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2021.04.16
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​​​​​​​​​​​​「父とその国」

一九六四年三月二十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十三巻』


 きょう皆さんにお話ししようとする題目は「父とその国」です。

父子の関係を

 人間がつくったこの世のあらゆる物には、必ず主人がいます。そして、その物にはそれを作った主人の目的があり、また作られたその物自体がもっている目的があります。

 また、私たちは天地を造られた方がいらっしゃることを知っています。この天地を造られた主人を私たちは神様と呼んでいます。ところが、神様によって造られた万物が、神様と共にあることができず、堕落した世界になっています。堕落したその日から天地万物は主人を失ってしまったのです。そうして天地万物は失った主人を探し、再び因縁を結ばなければならない立場に立つようになりました。このように失った主人を探していく道が、復帰の道だということを私たちは知っています。

 それでは、この天地万物を造られた主人は、どのような目的をもっていたのでしょうか。その主人は人間の父としていらっしゃるために、また人間を通して現れることのできる願いの中心体としていらっしゃることができるために天地万物を造られました。

 このような天地万物は、その主人が愛することができるし、主人の愛を受けるべきだったのです。神様のもの、神の国のものにならなければなりませんでした。ところが、そのようにできずに天は天だけで、地は地だけで、人間は人間だけで分離してしまいました。これが堕落であることを私たちはよく知っています。

 それゆえ、神様は分離したこれらを収拾してこられました。天を収拾し、地を収拾しながら、人間を中心に全体を収拾してこられました。これが神様の歩いてこられた復帰の道です。

 元来、神様と私たち人間は永遠に忘れようにも忘れられず、離れようにも離れられない父子の絆を結んでいました。ところが、人間が堕落することにより、神様は私たちの父の立場に立つことができず、私たち人間も神様の子女の立場に立てなくなりました。

 この世に最もかわいそうな人がいるとしたら、それはどのような人でしょうか。子供をもつ父母がその子供を「子供である」と言えない人、父母がいても「父母」と言えない立場にある人です。それ以上にかわいそうな人はいません。また縁と約束を通し、天下に誓って夫婦の因縁を結んだのに、夫と妻がお互いに愛することのできない立場にあるならば、それ以上かわいそうな人はいないでしょう。

父子の関係を回復すべき神様と人間

 今日、神様と私たち人間は、どのような立場に置かれているでしょうか。神様は私たち人間の父で、人間は神様の子女ですが、そうでない立場に置かれているのです。元来、神様と人間の関係が父子の関係であるということが、キリスト教の核心思想です。のみならず、これは天地創造の原則的な内容でもあります。

 したがって、人間は神様と父子の関係を結ぶことのできる位置まで訪ねていかなければならないのです。神様と人間との関係が切れてしまった天下になったことほど、悲惨で悲しい出来事がどこにあるでしょうか。ですから、神様が悲しまれるのはもちろんですが、神様を失った私たち人間も悲しむべき立場にいるのです。また、新郎として侍るべき天をなくした地の悲しみより大きい悲しみはないと、いうことを私たちは知らなければなりません。

 それでは、天地を動員して探すべきものがあるとしたら、それは何でしょうか。失った父を探すことであり、失った子女を探すことであり、失った新郎新婦を探すことです。このようなことを探し出す道が復帰の道です。このような復帰の途上で神様は、「私が神である」と言える一日をもつことができたでしょうか。もつことができませんでした。神様が愛する息子、娘のためにこの世を造りましたが、「私の国」と言うことができなかったのです。また、神様を信じてきた数多くの民、あるいは数多くの聖徒たちが、「この天下は私のものである」と言ったことがあるでしょうか。なかったのです。このように、この天地は主人を失った天地になりました。

 では、神様の代わりに誰がこの天地の主人になっていますか。神様の怨 讐であり、私たちの怨讐であるサタンが主人になっています。本来の主人を失った万物であり、本来の父母を失った人間になったのです。そのように主人を失い、父母を失った天宙であり、人類であるということを考えるとき、私たちがしなければならないこととは何でしょうか。失った父母を探し、到底受け入れられない父母の恨みを晴らすことです。これが私たち人間の義務として残っているということを肝に銘じなければなりません。

 復帰の道は、何を探し求めるための道ですか。失った父を探し、その父を中心とする国を探すための道です。これを成し遂げるためには、僕の僕から僕、養子、実子の位置を経て勝利した息子、娘として神様の祝福を受けなければなりません。そうして神様を中心とした真の父母となって家庭を築き、氏族を成し、民族を成し、国家を形成しながら世界を築き上げていかなければならないのです。これが神様が願われる復帰の目的なのです。

 いつ、神様が一人の人間を前にして、「私がお前の父に間違いなく、お前は私の息子に間違いない」と言ったことがありましたか。「私は天地を創造した主人ゆえ、私が動じれば共に動ずる天地であり、私が静ずれば共に静ずる天地である。お前は私の息子であるからお前も私の代わりにそのようにできる」というみ言を受けた息子、娘がいましたか。いなかったというのです。

 神様がこの地上にイエス様を送って、「これは私の愛する息子である」と言われました。「ひとり子である」と言われました。しかし、愛する息子であり、ひとり子としてこの地上に送られましたが、神様が最後まで愛することができませんでした。創世以来初めて神様の愛するひとり子という名をもったメシヤを愛せなかったのです。これ以上の恨みがどこにありますか。

 神様もそうですが、送られたイエス様はいかばかりだったでしょうか。「お父様、私を愛してください」と言ってみることもできなかったのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・三九)と言いました。このみ言にはとても大きな意味が内包されています。当然父の愛を受けるべきなのにもかかわらず、自由に愛を受けることのできない何らかの条件と限界線があったのです。それゆえ、「私の父よ」、「私の息子よ」と言えなかったのです。

 この地上でイエス様を信じる多くの聖徒は、自称神様の息子、娘だと話します。しかし、本当に神様の心情からわき出る、愛に燃える情熱の心をもった息子、娘がいますか。神様が、「そうだ。お前は私の息子だ」と言って胸をかき乱して抱くことのできる息子、娘がいますか。いないというのです。天地はそのまま残っていて、人間の形をした人は多いけれど、天地を主管することのできる人はいないのです。神様の愛を独り占めできる人がいないのです。

 復帰の責任を担って摂理してこられた神様

 天上に行かれたイエス様も祈祷しなければなりません。聖霊も産みの苦しみをしなければなりません。何ゆえにそうしなければならないのでしょうか。堕落によって生じた蕩減をしなければならない恨みが残っているためです。個人から家庭、氏族、民族、国家を経て世界と天地、霊界と肉界にこびりついている恨みを解怨しなければならないためです。この恨みを解怨しなくては天と地は因縁を結ぶことはできません。天は新郎であり、地は新婦です。神様は人類の父母であり、人類は神様の子女です。このような因縁を打ち立てなければならないのです。

 では、いったいこのサタン、あるいは悪魔とは何でしょうか。永遠に離れようにも離れられない天と地、神様と人間の間の愛を盗んだ存在です。このサタンが降参するまでは、家庭の破綻を防止できません。

 今日堕落した子孫は、本心が指向することに従って我知らず天に向かって進んでいます。倒れて転びながらも進んでいます。個人的に、民族的に、国家的に倒れてひっくり返る歴史路程をたどってきました。しかし、その中でも有り難いことは、神様を失ってこのように限りなく倒れる路程をたどってきましたが、今まで神様の名前が人間の胸中に残ってきたという事実です。神様の名前でも残っているということは幸福なことです。また、イエス様は霊界に行かれましたが、イエス様の名前が残っていることは幸福なことなのです。ところで、皆さんはイエス様の名により祈祷していますが、先生は昔からそのように祈祷しませんでした。イエス様の名前で祈祷しないのです。

 歴史路程を歩んでくる間、数えきれないほど曲折も多かったのですが、今日に至り、後孫の前に天を「新郎」と言えて地を「新婦」と言える、そしてイエス様を「新郎」と言えて信徒を「新婦」と言える、神様を「父」と言えて人間を「子女」と言えるこのような名詞、このような教えが、複雑なこの世に伝播されて世界的な舞台を整えているという事実を知らなければなりません。皆さんは、今までキリスト教徒が伝道してすべてこのようになったと考えますか。もちろん、数多くのキリスト教徒が、祭物的な立場で自身を犠牲にしたことは事実ですが、それよりも彼らの背後にいらっしゃった神様が御自身の名前を残してくださり、御自身が願われる基準をこの地上の人間の前に残すために責任を担ってこられたからなのです。神様がこのような責任を時代ごとに人間たちに橋渡しをするために、涙しながら今まで摂理を展開してこられたのです。

 今日キリスト教では、殉教の歴史を誇っています。時代や地域を問わずキリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流しながら、宣教の基盤を築いてきたということを私たちは知っています。しかし、私たちは個人、家庭、あるいは団体が悲惨に犠牲になったことだけを考えてはなりません。彼らの悲惨さよりも彼らを導いてこられた神様が、悲惨な道を歩んでこられたという事実を知らなければなりません。

 それでは、神様のみ名をたたえることのできる人とは、どのような人でしょうか。神の国を所有できる人とは、どのような人でしょうか。神様の歴史的なあらゆる悲惨さをふろしきに包んでサタン世界に行って解いてくることのできる人、神の憤りと私たち人類のあらゆる憤りと恨みをサタン世界に行って浴びせかけて恨みを晴らすことのできる人が、神のみ名を称賛できる人であり、神の国を所有できる人です。その時が、正に大審判の日です。

 神様が行くべき道と召命された人間が行くべき道

 皆さん、聖書のみ言(マタイ二五・三五以下)を見れば、右側にいる群れに向かって「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」と語られ、右側の義人たちに対しては永生を、左側の悪人たちに対しては刑罰を下されたことを見ることができます。このようなみ言に対するとき、皆さんは単純に比喩と象徴で語られたみ言とだけ考えてはなりません。

 イエス様はこの地上へ来られて、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・二〇)とおっしゃいました。神様の息子がこのようになるとは、誰が考えたでしょうか。四千年間神様が準備して送ったメシヤが、地上でこういう身の上になるなどと誰が考えたでしょうか。メシヤを迎えたイエス様の弟子たちが、どうして十字架に逆さにかけられて虐殺されなければならなかったのでしょうか。神様は、そうさせるために四千年歴史を準備してこられたのでしょうか。

 神様のために忠臣になり、孝子、孝女になり、烈女になろうとする群れはこのような道を行かなければならないのです。なぜでしょうか。忠臣の名前はあっても忠臣として行くべき道が残っていて、孝子、孝女の名はあっても孝子、孝女として行くべき道が残っていて、烈女の名はあっても烈女として行くべき道が残っているために、このような名を与えて死の道を行くようにするのです。このような道がふさがっているがゆえに、この道に追いやるのです。それゆえ忠臣、孝子、孝女、烈女になるためには、国王と父母と新郎に代わって、自分の体を死の道に投げることができなければならないのです。

 人間は神様の前に召命されましたが、人間は人間として行く道があり、神様は神様として行く道があるのです。人間が行く道に十字架の道があるのと同じく、神様が行く道にも十字架の道があるというのです。人間は個人的な事情を中心として行きますが、神様は個人的な事情だけではありません。人間は家庭的な事情を中心として行きますが、神様は家庭的な事情だけではありません。また、人間は民族ならば民族だけを中心にして行きますが、神様は民族だけではないのです。神様には個人を超えて、家庭、家庭を超えて、氏族、氏族を超えて民族、民族を超えて国家、国家を超えて世界、世界を超えて天宙が残っているというのです。

 それゆえ、十字架の道をかき分けて行くためには、人間の犠牲だけでは駄目なのです。個人的な十字架で勝利した者たちを合わせて、家庭的な形態をつくって神様が行かなければならない家庭的な十字架を蕩減しなければなりません。民族と民族を合わせて神様が行かなければならない国家的な条件を立てなければならないのです。したがって、神様の前に真の孝子、孝女になり、真の忠臣、烈女になろうとするなら、まず自分が行くべき道をすべて行ったのちに、神様が行く道を手助けしなければなりません。神様を背負って行くなり何なりして助けなければなりません。

 復帰の道は人間だけが行くのでなく、神様も行っていらっしゃいます。人間は地上を通じて行っていますが、神様は地上だけではなく、天上世界の復帰の路程までも歩んでいらっしゃるのです。だから、神様のために行く人々は、祝福を受けてからは腹を据えなければなりません。

 私という個人が千辛万苦の末に神様の召命を受けて祭物になったとしても、そこで終わるのではありません。それを基盤により大きい十字架に加担して、現在の位置よりもう一歩発展していくのが復帰の道です。個人より家庭的な基準を立てなければならない神様は、家庭的な犠牲者を立て、家庭よりは民族、民族よりも国家、国家より世界のための犠牲者を立ててこられたのです。

 それゆえに、今日まで歴史を収拾してこられた神様の前に、数多くの犠牲者が必要でした。これと同じく今日キリスト教が世界を中心とした一つの基盤を築くためには、キリスト教としての犠牲的な使命を完結させると同時に、キリスト教を導かなければならない神様の十字架を代わりに蕩減しなければなりません。それで「世紀末的な大患難」という名詞が出てくるのです。

 神様が私たちを祭物の位置に追い立てる理由

 このような患難の途上に祭物として立てられる人は、その人自身に罪があって祭物になるのではありません。これは神様が現在の位置よりもっと大きい分野を開拓するために、祭物的な位置に追い立てるのです。これが蕩減復帰の原則です。

 このように蕩減復帰してきたことを、今まで私たちの先祖は誰も知りませんでした。個人的な十字架の途上で勝利し、その基盤の上で民族的な十字架の道を行きますとサタンの前に宣布して出れば、民族的な十字架の路程を行くことができます。けれども、民族的な十字架が何かを知らなくてはできません。これを知らずには責任を負うことができません。今日キリスト教が世界的なキリスト教に発展するためには、キリスト教として担っている十字架を蕩減し、神様の十字架までも蕩減するために神様の前に責任を完遂するという条件を立てなければなりません。それにもかかわらず、今日のキリスト教はその責任と使命を果たせず、崩れていこうとしています。こういう時を迎えて、神様は世界的な使命を果たせる教団を立てられました。神様がこのような教団を立てられるとき、外的には国家主権を立てて、ゆがんでしまった事柄を収拾しようとされます。しかし、内的には世界的な舞台、あるいは天的な基盤を築くための内容を中心として、神様の代わりに蕩減してくる群れがなければなりません。このような群れがなければ、世の中を救援する道がふさがってしまうのです。それで、神様がこういう一時を用意し、そのような群れを準備してこられたことを知らなければなりません。

 今日人間がこのような内容を知って協助してきましたか。個人的な十字架で勝利したなら、家庭的な十字架に責任を負おうとする人がいなければなりません。このように訴える人がいないために、いまだに神様が行かなければならなこが残っているのです。今日皆さんの中に家庭的迫害に遭っている人がいますか。そのような人がいるならば、それを悔しく、恨めしいと考えてはなりません。皆さんが家庭的な迫害に遭っている間、神様は氏族的、民族的な迫害を受けて、また十字架の道を開拓するために皆さん以上に苦労をしていらっしゃることを知らなければなりません。

 神様がなぜそのような苦労をしていらっしゃるのでしょうか。それは家庭的な十字架路程で倒れたとしても、氏族的な基盤を築かなければならないためです。そうしてこそ、家庭的基盤が崩れても、再び収拾できる基盤を築くことができるのです。このように神様が時代的な恩恵圏をあらかじめつくっておくことにより、家庭的な時代と氏族的な時代を早く終結させることができるのです。神様はこのような役割をしてこられました。神様は、歴史路程で人間が受ける迫害と十字架の犠牲よりもっと大きい十字架の舞台で、独りで闘争してこられました。このような道が神様が訪ねてこられた道であり、神様が歩まれる道であることを皆さんは知らなければなりません。

 神様の前に子女と新婦の資格を得ようとするなら

 今日この時代を代表する指導者が出てきて、その民族を指導しようとするなら、まず氏族的な試練の途上で勝利しなければなりません。そうしてこそ、氏族を民族圏内に移すことができます。モーセがイスラエル民族を収拾するためには、民族圏内の試練ももちろん受けなければなりませんが、ミデヤン荒野での民族的な試練と国家的な試練を克服して勝利の基盤を築かなければならないのです。そのような基盤の上で民族を導いてきてこそ、讒訴を受けない指導者になるのです。

 無知な人間を指導される神様は、私たち人間を滅びないようにするために、人間が受ける試練と患難よりもっと大きい試練と患難に遭っていらっしゃるのです。私たち人間が家庭的な恩恵圏内で、あるいは民族的な恩恵圏内で試練に耐えて我慢していくその時間に、神様は国家的で世界的な足場を立てるために汗を流していらっしゃることを私たちは知らなければなりません。

 今まで神様に対してきた数多くの人々は、この内容を知らなかったので、自らの悲しみだけを神様の前に訴えました。自らの困難を訴えて、「お父様、私の涙をどうか受けてください」と言っていたのです。神様を信じ、神様の孝子、孝女、忠臣、烈女になろうとする者たちが、今までこのようにしてきたのです。私個人が受ける十字架は私が過ったからではなく、世界的な、家庭的な十字架の代わりをするのであるという心をもって、サタンを退け、「お父様! 家庭的な勝利の基盤を築いたので、民族的な十字架を私に下さい」と言える人にならなければなりません。ところが、皆さんはもっぱら恵みは私のものにしようとし、あらゆる困難は神様に任せようとします。これでは駄目なのです。

 皆さん、神様は人間より一世界を先に行かれます。一世界を先に行かれる神様の歩みであるゆえ、私たちが家庭を立てるために歩んでいるとき、神様は民族的な基盤を準備されるのであり、私たちが民族的な試練を乗り越える過程にあるとき、神様は国家と世界的な基盤を広げるために、耐え難い十字架の道を行っていらっしゃることを私たちは忘れてはなりません。

 今日私たちは、神様を支えてあげなければならない神様の息子、娘であり、新郎を支えてあげなければならない新婦ですが、果たしてそういう生活をしてきたでしょうか。もう一度反省してみなければなりません。父とその国、父は私たちの父であり、その国は私たちの国なのに、人間によって父がこのように悲惨になり、父の国がこのように誤ってしまったのです。「人間が自分で負うべき十字架を神様が負われ、人間が行かなければならない苦難の道を神様が行かれるとは!」と、こういう憤りの心を皆さんが体 恤するまでは、神様が本当に愛する息子、娘になれないのであり、新郎の前に新婦の資格を得られないのです。

 皆さんの無知なる心情を眺める神様の心情は、いかばかりかと考えます。皆さんの事情を眺めて、私たちの行く道を開拓してくださるために、私たちより先に十字架を背負って行かれる神様がいらっしたことを考えなければなりません。神様のあとに従って「さあ、行きましょう」と激励して、神様の前にありったけの力をみな捧げ、受け持った責務を完遂しなければなりません。

 今日私たちは孝子にならなければなりません。忠臣になり、烈女にならなければなりません。それではどのような場で孝子の名を受け、忠臣、烈女の名を受けることができるでしょうか。それはただ、十字架の道でのみ受けることができます。イエス様も十字架の途上で、生命と引き換える場で初めてその名を受けることができました。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。このような道を行くことができないのに神様の息子、娘ですか。イエス様の新婦になれますか。あまりにも欲が深いのです。

 十字架の道に進む時すべてが成される

 孝子、孝女、忠臣、烈女の名前は平坦な場で受けることができるのではありません。なぜなら、信仰の道を開拓するために私たちの前で、神様とイエス様と聖霊が苦労していらっしゃるからです。私たちは骨身にしみる使命を担っていかなければならない聖徒たちです。この使命を完遂するために死んでいく聖徒を目をつぶって送らなければならない神様、苦痛に遭っているイエス様に「その苦痛に立ち向かえ」と言えない神様、このような神様の心が安らかでしょうか。

 それゆえ、今日私たちが試練と迫害と患難にぶつかり死の境地に入っていけばいくほど、これに比例して神様の十字架も加重されていくということを私たちは知らなければなりません。したがって、神様の息子、娘になるためには、十字架の道を行かなければならないのです。

 神様は飢えの道を行っていらっしゃます。このような神様のためにいつ精誠を尽くしてみましたか。良いものがあれば、全部持っていって自分の腹だけを満たしたでしょう。神様のために行く道は、食べるために行く道ではありません。遊ぶために行く道ではありません。楽をしようとして行く道では絶対にありません。真の主人に仕えることのできる真の僕になろうとすれば、滅びゆく身を捨てて「真の僕」という称号を受けなければなりません。

 侍るべき父親がいるならば、困難な立場においてもその父親から、「お前は私の愛する息子、娘だ」と言われ、「孝子」ということのできる称号を受けなければならず、侍るべき国王がいるなら、その国王の前に困難な立場においても「忠臣」という称号を受けなければなりません。そうしてこそ、怨 讐であるサタンが占領し得ない存在になります。このような存在になれば、再び神様を失わないようになるのです。神様を裏切るなら失うでしょうが、このような存在になれば二度と失わないようになります。神様の前に孝子、孝女、忠臣、烈女になるのです。

 それでは、神様はいかなる場で真の息子、娘を探しますか。その場所とは、十字架上です。結局は十字架の途上で召命されるのです。その父に従っていこうとするなら十字架の途上で因縁を結んで、「私の愛する息子、娘」という称号を受けなければなりません。では、それで万事がみな通じるのでしょうか。そうではありません。

 個人的な十字架があるのと同時に、家庭的な十字架があります。それで、ヤコブはエサウの前で、個人的な十字架の峠を無難に越えたのちに、家庭的な十字架の道を探しに出たのです。家庭的な十字架の道で勝利したのちには、民族的な十字架の道を行かなければなりません。その次には、国家的な十字架の道を行かなければなりません。それで、モーセはエジプトの地から再びイスラエルの国を探すための十字架の道としてカナンの地へ行ったのです。ところが、この十字架の道でイスラエル民族が責任を果たせないことにより、のちに来られるイエス様が十字架で亡くなり得るという条件が成立したのです。

 民族的、国家的な十字架の道で勝利した基盤を土台にして世界的な十字架の道を開拓しなければならないのが、この地上へ来られたメシヤの使命でした。ですから、ユダヤの国とイスラエル民族とユダヤ教徒が一つになって、来られるメシヤを信じなければならなかったにもかかわらず、彼らが使命を果たすことができなかったために、イエス様は民族的、国家的な基盤を失うようになったのです。

 それゆえ、イエス様は国王の位置よりもモーセの位置よりも、ヤコブの位置よりも低い位置に落ちてしまったのです。四千年の苦難の中で準備しておいたイスラエル民族が国家的な基準で背くことにより、イエス様は家庭を離れ、氏族を離れ、民族を離れて荒野に行くようになったのです。

 サタンに引っ張られて荒野に行かれたイエス様は、闘ってユダヤ民族と神様が築いてきた四千年の基盤を個人、家庭、氏族、民族、国家的な基準で再び探し出してきました。霊的な決戦を通じて勝利の基盤を造成してきたのです。復帰の道とは、こういう道です。

 私たちが生きていく目的

 皆さんは今までこの道を歩んできながら、悪の迫害の途上で倒れないで残った群れになりました。追い込まれた立場で死ななかったのです。なぜですか。神様が私たちを指導していらっしゃることを知っていたからです。指導される神様の歩みを止めることができますか。歩みを止めようとすればますます速くなります。個人的な十字架の道で疲れて倒れれば、家庭的な十字架の基準を越えられません。家庭的な十字架の道で倒れれば、氏族的、民族的、国家的な基準を越えることができないのです。

 これから私たちはどのようにすべきですか。十字架の山上で神様が私たちの行く道を導かれるとき、その道に進んで勝利者になり、神様が救ってあげられる人にならなければなりません。個人の十字架をすべて行ったのち、「もうお前には勝利しか残っていない」と言う音声を聞く時まで行かなければなりません。今、皆さんはどのような段階にとどまっているのか、よく考えなければなりません。

 このようなことを考えるとき、皆さんは今この場に座っていますが、神様には休む間がありません。今日宗教が問題ではなく、国家が問題ではありません。また先生が問題ではありません。今は歴史的なすべてのことが全部かかっているのです。

 父とその国です。私が歩んできた目的は父を求めるためであり、私が生きる目的は父の国を回復させるためです。父が涙ぐんでいらっしゃるがゆえに、私は楽に生きることはできず、父が心配なさるがゆえに、私は楽に休むことはできず、父が十字架を背負っていらっしゃるがゆえに、私は安楽な立場にいることができないのです。

 十字架を征服しなければならない私たち

 皆さん、このみ旨を前にして考えてみるとき、現在私たちの実情は非常に緊迫しています。世界情勢を眺めれば眺めるほど緊迫しています。世界的な十字架の絶頂で神様に代わって責任を負うことのできる群れとは、いかなる群れでしょうか。このようなことを考えなければならない時が来ました。このような道は嫌だと、これを拒んで落ちていく人は、十字架を担っていかれるイエス様を裏切った群れのあとに従う者たちです。

 今日皆さんは世界の数多くの民族を、私たちの手で救わなければならないという信念をもたなければなりません。この使命を他の民族に譲ることはできないという信念に満ちていなければなりません。また、皆さんはこの国、この民族を救うにも自分でなければならないという信念をもたなければなりません。困難な十字架は、私たちが先に負おうとしなければなりません。神様が飢えた立場で十字架を背負って行かれるので、私たちも十字架を背負って、食べる物も食べないで行くという覚悟と信念がなければなりません。そうしてこそ孝子です。

 飢えた立場で十字架を負っていても、与えたく、差し上げたい心をもたなければなりません。「差し上げなければならないことを知っているけれど、私には涙しか差し上げる物がありません」と言わなければなりません。このようなことを私がしなければならないというのです。神様が飢え渇いた立場で行かなければならない十字架の道を私が担って、神様に安楽な道を差し上げることができなければなりません。

 孤独な路程で疲れた歩みを止めて、安息することもできない旅人の身分になったとしても、神様の前では、「私は大丈夫です」と言えなければなりません。神様に自分の苦労を負わせるのではなく、自分を通じて神様の苦労を減らすことのできる立場に立たなければならないのです。

 このような立場で、自分が負った十字架を自らの責任として、神様は私よりもっと大きい十字架を担っていかれるということを知って、与えることができ、「ため」に生きることができ、侍ることのできる人にならなければなりません。このような人が真の孝子、孝女です。

 では、神様は誰のために摂理してこられるのでしょうか。家庭を超えて民族のためにです。それよりもっと大きいことのためにです。民族の立場で国家的な責任を担っていらっしゃる神様は、その民族圏内で一つの責任でも果たせる、極めて小さな一人さえも軽くは考えられません。皆さんは神様のような哀れむ心をもって、神様が受けられる十字架の苦痛を減らそうとする人にならなければなりません。神様はこのような人がするあらる行動を、神様御自身のためにすることとして受け取ってくださるのです。

 今日信仰者は、「家庭的な十字架を背負って、民族的な十字架をも加えて負います」と言わなければなりません。それが信仰者の姿勢です。もし家庭的な祭壇で失敗しても、民族的な基準で「忠臣」の称号を残し、「孝子、孝女」の称号を残せばいいのです。このような点を考えると、信仰者が民族的な使命を果たさなければならない時代を迎えるようになったことが分かります。これから私たちが行くべき道は世界的な道であり、私たちが探し求めなければならない国は天地ですから、この天地を神様に探してさしあげる時まで残っている十字架の道が、大きいということを考えなければなりません。それゆえ、私たちが今受ける十字架は当然なのです。

 皆さんがここで歩みを止めれば、皆さんは道だけ築いて、そのまま過ぎてしまう人になります。先生は蘇生時代、長成時代、完成時代、このように段階的に連結させていくつもりです。したがって、皆さんがもう一度肝に銘じなければならないことは、この時代においてしっかりと目を覚まして、残っている十字架の道を走っていくべきだということです。

 十字架の途上で試練にぶつかるたびに、「ありがとうございます」と祈祷しなければなりません。十字架の道を行く時は、民族だけでなく、世界的な十字架をつかんでいかなければなりません。そうして十字架を征服しなければなりません。十字架を征服するまでは、サタン世界の患難の峠を越えることができません。イエス様も十字架を征服してから復活という新しい歴史を立てて、新約の福音の歴史を出発することができたのです。

 これと同じで、今日の信仰者も十字架を征服しなければなりません。現世の十字架を征服しなければなりません。そうして、試練と迫害を受けても滅びない群れにならなければなりません。これが神様が指導してこられた方法です。このような復帰の道が残っているために、皆さんの立場が孤独で寂しいと思えるたびに、私と共に歩んでいらっしゃる神様の立場を考えなければならないのです。

 皆さんは休んでも神様は御苦労される

 洗礼ヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と言いました。そのとおりです。世の中の十字架を負って行かれる神の小羊は、個人から家庭、氏族、国家、世界を越えて天地、天宙にしみついたあらゆる十字架の峠を突破しなければなりません。霊界のゴルゴタを突破して、地上のゴルゴタを突破しなければなりません。そして、個人的な十字架の峠を越え、家庭的な十字架の峠を超え、民族、国家、世界的な峠を越えなければならないのです。

 皆さんは最も難しいことを選んでしなければなりません。最も難しい峠に出会えば、「先生、私がします。私も一度やってみます」と言わなければなりません。神様の十字架まで付け加えて負っていこうと努力しなければならないのです。皆さんは今天的な使命を担っていかなければならないこの路程で、いかなる責任と使命を担って苦労の峠を越えていっていますか。神様を中心にすべてをしなければなりません。皆さんが今飢えているのは食べられないからではありません。水を飲むことができなくて、のどが渇いているのではありません。

 私たちは、大きい十字架を担っていかなければならないのです。個人的な試練と家庭的な試練は、氏族的な基盤を築くための準備期間でした。今私たちの前に現れる迫害と試練がないといって、私たちの行く道は平坦だろうと考えてはなりません。今は範囲がより広くなりました。過去には座った場で十字架を背負いましたが、今は十字架を背負って歩いていかなければなりません。過去には十字架を背負って一箇所だけを眺めていきましたが、今は一箇所だけを見ていてはなりません。東西南北を見回して行かなければならないのです。過去にはその場で十字架の峠を上ればよかったのですが、今は四方をあまねく見回して観察していかなければなりません。範囲が広くなったのです。

 先生は神様が行かれる道を仰がなければならず、皆さんは先生が行く道を仰がなければなりません。同じ立場に立たなければならないのです。お互いが掛け離れてはなりません。先生は皆さんよりももっと加重された道を歩いています。また、先生を指導される神様は、一段階上の道を歩いていらっしゃいます。皆さんが寝入っていても、神様は蘇生、長成、完成の三数の段階を経て関係を結んでこられました。

 蘇生級をたどり、長成級で審判を受けるのと同じで次子が問題です。二番目が問題です。上下があり、前後があり、左右があるのも二番目があるからです。二番目ですべてを解決しなければなりません。それゆえ上下を正して、前後、左右を正さなければならない責任が二番目にあるのです。

 最後の決戦を見つめながら新しい決戦を行う立場では、責任を負う人のみが生きて帰ることができます。一生行っても行ききれなこゆえ、皆さんは寝ても覚めても夢の中でも起きていなければなりません。

 皆さんは公的な責任を負うときは、どのような苦難にぶつかっても堂々としていなければなりません。皆さんは自分たちが行かなければならない環境の垣根を背負っていても、主が十字架を背負っていれば、主の盾にならなければならないのにもかかわらず、むしろ主に覆いかぶせています。公的な使命と、個人的にすべきことは別のものです。

 父の国を成し遂げようという人になろう

 先生はひもじく疲れて倒れることがあっても、どのようにすれば神様が案じられるその道を私が進んでいけるか、担うことのできる十字架の道があるならば、どのようにその道を行くべきかということを考えました。ところが、皆さんはこのような道を行く準備をせずにいます。今日皆さんは侍ることにより救われるということを知っていながらも、ただ眺めているだけです。

 私たちは寝ても覚めても父のために、父の国のために行かなければなりません。千回、万回死ぬことがあったとしても、その恨みを解かなければならないのです。そういう勇気のある人ならば、自らの十字架を甘受し、神様の十字架を代わりに負うことができなければなりません。

 したがって、今日私たちは父とその国のために仕事をしなければなりません。父が召命できる孝子、孝女にならなければなりません。男性は父の孝子になり、女性は父の孝女にならなければなりません。父の前に忠臣、烈女にならなければならないのです。このように私たちは神様のために、生まれつきの民にならなければならず、孝子、孝女、忠臣、烈女になるべきだということをはっきり知らなければなりません。これが私たちがしなければならない使命なのです。

 信仰者が行く道は難しいのです。困難な十字架の途上でも「アバ、父よ、私の思いではなく、父のみ意のままになさってください」と言わなければなりません。血を流して倒れることが父のみ旨ですか。苦労することが父のみ旨ですか。父の恨みを晴らさなければならないために、そのようにするしかないというのです。そのようにしなければ恨みを晴らすことができないのです。

 こういうことを知って今後来られる父に侍る息子、娘になり、忠臣、烈女にならなければなりません。そのようにできる一日を迎えるために私たちは歩んでいるのです。この道において敗者にならず、勝利者になるために覚悟する群れにならなければなりません。それから一度うんざりするほど仕事をしてみましょう。

 父の前に孝子、孝女になって、その国の前に忠臣、烈女になるためには、父母と兄弟の十字架を代わりに負い、その民の十字架を代わりに負うことができなければなりません。兄弟のため、父母のために代わりに十字架を背負う者が孝子、孝女であり、その国民のために代わりに十字架を背負う者が忠臣、烈女です。父の愛を所有するとき孝子、孝女となり、国王の愛を占めるとき忠臣、烈女になるのです。

 今日皆さんは、時代的な環境を超えるべき十字架の道をどれくらい開拓しましたか。個人的な十字架の道に行かないのですか。そのようなことでは神様のために生きられません。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界の舞台に向かう途上で神様に十字架を背負わせる人になってはなりません。神様の十字架を代わりに担って立ち、神様の前に孝子、孝女であることを叫び、忠臣、烈女になることを訴え、私の血と肉は悪の血と肉とは混ざることのできない血と肉だと叫ばなければならないのです。それでこそ、その国が皆さんと関係を結ぶことができ、父が皆さんと直接関係を結ぶことができるのです。

 こういうことをはっきり知って、十字架の途上で先発隊として責任を全うし、必ず生き残る群れにならなければなりません。

 きょう家に帰って、皆さん自身がどの段階に立っているのか考えてみてください。皆さん、み旨が成し遂げれらることを願うでしょう。誰がこのみ旨を成し遂げるのですか。神様も一人ではできません。人間が地上で歩調を合わせなければなりません。

 皆さん、行くべき道があるのでベルトをきつく締めなくてはなりません。油断してはなりません。早い足取りで走っていかなければならなこにおいて落伍者にならず、約束した統一の場で父に侍り、父の国で勝利を成し遂げて生きる皆さんになることを願います。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.04.16 22:10:04
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