてこのようになったのでしょうか? 人間が自ら善によって出発したのではなく、善なる目的に向かって行く過程で、悪を動機として始まったので、この悪をはね退けてゆかなければならないのです。このような道を行くのが我々人間なのです。我々はこんな道を造っておいた、堕落した祖先の血肉を受けて生まれた後孫であることを、よくよく知らねばなりません。

 どんなに優れていると、満天下に自己の栄光を誇る人間であったとしても、やはり堕落の血統を受け継ぐ後孫であり、嘆息の他はない宗族であることに間違いないのです。こんな自分ゆえにこれ以上恥ずかしいことはなく、これ以上に体面が立たないことがないのです。しかしこんな自分であることを切実に感じ、自分自身を無慈悲に打つとき、ここから新しい心情革命が芽生えるのです。天はこのような者を求めているのです。

 もしも本来から人間がそんな自体であったなら、人間にとって無頓着な神とは見えなかったのです。本来からこんな自体になっていたら、歴史路程において多くの生命が血を流して行けば、善の目的を追求してゆく善なる神であることを、明らかに見るのです。しかし、そうではなかったのです。

 我々は嘆息圏内に入っていても、善を指向する動機を持っているのです。大宇宙を創造した絶対者がいるなら、この絶対者は我々が寝ていても覚めても、食べても休んでも、いかなる瞬間も休むことなく、我々の心と良心を通して、その所に向かって行くよう促しているという事実を、知らねばなりません。ですから良心的なものは、価値があるということです。自身の環境がどんなに満足だとしても、心に何かわだかまりがあり、悲しみが染みることを感じる瞬間は、本然の動きが催促している瞬間であることを忘れてはなりません。このようなことを感じて自分自身の解決のために喘ぎ、喘いで求めてゆくのが、宗教の道なのです。

 宗教の道を行く人々は、その時代の先頭に立つ人々ではありません。ある思潮の流行に未練を感じる人々ではありません。ある思潮を革命するために、その先端に立つ勇者でもありません。その人々は時代の流れに後れ、時代が流れてゆく方向を拒否して、背を向ける人々に間違いないのです。ですから今まで、宗教人は社会と離れ、政治と離れ、生活理念から離れよと勧めてきた理由が、ここにあるのです。勇断を下してこの社会環境や生活環境を離れた人々、またここに心情的な相反する思いと悲哀を感じ、これを否定して背を向けて行く人々が、修道の道を行く人々なのです。

 それでは道の人とは、いかなる者か。豪華絢爛たる栄光の場に留まっていたとしても、その場において涙を流すことのできる者です。道を知る者の心情とは、いかなるものか?どんなに大きな権勢を持って、天下を動かすことのできる環境にあったとしても、その深い心情において、人知れぬ涙を流すことのできる心情です。どんな社会や団体を問わず、そんな心情を持っていない人は、真の道人や宗教人とはいえないのです。

 神を信じて主に従う信徒であるなら、自分がどんな栄光の座にあったとしても、その場を最高の満足と安息の基台として喜びを感じるのではなく、その場を経ていって人知れぬ涙を流すのでなければなりません。そんな者でなければ、修道の道を行く人間とはいえないのです。

 ところがこんな道を行くべき人々が行かずに、宗教が押され追われてきたのです。これはなぜ、そうなのでしょうか? 罪悪の場を離れ、本然の場に帰らなければならない運命におかれている人間であり、正しく行かず、反対に帰ってこなければならない運命におかれている人間ですからそうなのです。それではなぜ、帰らなければならない運命におかれているのか? 堕落したからです。堕落によって転がり落ちた世の中になったので、反対に捜し求めて、上がってこなければならないのです。

 歴史を尊重する民族は、自国の国民性を保つことができるのです。歴史的な心情を基準として団結する民族は、それ以上の心情を持つ主義でなければ、何をもってしても屈伏させることができません。歴史を尊び、節義を守ってきた聖人・賢哲、あるいは忠臣たちがいたとして、それ以上の心情を持つ者でなければ、彼らを屈伏させることはできないのです。ですから時代が妨げるなら、その妨げるものを断ち切った後でこそ、他のある基準に接ぎ木されるようになるのです。これは我々が社会発展過程において、常に見ることなのです。


 3. 誰も侵犯できない良心の領域

 それでは今から我々は、何をしなければならないのか? 歴代の忠臣の基準を越え、孝子孝女の基準を越えなければなりません。またこれを越えても行く目的があるのです。現在とかけ離れた環境を提示するとしても、これは今この世界において、未来の世界へと我々を引き渡すためのものなのです。これが神のプログラムです。忠臣の中の忠臣であり、孝子の中の孝子を造るためなのです。たとえ地の上において捨てられ、排斥されたとしても、彼らが主管し、彼らが享受することができる一時が来たならば、それがキリスト教でいう、主が地上に再び来て建設される地上天国なのです。

 世の中には家庭のための忠誠をつくす人、社会のたまに忠誠をつくす人、国家のために忠誠をつくす人もいます。国家のために忠誠をつくす人は、国家理念を後代に残すにおいて、一つの伝統の条件を立てることができるのです。しかしこの地とこの世界のすべてのものはどうせ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるために、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王であり、主人の中の主人であり、万有の父である神のまえに忠臣となり、孝子となれと宗教では教えているのです。これが宗教の道理です。

 それではどうして神は信じる人々に向かって、この世の中を捨てよされるのか? この世の中はどうせ過ぎ去ってしまう世の中だからです。永遠のものではないので、捨てなさいというのです。未来にわたって永遠に愛する心情を持っておられる神であるがゆえに、たとえその時代には捨てられても、未来には孝子であり忠臣として、その価値を高く賞賛される群れが、キリスト教的に見れば山羊と羊の中で、羊に相当する群れなのです。だから我々は世の中の基準を越えなければなりません。この理念に向かって忠誠をつくし、この理念に向かって駆け行く者たちが、道を信じる人々なのです。ですから道人たちはこれから、こんな世界に駆けて行くにおいて、先鋒者にならねばなりません。でなれば彼らは滅びるのです。滅びです。どんなに何がどうだこうだといっても、滅びるのです。今日の世界は、このような運命におかれているのです。

 皆さん自身は個々人として出発したのですが、全体の世界を抱えて、この個人と世界が連結されて、初めであり終わりであるとする世界が来なければなりません。即ち皆さんの本当の良心が成ることを願うのに対して、この世界が’果たしてその通りだ’とする場まで行かなければならないのです。

 力は目的に向かって動いてゆくのです。自然界を見ても、目的もなく動いている存在物はありません。極めて小さな科学作用にしても、目的のために動いているのです。ところで誰も侵犯することのできない良心の力が、目的なしに動いているかというと、そんなことはないのです。良心にも必ず目的があるのです。

 わが心の良心の主人公と共に愉むことができ、安息することができ、踊りをおどることができる栄光なる環境、これが人間が捜し求める天国です。天国がある地域に別にあるのではありません。このようにならない人間は、天国ができても逃げ出すのです。そうなるのです。

 神は六千年という永い歳月、離れていった人間たちを抱えて来られたのです。人間のようなものはすでに千万べん殺しても余りあるのです。殺すだけでなくガソリンをかけて、痕かたもなしに燃やしてしまうのです。しかし神はこのような人間を捜し求めて来られたのです。その求めてきた目的が、何でしょうか? 罪人である人間と、一つになることです。極めて善なる立場で、極めて悪なる者に対して’心情で、心で、体で、環境で、理念で一つになってあげたい’というのが神の心情なのです。皆さんは神の心情がどうであるかを、知らねばなりません。考えて見てください。万物をさっと創っておいて、むやみに罰だけ与えて審判だけする神であるなら、必要ありません。そんな神様ではないというのです。

 ですから皆さんは、ここから解決していかなければなりません。自分が信じる神は、どのような神であるのか? 罪に対して審判だけする神ではなく、審判する前に、懇切なる心情を持つお方です。もしもそうではない立場で神が審判するなら、抗議するというのです。罪だけを審判する神であるなら、抗議するのです。しかし、抗議はできないのです。なぜ? 神様は人間の罪を千万べん越えて、越えることのできる心情をもって審判されるがゆえに、人間は審判を受けても抗議はできないのです。神は皆さんが観念的に知っている、そんなお方ではありません。


 4. 神を新たに認識しなければならない時

 今まで我々は神を求めるのに、儀式の神を求めていたのです。み言の神を求めていたのです。関係の神を求めていたのです。しかし、動機の神は知らなかったのです。聖書のみ言を見ても、堕落以後に生まれた関係の神は知っているのです。神様が我々の先祖たちにどのように対され、堕落した後孫がどのように対したかは、知っているのです。しかし、堕落することを防がなかった神の事情は知らないのです。神様が堕落したアダムとエバを追われる他はなかった動機は知らないのです。動機を知らないので、解決する法がありません。世の中の事もそうです。ある問題があるとき、その動機から知って解決すれば、後患がないのです。

 我々が聖書六六巻にみな通じても、聖書の中に潜んでいる動機の神と、過程の神と、結果の神を知らなければ役に立たないのです。過程の神は歴史路程に現れているので知ることができるのです。四千年の間、千辛万苦してイスラエル民族を率いて、メシアの足場を立てるのにどんなに苦心されたでしょうか? これはあえて推し量ることができます。しかし我々が過程の神を知るにしても、はっきりとは知ることができません。動機を知らずに、分かったとはいえないのです。

 それでは結果の神は、どのようなものでしょうか? どのように審判されるのか? 皆さんが今、神の心情がどうだかも知らないで喜んでいるのですか? 駄目です。動機のない結果は、あり得ないのです。すべてのことは動機を経て、過程を経て、結果が出るのです。これが自然科学の現象です。人間がこのように造ったのではありませんか。天理原則がこのようになっており、神の法度がこのようになているという話です。突然変異ということはないのです。ないというのです。秩序的なのです。動機を中心にして原理原則的な過程を経て、実体的な目的体が形成される世界が、創造理念世界です。

 皆さん、成功する人々が心にかたい覚悟なしに成功できますか? 心の動機を中心にして、環境を開拓して、変わることなくこれを信じて行くなら、目的地に到達するのです。我々一個人が成功するにもそうであるのに、大天地を創造なさる神が目的を成すのに、このようにされないでしょうか? やはり同じだというのです。

 皆さんは歴史的な神ではなく、創造的な神を訪ねてみましたか? この時代に皆さんが信じる神ではなく、創造の動機を持たれた神、審判を受けるべき世界をおいて摂理する神ではなく、審判した後ですべての人類を抱いて、栄光の中で万民と共に喜びと幸福のうちに生きる神を知ってみましたか? 知らなかったのです。一人の人間が成功するときにおいても、過去と現在と未来を離れてはないのです。過去も天理原則とその源泉が同じであってこそ、これが歴史的な伝統として立つのであり、またその人の業績を歴史と共に未来にまでも誇れるのであって、その動機において脱線するときは、いつかは審判を受けるのです。ですから今日、我々が知るべきことが何でしょう。動機の神なのです。

 それではこの動機の神を、どのように知るべきか。堕落した立場に留まっている我々に神はどう対して来られたのか。神は歴史過程において、堕落している我々を、動機の心情によって対され、未来の心情をもって対してくださるのです。地の上に生きる人間たちは神を知らないので、神は人間たちを捨てられなかったのです。六千年が過ぎる今まで、人間たちは神を知らないでいるので、神は創造当時から人間を、息子・娘として対されたのです。このような心で天理法度を立てたので、この被造世界をぶち壊すことができないのです。壊れたものを再びくっ付け合わせるのが、救援摂理です。穴があいて壊れたものを継ぎ合わせるという話です。継ぎ合わせるときは、動機から過程を経て、目的としたその完結体として因縁を結び、継ぎ合わせなければなりません。それまでは全宇宙被造万象のまえに、完成品として出すことができません。道理がそうではありませんか?

 我々は再認識しなければなりません。再覚醒しなければなりません。さらには青年たちはしっかりとした決心をしなければなりません。歴史路程において我々は闘って、勝利しなればなりません。宗教の道を行く皆さんは、何かに利用されているな、と感じてみたことがありますか? ここで叫んでいる人間は、切実に感じてみたのです。自分が今、神に利用されているか? 人間に利用されているか? 教派に利用されているか? 歴史のまえに利用されているか? 立てられたある神学体系に利用されているか? どちらでしょうか? 解明しなければなりません。これを解明した冊子を私は見たことがありません。これを解明するために泣き叫ぶ学者にも、出会ったことがありません。

 この民族はこの世的には、世界のまえに押し出すことができる希望の条件が一つもない惨めで哀れな民族です。私が願うことは、世界が目覚めずに眠っているこの時に、我々の民族が再覚醒するということです。我々は歴史を再鑑定し、時代を再鑑定し、信仰を再鑑定して、神を捜し求めて行かなければなりません。

 人間や何かの機関や、教派に利用される人間は滅んでゆくのですが、神に利用される人間は滅びないのです。何の話か、分かりますか? 人間世界のある欲望をかけたものに利用されるなら滅びるのですが、世の中で追われ、地において排斥されても、天に利用されるなら、滅びるようでも滅びることはないのです。志のある青年たちであるなら、どちらを取るか冷静に考えなければなりません。それゆえいつかの時には、自分の父母、兄弟も批判してみなければなりません。その実であるからです。何の話か、分かりますか?


 5. 人間の堕落によって不自由になった神

 イエス様以後に動いておられる神を知ることは簡単です。イエス様は四千年の神の心情を通して来られたのです。皆さん、これを知らなければなりません。イエスを送るとき、イエスと共に来られた神、イエスは逝ってもイエスの十字架と共におられた神、人間はイエスを十字架につけて殺したとしても、その人間を捨てたまわず後孫までも抱えて来られた神を、皆さんは考えてみましたか? これを解明することができる何かを得なければ、皆さんは新婦になる夢も見るなというのです。

 我々はみ言のイエスを知りました。ここで語る人間の話も、無条件に信じなさいというのではありません。道理に合っていて、心に革新的で劇的な何かが触れ、今の自分をぶち壊して新しい何かを建設させる可能性があるなら、これを掴んで信じるというのです。イエスを信じる人は、こんな境地を通過しなければなりません。

 皆さん、我々は背負っている人間です。神は堕落した人間を抱えて、無限なる努力をされたのです。皆さんが想像することもできない、無限なる努力をされたのです。これに報いるには、二七億人類をいっぺんに祭物に捧げてもお返しできないのです。心情に釘を打たれても苦労される神であることを、知らねばなりません。神は無知な人間たちに対して摂理されるにおいて、動機と過程と目的をもって対されたのです。対されるときは、十字路の交通巡査のように’こっちに行け、あっちに行け’というやり方ではないのです。

 聖書の中には、神が義人に対して命令される内容のみ言がありますが、神はそのことの何千倍の過程を経ていって、命令されたのです。私はこのようなことを知って、とても聖書を見ることができないことがありました。涙が先にたって見ることができないのです。人間に対してこのようにせよ、とされるとき平安な場で、このようにせよとされたのではありません。神におかれてはその場を何百ぺんも通過して、そのみ言をされたのです。一度ぐらいやってみて、やれというのではありません。何百ぺん何千ベんやってみて、やりなさいとされたのです。サタンとの闘いに勝つならこれこれのことを保障するという基準を立てておいて、初めて神は我々人間に対して、やれと言われるのです。こんな神様なのです。

 聖書で死ねとされることも、神が死の苦喪を経た後にこそ、言われたことなのです。このように語ることができる主人公になったゆえに、そうされるのです。そうではない立場で、万人が苦痛の中にあるときも、栄光の宝座に座って号令する神であるなら、サタンが讒訴するのです。サタンが讒訴しないということは、神の心情的な悲しみが、サタン世界のあらゆるものより大きいからです。永遠の天理原則と、永遠の心情をもっておられるので、サタンが讒訴できないのです。原理は壊すことができません。不可侵なのです。神は原理的な心情によって、堕落した今日まで抱いて来られたのです。分かりますか?

 神は誰の神でしょうか? また堕落した宗族は誰でしょうか? その神は堕落の宗族のアボジなのです。万有のアボジとされたのです。この父は、恨を持つアボジです。神は罪を犯して監獄に引かれてゆく、息子の後について行く父になったのです。自由なる神として知っていたのですが、その心にはどうにもならない手錠が掛けられているのです。永い歳月を一日のように、息子の死と、息子の疼きを案じる心でついて来られた神であることを、皆さんは知らねばなりません。

 ’恨み多いことです。どうしてあなたは堕落した祖先の父になったのですか。あなたがお気の毒です’と祈祷しなければなりません。子供である心が爆発してわき起こって訴える息子・娘がいたなら、神は彼を抱いて慟哭されるのです。神は喜びの中で我々に会うとされるのではありません。鉄窓に閉じ込められ、引き裂かれ折られたアボジを抱いて’アボジ、どんなに苦労されましたか。あなたが私のアボジであることが恨みです’と慟哭する息子・娘を求めてさまようのです。こんなお方が、神様なのです。

 すべての人は勝手にゆき、時代は流れても、父なる神が子に対する一片丹心は、誰も侵犯することができません。事態が複雑で、環境が複雑であるほど、神はより心配されるのです。六千年前には、我々の先祖個人に対して切ながられたのですが、世界人類が死亡の沼で喘いでいるこの時において、最も凄まじい心情で切なく思う神であることを、知らねばなりません。ですから皆さんは、どうしようもない罪人なのです。不孝きわまりない者どもです。


 6. 救援摂理をして来られた神の心情

 一国の君王に反対すれば逆族であり、父母に反対すれば不孝者とされるのに、万主の主であり、全天宙のアボジに対して、我々は幾たび逆族となったことか! 幾たび不孝者となったことか! 各自一度、考えてごらんなさい。ですから修道の道を行けば行くほど、服を脱いで打ち、それでも不足なら刃で体を裂き、首を絞首台にのせても不足としなければなりません。これが神に対して負う、息子の持つべき心情なのです。

 イエスがそうでした。他の人を手本にすることはありません。イエスは万人のまえに現れるときは堂々とした姿でしたが、独りあるときは歴史的な深い涙を流したお方でした。悲しい涙を流した主人公でした。涙を流すときも王者でした。聖書にはこんな内容は現れていないのです。彼の心を誰が知るでしょうか? 知る人はなかったのです。私が今日、統一教会の信徒たちに願うことは聖書に現れたイエスではなく、三位神と呼ばれる神ではなく、それ以前の動機の神を知れということです。であればイエスが分かるのです。

 イエスは自ら、喜ばしい場を避けたのです。自ら自分の家を捨てて出たのです。このようにすることが、良いからではありません。アボジに対して泣きたくても泣くことができない環境であり、アボジを知ってあげたくても知ってあげることができない環境であったので、そうする他なかったのです。イスラエル民族が嫌で、イエスが寂しい山の中で祈祷したと思いますか? 違うのです。イエスはイスラエル民族を抱え、神の心情を吐露し、共に泣きたい心情に染みていたのです。ところが分かってくれる者がいなかったのです。 皆さんが先祖の血肉を受け継いだとして、この細胞の一つにも恥ずべき罪状がかかっているのです。今日自分が何か、ああだこうだとしても、そうはできないのです。行けば行くほど涙を流さなければならず、アボジのまえに顔もあげることができない、歴史的な罪人なのです。

 神は心情をもって私たちを捜し求めて来られたのです。心情で求めてきたのです。皆さん、わたしはあなたの父であり、あなたはわたしの息子に間違いないという心情で、求めて来られたのです。その次に、事情をもって求めて来られたのです。罪人たる者を救わなければならないという事情をもって、求めて来られたのです。その次には、希望をもて求めて来られたのです。これがいわゆる、信仰、希望、愛というものです。

 聖書を見ると、聖霊の九つの実がのっています。愛、喜び、平和、寛容、慈悲、善意、忠誠、柔和、自制、この九つの実の骨子が何であるか? 愛と寛容と忠誠です。

 神の摂理をすべて探って見れば、み旨によって人間を捜し求めて来られたことを知るのです。何のみ旨? 罪人を救い、息子を造り、その息子に天と地をすべて与えるというみ旨です。こんな希望を持って求めておられるのです。アダムとエバを創り、神様は万物を主管せよと祝福されたのです。ところが主管してみましたか? 堕落することによって、主管してみなかったのです。それで神様は、人間を再びその場に立たせようとされるのです。こんな希望を持って求め、こんな心情を持って捜して来られたのです。

 人間が罪を犯したとして’や、こいつ、なぜ罪を犯したのか’とのみされる神ではありません。罪を犯す事情をよく知る神であるのです。ご自身の事情を考えもせず、人間の事情を知ろうとされる神なのです。悲しむ者には悲しい事情をもって訪ねて来られ、苦しむ者には苦しみの事情をもって訪ねて来られ、悔しく痛憤する者には悔しく痛憤する事情をもって訪ねて来られるのです。皆さんは神と、どの程度に事情を通じてみましたか? 神は我々の生活環境の中にも、このように訪ねて来られるのです。それだけでなく、心情をもって訪ねて来られるのです。わたしに背反しても、わたしはあなたの父という心で、六千年という永い歳月を求めて来たのです。

 それでは神の最後の目的が何でしょうか? あなたがわたし、わたしがあなたになることです。イエス様も語られるに’その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがわたしにおり、また、わたしがあなたにおることが、わかるであろう(ヨハネ一四:二〇)’とされました。目的は一つになることです。何によって一つになるのか? 心情によって一つになり、心情と希望によって一つになることです。そのために神は求めておられるのです。


 7. 神の最後の目的

 ところで地の上には現在、三〇億に近い数多くの人間が暮らしていますが、神の事情を知る人間が一人もいないのです。皆さんは神のみ旨が何か、知っていますか? 神の希望が何か、知っている? 信じて天国に行くことが希望ですか? とんでもない考えです。ここで叫んでいる人間は、そんな神は信じません。罪悪に腐った体を天国に送る、そんな神を信じるの? それなら矛盾した神です。罪を犯した人間を許して天国に送るの? そんな天理原則が、どこにあるかというのです。今まで、天国に行った人間はいません。みな楽園の他には、行っていないのです。

 一つとなった者と幸福に生き、一つとなった者と共に永遠無窮に天上天下を動かすことが神の考えです。それゆえ神は一つとなる者を求めておられるのです。どんなに説教をうまくやり、何をどうやったとしても、神と一つになっていなければ、すべてが偽りです。偽り。事実の通りに行う人たちが、偽ものよりも劣って見えるときが多いのです。俳優たちをごらんなさい。全部偽ものです。全部にせですが、事実よりもうまくやってのけるのです。問題はここにあるのです。

 聖書が必要なのではありません。そのお方の事情と自分の事情が一つになって、そのお方の心が向かうところに自分の心も向かい、そのお方の抱く心情を自分が抱くことができなければなりません。神はそんな人間を求めているのです。一つになる人間を求めているのです。ですから歴史上の闘いは、人間同士が一つになるための闘いではなく、神が人間と一つになるための闘いなのです。歴史路程において、数多くの悲惨な決闘劇が演じられましたが、これは人間が神を求めるための闘いではなく、神が人間を求めるための闘いであることを、よくよく知らねばなりません。

 これから神様が、公義の審判主として現れるとき、神はどのようになさるのか。’わたしはあなたのための心情をつくしたが、あなたはわたしのために、どれほどの心情をつくしたか。わたしはあなたの事情をみな知ってあげたが、あなたはわたしの事情をどれほど知っているか。わたしはあなたのために死ねよ生きよとしたが、あなたはわたしのみ旨をどれほど考えたか?’とされるのです。これによって問題を解決しようとされるのです。聖書のみ言に、これこれの肉を食べるなとありますが、一片を食べたから地獄に行くというのではないのです。心情の世界は法度を超越しているのです。

 我々が公義の審判台の前に立てばサタンが讒訴します。法廷に一度行って見なさい。この世の法廷にも判事がおり、検事がおり、弁護士がおり、囚人がいます。公義の審判台もこれと同じ様子なのです。検事のようなサタンが皆さんを讒訴するのです。イエス様は皆さんの弁護士です。皆さんが過去にどんな事をしても、これを弁明してくださるために汗を流すのです。しかしもともと六千年の罪悪史をもつ人間ですから、弁明しようにも弁明のしようがないのです。たやすくできることではありません。恥ずべき罪状があまりに大きいのです。

 サタンに引かれる条件のみなのに、これをどうするのでしょうか? これを精算してくれる一人の人が現れることを、アボジは待ち焦がれておられるのです。主はあの世に行って、これをおいて祈祷されているのです。これしきの地上で、幾らかが倒れるのを心配することではありません。天倫の大道を立てることを案じておられる主であるのです。皆さん一人ぐらい地獄に行っても、神が滅びる? 違います。救援は個人のことであり、天倫の大道は万人のことですから、一人の人間を犠牲にする恨があったとしても、大道は立てなければなりません。それでイエス様は、祈祷されておられるのです。

 皆さん、聖書を見るとき、あるいは祈祷するときはどのようにしますか。神のみ旨が何であり、神の事情が何であり、神の心情がどうであるかを知って、神が最も悲しかった一つを掴んで一生の間、泣いてみるのです。そうすれば天国に行きます。他の何かをどうだこうだという必要はありません。神が最も悔しいことが、何でしょうか? 最も悲しいことが、何でしょうか? 最も喜ばしいことが、何でしょうか? 聖書を見ても喜ばしいことはありません。悲しみだけです。排斥され、追われたので、嬉しい時があったでしょうか。アボジの日の中で、最も悲しかったことが何でしょうか。問題はここにあります。これを解決すればいいのです。親友も相手方の悲しみを知って、心情が通じてこそ、本当の親友です。孝子も誰でもみなやれる立場であっては、孝子とは言えません。忠臣も同じです。これを知らねばなりません。神の六千年の歩みの骨子が何かを知らねばなりません。


 8. 父の栄光をもって来られる再臨主

 神は心情と事情と希望を抱いて、人間に対して勧告されるのです。神が我々の心情を百%知り、事情を百%知り、希望を百%知っておられるのですが、語ることはないのです。これが神の事情なのです。なぜ、語ることがないのでしょうか? これを話してしまったら、サタンが先に知ってしまうからです。

 ある金持ちが、まだ未熟で幼い何にも知らない世間知らずの息子に’何の宝物はここにあり、何の宝物はそこにある’として、主人に背く僕や怨讐がいるところで相続させたなら、彼らは息子が持つままに、そっとしておくでしょうか? サタンがそんな立場です。神がすべて語ったなら、神の息子・娘がする前に、サタンがまず知ってみなやってしまうのです。

 なぜそうなのか? 神は堕落した世の中と離れているのです。この地は誰が支配しているのか。サタンが支配しているのです。空中の権勢を握るサタンが、地まで支配しているのです。それでこの地の上には、怨讐がいっぱいです。神が息子・娘に命令することを、息子・娘がやる前に怨讐たちが知ってまずやった後で、これをもって要求するなら聞かなければならないのです。公義の法度を持っているので、仕方がないのです。怨讐であったとしても、これがやれという命令に符合しているなら、認めなければなりません。

 ですから聖書は、秘事となっているのです。秘密です。悔しくも憤ろしいことです。聖書の難問題を抱えて’お父様、どうしてこのようになったのですか’と祈祷をするとき、ここで語る人間はこんなことを感じたのです。’お父様、あなたはどうして、万民を救わなければならないお父様になったのですか’と訴えたら、神は’おまえの事情よりも、もっと痛ましいわたしの事情があるからだ’というのです。

 このようなことを知るとき、皆さんは厚かましいのです。信じるだけで天国に行くのですか? 厚かましいです。皆さんは一つになろうとされる神に侍ったことがありますか?アボジと一つになるために、闘ったことがありますか? 一度もないのです。一度もないなら、皆さんは反論することができません。しかし天は我々と一つになるために、どれほど苦労されたでしょうか? 皆さんはこれを知らねばなりません。

 見てみなさい。神はイスラエル民族に、み旨で一つになれと勧告されたのです。であれば四千年の間準備したあなたたちイスラエル民族は、世界を支配するという希望を与えたのです。アブラハムを祝福して’あなたの後孫は天の星のように、海辺の砂のように生みふえて、地に満るであろう’とされたのです。希望をもって求めて来られたのです。

 その次にイエス時代には、事情をもって訪ねて来られたのです。旧約時代には国がないイスラエル民族のまえに世界の中心、即ち祭司長王国がなるという希望を与えたのです。希望をもって行く息子・娘に、神はまた事情をもって訪ねて来られたのです。事情は誰が持って来たのか? イエスが持って来たのです。皆さんの事情を弁護するために来られたのです。事情を弁護することが終わったら、何をするのか? 心情を糾合するのです。そのために、再臨主が来るのです。その標準は愛です。最もお終いは、愛なのです。

 それでは我々自身はどんな立場にいるのか? 心情と事情と希望、このすべてのものを知る場にいるのか? 知らない場にいるのです。白紙です。何にも知りません。何にも知らないもののために、このように苦労される神様なのです。この神を我々は今まで、知らなかったのです。しかし神は心情をもって一から世界まで、全歴史を率いてついには、父として全体を愛することができる時のために、心を砕いておられるのです。

 旧約時代は僕を送って希望を抱かせ、新約時代は息子を送って事情が通じるようにされたのです。これから再び来る主は、アボジの心情を持って来られるのです。アボジの栄光によって来るというのです。アボジの栄光によって来て、心情の基準を立てる時が終わりの日です。心情の条件を地上と天上にまで立て、次にはこれを満宇宙のまえに公布しなければなりません。あなたはわたしの永遠不変の息子・娘であるという、式をするのです。これが子羊の宴です。

 皆さん、終わりの日にはどのようにしなければならないか? キリスト教では希望を抱いて、忍耐せよというのです。耐えられなければ天上の大道を壊してしまうので、耐えよというのです。イエスやステパン、あるいは十二使徒をごらんなさい。裂かれていろんな目にあったのですが、耐えたのです。希望の一日を望みとして耐えたのです。その人々が我々の先祖です。希望を持って耐えよ。明日をおいて耐えよ。事情を知るなら忠誠をつくせ。あなたのために主はこのように死なれたので、死ぬほど忠誠をつくせ。これがキリスト教精神です。忠誠が何でしょうか? 忠の字は中心の心です。中に心であり、誠の字は言葉を成すという意味です。天のまえには弁明ということはありません。死ねといえば死ななければなりません。綿を背負って火に入れといえば、入らなければなりません。


 9. 混沌とした世の中を愛で収拾される神

 ’愛せよ、忠誠であれ、懇切であれ’とされるのです。これは神の心情と愛と希望を連結させるためです。しかし我々には未だに、希望の時が来ていないのです。わが心情の君が来ていないのです。私の事情を知ってくれる者が来ていないのです。その時代が、そのお方が来ていないので、来るその時までイエスと聖霊は涙ながらに’お父様、耐える息子・娘を哀れにおぼしめしください、忠誠をつくす息子・娘を覚えてください。心情を注いで思慕する息子・娘を覚えてください’と祈祷しておられるのです。この因縁を歴史的に収拾するときまで、心情の荷を背負っておられるイエスと聖霊なのです。

 こうして世界的な時が来れば、一つになるための役事をなさるのです。アブラハムからヤコブの家庭、モ-セの民族、イエスの世界、全天宙まで一つにするための役事をなさるのです。この被造世界を一つにするために求めておられる神ゆえに、歴史も一つの世界に向かって流れていることを、皆さんは知らねばなりません。

 こんな歴史的な見地から今日、異口同音に終わりの日であると言うのです。もしも誤れば、今にも滅亡する危機に瀕しているのです。しかし、天があるのです。判決は善と悪、最後の二つが互いに衝突して起こるのです。これが歴史的な闘いです。ごらんなさい。歴史を明らかにして見れば、神様はアダムとエバが堕落した後、カインとアベルを立て、堕落したアダムとエバの家庭を収拾しようとされたのです。

 収拾するときは、どのようにするのか? 神が愛する人間を愛しなさいというのです。愛を通した心情、愛を通した事情、愛を通した因縁ということです。即ち、心情を通した愛であり、心情を通した事情であり、心情を通した理念です。このような心でアダムとエバの代身、カインとアベルを求めたのでした。カインがアベルを愛するということです。接ぎ木です。ここから接ぎ木ということが起こるのです。ここで一つに帰結しなければならなかったのですが、カインがアベルを石で打ち殺したのです。戦争の歴史はここに始まったのです。


 10. 中心人物たちを通した摂理歴史

 ですから今までの歴史は、善なる人々が悪なる人々に殺される歴史だったのです。普遍的にも二人の人間が互いに偉いと主張するとき、まず主張する人間が悪い人間です。八〇%はそうです。善が先に悪を打つ法はありません。韓国の歴史を見ても、奸臣が忠臣を打っても、忠臣が奸臣を打つことはないのです。

 このような闘いは、どこから起こってきたのか? アダム家庭から起こったのです。カインが神の愛を受けるには、神が愛するアベルに接ぎ木しなければなりません。絶対服従せよということです。であれば神に背反したサタンを、屈伏させることができるのです。人間に全宇宙を主管せよと祝福されたのですが、人間が堕落して血筋に二つの因縁が生じたので、この法度に従って世界は二つの方向に起こってゆくのです。

 こうして神が愛することができる個人を捜し立てたのが、アブラハムです。アベルを立てたら良かったのですがアベルが殺されたので、この代を受け継いで神が愛することができる完全な実体として一人の人を捜し立てたのが、心情と事情と希望を代身する信仰の祖アブラハムであったのです。万天下の人類は神が最も愛するアブラハムに、すべて服従するということが神の摂理なのです。神が愛する人の前に屈伏すれば救いを受けるのであって、でなければ地獄に行くというのです。それでアブラハムを立てて、アブラハムの家庭からアブラハムと一つになれというのです。一つにならなければ怨讐です。アブラハムが割礼を受けて神の息子になったのであって、受けない人間は全部が怨讐です。

 モ-セ時代には、モ-セの言葉に絶対服従しなければなりません。優れても劣っても、モ-セにすべてが服従しなければなりません。接ぎ木するには心情が同じでなければならず、事情が同じであり、本質的な所望が同じでなければなりません。モ-セが死ねといえば死ぬという心、生きるなら生きるという心、何をやれと言えばやるという心、またはこんな心情をもって、事情を経て、所望の土台まで伸びて行ったなら、滅びることはなかったのです。ところがモ-セに反旗を掲げたイスラエル民族は、どうなったでしょうか?

 四千年の間苦労して選んだイスラエル民族のまえに、イエスが来たのです。イエスは国家と民族を神のまえに、心情によって接ぎ木しようと来たのです。イスラエル民族を所望的な基準まで接ぎ木しておいたので、心情を通していって神の心情おく深く接ぎ木しようとしたのです。ところが事情も通じることなしに逝かれたのです。

 人間は堕落して他の血を受けたので、偽オリブの木です。それでイエス様の骨髄のように応じて和し、あなたはわたしの血肉であるとされる、直系に因縁を結ぶ一人の息子が出てこなければなりません。であれば息子を立ててすべての人類は、この息子のまえに無条件に服従しなければなりません。真のオリブの木に接ぎ木されたなら、偽オリブの木は切り捨てなければなりません。

 完全な木になるには、三つ以上のものがなければなりません。こんな立場のイエス様を中心とする三弟子、その中で誰かが劣っていて、彼らにみ言を語られなかったのですか?違います。時を見て心情の深い、天の悲劇を話そうとされたのですが、彼らがそこまでになっていないので話さなかったのです。それで’わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない(ヨハネ一六:一二)’と言われたのです。気の毒なイエス様です。神の生命、神の愛、神の全体理念を三弟子を通して現そうとされたのに、彼らが堪えられなかったのです。

 ですからイスラエル民族は、主権のない民族になってしまったのです。これはイエス様を捕らえて殺した罪によるものです。もしもイスラエル民族がイエス様を万王の王として侍り、絶対従順であったなら、世界はきっと神が征服したのです。モ-セの後継者がカナン七族を打って降伏させたように、征服したのです。問題ないというのです。そのようになったら二千年間、選んだイスラエル民族が、イエスを信じる後代のキリスト教徒が、虐殺されたでしょうか? とんでもないことです。イエスを殺したので、報いを受けなければならないのです。自分の先祖の罪が、三、四代にまで及ぶというのですから、みな報いを受けなければなりません。これを四千年以内に蕩減しなければなりません。モ-セもエジプトで四代目に出たのです。すべての事は、天地の法度を中心に動いて行くのです。

 このような歴史を経て今まで来たのですが、心情的に事情的に所望的に、神と接ぎ木された人間がこの地の上にいないのです。ですからアボジは歴史をおいて、一ぺんに息子として対することができないのです。なぜ? 堕落して落ちてしまったからです。本来の創造理念に、神が闘うということがどこにあるでしょうか? 神はこんな理念は立てなかったのです。だから僕たちをして闘わせるのです。人間が堕落して僕の立場に落ちたので、ここにおいて闘って勝って、事情を通じることができる息子の立場に引き上げるために、役事してこられたのです。折って接ぎ木しなければならないので、この心情を接ぎ木するためのものが、再臨役事なのです。’主よおいでください’という懇切な心情が、天上、地上を貫かなければなりません。このような心があれば、天の側になるのです。こんな一時に向かって、神は今まで役事されているのです。


 11. 終わりの日に父のまえに立てる息子・娘

 終わりの日とは、いかなる時か? 天が六千年の間、全力を注いできたこの地に向かって、一撃を加える時です。最大の誠精をつくすべき時です。息子と僕が共になる時です。息子と僕が同じ場で闘うのです。それのみならず、アボジまで力を合わせるのです。父と息子と僕が、いっぺんに出てくる時が、終わりの日です。アボジも出て、息子も出て、僕も出るので、天国生活を整える時です。神様は本来アダムとエバを子女として、天使長を僕として創られました。アボジを中心に息子・娘と僕が平面的に立つことができる世界的な環境の時を、天は今まで求めて来られたのです。

 それで終わりの日には’私はアブラハムだ’という人間も出るのです。皆さんがパゴタ公園のような所に行って、探って見てください。そこでどんなことを言うか。みな動機があることなのです。’私はパウルだ、私はイエスだ、私は神だ、私は何々だ’と叫んでいる人間が出るのです。これはなぜそうなるのか。僕と息子とアボジが出会う、世紀末的な時、総精算する時だからです。葉っぱと枝と幹が、一っぺんに接ぎ木されて生かされるということです。幹のアボジ、枝の息子、葉っぱの僕が一っぺんに現れるのです。世界の思潮はこのようになってゆくのです。心情を中心に接ぎ木された人々を、この世の中の主人公として立てるための事が、終わりの日の神の役事です。

 今日世界を担う者は共産主義者でもなく、民主主義者でもありません。神の心情と事情と所願に一致して、接ぎ木されて生きる群れです。これが聖書の骨子です。歴史の最後の終着地は、こんな所として現れなければなりません。

 今日まで、道人たちは踏みつけられてきました。ある時は上流階級が世に出、軍閥時代には中流階級が世に出ました。今の時は労働者と農民の時です。会社にも労組があって、労働者たちが巾をきかせています。みな世に出、成功してみたのですが、修道の道を行く人はひどく惨めに、上流階級の人間にも、中流階級の人間にも、下層階級の人間にまで、あれはイエスかぶれだと迫害ばかりされたのです。しかし神の心情と事情と希望に接ぎ木された息子・娘がいるなら、ここに消え去ることなく、彼らが天と地を支配するのです。道人たちが支配する時が来るのです。それでこそ公平な神様なのです。その一時を望み見て、神は永い歳月を準備して来られたのです。

 こうして神様は、どうなさるのか? 僕を立て、息子・娘を立て、アボジとして彼らを懐に抱いて過ぎた日を思って歴史的な涙を流し、溢れる希望の心、切ない事情の心、寂しい心情をすべて解き放つのです。息子を抱き、娘を抱いて、僕を立てるその瞬間、初めて歴史を振り返ってハッハッハと笑うことのできる神の姿を、我々は慕わねばなりません。 サタンよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 悪党どもよ、おまえの権勢がどこにあるのか? 公義の審判の前に追われて行くのだ。六千年の間一つになるための苦労された神を、終わりの日には一度、知ってあげなければなりません。六千年目に一度でも知ってあげる神様なのです。’あなたは私のアボジであり、私はあなたの息子・娘です。このように苦労されたアボジ、恐れ多いばかりです。私のためにこのように苦労されたことを知りました。昔に逝った先祖たち、アブラハム、モ-セ、イエス様が苦労したのも、私のためでした’と涙して、体ごと駆り立てる過程を経なければなりません。

 ’私には心情の主人公に、侍ることができる心情がありません。これが恋しいのです。事情を抱いておられるその主人の事情を知らないので、どうしたら良いのですか。あなたはこれを好まれますか? あなたが好まれるものを持ってきました’としてみましたか?’アボジ、これを差し上げたいのです。アボジ、これを召し上がってください’という心がわいてこなければなりません。’あなたのみ旨が韓国の民を救うということですか?

これが願いです。であるなら自分が死んでも、食べる物を食べなくても、この民族を救うアボジのまえに捧げます’としなければなりません。

 世界人類のみならず、天上の数千万の霊人たちまで救援するために、我々は耐えるにも無限に耐え、事情を抱くにも無限に抱いてゆかねばなりません。心情を抱くにも無限に切ない心情を抱いてゆかねばなりません。心情をつくし、心をつくし、体をつくしてこの世界に向かって行く皆さんにならねばなりません。お父様がこのように求めておられることを知るとき、涙ながらに罪責感と恐れ多い心に染みるなら、審判の峠を越えることができるのです。

 悔い改めで始まったキリスト教ですが、最高の罪人です。事情を知らず、み旨を知らず心情を知らなかった罪を、悔い改めなければなりません。勝利のその一日のために、六千年の間一つになるために闘って来たアボジと息子・娘の因縁を結び、あるいは僕の因縁を結ばなければなりません。そのようになれば’六千年の間積んできた摂理歴史を今、わたしの代身、あなたがたに任せる。すべてのものを、一挙に精算するのだ。首を切るなら切り、腹を裂くなら裂け’とされるのです。神が打つべきことを、我々が代身して打ち、すべてのことを代身して精算せよというのです。これが審判です。

 心情を準備するキリスト教徒、事情を解決するために行く聖徒たち、その日の希望を満天下に伝えなければならないキリスト教徒なのです。今は心情をつくし、事情をつくし、み旨をつくさなければなりません。このような何かがあれば、一つになるために訪ねて来られるアボジのまえに出て、息子の認定を受け、娘の認定を受け、越えてゆくことができるということを、皆さんはよくよく知らなければなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.03.18 18:18:16
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.