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2021.04.16
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「復帰の道」

 ルカ12:48-53
 1964年3月15日(日)前本部教会


 今日お話します題目は「復帰の道」です。復帰の道。この復帰という名詞は、我々にとって嬉しい名詞ではありません。

 人間が堕落しましたから、救援という名詞が必要になったのであり、救援を受けなければならない立場ですから、復帰という名詞が必要になったということを、我々はよく知っています。人間が罪を負い、死の中に堕ちてしまったので、このような人間を生かすためにメシア、すなわち救世主が必要になったのです。ですから人間始祖が堕落しなかったら救援とか復帰とか救い主という名詞は、我々と何の関係もなかったのですが、堕落したので、救援や復帰や救い主という名詞が生れたということを、我々は知っています。


 人間の堕落と復帰の目的

 本来、神は人間を創造される時、ご自身の所望の実体として、ご自身の心情を代弁する実体として造られましたが、堕落することによって神の所望も、心情も、ゆくところもなくついえ去ったのであり、今日この地上にはサタン世界の所望と、サタン世界の心情が残っていることを我々は知っています。ですから存在する全ての万物は神によって造られましたが、願わざる怨讐の懐に抱かれるようになったのです。

 神は人間を、神の内的心情を代身する実体として造られましたが、堕落することによってその存在は、神のまえに傷心の存在となり、後悔と怨望の象徴体となったということを我々は知っています。

 しかし神はこのような怨恨を残した人間を、そのまま捨ておくことはできないのです。なぜならば、天地万物を神のみ旨を中心として造られ、原理法度を通して造られたからです。アボジの心情の基盤があり、み旨が残っている限り、造られた万物と人間を根本的に破壊してしまうことはできないのです。もしも万物と人間を破壊してしまったら、神はみ旨を立てたその理想の苦しみを受けるのであり、心情を立てたその理想の苦しみを受ける立場に立たざるを得ないのです。それゆえ神はこの世界と人類を、再び本然のみ旨と心情のまえに立てることのできる万物と人間を、捜し求めておられるのです。

 復帰される時においては、我々人間の一個体を復帰させることも重要ではありますが、それよりも堕落した人間全体を、堕落しない本然の位置に回復させなければならないのです。また、神の懐を離れ、怨讐の懐におさまっているこの天地万物を、神のまえに返さなければ復帰の目的が達成されないということを、我々は知らねばなりません。このような復帰の目的を達成しなければ、神には所望も理想も栄光もないのであり、ご自身の心情によって造られた万物と共に、幸福を歌うことができないことを、知らねばなりません。

 ですから神の救援摂理は、神のみ旨を成すことであり、ご自身の心情が通じることができる子女を求めて幸福なる世界、永遠に変わらざる栄光の基台、生命と愛と真理の基台の上に、全宇宙万物と共に喜び、共に愉んで、永遠無窮なる天国生活を成すためなのです。このような天国を造ってこそ、神の願われた創造目的が成ったという立場に立たれるのであり、これを目標として復帰の歴史をなして来られたことを我々は知らねばなりません。


 復帰摂理の内容と人間の無知

 それでは復帰はどのように成されなければならないのでしょうか? 我々が原理を通して知っているように、万物から復帰しなければなりません。ですから旧約の供え物の時代を経て、新約のみ言の時代を経た後に、実体時代に来ているのです。

 供え物の時代からみ言の時代を経て、実体時代まで復帰してくる時、我々人間はどのあたりから復帰して上がってこなければならないのか? 人類の始祖がサタンの血統を受けたその日から人間は、サタンと切っても切れない因縁を持ったのであり、神のまえに帰ろうにも帰ることができない怨讐の息子になってしまったのです。

 しかし、神はサタンの息子として生まれた人間を、サタンの愛を受けることのない立場に立たせ、天の側に率いて来られました。神は人間を天の側に率いるために、僕の時代から養子の時代に、その次には真の息子娘の時代に、その次には真の父母の時代を経て、役事されて来られたのです。このように神は逆に上がって役事されるのです。

 もしも人間が堕落しなかったなら、我々に僕という名詞は必要なく、養子という名詞も必要なかったのです。我々は神の認定される姿となり、永遠の神の善の園において、神の愛を中心として善の父母の立場までくるのです。僕の身分と養子の身分から逃れ、息子娘となってアボジの愛を受け、真の夫婦の立場までくるということが神の救援摂理であり、復帰歴史だということを知らねばなりません。

 それではこの歴史をなしてこられた神と、この歴史に対してきた人類の先祖と、現在の人間を比較して見る時、今日この地上に生きている多くの人間は、神が復帰歴史をされていることを知らないのです。また我々の先祖たちが復帰の路程を開拓するため多くの苦労をなし、その苦労の路程て神に忠誠を誓っても、その誓いを捨て去り捨てて、神に悲しみをまし加えたことを知らないのです。

 このような人間を一挙に復帰できないことが、神の曲折であることを我々は知らねばなりません。人類の始祖が失敗して天地を引っくり返してしまったので、アダムとエバの堕落を復帰するためには、一つの中心が必要になるのです。それで神は人類の真の始祖となることのできる一中心を求めて、6千年という長い歳月をさまよい来られたことを、我々はよく知っています。また一中心を立てる前に、その中心を受け入れることができる外的な基台の準備をされて今日まで6千年の間、長い摂理歴史をされて来られたことを我々は知っております。

 ところで今日、全世界に広がっているキリスト教徒たちは、自分たちの使命が大きいということを知らないのです。まるでイスラエル民族が4千年の歴史を通して、選民として選ばれながら、選民としての責任と使命を全うしなかったように・・・。イスラエル民族は神が送られたメシアと共に、神のみ旨に責任を負わねばならないにもかかわらず、そのお方と一つにならなかったことによって歴史は逸れ、神が求めてこられたイスラエル民族は死亡の世界にと堕ちてしまい、神のみ旨を立てようとしたメシアは十字架につけられたのでした。それで神は第二イスラエル民族を収拾して、第三イスラエル民族を立てられ、この地上に新しい世界的なカナンを復帰しようとされたのです。

 このような見地から見る時、また今日我々が復帰の使命をなさねばならないという立場から、神と先祖たちと我々自身を比較して見る時、今日のこの時代は第一イスラエル時代でもなく、第二イスラエル時代でもなく、世界的なカナン復帰に向かっている第三イスラエル時代、世界的なカナン復帰のために厳しい戦いをして、勝利の価値をおいて天の命令と共に越えて行く重大なる時であることを、我々は知らねばなりません。


 ヤコブを中心とした復帰の摂理

 復帰摂理をなされる神は、一挙に天地を復帰することはできないので、個人から復帰されるのです。一人の個人を捜し立てるために今から4千年前、ヤコブを選ばれて僕の僕の時代から、僕の時代に移るために役事されたのです。神の僕であるとすることのできないないヤコブ以前の時代を精算して、僕の時代に移されるために役事されたのです。ところで僕の僕の時代を脱するには、神が仰せられる命令に従順に従い、勝利の基盤を築かねばなりません。そうなれば僕である個人から、家庭、僕たる民族へと経てゆくのです。

 イエス様が来られる前までの4千年の歴史は、何をするための歴史だったのですか? 僕の個人から僕の家庭に広げた後、僕の民族を建設して、怨讐サタンを屈伏させるための闘争をなしてきた歴史だったのです。このような闘争の歴史を経てきたことを、我々は知らねばなりません。僕の時代を復帰するための基盤を築くために、ヤコブは個人的な闘争の過程を経て、個人的な勝利の基盤を築かなければなりませんでした。このような立場にあったヤコブは、母親の協助を受けたのです。ヤコブは自分のお父さんがエソウに祝福を与えようとしていることを知ったお母さんの指示に従って、長子の嗣業を奪ったということを、我々はよく知ってします。

 このように祝福を受けて、個人的な勝利の基盤の上に立ってヤコブは、ハランの荒野を過ぎ、ラバンの家を尋ねました。しかし個人的な基盤を築いたとしても、ヤコブはそこに家庭という基盤を天のまえに立ててこそ、民族的な出発をすることができるのでした。このようにヤコブは自身が、直接的に民族的な出発をすることができないので、ラバンの家に行って21年の間、家庭的な基盤を築いたのでした。

 彼は惨めな生活環境の中においても、一片丹心、神のみを思慕し、再び行かなければならない故郷の地をとても恋い慕ったことを、我々は知らねばなりません。ヤコブはラバンの悪賢いだましにあっても、神と共にあって21年の間、忠誠を尽くしたのでした。神はこのようなヤコブを祝福して、ラバンの家庭にある全てのものを奪って与え、新しい勝利的な家庭基盤を完成して、再びカナンに帰ってきたことを、我々は知っています。

 その後、ヤコブ家庭はどうしなければなりませんでしたか? ヤコブ家庭は民族を代身して、民族的な闘いに進まなければならなかったのです。このような運命におかれていましたので、ヤコブの70人家族は、エジプトの地を求めて行ったのです。


 民族に対するモ-セの愛

 イスラエル民族が暴悪なるパロの魔手に惨めなる供え物としてついえ去った400年、心のままに弄ばれ、血肉をしゃぶりつくすことに汲々としているパロの暴虐のもと、惨めな供え物としてついえていったイスラエル民族のエジプト苦役400年期間は、疲れはてて倒れる期間であり、落胆して天を呪うほかにない期間であり、民族性を喪失する期間だったのです。

 しかしイスラエル民族は、試練が厳しければ厳しいほど、襲いくる逆境が大きければ大きいほど、彼らの心の底からわきあがる一つの希望があったのです。これが神から祝福された「イスラエル」という名だったのです。この心だけは、いかなる試練や逆境が襲ってきても、変わることはなかったのです。こんな心がありましたので、民族的な闘いにおいても疲れることなく、神を恋い慕ったのであり、祝福された国イスラエルを慕う強固なる愛国心がわいてきたのです。このような心がありましたから、神は彼らの心を指導できるモ-セを立てられたことを、我々は知らねばなりません。

 モ-セは40年パロ宮中生活の中において、み旨を立てた第1次の計画に失敗した後、カナン復帰を思って何千万回も祈祷したということを、我々は知らねばなりません。モ-セはイスラエル民族が祝福された民族であることを知り、アブラハム、イサク、ヤコブの血族であることを知りました。それでイスラエル民族が、怨讐サタンに籠絡されたらいかん、と考えたのです。

 モ-セは豪華絢爛たるパロの宮中において、カナン復帰の一日が来ることを強烈に苦待したということを知らねばなりません。彼は遠い本土の自身の国を慕って祈祷することを止めることができませんでした。こんなモ-セを知らねばなりません。パロ宮中の豪華な生活の中にも、イスラエル民族が大いなる苦労と苦痛を受けていることを感じれば感じるほど、イスラエル民族の生活と、自身の豪華な生活との差異が大きければ大きいほど、イスラエル民族を愛さなければならないという、心に染まったモ-セだったのです。

 ミデヤンの荒野において40年の間、牧者の生活をしながら羊を集めるたびに、彼の心はパロ治下のエジプトで呻吟しているイスラエル民族を、忘れることはなかったのです。また羊たちを集めて柵に追いこむたびに、彼は心からイスラエル民族を代身するという信念がわき起こってきたのです。モ-セはこんな境地で、「生きておられる神様! イスラエルを捨てたもうなかれ」と祈祷したのでした。

 イスラエル民族はモ-セを忘れても、彼はミデヤン荒野で神が憶えられるほかはない生活をしたということを、我々は知らねばなりません。モ-セは40年の長い試練の中にあっても疲れることなく、どんな厳しい環境の中にも落伍者とはならなかったのです。再び神が所願とされるみ旨を中心として、イスラエル民族を導いて行きたいという強固なる心だけがあったのです。それゆえ神は、折り良くモ-セを呼ばれ、イスラエル民族のまえに送られたのです。

 モ-セは多くの戦いの路程においても、神が民族と共におられる限り、神のみ旨はわがみ旨であり、わがみ旨がイスラエル民族のみ旨であることを知っていましたから、夢にも神に背反する考えは持たなかったのです。イスラエル民族を背信する考えは、夢にもしなかったのです。天地が変わる恨があったとしても、イスラエル民族に対する心だけは変わることがなかったのです。こんな心を持ってモ-セが行く道は神が行く道であり、イスラエル民族が行かなければならなこだったのです。

 このような立場でモ-セはイスラエル民族を率い、パロと数次にわたる戦いを重ねた後に、エジプト民族を屈伏させ、民族的な勝利の基盤を築いてカナンの地に向かって出発したということを、我々は知っています。

 エジプトを離れたイスラエル民族は、荒野において死んでも生きても、彼らの所願がモ-セの所願であり、モ-セの所願が神の所願であることを知って、その道にひどい逼迫と試練を受ける恨があったとしても、モ-セが神を捨てない限り、神もまた自分たちを捨てられないということを、肝に銘じなければならなかったのです。これがイスラエルの使命でした。


 イスラエル民族が荒野で倒れた理由

 神が彼らに400年間の試練を経させられたということは、新しいカナン天国を建設するためだったのです。

 それではエジプト路程において責め苦を受けながらも倒れなかったイスラエル民族が、どうして荒野で倒れたのか? 神がモ-セを立ててイスラエル民族を導く時、イスラエル民族はモ-セに引率されたその日から、万事が意の如くなり、世界が自分の思いどうりになると思ったのです。しかし本来、復帰の道はそのようにはならないのです。

 個人を求めるためには、個人的な闘いを経なければならず、家庭を求めるためには、家庭的な闘いを経て、民族を求めるためには、民族的な闘いを経て、国家を求めるためには国家的な闘いを経て、天地を求めるためには、天的な闘いの路程を経なければならないことを、イスラエル民族は知らなかったのです。

 神はイスラエル側に立って十災禍を下される時、イスラエル民族は堂々と天下に号令をかけるかのようでした。神はイスラエルの国を建国するために、イスラエル民族を立てられたのですが、彼らはやらなければならない責任は果たさず、果たしたという立場に立つことのみを欲したのです。イスラエル民族は使命と責任を果たさねばならないということが分からない立場で、彼らの行く道が平坦でない時に不平をもらし、行く歩みが難しければ難しいほど、不満を吐き散らしたのです。神が呼ばれたみ旨と、モ-セを立てて引率されたみ旨を知らなかったイスラエル民族は、壮途においてぶち当たる試練に勝つことができず絶望したのです。これが導火線になって、イスラエル60万の民は荒野で、禿げ鷹の餌じきとなってしまったのです。

 本来はイスラエル民族が民族的な勝利をなした後に、カナンの地に入って、カナン七族を滅ぼさなければならなかったのです。これがイスラエル民族が行かなければならない路程だったのです。神がサウル王を立てた目的も、一つの主権国家を成して、サタン世界の民族を打つことにあったのです。すでにエジプトで長子を打ったことと同じく、サタン世界の全てのものを打って征服するということが、サウル王に下された神の命令だったのです。サウル王には民族的な大きな使命と、果たさなければならない責任があったにもかかわらず、人間的な基準、私的な基準で考えたことによって、神のみ旨に背反してしまったのです。それゆえにサウル王の時に建てようとした神殿理想はダビデ王、ソロモン王にと延長されたのでした。この神殿理想は本来、モ-セが荒野において倒れることなく成就しなければならなかたったのです。

 このようにしてイスラエル民族が、統一王国時代末期には二つに分けられたしまったのです。北朝イスラエル10支派と、南朝ユダ2支派に分けられたのです。それでお互いに争ったのです。


 イエスの使命

 神がイスラエル民族をカナンの地に呼び入れられたのは、カナンの地に天国を建設するための勝利的な民族基盤を完結して、一つの主権を立てた後、将来送られるメシアを迎えるためであったのです。ですからイスラエル民族は、メシアを自分たちの国を統治する主人公として侍り、メシアを中心としてサタン世界を打って、神の復帰摂理を終結させなければならないのです。こんな使命があったにもかかわらず、イスラエル民族とユダヤ教団は、これが分からなかったのです。

 その当時イスラエル民族は、救世主が来たならば自動的に世界を支配することができる民族になるとばかり思って、民族的な勝利と国家的な勝利の基台の上に、世界的な勝利の基台を築いて、復帰の歴史を終結させるのだということが、分からなかったのです。

 今から2千年前、イエス様当時を回顧して見る時、イエス様はどんな使命を持って来られたのですか? イエス様は神の独り子、神にとって一人しかない独り子であり、皇太子なのです。こんなイエス様が来られて、しなければならない使命が何なのでしょう? イスラエル民族とユダヤ教を収拾して、ロ-マと対決してロ-マを占領することでした。イエスが死んだ400年後にロ-マ帝国を征服することではなく、生きてロ-マを占領しなければならないのです。そうすればその時、すでにイエスの理念は世界的な勝利の基盤を得ていたのでした。

 またイエス様は天と地、神と人間が分けられているのを一つにし、サタンを審判してサタン世界にある全ての人間を神の側に復帰して、サタン世界にある万物を神の側に復帰しなければならないのです。分けられている天と地を連結させ、天国理念を地上に実現しなければならないのです。これがイエス様の使命なのです。

 イエスが死んだ後に再臨の一日を立て、千年王国を苦待するということが、本来神の摂理の目的ではなかったのです。イエス様が生きてこの地上に、天と地に天国、すなわち千年王国を建設しなければならなかったのです。神が所願とされた天宙的なカナンの天国理念を、地上に実現することがイエス様を送られた目的であったことを、我々は知らねばなりません。

 このような使命を持って来られたイエス様は、どのようにしなければならないか? ご自身を迎えるための基盤として4千年の間、準備されたイスラエル民族は信仰的にも全ての面において、神のみ旨のまえに近く立たなければならないのに、立てなかったのです。彼らは神が呼び立てた本然の目的を、喪失したのです。これを収拾することが、イエス様が3年公生涯路程を出発した一番の目的であることを、我々は知らねばなりません。またイエス様は、ロ-マの属国となって苦しんでいるイスラエル民族を、生きかえらせなければなりませんでした。それゆえイエス様を中心として、ユダヤ教団と民族が一致しなければならないことが、神の所願であったにもかかわらず、ユダヤ教団はイエス様を追い立てることに汲々として、イスラエル民族はイエス様を捕らえて殺す先鋒となったのです。それでイエス様は、所期の目的を果たす条件を失ってしまったのです。

 ユダヤ民族の不信によってみ旨を果たせなかったイエス

 イエス様が来られた目的は、ユダヤ教を収拾して、イスラエル民族を収拾して、世界的なカナンの福地を建設すること、神のみ旨を成すことだったのですが、望みの所願の基台が全て崩れ、イエス様は仕方なく十字架による霊的救援の基台を立てたのです。これを我々は知っています。これは喜ばしいことではありません。恨めしくも憤ろしいことです。 それでイエス様は「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか(ルカ12:49)」と言われました。皆さん、この一節のみ解決するならば新・旧約の全ての問題が解けるのです。続いてイエス様は「しかし、わたしには受けねばならないパプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう(ルカ12:50)」と言われたのです。この聖書の一節を、内的にでも外的にでも完全に解決する人間は、天地を掌中におくことのできる人間なのです。聖書の骨子中の骨子が、どんな句節か? すなわち、この句節なのです。

 イエス様は地上に火を投じるために来たというのですが、この火とは何の火ですか? また、イエスが受けなければならないパプテスマとは、何のパプテスマですか? ヨルダン川における洗礼ですか? 違います。数多くのキリスト教の信徒たちは沢山いますが、この内容を知っている人間は、私以外にはいないのです。この内容を知っている群れがいるなら、統一教会の群れの他はないのです。恨めしくも憤ろしいことです。

 4千年の間、血のにじむ歴史路程のうえに、死の祭壇を連結して尋ね求めたイスラエル民族とユダヤ教徒は、自分たちのために来られたメシアを見忘れたのです。メシアを送られるための歴史過程を経て、数多くの先知者を立てて準備させ、その教団と民族のために送られましたが、その基台の上に来られたイエスがメシアであることを、誰が知っていたでしょうか?

 今日、信仰しているという人々は「われはイエスを信ず」と言っていますが、生きて神を証し、生きて天国生活を愉むというイエスのみ言を信じなかった、ユダヤ教徒と同じなのです。皆さんもそのように考えるでしょう。「イエスを信じて天国に行こう・・・」簡単で楽なことです。私が見るにイエスを信じて天国に行く、そう簡単ではないのです。

 神は民族と教団を立てるために4千年の間、力を尽くし、苦労されました。無形の神としていましたまう神の怨讐であるサタンの僕を、天の側の僕として救うことが、どんなに骨の折れることでしょうか? 皆さんたちが生きている肉界には、数多くの悪人たちが役事していることを知らねばなりません。深い祈祷をして、神秘的な体験をした人々は知っているのです。

 肉界と天の玉座を結ぶ空中権勢を、サタンが握っているのです。そこには無数の悪霊人がいます。神はこの権勢を貫いて、地上に一人の人間を立てられました。ところで神のみ旨を抱え、生命を捧げる覚悟をしている一人間を信じることが、どんなに大変なことか分かりません。どんなに骨が折れることでしょう。

 アダム家庭から始め、カインとアベルに分けられ、ノアを立てて120年の間ねばり強く導いてこられた天の犠牲がどんなに大きいか! 暗黒の天地に、摂理の一基台として残すことのできる一人間を求め立てるに、どんなに犠牲が大きいか! ノアは120年の間雨が降っても、雪が降っても自分の境遇を変えはしなかったのです。聖書には書かれてはいませんが、明らかにノアの子供たちと妻は、ノアに反抗したのです。神のみ旨が何だというので、120年間も山のてっぺんに船を造るんか、と批判したのです。狂った人間だと、悪口を言ったことは間違いありません。


 洪水審判を可能にしたノアの信仰

 ノアは悲しい人でした。自身は鉄石の如く、神の命令とみ旨を信じていましたが、妻子たちは信じていませんでした。その時の環境がどんなに難しく、惨めだったでしょうか?環境が難しければ難しいほど「アボジよ、この地上にアボジを信じる者はわし一人です」と言ったノアだったのです。しかし逼迫と嘲笑が大きくとも、神に対する信仰心が大きいこの時代の悪なる勢力を抑えることができたのです。このような信仰の基盤がノアにあったということを、我々は知らねばなりません。

 ノアは神のみ旨を知っていましたので、死んでも行こうとしたのです。ノアは嘲笑され迫害されても、憤っている暇がなかったのです。自分がバカにされることに憤っても、自分を信じて捜しこられた神が、120年の後に審判されようと箱舟を造れと仰せになったので、自分がもしもこのみ旨に反対したならどんなに悲しまれるかと、自身の悲しみを越えて神を慰めることに懸命だったのです。それでノアは120年の間、真を尽くしたのです。皆さんは1年でも、真を尽くしてみましたか?

 ノアが箱舟を造ることに、妻子たちは朝から晩まで、反対したのです。聖書にはのっていませんが、知ってみて下さい。祈祷してみるならば、嘘か本当か分かるのです。お父さんがすることに、お互いが助けようとはしなかったのです。ノアの妻が、箱舟を造ることを許したでしょうか? こんな環境におかれていたノアでしたが、神のまえに近く、自分のために準備された神を抱き、慰めたのです。このようなノアの信仰によって、復帰の道を受け継いでも残る基盤が築かれたのです。ですから、神が審判をすることができたのでした。

 このように苦労したノアを立て、み旨を成そうとされた神のみ旨が、ハムの失敗によって崩れてしまって時、神の悲しみは口に言えぬほどに大きかったのです。ノアを第二の人間始祖として立てて、怨讐サタンを追い出し、天の血族によって新しい天地を造ろうとされた神のみ旨が、ハムの失敗によって崩されてしまったのです。

 こうしてこの時から400年が過ぎ、アブラハムを求め立てましたが、アブラハムの祭物失敗によって、イサクとヤコブを経ていったのです。このようにして3代の神であるという名を残したのでした。現代のキリスト教徒たちは、これは良き呼び名であると思っています。

 2千年の間、神はアブラハム家庭を捜し求めましたが、祭物失敗によってこの家庭失って、再びエソウとヤコブを立てました。そうしてヤコブがサタン側と闘って勝利して初めて「イスラエル」となったのでした。「イスラエル」とは勝利したものという意味です。誰に対して勝利したのですか? 地上のサタンに勝利したのであり、その次に天使長に勝利したのです。

 これはすなわち、ヤコブが天使を屈伏させたということは、天使長ル-シエルが天倫を破綻させたことを回復したということなのです。すなわち、天使長を自身の本来の位置、僕の位置にと返したということなのです。それで初めてイスラエルという名を得たということを、我々は知らねばなりません。この基盤の上に、家庭、氏族、民族、国家的な基盤を4千年の間に積んで、メシアとして送られた方がイエスなのです。


 キリスト教の中心は復活の教理

 このようなイエス様が来ましたが、ユダヤ教団とイスラエル民族に排斥されたのです。そんなユダヤ教団が未だに残っているのです。今日の世界のキリスト教徒は団結して、サタン世界を貫いていかなければなりません。自分たちの信仰だけが最高だというなら、神の怨讐です。恨多きイエス様であったことを、皆さんは知らねばなりません。

 今日信仰しているという信者たちが言うに「おお ! イエス様はこの地の万民を救われるために、十字架で死なれるために来られた」としています。このように考えたら簡単ですが、万能の神が、死ななければ救援摂理ができないのですか? ですからイスラエル民族を失ったイエスであり、ユダヤ教団を失ったイエスであるということを、皆さんは知らねばなりません。

 イスラエル民族はイエス様にすがって、天民にならなければなりませんでした。イスラエル民族を天民に転換させることが、イエス様の使命だったのです。ところでイスラエル民族がどうしたでしょうか? ユダヤ教団がどうしたでしょうか? 祭司長、律法学者たちがどうしたでしょうか? 神がイエスを捕らえて殺そうと、4千年間、摂理されてきたのでしょうか?

 大きな抱負を抱いていたのに、語ることのできる環境が得られなかったのです。その社会で最も捨てられた群れである漁夫や娼婦、乞食のような者たちを集めたのですが、天国の理念を語ることができたでしょうか。どんなに切なく辛くて、語ることは多いがおまえたちはそれに耐えられない、というみ言を残したことでしょうか? 思いのままに語ることのできる祭壇を、ただの一度も持ってみなかった恨を抱く哀れなイエスだったのです。神の息子イエスがこの地上に来て、なにゆえに寝静まっている夜中にカンラン山まで捜し求めて来るのでしょうか? なぜゲッセマネの園で、祈祷されたのでしょうか? ユダヤ教徒が責任を果たし、イスラエル民族が責任を果たしたならば、それらは必要なかったのです。

 その時、神が親しく共におられる立場で、イエス様とユダヤ教とイスラエル民族が一つになっていたならば、大きな問題が起こったのです。ロ-マも問題ありません。彼らが一体になれば、ロ-マも身動きできないのです。

 本来、キリスト教の教理は十字架の教理ではなく、復活の教理なのです。イエス様が復活されることによって、救援が成立したのであって、死ぬことによって成立するでしょうか? キリスト教は復活の宗教なのです。今日、地球上の十字架を全て焼き捨てなければなりません。誰がするのでしょうか? 見ててご覧なさい。私の話が合っているか、間違っているか。とはいっても、十字架の道理、十字架救援の道理を否定することではないのです。サタンに刺し通されたその十字架を、なぜ掛けておくのかというのです。

 逝かれた3日の後、復活されたイエス様は、その復活の権能によって我々が救援を受けるのです。復活されて後の、40日期間の基盤の上に、初めて新しい第二イスラエル、すなわちユダヤ教を代身した新しいキリスト教が出発したのでした。キリスト教は十字架の教理ではなく、復活の教理だというのです。信じられないという人は、祈祷してみて下さい。自信をもって語っているのです。

 今日我々統一教会がこの時代におきまして、迫害され、追われてはいますが、真か嘘か必ずはっきりしてくるのです。イエス様もこのような信念を持っていたのです。


 イエス様を不信したユダヤ教団とイスラエル民族

 イエス様当時を、再び考えてみます。イエスと一つにならなければならない民族と教団が、どこへ行ったでしょうか? どこへ行ったの? 崩れてしまったのです。サタンの手中に入ってしまったので、イエス様は仕方なく、再び基盤を築くために弟子を捜し求めました。その時イエス様の弟子は、洗礼ヨハネを中心とした祭司長や律法学者でなければならなかったのです。こんなにダメな弟子たちを率いて行ったならば、万王の王として来たイエス様の体面が立つでしょうか?

 ユダヤ教団はどこへ行ったの? イスラエル民族はどこへ行ったの? イスラエル民族とユダヤ教団は、行くところがないのです。イスラエルの歴史を立てるためになしたノアの苦労は、どこへ行ったの? アブラハムの苦労は、どこへ行ったの? イサクとヤコブの苦労は、どこへ行ったの? エジプトのパロ治下の400年間、苦役したイスラエル民族は、どこへ行ったの? 皆さんは知らねばなりません。数多くの功績を立てた先祖の基台は、全てが崩れてしまったのです。

 その時、民族のために祈祷した人、教団のために祈祷した人が、神のまえに何人いたでしょうか? ですから神は歴史的な距離をおいて、第二イスラエル民族を再建するために霊的な救援摂理をなして来られたのです。それでキリスト教は霊的なユダヤ教であり、霊的なイスラエル民族なのです。世界の数多くのキリスト教徒たちは、イエス様当時のイスラエル民族を代身する立場にあるのであり、ユダヤ教団を代身する立場にあるのです。

 初臨のイエス当時に、このみ旨を完結させるためにイスラエルの国を動かし、その国家的な基準を、世界的に広げてゆかなければならなかったのです。このみ旨が成されなかったので、再度収拾して世界的な環境を造って、再臨の時を準備してきたのです。

 イエス様自身はどのようにされたのでしょう? イエス様は4千年の間に築かれた民族的な基盤が全て失敗してしてしまったので、サタンの試練を受け、サタンと闘ったのでした。民族的な基盤が失敗することによって、全てのものをサタンが奪ってしまったので、全てのものを奪い返すサタンとの闘いに、勝利しなければならなかったのです。それでサタンにさまざまな試練を受けたのでした。神の息子が何故にサタンに引っぱられ、試練を受けなければならないのか? 歴史的な怨恨を精算しなければならない条件が残っているが故に、サタンから試練を受けたのでした。このようにして霊的救援の基台を造成して、今日のキリスト教に発展させる基台を造成したということを、知らねばなりません。

 これによってイエスの使命は、終わったのではないのです。それではイエスの使命が、何であったのですか? ユダヤ民族を中心として、サタンとの闘いに勝利の基盤を築いて世界的なカナンを復帰することが、本来のイエスの使命なのでした。ですから終わりの日に来られる主様も、やはりこのような使命を成すために来られるのです。

 ヤコブが実体的に勝利することによって彼が行った路程は、それ以後の中心人物が行かなければならない基準となったのです。イエスは個人的な路程において、個人的な基盤を築き、家庭的な勝利基盤、民族的な勝利基盤等、全ての基盤を再び築かなければならないのです。そしてユダヤ教団とイスラエルの国が失敗した全てのものを、再度築かなければならないのです。イエス様は歴史的な実体ですから、彼には歴史的な実体としての先祖の全ての血統を、あるいは伝統を相続するために、歴史的なサタンと敵対して闘争しなければならないという問題があったのです。


 サタンを屈伏させる秘訣

 聖書を見れば、イエス様が完全に個人的、民族的、国家的な条件を立ててサタンと闘って勝ったでしょうか? それはできなかったのです。イエスのまえにも屈伏しないサタンが、イエスを信じるという人間に屈伏するでしょうか? 6千年の間、神のまえに讒訴して神のみ旨を蹂躪し、神の摂理を台無しにしてきた知恵深きサタンが、イエスを信じるという人間が追い出そうとして追い出されるでしょうか? 相続権がなければなりません。分かりますか? 何の話か・・・。

 我々には歴史的な相続権がなければなりません。アダムからノア、アブラハム、イサクヤコブ、モ-セ、イエス以後までの伝統と基盤を相続して、歴史的な祭物を代身した相続者にならなければなりません。それでサタンに「おまえは歴史的な路程において、ノアに負け、ヤコブに負け、モ-セに負けなかったか? 私は彼らの勝利の基盤の上に立って、摂理歴史の全ての伝統を相続したのだから、サタンよ! おまえは出て行け」と言って追い出すことができるのです。

 こんなサタンを追い出そうと、どれほど祈祷したでしょう。サタンは出て行ったか。6千年の間、神のまえに讒訴して蹂躪し、復帰摂理を破綻させたサタンですから、自分はイエスを信じているから出て行けといって、たやすく出て行ったでしょうか? とんでもない話です。

 イエス様には相続譜があります。イエス様には神からの心情を受け継いだ相続譜があるのです。4千年の間イエス様を送られるまでの心情的相続譜があるのです。その次にはイエス様の対象の相続譜がなければなりません。イエス様の対象となるお方は、愛の血筋を通して来るのではなく、善なる血族を通して生まれなければなりません。そんな相続譜がなければなりません。

 神は十字架の路程において闘い、死んだ者は用いないのです。億万サタンと対決する立場に立っても死ぬことなく、霊肉共に復活の実体にならなければ、実体的な相続者にはなれないのです。先生が知ってみれば、このような問題があったのです。イエスを信じるという人たち、既成教会の信徒たちは、何の話が分からないのです。サタンを屈伏させる秘訣は、自分が心情的な相続復活圏に入ることです。

 「自分は間違いなく歴史的な神の心情に通じ、神が捜し求めた者だ。自分はイエス様の尊い聖体に触れた者だ」と言えなければなりません。それでサタンを十字架上で負かすのではなく、十字架に架からないで、サタンを屈伏させなければなりません。それで肉身をもって、実体で復活してこそ成るのです。このような実体の相続者として、認定を受けてこそ天国に行けるのです。

 イスラエル民族は責任を負わなければならないのに、この民族は責任を果たさなかったのです。今日皆さんも責任を果たさなかったなら、皆さんの後孫にはどえらい責任がかかってくることを、はっきりと知らねばなりません。ところで今日皆さんは、このような立場に立っていないので、アボジのまえに「主人を送って下さい」とせねばなりません。主人を送ってもらうとするならば、主人の道を築かなければなりません。


 来られる主人に侍るなら

 それでは尋ねて来られる主様を、韓国の主人として侍るためにはどんな責任を負わなければならないでしょうか? そこに主人が来られる道を築いておいてこそ、修道の責任を果たしたという道理が立つのです。世界を求め来られる主人を迎えるためには、その国が責任を果たすという立場に立ってこそ成るのです。そうすれば出会えるのです。このようになっているのです。そうじゃありませんか?

 ですから皆さんは、主人のために準備する者にならなければなりません。ある分野の責任がどんなに重くとも、主人の立場で自分の責任として担っていかなければなりません。方法はこれ以外にありません。ですからこのようにして、皆さんが失った主人になるのであり、また主人に侍る責任を果たすことになるのです。

 今夕、先生が語ったことに間違いはありません。再臨される主様がこの地上に来られるなら、このような使命と責任を中心として苦痛をなめ、全てのことを準備した民族があったとして、間違いなくその国に来るのです。たとえ神が来るなといっても、そのお方は絶対にその国に来ざるを得ないのです。こんな信念を持って皆さんが先生に従って来たら、先生が語ったことが当たっていることを知るのです。見ててご覧なさい。過ぎてみれば分かるのです。

 今は精神がちょっと回る時です。何もしないで世界が転がり込んでくる時になったのです。転がってゆくのではなく、転がり込んでくるのです。この転がり込んでくる世界を、どのように収拾するのか? これが問題です。しかし解決する方法はあるのです。

 今日、革命政府がこの民族のまえに収拾する方法が分からず、もがいています。これを収拾する方法は、何でしょうか? 「どんなにあの人々が失敗して、どんなに彼らがあのようになったとしても、我々はその人々に言うことはありません。どんなに彼らが滅ぶ立場になったとしても、我々としては今言うことがありません」このように言える武器があったなら・・・。何の話か、分かりますか?

 万人を感動させる材料

 今日この世の中の、あらゆる苦悶と苦痛を代身してきた統一教会の先生がいる限り、これからこの世界と既存教会がどんなに反対したとしても、統一教会に吸収されてしまうのです。今さしあたって吸収されて、数百万が押しかけて来るというのではありませんが、間違いなくそのようになるのです。しかし自分自身が将来、それに相当するだけの大きな材料になっていなければなりません。そうなれば彼らが不平を言うにも言えなくなるのです。何をもって控訴することもできず、そのような材料がないというのです。

 今日、神の権威ではないイエス様の権限によって、世界万民のまえにメシアであると主張することのできる材料が、何でしょうか? これは万民のために涙を流し、怨讐までも愛によって抱え、涙を流すことです。そこには少しも反発することができないのです。良心がある人間なら、反発できないのです。これが天理であるからです。これを越える勇気がない人間は、屈伏してしまうのです。

 同じく今日、世界史的な使命を負った我々は、この世界をどのように収拾しなければならないのでしょうか? 我々が30億人類を眺めやる時、悪人が全世界を死亡のどん底に陥れていることを見るのです。しかし我々は神の材料を知って、彼らがこれ以上この世界を滅ぼす前に、人類を救わなければならないのです。私はたとえ低い立場で、滅びの場に入ったとしても、統一教会がこの民族と世界人類のまえに提示することのできる材料を持つことが、急務なのです。

 先生はこんなことを、心に掛けているのです。今、統一教会員が多いことを願ってはいません。どうせこれから多くなるのです。神もこのことを、心がけておられます。その材料が必要なのです。歴史を変える材料、時代を変える材料、未来を変える材料が必要なのです。これは、血と、涙と、汗なのです。心情によって通じる血と涙と汗。神に涙を流させる血と涙と汗。民族に涙を流させる血と涙と汗なのです。それで個人、個人が、世界の人々がこれを聞いて涙を流す血と汗がなければならないのです。

 その汗の上に積まれた勝利の功績は、後代の人々が崇拝する材料となり、後代の人が必要とする材料であると認識するならば、世界はこのことによって全て吸収されるのです。それで皆さんは3年の間、苦労せよと、先生は叫んでいるのです。そうするなら皆さんは滅びないのです。

 祝福家庭がこの天地の四方八方に散らばっているので、心が痛むのです。慟哭したいです! でもその心情を抑えているのです。彼らに対する時は、無慈悲な師として現れる他はないのであって、歴史を創造する計画を立て、歴史を収拾する民として育てなければならないので、無慈悲に下すのです。正にこれが先生が主張する、信念なのです。このようにすれば、何年後には皆さんが沢山ついて来るのです。

 神の威信があり、体面があるので、ボロを着て食うに事欠く時に、祝福を受けても私がこんな道を行けというのです。皆さん、こんな道を行ってみなさい。滅びることはないのです。こんな材料が、我々には必要なのです。


 神に対するイエス様の大いなる孝誠

 神は個人をこのような立場に立てても抗議する個人はなく、家庭をこのような立場に立てても、民族をこのような立場に立てても、国家をこのような立場に立てても、抗議する家庭も、民族も、国家もないので、世界を導くことができるのです。

 イエスが復活した後、キリスト教は今日、世界的な宗教として君臨しているのです。数多くの先知者たちを連結していって、今日の世界の文明圏を形成する基盤を築いたことはなぜでしょうか? イエス一人を、再び送るためなのです。本来イエスは、アダムが堕落する以前までの神の心情を受け継ぐために来られたのです。このような使命を果たさなければならないイエス様だったのです。ところでイエスが目を転じて、彼の膝元に集まった弟子たちを見れば、どんなに気が滅入ることでしょう。ああ 、とても情けない・・・。

 天地に号令し、万王の王として王権を立てるためにイエス様は来たのに、その道しるべとして漁夫を捜し求めたことが、良かったのでしょうか? 良くないことです。どうしてこのようにイエスが、物悲しくも哀れな身の上になったのでしょうか? これは誰の責任でしょうか? イエスが責任を果たさなかったのでしょうか? イスラエル民族が責任を果たさなかったのです。それでこのように、哀れになる他はなかったのです。

 「やあ ! この連中、おまえたちが4千年の間、待ちつづけた所願が、わたし一人を捜すためではなかったのか・・・?」イエス様は神の恨を抱いて十字架につかれる時、天地にかけて呪咀するに相応しい民族であったにもかかわらず、その者たちのために、その者たちの罪を彼らに返されないようにと、神の心情にすがって祈祷されたのです。この時まで、民族の歴史的心情を抱えて来られたあなたの心、ユダヤ民族を従えて、ユダヤ教団を従えて来られたその時までの、アボジの心はどこへ行ってしまったのか? 歴史的な足場が断ち切られてしまうその場で、アボジの心はどこへ行ってしまったのか?

 これらのことを考える時、イエス様は神の心情を抱え、「アボジ、彼らの罪をお許し下さい。わたしが代わって負います。ですからアボジ、あなたが4千年の間苦労されてきた心情的な伝統を切ってしまうことなく、たとえ4千年準備された第一イスラエルが滅んでも、わたしを通して第二イスラエルに相続して越えさせて下さい」こんな心をもって祈祷されたことを、皆さんは知らねばなりません。

 愛があふれて? 愛があふれて? とんでもありません。神が苦労された歴史的な基台が崩れてしまったからです。「心から、心から、彼らの罪を・・・」ということは、彼らが好きで? 違います。どこまでも神が哀れで、神が・・・。

 イエス様が所望の日を得れば、4千年の間、捜し来られた神も所望を得ることができたのでした。わたしがこのような死の場にさらされることはかまいませんが、神が悲しまれることを考え、イスラエル民族を代身して謝罪したのです。イエスはこのように、天のアボジが心を傷める時、その心情を慰める孝子の中の孝子なのです。こんな立場に立てば、サタンが追い出されるのです。サタンは今まで、神の息子娘を蹂躪してきた怨讐です。我々は神の名を中心とする勇士として、心情的基台を立てることによって、サタンを退けなければなりません。


 イエスは苦痛と迫害と嘲笑を受ける時にも万王の王

 このようなことを考える時、神は6千年の間、数多くの民族を代身して歴史の背後で苦労されたのであって、いつ神の心情を知る者がいたか、いつイエス様の恨を解怨成就する日が来るのか? また6千年の間いやになるほど苦しめてきた怨讐サタンを、我々人類の血統から完全に断ち切ることができるのか?

 今日我々統一教会食口の皆さんは、歴史的な実であるというのです。言葉は良いです。真の歴史的な実になるためには、神の心情を相続しなければなりません。

 歴史的な実になるためには、善なるイエス様のまえに接ぎ木され、善なる血統にならなければなりません。こうしてどんな十字架途上においても、サタンを屈伏させて、霊肉共なる復活の実体にならなければなりません。こうしてこそ歴史的な結実体になるのです。 我々は原理を学んでいます。神のみ言を遂行する人間は、自分の一時的な欲望のためではダメです。そのみ言を中心にして、神の心情がなければなりません。そして我々がこの歴史的な原理のみ言を聞く時には、サタンの血統を切ってゆくのです。原理のみ言を聞くなら、サタンが降参するようになるというのです。我々は正に、こんな群れにならなければなりません。このようなみ言を中心として、み言の実体としての、完成した人間の実体になるのです。

 ところがイエス様当時、イスラエル民族を解放しようとしたイエス様を、民族と彼らの教団が倒してしまったので、イエス様は個人から家庭、氏族、民族的な闘いを経るようになったのです。この闘いに勝ってこそ、分かれている霊界と肉界を統一することができたのです。ですから霊的世界に行って、この地上と霊界を隔てているサタンの暗黒の権勢を打破して、氏族的に闘ってきた歴史的な怨讐たちの氏族と、今まで数千年の間闘ってきた数多くの悪霊たちと対決して勝ってこそ、初めて霊的世界が平等になるのです。その後に地上において、闘って勝利しなければなりません。復帰の路程がこのようになっているのです。

 ですからイエス様お一人の完成は、天宙の完成であり、イエス様お一人の勝利は、天宙の勝利となるのです。

 イエス様はこの地上のおいて、最も気の毒なお方でした。この地上で最も大きな苦しみを受け、最も多くの悲しみの中に生きたお方でした。今日ではイエス様は、万王の王であり、神の栄光の中で最も福を多く受ける息子として、お生まれになったとされています。しかしイエスは苦痛を受ける時も万王の王であり、迫害を受ける時も万王の王であり、数多くの怨讐のまえに嘲笑を受ける時においても、万王の王なのです。


 天の民になるには

 今日我々は、何を望んでいるのですか? 選民であったイスラエル民族と同じになってはダメです。天民にならなければなりません。イスラエルという時、選民です。時代の変遷と共に、環境に流される民族になってはダメです。天民とは、神の民を言います。これは神を中心として、その中心と理念は太初から始まっているのです。このような意味において、我々は天民にならなければなりません。

 天民になるためには、どのようにすれはいいと思いますか? その血族にならなければなりません。イエス様がこの地上に選民思想を残すために来られたなら、我々はその血族にならねばなりません。韓国民族を倍達民族(ベエダル民族。韓民族の歴史的呼称)というなら、倍達民族を中心として、韓国という国が成ったのと同様に、イエス様を主とする民族にならねばなりません。こんな意味から見る時、全世界に広がっているキリスト教徒は、未だに民族を形成していないと見るのです。皆さんはこれを知らねばなりません。

 世界に広がっているキリスト教徒が知らなければならないことがありますが、イスラエル選民は当時、70長老を中心とする族譜圏から脱したイスラエルの民はいなかったということです。ところで今日のキリスト教は12使徒を中心として、70門徒を中心として一つにならないで、みなまちまちになっています。それで彼らは、滅びる以外にはないのです。イスラエル民族が荒野に出て行ってまちまちに広がったので、みな滅び去ってしまったように、教派争いをすればみな滅びてしまうのです。見ててご覧なさい。滅びるか、滅びないか。

 誰でも自分の教派だけを主としたなら、滅ぶのです。なぜ滅ぶのですか? モ-セに従ったイスラエル民族が、12支派と72長老を主として命令系統を立て、絶対に服従して合体行動をとったならば、彼らは倒れはしなかったのです。モ-セが行ったら行き、来れば来て、立ったら立ち、飢えたら飢えて・・・。ところが彼らは、互いに集まって争い、結局滅んでしまったのです。荒野で、禿げ鷹の餌食になってしまったのです。

 ですから深刻な問題は、世界に広がっている数多くの教派を、いかに統一するかということです。イエス様は12使徒を主として、70門徒の支派を形成してイスラエル圏を立てることができる基台を掴んだなら、彼らは滅びることはなかったのです。


 統一教会の使命

 今日我々統一教会の使命が、何でしょうか? このような使命を果たさなければならないということです。歴史的に見る時、真を立てて新しい基準でゆくなら、常に異端者扱いを受けるのです。しかし歴史は、迫害され追われた群れたちの足跡をたどって収拾され、発展してきたのです。革命もその報償によって達成してきたことを知っています。これは歴史が証明するところです。

 最初のキリスト教のまえに、ユダヤ教が反対したのと同じように、全世界が合わさって統一教会に反対するならしなさいというのです。反対するなら精一杯反対しなさいというのです。そのようになれば、我々は千年万年救援を受けるのです。我々韓国におきまして今まで先生一代がこうして来ました。キリスト教と民族の迫害を受けようとも、内的には人知れぬ闘いをつづけてきたのです。ここから勝利的な統一の基準を立てなかったなら、先祖のまえに面目が立たないのです。ですから霊界に通じる地上の数多くの霊通人たちは先生を知っているのです。彼らがある山すそに立って祈祷するか、でなければ霊通していろんなことをやっているのですが、彼らは先生の話を聞いているのです。

 ですから統一教会なのです。統一教会、その名の通り実体で統一が成ったら、どんなに良いでしょうか? 霊界に通じる群れには、道主がいます。それでまず、この道主たちを屈伏させなければなりません。天上の道理で、心情の道理で征服しなければなりません。人倫の道理と、天倫の道理を通して征服しなければなりません。これが何の話が、分かりますか?

 神が求めた天倫の原則がこうであり、息子娘である人類を再び求める心情がこうであると、説明してあげなくてはなりません。そしてアダムとエバが堕落した時の神の心情と、イエス様が十字架にかけられた時の神の心情がどうか、あなたは知っているか? という問いによって、全て屈伏させなくてはなりません。このようにして道的な因縁に責任を持ち、世界の霊通人の背後の霊界の数多くの道主たちに、抗議書を自動的に受け取らせなくてはなりません。でなければ霊界の統一ができないのです。我々統一教会員たちは、世の中の話や下らないことに係わっている時間がないのです。

 終わりの日に残るもの

 今日皆さんは、何をどうしなければならないのでしょうか? 6千年の間、サタンの籠絡に蹂躪され、汚れたこの無知で暗い世の中が、私一個人にぶつかってくるのです。サタンは霊界から攻撃してくるのです。ところで標識だけを明確に立てておいたなら、天地は揺れ動き、変ったとしても、自分が立っている場は変わらないのです。世界がぶつかってきても、その世界が壊れてしまうのです。

 そのためには何かがなければなりません。それは何でしょうか? 終わりの日に残るものがが何か? みな壊れてしまっても、最後の日に残るものが何か? 神の息子娘です。 それでは神の息子娘とは、どんな人々なのか? 本来人間は、神の血統を通して生まれなければなりません。そして生まれてから神の懐で、神の愛を受けて育たなければなりません。そうして神の代身者となるのです。

 ところでこの地上のキリスト教徒たちは、主様が来られたなら原罪を脱げると言っていますが、原罪を脱げるとは何でしょうか? これはサタンの侵犯を受けることのない、心情的血統の回復を意味しているのです。一番最後まで残るのが、これなのです。

 そうなれば、私は神の息子であると説明する必要がないのです。どんなにサタンが来て否定してみても、否定できないのです。何千回身をもんで講義しても、聞いたあとで「違う」と言う時、絶対に否定することができない立場に立っている人間が、神の側の人間なのです。心情に触れてみても神の側であり、体を見ても神の側であり、その人の他のどんなことを見ても神の側であり、その人のハンカチ1枚持ってみても、サタンが逃げ出すのです。こんな人間が、終わりの日に残るのです。

 皆さんは終わりの日に残る、このような人間になるために努力しなければなりません。それで統一教会の原理が、偉大だというのです。

 ここに外国の方も来ていますが、これからを見て下さい。物足りないかも知れませんがこれから皆さんたちに全て荷札をつけて、全国八道河山を回るようにするのです。自分の巡回コ-スを裸足になってぶるぶる行くかも分かりません。事実こんなことを考えるのです。今日ではすでに過去の事ですからこれくらいにして、今日の現実を見てみましょう。 今日我々統一教会を見てみれば、統一教会はわびしい教会です。そうですか? わびしい教会でしょう? 違いますか? 違うってなぜちがう? 統一教会はわびしい教会、統一教員は哀れな群れ、統一教員は飢えた群れ・・・そうですか、そうではないですか?

 ひどい扱いをされても、み旨のためには反抗することを知らない群れです。先生も一生をたどって話せば、歴史が多いのです。何の話か、分かりますか?

 統一教会に行けば、先生が髭をこのように延ばして「エヘン」とやっていると考えるかも知れませんが、これはよく知らないということです。ですから先生は働いているのが好きなのです。作戦上から見ても良いのです。世の中の人々の考えはこっちなのに、行動は尻の方なのです。よく分からないのです。淫乱だ何だ、何がどうでとしきりに悪口を言ってますが、お日様は見てるのです。我々は悪口を言われ、追われても滅びないのです。ずっと大きくなっているのです。殻を脱いでも、死なずに生きてきたのです。


 善は打たれるほど興り悪は打たれるほど滅ぶ

 我々統一教会は今まで、自由党を始め、民主党と革命政府から迫害されました。そのどの政府も、我々に側には入らなかったのす。噂では統一教会が、何か革命政府の側とか言っていますが、とんでもありません。これは追い出そうということです。統一教会は何かの政党につく教会ではありません。

 今日このひどい迫害と、試練の中にあっても我々は一度も死なず、生き残っています。これからの20世紀末、この混乱した社会が吹き荒れたとしても、「やってみよう」という心をもって対処してゆくのです。これは霊界に行って戦うより、何でもないことです。 今日数多くの教団が、統一教会を異端だと烙印を押して審判していますが、この審判が終いには、とんでもないどんでん返しになるでしょうか? ところで既存教会の牧師たちがなぜ反対するかといえば、自分たちが数十年間苦労して引きつれてきた教会員を、自分がどんなに「あなたは私の息子娘だ」といっても、我々統一教会に一度つれて来られて、何時間か講義を聞いたなら、彼らの教会から尻込みするようになるからです。ある人は場所がなくて講義も聞きませんでした。しかしこれは絶対に強制ではないのです。我々には刈り入れの使命がありますから、熟した実があれば刈り入れなければなりません。近頃、女性たちの誹謗が多いようですが、私がどうして彼らと怨讐になるのでしょう?

 皆さんたち、戦って負けて死んだら死んだで、戦ってもみないで死んだらいけません。また力一杯戦って負けるでしょうか? サタンに対してもそうです。皆さんが「サタンよおまえの能力と実力を動員して、おまえの世界を活用して私を伝道してみよ!」と言えばサタンも自然屈伏するのです。

 イエス様も霊界に往かれ、数多くの苦労をされ、地上に足場を建設されてきたのです。このような全てのことを、神が代身してきたのです。結局、神は偉大だということです。反対される中にあっても、全てのみ旨を成してきたのです。天は打たれ、打たれては奪ってきたのです。悪は打たれれば、そのまま滅びるのですが、善は打たれれば打たれるほど発展するのです。歴史がこのように流れてきたのです。

 イエスは天の側に立っていたので、ロ-マの統治下において民族の反逆者として追われ殺されたら滅ぶはずなのに、そうではなく頭をもたげて世界を揺るがしたのです。このように善は打たれて興るのですが、悪は打たれて滅びるのです。

 それで私は「アボジ、統一教会文鮮明という人間は、今多く打たれています。しかし打たれてもうまく打たれるのです。鞭打たれても、傷痕が残らないように打たれるのです。そうやって打たれて滅びる人間にはなりません」このように誓ったのです。心の奥で、数知れず誓ったのです。打たれ滅びる群れは歴史的な逆族であり、打たれて興る群れがあったなら義人として、歴史の審判者として永遠に残るようになるのです。この若い人たち、皆さんもそうですか? そこのおばさんたちもそうですか? このエバの後孫たち・・。だといって先生が悪口を言ったと思わないで下さい。

 先生は事実、エバを考えれば怨讐です。エバが何か罪を犯したので6千年の間、人類がこのようにひどい苦労をしてきたというのです。ですから女性といえばエバを考え、エバといえば蛇が考えられるのです。と言って、皆さんがそうだと言うのではありません。堕落したエバと先生とは怨讐の間柄ですので、憎く思わざるを得ないのです。

 今までの統一教会文先生も、女性たちのゆえにどんなに多くの悪口を言われたでしょうか? 何だかんだああだこうだと悪口を言い、頽廃してるのどうのと批判してきました。女という人間は・・・。しかしながら統一教会の女性たちは、必要なのです。死んでしまうと皆な死んだらこれも大事です。この頃多くの苦労をしている女性たちは、エバならぬエバ側でしょう? そこの婦人たち、先生が語るそんな肝がありますか?

 今日、この世紀末的な歴史の終わりに生まれた皆さん、どうせ一番男に生まれたからには決着をつけなければなりませんが、ならばこそこそ逃げ出さないで、全部抱えて悪い所は投げ捨てて、思いっきりやってのけるべきではありませんか? これまで私は、そのようにやってきました。


 福を受けることを願っている者への警告

 先生には無限の材料が必要でした。労働の場に行けば、一等労働者です。できないことはありませんでした。ですから常に食べる心配がない人間です。ところで私がたとえどんな仕事場に行って働いたとしても、あ、統一教会の先生は稼ぎが悪くてこんな仕事をしたんだなあ 、というならこれは大きな誤解です。

 私はその場でどこへ行っても、この体があれば何でもできるのです。そしてやってみなかった事はありません。何でも一度取りかかったら、終わりを見なかったことはないのです。また、どっかで何かをやったら、ヒヤヒヤしても3等以内には入るのです。おそらく神も知恵深いお方で、私のような人間、特種を選ばれたようです。

 一度手をつけて始めた事には、命をかけて死んでもやり遂げれば、満足するのです。下らないと思えば、初めからやりません。誰でも一度掴まえたら、そっちが滅ぶか、こっちが滅ぶか、二つに一つです。

 私がこの道を行く時にも「神はいるのですか?」と最後まで問いつめて、神がいることをはっきりと知って、出発したのです。次には「神に所願がありますか?」と問うて、神に所願があることを知りました。また「神様、私が必要ですか?」と申し上げ、私が必要なことを知りました。

 「それではどのくらい必要ですか?」と迫りました。このように私が一度求めてすがったら、神が答えて下さるか、でなければ風呂敷をくるんでどっかに行くしかありません。皆さんもこんな、何かがなければなりません。

 先生は人間を研究しました。人間は変わってはいません。私が酒場の女性をつかまえてその女が最も悲しかったことが何かを知って一言と二言いうと、涙を流すのです。彼女を善なる人間に導くことができるのです。

 善なる人間は、悪なる人間を抱えられなければなりません。私が監獄にいる時にも、横に殺人強盗がきたので、とても近くにいって話をしました。そうすると彼には真実な心情の爆発が起こったのです。真実なる心情の爆発を引き起こしてやれば、再び生き返らない人間はないのです。ですから愛には、冒険が必要です。それで良い事をしきりにやってやるのです。そうすると良い事が求めて入ってきます。じっと見ていると、霊界が苦労してやっているのです。

 今日、人々は「神様、福を下さい!」「私めに大きな福を下さい」といって福が来ましたか? 彼らは欲心が多いほど、戒めがあるということを知らないのです。福も大きいことだけを求めているのです。しかし大きな福をもらっても、飲み込むことができません。大きな福だけを苦待している万民たち、福を受けるために道を築いて来た道人たちよ、福にはコブがくっついていることを知れ! 大きな福を受けることを望む者たちよ! これが逆になる時には重荷になるのであって、大きな福がかえって抜けがたい苦痛にもなることを知りなさい。


 福を受けることができる立場

 私が統一教会を指導する立場で心にかけていることは必ず、天の世界をこの地上に成さなければならないということです。このことをやって失敗したとしても、神が許して下さることを私は知っています。大きな福を受けるなら、その福を受けることのできる後ろ楯が必要です。

 我々はどんな試練の途上にあったとしても、軽く打ち勝たなければなりません。その国その民族の伝統を立て、その民族精神に呼応する心構えもついてくるのです。何代かを経てこのような伝統を立て、心情的因縁を立て、世界的な混乱を突き抜けてゆくことのできる人々が出てきたら、この時からその民族は発展するのです。

 ですから皆さんがみ旨を知ってみれば無限に高いのであり、み旨を知ってみれば間違いなく天の息子娘として、天の皇族となるのですが、行く方向をどこへ向けるのですか? 祝福を受けられる立場になる時がみな来るのであって、福を受けるに耐えずにみな奪われてしまったなら、乞食になるのです。我々は福を奪われる場に席を占めるのではなく、祝福を受ける場に席を占めなければなりません。その圏に入ってくればいいのです。このように信じる部分から、天は場を開いてゆかれることを、先生は知っています。

 統一教会に入れば、すぐさま福を受けるのではありません。先生もやはりごはんを貰い食いする苦しみも経て、また門前払いされた時もありました。

 皆さんは師が行く道が、真であることを知っています。そして天が偽りではなく、真であることを知っています。であるなら、真に天に侍らなければなりません。腹のへった場に行ったなら、腹のへった人のように飢え、死の場に行ったなら、過去の忠臣たちが哀切なる思いでそんな場に入った以上の、哀しく、彼らより以上の切なるものがなければなりません。こんな心情の主人公にならなかったら、天倫に対することはできないのです。

 打たれ、追われる統一教会の群れを、このような道に追い込まなければならない天の事情があることを、我々は知らねばなりません。先生はこれまで来た道がたとえ険しくとも神が行けと命令されるごとに自分を捨て、涙をのんで酔後の爆弾のように破裂してきたのです。このようにして今日、成功を収めたのです。このような今日になるまで、天が私を抱えてこられたことを見るのです。天が共におられるということは、過去の歴史路程に生きておられる証拠として、残っているのです。

 天が共にいないことを望んでも、共におられるのです。天がこんな場へと勧め、こんな場へと押し出されたことは永遠に、永遠に福を与えることができる土台を造って下さるたための、真の愛であったがためなのです。

 天国をどこへ造るのですか? 皆さんたちが統一教会に入って、このことのために命を捧げる覚悟をして、また宣誓したのです。我々はただみ旨のためのみに生き、み旨のためにのみ死なんと、誓いました。

 ところで誓ったその勝利の基台がいつ成るのですか? 安心できる寝ぐらでしょうか?でなかったなら、雨風が襲い、暴風雨が襲い、そんな渦中でうっかり失敗したら自分の中心を失ってしまうこともある場でしょうか? 後者だというのです。こんな場に天が苦待する勝利の基台を築くための、立て札でも立てねばならず、天が願う通りに生きてゆく人間にならねばなりません。こんな人間になったら、神も捨てることができません。

 どのようにか見たなら、先生は無情だとなります。しかしながら私が願うことは、統一教会の群れが歴史的な道を行くために、崖っぷちに立ったとしても落ちることなく、これからさらに勝利の基台を積んでゆくことなのす。


 神の復帰摂理と恨

 ご覧なさい。神が役事された復帰の道は、簡単ではありません。太初から今まで、6千年の歴史が流れ、終末期に至って迫害されて落胆し、絶望して倒れたなら、天のみ旨は成されないのです。神は6千年の間、愛の歩みをされて私を抱えておられます。ですから再び帰ることのできる一つの道を開拓していかない限り、み旨は成されないのです。

 これまで我々は個人を中心として、帰ることのできる基台を造るために努力してきましたが、今は自身を中心に氏族を成し、家庭を中心に民族を、民族を中心に国家を、人類を中心に世界を構成して帰ってゆく時なのです。

 ここで語っている師の要求が、歴史的な我々の先祖たちの所願であり、先祖たちを指導した天の所願であることを知らねばなりません。この歴史的な解怨、天の解怨と先祖たちの解怨を成就しなければならない使命が、今日我々にあるのであって、極めて厳粛な姿勢で黙々と行かねばなりません。復帰の道はこのように行くのです。

 皆さん、見なさい。3年の間、我々は苦労しました。食べるものも食べられず、着るものも着られませんでした。ではあっても、へたばりはしません。先生が本部にいて、ある食口は犬の餌を取って食べたという話を聞きました。腹がへって、めしを食っている犬に向かって「や! こいつ、おまえはおまえの主人のためにめしを食っているかもしれないが、おれはこの人類のために、天地のために生きているのだから、このめしはおれが食うぞ! おれが食うぞ」と言って、そのごはんを食ったという話を聞きました。このように犬めしを食っても、天のまえに訴えることができる日が来なければなりません。師たる私から、皆さんは犬めしを食べ、私は麦めしを食べるというなら、私が困ります。

 我々は、我々は恨に染みる群れです。我々は歯を食いしばって行かねばなりません。でなかったら最後に、我々を盗み見るサタンが我々を籠絡してしまうのです。敗北しないためには、より発奮しなければなりません。

 皆さん! 我々は天の伝統を固守しなければならず、心を尽くしてみ旨一筋、涙と共に生きるとしても天に背反して「私は気力がなくてもう行けません」ということがあってはなりません。そんな人間になってはダメです。

 先生は獄中で鞭打たれ、倒れて血を流す恨があったとしても、神をお慰めしてむしろ恐れ多いというのです。こんな事情をすでにご存じの神のまえに、どんな訴えも怨みもすることができないのです。ただ行く道を見つめ、目的地に向かって黙々と行くのみです。

 神の恨を思い自身の恨に克つことができる

 今統一教会に入って来る人たちは、こんなことはよく知りません。統一教会の過去の歴史を知らないということです。愛する息子娘に、その惨めにじっと耐えて苦労している姿を、なぜに見せることがあるでしょうか? 天も我々のまえにこれを、教えたいとは思わないのです。しかしその実情を知りたいと、そのどん底まで探って見れば、その時には神も教えて下さるのです。原理を学ぶ度に、また天の心情をうたう場に入る度に、天は何度歴史的な路程に秘められた心情を教えて下さったことか! 秘められたその心情よりも、その心情が知りたいという心が強い時には、天は我々に新しい原理を地上に表されたことを知らねばなりません。皆さん、何の話か理解ができますか?

 皆さんが真実、先生の歴史を知りたかったなら、先生の神に対する切実なる心が、神がその心情を隠そうとする心よりも大きかったように、切実でなければなりません。皆さんがそうであったなら、教えてあげるのです。しかし私が今まで真実にこのような立場に立とうとする、統一教会の人間に逢ったことはありません。

 私は恨が多いといえば、無限に多い人間です。道端に転がる石ころ見ても恨を訴え、草の一株を見ても恨を訴えるのです。荒涼たる自身の歴史をおいて怨みもし、星を見ても怨んでみました。私が行かなければならない復帰の道において、落伍兵のような心情も味わってみました。

 そかし天宙復帰のために天は、人間を送っておいてどれほど落胆したことか、天のお父様の心情がどれほど哀しく、天のお父様の恨がどれほど多かったかということを知って、私が千回、万回死んで、体が千にも万にも千切られる恨があったとしても、アボニムに悲しみをまし加えることはできないとしてきたのです。私が死亡という二文字をのり越えた瞬間、私が死ぬその時に「私が誠精を全て尽くしたなら、私がこうやったら良かったのかも知れない」という遺言を残さないよう、全てのことに耐えてきました。こんな家庭が真の統一の家庭であり、統一の群れなのです。

 皆さん! 3年路程を考えてみて下さい。3年路程の期間の間、自分がみ旨のまえに活動することを考えてみて下さい。神の復帰歴史は、個人的な復帰の基準を通して、家庭的な復帰の基準を立ててきました。神は天宙において、最高の勝利の基台の上に復帰を望み見ておられるので、皆さんは天地を超越した勝利の基盤の上で、個人復帰を夢見てみましたか? 民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰を夢見てみましたかというのです。

 40を越えて近頃、頭が白くなったのを見て、私は神をこのように慰めてみました。

 「アボジ! 私を見て悲しまないで下さい。私の決意と所望はこうですから、この年齢でこんな所望の一日をアボジのまえに成せないことをアボジ、悲しまないで下さい。今育てている統一家の群れたちは、このみ旨を受け、アボジのまえに忠孝の道理を立てる日が来るのです」と言うのです。このようにお慰めして、皆さんを眺めやる時、私は神にすまいという時が多いのです。

 このような時、真の良心を持つ人間であるなら、アボジのまえに真の子女たちを持てなかったという時、心から恥ずかしさを感じるのです。こんな良心を持った人間いれば、その後孫たちはここから、善の道に行くようになるのです。ですから統一の群れである皆さん、皆さんは神の切ない心情と、イエス様の事情を考える時、天を見ても恥ずかしく、地を見ても恥ずかしく、樹木を見ても飛ぶ鳥を見ても恥ずかしいという心で、復帰路程において与えられた責任を果たせないことが、恥ずかしいということを知らねばなりません。


 天国は地獄の底を貫いてゆく所

 今は復帰の試練の途上に立っているので、個人的な基盤を築き、家庭的、民族的、世界的な基盤を築くために、寝ても覚めても、立っても座っても、常に祈る心情がなければなりません。良いものを食べ、良い暮らしをしている人間を眺める度に、あなたたちの立場が、神が本当に喜ばれる立場かと、問いたいのです。祝福を受けた家庭の後孫たちはそんなにならねばならないのに、彼らがボロをまとい、ごはんに飢え、荒野で寒風にさらされる生活していることを考える時、先生は胸が痛むのです。

 しかし我々には、いまだ行かねばならなこが残っているのです。皆さん、もう一度考えてみて下さい。自分自身が神の復帰摂理であるこの天的な歴史のまえに立つに、不足のない人間であるか問うてみて下さい。ノアを尋ねてみて、アブラハムを尋ねてみて、ヤコブを尋ねてみて、モ-セを尋ねてみて、イエスを尋ねてみて、2千年の間に殉教の道をたどって往った数多くの先知者たちを尋ねて、問うてみて下さい。

 個人復帰路程において、自分は責任を担ったと堂々と言えるか、家庭復帰路程において勝利したと晴々と言えるか、考えてみなければなりません。未だに氏族と民族復帰路程が残っているので、これらを復帰しなければならないのが我々の使命です。ところが真の事情に通じる人間になっていなければダメです。み旨の道の落伍者を再び呼び集め、再起させようとするアボジの痛む心を、皆さんは考えなくてはなりません。そうではなく、アボジの痛む心を忘れたら、原理が皆さんを審判するのです。

 今日皆さんのまえにある復帰の道とは、悲しみの道です。これを考えたなら、私も行くのが嫌になる道です。恨が多いのです。うら淋しこです。神もそうであり、イエスと聖霊もそうです。行くに行けなこを行くというのです。天国は地獄の底を通過して行く道であることを、よくよく知らねばなりません。天国とは地獄を避けて通る所ではありません。地獄の底を貫いて往く所です。

 我々統一教会の地方の実情は、先生がみな知っていて、心情でみな感じているのです。皆さんに表して話すことではありません。この若い人たちに会ったら、私はこんなことを話したいのです。責任を果たす時には果たしなさいということです。もしも責任を果たさなければ、悲しみに打たれるのです。このようなことを感じたなら、心から越えて行かねばなりません。復帰の道は心から越えて行く道です。ところで天がまずこの道を、何千万べん往来したかを知らねばなりません。


 大きく信じ大きく越えて行け

 自分が行くこの復帰の道は、自分一人が行く道ではありません。この道は我々の先祖が何千万べん往来した道であり、神が何千万べん往来した道なのです。先生は自ら行って命令することですから、皆さんは間違いなく従順でなければなりません。皆さんをそのようにさせるために言うのではありません。

 所望の峠を越え、サタンがついて来ない峠を越え、新天地に向かって行くのが統一の群れであることを、もどかしくも全て言うことができないのです。イエス様がこの地上に来て言われたみ言が「わたしはこの地上に火を投じるために来たが、その火がすでに燃えていたら、わたしは何を願おうか(ルカ12:49)」であったのです。皆さんはこのみ言に、解こうにも解けないイエス様の悲しみが籠められていること、知らねばなりません。 ある国の国王に侍る忠臣は、その国の環境が惨めで難しいほど、王に対する染みる心情がつのるのです。み旨を抱えて言葉もなく、黙々と他人は回り道をしても自分は真っすぐ行き、命をかけても死なぬという決意を抱いて行く道が、天の息子娘の行く道であり、統一教会の群れが行く道であると私は信じています。皆さんはどのように考えますか?

 先生は時々、坊やたちを呼んで話をする時、もしもこれこれの計画が実践できない時はこれを考えてあげて、行く道だけを教えてあげるのです。

 皆さんは神の国を捜し求めているでしょう? てころで我々は、我々の先祖たちが天に対したその心を、今日復帰の途上で我々が全部、相続しなければなりません。こんな厳粛なる過程を前にしている皆さんは、どんな姿勢でその過程に向かっているのですか?

 このみ旨は韓国で出発して世界に広がっていますが、今日の世界はどんなにか複雑で、混乱していることでしょうか? 世の中は複雑な問題にぶち当たれば当たるほど、崩れてゆくのです。しかし我々はしきりと上がってゆくのです。皆さんが上らなかったなら、霊界の霊人たちが多いので、彼らが上がろうとするのです。そして韓民族が上がらなかったら、20世紀の数多くの人類が上がってゆくのです。我々が少し上がれば、少しだけみな上がれば、韓国が助けるのです。こんな時代が来るのです。統一教会の皆さんはその時代が来れば、感謝しなければなりません。遠からぬ将来に、そんな現象が起こってくるということを、皆さんは知らねばなりません。

 そんな日が来るとしたならば、一日の闘いが問題ではありません。千年万年のために大きな大きな計画を立てようというのに、1年、2年、10年、20年、あるいは一生が問題ではありません。皆さんはこのような計画を立て、最後まで同じ決意をなして行かなければなりません。勿論、行ったとして強い波風に出会うこともあります。そんな時にも神に侍り、これを切り抜けるのです。そうすれば必ず、神が福を下さるのです。

 我々はこの歴史的過程を成さなければならず、天の恨を抱きしめ、これを解怨成就しなければならない現実があるのです。皆さんが左ならば天地が左になるのであり、皆さんが右ならば天地が右になるのですから、皆さんは姿勢を真っすぐに立て、天理の大道を行かねばなりません。皆さんが孝子になるか、忠臣になるか、烈女になるのか、孝女になるのか、でなければサタンのどん底で、天の怨讐と人類の怨讐と共に、永遠無窮なる悲しみの姿になるのでしょうか?

 教えてあげなければならない天の心情を全て教え、照らしてあげなければならない天の道を全て照らしてやり、見せてあげなければならない天道を全て見せてあげました。今は皆さんが立派に大きくなるか、ダメになるかという問題だけが残っているのです。皆さんがこれを良く作用させるか、悪く作用させるかによって、復帰の道が短縮されるか、延長されるかが決まるのです。


 復帰の道における困難

 恨がどこにありますか? アブラハムが鳩を裂かなかったことが、恨になりました。ヤコブの路程におきまして、エソウとラバンがヤコブの怨讐でした。モ-セの路程におきまして、荒野でイスラエル民族に追われたことが恨になりました。皆さんが行く路程におきましても、現実に自分自身を備えていって、未来の自身の価値を望み見て、現実を正しく収拾することのできる主体にならねばなりません。歴史の一起点になり、未来の歴史の方向を変え得る実体にならねばなりません。そうしてこそ皆さん自身のための復帰の道を、感謝して行くことができるのです。

 皆さん、覚悟していますか? これが復帰の道です。では復帰の道が、皆さんを中心としてどのようになっているのでしょうか? 一個体をおいて、過去と未来が今日を中心として連結されているのです。過去、現在、未来が関係しているのです。未来が関係して、過去が関係しているのです。過去と現在と未来を中心として、天地の運勢は回っているのです。では皆さん自身を、どこに留まらせたいのですか? 自信を持って、さらに前進することを望んでいます。

 自分の体と心を開いて、神が最後の審判をされる時、私個人が審判の聖典になり、法典になり、審判をされても引っ掛からない絶対的な立場を築いてこそ、個人復帰が完結するのです。

 今は個人完成の上に、家庭完成をしなければならない時です。家庭の歴史は、全部が審判の材料になるのです。それで審判を受ける時、サタンが讒訴することのできない家庭にならなければなりません。それでこそ家庭的な復帰を成して、民族的な基台を完結することができるのです。民族的な勝利の基盤を築けば、サタン世界の万民を審判することができるのであり、神が親しく裁判所の席につかれるのです。この時、イエス様は弁護士となり、サタンは検事になるのです。

 全世界に広がっている民族が、サタンを攻撃する時、抗議を受けることのない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったといえるのです。

 こんな人間が国家、世界、天と地、全人類の贖罪の主人となるのです。それで彼が、霊界と肉界を統合する天宙世界におきまして、どえらい歴史的な全体の蕩減基準を完結しておいて、天と地を中心とする億千万世の大審判場を造っておいた後に、創造主であられるアボジに侍って、これまで天と地を引っくり返してきた怨讐を無慈悲に審判する時、背信者から取るに足らぬ者まで全部が、抗議できず当然ですとする基準を立ててこそ、天地復帰路程が完結されるのです。事実がそうなら、考えてみて下さい。どんなに恐ろしいか? 苦しみの歴史ですから天は私を立て、折りあれば押し出されるのです。個人を立てておいて家庭的な十字架の路程へと追い出し、家庭を立てれば民族的な艱難の路程にと追い出し、民族を中心とする国家と世界へと追い出すのです。ですから選ばれることも貴いことですが、選ばれた者として祝福を受けることはひどく難しいことです。私を捜し立て、福を与えんとされる神を、理解できずに怨むほうが易しいので、復帰の道は難しいということを、良く知らねばなりません。

 我々はごはんを食べていても、天上の数多くの我々の先祖の恨を解いてやらなければなりません。審判は地上にいる人間にだけ、あるのではありません。ですからどうか険しいことにやられず、神が来られたその標準に向かって行く皆さんになることを、願います。アボジが皆さんを抱きしめて大声で慟哭して、勝利したと賞賛され、アボジのまえでハレルヤを歌うことのできる皆さんにならねばなりません。


 復帰の道の最後の目的

 それでアボジから「億代万世全天宙は記念とせよ」という祝福を受ける場、真の父母の場まで行かなければなりません。これが復帰の道における終点であることを、知らねばなりません。ですから皆さん、死なないでよ。この責任を果たす前までは、死んではなりません。

 ですから我々は世界のまえに、作戦が必要なのです。絡まったこの世界を、真の父母を中心として正していかなければなりません。人間が世界的な、蕩減復帰路程を越えて行かなければならない時、5%の責任分担があったのです。この時には栄光も、必要ありません。

 我々は国家的な基準を立て、世界のいろんな国に宣教者を派遣し、イエス様当時、世界的な中心であったロ-マのようなアメリカに席を占め、イスラエルのような我々の国に席を占めたのです。それでユダヤ教とイスラエル民族に追われ、迫害されて悲しみを味わったイエス様の事情とは違うのです。今はどんなに反対しても無駄です。

 皆さんは過ぎた何年間かに先生が語ったことが、今になってどのようになったか知っています。目で見て、耳で聞いて、今は理解できるようになりました。一人の人間が語ったことですが、その内容には歴史が反映していることを、皆さんは見ているのです。

 統一教会の師の背後には、天がついているのです。我々が億万サタンと戦って死んで、その死体がカナンの地に埋められたなら、それは栄光以外の何ものでもないのです。エジプトの地に埋められたら大いなる恨になったでしょうが、ヤコブとヨセフは死に至って遺言したのです。自分が死んだ後には、どうか本郷の地に埋めてくれと。

 今、韓国河山において戦って死んでも、このように恨になる時代は過ぎました。サタン世界はいずれ崩れてゆくのです。皆さんもここに責任分担を担い、全人生を捧げなければなりません。復帰摂理のまえに、天宙の相続権を受けて、いつでも行くことのできる人間になることを許諾します。分かりますか? そのようにするという人、手を上げてみて。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.04.16 19:02:37
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