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2021.04.19
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​神の目的と我々の目的

1965年1月28日
東京教会


 祈祷

 天の父よ、あなたの御旨を、永遠なる御理想を立たせ、その御計画を成就せんがために、すべての万物を創造なさったことを我々は知っております。愛の世界を、また自由と平和の世界を神は理想の目的として、我々人類の始祖を造ったということを思う時に、結果の世界、悪の悲惨なる世界を造られたる現状を見る時に、何とお詫び申し上げるか、わからないのでございます。

 どうか、あなたにおきましては、この御理想をいつの日か勝利の的として、願い願い通して来たということを考える時に、我々先祖はその間あなたに対して背き、願いの一片も果たすことができない、惨めなる先祖を持ったことを、我々は心痛く思うのでございます。どうか、許し、愛の心を持って、憐れみの心情を引次ぎながら、我々の人類の後を辿って来たということは、これ神におきまして、あってはならない悲惨なことであります。これみんな、この末の世におきまして我々一人を迎えんがために、神はこれまでの御苦労をなさったということは、本当に申し訳ないことでございます。

 あなたの願いたる世界は、あなたの心情を分け、その心情を中心として、あなたは我々の父であり、我々はあなたの子女であるという栄光のその世界は、我々には今、見い出すことができません。それがために、あなたにおきましては、その理想を目的として、長き長き六千年の歴史を辿って来たということを、茨の道を辿って来たあなたに対して、本当に申し訳ございません。

 その心情を知り、その事情を知り、その希望を知って、その願いを知って、本当に一人の親族も迎えることのできなかったあなたでございます。一つの家庭に、あるいは一つの氏族におきまして、あるいは一つの民族におきまして、あるいは一つの国家におきまして、この地上全体の世界におきまして、あなたを迎え得る本当の民、あなたが願いたる真の人、真の家庭、真の民族、国家、世界がなかったというこの悲惨なることを、我々は心痛く、痛感しながら、今こそ我々、この地上に立って少なき者でありますけれども、小さき者でありますけれども、あなたが迎え得る、御理想に適ゐる、そういう一人として呼びかけて下さったあなたに対して心より感謝致します。

 この地上におきまして、あなたにおきましては、ほんの、あなたが住み得る一つの、一片の地もなかったのでございます。一つの住いもなかったのでございます。そなたの懐に抱いて、本当に心情を傾けて、永遠と永遠とあなたと共に心情の世界を、心情の生活を、成し得る者は、あなたである、あなたの家庭である、あなたの氏族である、あなたの民族である、あなたの国民であるという、そういう人類は今までなかったのでございます。本当に悲惨なる復帰路程を、あなた一人で抱えて、今までこの悲惨なる人類を何遍も審き、審いてそれを打たなきゃならない悲惨なる我々の人類を今まで引きずりながら、あるいは守りながら、勝利の一日を辿って来たあなたに対して、本当に感謝申し上げます。

 今日、こちらの所に参りました。あなたの許したるここに集まった食口たちは、あなたの心情を通して集い来た子女でございます。日本の一億国民の中から選ばれ、召したこの食口たちを、どうか永遠の愛の心情の懐に抱いて、この罪悪の世界を力強く勝利として、生涯の勝利を先に立たせることができますように、この時間、力を注いで下さい。天の愛を注いで下さいませ。天の心情につながして、そうして我一人立って、この地を、あなたの懐に復帰さすことができますよう、一層誓いするこの時間となるように御恵み下さらんことを心よりお祈り申し上げます。どうか、今後の時間を授かって、勝利の一時間ができるように御導いて下さらんことを、心からお祈り申し上げます。

 この日本の統一教会におきまして、会長を中心としたる八ヵ地区に、永遠なる神の御恵みが共に、そうして地方に分かれておる食口たちを永遠にお守り下さらん事を、真にお祈り申し上げます。全体の動きをあなたの御声に適うように御導いて下さらん事を、真の親の御名を通してお祈り申し上げます。(アーメン)。

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 今から二十一年前、二十一年前になりますね。二十一年前に使った言葉ですからね、なかなか出ないんですよ。あるいはどうしても聞きにくいところがあるかもしれませんが、宜しくお願いします。

 心から本当は皆さんをお待ちしていました。しかし飛行機に乗って来れば一時間半ぐらいで着くことができますが、いろいろな事情に縛られておる関係上、この期間というと、その距離というものは、五年、五年が過ぎるような、そういう遠い所であるということを飛行機の中で考えて来ました。日本に来られたら、何を申しましょうか。これを思う時に、まず先生が来られるということを皆さんは心一杯で、あるいは歓迎の面で迎えたと思います。しかし緊張したその態度をこの時間皆解いて、自由自在な平凡なその心の態勢をとりまして、今後の時間を過ごしていただければ、まあ、良いと思います。

 まあ、話の題目というと、こういう題目に対してちょっと話しましょう。「神の目的と我々の目的」こういう題目になると思いますが。我々が、この地上に生まれるその日から自分自身は知らないけれども、一つの目的を持って生まれて来たということは否定することはできません。我々自己自身がその目的があると同じように、あるいは民族なら民族、あるいは人類なら人類、すべてのもの、また目的を持って動くということは、これもまた否定することはできません。そういうふうに考えれば神御自身におきましても、すべての万物を創造する時に、その創造した物がそういう目的を持っておるならば、創造主たる天の父におきましても、その目的はあったということは、当然なのであります。そういう目的ということは、それは創造理想の目的であり、万物の最高の願いの目的であり、あるいは人間にとりましてはなくてはならない最上の目的に違いないということは申すまでもありません。だから個人にとりましては、個人を中心とした目的、家庭においては、家庭を中心としたる目的、民族、国家あるいは世界、全体の目的があるに違いないということは、我々は、はっきりわかりました。そうするというと、何かしら我々の心の深い所には願いのかのうった全体の目的を今まで個人においても、あるいは、歴史の聖人、あるいは賢者、預言者、すべての人がその心情の、心の、深く願ったその目的を探って来ましたけれども、まだ今までその目的を代わったということは、ことはこの歴史上には現われておりません。それがために、人間の世界には願いの環境には包まれておるけれども、目的の世界に立って生活をしておるという人は、一人もいない訳であります。そういうふうに言うと、神御自身におきましても、人間がそういう立場に立っておるから、人間を中心として摂理しておる神御自身におきましても、その目的のあるいは地、あるいは世界を果たして、成して、生活をあるいは、栄光の宝座におるということができない。だから神は人間に対して一つの目的を催促する。あるいは人間、善なる人間におきましても、自分の子女に向かっても、あるいはその時代に向かってもその善なる目的を探さなければならないという立場で教えて来たということは当然なのでありますが、神が願い、人間自身が、賢者達が願ったその目的は適っていないため、神もまた願いの目的を持たなければならない。人間自身におきましても願いの目的を持たなければならない。そういう立場に立っておる。

 だから願いの適ったその目的の個人と、目的の家庭とあるいは氏族あるいは民族、国家、世界を神は未だに待って、復帰、蕩減原理を通して復帰という悲惨なる歴史の路程を進ませて来ておるということを、我々は切々に、それを考えなければならないところです。そうするというと、このいかにしてもこの目的を達成しなければならない。いかなる犠牲を払ってもこの目的を成就しなければならない。その御旨は神御自身におきましても、あると同時に、我々個々人におきましても、同じ責任である。人間がそういう責任に立っておるというと、人間のために造られたる万物もそういう責任に立っておるということを思う時に、天と地と神と我々人間とすべてが合体して一つになって、この願いの目的の世界を果たし得るかということが、我々に当面したる重大な問題であります。

 すべての存在が存在するには因縁を持たなければならない。神は我々に対して御自身の父としての我々は真の子女としての、本来は持たなければならない創造の理想であります。神を中心としたる肉と血が、すなわち血統が一つになって出発できなかったために、我々自身におきましては、神と我々におきましては、血統的ないわゆる心情を中心とした血統的な一体を結びえることができなかったということは、これは堕落の根本であるということは皆さんが知っている。それがためにその目的を果たさんがために、我々は何かしら心の深い所には、自分が明かし得ることのできない。何の因縁におきまして自分の良心はある大なる目的の世界に向かって我々を刺激し、あるいは我々を、その追い出して行くということを感じることが往々にあるということは否定することができません。だから我々におきましては、真なる神と一体となるその因縁を堕落のために、目的を完成する第一の条件として、因縁がつながらなければ目的とは関係を結ぶことができない。真なる因縁、その因縁というのは個人自身の願いであり、すべての人類におきましても、同等なる願いである。特に統一教会の食口たちにおきましては、これもっともな願いである。目的を愛し、目的の世界を心より深く慕うというその立場に立って、考えてみる時に、その目的よりもまず我々自身おきまして、内心におきましても、肉身におきましても、本当の因縁に対して神と我はいかなるサタンの力が強かろうとも、これを打ち切ることができない。我信じる、我やっておる。神に対して向かうその一身のすべてをサタンはどういう、どういうふうにすることもできない。そういう因縁を不変なる、絶対的な因縁の位置に立っておるというならば、この目的の世界を造る時に神は不変なる因縁を基準として造ったのでありますから、その目的が残っており、その因縁が残っておるならば、いつかは真なる因縁を慕って、「道」の道をあるいは信仰の道を辿る者に対しては、いつかは天宙の大国に、襲われて、目的の因縁の所に立たなければ、それは自然の法則みたいに、いつかはその因縁と目的の地に立つということが事実であるから、歴史は自然と時世が過ぎるに追うて一つの世界に向かうということは、事実なのであります。だから、絶対なる目的を中心として、この天宙を造った神におきまして、始まった因縁ということも、絶対なる目的を支えるその因縁を正しておるからその因縁を慕う者に対しては、いつかその絶対的なる目的の道に立たせ得る。そういう基準があるから、それを歴史を通してつながせるために宗教というその団体といいましょうか、宗教という名前を出して、正して、今まで神は遠い所におきまして何かの因縁を中心として我々を導いて来たのであります。だから、その目的観念を充実せしめ、または完成せしめるには、第一に、聖なる神の御旨に立ちえるということが、これが重大な要件であります。

 それから子女あるいは親子、あるいは子供、この因縁を中心として生まれたる、ある親の子供として生まれたその人は、これは何が否定しても否定できない親子の因縁があるということは勿論であります。親子として生まれたならば、そこには兄弟があるに違いない。縦的には親子、横的には兄弟。この兄弟という、これは生活舞台、環境におきまして兄なら兄、弟なら弟、姉なら姉、妹なら妹、それには父母を中心としたる兄弟関係をもって一つの家庭を造っております。だから人間のもとにおきまして存在しえるものには、その人間だけ、それでなくまた関係という、横的関係ということがこれ必要なのであります。だから目的を適え得る所まで行くには、因縁をあるいは関係を結んで、その生活環境の上に立って、自分という個人におきましても、そればかりでなく、また願いという要件を、その目的を完成するには、願いをまた、要件に、二つの要件以外にそれを立たせなければならない。だから存在するすべてのものは目的観の世界におるんであって、その存在する自体は、そのうちには因縁と関係と願いをもって何かしら、動く、その状態におきまして、あるいは授受作用をするすべてのものにおきましてもその立場において、現われてはいないけれどもその内情におきまして内部におきましては、こういうような三つの要件を伴って目的のある方向に向かって進むということが、我々の生活において我々の生涯の道において、自然の現状として現われて来ることを我々は往々に体験することができます。だからこの目的の世界を、神は成就せんがために、不変なる因縁と不変なる関係と不変なる願い、そういう立場に立って我々人間を探して来たことを我々は忘れてはなりません。

 すべての存在がそういう立場に立っておると同時に人間におきましては、人間におきましてはある一個人に対して、対して問うならば、「あなたは何を一番願うか」というと、それには大体の人は親に似た親子、親子として心情の問題を誰もも願うということは事実なのであります。それから心情が、基準として、生活舞台におきましては事情ということが、ここにおいて、環境舞台におきまして関係を結ぶ、生活舞台におきまして事情ということが、我々人間におきましては、これまた日常生活におきまして体験する重大な問題であります。それからまた、その人に対してまた問うならば、「あなたは何を願うか」、第一に心情、第二に事情、第三に願いである、あるいは希望である。それをもっと対称的に言えば、人間の個性を分析すれば、独立性があり、それは融合性があり、あるいは統一性がある。自分一個を尊い所の位置に立たせようというと、その独立性、これはいずこから発したかというと、これは心情関係、もっと進んで言うというと、因縁の関係から、絶対なる神の理想を代表したその因縁に対して絶対なる相対の位置におる、自己ということを、十分知らないながら心に感じるその本性が、その属性が、いわゆる独立性、そして縦的なその独立性をもって横的においてはいわゆる融合する、ある完全なるものがおれば、善なるものがおれば善なるものに対して我慕う、あるいは応対する、ということ、そういう我々の属性があるということは否定することができません。だから完全なる因縁、完全なる関係、完全なる願い、神より始まったそのすべての要件を、完全に我々個人におきまして、心情においてあるいは事情においてあるいは願いにおきまして、あるいは希望におきまして、これを体験しえるならばそこにおきましては自然と絶対なる独立性、絶対なる融合性、絶対なる統一性ということが誰もが願うところなのであります。

 そうするというと、神の目的は一つ、その因縁は一つ、その関係も一つ、その願いも一つ、この基台におきまして、始めたる我々の人間の始祖が、不変なるその因縁を中心としたる、不変なる心情と不変なる事情と、不変なる願いを持っておったならば、それを基準として我々自身におきましては、その不変なる独立性、不変なる融合性、その統一性は、何一つ外部から妨げられず、自由の関係におきましても、いかなるところにおきましても、主張しえるところであったんですが、堕落のために我々の因縁も関係も願いも心情も事情も、あるいは希望も我々の主張する独立性も融合性も統一性も、皆不完全なる位置に堕ちたということになる。それで神は、神自身におきましては、神自身のおきまして絶対的の独立性、絶対的の融合、絶対的の統一性によって一つの目的をいつまでも達しえるその中心の存在は神である。それは申すまでもない。それだから、その心情におきましても事情におきましても願いにおきましてもその御自身におきましての、この要件すべては、万物すべてが、共に持つ得べく、ところでありまして、我々は、堕落の後孫になっておりますから、みんな失ってしまった。

 心情、事情、願い、我々のその生活の基台を環境あるいは社会を考えてみるとき、我々が今侍り得る、侍り得るその父母に対して、あるいはこの生活している兄弟に対して、あるいは社会、国家、あるいはこの世界に対してみても、今まで我々が結んでいるその事情とか心情とか願いというのは、これは本来の真なるそのものではない。汚れておる。これは一度ある終末におきまして、審かれなければならない、このものである。人間がそういう立場に立っておるのは、真なる因縁の関係を願い、こういう出発を持った人間ですから、いかに独立性を主張しても、融合性、統一性があったとしても、それはこのサタンの世界におきましてのその性質であって、神を中心としたる属性ではありません。それはもちろんながら、我々の先祖、あるいは預言者、賢人、義人たちがこの世に来て、「神はおる、人間は善の道を辿って善なる生涯を送らなければならない。そして善なる人類共同の平和の世界を造らなければならない」ということを主張したけれども、根本的の出発起源を正して、打ち明けて、その根源を、間違った所をそれ直すという、あるいはこれを再建する、そういう立場に立って考えた我々の善なる先祖は、ついて来る、あるいは辿って来る歴史のその過程におきまして、その中におきましての善を、その中におきまして、その現状より少しばかりのそういう善に向かい合えば、それで満足しえるようなその歴史の先祖でありました。

 神はそれを願っておりましたか。もっともっともっともっと、善なる根源の目的に適う、目的を支持しえる、その善なる因縁とか、関係とか、願いを神は歴史を通して今まで探し求め、そしてある時におきましては善なる神の因縁に立ち得るその人を迎えて、善なる関係に向かって、造って、そして善なる願いを通しての目的、目的の世界、目的観念を立たせようというその切々なる心を今まで抱いて来たんですが、我々の先祖たちはそれを全然知らなかった。いわゆる神が、一つの目的が、不変な基準を、その因縁によって、歴史過程において時が過ぎ、時世が過ぐるに従って、すべての人類社会を神は苦労と共に悲惨な道を辿りながら、それを浄化して来たという、その功労におきまして、あるところには神が守るところの因縁の深い所を辿る人もあれば、しかし人間は因縁だけは全部ではない。それにはまた因縁を中心として、生活舞台の関係の世界を結ぶには関係を造らなければならない。

 その善なる因縁の一点を辿ったその人を中心として、社会あるいは世界に対して善なる関係を結びえるその使命を持つ者が、あるいは歴史的の賢人、聖人たちであるにもかかわらず、大概の人は因縁の所に携わって、社会的に対して関係を結ぶことができず、そして、その現状の生活舞台におきまして善なる目的を達成しえる強烈なる願いを持つことができなくて、今までの宗教家は皆社会を逃避して山や、あるいは人間のいない所を辿って今まで生活をしたということは、そういう生活態度では、この全体的目的の中心である創造理想の目的をそういう生活振りでは、これを完成することはできないということは当然なのであります。だから因縁に立って生活関係をこれをぬいて、そして自分の行動によって願いを適えしめる、そうして目的観念を自分の生活事情に価値として立たして、不変なる勝利者として生きなければならないのが、今までの神が願う宗教家であり、神が地上に送られた賢人であるにもかかわらず、今までの我々の先祖はそういう、神が願うその基点において生活して行った人がいないということは、今まで神がいかに、いかなる悲しみ、いかなる苦労をしたということをその事態を中心としても考えることである。

 だから我々におきまして、今こういう世界の終末の先端に立って、我々は、罪悪の洪水に囲まれて流れておる世界の運勢を、自分一個人が、それを立ち塞いで、ここに主張しえる神が、一つの目的を中心としたる、聖なる人間を中心として造ったこの万物に対して、その人間を我々は探り出し、その因縁を中心として善なる関係を持って、いかなる悪が、それを打ちあっても破り得ないその願いでもって、目的をこの生活圏内に生活圏内に引き込むことができるようなそういう人を、今まで神は歴史を通して探し求めて来たということを、皆皆は、考えなければなりません。ここにおいて訴える先生におきましても、現世におきまして勝利者となる宗教家、堕落生活に対して闘って勝利を得ると共に、その願いの観念が、最高の目的をこの生活舞台に引き入れて、神がそこにおいて自分の独立性と融合性と統一性を神の身代わりの相対として、立たしえるその一個人というものを、未だに求めているということは言うまでもありません。

 だから我々にはこの現世、現世は一旦本当の因縁と本当の関係と本当の願う所に立っておらないということをはっきり心の中に分別して、真なる人間を我を中心として真なる関係を、神を中心とした真なる関係を自分を中心として結ばなければならない。真なる願いを我によって目的の方向を決めなければならない。こういう人間が、神は必要なのであります。その立場に立って、こういう不変なる立場に立てば、自然と体験しえるのは、神の願いは何であるか。神の中には願いがあるということを思えば、願いの中には神の最高の目的がいつも中心の力として我を刺激するということを体験しうる。そういう体験をする生活舞台に立って、関係を結ぼうとすれば、横的関係を結ぼうとすればそこにおいて真なる神の事情が何であるかということを体験する。その体験しえてみれば、そこにおいて露知らずの深い神の心情の因縁を辿りつつ、今までのキリスト教におきましては呆然たる地上天国、呆然たる霊的天国を教えて来ました。教えて来ましたけれど、神は今までのその教えを通して願うところが、霊的天国ではない。我々生活中の天国、その天国の中におきましても神の願いを今まで適えた立場に立って、自分の価値が神に相対の価値を得ると共に、神の願いに適った自体はもちろん、個体はもちろん、神の事情と心情を自分自身におきまして、体験しえるそういう人、これが、六千年長い歴史を通して神が今まで求めて来た本当の子女なんであります。

​ そういうふうに考えれば、我々におきましては、今現世におきまして、周囲を見れば、その周囲は、神が楽しむその周囲ではない。その世界は神が願っておる世界ではない。いずれ歴史は過ぎて行かなければならない。真の願いに反発する、正面的に衝突しえるこの世界である。この世界に神を招きえる生活の舞台を造ろうとすれば、外的におきましては、善なる天の力による勇気を持って、善を保護するがために闘わなければならない。いわゆる天に対しての勇士とならなければならない。そういう生活をしなければならないということになるのであります。​

 ここにおきまして、その反応が少ない、少なければ少ない程、外的苦痛とか、外的反発力、それは反比例するのであります。それがためにその中にあって生活する真の神を愛する人がいれば、その人がその生活を維持しえるには、維持して行くには、その外的の各条件を、これを活力にして、そして生活の内におきまして、神を招き得る立場に立つということはなかなか難しいことである。一層神を招き得る、その神に対しては永遠に、その侍ることができるというその立場を保つというのは、それは不可能に近い。だから神はある善なるそういう立場におきまして、外的悪条件に対抗して、闘っておるその善なる人がおれば、その生活圏内におきまして、生活圏内には、一時、神自身におきまして接することができるけれども、生涯圏内には立ち入ることできない。一日の生活圏内には、神が接することができるけれども、できますけれども、何十年の生涯圏内には接することができない。これが神の悩みであり、我々の信仰生活をしておる人々の悩みである。そういう環境を招くことができない。だから未だ悪の現状に、現世に住んでおる。我々統一教会の、我々にとりましても、こういう関係を超越して、…これをまた逃げ去って行ってはいけない。いかに我々の力を合わせて、この関係を、この版図を広げなくてはならない。我々の担う当面の責任である。その立場におきまして、一人として神を招き得る自由なる環境を持たないその自身におきまして、家庭をそういうふうに造っていないそういう者に対して、そういう立場にあって、あるいは自分の同族、あるいは氏族、部族、あるいは国民に対してそういう環境を造っていない。

 その真っ只中において、少ないその版図に立っておるその信者におきましては、願う希望が大きければ、大きければ大きい程、そこには二重三重の苦痛を体験しえる、体験しえる。​だから真に神に対して忠孝の道を正して、我々の後孫にそれを、遺言として、それを授けるには、まだまだそういう辛い戦いを経るという、残しておるという立場で、あるいは意見するやら、あるいは、子供を泣かして行かなければならない。そういう歴史を今まで反復してきた。それで神は、こういう現状の現世におけるそういう現状に立っておるその愛する子女たちを保護するために、神はそれを天から地上に向かって人間が闘ゐるすべての条件を責任持って、我々に対しましては、九十五パーセントの責任をもって、地上を幸福にして来た。そういう歴史を今までずうっと辿って来た。そうしてある環境を造って、そうして神を信じえるその数を殖やして、そこに立って神が、なされば、それに服従する従順するその群れの数を造って行こうという。それを中心の心情の部分から始めたのではない、外的部分から。​

 だから我々の復帰路程を考えれば、旧約時代におきましては、祭物、供え物を、供え物を捧げてそうして、外的条件を神の前に立たして、我々がそこに接するという約束の条件を基として、その長き四千年の歴史を過ごして、イエス様が来られては、この外的条件を後にして内的、内的には人間として、人間におきましては、万物には内的であるけれども、人間にとっては外的、外的条件をそれを求めて、そして内的条件を立たして、神に捧げようとしたのがイエス様の願いでありますけれども、その時代の第一イスラエル民族、あるいはユダヤ教が、真のイエス様の内的あるいは外的な、その捧げ得なければならない重大なその条件を、神に捧げえることができるように服従しなかったために、辛い十字架に血を流したという我々は知っております。

 外的条件をこれを神は開拓しながら、今まで闘って来た。だからこの今の世界におきましては、二大陣営におきまして、二つの主義を中心として、一つの目的の世界に今越えんとするその関門に立っておるというのは、遠からずその目的の世界が我々の地上に辿って来るというのを暗示するのであります。そういう関係が造られる、世界的に造られて、その目的の世界に遠からずして、越えて行くというこの現世を考えてみるときに、我知らず、神はこういう世界的な環境を造らんがために今まで、遠い辛い茨の道を辿って来たということは、我々は原理を通して良くわかるのであります。本当は、これは二千年の前にイエス様を通してその時代におきまして、ユダヤ教の信者とイスラエル民族が合体して一致してイエス様と内外共に、神に捧げえる立場に立って、そうしてその立場に立って外的サタンの世界に対していかなる苦痛があっても、いかなる悲惨なる立場に立っても、それを乗り越えるその心情のあるいは地上の願いが、神の本来の因縁と関係と願いを通したその立場にイエス様を中心として立ったならば、その時代からそのままイエスの理想の圏内に入らなければならない立場に立つ。​しかしその内的環境を守ってくれる真なる一人が、真なる一つの家庭が、一つの民族が、一つの部族が、一つの国民がなかったために、イエス様は内的問題を収拾するその責任を果たすべきでありましたけれども、外的責任をいわゆる第二の責任をまずこれを責任として闘って、そして勝利の基点を立てたのが、霊的救いであります。​

 そうするというと、今まで第二イスラエルの民族を中心としたキリスト教は、外的環境をそれを授け、そして内的環境を個人におきましてもあるいは家庭におきまして、あるいは民族におきましてあるいは一つの国におきまして、それを保護し、これを造らせたそういう基盤をもって、約束した再臨の主に主を迎えようとするその内的の真理の基盤があれば、神はその一事を中心として、世界的な勝利の天国、あるいは勝利の目的の世界をそこから始めようとするのが、今まで霊的摂理を通してきた目的なん(の)であります。しかし現世におきまして、数多くのクリスチャンがある。その十億近いクリスチャンにおきまして、真なる内外共の勝利の基盤を造って、神が絶対なる目的に向かうその願いをその関係、その因縁をもって本当に神の願いに立って、そして神の事情と心情とに適えるそういう生活をしている真のクリスチャンがおるかというと、いない。だからこの悪の世界に、対抗して立っておるこの世界に、神が求めている人がいないこの世界におきまして、本当の真なる神の子女として立ち得るならば、現世におきましては、宇宙的な十字架を前にして進まなければならないということになる。外的世界すべてが、心情に適ったその生活をするその個人あるいは家庭、あるいはある団体を迎えるならば問題ないのでありますけれども、迎えないで反発して背くという立場に立つというと、この世界は今一つの世界に近寄っている現世すべてが、我々に向かう最後のサタンにならざるをえない。

 日本におる食口たちはこれを、日本の一億の人民を愛する、あるいは日本の地を愛するというその心情以上の心を持って神の目的を愛し、神の願いを愛し、神の愛の要求するその関係を愛し、その因縁を愛する。真なる神が日本を任せえるその真なる個人は誰であるか。問題はそこなのであります。その家庭はどこにあるか。あるいはその団体はいずこにありや。こういう重大な要件を我々は前にして集まったのがこの統一教会である。

 ここに集まっておる我々はみんな青年である。心臓の鼓動は時間を間違えず動いておる。その恵沢において我々は考える。そして我々は活動する。我々は未来を持って動いておる。これは真なる願いであり真なる動きであり、真なる動脈の鼓動を聞きながら自分が存在しておるということを忘れてはなりません。一億の運命を担う日本におる食口たちは、こういう立場に立っておる。我々は何も臆するものがありません。愛すべきものがありません。何一つその立場においてこれ以上の価値あるものはあるという理由も何もありません。なぜならば因縁自体が、関係自体が、願い自体が、目的自体が、……。

 ここにおいて世界的な革命という命題が言われておる。世界的な革命。今までの歴史過程におきましては、宗教の改革はありました。政治の改革はありました。あるいはある地方を転換しえる革命はありました。しかしそれ自体がいくら革命をし、いくら変化をもたして、もたしたとしてもその圏内の変化であり、その圏内の革命である。その圏内を打破して圏内を越え得る革命はいずこにありや。世界的な変化をもたし、神自身が、自身が我々を地上に辿り得る、神直接立って、中心に立って、その革命とその変化を変革を指導しえるそういう世界的の動きは地上にありましたかと。今までありません。

​ 神があれば、一つの時と一つの時におきまして、一つの環境におきまして、いわゆる一つの地点におきまして、ある勝利の一人を立たしてこういう神の目的に適うその全体の心情を負うて、世界的な革命をしえる一人を探し求めた。これを知らなければなりません。こうやって話してる先生も我知らずそういう所を神は導いてきました。真理の世界は生死の境に立って、死ぬか生きるかというその立場におきまして、自分自身が何か方法を通して、その場、その場の立場を消滅して越えることができないこのすべての人類を目の前に見ながら、こういう環境は全人類を破壊しえる関係である。この世界を打開しながら、勝利の、死に対する勝利者は、地上に生まれる。地上にそういう勝利者が、出なければ神の目的する天国は、地上に生まれ得ない。そういう目的に対して出発するというのは、思えば簡単でありますけれども、真実にはそれは容易ならぬことであります。​

 ある時、先生は神に祈りました。「善なる神の目的、善なる神の人格、その目的に適うその人格の人格を人格に適って、神の心情、心情を中心として生活する場において、神の事情を中心として、万物を抱きえる真なる神の求める創造本然のその人は、いずこにありますか?」。「おりません」。「過去におりましたか?」。「おりません」。「現在におりますか?」。「おりません」。「未来に、未来におるべきでしょうか?」。「わしは知らない」。​神自身も知らない。責任分担の五パーセントを残しておる、この悲惨なる復帰の歴史は神自身ながらどういうふうに、いかなる力をもって、いかなる権力をもってもどうにもこうにもすることができない。​引っ掛かりに掛かっておる。その祈祷に対して、神がいかにその涙を流しても、どうすることもできない。この重大なるその基準を解決しえるのは、人がしなければならない。君たちはその堕落の原理におきまして、学んだ通りに、人間に責任がある。それは言うまでもなく、今までの人間は知らなかった、全部神は、全能なる神だ。その神に果たそうとすれば、果たし得ないことはないという、そういう心情を持った信者は多いけれども、神におきましてもどうもこうもすることができないところがあるということは悟れる人がない。それで神御自身におきまして、悲しみの境地に導いたその瞬間の体験というものは、表現にございません。その悲しみの境地、その悲惨なる境地、そういう境地を越えなければならない。そういう境地を越えなければ、その生死の国境と言いますか、この城壁を越えることができない。それで今まで先生は、まあ、生涯を猶予として、今まで戦って来たのはこの城壁を、個人的な城壁、家庭的な城壁、あるいは民族、国家、世界的城壁をいかにして打開するか、これを生涯の目的として今戦っておる最中なのであります。今私は、四十五を過ぎておりますけれども、心とその神に対しての愛する観念におきましては青年たちに負けたくない。どうか、日本におる青年たち、我々は真なる一、一つの基点を造りましょう。

 統一教会の君たちは数が少なければ少ない程、一億民、一億国民に対してのその比較に反比例した、反比例した苦痛の道を行くことになる。十字架はあなたたちの肩に負わさざるをえない、そういう状況になる、そういう立場になるんだから、今日皆様を迎えまして、会いまして、先生として皆様の御苦労を、いわゆる誉め讃え、そうして涙ながら「これでいい」と誉めたいんだけれども、まだまだ駄目である。これが先生として困ったところである。戦って君たちが、疲れている皆さんを前にして、また行かなければならない、我々としては世界的なそのサタンの城壁がある。これを覆すには、我々の血と我々の肉で覆えさなければならない。君たちに対して、「十字架を負え!」。「死の所へ行け!」。「前に塞がっておる城壁にぶち込め!」。神はそういう勇士を願っている。そういう兄弟を。そういう決意でもって打って打って変わらない。そこで残れ、死んじゃだめだ。もしその心情を授ける人がいなければ、あるいは磐石、あるいはこの地において遺言を残して我は行く、アベルの血が天に、……訴えて、我々の血が日本の地におきまして訴えるところが、一つのところあれば、ここにおいては、天から見れば瑞光が来たのである。………その光は天に向かった光でありますけれども、しかし光を見つめてみるならばそれは角度をこして、それは垂直に光ったその光が、あるいは四十度、あるいは三十度、あるいは十度、あるいは世界に………から下に向かって、神はその光を地上に落とそうとした。そういう立場に立っておる神であるということを、よく君たちは知らなければなりません。

 我々は行きましょう。我々はわからなければならない。六千年の敵である、我々の人類の敵であるこのサタンを、この力を込めたこの手でもって、首を締め、「おいサタン、死ね!」、そういう条件がない。我々の今まで闘ってきた過去の生活の神に対しての忠孝、自分たちが残してきた功績が、万物、あるいはすべてのものが、それを公認している。その公認の価値がいかなるサタンでも讒訴することができない立場に立って、戦うという一人がおれば、神は日本にそういう人が一人がおれば、日本を捨ててもその人を選ぶ。世界にそういう人が一人でもおれば、その一人を神は選ぶ。世界を捨ててもその一人が必要である。日本を通してアメリカまで、先生は………たいんですがね。この日本の地に足を踏み出す時、心から先生は祈っていた。「神の心情に適った真をもって、この先生を迎える人がおれば、その迎える心情を神は記憶して下さい」。しかしまだまだ行かなければならない十字架の道を残しておる。この残しておる十字架の渦中におきまして、我を本当に迎えて行くその食口たちを迎える心は、まだ足らないという。そして皆様に会った時に、何と言おうかと、………………。それは我々の行くべきこの広い世界におきまして、神が行かなければ、我々は一生行けない。神を世界まで、あるいはこの地上の神御自身から希望を持って、一つの目的の世界を造ろう。理想天国、地上天国を建設せんがために造った神の御理想に適う目的のために、慰め、我々は行くのには峠もありましょう。茨の道もありましょう。あるいは断崖もありましょう。あるいはその自体を、一個人を一つの砲弾としてたたき出す。砲弾は一度飛んで敵中に落ちれば破壊してその存在を二度と得られない。

 そういう神の将来が形成しえないというのは、我行った後に誰かこの心情を引き継いで、神の勝利のその………造って下さるような………を持って行くその人があれば、その人は人生生涯におきまして勝利者だということを、我々は考えなければなりません。我は、あるいは別れるその度毎に、君は神の目的に適う、神の目的のその真っ只中に立っておるか。その目的によって、自分の生活、自分自身を分解すればそこには神の願い、願いしかありません。神と結んだ関係しかありません。因縁しかありません。神の希望、神に対する最初の希望と神に対しての事情と心情しかありません。神を中心とした独立性と融合性と統一性しかありません。そういう人間になれば、この人は世界をリードするだろう。


 ここに立っておる先生は何を持っておるか。あんたたちに対して語る何も持っておらない。ただ持っておるというのは不足だ、不足だけ。深い心情に接すれば接する程、頭を上げて、神の役に立つことができない。今………なければならない神の御苦労に対して、何と言おうか、その身振りを、いかにそのわかるかということ、わからないという心情、それが尊い。そういう心情を持ってあなたたちは、神の力、神の御恩におきまして求められたる一人一人の兄弟たちは、これは神の目的のために生かしめられたる兄弟である。これは天宙の天運のすべての責任をつながって結ばれたる因縁である。関係である。希望の実体である。これを我々は目的以上にその価値を認め、それは尊いものであるということを考える人があれば、その人は神に近い人である。我個人のその、個人のその感情でもって、あるいは、「誰はどうである、どうである。誰とは和合することができない何ものがある。あの兄弟の性質はこうである。だから、我とは何関係することができない」。そういうことを言うよりも、今まで一億の中に、小数のこの群れが、ともかくその中の一人として神を知った。いかに不足であるけれども、神を父とする同じ原理の言葉を真理として信ずるこの場所に、一つの一挙手一投足を共に行動する、そのこと自体が尊いんだと。その因縁が尊い、その関係が尊い、その願いの心が尊いんだと。あるいはその人に対してどうにもこうにも許すことができないということになれば、もしもそういう一個人の関係が、一人一人の関係におきましては、そういうその欠点があり、そういうその不足なところがあるとしても、その人が自分よりも大なる天の願いに対して涙を流せば、これは許さなければならない。一個人の罪に対してはそれがあるけれども、他の兄弟に対して自分より以上の心情を持っておるというそういうことを見い出せば、条件なしに許さなければなりません。そういう生活態度が必要である。 
 だから、我々の因縁が尊いのである。我々の関係が尊いのである。我々の願いが、尊いのであります。それ自体が尊いところだ。その因縁は個人よりも家庭に対しての思い、家庭よりもその氏族、あるいは民族あるいは、範囲が広ければ広い程その価値は比例する。だから大なる希望、大なる関係、大なる目的観をもって、生活の態度を取って行くならば、その人に対しては我々は無条件に仕えて行く。そういう人達は、いかなるその審きの期間、いかなる罪悪の世界、いかなる審きの天の………が来ても………。神自体がそういう生活をしておる。………なぜならば我々自身が罪の根である。しかし我々を呼んで、我々を召して立たした以上には、その罪よりも、より大きい目的観念を持って闘って行く。だから神は許してくれる。

 そういう神の今までの摂理路程におきましての、神御自身におきましての、生活態度、摂理をその導く態度であったということは、日本におられる食口たちが、知っておれば、今後先生が、まあ、ここ、まあ、いつの日かとまるかもしれませんが、日本を通って行った後におきまして私が願うのは、君たちが一体となること、一体となる。尊い因縁によって我々はこの日本の地に生まれた。私たちの神の、我々先祖の認めた善なる血統を通して、我々は天の血統を通して、そうしてこの我知らず神がおる位置におきまして天の目的を希望を念願としながら、我々をこの地上に生まれさせておった、そういうその目的も我々個人の信ずるところに、同行するところに我々今その信用、信用するところに神の願いが果たされておるということを考えれば、口を開けて、………………。もっともっと大きい因縁、関係そうして願いの過程におきまして、目的観に接する人々が尊く歩きながら君たちが、日本の地の開拓の先頭に立って、気落ちをしない。あるいは疲れを知らない。困難を困難と思わない。世界を救うそういう歴史的な天宙的なその革命の一員として立った者に対して、こういう十字架は問題じゃない。こういう辛さはあるべきである。それは真理の道である。またそれは信じられなければ、自分が行かなければならない運命の道である。そういう考えを持って行くなら、今後の日本の発展は、飛躍的な発展をすると思っております。

 だから結論として言いましょう。目的を前に世界の果て先を越えて行く天宙復帰の勇士として、この天宙を復帰して、これを神の心情の前に捧げた時、神本来の天地を創造する時のその心情に適ゐるそれ以上の価値の者として神がここまでやって来ながら、愛する子女を、愛する中心を、すべての天宙、万物の前に立たして、神が讃美しえるその一人を待っているということ。待っておるというそこには何を条件にして待っておるか。目的を持って待っている。その目的は、神自体が、神一人、自分たちでは解決はできない。我々がなければならない。だから今までその神は我々の父である。

 君たちは天宙復帰だ。本当に考えてみたことありますか。天宙復帰、天、いかなる天、地、いかなる地、復帰、いかなる復帰、我々の、今我々のその意識におきまして、感じえるその復帰観念、それだけではありません。大宇宙を中心として地球が、神がある因縁をもってこういう行程を回らなければならない。一度命令をすれば、無限の行程運動をしなければならない。絶対的な神だ。あるいはこの大宇宙は、あるいは全宇宙とか、この無限なる大宇宙を皆様のその心の中から考えてみなさい。一秒間に三十万キロメートルの早さによって進む光が、一年かかると、その距離をもって天文学では一光年という。そういう一光年というその早い光が、その光があるいは八十、六十億以上の年月をかけてもまだまだ、その光が地上に届かない。その無限なる宇宙においては、その宇宙はメチャクチャに動いているのではない。すべてが因縁のもとで無限なる関係をもって、ある大なる希望の中に一つの目的の世界を自体が造っておる。それを今も永遠に、今も勿論である。過去においても、未来勿論この大宇宙を動かす神自体を考える時、日本におきましては天皇様のお子様よりあるいは米国の大統領の子供より、子女より、考えたことがある。本当に本当に本当に、その父は我々に対して父なのかと考えたことがあるか。

 神の心情というのは、神の心情、宇宙の根本問題をもって叫ぶ時に、「おお、誰それよ。我はここにある、真の親である。真の親である、真の親である」。抱かれるその本当のところが現れて来るならば、それ以上の栄光、それ以上の人間として願うところはないと考えたことありますか。君たち。父を我々は父と言い、我々は愛している。先生におきましては、あるいは牢屋引き込まれておった。あるいは食いたい時もあったでしょう。寒い時もあったでしょう。今までずうっとこの道を辿って来ながら、そういう牢屋の生活を、この世以上の生活をしてる。そのような生活をしながら、その中において考えたのは、いかなる外的苦悩、悪条件が、自分を囲んでも、その心情に高くなれば高くなる程、この心情は膚が迫って来る。しかし高さは高くない。君たちに対して長い説教をする時がある、ある時には、打たれて血を吐くという、その血をはき取って、この血は神に対して背く血になってはならない。その血を流しても主を讃美しえる者である。そういうところもありますけれどね。しかしそういう立場に立つというと神は無いと思えれば、もう既に有ると思った。神は無情であると考える前に、有情の神である。無力なる神であるという考える前に、もう一人、遊楽の立場に立って自分をある限界の高い所に引き寄っているということを体験するというのは、この宇宙を動かしている神に対しての深い感謝の念によって始まっている。そういう生活が必要である。宇宙復帰、もとやりまして、宇宙復帰、宇宙復帰するには、それに相対する十字架がなければならない。

 ここにおる、きれいな娘たちに対して、バットの鞭でもって一発すれば、………。そういう者がおるかも知れない。(笑い)。しかしいかにその弱い娘でありましても、その決意に固まった骨は強い。復帰を携える、そして、相い合う、信念でもって征服せよ。真の祈りは考えなければならない。愛しなければならない。神はあっても、それによって生きなければならない。………そして急げ! 勇気を持て!………ことがあるならば、サタンが祝福をする。………君たちそういうことを考えたことがありますか? ​我々の統一教会の青年としては、先生の願いがそうであるから、君たちもそういう願いを持って日本の地を北海道から九州まで、あるいは日本におきましては、華太を失った。そういうことを考えているもしも統一教会の人たちがあれば、「うーん」その一人として共産主義の本場であるクレムリンの窮状をいかに処理するか考えたことありますか?「我が統一教会は何造って行けるか」。考えないことは、関係を持つことはできない。考えなければならない。関係を結んで直接にそれに立ち代わって、その価値を認めない人によっては成就するということができない。完成することができない。完成というのは考え、そして、それを愛し、それに直接ぶつかって自分と離すことができない。自分のものである、そういう関係を結ばなければならない。​

 同じように、我々の天宙復帰、完成天宙復帰、完成天宙復帰成就という、君たちの脳裏にいつも何を考えておるか。「天宙復帰」、寝ていても寝言(ねごと)いっているか、「天宙復帰」。(笑い)。そういう信仰態度が必要だ。普通の人が「あれは変わっておる、頭が回っている」。(笑い)。本当に回っている、普通の人が左に回っておるのに右に回っておる。だから考えなければいけない。そして、直接問題として自分と関係を持たなければいけない。そこにおいて真の関係が結ばれる。そこにおいて真の因縁が生現し、そこにおいて真の願いは………生活の価値として現われて来る。そこにおいて目的観念は我々の心の中に、すなわち……。 やめましょうか。やめましょうかね。(「もっと」)。本当は、先生は日本に来られてね、口を閉ざしちゃった。先生が口を開ければ、これはもう荒いんですよ。なぜ荒いか。行く道が険しい。そして、負う荷物は重い、力は弱い。それを愛でもって尻を叩きながらはできない。そういう者に対して、「こら!」自分の父は今、目の前で困っている。一歩前を進まなければすぐ死ぬ、そうしなければ殺してしまう。そうすれば自分も知らずに立派な顔をして飛んで行く。烈情のまあ烈しい戦いのその場面におきましては、その総司令官になったような、あるいはその全責任を負っておるその命令者というのは、その普通の立場では打開することができない。だから神もイエス様もですね、弟子たちも、「はあ、その再臨の日はいつ頃でありますか」と、そう遠回しして聞いている。それを言う立場はそれは控えるべきである。何か自分の責任も果たせずして、何よ。だから、聖書を読んでみればこれ上ったり下がったり、あるいは暗くなったりあるいは明るくなったり、そうなってるんですよ。だから先生もですね。話せばあまり話すことは、あまり話ばかり今………自然と原理の結果として、それでもいいですか? 十時二十分前。

 天宙復帰、問題じゃない。(「はい」)。そうすれば、天宙復帰の前にかかってくる十字架が問題ではない。それをいつも考えてそれ関係を持ってその持った関係を、希望の糧としてそうして糧として、そうしてその中に深い意味をもって、光の量、例えば神が、呼びに来る。横道に行こうとすれば神が守ってくれる。僕たちの立場に立てば、神は力を授けてくれる。まあ、そういう生活をしておれば、何も心配ない。我々はそういう生活を、究極の道を辿って行くものである。そういう人にとりましては、知識が問題ではない。金が問題じゃない。一つの国家の主権が問題じゃない。我この国内に住む日本のこの国土におる一億国民しか知らないそういう人が、人は問題じゃない。それに地球、地球星、地球星知ってるでしょう。地球の星、これを引っ張るのはちょっとむずかしい。(笑い)。それで合図する、太陽系に対して合図するような気持ちでもって天宙復帰の前を辿って来る十字架を悠々として、未来に造るというような、そういう勇気が必要だ。わかりますか?(「はい」)。皆さん、そういう心の中に覚悟しておりますか?(「はい」)。はい、答えは簡単です。しかし内容は複雑、複雑です。それを君たちは覚えて下さい。天宙復帰、それを完成すれば個人の目的も家庭の目的も、そして民族の目的も国家の目的も、世界の目的も果たす。そうすれば、神の目的も果たせる。そうすれば、我々の先祖の願いもみんな果たしえる、現世の人類のすべての希望とか、何やら何やら、すべての要件がある。まあ、それはそういう世界になればそれが地上天国だ。そういう結論になる。 しかしここには深い淵がある。わたっている。我、日本とか中国とか考える時、そこには日本海がある。それが淵になっておる。日本とアメリカとでは太平洋が淵になっている。それから言語が淵になっている。親族が淵になっている。生活の環境とか歴史の文化の背景とかみんな我々の歴史に関わっている。だからこれをいかにして処理するかという問題は大きな問題である。天国、天国はどういう天国か、心情の世界であり因縁の世界である。希望の世界である。死んで神と共に生きえる永遠に生きえる心情の世界であり、事情の世界であり、希望の世界である。そして自分を中心として独立性を永遠にとらえる世界である。いかなる所に行っても融合しえる、主体となりえる世界である。そして統一性をいつも懐に抱いて生活をしている世界である。

 それを考えれば、外的すべての要件の淵をいかにして処理するか、これが問題である。だからそういうこと考えてるから日本に来て先生が、こちらの言葉使ってるよ。(笑い)。本当は何ですね。国家的代表者が日本に来られたら、通訳を通して韓国長官やら、ここにおいては大臣やら韓国に来られたら、その国を代表したそういう人間であるから、その国家の威信を立たせねばならないという時には、自分の国の言葉を使う。まあ、それを無視する。だからそういう限界、そういう淵を防ぐにおきましては、これが………できない。我々の血と我々の手と我々の足と体とここに収まっている血と涙と何と言ったら、汗でもって埋め込まなければならない。だから君たちは太平洋を責任を持つか。あるいは日本海を責任持つか。あるいは大西洋を責任持つか。あるいは何々を責任持つか。太平洋を責任持つか。あるいは日本の文化をあるいは日本の歴史を、現世の状態をいずれにいかなることにはびこっておるこのすべての限界とか淵をどの程度の限界におきまして、責任持つかという問題である。そういうふうに見るというと、今まで………。(笑い)。ここだけおればいけないということなんですね。まあ、だから「アメリカに行きたい」。行きたければ行かれる道はいくらでもあるよ。「ああ、南米に行きたい」。行こうとすればいくらでも行く道はある。(笑い)。我々の決心と天宙復帰の勇士として行こうとすれば、いくらでもある。

 昔の話だ。申し訳ありません、ここに西川という男がおります。今から八年前に八年前にのろのろと先生の所にやって来た。「君の出産地はどこであるか」。「本当はここであったんだけど、本当は日本の地に親しみを持っております」と。そして「日本を愛する、いかに愛するか。神の息子として、堂々と愛すべき立場に立ち得るか?」。「はい、日本に対しては、私が責任を持ちます」。西川の責任をいただいたんだ。​そこで韓国におきましては最高の迫害の道でやっていた。先生の一生におきましては、三国の試練を通過しなければならない。三主権を通過して行かなければならない。それから数多くの教派に迫害を受けなければならない。百二十万以上の信者においてそれは、異端者の最高者を何と言いますか?(「頭、親分」)。(笑い)。そういう役目が統一教会のここに立っておる先生ですよ。しかしその時、内外共の迫害が迫って来る時、先生は今後何年後の世界を考える時に、ここにおいて勇気を出して必要なるその判断をしながら、それで西川という者を呼び出して、「君」、「はい」、「日本に伝道に行くという、宣教師として行くという、そういう決心があるか?」。韓国に行けばね、ゴオビという所がある。そこへ、その時、全韓国において迫害が迫り迫って、だから僕はその時、村に行っておったんですね。その時辿って来てそう言う。そうすれば「行け!」。行くには、条件無しで。韓国のその代表でもって何か、その統一手続とかそういうのは必要ない。心行ければ、百の心が行き、千の心が行き、万の心が先立って行ければ、生きる。これが摂理だ。そういう覚悟でもって、行け! 行ける道はいくらでもある。もしも日本の方から行けなければ、あるいは香港の方からそれ入ることできる。それができなければ、他の国からまた入る。回り回って入国としては、また逆に入る。

 ここにおる米国の宣教師、金先生もおるんですがね、そのうち外国伝道ということを天にとって、まあそういうふうに見れば、まあ、現状におきましては先生の心情がどうであるか。イエス様はどうであるか、また、同じなんだ。そういう状態において今まで何年後の摂理の路程を完成するには、行かなければならない。考える時、日本に行かれれば、日本の青年たちは本当に先生が要求しえるその要求に適ゐる青年たちがおるか。考えてみなさい。おりますか。おりますか!(「はい」)。はい。おりますか!(「はい」)。はいですか!(「はい」)。ノーですか。(「はい」)。否ですか。(笑い)。今後の先生の計画としては、世界を我々の所に………。それは一個人の先生の路程じゃない。それは神御自身の嵩高なる道である。我々の善なる先祖の寄せ来る辛い立場に立って神に………かった願いだ。叫んだ願いだ。現世の善なる人類はみんなが道を裂いて願う願い。そうなれば、そうであればここには犠牲者を出さなければならないという結論になる。何でもって、あらゆるその淵を埋めるために、誰か逆立ちして、乗り越えなければならない。

 だから日本のその文化の水準というのは、韓国で言うまあ、今日その羽田からずっと入って来ると、今まで二十一年前のその状況を見ると、そのずっと道路もすうっと眺めて来た時、随分増えているということを感じたですね。まあ、この文化はどこへ行くか。日本国民の今の精神状態は、どこに止どまっておるか。この表面に光る日本海の光が、外的その美を飾りつけておる。その内的におきましては、いかなることが起こって来るでしょう。それに文明に比例した悲惨なる罪悪がそこに潜んでいる。だから文明国民になればなる程、責任が大きい。だから君たちの勇気を出して。まあ、アジアの盟主として、日本は今までのその立場を考えておるかも知れないんだけれど、信仰におきましても、その天宙復帰のその理想におきましても、そういう心を持っておるのを先生を讃美する。

 「ああ、僕は韓国に、何」、そういう観念は無い。先生は、世界的、歴史的だ。日本の着物ぐら
いは着ることができるよ。着物が来れば両手でもって、両手でもって………できる。しかし日本の儀式という、その全体の儀式は私は良くわかりませんが、もしも君たちがね、食口なんかが、夕食でもくれれば、何の挨拶もせずに隅から隅まで、両手でもって頭をこうしてチャッチャッとして食べている。「先生は、こういう先生であるとは考えませんでした」。(笑い)。栄光に立っておる神は誰も崇むことはできない。地獄に行っているクリスチャンは誰にも………ません。何のことかわかりますか。私は高い所は願っていない。高い所よりも低い所に多くの人類が住んでいる。だから先生は平民主義である。また個人主義じゃない。上流主義じゃない。中間の万民主義である。わかりますか?(「はい」)。だからあまり緊張しなくてもよろしい。(笑い)。

 天宙復帰のこの問題を解決するには、数多くの淵が我々の周囲に広がっている。これをいかにして埋めるか。先生は寝ても起きてもこればかり心配している。それを思う時、我には韓国にもない、日本にもない、アメリカにもない、地上の何ものもない。崇める何もない。ただこれを成し得る。これだけが尊いんだということを考えている。だからそういう意味では、ようこそ統一教会に入って来ましたね。(笑い)。頭を振らなければならないのに、また何か、大先生、という方が来られては、「まだまだ苦労、十字架、ああ、辛い、辛い」。(笑い)。しかしどうせ行かなければならない。君たちが行かなければ先生が行く。君たちの時代にこれを責任持たなければ、先生の子孫におきましてもやらなければならない。だから先生がもしもこういう願いを果たし得ずしてこの地上を発つという立場に立ったら、どういう遺言を残して行くか。大きな十字架の十字架上におきまして、イエス様は最初に吐き出したその言葉は「この辛き杯をできるならば取り去り給え。しかし我の願う通りにせずして、神の声の通りにさせ給え」。そういう心情、その心情の留まる所は十字架の道、十字架の道。だから自分は………統一教会の食口たちをして、こういうことを言いたくない。私はどっちかと言えば苦労を避けたい。口を開ければこの世界は神の願う世界じゃないから、その苦労ということは生涯の最後まで残るのである。

 日本には日本内に打開しなければならない多くの十字架があるでしょう。それは経済の問題ではない、政治の問題でもない。それは問題ではない。神霊と、日本と目的の世界は、隔たっている。この一億を率いてこの地上に走る機関車になるその人が必要である。普通の車両に乗っている人達は眠っても、その機関手たちは眠ることはできない。普通の人のように座って外景を観賞することはできない。軌道を研究して、軌道を注視しなければならない。夜でも昼でも注視しながら目的地に向かって時間を合わせて進む。それは君たちの目的である。その一億の日本と天国、我々の理想、目的の世界、そこにあるその淵を他の民族の力を借りずして、自分たちの、君たちの力でもってこれを埋めてくれることを切に念願しております。そうすれば先生の今日の話はこれを成し得れば、これ以上話すことはありません。これで終わりにしましょう。
 祈りましょう

 祈祷

 天の父よ、弱き表情を神に捧げて、限りなき叫びでもって、天はいるか、神はいるか。その時の、自体が思いこがれるのでございます。

 神は一人を通して、全体を勝利の道に導き得るという、その決意でもって我々を選んだことを感謝しております。どうか、神御自身が願っておった心情の世界、居ても居ても、居なければならないその世界、そこに生活しても永遠に続きえるその世界。そして神は真の父であり、御旨に我はなくてはならない真の子女である。愛なる神よ、手を握り、袖に頬をつけながら生きておった我が父よ、歴史的な悲哀なる道を歩んで来た父に対して、何も言いようがないその立場に立っておる神を、仰ぎ見るその自体が我々は欲しいのであります。

 神の額には(汗の)しずくが、神の手には敵の弓矢の跡があり、茨の跡がある。苦痛の道をまた行かなければならない事情が潜んでおるというような神を、我は迎えなければなりません。永遠の栄光を唱えながら、万物を命令するその神は、我々には必要でありません。愛と幸福を我々に授け得るその神は、我には必要ではありません。その神を必要とする前に、十字架上におきまして血を流しながら涙を流すその神が我々に必要であります。惨めなるこの現世におきまして、贖うことのできないその罪人を抱き、そして涙を流すその親が必要であります。その親を真に迎えなければ、栄光の親は栄光の父は迎えることができません。

 これは、神の今まで蕩減復帰原理という惨めな名詞を立たして行く復帰路程であるということを我々はわかりました。アダムの家庭におきましては、アベルの行く道が神の道であり、ノアにおきましては、惨めな百二十年間苦労しながら、周囲の迫害、周囲の評判、いろいろな不自然な立場に立ったノアが、心に決心したその決意を百二十年まで引き続けて行った、その心の底には神がおった立場であるということを、我々は覚えなければなりません。アブラハムの祭壇の上におきまして、神はまたそこにおり、モーセのその荒野のミデヤンの荒野におきまして、神はおったという。クリストのゲッセマネの、あるいはゴルゴダへの路程におきまして、神はおった。神は、歴史上にはいつも、一時(として)栄光の神として現われたことがない、我々はこれを知らなきゃならない。現われる神は惨めな神である。十字架上をまた越えて行かなければならない。行くべき人生の最高の目的の世界を開拓しなければならない、世界的な十字架を負うた開拓者であるということを考えた時に、最高の十字架におきまして両腕を持って抱く、その神に報いることのできますように、どうか日本におる食口たちを導いて下さい。

 いかなる苦労がありましても、行かなければならない我々の最上の目的地である神の創造の世界、地上天国に我々は向かって行かなければならない。自分の旦那さんが反対しても、あるいは父母が反対しても、兄弟がその反対しても、国家が、すべての世界の人類が反対しても、死を対峙して行かなければならない復帰の路程の中に、我々は立っております。ここには血がなければなりません。涙がなければなりません。あるいは汗を流しながら、死を自分の生涯の目的として、「死のうとする者は生き、生きんとする者は死す」ということは、あなたから授かった貴重な言葉だということを我々は知っています。敵は自分の家庭にあるという、近い所にあるという。

 だから、蕩減復帰(の道で)は、十字架の道を辿って行きます。苦労の道を辿って行きます。現世を離れて、我々が持っているその事情とか心情とか、あるいは希望とか、すべてのものを後にしなければならない。そして、真っ裸に裸足になって空になって、そして目には涙を流し、額には汗を流し、心情には、神につながる血を絞るような痛む心を持って神に向かわなければ、神自身も問題にすることができない、歴史的な苦労の道を歩んだ神である。その神は我々の親であるということを、どうか日本の食口たちの心の中に深く感ずるように、この時間、力を授けて下さい。握る手を熱くして、信仰の上に信仰を注ぎ、力の上に力を注ぎ、そして希望に希望を注いで、この地上に先立って、神が信じ得る男、女になるように力をつけて下さい。そして、この日本を負うて太平洋を越え、あるいは南方、アジアを越えて、全人類に先立って、叫ぶことができますように。そういう人達がここに集っておる人達から、出ることができますように、切にお願い致します。

 我々は一つの家庭に住まなければなりません。我々は一つの言葉と一つの心情を分け合いながら、神に侍り、そして栄光を讃えながら行かなければなりません。そうするには、十字架、世界的なゴルゴダを越えなければなりません。それを考える時、今、出発しておるこの路程は、もっともっと大きな責任と使命があって、神はここまで遅らせて来ました。まだ行かなければならない路程先を、行く先を残しております。どうか、この旅行を通してすべての心情を結び得る、夢に会う先生に直接会って、膝を附いて頭を下げて、涙をこぼしえるこの時間を授けて下さったことを本当に感謝します。

 日本には、こういう集まりは、この人たちしかないと思う時に、神よ、覚えて下さい。そして、最後に勝利を得るように力をつけて下さい。そうして、神の前にいつも勝利の勇士として立ち得ることができますように守って下さい。幾日間ここにとまる時、すべてを打ち明けて、神が喜ぶ時間を過ごすことができますように御守って下さらんことを切にお願い申し上げます。若き心の中から神を誉め讃える讃美の声が、この地から日本全国に広がることができますように。

 神は真に我々を立たてて下さるために、涙でもって辿って来ました。血と汗でもって辿って来ました。無条件に我々は受けましたから、無条件の涙、無条件の血と汗とを惜しまないで、前進、前進、神の目的地に先を争って走ることができますような食口たちにならしめて下さい。神にすべてを捧げますから守って下さい。神の平和と神の希望と神の喜びと、我々の努力のもとに、あらゆる動きとして、それを受け入れて下さいますように。我々は、忍び忍んで行かなければなりません。神は我々を守ってくれなくてもいい。そして、そこにおいて、神を讃美しえることが、凱旋の再建の歌を歌うことができますように、我々を御導き守って下さることを切に祈りながら、今日のすべてのことを感謝しながら、真の親の御名を通して祈ります。  (アーメン)。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.04.19 22:23:31
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