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2021.04.18
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「父母の心」

一九六四年四月一二日(日)大邱教会
* 第五回 父母の日の御言


 父母は良いものがあれば自分のものにするよりも、これから自分を代身してくれ、自分が任せることができ、自分が信じることができ、自分が愛することができる息子・娘に相続させようとするのです。これが父母の心です。また、民を愛する君主がいるなら、その君主もやはり良く暮らす方法があるなら、それを民に教えてあげたいのです。貴いものがあれば、その貴いものを自分個人だけのものとしないで、国全体のものとしたいのが、真の君主の心なのです。


 良いものを与えたいという心が本然の心

 このように見るとき、善なる人とはどのような人であるか? 貴く良いものを自分だけのものとしないで、全体のものとして、またその価値を全体の価値に連結させたいという心を持った人です。

 それでは天地を創造された神がおられるとすれば、その方はどのようなお方か? 極めて善なるお方であり、すべての万物の根本となるお方であり、愛の主体であられるお方です。ですからその神は、ご自身が真に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることができる人間がいたなら、最も貴いものをそっくり残してやりたいとされるのです。これによって我々は最も貴いものを、真に与えたいという心が天理の原則であり、人間本然の心であることを推し量ることができるのです。

 幸不幸はどのように分かれるのか? 心のままに与え受けることができるか、できないかによって分かれるのです。与えたい心があっても受ける対象がなく、受けたい心があっても与える主体がなければ不幸です。与えるとき自分の最も貴いものを惜しみなく与えることができ、どんな環境の制約も受けずに最も貴く価値あるものを与えなければなりません。このようにしたいのが、人間本然の心なのです。

 ですから神は天地万物を創造された後に、全天宙の貴いすべてのものを与えたいとされたのです。与えるときはどのような環境の制裁や、時間的な制限を受けることなく与えたいとされたのです。では今まで神様は人間に、その中でも聖人賢哲や修道の指導者に、このように与えられたか? そうではなかったのです。

 神様が天上天下に一つしかない貴いものを人間の世に与えるとき、世においてはこれを無限の価値のものとして受け、神のまえに功をお返しした人間は、一人もいなかったのです。もしもこの時そんな人間がいたなら、その人は神が立てたすべてのものを主管して、支配することができる立場に立つようになったのです。しかし未だにそのような人が現れないので、神は歴史路程を経てこられて真に天地の貴いすべてのものを与えたい人間を、捜しておられると見ることができるのです。

 このよな観点から見るとき、神は個人的にも与えたく、家庭的にも与えたく、あるいは宗族、民族、国家、世界、天宙的までにも与えたいのであり、さらには内的な心情から出る愛までも、みな与えたい心を持っておられることに間違いないのです。しかし未だにいかなる一時にもこんな真の心情を、個人と家庭、あるいは民族、国家、世界、天宙に与えてはおられないのです。

 このようなことを復帰するために、神様は怨讐と敵対する闘いの路程を開拓して来られているのです。ノアを中心に役事された摂理の背後を見ても、ノアに与えたかった神様は一二〇年という長い期間をかけて、その初期の目的を果たそうとされたのです。

 ですからノアが一二〇年の間苦労しなければ、神もその約束を果たすことができないのです。このような約束が守られた基盤の上に、二次三次とだんだん範囲を広げて、世界的な舞台に展開させることが、神がノアを選んだ目的であったのです。しかしノアが最初の目的を達成しなければ、第二次三次の目的を達成できる基準を得ることができないので、ノア家庭は失敗したのです。それによって未だに神様は、ご自身が立つ足場を持つことができないのです。


 神の所願とイエス降臨の目的

 それでは神様がどのようにすれば、幸福なる場に立つことができるのか? ご自身の最も貴いものを愛する個人や家庭、社会、国家、世界に、あるいは主権者なら主権者、民なら民にそっくり与えなければならないのです。しかし今まで安心して喜んで授け受けることができる一日を持ってみなかったのです。これが未だに復帰摂理が終わっていない実情を推し量ってみるとき、当然のことなのです。

 それでは神の所願が何でしょうか? それは本当とだといえる足場を持つことです。神は与えるときにも誰もが讒訴することなく、受けるにも誰もが条件を示すことのない自由で平和な、幸福な場を願われるのです。このような場を世界的に広げ、全万民をここに生かすことが、神が収めようとされた初期の目的なのです。であるにもかかわらず、未だにこんな場を得ていない神は、与えたい心と受けたい心が大きければ大きいほど、悲しみと苦痛を大きく感じておられるのです。

 こんな歴史過程において、個人を通して天宙にまで与えなければならない神は、与えるためのこの距離を短縮させようとされるのです。最も価値あるものを与えたいときにも、歴史的な距離をおいて与えるのではなく、直接与えようとされるのです。命令をして教えられた場で授け受けるのではなく、心情が通じる場、神の栄光と満宇宙の価値を讃えることのできる場で授け受けたいのが、神の心なのです。こんな場を創るために神は今まで、数多くの先知先烈たちを立てて来られたことを、我々は知らねばなりません。

 こんな観点から見るときに、歴史路程において立てられた数多くの修道の中には、神の事情に通じることができる修道もあったのであり、あるいは神の使命を代身して責任を負う先鋒的な役割をした修道もあったのであり、神の理念を代身して各分野において千態万象に現れる修道もあったのです。その道の中で神と直系血統的な関係を持って、神の心情を代身することができる道がなければならないのです。この道を立てるべき主人公がまさに、独り子イエス様であったのです。

 それでは天的な修道の道を築いてきた数多くの道主の中で、イエス様が持ってきた道の使命は何でしょうか? 他の修道は自身が担う分野の使命のみを持ってきたのですが、イエス様は堕落してサタンと血統的な因縁を結ぶことによって、神と関係を結ぶことのできない立場に立っている人類を、復帰させなければならない使命を持って来たのです。サタンとの血統を絶ち切って神と父子の因縁を展開させ、神の子女の場に復帰しなければならない使命、即ち人類を神が愛することができる息子・娘として、神をアボジとして侍ることができる息子・娘として立てる使命を持って来られたのです。いかなる道においても、いかなる宗教にも捜し求めることができない、最も重要な心情的な問題、愛の問題を持ってこの地上に来られたお方が、イエス様であったのです。

 人間の世には神の事情に通じる道、天国の理念を紹介する道、等いろんな分野で各使命を背負う道がありますが、イエス様がこの地上に来られることによって、初めて万民は神に対して父と呼ぶようになり、神は万民に対して息子と呼ぶことができるようになったのです。この時から人間は神の心情を論じるようになり、神と父子の関係を結んでゆくことができるようになったのです。

 こんな見地から見るとき、神はキリスト教を通して人類に何を与えようとされたかというと、人類を真の息子・娘として訪ね、神を父と呼ぶことができる立場に立て、主は贈り物を与えようとされたのです。人間の世に一つしかないこんな贈り物を与えるために、イエス様がこの地上に来られたことを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは息子の中には孝子もおり、不孝者もいるのです。不孝者は救援摂理があろうがなかろうが、この地上でメシアが死のうがどうしようが関係なく、神が立てて下さった功労とは何らの因縁もない場に立つ者です。このような不孝の場を打破して、すべて孝子孝女の場に復帰させるためのことが、イエス様がこの地上に来られた目的であり、また神のイエス様をこの地上に送られた目的なのです。


 イスラエル民族がイエス様と行動を共にしたなら

 それでは今までこの地上に生きた歴史的な先祖たちと、キリスト教信徒を見るとき、神が求める真の世界的な代表者、全天宙を与えても代えることができない勝利的な資格者、神が真なる贈り物を与えられる息子・娘、神の真なる遺業を受けて天地の間に立つことができる息子・娘とは、どのような人でしょうか? どんな人間が果たして真の息子・娘になることができるかを考えてみるのです。

 ヤコブを中心に見るとき、ヤコブは怨讐の側に立つエソウを屈伏させて、イスラエルという名分を立てたのです。またハランの地、即ち怨讐の懐で神が公認され、神の祝福を受けることができる勝利の基盤を築いて、ヤコブ家庭が勝利するようになったのです。このように勝利したヤコブ家庭は、民族的な勝利に向かって前進しなければならないので、エジプトに入城したのでした。

 ここにおいて民族を形成して四〇〇年間の苦役の暮らしをした後に、神が信じることができ、神が祝福される基盤を造成して怨讐を屈伏させて神の祝福を受け、カナンに向かって出発したのですが、この歩みがカナン復帰路程なのです。

 このようにして民族的な基盤を立てるときには勝利したのですが、国家的な主権を立てることが出来なかったのです。エジプトで勝利したイスラエル民族が、国家的な勝利の基盤を築くためには、カナン七族と戦って勝利しなければならないのです。戦って滅びる群れは福を受けることができません。イスラエル民族が怨讐を根本的に掃討して、主権者の権威を得るとき、神は国家的な貴い福を彼らに与えようとされたのです。なぜなら、イスラエル民族は選民だからです。

 当時のイスラエル民族とユダヤ教徒の使命は、イエス様を主として世界的な福を受けることができる道を築くことだったのです。イエス様が悲しめばイスラエル民族とユダヤ教徒も悲しまなければならず、イエス様が左側ならイスラエル民族とユダヤ教徒も左側になるべきだったのです。このようにユダヤ教徒とイスラエルの民は、イエス様と一つになって行動と生活を共にして、世界的な怨讐の舞台、即ちロ-マ帝国に向かって攻撃戦を展開する基盤を築かなければならなかったのです。

 もしもこの時こんな基盤を築いたなら、キリスト教が四〇〇年間も迫害を受ける事件はなかったのです。もしもイエス様が生きていたならロ-マ帝国を屈伏させたのであって、このように長い期間が必要なかったのです。イスラエル民族とユダヤ教が歴史的な神様、即ちアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、我々イスラエルを立てて万民を統治すると約束されたのであり、これを果たすためにメシアを送られたのですから、神の祝福を受けるという堂々たる信念をもって、イエス様と行動を共にして世界的な舞台へと前進したなら、世界的な勝利はすでにずっと昔に得ていたのです。しかしそうはならなかったが故に、イエス様以後のキリスト教は苦難の宗教となったのです。


 この時代のキリスト教徒の使命

 神様は個人的に勝利され、家庭的にも勝利され、民族的にも勝利され、国家的にも勝利した土台の上にメシアを送り、世界的な勝利の土台を造ろうとされたのです。それでイエス様を送られたのですが、イスラエル民族はイエス様を死の道へと追いこんだのです。それでキリスト教は再び個人的な時代から、宗族、民族、国家的な時代を経なければならなかったのです。即ち、縦的なイスラエルの四千年の歴史を再度、横的な歴史に展開させてゆくのです。

 それゆえ第二イスラエルは個人的な十字架の道から、家庭的な十字架の道、宗族的な家庭の道、民族的な十字架の道、国家的な十字架の道、世界的な十字架の道を歩んで、サタンと闘って勝利しなければならないのです。個人的な闘いに勝利して家庭のために闘うという信念を持つ者であってこそ、個人的な祝福を受けることができるのであり、また家庭的、宗族的、民族的、国家的な闘いに勝利して世界の為に闘うという信念を持つ者であってこそ、国家的な祝福を受けることができるのです。こんな原則があることを、我々は歴史的な事実として推察することができるのです。

 それではこんな原則から見るとき、終末を迎えている現在のキリスト教徒たちは、どのようにしなければならないのか? 悪の世に染まることなく、むしろ悪の世を支配しなければなりません。現実においてぶつかる苦痛と困苦と悲惨がどんなに大きくとも、怨痛で憤る事実がどんなに多くとも、ここにおいて自身を守ってゆかねばなりません。これができない人間は現時代を収拾することができないが故に、この時代を越えて近づく新時代の福も受けられないことを、皆さんは知らねばなりません。

 ですから終わりの日に処している今日の全世界のキリスト教徒は、世界的な艱難の途上において自分一身を収拾するのみならず、家庭を収拾し、宗族を収拾し、民族を収拾し、国家を収拾して世界的な試練の峠を越えて行くという信念を持たなければなりません。すべてがこんな信念を持って団結し、生活的な舞台と環境的な舞台に責任を負い、精算することができる群れにならなければ、神様が皆さんにどんなに与えたい福があっても、与えることができないのです。

 それでは今日この時代において、神は何を求めるのか? 全世界に広がっている多くのキリスト教会の中で、世界的な宗教として登場することができる教会を求めるのです。また世界的な家庭として登場することができる家庭を求めるのです。即ち、現実の苦難の路程、十字架の路程を越えてすべてのことを審判して、精算することができる個人と家庭、宗族、民族、国家を求めておられることを、皆さんはよく知らねばなりません。

 もしもこのような一つの国家が現れたら、その国家の民はどのような伝統的な姿を持つべきか? その国の民であるなら最高の人であれ最低の人であれ、すべてが現世において罪悪の場に入ったとしても、これを克服できなければなりません。今日我々はこの世界を審判して、新しい理念の世界である天国を建設しなければならないのです。神はそのようにできない人を呼んで、祝福されはしないのです。分かりましたか?

 神は我々個人を勝利の息子・娘として立て、家庭的、宗族的、民族的、国家的、世界的に与えたいのです。このように神は与えようとして約束されたのですが、歴史上にはこの約束を実践して勝利の基盤を築いた個人や家庭、宗族、民族、あるいは国家が一つもなかったのです。神が苦待されたきたことは、このような国家の理念を通して世界的な福を、万民にただちに分け与えたいということです。これが今まで六千年の間、一日も休むことなく摂理されてきた神の切ない心情であり、悲しい事情であることを今日、我々は知らねばなりません。


 この世界に対される神のもどかしい心情

 神がいつの一時宇宙史的な讒訴を免れる場で「おまえたちはわたしが永遠無窮に抱いて愛するわが息子・娘であるから、これもあれも皆おまえたちのものだ。この全体が過去、現在、未来を通して、わたしがおまえたちの為に準備したものだから、これを持って千代万代に幸福を享受するのだ」と個人を立てて祝福し、家庭を立てて祝福し、宗族、民族、国家を立てて祝福してみたでしょうか? 未だにしてみないのです。

 それでは今日我々の所願は、何であるのでしょうか? この三〇億人類を一つ所に集めて早く艱難の世界を蹴とばし、自由なる基盤の上で、新しい天国に向かって行進する動きを地球上に現して、天国を建設して、そこで神に侍ることでなければならないのです。

 今日最高の文明を誇る二〇世紀に、サタンを中心に生きている人間たちが、神の祝福を受ける場において生きるとしたなら、神にどんな場で侍るのでしょうか? 歴史的なサタンの立場よりも、歴史的な我々の先祖たちの立場よりも、さらに貴く素晴らしい基盤の上で侍らなければならないのです。今までこのようにやったという信念に燃える人間がいたでしょうか? 未だにいないのです。

 このように見るとき、今日我々統一教会員はどうしなければならないか? 皆さんはこの時代に生きていますが、どうせ過ぎ去る時代ですから、このように制限された環境で神に侍って生きるよりも、三〇億人類をして新しい理念の世界を建設させるべくしなければなりません。二〇世紀を越えてゆく今この場で「統一教会員の中で神が与えたいものを自分が受けて、千代万代の我々の後孫のまえに、神の遺業としてそっくり相続させる場が慕わしいという心を持つ人間がいるか」というとき、いないというのです。

 神はこの場でもこの世界を蹴とばして、新しい理念世界へと行きたいとされるのです。神は勝利として今まで所望した個人、家庭、宗族、民族、国家、世界的な基盤を築いていって、ご自身が計画された千代万代、永遠無窮の創造理想世界を建設されたいのです。こんな心か強ければ強いほど、さらに急がれる心情に染みる神であることを、我々は知らねばなりません。だから皆さんも寝ても覚めても、自分が行くべき所がそんな世界であることを、考えなければなりません。

 縦的蕩減歴史を解決すべき我々

 神は今から二千年前、選民であるイスラエル民族と思想的な中心であるユダヤ教団が成し得なかった責任を果たすために、再び世界的な基準でキリスト教を第二のイスラエルに立てられたのです。ところがキリスト教がまた、ユダヤ教の使命を果たさないので、今日統一教会をしてこの使命を相続させられたのです。それゆえ我々は全世界に広がっている民主主義の圏内の人々を収拾して、来られる主様に平安な場において侍らなければならないのです。個人的に、家庭的に、宗族、民族、国家的に神に侍ることができる土台を造らなければならないのです。これが神が人間を創造された本然の目的であり、人間が成すべき本然の使命なのです。

 我々は寝ても覚めてもこの理念に染みて「私に襲いくる艱難がどんなに大きくても、イスラエル民族がエジプトで受けた四百年の苦役に比べられましょうか」としなければなりません。むしろその時よりも大きな世界的な時代に来たので、彼らよりも大きな艱難があるはずなのに、神は反対に小さな艱難を通して大きな峠を越える条件とされるので、限りなく感謝しなければなりません。

 皆さんが神の歴史的な心情を知らないことを恨と考えるなら、エジプト苦役四百年を経たイスラエル民族が、あるいはロ-マ迫害四百年を経たキリスト教徒が、凄まじい迫害と艱難の中でも血と汗を流して、伝統を蹂躪されずに立てた歴史的な心情を知りたのです。であれば皆さんは、その時その環境、そのような場でそんな迫害を受けなかったことを、恨みがましく思う心を持たねばなりません。

 我々は歴史的な心情の同伴者となり、世界的な立場で歴史的な心情を展開することのできる者にならねばなりません。そして世界的な艱難の中で善なる人々が迫害を受け、蹂躪されてきた歴史的なすべての環境と迫害の途上に立たなければ恐れ多いとする人間にならねばなりません。

 その昔イスラエル民族は、カナンの福地で受ける試練がエジプトでの試練よりも大きいとしても、カナンの地に行かねばならないという心を強く持つべきだったのです。今日我々統一教会信徒も、どんなに歴史的な艱難、時代的な艱難が大きいとしても、これを感謝しなければならないのです。今は過去のように何百年、何千年にわたって試練を受けることはありません。神は我々を世界的な試練の途上に立たせて、この基準を短縮させて一時に総蕩減せさようとされるのです。これがどんなに有難いことかを我々は知らねばなりません。

 イスラエル民族は個人的な勝利の基盤を築いたとしても、それによって終わるのではなく、家庭的な十字架の峠が残っているので、それも勝利しなければならないのです。でなければ個人的な勝利の基盤は壊されてしまうのです。また家庭的な勝利の基盤を築いたとしても、宗族的な十字架の峠を越えられなかったなら、家庭的な勝利の基盤は壊されてしまうのです。

 このように宗族的な勝利の基盤を築いたとしても、民族的な十字架の峠をまた越えなければならず、民族的な十字架の峠を越えたとしても、国家的な十字架の峠もまた越えなければならないのです。また国家的な十字架の後には、世界的な十字架が残っているので、これもまた越えなければならないのです。神はこのように越えるべき途方もなく凄まじい十字架のすべての峠を、短縮させていっぺんに蕩減させようとされるのです。

 神は今まで歴史的な距離をおいて、縦的に蕩減して来られました。神は今まで六千年間も縦的な蕩減歴史をなして来られたのですが、未だに完全に解決されないのです。それではこれを誰が解決するのか? 我々がしなければなりません。まさにこの縦的な歴史を蕩減すべき期間が、我々統一教会の三年期間であり、四年期間なのです。


 神様が私たちを呼び立てられた理由

 このようなことを知ってこの三年、四年期間がどんなに難しい逼迫の路程であり、悲惨な路程であっても「昔イスラエル民族がエジプトで受けた困苦に比べられようか、昔キリスト教徒がロ-マ帝国で受けた苦痛に比べられようか」と考えなければなりません。彼らは開拓の路程で血の祭壇を造りながらも天の伝統を立て、天に向かう気概を守るために自分一身を草芥のごとく捨てたのです。希望の天国を望みながらもいつ成るのか、また行く道も分からずに死んでいったのです。しかし今、時代は違います。

 神はこんな途方もない歴史的な蕩減の路程を圧縮させて、一時に横的に展開して蕩減させようとされるのです。未だに誰も勝利することのない価値的な内容を成させるために、神は皆さんを立てられたので、皆さんは今日皆さん一人を立てるために、神がどれほど多くの苦労をされたかを知らねばなりません。

 このようにして今日、このみ旨のまえに召命を受けた皆さんの中の、だれ一人ノアと取り替えることもできず、アブラハムとも替えられず、モ-セとイスラエル民族全体とも替えることができないのです。全世界にキリスト教徒がどんなに多くとも、今日皆さんが持つこの理念を持っているかといえば、持っていないのです。神はイエスと霊界の数多くの霊人は勿論、地上の数多くの道人たちと、すべての教派を与えても替えることができない基盤の上で、世界的な贈り物を与えるために我々を呼び立てられたのです。神様が与えるために我々を呼び立てられたので、今我々は受けなければなりません。受けるときは大きなものを受けるのです。そして大きなものを受けるには、十字架の大きな峠を越えなければならないのです。

 ですから今日、韓国が惨めな環境におかれているのは不可避なことなのです。今日世界が左右に分立して闘争する混乱の中におかれていることも、同じことなのです。これは個人的に考えてみるとき、どえらいことです。どのように個人を収拾して家庭を収拾し、宗族、民族、国家、世界まで収拾できる道を捜し求めるかというとき、まるで分からないのです。しかしこの時代が過ぎて勝利の基盤の上に立つことができるその時になったなら、個人は勿論、家庭、宗族、民族、国家、世界の行く道がはっきりと現れるのです。

 その時我々は、希望の天国世界で与えたい神の心情のまえに、真の孝子孝女として受けなければなりません。であれば神が愛する息子・娘を前にして、ご自身のすべてのものを相続させるその時間に、天上天下のすべての万物は「千代万代に無窮でありますように」と証しするのです。天使世界の天使長は勿論、存在世界のすべての存在も、この世界を蹂躪してきたサタンも、みなこのように証さなければなりません。我々がこのように証しされたなら、どうしなければならないか? たとえサタンが、原則的な基準を無限に侵犯してきたとしても、我々はこれを怨讐の立場で収拾するのではなく、道理の神様を中心に収拾しなければならないのです。


 祝福の地に行って生きようとすれば

 神のまえにサタンは歴史的なすべての面において、怨讐の立場で反旗を掲げてきたのですが、神はその威信と体面を考えもされず、常に天倫の道理を通して収拾されて勝利の基盤を広げて来られたのです。同じように今日、我々もやはり怨讐たちに対して神と同じ立場で収拾することができる伝統的な、理念を持つ選民にならねばなりません。そうでなければ神が祝福された世界に入って生きる民とはなれず、祝福を受けられる家庭になれないのです。祝福を受けられる個人になれないことを、よくよく知らねばなりません。

 こんな原則があるので、イエス様は十字架上においても怨讐の為に福を乞うたのです。平面的に見ればサタンは絶対に許すことができない怨讐ですが、歴史の背後にある神の心情に立脚して見れば容赦しなければならないのです。こんな原則があるのです。それでイエス様は十字架上で、歴史的な心情を相続する息子として怨讐の為に福を乞うたのです。このようにしてイエス様は、その責任を尽くしたのです。

 ここにイエス様は個人的な公認を受け、家庭的、民族的、国家的な公認を受けることができたのです。即ち、神の心情を中心とするイエス様のまえに、個人的に迫害したサタンが屈伏し、家庭的、宗族的、民族的、国家的に迫害したサタンが屈伏していったので、世界的な霊的天国建設の門が解放されたのです。ですから時代が過ぎるに従って、この世界はイエス様の理念を通して収拾されていったという事実を、我々は知らねばなりません。 現在の我々の立場がこうですから、我々はどこへ行かなければならないのか? 私はどこへ行くべきか? 皆さんが今この場で世界に出て行って、世界的な勝利の土台を造りたいとしても、一挙に世界的な舞台に出ることはできません。それではどうしなければならないか? まず家庭を求めなければなりません。息子・娘の立場で父母を求めなければなりません。兄弟を求め、父母を求めたその次に、民族が生きることのできる世界に向かって行かねばなりません。故郷の地を捨ててもそこに行くのです。言い換えればイスラエル民族が、自分たちが生きることのできる祝福の地に向かって行くべきだったように、我々が生きることができる所に向かって行かねばならないのです。これが原則です。

 ですからこれから世界的なイスラエルとして、祝福を受けることができる一つの国、一つの民、一つの国土があったとしたら、個人は兄弟と共に、兄弟は父母と共に、父母は宗族と共に、宗族は民族と共に、民族は国家と共に行かねばなりません。このような国があったとしたら、その国の主権は世界の主権を代身する主権であり、その国の民は世界の民を代身する選民であり、その国の領土は世界の領土を代身する領土となるのです。従って万民はすべて決定をその国を通してしなければならないので、その国は自然に世界を支配するようになるのです。

 であれば皆さんはすぐにその国に行ってみたく、すぐにその道を開拓してみたいと考えるのです。しかし行くときは個人としては行けないのです。必ず兄弟を求め、父母に侍って行かねばなりません。父母のまえに孝道を尽くし、兄弟同士が互いの為という立場に立って行くのです。皆さんがこれから民族建設をするためには、自身の家庭よりも数多くの民族をより慕わなければなりません。さらには、そのために兄弟の友愛をも越えるという心情があってこそなのです。それでこそ宗族的、民族的な圏内に入ることができるのであり、ここにおいて再び、一つの国家的な基準を越える道が築けるのです。これを我々は、よくよく知らねばなりません。


 試練を克服することができたノアの信仰

 今日統一教会員たちが歩んでいる道が、蕩減復帰路程であることを考えるとき、皆さんは先生が歩んだこの道に従って来なければなりません。先生も過去には神の摂理を知らない時代があったのです。今は神の摂理を知らない皆さんを指導する立場にいます。そして今は先生が未来の摂理を展開させる責任まで背負っているのです。皆さんは知りません。しかし前で引導する通りに、付いてくればいいのです。

 すでに前に話したように皆さんが、神が愛される中心の場に立っているなら、皆さんに限りなく与えたいとされるのです。与えるのも偽りではなく、真を与えようとされるのです。それでは真を与えるときには、どんな場で与えられるのか? 泰平の王宮で、歌を歌う場で与えるのか?

 真の価値は平凡な場で現れるものではなく、残酷非情な場で現れるのです。これはどんな環境の中でも、その姿が変わることがないのです。金はどうして貴いのか? それは金がどんな作用を受けても、変わらない本質を持っているからです。真も自由なる環境で生じるものではなく、試練の条件を通過してこそ、真を所有することができるのです。ですから今日、復帰途上において堕落した人間をきれいにするためには、ある面ではサタンも必要なのです。

 ですから皆さん個人を中心に見るとき、今日この世界は個人を錬磨して、世界的な勝利の足場を得ることによって、世界で最も貴い贈り物を与えようとされると見るのです。またこれが世界史の要求であり、摂理の要求だとすれば、歴史的なすべての試練をどのように克服するのか。世界史の問題が皆さん一人に懸かっているのです。

 ここには死や滅びなど、いろいろな事がみなあるのです。サタンは私を倒してその場を飲み込んでしまおうとしても、私は私なりにその場に立っていなければなりません。わが体は倒れても、わが理念は一歩の退かないのです。イエス様も歴史的な試練を受け、十字架上でその肉身は倒れても、心情においては一歩前進したのです。それで霊的に勝利することができたのです。

 皆さんがノアの息子・娘の立場だったらどうでしょう? ノアが無条件に従って来いというとき、皆さんはそうしたでしょうか?「世の中の人は誰も自分の享楽を求めて生きているのに、自分はこの有り様だ。本当に寂しい限りだ」というのです。その当時にノアが失敗したなら、そこには世界史的な悲しみが内包されるようになっていたのです。

 ノアは生活面で言うに言えない困難があったのです。しかし一二〇年の間、自分の身の上がどうなろうと意に介せず、所望の一念を発展させていったのです。神様が一二〇年の間、箱舟を造れとされたので、十年造れば十年の所望が成り、二十年、三十年、百年造れば、二十年、三十年、百年の所望が成ったとしたのであり、一二〇年造れば一二〇年の所望が成ったとしたのです。成し遂げることができない環境であっても、彼の心の底に価値的な理念があったので、その環境を抑えて勝利の基盤を築くことができたのです。こうしてノアは一二〇年間、残ることができたのです。

 もしも神がこの時代に通じない蕩減復帰路程を皆さんに教え、アダム家庭から六千年以上歩む復帰の路程を行けというとき、皆さんはここに同参することができるでしょうか?世話をかけることなく、付いて行けるかというのです。神が復帰摂理をされるとき、六千年前のアベル一人を抱えて終いまで来たら、今どうなっているでしょうか? しかし神は立てた中心人物が責任を果たさなければ、その時ごとに他の人物に代置させてたのです。ですから今日、皆さんもいることができるのです。


 天国に入ろうとすれば

 復帰の道は行って落ちたら誰かが代わって行く道ですから、今日我々があるのです。復帰路程を行くときは、人々は初めはみな良いというのです。なぜ? 失ったアボジを捜す心情が、すべての人々に因縁づけられているからです。それで初めは忍びに忍ぶことを知らずに付いて行くのです。ところが疲れてくると、再びこの世に戻るのです。

 このようなことを考えるとき、もしも皆さんが六千年のすべてを神の復帰の道に従ったなら、今神様に心配をかけないで従っていたという自信があるでしょうか? 先生がじっと見るに、もしも皆さんがそうだというなら、逆族という名札を額に張り、胸に張り、足先に張りつけます。皆さんはそんな輩です。皆さん自らが自身の心を一度、じっくりと見てみるのです。そして果たして自分が神の福を受けることができるか考えて見るのです。どうでしょうか? 皆さん同士、心の姿を一度切って互いに批判して見るのです。その心を見て、神が偉大だ偉大だといって惚れ込むことができるでしょうか?

 それでも神はそんな皆さんの心を抱いて、摂理してみられたのです。どれほど哀れでしょうか? 思いもかけずに神が、こんなにまでなったのでしょうか? 世の中でも百万長者が安楽に暮らしていたのが、没落の運勢となって食べ物にも飢えるなら、その息子・娘が「お父さん、何でまたこんなになったの」と慟哭するのです。ところが天地の主宰たる神様が、このようになったことを考えますとき・・・。

 皆さんは本郷の道に従う国があるなら、その国に従って世界へと過ぎ行かなければなりません。そうでなければ天国は来ないのです。イエス様が行く国は、この世界に広がっている何か、長老教やら監理教やらいうある教えの理念をもって行く国ではないのです。イエス様がもって行くその内容の、真のみ旨は個人的に、家庭的に、宗族、民族、国家、世界、天宙的に通じることができるものなのです。こんな内容をもって行く所なのです。

 なぜ、イエスが来ることができないのか? 未だにこの地上には世界的に行くことができるキリスト教の足場が立っていないからです。これをキリスト教徒は知らないのです。それで「主よ! 来りて私たちを勝利させて下さい」とのみやっているのです。

 我々は天国に入らなければなりません。それでは天国はどのようにすれば入ることができるのか? 天国は個人から家庭、民族、国家、世界、天宙を過ぎなければ入ることができないのです。本来から天国に行く道はあっても、今まで天国に入った人間がいないのです。なぜ、いなかったのでしょう? それは個人的な十字架途上から家庭、民族、国家、世界的な十字架途上に至るまで、各段階のサタンを屈伏させて、勝利の基盤を立てた人間がいなかったからです。イエス様もこの地上に来られて、勝利の基盤を立てることができなかったので、天国に入ることなく楽園で祈祷する立場におられるということを、知らねばなりません。

 統一教会が立っている位置

 それでは再臨思想とは何であるか? 個人的な環境から開拓するものです。だからといってこの艱難に陥っている世の中を逃避して、山中修道をすることではありません。山中修道はしても、地獄のどん底から開拓して必ず地上地獄の降伏を受けて、天上地獄を経なければなりません。それでこそ楽園に入ることができるのです。地獄が何でしょうか? 地獄は我々が願わざる所です。悪い所です。ぞっとするような悲惨極まる、言いようのない所です。

 未だに天国に入った個人がいないので、天国で永世極楽を享受して暮らす家庭もなく、永遠無窮に天の主権を立てて暮らす宗族、民族、国家もないのです。このような家庭、民族、国家を形成するにも、地上でしなければならないのです。地上で成してこそ天上においても成すことができるので、これを形成するために来られるお方が、メシアなのです。 来られるこのお方は個人的な十字架を負い、世界的なゴルゴダを越えなければならず、家庭的な十字架を負って世界的なゴルゴダを越え、宗族的な、民族的な、国家的な十字架を背負って、各段階のゴルゴダを越えなければならないことを、皆さんは知らねばなりません。これは一段階を越えて終わるのではありません。個人的にも家庭的にも勝利したとしても、再び宗族、民族、国家的に越えなければならない、より大きな試練が残っているのです。

 それでは我々統一教会は今、どこまで来ているのか? 我々は未だに世界的なゴルゴダの丘で、十字架を背負って行っているのです。これを皆さんは知らねばなりません。このような圏内にある我々は民族的、宗族的、国家的、さらには世界的な責任を負っているのです。ですからすべての十字架、この世界に広がるすべての艱難とサタンの介入が、統一教会を経てゆくのです。皆さんの中にそんな中でも残る者がどれほどあるでしょうか?

 それでは、民族的な過程を経てゆくこの時に入ってきた人間は、どのようにしなければならないか? まさにこの場から出発がなされるので、今まで苦労してきたすべての人々を、アベルとして侍ればいいのです。簡単です。

 これから韓国人が全部み旨のまえに立って、国家的な勝利の基盤を築いたなら、すべての異邦の人々は時代的にその恵沢を受けて、だんだんそのみ旨を知るようになり、韓国の民をアベルのように侍り、世界的な舞台に向かって行軍を続けるようになるのです。何の話か、分かりますか? ですから統一をしなければならないというのです。

 それではこの大韓民国、この三千里半島を中心としていって、世界的な舞台に向かってゆくアベルの主権、アベルの地、アベルの民を、どのように造るのか? これを造るなら大韓民国が世界的な試練に一度ぶつからなければならないのです。韓国は今、社会的に見るとき、共産と民主が対決する渦中にあるのです。神は大韓民国をアベルの側に立てるために、大韓民国にこんな歴史的な悲惨な環境を造っておかれたのです。

 このような時に我々を収拾して、我々を救ってくれる者が誰か? その昔エジプトにおいて迫害されたイスラエル六〇万民衆を救う者はモ-セではなく、神であったのです。この時、イスラエル民族は自分たちに迫害が加われば加わるほど、そんな環境に立てば立つほど「アボジよ、我々の先祖の罪をお許し下さい」としなければならなかったのです。しかし彼らはその十字架の道が、自分の先祖の罪悪の報応であり、民族的な蕩減であると同時に、世界的な蕩減であることを知らなかったのです。我々はそうではなく、それでもちょっとましなのです。

 祈祷をしても真実なる心でしなければ、その祈祷は成されないのです。イスラエル民族が数多くの迫害と試練の中で、初めて先祖たちが犯した罪を知ることによって、悔い改める条件が立ったのです。しかしその時、もしもイスラエル民族が一度でも「我々のこのすべての苦しみによって世界的な艱難を代身して下さり、世界史的な蕩減の条件として立てて下さい」と祈祷をしたなら、荒野で倒れることはなかったかも知れないのです。


 韓民族に試練を与えられたみ旨

 今日我々は過去から今までの歴史的なすべての罪悪を蕩減するために、民族的な試練をどのように越えなければならないのか?「この民族は新世界のために、新しい理念の天国のために、善なる血族として立てられたので、この民族を犠牲にして歴史的な罪悪を蕩減して下さい」と祈祷しなければなりません。皆さんはこんな祈祷をするのです。しっかとこのようにやるのです。

 この時代に神が世界の人類の中のどこでもなく、どんな宗族でもなくこの三千万民族に何十年、あるいは何百年の間の試練の過程をおいて、鍛練させた理由がどこにあるのか? 一面でのみ見れば悲惨ですが、他の面から見るとき、神は我々のために無限の祝福を与えようと、世界的な祭壇を造っておかれたのです。そのために鍛練されたことを知らねばなりません。

 それでは我々はどのようにしなければならないか? 礼服を着て復帰の使命を果たす祭司長たちになるか、あるいは祭官たちにならねばなりません。こうしてこの民族を代身して、神のまえに過去を悔い改め、贖罪の祭祀を捧げるのです。そんな祭祀を捧げるには祭司長がいなければならないので、皆さんは民族が試練の道を歩むとき、同参するのです。これが神に向かう原則です。

 それゆえ今日、皆さんは民族的な試練の道を行くにおいて、自分個人のために行くなというのです。「神様がこの民族を立てて、成そうとされるみ旨があることを知りましたので、その責任を私たちに任せて下さい」とする立場に立たねばなりません。「左手では過去を悔い改め、右手では時代を収拾する祭物です。二つに分かれても、サタンが取ることができる祭物ではありません。分けられても一方は歴史的な祭物であり、かた方は時代的な祭物ですから、天よ、どうかお受け下さい」という祈祷をしなければなりません。それでサタンが取ることができずに屈伏するのです。

 それではこの民族のまえに世界的な試練が与えられるこの時、我々はどのような場へ行くべきか? 神が街々のすべての惨状を眺められるなら、落胆されるのです。それゆえ我々もこんな事実を通して、神の心情を所有しなければなりません。この厳しい運命の中でこの民族が生きる道は、神を抱いてゆく道以外にはないのです。イスラエル民族は切迫した状況において、希望のない環境において、神を抱いて訴えたのです。その訴えが民族の罪悪史を蕩減して、未来に向かってゆく神と歩調を合わせたので、カナンの地に向って荒野路程を出発することができたのです。


 目覚めなければならない我々

 今日我々統一教会も、この時代の試練と同じ試練を経ているのです。皆さんはここに屈伏せず、不平を言ってもなりません。統一教会員は目覚めなければなりません。神には鬱憤の心があるのです。我々はこれを知って、正義に立脚して闘い、正義に立脚して生きていって、こんな生活が侵犯されるときは不義の悪党たちを屈伏させなければなりません。 この民族に試練の風が吹いています。今日韓国は三面から共産圏の包囲にあっているのです。昔のイエス様当時、イエス様個人を中心に四方からサタンが陣を敷いたのですが、今日では国家的な理念をもってゆくこの選ばれた国家を中心に、怨讐たちがその周囲を取り囲んでいるのです。中共がそうであり、ソ連がそうです。ところがまた、中共が国連に加入しようとしているので、将来の韓国の運命はどうなるのでしょうか?

 ここにおいて我々は、死んではならないのです。ここで挫折しては駄目です。このすべてを跳ねのけ、イスラエルの国家を高め、天国理念を賞賛してゆく勇士の心を持たねばなりません。でなければ神はこの民族のまえにサタンを屈伏させる天的な子女を立てることができないのです。この怨讐を屈伏させることが我々の苦難です。現在、世界に加えられている怨讐の攻撃に負けることなく、むしろそのサタンを屈伏させなければなりません。サタン側のカインと、天の側のカインを、いっぺんに屈伏させるのです。

 これから統一教会の皆さんは、だんだん緊迫した生活環境がぶつかってくるのです。世界史的なすべての事が、一度は襲って通り過ぎるのです。しかしこれが億千万代を過ぎるのではありません。神を中心に霊肉合わせ、勝利の旗を掲げてゆく日には、我々が計画した通りになってゆくのです。言い換えれば、十字架の道を歩んで来たので福が訪れて来るのです。

 この国、この三千万民族が天の民として、天の宝華の全体を受けることのできる時が来るので、この時を望み見てゆく我々として、一つの峠をうまく越えようというのです。

 先生はこれまで天の道を歩んで来ました。アダム家庭の立場で歩み、ノア家庭の立場で歩み、あるいはアブラハム、イサク、ヤコブ家庭の立場で歩み、モ-セとイスラエル民族の立場で歩んで来たのです。たとえ体は歴史的な距離をおいているとしても、心の世界では彼らよりも先に立ってきたのです。

 先生はヤコブが二一年間、ハランで惨めな生活をして祝福の地カナンを慕った心情よりも、さらに懇切な心情を抱いて、モ-セがイスラエル民族を指導してきて抱いた心情よりも、さらに懇切な心情を抱いて指導してきたのです。

 先生は歴史上のどんな先祖たちにも、心霊的な基準においては負けない自信があり、彼らのまえに立って堂々と号令する自信があるのです。皆さんもこんな心情をもって、失った天地を捜し求めて出るとき、恐れることなくこれをすべて包括して、越えてゆくことができなければなりません。こんな基盤を握るなら、その次には福が来るのです。

 今、若い皆さんはどこへと行くのですか? こっちに行っても苦労の道、あっちに行っても苦労の道です。家にいて暮らせば、もっと苦労するのです。ある人は「統一教会のその道はぞっとするひどこであってどうして行く」というのです。しかしこれを克服しなければなりません。皆さんがもしも神を捨てて行くなら、何十倍、何百倍の苦痛を感じるようになるのです。この大邱にもそんな人が多いのです。どうせ行かなければならなこなら、楽に行けるでしょうか?

 皆さんが個人でこの道を行くなら、今よりさらに難しのです。今は中心があるので、その周囲で廻ればいいのですが、中心から遠ければ一廻りするにもそれだけ距離が遠くなるのです。


 心情の世界を中心に役事される神

 ですから神は心情の世界を中心に復帰摂理をされるのであり、統一教会においても皆さんに教えていることです。これをどのように個人が担うのか? 中心で蕩減すれば一廻りすることは簡単です。中心に近ければ廻るのもよく分からないのです。しかしその中心から遠ければその距離が遠くなるのです。何の話か、分かりますか? ですから神は復帰歴史をなして来られるとき、焦点を合わせるのです。個人的な焦点、家庭的な焦点、宗族、民族 国家、世界的な焦点を合わせるのです。これを一つの垂直線に立てるとき、自分がその中心と近い所に立てば立つほど、自分の人生の道はたやすくなるのです。

 皆さんは人生を苦行の道と考えています。このように「あ! あの家には自家用もあって息子・娘もみな素晴らしく、世の中に羨むものがなく暮らしているのに、うちはなぜこんなに苦労ばかりするのか」と羨むのです。しかし歴史は公平なのです。

 皆さんの目玉を見ればまるでボタンのようです。目玉といってもがっかりしないで下さい。見ることを知らなければ目ではなく、目玉です。

 神は何百年、何千年も摂理されてきたのです。このようにスケ-ルが大きいのです。ところが皆さんはわずか十年、二十年でも不平を言うのですか? 不平は言わないのです。神は公平なお方です。公平です。今楽に暮らしている人々は、昔先祖が楽に暮らせなかったからであり、今暮らせない人々は昔先祖たちが楽に暮らしたからです。皆さんは下がってゆく運勢に生まれたので生きにくいのです。そんなときは早く下がれば、福を早く受けるのです。

 これから統一教会員たちをどのように指導するのか? 天運を受けるために統一教会員を何十年でも、何百年でも苦労させるのです。どん底に送り込んで徹底的に苦労をさせるのです。何の話か、分かりますか? だから皆さんはうんざりしても、苦労しなければなりません。であれば下る運勢も上る運勢に変わるのです。蕩減はこのようにするのです。 歴史路程において神は新しい息子・娘、あるいは新しい宗教を立てて苦労をさせるのです。なぜ、そうなったのでしょうか? 歴史路程の下り坂の道において、正常的に上がろうとすれば、何千年、何万年間の犠牲がなければならないのです。これを短縮させるには世界が石ころ道を経なければならないのですが、その時ごとに神は世界を救うために代表者を送って、代身その道を歩ましめたのです。ですから歴史的にすべての偉人たちは混乱した時代を経てきたのです。これは下り坂の道を短縮させて上がる運勢をつくるための、神の作戦なのです。神はこんな作戦をするときにも、公平になされるのです。


 民族と後孫のために我々が行くべき道

 我々統一教会員たちをじっと見てみると、それでも星まわりの悪い人はいないのです。これはみな意味のあることなのです。ある何かがあったので、ここに入って来たのです。皆さんにも先祖の功績を話したでしょう? 先祖の功績により、時代的な恵沢圏内に入ったということです。これが何だか分かっているのです。

 今まで数百余の宗族の後孫を、指導した人がいたでしょうか? いなかったのです。イエス様もしませんでした。しかし統一教会の文先生はしたのです。数多くの民族がみな共に祭物になることはありませんが、各民族を代身して何百名は祭物にならなければなりません。

 世界的な闇の谷底のこの地獄に蓋をして、永遠に塞ぐのです。千万人に食口の資格と天的な価値を付与して、ひと塊にしなければなりません。これが出来ないでしょうか? これをやらない人は全部が盗人です。神とは関係のない人たちです。今日我々の民族はしゃれこうべの場のような所に来ているのです。我々は今ここに生命の油と生命水を与え、復活圏を造るために行っているのです。皆さん、これを感じるでしょうか?

 韓国がどうして歴史的な渦中に処しているのか? どうしてこのように悲惨なのか? 古い着物を脱ぐまでは新しい着物を着ることができません。脱ぐときは天の国で脱ぐのではありません。悪なる世の中で来た着物ですから、悪なる世の中で新しい物と着替えて、新しい天地に行軍しなければなりません。こうして民族的な道を築いて行くなら、この民族は世界に輝く時が来るのです。分かりますか?

 我々は黙って戦争しているのです。黙って未来の園を開拓している人間です。今日、我々がこの場を避けるならば、我々の先祖は嘆息するのであり、この三千万民族と我々の後孫は何十倍、何百倍も苦労するようになるのです。ところで我々はこの責任を負わないということを、口にもだせないのです。何の話か、分かりますか? だから皆さんは泣いても、絶対に一人では泣かないで下さい。

 イエス様はこの地上に来てたくさん涙を流したのです。家庭が慕わしくて涙を流し、民族が慕わしくて涙を流し、世界が慕わしくて涙を流したのです。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない(マタイ八:二〇)」と言われたイエス様でしたから、どれほど悲惨な身の上でしょうか? どうしてメシアの身の上がこのようになったのか? 神が四千年間苦労した基盤の上でイエス様が取ることができたものが何であったのでしょうか? 悲惨な生活をしてもこんなイエスの心情を訴え、失った天国を捜し求めるために訴え、み旨のために忠誠を尽くす食口がいたなら、皆さんはこのような食口をアベルとして侍らなければなりません。

 神は時代的十字架の道を開拓してゆくべき一つの選民を代身して来られたので、その選民から絶対に離れることはないのです。ですから選民たる我々は黙々とこの道を行かねばなりません。どんなに我々に慕わしい故郷があっても、この道を行くという不可避なる事情が横たわっているので行かねばならないのです。それではこの道を行くには何をすべきなのか? いまわしい惨めさを精算して、罪悪なる十字架の試練の路程を、永遠にこの民族的な舞台のまえから消してしまわなければならないのです。この民族的な惨めさを永遠に、この民族のまえから消してしまうのです。そうすることができる日のためには、我々が最後まで行ってこそなのです。

 世界的な闘いで勝利するには

 我々が世界的な立場に立って涙を流せば、世界が涙を流すのであり、喜ぶなら世界が喜ぶのです。また呪咀するなら世界も呪咀するようになるのです。ですから皆さんは信念を持って行かなければなりません。歴史的な責任を背負って神の公憤心に燃えるなら、何かを復帰できないでしょうか? こっちが滅ぶかそっちが滅ぶか、どっちか一度やってみるという心情でやるのです。

 それでは神はどんなときに家庭に賞をあげ、どんなときに宗族に賞をあげ、どんなときに民族に賞をあげるのでしょうか? その時は世界的な艱難の途上で勝利する時、即ち、国家的な勝利の基盤を神のものとして得てゆく時なのです。神はそんな国家を表して、数多くの国家が讃えるようにされ、その民族を表して数多くの民族が讃えるようにされ、その家庭を表して数多くの家庭が讃えるようにされ、その個人を表して三〇億人類が讃えるようにされるのです。これを願っておられるので、神は我々を必要とされるのです。

 重ねて言いますが、先生は祝福家庭を先に立てるのです。ところが祝福家庭が苦労しないで、天と地のために涙を流す生活をしなければ、役立たずです。涙なしに生きる人間はにせ者です。終わりの日には分かるのです。今日我々もやはり涙を流さねばなりません。だからといって食べる物のために泣くのではありません。任されたその責任を果たすために泣くのです。怨讐と対決している我々は、怨讐の基盤を占領するという特別命令を受けた責任者として、その責任のゆえに寝食を忘れて泣くのでなければなりません。こんな責任を負って、どうして真摯でなしにおられるでしょうか?

 我々は「勝利的主管者」となれという標語をもって出発した四年路程の中で、一年を何にもしないままに送ってしまったのです。今残る三年期間のうちに、何をしなければならないのか? この民族が受けなければならない試練の峠はすべて過ぎたので、我々は今から「大韓民国三千万民衆よ、平和の歌を歌おう! 世界の万民よ、我々の苦労を讃えよ!我々の十字架の道を讃えよ! あなたたちを代身して我々が行くので、今我々の悲惨なることを思ってあなたたちは胸を打ち、我々の悔しさを思って慟哭するのだ!」とすることができなければなりません。このようにして韓国の過去の辛さを、世界が感じなければなりません。どんなに過去の悔しさと憤りを話したとしても、これに対して今涙を流すことができる群れがこの時代にいなければ、悔い改めもできないのであり、発展もできないのです。

 ですから神は我々を惨めな所へ押しやって、惨めな歴史を綴らせるのです。韓国の歴史は、イスラエルの歴史よりもさらに惨めです。今日統一教会員たちはイスラエル民族が荒野で四〇年の間、流浪漂白したような悲惨な状況に処したとしても、決して背反してはならないのです。再びエジプトの地を慕う群れになっては絶対にいけません。過ぎた日に、わが家で食る物をたっぷり食べ、着る物をゆたかに着たことを思っては駄目です。そうであれば滅びるのです。

 これから大韓民国は我々に従って来なければなりません。であればこそ生きるのす。ここで誰が協助しようとしても、世話をかけてはなりません。「あなたが三千万民族が惨めな道を行くように押しやるのか?」とするとき、やると自信をもって言うことができなければなりません。そして「我々が行く道に従え。この道が神の愛を受ける道なのだ」として行かねばなりません。このようにして個人的に勝利するなら、いつかの時に個人的な福を受けるのであり、家庭的に勝利するようになれば、いつかの時に家庭的な福を受けるのです。

 個人を必要とするのは家庭を求めるためであり、家庭を必要とするのは宗族を求めるためであり、宗族を必要とするのは民族を求めるためであり、民族を必要とするのは国家を求めるためであり、国家を必要とするのは世界を求めるためなのです。ですから世界を求める前に、必ず国家的に勝利しなければなりません。一国にどんなに百戦百勝の将軍がいたとしても、その国家の運命を決定する最後の戦いにおいて負けたなら、敗者となってしまうのです。

 結局、ここでは信念が問題なのです。それ以外にないのです。信念がなければ世界的な闘いにおいて失敗してしまうのです。どんなに倒れる恨があっても、この民族と世界のために最善を尽くした後に倒れるとしなければなりません。ところがこんな人間が未だに、現れなかったのです。皆さんは世界的な舞台を求める、決意をしなければなりません。


 価値は目的観によって決定される

 神は手を広げて六千年もの間、呼んでおられるのです。「愛するわが息子・娘はどこへ行ったのか? 祝福を受けなければならない家庭はどこへ行き、宗族はどこへ行き、その国と主権者、あるいはこの世界はどこへ行ったのか?」と、一日ではなく六千年もの間、呼んでおられるのです。このように求めてさまよう悲惨極まる私たちのアボジなのです。アボジは消沈して涙を流し、嘆息しておられるのです。このようなアボジの姿を皆さが見やるなら、あれやこれやの居所や環境を忘れ、死んでも生きてもその声を聞きのがすまいと、見悶える懇切な心がなければなりません。それでこそ、行く道が明るくなるのです。 先生はこんな道を開拓するために今まで闘ってきたのです。しかし未だに行くべき道が残っているので、先生はここで落胆して、疲れるていることができないのです。韓国を基盤にして世界に向かって行くとき、皆さんが責任を果たさなくても、先生は責任を果たさなければならないのです。

 先生は万世に誇り、万世に祝福を受けることができる統一の群れが慕わしいのです。また万民が受けることのできる福を、この民族が受けることを待ち焦がれ、すべての主権者が受ける福を、この民族の主権者が受けるその一日を、待ち焦がれているのです。これが神の為とする孝子の行く道であり、神に侍る忠臣烈女が立てるべき道理なのです。このようなことを考え、我々は最後まで責任を果たすのです。こうして「我々にあるべき明日の喜びと賞を、万民のものとして下さい」とし、また「私が受けるものが、万民のものとして残るようにして下さい」としなければなりません。

 貴く福のあるものを万民に与えるために、神様は個人的な十字架、家庭的な十字架は勿論、今までの歴史的な十字架を幾度となく背負って来られたのです。これを知るがゆえに先生も、受ける福があっても万民にその福をあげなければ疲れて病むほどなのです。一日でも伝道しなければ生きられないのです。皆さんも民族のためとか、公的なことを考えで生きるのであって、自分を中心に生きたら駄目です。

 価値は目的観によって決定されるのです。我々は何ゆえに生まれ、何ゆえに生き、またなぜ死ぬのか? これはある夫の妻になるためでも、ある妻の夫のなるためでもありません。我々は一つの目的のために生まれたのです。妻であれ夫であれ、その目的は一つでなけばなりません。目的が同じならその価値も同じなのです。それゆえ夫と妻は同じ価値観によって結ばれた、理想相対でなければなりません。このような家庭と家庭が、民族の為国家の為に存在しなければなりません。

 皆さんは与えたいという神の伝統を受け継いだのです。そんな皆さんがいつ、個人的にこの三千万民衆のために与え、いつ三〇億人類のために与えるのですか? 神はこのような日が来ることを、どれほど苦待しておられるか分かりません。皆さんがいつ三千万民族のために与え、三〇億人類のために与えてみるのですか? 天地のために与え、神のために与えことがありますか? 与えようと切なく身悶えてはみても、与えずに受けてもみなかったのです。


 責任を負う者を捨てたまわない神様

 このように与えたく受けたい懇切な心をもって神に向かう忠孝の道理を築き、大きな場に立つ準備をするには、多くの時間と努力が必要なのです。それだけではなく、犠牲が伴うのです。このような努力と犠牲に比例して、神が与えようとされるすべてのものが後押しすることを、皆さんはよくよく知らねばなりません。

 今日ここに集う皆さんの中で、何年か後に残る人間がどれほどいるでしょうか? 今まで先生が歩んで来たこの道に、多くの人が従ってきたのですが、離れて行ったのです。しかしながら先生は継続して行きます。外的な試練も訪れ、人間的な試練も訪れ、個人的な欲望も訪れるのですが、先生はそれらに捕らわれて捕虜にはならないのです。ですから、それらはみな過ぎ去ってしまうものです。

 先生が大韓民国なら大韓民国のような、国家的な試練に占領されるでしょうか? そうではありません。神の所願に従い、神が残されたそのみ旨に従い、神が留まるその所に向かって、わが体と心は駆けて行くのです。皆さんの中にそうではない人がいるなら、歴史的な悲しみの場で神を慰労し、自分が死ぬまでにこの責任を果たすと身悶えて、心の道理を尽くす姿なりなければなりません。そのようなときに、神は呪咀される大韓民国、滅びるこの地であっても「おまえがいる地であるから、おまえが涙を流す所だから・・・」と祝福されることもあるのです。であれば民族が残り、人類が残るというのです。

 人心が天心に通じてこのような因縁を持ち、勝利的な基盤を築いて現れる個人があるなら、その個人は万民に敬い仰がれるのであり、このような家庭、民族、国家があるなら、世界すべての国家が敬い仰ぐのです。そうなれば世界的な中心の場を占めるので、その時こそ世界がそっくり入って来るのです。

 それでは我々が行く路程が何でしょうか? 我々は今、作業をしているのです。この仕事が天の側のアベルを編成することであることを考えますとき、これは途方もない事実です。これが広がる日には、この国が生きるのであり、この世界が生きるのです。この点を考えますとき、我々は何であれ得意になってやらなければなりません。

 こうして与えたい所望をもって訪ねて来られる神様を、皆さんが寂しく送り帰してしまわずに慰労してあげるのです。私のゆえに神様が安心なさらなければなりません。命令が十ならば、十五は行動して責任を果たすとすれば、五ぐらいは神が責任を負うのです。神はそんな人間と共におられることを、皆さんが知らねばなりません。今日我々統一教会がこの三千万民族がやらないことを代身して責任を負うなら、神は我々を放棄されないのです。背負うという責任に比例して天が同情されるとことを、先生はよく知っています。


 受ける福を万民に回してあげなければ

 神が与えたいとされる福を受けるときには、万民に回して与えなければなりません。しかし今からは受ける福を分けて与えないのです。道を築く前に福を分けてあげたら、道を築こうにも築くことができないからです。今、福を分けてあげられない理由を、皆さんはよくよく知らねばなりません。何の話か、分かりますか?

 イエス様も、神の福を分けてあげるために四千年の間、準備した土台の上に来られたのです。今日我々統一教会も、神の福を分けてあげるために四〇年間築いた土台の上で、現れたということを皆さんは知らねばなりません。この土台には六千年の歴史的なすべての背景が、心情的なすべての因縁が連結されているのです。今分けてあげる基盤が準備されたので、分けてあげるための代表者として登場しなければならない皆さんは、この歴史的な基盤を汚してはなりません。皆さんは分けてあげるための準備をするのです。準備するこの期間に、よく受けてよく回してあげる皆さんになってこそ、これからの時代において福を受けて分けてあげる場に立つのです。即ち、真の孝子孝女になるというのです。何の話か、分かりますか?

 心では所望の相続を願い、行動では与えなければなりません。皆さんは個人を通して家庭を、また家庭を通してある面なら面、地域なら地域のために与えなければなりません。自分の故郷と自分の父母のために与え、ここにおいて尊敬を受けるということが原則なのです。そうする人は手を挙げてみましょう。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.04.18 10:00:07
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