6244696 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2021.03.21
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​​​神と共なる愛着心を持て​

 1960年9月4日(日)前本部教会

 この御言は40日伝道期間を終えて帰ってきた隊員たちに語られた


 この期間に南韓各地400か所に行って伝道し、今は多くの教会が生まれました。それゆえこれから統一信徒は、新しい覚悟を持たなければならない時が来たとみるのです。今協会長も話ましたが、血と汗を流して、その地方なら地方を抱えて、命をかけて戦うことを有難く思うものです。


 この世的な愛着心を切る摂理をされる神

 皆さんに一言、言いたいことは今から我々は戦わなければならない時が来ましたので、神が願う時期を迎えて、我々はある覚悟をしなければならないということです。個人的な覚悟よりも、天地を代身して天を動かし地を動かすと同時に、人類を動かすという覚悟をしなければならないということを、皆さんはこの伝道期間を通してよくよく体験したと思います。この時代的な基準を我々はまず知りましたので、この時がどんな時かを知らねばなりません。

 天は必ず善なる群れを率いる時、平坦な道を行くのではないのです。踏まれるその場で涙と汗と血の祭壇を連ねて、これまでの歴史を抱えて来られたことを、どんな歴史的な史実を見ても、摂理的な路程を観察して見ても、これは否定することができない事実です。 ですから今日のこれまでの歴史、文化を見ても、その環境に遊んで安楽な立場で生きてきた群れによってできたのではなく、踏まれ追われる群れを通して、彼らの涙と汗と血によって成されてきたことをよく知っています。このように個人から家庭を経て、あるいは社会、民族、国家を経て世界を越えて、ひとつの目標に向かって歴史を編んできて、これまでの人類文化は発達してきたのです。

 それではこの時はどんな時か? 良心的な者や、あるいは道を究める人や、誰かれを問わず、新しい覚悟をしなければならない時であることがよく分かるのです。この時は自分が暮らす社会に対する愛着心を切ってしまう時が来たのです。神はこの地上に摂理されるにおいて、求道の道を行く数多くの群れに対して、彼らの世の中に対する愛着心を断ち切る道へと追い込まれるのです。家庭から、自身の欲心から、この世にはある欲望の属性が多々ありますが、神はこれを除去する方向へと、率いてこられたことは事実です。

 これは単に宗教人のみではありません。宗教なら宗教人を中心として、一つの目的を成すための神のみ旨があったとすれば、最後の終末時代にはどんな世界が来るのか? 必ず全ての人々が愛着心を失ってしまう社会環境へと、神は追い込まれるのです。

 終末とはどんな時か? 終末とはどんな時かというならば、自分たちが命をかけるどんな事に対しても、愛着心がだんだん薄れていって、ついには失ってしまう時です。そんな終末時代が、必ず来る時がなければならないのです。これはなぜでしょうか。世の中の愛着心を持っていては、天のみ旨を達成できないからです。

 とすれば神は必ず目的を達成し、み旨を果たそうとされるなら、必ず地上の人類、あるいは国家に対する愛着心、民族に対する愛着心、あるいは自分の学問に対する愛着心、さらには家庭に対して、あるいは父子の関係における、各分野、各部署における愛着心を断ち切ってしまわれようと、天は摂理されていることを総括的に見ることができるのです。 さらには現在を総括的に観察して見ると、民主と共産世界が対決しています。こんな思潮が行けば行くほど、民主陣営にある人間自身も民主陣営に対する愛着心を失ってゆくのです。その反面、共産主義者たちも共産主義に対する愛着心を失ってしまう方向へと、必ず世界は動いて行くのです。このように闘争的な現象を経て、人類に対する愛着心を断つ方向へと、これまでの歴史は展開して終末的な路程へと流れていることは事実なのです。


 世上に対する愛着心を断ち、神の代身者と因縁を結べ

 我々が天の側の立場で観察して見ると、必ず個人から家庭を通して社会と国家を越える世界、天宙の思想圏までもこんな傾向になっていると同時に、さらには宗教や良心にすがっている人々、あるいは求道の人々においても、そんな傾向にと必ず行かざるを得ないのです。ですから今日、既成教会や、全ての宗教を見ると、その人々が必ず新しい宗団に向かう本来のみ旨の時が来ましたので、どの宗派を問わずそこには必ず分裂が起こり、誠心誠意すべてを注いで殉教していった数多くの聖徒たちが、これを排除していかなければならないのです。こんな終末時代が必ず来なければならないのです。

 それではどうして神はこんな方向へと行かねばならないのか? 皆さんはこれを知らねばなりません。悪の世の中と善の世の中、悪の世の中で一つの峠を越えるためには、必ず精算しなければなないのです。これを精算する時がいつかといえば、審判時代なのです。その時が審判時代です。我々が世の中の全てのことに愛着心を持って終わりまでしがみついていたら、天の前に大いなる審判の場を越えることができません。ですから天は全部整理させようというのです。ついには自分を信じられず、愛する人までも信じられないという孤独の境地にまで追われ、愛着心を持って世の中に誇る何物もないという立場まで追い込まれるのです。このように追われ、ここにおいて人間の力ではもうダメだと誰もが思う時、再び天を願い、天に対する愛着心を呼び起こす摂理のみ旨があるのです。そのようになるのです。

 それでは我々がこの時代において、この時代が審判の時ならば、どのように審判がなされるのか? 御言審判と同時に人格審判があり、人格審判と同時に心情審判があります。原理を学んでいますから、皆さんは良く知っています。ただ名目的に審判するのではありません。火を降り注いでこの地に天変地異を起こし、全てを滅ぼすのではありません。絶対にそうはなりません。必ず審判には、御言審判があり、その次には人格審判があり、そして心情審判があるのです。

 キリスト教全体の歴史を照して見て、イエス様までの4千年の間、求めてきたものが何か? 真の真理を求めてきたのです。さらに真理を中心とする、真理化する、神のまえにに立って、神を心から呼び、神が心から話され、神の御言に直接ふれ、神の御言に直接、答えることのできる一人の人格者を捜し求めてこられたのです。

 その人格者を立てて、どうするのですか? 神とその人間と一体となって、神の愛を受けたならば、神の前に愛をもって答える立場まで導く神のみ旨があったのです。ですからイエスが来られた後、これまでは御言を中心とする審判歴史なのです。「信ずれば救われ信じなければ救われない」という標語のもとにこれまで来ました。それで御言と実体が必ず伴わなければならないのです。神の真の御言は必ず、実績と実体を残さなければならないのです。これが天理の原則です。

 ところでこの地上に万物を造る時、真の息子娘のために造られたのに、真の実体が現れなかったのです。これが堕落ですよ。真の実体を得て神と共に生きることができない世界となったのが、堕落した世界です。これを再び探し求めるためには、再び神が御言を下されて心情と連結しなければなりません。御言を再び立てて、御言を代身した実体を立て、その実体の姿が完結した後に、神の心情を注いで父子の因縁を結ぶのです。これが創造目的であることを、皆さんは良く知っています。

 ですから天が今まで、摂理されて来たことは、御言を捜し立てることだったのです。しかしいまだイエスが行かれた後、真の御言は現れないのです。御言とはどんな御言であり御言の目的は何か? これは個人と国を生かすためのものではありません。御言の目的は個人を越え、家庭を越え、社会、国家、世界、さらには無形の世界まで、この天地の理念を蘇生させるためのものです。この目的を達成してこそ成るのです。

 なぜそうか? 神はアダムとエバを造られ、祝福されて万物を主管せよとされました。主管する時は外的な面ばかりではありません。内的な面まで主管しなければならない基準があるのです。この話は何の話ですか? 私個人が信じて天国に行くためのものではありません。私個人が信じると同時に、私の家庭が信じ、社会、国家、全世界、さらには天上にいる無数の霊人まで一つになり、神が創造された理念と共に、一体の立場までゆくためのみ旨で、そんな御言を下されたのです。


 神の御言を中心として理想世界を成せ

 こんな面から見るとき、今日のキリスト教はいまだキリスト教の世界観が立っていません。個人は必ず本然の家庭を基盤として、社会理念を経て国民、あるいは世界人類としての関係を離れることはできません。ですから我々の個体を中心として、救援の目的を探す時は過ぎ去ったのです。「天のお父様、お救い下さい」と血と汗を流して祈祷する時は終わったのです。時がそんな時ではありません。

 ですから昔、神様はこのような歴史的目的を達成するために、数多くの人間を悪なる存在の懐に抱かせ、そのままに任せ、新しい角度から新しい色あいの姿を求め、個人から、あるいは家庭から社会、国家形態をもって選民という民族をここに立てるために役事されていることは事実です。

 それで神の救援の目的は宇宙的な、さらには天宙的な目的達成であります。ですから今日、人間が必要とする御言審判時代に要求するその御言は、やはり天宙の理念を越えることができる御言でなければならないのです。ですから個人が救いを受けようというのではありません。世界観から、天宙観から徹頭徹尾、原則的なその御言を中心として、自分がぶつかる時、いまの自分自身は神の御言のまえに、土くれが光を受けて造られたように、ここに生命が生まれ、感情が生まれ、理念的な方向を捜し求めて行くのです。そんな真の御言を、人間は必要としているのです。

 今日このような内容を持つ御言はどこにあるか? ないのです。ですから堕落以後から今まで、聖書の年代を見るとき、幾千年の歴史を経てきていますが、幾千年の歴史路程におきまして神が憤りの言葉を発せられないのです。聖書の御言はイエス様が独身の身で語られたものです。イエスを中心とするその理念は、宇宙の全体のまえに立てるものでなければなりません。しかし個人救援摂理を中心に、今まできたのです。これを分かって下さい。個人救援を過ぎ、家庭救援、家庭救援を過ぎ、社会救援、国家救援まで天は必ず、立てなければならないのです。最小単位として、国家でなければなりません。そうすれば世界的役事をすることができるのです。

 ですから今日、キリスト教徒たちは国がない民なのです。求道の道を行く人々は国がない民なのです。ここには国籍もなく、移管される国家もないのです。自分が自分の宗族だとすることのできる民族もないのです。

 こんな現世界において、今日この時代はどんな事を要求しているのか? 今日この時代現象において、我々は宗教人のまえに何を要求しているのか? 道の理念を中心に国籍を立てることのきる、道の理念によって国土を確定することのできる、道の理念を中心として民として立てることのできる基準が、神が摂理されたなら必ずなければならないというのです。

 こんな現象を収拾するためには、どうしなければならないでしょうか? ひとつの分野を見てみると、百軒あれば百軒の暮らしが全て違うのです。違っていてもある原則的な心情に一致する帰一点がなければなりません。この帰一点を立てるためにキリスト教は、愛というテ-マを掲げたのです。とすればこの愛のまえに、誰が接ぎ木されて、復帰されるのでしょうか? この愛という言葉のまえに、誰でも尊敬することのできる基準を、天は引き上げなくてはなりません。ですからここに新郎新婦という名詞を与え、絶対的基準を立てるために、教会や聖書の中にこれを訓戒されたのですが、今日教会を信じる多くのキリスト教徒は、そんな境地に立っていないので、問題が大きいのです。

 こんな摂理されてきましたので、今この時代に神が最後に望まれることは、心情的基盤において、ある個人が信心して天国に行くことを願ってはいないのです。個人を中心とする家庭、家庭を越えて国家、あるいは世界全部が神の心情のまえに一つになる、御言を中心とするそんな世界を慕い求めているのです。これは不可避なことです。


 御言を中心として互いに一つになれば理想世界を成せる

 ですから名目的に信ずる時代は過ぎました。全ての事理は我々の生活的な感情まで、位置と公式的な法度過程を条件として、我々と関係を結んでいる実生活を否定しなかったら信仰観念において、やはり突き上げるものがなければなりません。

 それでは今日、聖書において示し、聖書で望んでいる目的はどこにあるのか? 神の目的は何か? 審判の目的はどこにあるのか? 一個人を審判して、救援して、天国を望む目的は絶対いけません。神の善の国を造ることが目的です。全てを滅ぼしてしまうことが神の目的ではありません。神は滅ぼしはしない愛の心情を、持っておられるのです。

 それゆえ今日これを収拾するために、この歴史をどんな面へと率いてこられたかといえば、必ず立ち塞がる過程を経なければならないのです。ないと解決できないのです。必ずこれを精算してこそ、新しいことを始められるのです。悪と善が一つ所にありますか?

一つ所に同じくはないのです。分けられなければなりません。

 それでは今、悪なる世の中から善なる世界へ移行することが神のみ旨であるとして、そこには必ず審判的な条件を提示されるのです。その審判をする時、御言をもってするのです。その御言の目的は、全てが救援です。それは個人の心情に通じ、家庭食口たちの心情に通じ、国民、あるいは国境の異なる民族の心情に通じる、神の側から見ると、一つの心情に通じることのできる基準を持っている、そんな宇宙的な理念を中心として摂理されてこられたのです。

 皆さんたち、今日全世界キリスト教徒は誰だと思っているのでしょう? 全世界キリスト教徒は兄弟であり、天の国の民です。兄弟の観念を持っていなかったら、民になることはできません。兄弟の因縁を離れた者は、民になることはできないのです。今日の教会の現象を見ると、互いに引き離しています。兄弟の因縁はみんなどこかへ・・・。

 この時は今、どんな時を要求しているのでしょう? 天の国、天国を建設するための新しい時が来ましたので、民の過程を経なければなりません。それでは皆さんは兄弟の時代を迎えていますか? これを各自が反問しなければならない時です。今日我々には今まで歴史的に、あるいは今までの自分の環境的な背景を中心として生きてきた、全ての体制というか、家庭の体制というか、信条というか、この全部が、私をして天のまえに捜し立てる、真の兄弟の因縁を結んでいなかったことを、はっきり知らねばばなりません。兄弟の因縁を結ばなかった者たちが、団結して民として任じても、これは必ず壊れるのです。国を愛するにおいて、兄弟よりもさらに愛さなくてはなりません。こんな路程に、天は追い込むのです。

 それで今日の世界キリスト教徒、さらには求道の道を歩む多くの人々は、いま心を同じくして兄弟の因縁を求め「我々の因縁は誰が奪えるか」という道を中心に行かねばなりません。こんな形態が、必ずこの地上に現れなければならないのです。

 見てみなさい。キリスト教の初代教会時代には、兄弟が血を流している時には、自分の命を捧げて、死の場もかまわず貫いて行くという因縁を残して、悪の世界に力強く行軍して行ったのです。しかし今日、互いに兄弟の因縁を求めずに争うここには、崩壊です、崩壊。崩壊の一路をたどっているのです。しかし天の時は来たのです。天が要求されることは、天国の民を求めることであり、民は必ず兄弟としての因縁を経ていなければならないのです。これが全て、断たれてしまいました。


 神の御言を求めるための愛着心を持て

 今日これまで世の中で結んだ因縁を切るということは・・・。天はこれが壊れることを良しとされます。全てのものを壊して、愛着心を無くしてしまうのは、何のためか? これを奪っていって、他の面に愛着心を持つ方向へと行くために、歴史過程を全て率いて、精算されようとされるのです。それで今、この時代においては全ての分野において愛着心を持つことのできない、そんな世界的な現象が現れているのです。

 この目的はどのように果たされるのか? 愛着心を全部捨ててしまうのが目的ではありません。良からぬことに対する愛着心を捨てる反面、天を標準とする人々は互いに愛着心を持って、世の中の兄弟以上の兄弟として、世の中の父母以上の父母の因縁をうたうことのできる群れとなるのです。必ずこんな群れにならなかったら滅亡するのです。ですから韓国に統一教会が現れ、数多くの非難の対象になりましたが、滅びないのです。この民族が愛着心を全て切って、我々と肩を並べようにも並べることのできないそんな時が、いつ来るのでしょうか?

 もしも神の審判をまず受ける民族があったなら、そんな民族がまず受けるのです。しかしながらまず審判を受ける民族の中で、審判を受けない民族は神の愛を受ける民族です。いかに世界が広いといっても、そんな存在が必ず今日の社会、あるいは我々の風習圏内の全体を襲い、そんな社会規定を成す一時が、来ることを願うものです。

 皆さん自身の胸に手を当てて、反省してみて下さい。皆さんが命をかける覚悟をして信じる何がありますか? 自分が誠精を尽くして侍るというそんな何かがありますか? 父母が子を殺そうとし、妻子家族が互いに反発し、惨めな現実となっています。今日のこの家庭に対して、自分が愛着心を持てないでしょう。自分が専攻しているある学術的分野においても同じです。

 なぜそうですか? 国が滅び、民族が滅びゆく環境においては持つことができないのです。なぜこれが持てないのかというんです。我々が生きているこの実社会、さらには韓国の実態を見るとき、愛着心を持てない民族になっているのです。こうして我々が絶望の中に倒れるのではなく、必ず来なければならないその時が来たことを、我々は肝に銘じなければなりません。

 天がこんな場に追い込まれる目的はどこにあるのか? 我々をぶち壊して地獄に放り込むのが目的ではありません。我々をそんな場に立たせ、全てを失い、全てを断ち切り、一片丹心この心を再収拾して、天を望み訴える道を開くのが目的なのです。今日韓民族が、さらにはこの時に行くべき道は、経済にもなく、政治にもなく、文化にもなく、これまでどんな既存宗教にもないのです。

 なぜ? 彼らが命をかけ、神のみ旨であるとする、こんな愛着心を持つ宗教の内容がない限り過ぎ去ってしまうのです。こんな時が来ましたので、時を知る青年男女においては鋭利なる視線をもって批判し、分析しなければならないのです。また、哲学も道がありません。今日の環境は政治や、なに、なに、なに、信じられますか? 皆さんに愛着心があるかというのです。愛着心があるとすれば、パン一斤に愛着心があるのです。このような過程で起こることは、今日の唯物史観です。この唯物史観は世界的な舞台に踊り出ています。そんな時を伺っています。しかしこれではダメです。

 人間は食べるだけではダメです。どんなに満腹になったとしても心情的天運が、心霊に食い込む思潮の潮流を止めることはできないのです。防ぎ消化する力があれば喜び、でなければ喜びがないのです。ですから今は審判の時が来ましたので、不安と焦燥と恐怖に沈む時であり、自分の心情に何かの愛着心を持つことのできない終末の時なのです。こんな時にあるということを、知らねばなりません。

 今日、我々がいま一度、愛着心を持つべきものは、世界人類です。ですから皆さんは、新しい愛着心を起こさせる御言を得て、叫んで行かなければなりません。父母から、一切のもの全てを失いましたから、再び愛着を持つことのできる御言が、必要な時が来たのです。この世界の思潮において、どんな主義も信じられない時代が来ましたので、これ以上の何かを感じて、これに対して自分の命をかけて、死の場に倒れる恨があったとしても、生命以上の愛着心を感じることのできる、御言が必要であり、理念が必要な時が来たのです。こんな境地で皆さんは、自己批判して下さい。自己批判して下さいというのです。

 それでは天が全部ぶち壊してしまうのですか? このような時が来ましたので御言を通して個人が生き、個人が生きると同時に民族が生き、民族が生きると同時に世界が生き、世界が生きると同時に神が生き、神様までも幾千年の間の嘆息の恨をのがれ、解放の統治圏を得て、満天下に号令することのできる時を、迎えねばならないのです。ですからぶち壊してしまうことではないのです。このような面において、神があるなら、愛着心を持つことのできる一つの運動が起こらなければならないということは、必然的な事実です。そうではありませんか? 名目的な信仰、いいかげんな時は過ぎました。


 最後の歴史的伝統から残ることは天情を中心とした心情のみ

 今我々が愛着心を持つ時は、その愛着心を持つことのできる動機となる御言を知らなければなりません。この御言は自我を踏み越えていける御言でなければなりません。この御言は自分が今まで信じていた、観念的な宗教を打破することのできる御言でなければなりません。この御言は今日の時代的な、社会のどんな主義思想の全ての問題をもはね返し、新しい旗を中心に天宙に向かって叫ぶ時、天地が感応することのできる御言でなければならないのです。

 ですからこのような内容の御言をもってすれば、今日の論理的な観に立つ世界主義ではダメです。この論理を越えて、心情的な理念を通してくる天宙主義でなければダメです。人間が幸福だという時は、自分が沢山知っているから幸福ではないのであり、自分がある大学の学長になり、総長になって幸福になるのではないのであり、今日自分が一国の何かになって幸福になるのではないのです。とんでもありません。その心情が自分のおかれている環境を越えていって、いかなるものとも取り替えることのできない安定した価値をうたうことのできる立場にあってこそ、幸福になるのです。

 神が今まで、苦痛を受けてこられたのは何故でしょうか? 神が今まで苦しみを受け、苦労されたと言う、その原因はどこにあるのか? 心情的価値を今日、創造の世界において、立てることができないということが、神の悲しみであり、苦痛なのです。

 歴史を全体的に収拾して、最後に残るものは何であるか? 人類の心情のみが残るのです。これを知らねばなりません。人類の心情が残るといって、その心情とはどんな心情なのか? 堕落した世界でこれまで追われ、破壊されたことではないのです。愛着もないそんな場にとどまる心情ではなく、永遠無窮なるまでこの心を誰も占領することのない、そんな内容の心情でなければならないのです。そんな御言でなければなりません。そうすれれば、個体と全体が一つになるのです。

 皆さん、心情的問題においては、価値を超越しているのです。相対的に比較する価値を超越しているのです。どんなに大きく高い神であっても、わが心情を通して現れる時、自身は神の法度に外れることがあったとしても、価値的な面においては相対性を得ているのです。

 こんな立場で神を中心として、神を中心に尊敬していって自分が愉しむそんな人間になったとすれば、彼は無限に幸福な者になるのです。宗教の理念はそこまで行かなければなりません。人間の命令を受けて動いていてはダメす。天はこんな標準まで人間を率いるために、いままで摂理されてこられたのです。歴史の伝統から最後に残るものは心情です。何の心情か? 人情ではありません。人情的心情ではなく、天情的心情なのです。

 歴史を見てみると、孝子、忠臣、烈女が多くあります。人類に通じる心情的足場はどれほどか学び、どれほどかあるのですが私とは何らの関係もないのです。民族と民族を関係づけることができないのです。これによって解決はできません。ですからこれを処断し、掻きまぜなければなりません。ですから無愛着になる風潮が必ず、世界審判の直前に来るという現象が、起こらざるを得ないのです。これを知らねばなりません。

 我々の胸を開いて見れば、アボジを呼び、主を信じるという心情の内情を見てみれば、神の子女であると自ら任じる者があったとして、彼が神の心情問題を知っているのか?

 個人に対する神の心情がどうであり、民族に対する神の心情がどうであり、また国家に対する、世界に対する、神の心情がどうなのか? これを知らなかったら、絶対に忠臣、烈女にはなれません。

 歴史の目的は人類が共に喜び、心情の安息所を捜し求めることであることを、よくよく知らねばなりません。文化の目的、芸術の目的、宗教の目的、全ての目的は、この基準において、一つの精算をするためのものなのです。ですからこのような観点からこんな内容をもって現れる宗教が何か? 最初に登場する宗教が、キリスト教なのです。

 イエスがご自身を新郎であり、あなたたちは新婦であると言われた心情的な基盤は、今日堕落した人間を中心とした新郎新婦の心情ではありません。天情の因縁を求めるために今日の無知なる民のまえに条件を立ててゆくことでした。因縁を結んだ人間を従え、死の敵陣を越え、歴史を押し広げていって、世界に基台を造り、役事されました。


 秘められた天情の恨を解くことが真の真理

 皆さん新婦を知っていますか? 新婦の立場は、そんなに易しい立場ではありません。今日新婦たる資格者がこの地上にいるとして、この地上で新婦だと自認する人間は・・。 今日のサタン世界、悪なる世の中に、ある忠臣がいたとするならば、数多くの忠臣者の中で、誰とも比較もできない内容と、心情的気概をもった存在でなければなりません。そうでないなら、神が彼を天の忠臣として立てられないのです。なぜ? サタン世界の忠臣者を、天の世界の忠臣に立てられないのです、威信上。標準がこの標準なのです。

 「烈女や孝子があったなら、その中である誰々がいたとして、幾千年の間の数多くの孝子をいっぺんに立てていって、天のまえに立てることのできる一人の孝子と比較する時、取り替えることができない!」こんな価値ある孝子が現れる前には、神の息子ではありません。サタンが握り、サタンが押さえるそんな立場にあっては、神が事にあたります。ですからキリスト教の内容に「誰よりも私を愛しなさい」という条件があるのです。皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。

 このような心情をもって今日、人類を捜し求めてこられたアボジの心情がどれほどの悲しみであるかを知らねばなりません。知ってみれば千年万年、慟哭したとしてもその心情をお慰めすることがきない恨を抱えてこられたアボジだということを、我々は知らねばなりません。審判のその時を求め、このような恨の心情をお慰めしてあげる一人の息子娘を立て、満宇宙を再び祝福する時が、再臨時代であるというのです。

 皆さんは自問自答してみて下さい。天のために涙をどれほど流したか、天のために汗をどれほど流したか、天のために命の血をどれほど流したか? 神のある基準のまえに認定を受けない者が、神の息子娘であると自認するなら盗人が笑います。私はそのように見るのです。今回の伝道期間には、数多くの食口たちが生まれたと思います。今、我々はどのような覚悟をしなければならないか? これがまず我々が考える問題です。

 この時はどんな時代か? この時は審判の時として、神が再摂理される御言審判の時代が来たのです。これは原理原則です。数学の公式はどんな国境も超越しています。偉大だという人物の内容を超越しているのです。これはひどく平凡であり、万事同一なのです。 皆さん、公式的な神の心情を知っていますか? 父母が子女を愛するのに二つとなく、一つなのです。心から愛することは二つではなく一つなのです。公式法度のために新しい理想的な、モデルを造らなければならない天的な心情世界の内容を知らなかったのです。「ただ我々が信じて天国に行こう」というならば、どんなに易しいでしょう? 汗を流して皆さんにこんな話もしないのです。人生を捧げ、迫害の道を行って、民族のまえにこんな戦いをしなくともいいのです。

 統一の青年たち、さらには我々統一の信徒たちには新しい覚醒の必要な時が来ました。もしも統一教会に入って、こんな内容の全てのことを解決しなかったら、ふろしきをたたんで行けというのです。すでにお話したように天情に秘められた御言を語らず、自分の目に火をつけない内容の御言なら偽りです。偽キリストです。どんなに聖書66巻をマスタ-して、流暢な説教をしたとしても、もつれた死の血を分ける内容がなかったならば、真理ではありません。

 変遷の歴史を、革命して行くことも・・・。この泥水での戦いの、血の感情を、新しい血の感情にと変えるごとに、歴史は新しい革命の時となり・・・。我々はこれまで新しい歴史の開門に向かって来たという、歴史的事実を知っています。皆さんの心情に新しい血筋が染みて、新しい血肉が躍動する新しい理念の目的に向かって行く、その位置において価値を誇ることのできる姿を持っているか? わが位置と、わが価値と、わが目的が方向を得ているかということを反問してみる時、深刻だというのです。神は永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の主体であることを明らかに知らねばなりません。皆さん自身も永遠不変の位置であり、永遠不変の価値があり、永遠不変の目的の対象体となっているかというのです。

 ですから我々はこの町あの村、この教会あの教会、この教派あの教派、数多くの人物を尋ね歩いたが、結局は統一教会というここに来ました。皆さんがこの道まで尋ね来たその額には汗が流れ、その背には跡が残っていることもあり、その歩みには傷があることもあるかも知れませんが、私は歴史の一刻を語らざるを得ないのです。なぜ? 神の汗と涙と血がこれまでこの民族のまえに、今日この世界人類のまえに残っている限り、我々は天の心情をお慰めする孝子、烈女、忠臣にならなければならないからです。それゆえ我々の血をアボジの血に、我々の汗をアボジの汗に、我々の涙をアボジの涙にしなければならないのです。なぜそうか、皆さんはよく知らねばばなりません。


 御言のメシヤとして来られたが使命を果たすことができずに行かれたイエス様

 天理の御言を立てることが、神の幾千年の歴史でした。ところで御言を心のままに語ることのできない神であったことを、皆さんは知らねばなりません。無念なことです。父なる立場で、子女という名を持っている堕落した人間、因縁から見れば息子ですが、事情から見れば怨讐の立場に立つこれをいかに切り開いてゆくか? ですからみ旨ある良心的人間を動かし、この垣を切り開いて来たのです。わが心情の血をたぎらせてお父様と呼び、息子がお父様と呼ぶその声と、父が息子よと呼ぶその声に、全天地がとけても余る、そんな時が必ず来なければなりません。こうしてこそこの地に審判が終わる時となるのです。 皆さん心からアボジを考える時、慟哭する心情が切実であり、肉身が引き裂かれ踏みつけられる悔しさを意に介さず、涙の垣と涙の海を蹴散らし、目標を果たすという個体になっているか? 反省する時だというのです。私は一時、泣き明かすこともあります。限り無く泣くことがあります。これは私個人の、どんな欲望と目的からでもありません。このような基点を中心として、歴史的な転換点を解決しなければならない時が、必ず審判の時に来ることを知っているからです。どのようにしてか歴史的な曲折を中心として、人類の惨状が生じるかと考える時、天情を代身する真の息子の姿を慕いあえいで慟哭されたという事実を感じるのです。アボジが慕い求めているその声と和して、聞こえるその声のまえに、私はここにいる、と叫ぶことのできるその場が、慕わしかったのです。

 数十年の宗教生活を誇るなというのです。アボジが呼ばれるその声のまえに、その心情を思いやって呼ぶ答えのまえに・・・。アボジの事情の全てを引き受けて、責任を担ってゆくという真なる息子娘が、この地上にいるのか? 考えてみて下さい。皆さん自身を中心に考えてみるのです。哀れで無念なる天であったのです。どうすることもできないアボジの心情だったのです。サタン、これはすでに何千年前に審判の供え物に地獄の火と硫黄に消えたのですが、恨を抱えたままの人類歴史だったのです。これを忍んで今まで来たのです。私はアボジで、おまえたちは息子だ、という因縁を残さなかったなら、皆さんは自信を持って生きてはいけません。

 復帰の心情を歌っています。今はここにアボジの声が呼んでおられる、その声が必要な時です。この自分自信において慕わしいことは、この世的な何かが慕わしいのではありません。世の中はすでに断ち切られ塞がれる時が来ましたので、今ここにおいて自分の耳があり、目があり、口があり、自分の感情があったとしても、この耳目口や五感を通してくるその感情が、昔の感情を越えることのできる新しい感情を通してこそ成るのです。この感情は天情と共に因縁づけられているという事実を確実に把握して、私はアボジの息子であり、娘ですと言えることを、知らねばなりません。

 こんな過程を越えなければならぬ人間ですから、無知なる人間を、落ちて踏まれる哀れな人間を手ぶりで教えることが、救援という盾なのです。比喩と象徴で心情のうちを通過しないまま、今まできた人類を保護するために来たのが、メシヤなのです。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 実体のメシヤ。そのメシヤはどんなメシヤなのか? 御言のメシヤとして、イエスがこの地上に来て見せてくれたことは御言のメシヤとしての使命を完結しないで、人格基準も完結しないで、心情基準も完結しないまま行かれました。御言のような御言を残したものが、聖書ですよ。これは比喩と象徴です。


 個人と世界を越えて神の恨を解怨してあげなければならない統一教会

 我々は今ここに、何を求めなければならないでしょうか? 御言と共に、御言通過以後に実体通過時代が来るということを知らねばなりません。これをキリスト教徒たちは今、知らないでいるのです。聖書を読み、研究する目的は実体基準を通過するためなのです。実体の基準を通過しなかったなら、その実体にすがりこの地上でその事情を知らなかったなら、新婦にはなれないのです。ですから地上の人類は主に出会わなければなりません。御言を完全に通過していない我々、実体を完全に通過していない我々、心情を完全に通過していない我々が、そっと見れば、良いことばかり望んでいるのが今日の事情なのです。 おお 、新郎なる主様! 新郎なる主様! 愛の場までゆくには御言を解決しなければなりません。御言をわがものとしたら、御言と一体のイエスを代身した人格者にならなければなりません。これを全て無視して、信じれば天国に行って新婦になるのですか? 行くか行かないか見てみなさい。我々は聖書を研究しています。聖書を研究するにおいて何が問題か? 聖書を読めばみんなヨハネ3章16節のように、誰でもそうなるのですか? とんでもありません。そうではありません。

 神様に悲しみがあったならば、最も悲しいことは何か? 神様に十字架の苦痛があったならば、最も大きな苦痛は何か、無念なことな何か? 聖書を全て知っても精算できません。根がありませんよ、根が。いま聖書を尋ねてみても根がないというのです。えらいことですよ。さまよい争い、異端だなんだという王さんたちはうっちゃてしまうだけです。しかしどんなに争っても・・・。枝は枝だけで争い、葉っぱは葉っぱだけで争っていればいいのですか。生命の体液は延びてゆくのです。回るのです。どこを通って? 根を通して。皆さんがこれを知れば・・・。ペテロが十字架に逆さにかけられても「主よ!」と叫んで死んだ、あの主と心情的に通じあう根の内容を、捜しだして因縁を結ばねばなりません。

 イエスが十字架の途上において、死の場に行っても「天の父よ、わが思いのままにではなく、父の思いのままになさって下さい」というこの心情から流れ出ていったその事情が何であったか、知らねばなりません。これが分からなければ死ぬのです、死。聖書の未解決の問題を、解決しなければならない時です。そうではありませんか? 解決されなければみな色あせてしまいます。終わりの日が来たのです。いま皆さんはこれをよくよく知らねばなりません。

 それでイエスはこの地上に、新婦を探し求めて来られたのです。反対するイスラエル民族のまえに出て叫ぶ目的は、イエスを信じて天国に行くための、個人の目的ではありません。私を信じ、イスラエルを救うということが目的です。よくよく知らねばなりません。私を信じ、イスラエルを救い、イスラエルを信じ、世界を救おうというのが目的です。イエスは霊界と地上を救うために来られたのです。イエスを信じて自分だけ天国に行くのではありません。不当千万な話です。どこにそんな目的がありますか? 我々がイエスを信じるのも、民族のために信じるのでなければなりません。自分が神を愛するのも、世界のために愛するのでなければなりません。神がおられたなら、そんな信者を慕われることでしょう。同じことでしょう?

 皆さん、切り換えて考えてみて下さい。大宇宙の公業を完成しなければならない責任を願い、数多くの民族を動員し、良心的な人間を連結させ、一つの形態をもって善の主権を解放することが神のみ旨であるとして、自分個人のためであってはいけないのです。個人のためのことはぶっ壊すのです。火に投げ込むのです。これは壊さねばなりません。壊さなかったら神が滅ぶのです。自分の一族の、一国のための宗教は壊さねばなりません。これが壊されなかったら、神がいないということです。ですから今日、全世界キリスト教は混乱の時となっているのです。これは人間の力でやることではありません。神が壊されるのです。なぜ? 神の目的と、自分たちの位置と価値が違うからです。統一の理念を我々が叫んで出る時、我々が信じるとは、自分が信じて天国に行くためではないのです。これは断ち切ってしまわねばなりません。もしも自分が信じて民族を救い、その民族が天国に行ったなら、自分が天国ではない地獄に行くだろうかというのです。信仰の方向が逆になったので、曲折が多いのです。これを知らねばなりません。

 我々統一の信徒は「私が信じるとはこの民族を救い、私が信じるとはこの人類と世界を救い、さらには神が悲しみの中におられるから、神の悲しみまで解放するためなのだ」というのです。皆さんを知らない人々は「神は何か、全知全能なる神・・・」と言います。これは知らないからです。ここで語る人の本意を知れば、勉強しなければなりません。

 「あ、神は悲しげな・・・」皆さんの悲しみはどこから来るのか? 我々の喜怒哀楽は天から来るのです。そのようになっているのです。それで我々は迫害される時、最高に迫害されよというのです。数多くの宗教人の反対を受けるここに、我々は倒れる群れとなってはいけません。大衆に向かって叫ぶ時、ここに燃え立つ一つの炎が、大衆の心を引っくり返す内容を持ったなら、生きるというのです。

 ですからこの時代において、天法の御言の時代が来たのです。御言を求める時代が来たのです、御言時代が。御言を探し求めて新婦となれば、主体と対象の姿が同化しなければなりません。新婦となることを願う者は、人格的な基準において、イエスが経てこられた心情に通じる、そんな人格者になってこそ、成るのです。そんな人、いますか?


 地上に御言愛着回復運動が起これば人類の生きる道が生じる

 霊的な世界においてその心情を尋ね求めてみれば、イエス様が再降臨することを無限に待ち望んでいるのです。これを知らねばなりません。神が2千年の間、待っておられるのです。イエス時代に主がいつ来られるかという時、全て話さなかったでしょう? 彼らは来られるとは知っていても、再臨の理念に対する心情的な基盤ができていなかったので、恨み多き犠牲の歴史をつづり、時と人を立て、世界的に動くことのできる時を願ってこの2千年の間、捜し求めてきたのです。

 再臨するという天の心情は、切実だったのですが、来れなかったその事情は何か? 皆さんたちが無知で、さらには無情だからです。主がこの地上に来られるのは、万国を統治するために来るのに、皆さんの信仰観は、自分が救われて天国に行くというのです。そんな狭い心で新婦だというのですか? 常識不足ですよ、常識不足。イエスは万王の王であり、万有の主であり、神の皇太子ですよ。神の王者ですよ、王者。これを知らねばなりません。大統領の息子だといってえらぶっていますが、空前絶後の歴史的な主人公であり、時代的な主人公であり、あるいは未来的な主人公であり、栄光なる立場の主体であり、唯一おわします、絶対者の息子なのです。彼の新婦になるのですよ、新婦。ところがこんなデタラメはないというのです。

 イエスが信じるという内容は、皆さん一人を中心に、個人天国のためではありません。信じなさいということは、全天宙に対して訴えた言葉なのです。天宙の心情ふかく染みたイエスの理念を通して、あふれ出たイエスの御言であったことを、知らねばならないのです。こんな境地に立って死亡の世界、罪悪の世界に対して、戦いゆく天の精兵が慕わしいというのです。こんな代表者として、ロ-マ帝国に向かって行ったのが、70門徒の姿だったのです。

 皆さん、こういうことです。イエスの聖書の御言を信じて、そんな内容を知って、人格者となって、心情において万民に対してわが血を流し、怨讐までも幸いを祈るお父さんお母さん以上の心を持たねばなりません。常識的に批判するとしても、こんな論点を解明せざるを得ないのです。それでは皆さんはこんな人間になっている? こんな目的を持っている? こんな度量がある? 問題はここにあるのです。ですからこんな立場をきっと貫いて行く群れがあったなら、そんな群れは滅びないというのです。これは仮説ではありますが、こんな内容をもってゆく息子娘があったとしたなら、天は罰っしられますか? 事実がこうです、事実が。

 今の時は御言が慕わしくてあえぎ、御言の乏しいことを感じて、あえぎ苦しむ時です。彼らを覚醒させる者は誰か? 終わりの日が来ましたので、末日のまえに待ちくたびれる群れを尋ねる姿は実体であります。主の代身として、くたびれたその内容を解くすべを知り、主の代身として、この環境を収拾する一人の指導者が必要な時が来ました。今日、全世界キリスト教を見やれば、教団は大きく、教会員は多くても、そんな人間を何人も見出せないといっも過言ではありません。私が皆さんに言いたいことは、我々統一信徒はすでに経なければならない歩みを全て経てきました。長老教がどうで、管理教がどうで、新約思潮がどうだという、そんなことは全て知ったという基準で、あえいで来た群れです。

 今、皆さんに何が必要ですか? 自分がへばっているこの立場から、再びわき上がって来るものが必要です。これが問題です。御言をもって研究し、研究して疲れている時は、御言によって再びいま一度、御言の自信を得るのです。御言愛着回復運動を提示する、新しぱきが地上に現れない限り、道を塞がれたこの人類が、どこに行くのでしょうか?

 今日このように断末魔的先端に立っているこの歴史・・・。御言に疲れ、信仰生活に疲れ、教会生活に疲れた自分をして、疲れた御言と疲れた信仰に新しい感情を起こさせ、より以上の善なる価値によって「お父様、分かりました」と言える、御言に対する愛着心を起こさせる運動が必要な時が来たことを、皆さんは知らねばなりません。

 皆さんたち、このような審判の時において、御言審判、人格審判、心情審判が終わりの日に始まるのです。御言の審判をするためには、御言の心情を起こさせる、御言に対する愛着心を起こさせるところの、一つの御言を立てなかったなら、神は神ではありません。人格審判をするためには、人格審判のある基準を、この地上に立てなければなりません。でなかったならば、これも神ではありません。心情審判をするためには、心情の基準を収拾することのできる、その基準を立てなければなりません。立てなかったならば、全てが滅んでしまいます。このような時と時期を見る時、この時は審判時代なのです。分かりますか? 審判時代ですよ、審判時代。

 皆さん、いま皆さんの手に握っているものを放して、「自分が今、持っているものはアボジが一番愛しているものではありませんか?」と聞いてみなければなりません。答えなければならない時です。首をくくって死ぬ恨があったとしても、死ぬ覚悟までして解決しなければならないのです。「その通り」という時代は過ぎました。


 キリスト教の生命は天情的な心情基準を立てること

 皆さんは今、反省してみる時です。自分が今まで最も愛する・・・。天地運勢に合わせる、そんな観点から見る時、自分自身が愛着心を持っているか?「神様、これをご覧下さい」と言えるものを持っているか?「主よ、これをお受け下さい」と言えるものを持っているかというのです。みんな失ってしまいました。持っているようですが、みんな失ったのです。

 ですから終末には最後の精算時代がくるのです。最後の審判時代ですので、御言を中心とする角度で、180度回らなければなりません。こんな現象が起これば国が生きるか教会が生きるか、新しい事が起こるのです。それで審判時代におかれている人類なのです。彼らの心が、どこの誰に誇ることのできる、愛着の足場を得ているか?「どうぞどうぞ連れていって下さい」としなければなりません。主の前に出る時、自分の息子娘が救われ、自分の何かが救われるからですか。思潮がそうなっているのです。

 しかしそのような時代が来れば、民族的にそんな思潮が襲いかかり、断ち切られるそんな環境に立つ民族と国家と、世界思潮を代表して苦痛を受ける、そんな一地域や、民が生じるのです。これが今日、世界的に見る時、韓民族ですよ、韓民族。南北に分けられ、父母、妻子が引き裂かれています。心情的な破綻となっているのです。今日韓国の6・25動乱によって経済的破綻となり、理論的破綻となり、政策的破綻となり、宗教的破綻とななっているのです。しかしながらここで、落胆はしないのです。また再び起こる天のみ旨が、この民族のまえにあることは間違いないことを、我々は知るのです。歴史を見ても、腐敗の峠を越えて、新しい歴史が始まるのです。

 今日この政権の12年間の腐敗政治によって、新しい青年たちの血が湧きたっているのです。上がってくればここから新しい歴史へとのびて頂上です。種を植え、根がはったので、肥料をやらなくても同じことです。私はここに何か野心を持って話しているのではありません。宗教を愛し、神を愛し、人間を愛し、世界を愛する心を持つ青年男女がいたとしたら、4.19革命当時に流した血を、どこに率いて行くのですか?

 こんな心を抱き、天の前に祈祷する数百人の若者の血を流しましたが、数百人の父母はさらに痛憤したのです。しかし心からその父母以上にアボジの前に訴えて「この血の代価がどうかこの民族の生命の血の代価に、天倫の法度の時のために、天の愛する気概ある血脈として残りますようにして下さい」という涙あふれる群れがどこにあるかを探す時だというのです。でなければこの民族は峠を越えることができません。このように前進を命じて方向を示し、使命を果たすことのできる新しい門を解放してこそ道は開かれるのです。 今、神の首を抱き、戦う青年男女となるのです。若者はこれを慕っていたのです。行く道もなくへたり、さまよう群れはきっとある時、統一ののろしを必ずあげるのであり、のろしの火に新たなる衝撃を受ける日があり、ここに躊躇することなく方向性を示し、天的な摂理と共に拍車を合わせる心情的内容の、何かを求めなければなりません。これをいかに捜し立てるか? これは人間中心ではありません。天情を代身する心情的な基準をどのように立てるか? これが今日、韓国キリスト教徒の解決すべき問題であり、いわゆる各教派、あるいは宗派、あるいは道を求める数多くの人々の、責任なのです。

 皆さんが行くことを知り、我々の位置と目的を知り、我々の価値的なその何かを天を中心として推し量ることを知ったとして、皆さん自身が・・・。ここにおいて我々は地と天を代身する新しい人々を捜し求め、心情から染み出る御言を発表しなければなりません。この御言が歴史的な御言を審判する御言となっているか? これが必要だというのです。そうでなければなりません。盲目的ではありません。盲目。

 今日の社会の人々は、文先生といえばアホかバカか未熟者と思っています。しかしそうではありません。こんな道を行くために、誰よりも血と汗を流し、誰よりも頭を使い、誰よりも生死の別れ目の戦いの、いく峠かを越えてきたのです。自身に対する覚悟と、自身に対する信念と、実践的な証しの何かを得て人類に対し、民族に対し、どんな国家、どんな思想に対しても戦いゆく自信を持っているか? このような問題をおいて、無限に苦悩する人間なのです。こうしてこんな立場で、悪評の看板を掲げているのです。


 神を動かす天的な信念を持てば祝福が下る

 皆さん、皆さんたち! 我々はここにおいてこのような過去、現在、未来の歴史を編んで、抱えて戦ってこられた神がおられるならその神を中心に、過去の血と汗と涙でよられた神の心情が何であり、この時代に涙と汗と血でよられた神のみ旨を実践するその心情が何であり、未来の心情が何であるか反問する時、皆さんは言葉もなく、自分が持っている全てによって証しをしなければならない責任があるということを、皆さんは知らねばなりません。信念なき者を、神は祝福されません。天は自ら助ける者を助けるのです。

 イエスはみすぼらしい身なりの、苛立たしい姿で、ガリラヤの海辺の貧しい漁師の師であったかも知れませんが、いかなる祭司、ピラト、その誰にも・・・。天的な信念において、神の心情まで動かすことのできるそんな信念を持っていました。この信念は人類が必要とする信念ですから、信念を通した御言の因縁が残る限り、その御言の目的が中断されるまでは、そのお方と共に関係を結ばねばならないことは必然的な事実です。

 ですから今日のキリスト教は、世界的な宗教として発展してきたのです。民族に対して戦うという信念、世界にどんな反対者がいたとしても、これをかき分けてゆくという信念を持たねばなりません。さらには統一の信徒たちは・・・。ここで語る人間は、多くの人間を必要としてはいません。

 大砲時代は過ぎました。今は原子砲時代です。み旨のために血と汗を流して、途中で倒れる時、その郡が弾けるというそんな信念を持たねばなりません。こんな自信と信念を持つ皆さんになっているか? これが問題です。こんな境地において、アボジの御言はこうであり、アボジの持つ真理はこうであり、これなくしては世界を救うことができないという御言の内容をもって、信念を持って、被造世界に対し主人として主管せよといわれた、主管の行為を凛々と行うという信念を持たねばなりません。

 自信を持って立つ位置をたがわず、その価値に天地が頭を下げる立場に立って、天に対してアボジと叫ぶ息子娘があったなら、「え-い、こいつ奴、おまえはバカげた奴だ」とはならないのです。自分が願う時、追われ迫害されることが有難たいのです。真なるものが、悪口を言われて滅びる法がありません。それはごく小さな事から一から二に、二から四に広がってゆくのです。天は大きく始めるのではなく黙ってするのです。誇ってやるのではなく、静かにやるのです。そうすれば名実共に統一教会が・・・。

 統一教会が今まで問題になってきましたが、これからはキリスト教が問題です。申し訳ありませんが。皆さんはよく知っているでしょうが、キリスト教は問題が大きいのです。見ててごらんなさい。どんなにレンガを積み上げ、何かをしても理にかなっていなければダメです。真理は理です。理といって個人生活の理ではないのです。天宙生活の理です。これを知らねばなりません。真理とは、聖書の一節をうまく解釈するという真理ではありません。自慢するなというのです。神と共に生きる生活的な理、ひどく平凡なようで極めて高尚であり、ひどく普遍的なことのようで極めて無限なる価値を持つものが、宇宙的な真理であります。

 こんな真理の基準に立って、皆さん自身が民族を生かし、国家を生かすのです。天を動かし、地を動かし、神の心情を占める皆さんにならなければなりません。こんな人間になれば、主がアメリカに行っても、主を引き上げられるのです。アメリカのような国に神が祝福されようとしても、祝福できないのです。なぜ? 天国は力を尽くす者が奪ってゆくからです。こんな人間が何人いるか見てごらんなさい。この世界に大きな祝福の包みがあったとしたなら、抗議をすることができるのです。実際そうです。信じる者に出来ないことはありません。新婦の条件を備え、神が涙し、天上の全てのものが感動する真理の内容を持つある人間がいたとしたら、それを通して主が来られるのです。

 そのような人間、アボジのみ手を握り、わがアボジと呼び、躊躇なく進み出てアボジと子女の因縁、父子の因縁を回復して、6千年の間、失われた息子を求める過去の悲しみと苦しみと、悩みに染まる全てのことを解き放ち、アボジの名を呼び、息子だとする場において、心情的因縁を体験する主人公が、この民族のまえにただ3人あったとしても、世界キリスト教は彼らによって、解決されるのです! 私はこのように信じています。また、このように知っているのです。


 御言愛着運動を起こしこの民族を覚醒しなければならない統一教会

 数多くのキリスト教徒、数多くの求道の徒があるとしても、最後の霊的な世界問題と人間的な最後の心情問題において、解決づける基点は、統一教会でなければ解決できないのです。これを自ら統一しようという我々でなければなりません。そのためには御言審判の過程を経なければならないので、この御言審判を受けるのです。御言を求めて、血の涙の死の峠をも行くのです。御言を求めて、祈祷する時も、誰にも負けぬ祈祷をしなければなりません。歯をかみしめ、ほんとうに顔を突きだして・・・。天理が分からなければ、絶対に止めない、そんな祈祷を・・・。

 そんな御言を求め、この地上に真なる信仰生活をする人々がいたら「私が不足なので兄弟よ! その心情的な基準はどうなのか」と叫ばねばならず、自分がこの御言が正しいとして「神様!」という時、神が「おお 」と答えられる、御言の内容を持たなければなりません。わが民族のまえに、皆さんのまえに、信じられぬ真理だなどといって、そんな真理は過ぎ去ったのです。これは過ぎたのです。

 皆さん、今日統一教会に入ってきて、何かを感じたものがあるはずです。感じたものがあれば、これを再鑑定するのです。名目的に信じるなというのです。そこに到らなかったならば、世界一周をして再び来なければなりません。それで厳しい命令もするのです。そんな意味で、ここにいる皆さんは御言を聞いていますので・・・。

 今日ここで語っている自身におきましても、御言審判の過程を経るために見えざる世界と、見える世界を比較して見る時、見えざる世界におきまして勝利の何かを解決しましたので、見える世界におきましてもこの基準を経てきたのです。霊的完結と肉的完結、無形世界完結と地上世界完結をなさねばならないので、ここに数多くの怨讐が現れたのです。ですから我々は祈祷しなければなりません。24億人類が現れて、統一教会に押しよせる声を聞きたいものです。

 こんな観点から皆さんが、天情を代身して現れた人々のまえに誰にも譲歩しない、自分だけが、我々だけがアボジのまえにゆくというその内容を知って行くならば、その因縁を持っていない数多くの人類は必ず動かざるを得ないのです。動かないではいられないのです。動くところの霊的な、全ての内容があるのです。それで神霊というのです。ある人は「神霊」というと妖術めいているので「心霊」と考えますが、そうではありません。位置的な内容を通して・・・。

 こうして皆さんは御言と共に・・・。その次には実体通過時代です。ここで語るこの人間も今まで、40年の生涯を戦ってきました。自分が倒れるその瞬間にアボジのまえに、わが情熱を全て注いで、未練の思いが残っていないかを案ずる人間です。この仕事である手段、方法によって自分一個の欲望を満たしたなら、天罰を受けるでしょう。もしもそのようになったら、きっと滅んでしまうでしょう。倭政(日本統治下)から数十年、こんなみ業をなしてきました。行く所で監獄生活をしました。行く所で嘲弄を受けました。しかしながら怨讐は、私にはないのです。

 これはなぜでしょうか? 天倫の法度が、御言通過時代の過程を経れば、必ず実体通過過程を経なければならないからです。イエスの十字架の道が残っており、この地上において、恨を残す怨恨の基準が残っているのです。考えて見て下さい。アベルの血が訴え、万王の王たる神の王者が、この地上に涙を流し、血を流して訴えていないでしょうか? いないかというのです。イエスの血の涙が訴えているのです。

 この血の涙の訴えを、どこで蕩減するのか? 今日の信徒たちが、今までのキリスト教が、血の戦争により、真の血を連結させるために訴え、蕩減してきたのです。そのためにこの全ての問題を引きずって行く時、皆さんは残された十字架の道を、行かざるを得ないのです。この場で語っているこの立場が、皆さんが見上げれば良さそうな立場に見えるかも知れませんが、この場で私が牢獄の身になったとしても、心理的な変化があってはなりません。こんな信念を持って行くのです。

 今日この現実舞台において、我々はサタン世界を解決しなければならない悲運にあるのです。これを解決しなければなりません。今日統一教会がこのような形態となるために、無限の涙を流したことを、皆さんは知らねばなりません。一つの事実にも、血と汗が流れているのです。我々は使っても余るそんな何かによって、神のために働いてきたのではありません。食べずに飢え、追われ、ぼろをまとって震えてきたのです。今日こんな形態を得て、民族問題の提示条件をもって、現れたのです。

 そんな時から沈黙を守ってきました。時が、こんな時が来たので、新しい文化においてわが真理を通して、今日知識人が関心を失っているこの民族のまえに、関心を引き起こさなければならず、愛着心を起こす運動を展開しなければなりません。これを実践して国に対する愛着心、あるいは我々の理想世界に対する愛着心を失った群れを激励する時が来たのです。これができなければ祭りをやってでも彼らを目覚めさせ、天が抱ける民族にするという、民族的使命に燃えて、我々は行かなければなりません。

 皆さんが御言を通して、今までの既存真理を審判する御言を持つ者として現れるためには、まず信念を持たなければなりません。信念をもったら実践して、背信した怨讐と正面衝突する時、勝手気ままな環境にある彼らに、堂々と教えることのできる、実力をつけなければなりません。これも不足しているなら、真と偽を証明するために血を流し、天のまえに供え物となる信念を持つのです。いま統一信徒たちは、これを持たねばなりません。


 神の心情を体恤して神の遺業を相続せよ

 生活を動かす御言、生活の実体で感動させる愛、生活にあえぐ心の基台を安息させる心情の主人にならなければなりません。こんな群れとして、天を背景にして、歴史的な過去と現在と未来的な所望の基台の上に、確かな出発から目的まで、変わらざる原則的な路程に向かって行く群れとなったなら、皆さんは絶対に滅びることはありません。こんな観点によって、皆さんは行かなければなりません。ですから今この時は真理審判の時であり、人格審判の時であり、心情審判の時なのです。外的な現象から見る時、摂理的な条件に照らして見ればそうなっているのです。

 皆さんがこの御言を携えて戦いゆく時、この御言を叫ぶ時、皆さんは御言の心情、ここで語っている、あるいは我々が語っているこの御言が現れるまで、そこにひそむ曲折の凄じさを感じて、天のまえに感謝する心がこみ上げて、皆さんがこの御言のために行くなら行くことごとに、天が共におられるのです。間違いないことです。天が共におられます。この御言をもって行くことごとに、告げる心に革命が起こるでしょう。良心の革命から、心情の革命をそなえる自身となるのです。こんな自身となるので、ここで語っている人間もまた・・・。

 また、堕落した我々後孫を見る時・・・。我々は堕落性を持っています。堕落性の四大条件は何ですか? 驕慢と、時期と、血気と、偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性ですよ。皆さんもこれを、脱がなければなりません。これを脱ぐために今まで、断食をし、叱ってもきたのです。これを脱ぐには復帰路程の審判時代において、いかにしなければなりませんか? 自分自身が御言で武装し、御言の実体にならなければなりません。実体過程を通過するには、必ず堕落性本性を脱がねばなりません。そこには四大条件が残っていますので、これを脱ぐには迫害も受け、試練も受けるのです。今までこのような途上で、皆さんは残ったのです。

 そんな立場で見れば、ここに初めてアボジが我々を救うために、苦労をされたことを、感じるのです。そこで初めて、心情を体恤するというのです。聖書を見ても、絶対これは分かりません。祈祷の中で、いくらかは体験できます。実体的にアボジといえる、生活的な感情の中で怨讐のまえに、アボジと呼べる心情が、ここに埋められねばなりません。多くの迫害を受けて戦う路程において、この実体舞台において、皆さんはしっかりやらなければなりません。

 ですから皆さん、行って戦うのです。自分一人を救うために、今まではこのように戦ってきたことを知らねばなりません。このように戦ってきたので、神様は私一人を求めるたために6千年の間、苦労されたことを知りましたので、今日捜し求める私として、あるいは真理を代身する姿として、審判の基準を越えてゆく自分にならねばなりません。

 今日わが個体を中心に、神のみ旨が完全に終結するのではありません。自分を越えて、民族が残り、自分を越えて世界が残り、自分を越えて宇宙が残るのです。これを知っておられるので、天は今、私を越えて血の汗を流さねばならず、涙を流さねばならず、死の峠を越えることを、考えざるを得ないのです。

 アボジと息子娘となる心情的な体恤をした後には、アボジのまえに孝子とならねばなりません。息子娘になるにはまずどうするのでしょう? アボジの遺業を相続しなければならず、アボジの子女を率いる人間にならねばなりません。そうすれば、成るのです。

 私個人は縦的な面において、天と私が個体において縦的な関係で、父子の因縁を結んでいますが、私においては縦的関係で一つでなければなりません。兄弟的な関係を中心に民族を通して、今まで広がっていったのです。しかし今、我々においては縦的問題を解決するには、横的問題において兄弟的な路程、兄弟を捜すための苦労が残っているのであり、今日この我々は真の孝子、忠臣、烈女になる責任を感じるのです。ですからアボジの遺業を相続しなければなりません。遺業の相続といって何を相続? 兄弟を救うという偉業を相続しなければなりません。兄弟を救うには、天が越えて行かねばならない地が残り、天が越えて行がねばならない涙の峠が残り、天がかき分けて行がねばならない死の峠が残っているのです。


 悔しく憤ろしく、淋しい立場で相続する

 今回、40日間にわたって伝道して戦い、帰ってきた統一教会の皆さんは、自らの心情的な体恤を成したと思うのです。また今まで、自分一人を探すために、神様はこのように苦労され、自分一人を立てるために涙の道、血の汗を流す道、死の道をものともせずに、6千年の永き歳月を一日のごとく、不肖なるこの身を救わんがためのアボジの心情がいかなるものであったかを体恤した期間が、あるいは迫害を受ける立場、飢える立場、限りなく切ない立場で、どこの誰をも知らず、草の根を抱いて山川を仰ぎ見て、わずかな風の便りと共にそんな心情にひたり、アボジの姿を慕い、アボジの心情のまえに皆さんは頭を下げ、アボジといえば涙があふれる体恤をした期間が、この40日の期間であったと思うのです。

 それではこれで終わるのですか? 我々はこれまで、追われることが沢山ありました。心情、心情、叫んだこの御言を通して心情が何であるかを知り、御言、御言、実体、実体と叫んだその言葉が何であったかを、皆さんは良く分かったことでしょう。

 このようにして皆さんは、心情的な面において今一度、アボジのみ旨のまえに真の息子娘として認知を受け、新しい覚悟をしたここにおいて、何をするのか?「今、アボジの息子として、私が立ちましたから、アボジよ祝福して下さい」と祝福を受ける立場に立つ、我々であると見るなら、皆さん自身は祝福により、何を受けるのですか? アボジの偉業を相続しなければなりません。

 そのために皆さん自身は、どのようにしなければならないか? 神の内にある、神の中にある喜びと、栄光を相続するのではありません。神の内にある悲しみと、苦痛と悔しさをまず相続しなければなりません。孝子、烈女がどこにいるか? 喜ぶ時、孝子は誰でもなれます。悔しく憤ろしく、淋しく悲しい時、孝子となる息子娘でなければなりません。ならば神の悲しみ以上、アボジの胸の奥にある悲しみを知って血の涙を流さねばなりません。「6千年苦労されたことを、一年間で血を抱いて死なぬ正道となり、いっぺんにこれを蕩減いたしますので、私を送って下さい」こんな信念を持たねばなりません。

 我々は今一度、正義の戦いのために行かねばならない、責任があるのです。こんな言葉を与えて皆さんを激励する、皆さんの前に立っているこの人間も、胸が痛むのです。今回の巡回路程で、幼い者たちが血の涙を流して村から村へ追われ、惨めな事情にさらされ、しゃくりあげる涙が落ちるの見るこの先生の心は、痛むのです。心から慟哭したのです。「神様! この道がもし、間違いであり、誤った道であり、自らの思いの何かから出たとしたら、その場で天罰を受けるでしょう」と祈ったのです。天罰を受けるのです。

 行かずとしても行かざるを得ず、死んでも行かねばならない使命があることを知り、この民族の凄惨さと、この民族に神の苦労のみ手が秘められていることを知る限り、行かねばならぬみ旨があるのです。どこの誰か、比較する資格と知恵があったなら、こんな道を行くことは願わないのです。しかし行かねばならない事情と、曲折が残っていること見やる時、涙をのんで倒れるたびに天が励まし、追われ打たれるそんな時、天の愛を抱き、今でなければ行く時がないという、責任ある信念をもって誓い行くのです。

 私はこの道を覚えるごとに、皆さんが行くことごとに、涙をこぼしたことを知っています。皆さんが行くことごとに、汗を流したことを知っています。皆さんを送って私自身、神のまえに祈祷したことは、「アボジよ、彼らに真の天のみ旨のために流した涙があり、流した汗があり、アベルの血が天宙を代身して善の目標を立てるために嘆息して訴えているからには、彼らの汗と彼らの涙が、必ずこの民族とこの時代のまえに訴える日があることを、我は知るなり」と心から何度も覚悟して、皆さんを送ったのです。

 誠心誠意を尽くし、至誠を尽くして流した汗は消え去りはしないのです。心情から切なる思いで民族を愛し、み旨を愛して流した涙は無視されないのです。死ぬ命だ、最後の絶壁だ、門が塞がれたと嘆息するごとに、天は行く道を開いて下さることを知っていますので、皆さんをそんな場に追いやったのです。

 我々は持っている物もありません。金もない。勢力もない。この世に親友もいません。父母が反対し、親戚が反対し、兄弟が反対し、既成教会が反対して、全てを失った立場です。この世に対する因縁と、愛着心を全て断ち切って、天運が同時に現れるこの時の運によって初めて、アボジが相応しい姿で立たせて下さったことに感謝し、そんな場に出会うごとに倒れ、落胆する者がないことを願っているのです。


 天と地と人類のために犠牲の道を行かねばならない統一教会

 御言により、実体により、心情から傷跡を残す所々に、今日地上の人間は反対していますが、善なる霊界を動員して必ず成就しなければならない、責任を感じなければなりません。皆さんが流れる涙を条件にして、汗のしずくを条件にして、蕩減の善なる闘争歴史をつづってきたことを知っております。人間が反対したとしても霊界の数多くの霊魂は、神を代身して現れた数多くの霊たちは、統一教会側です。皆さんが信じられないならば、祈祷してみなさいというのです。このように皆さんが涙を流すごとに、アボジはその言葉を聞かれ、苦境に陥っている皆さんの側を守られ、知らぬ人間が信じるように告げられ、淋しく追われる場で一人環境を開拓するのに躊躇するたびに、神は保護者を送られ、皆さんの環境を守られることを、私は知っております。

 こんな実質的な体験により、そこに湧きあがる新しい決心と、新しい覚悟をもって行かねばなりません。今までは教会のために行きましたが、今からは民族のために、世界のために行く時が来たのです。今までは統一教会が、キリスト教を代身した一教派の看板を掲げ、教会的真理の基盤のもとにやってきました。しかしながら今日、この民族を救うためには、我々でなければならないのです。この民族の生きる道を経て行って、一挙に勝利の王者として登場し、天地のまえに誇ることのできる姿と成らねばならないのです。そのために数多くの涙があるのです。数多くの汗があり、数多くの犠牲があるのです。飢えた体を起こし、飢えた手を取り、新しい覚悟と誓いの手をさっと差しのべ、アボジのまえに行くべき時が来たのです。

 いま行く時はアボジの遺業を相続して兄弟を救うため、天宙の怨恨を解くための使命を果たさねばなりません。この使命を今は知りましたので、皆さんは真っすぐに見て、顔を真っすぐに向け、心情を真っすぐに向けなければなりません。誰に向かって? 神に向かって。問題の解決点は、ここにあるのです。

 皆さんが5、6月の暑いさ中、伝道地を回って訪問するたびに、汗を流して過ごしました。あるいは環境に追われ、飢える立場で、涙あふれる生活をしました。これは有難たいことです。自分には父母も親友も、師も、どんな環境の私生活もない淋しい心情ばかりでした。よるべなき身でただ神と我・・・。うら悲しい荒れ地のごとき天地のまえに、気を取りなおしてアボジと呼ぶその心と共に、涙あふれるその場に、そよと吹く風のそよぎが自分には親友でした。

 東の空に昇る朝陽の光が、わが心情の友であり、もの淋しい地面の土がわが友であり、眺めやる自然がわが友であることを、皆さんが感じたなら、ここに新しい自我を発見し、新しい価値と新しい因縁が躍動する決心を、再度なしたと思うのです。この決心をもって怨恨を解くために、自分自体だけが伏して祈るのではなく、必ずこの民族を抱え、一族を捧げても天を抱え、涙と汗と血を流さねばならぬのです。こんな新しい決心をなしたと見るのです。

 いま天の総決算的な条件があったとしたら、これはある聖書の御言の条件ではないのです。この御言を通して神の遺業を相続して、兄弟を代身して、永遠を代身して涙を流す心情の主人になっているか? 一生、汗を流してもいいという、心情の人格者になっているか? でなければ血を流して、供え物になる恨があったとしても行くという、そんな心情の姿になっているか? そんな自分にならねばなりません。

 統一教会の信徒たちは胸に手をおいてみる時、心臓の鼓動と脈拍とを感じるたびに、この血はある日ある時に途絶えるのですが、切れるということが誰のためかといえば、自分のためというなら、天宙の恨となるのです。途切れる日が、この血と脈拍が人類と天と地のためだったならば、ここにおいて皆さんが地獄に行くともがいても、自然に天国に行くのです。統一信徒の行くべき人生の目標が、ここにあります。人生の目標はこれです!

 いつ自分が鎌をふるうかハンマ-をふるうか、血を流し、汗を流して働く場に行かねばなりません。ここにアボジと共に、涙を流し汗を流さねばなりません。この天宙の偉業を成就せずして人類と共に涙し、天と共に成果があがらずに切なく涙する立場にあったならアボジと共に、人類と共に、歴史と共に、血を流してこのみ旨を完結するという決心をする群れがこの民族のまえに、一つの村に一人づつあったなら、滅びることはないのです。そこに加担しないという人は沈むのです。ここで語っている人間が、平安な立場でこんな話をするのではありません。私がそうですから、皆さんもそうでなくてはなりません。このように生き、このように戦っていますから、皆さんもそうです。

 宇宙の全ての生命の運勢を懐に入れ、握りしめるのです。こんな心情を懐に抱いたが、放したら天地が滅びるのです。放すなというのです。自分の手が切れたとして放すな! 失ってしまう群れとなっては、ダメです。


 血と汗と涙の道を行く心情の主人公になれ

 こんな観点から見る時、今は皆さん自身に返って反省してみるのです。天がどんな観点で皆さん自身を指導しておられるか、反省してみて下さい。皆さんの心情からある目標に向かって指導されたかを考えてみるのです。皆さんは1年6か月以上、あるいは2年近く心情問題を叫んできました。この時は真理と人格と心情を、いっぺんに神のまえに讒訴の条件として提示する時であることを知りましたから、この基準を完全に終結するために、血と汗と、涙を尽くさねばならぬことを知りましたので、天地の度数に代わるある数の条件を備えて、皆さんを万民のまえに送ったのです。

 今から行って皆さんがこんな信念を抱き、天地の大名分を代身する本然の家庭の基準を胸に抱き、皆さんが行って戦う時、行くごとに摂理は、思いもよらぬほど変わるのです。人間ができなければ、霊界が動いてくれるのです。皆さんは今回、多くの証しを立てました。貴重なことも多いでしょう。貴重な便りにも多く出会ったことでしょう。虫けらほどの価値もない自分一個を中心として、理論的な心情にすがって行く時、これが天を通して自身の環境を超えて動いていることを見る時、どれほど恐れ多くも、有難たいことかというのです。

 このようにして皆さんが帰ってきましたので、今からは心情の武装、御言の武装、人格の基準を完結させて解決しなければなりません。この時に天のまえに、一つの相続的な権限を得て、信じて祝福すれば祝福された通りになるという信念を持たねばなりません。息子娘の心情を代身する基準に立って、神の偉大さを代身し、サタン世界に向ってやってみるのです。

 ある村に入ったなら、我々はその村のために苦労している人間に負けてはダメです。その村に入ったら負けるなというのです。何をする時? 戦う時ではありません。汗を流し涙を流す時において、負けるなというのです。ですから我々は食べなくても決心を持たねばなりません。皆さんは犠牲にならねばなりません。今から3年の間、皆さんは総団結するのです。

 最後に言うことは、どうして血と汗と涙が必要かということです。歴史はこれによって戦って来ました。あるいは涙を通して、血を通して編んできたのです。ところで今までのキリスト教は、血を流し涙を流しても悔い改めよ、と叫んできました。イエスの血を中心にして涙を流してきましたが、ここにプラスするに、汗を加えなくてはならないのです。汗を加えるのです。

 今回、数多くの人々が210か所に教会を立てましたので、これを我々が責任を持たねばなりません。今こんな足場ができ、そのようにやらねばならない立場にあるのです。皆さん自身を見て下さい。歴史的に見てもそうであり、み旨から見てもそんな立場に立っているのです。それではここに我々の血は何をするのですか? 神の栄光にならなければなりません。皆さんの血は神のものです。

 神は我々の血の代価を要求されるのです。人類は涙の代価を要求するのであり、地は汗の代価を要求するというのです。なぜですか? 数多くの人々がこの地上に来て、悪なる世界に汗をいっぱい流しました。人類は今まで悪なる涙を、いっぱい流しました。悪なる血を、いっぱい流しました。ですから蕩減原則によってこの地は、我々善なる人間の汗によって洗わなければならないのです。今日この人類は、善なる人間の涙で洗わなければならないのです。神の前に、我々の血を、お返しするのです。

 今から統一教会の生活信条は、天のためにわが血、人類のためにわが涙、地のためにわが汗を流せということでなければなりません。このような生活的感情から「アボジ!」と呼び「私は息子ですからこうであり、あなたはアボジですからこうです」という、そんな父子の因縁がありますから、こうならざるを得ない心情的な基地を立てて、万事は終結するということを知らねばなりません。心情の涙、心情の汗、心情の血を我々が行くことごとに立てることが、今から戦い行く皆さんの義務であり、責任であることをよくよく知らねばなりません。分かりましたか?「ハ-イ」

 俗なる群れのまえに、真実をもって行かねばなりません。今は言葉よりも実践をしなければなりません。話す前に、身に染みる心情から涙を流し、彼らを抱え「兄弟よ」「同胞よ」と涙あふれる者にならなければなりません。この民族がこのように惨めで、この民族がこのように頼るところもないことを知る時、自分の体を支えることもできぬほど慟哭する、心情の主人公にならねばなりません。

 この民族を握って、行く道が塞がれて振り返りつつ行く道であったとしても、解放の時であることを切実に感じますので、言うに難しく、強調するも困難な言葉を師の口から言うこの苦しみを、皆さんは分かっていると思います。天の栄光を私は願いません。皆さんのために・・・。皆さんが戦い行くに、戦うたびにその涙はアボジの涙として、その汗はアボジの汗として、腹がへれば断食をして、血を干してでも訴えるのです。その姿に天は役事されるのです。

 我々の真の同志の姿は惨めです。それでこれまで、統一教会の皆さんはお分かりのように、私は物質を求めませんでした。人間を要求しませんでした。飢えた者を抱え、彼と共に慰める者を求め、哀れな者を抱え、彼と共に愉しむ場を求めました。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.03.21 07:34:35
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.