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2021.04.20
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「救援の目的」

ヨハネの福音書 三章:一六節-一七節
一九六五年十月一七日(日)前本部教会


 今日皆さんにする話の題目は「救援の目的」です。「救援の目的」という題目でお話します。


 一生を懸けて解決すべき重大なる問題

 我々が暮らしているこの世の中は、善の世の中ではないことを良く知っているのです。こんな世の中で暮らしている我々の個体を見ても、我々の個体内に争いの要因を持っているということを否定できる道理がないのです。即ち、我々の体と心が闘っているのです。環境的に見るとき、罪悪なる世の中であることを否定することができず、我々自身の立場で見るとき、ある中心を立てることが極めて困難な時代であることを否定できません。

 それではどうしてこの世の中と、我々人間がこのようになったのか?

 神様がおられるなら、神様は天地の大主宰であり、中心の中の中心であるのです。我々人間はその中心によって創造されたのですから、その創られた環境を経て、過程を経ていって目的の世界まで中心を失うことなく行くべきであるにもかかわらず、今日我々自身は中心を立てるすべがないのです。このような事実は、ある曲折によってもたらされた事実であることを、是認しなければなりません。これを宗教的な言い方をすれば、堕落というのです。ここにおいて、この地上に生きる数多くの人間たちは堕落圏内で自分たちの生を引きずっている、と結論づけることができるのです。

 それではこのような堕落した場に我々が永続的に留まることを、我々の体と心と環境が願っているでしょうか? 絶対にそうではありません。この堕落圏を打開して本然の絶対的な中心を通して生きることを願っているのです。わが心と環境がどんなに悪であったとしてもこれを越え、越えていってある目的に向かって、一貫した方向へ行くべき自分を発見しなければならないのです。これは我々が一生を懸けて歩み、解決すべき重大な問題なのです。これは人間が堕落したがために生じた問題です。

 それでは求道の道や宗教というものは、どうして出てきたのか? 堕落した人間を、堕落する以前の本然の人間に戻すためなのです。それではここにおいて、救援とは何であるか? 病になる前の状態に戻すことです。これは復帰という名詞で表すことができます。ですから救援が即ち、復帰であります。

 堕落とは何であるか? 自身の本然の価値を失ったことです。それではその価値の最高の中心が何か? 神様です。ですから堕落とは神を失ったことを言うのであり、神が常に一体化した場において対することができる、真の人間の価値を失ったことなのです。また人間が生きてゆく社会環境において、価値的な基台を失ったことなのです。この環境的な基台を収拾できる人間の価値、こんな人間を主管できる天の価値を再び捜し求め、本然の場を決定づけるために出てきたものが救援の概念なのです。

 それでは堕落の内容を、具体的に探ってみましょう。人間が堕落する時、、どのような段階で堕落したのか? 太初にエデンの園に神様がおられ、神様が創造目的を中心に創られた人類の始祖、罪を犯す前のアダムとエバがいて、その本然のアダムとエバを中心に神の仕事を協助した天使たちがいたのです。

 それではその神の目的、アダムとエバの目的、天使たちの目的は何でしょうか? それは天使たちだけが喜んで生きることでもなく、アダムとエバだけが喜んで生きることでもなく、神様だけが喜ばれて完成するものでもまたないのです。神様とアダムとエバと天使たちがすべて共同的な目標の下に、その目的を達成したときは、天使たちも喜び、アダムとエバも喜び、神様も喜ばれるようになっていたのです。ある一方だけが喜んだのではいけないのです。言い換えれば、全体的な内容を得ていってこの天地の中心である神様と、天地を代表したアダムとエバと、環境を代表した天使たち、すべてが喜ぶことができなければならなかったのです。こうして人間を創造した目的が完結されてこそ、救援の目的、即ち創造本然の目的を達成することができるのです。

 ところがこの目的が壊されてしまったのです。この基準が落ちてしまったのです。落ちるときはどんな順序で落ちたのか? 神様から落ちていったのではありません。反対的な立場から落ち始めたのです。最初に天使界の天使長が、神を中心とするみ旨のまえから遠ざかり、これを動機にアダムとエバが堕落してゆき、神もやはりこのすべての世界の共同目標を中心に被造万物を創造された原則がある故に、その目的を果たすためには堕落したアダムとエバの悲しみに責任を負うべき立場に落ちてしまったのです。これが堕落の順序なのです。


 堕落したものを復帰するためには

 こんな順序で堕落したので、これを復帰するためにはどのようにすべきか? 反対の経路によって、摂理路程に合わせてゆくのです。ですから神は今までの歴史路程において、真情から神の心情を抱いて、神の事情を感じて、神と一致した所願を抱いてゆく人間を捜し求めて来られたのです。このように、この地上に天の世界の真の天使長を代身する忠臣を求めて来た道が、復帰の道なのです。

 それでは天使とはどんな存在なのか? 僕の立場で神のまえに忠臣の道理を尽くし、アダムとエバの垣となるべき存在なのです。万世までも栄光なる雰囲気をつくり、神の愛を中心にアダムとエバと共に幸福に生きなければならなかったのです。言い換えれば、天使長はアダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバのお父様である神様が、天使を創造した目的はアダムとエバの為であったのです。これが天使長が創造された目的なのです。

 しかし堕落することによってその垣が壊され、息子・娘が壊され、神様も主管権を侵犯されてしまったので、これを再び収拾してゆかねばなりません。アダムとエバが堕落した事実が決定的な罪悪として結実したのが、カインがアベルを殺したことです。これを再び収拾するために、神は今まで永い歴史路程を経て摂理して来られたのです。ここにおいて一番後にまで残るべきことが何でしょうか? 霊界が天のみのためとする天使世界のような世界として再整備され、この地に天のみのためとするカインとアベルを中心とした、新しい父母が設定されなければならないのです。

 この地上には数多くの人間が生きています。しかし人類は神を失い、真の父母を失い、未だに神を中心とする真の兄弟の因縁を結ぶことができないのです。ですからこれを再度復帰しようというのです。そのために神は外的に歴史の発展を指向し、内的には宗教を立てて来られたのです。こうして外的なこの世は宗教と決裂した立場で闘争してきて、外的な環境を発展させてきたのであり、内的な宗教は心情を強調してこの世との因縁を絶ち、神のみのためとしてきたのです。これがカイン的な世界型と、アベル的な世界型です。天がこのようにされておかれたのです。

 「万物を主管せよ」とされたのは、神様がご自身の息子・娘であるアダムとエバに下された祝福なのです。即ち、神様が人に祝福された内容なのです。アダムとエバの息子・娘として生まれた人類は、必ずこの祝福の目的地に向かって行かなければならないのです。それゆえこの世が終わりの日になると、カイン・アベルの世界観が現れるのです。こうしてすべての曲折を収拾して、カインとアベルが一つにならなければならないのです。

 これが天的な原則ですから、終わりの日である現在のこの世にはカイン・アベルの世界観が現れると同時に、真の父母を中心とする世界観が現れなければならないのです。またこれと同時に、真の神の心情を中心とする心情の世界観が出なければなりせん。堕落当時の内容が今日、社会的、歴史的なこの終わりの日に、再び現れなければならないのです。


 イエス様が完結すべきだった目的と使命

 それでは今まで宗教はどんな責任を負うとして来たのか? 天使長的な責任を完結しようというのです。そのためには僕の立場から責任を完結させて、その基準で天使長ル-シエルができなかった責任を完結して、神のまえに天と地を代表した忠臣として現れなければなりません。こうして彼を中心に神の息子・娘の因縁と連結させなければなりません。 それゆえ神はこの地上の人類のまえに、救世主を送ると約束されたのです。それではこの救世主とはいかなる存在か? まず神の息子の使命を持ち、その使命を完結した次に、この地上において真の祖先の場まで行かねばならないのです。それで神はイスラエル選民圏を立て、悪なるサタン世界と対決するようにされたのです。イスラエル民族を立てた目的は何か? サタン世界において神のまえに忠誠を尽くす天使長的な国家を立て、サタン世界と対決して、サタンを打ち破って勝利の基盤を造るためであったのです。神に背反することなく忠誠を尽くす天使長格国家の基台の上に、即ちイスラエル選民の基台の上にイエス様が来られ、天使長の使命を完結したイスラエル選民の内容のすべてを相続した後、アダムの堕落する前段階の基準にまで引き上げるのです。ですからイエス様は神の息子の使命を持って、地上に来られたのです。

 それではその当時のイスラエル民族はどうすべきであったのか? 神の息子イエス様を中心に、死ぬも生きるも彼と一致して、神が所望とされた世界を成さねばならないので、全体的に一つになって協助しなければならなかったのです。これが選民を選んだ本然の目的でした。にもかかわらず、イスラエル民族はイエス様と一つにならずに分立して、四千年の歴史路程の最後の決戦においてサタンに負けることによって、イエス様は十字架を背負う他はなかったのです。

 こうして第一イスラエルを中心として成そうとした摂理を再延長して、第二イスラエル創建理念を中心として、キリスト教は今まで歴史的な使命を担って来たのです。このようにして世を率いてきたのです。ここで我々はキリスト教を中心とした世界的な文化圏をつくり、天使長の使命を完結すると同時に、再臨の一日を迎えて、息子は父のまえに孝誠を尽くす基台を準備し、民は神のまえに忠誠を尽くす忠誠の基台をつくらねばならないのです。これが終わりの日に至るべき最後の目的点なのです。こうして息子の使命を完結するのです。

 それではその後にどうしなければならないか? 神が本来アダムとエバを創られて宣布された、真の子女という宣布を受けなければならないのです。天宙の大主宰たる神様から「あなたはわが息子だ、天地を主管することのできるわが息子だ」という心情から溢れる言葉を聞かなければならないのです。こんな心情的な一致点を連結して、誰も蹂躪することができない絶対的な基準の上で連結しなければならないのです。人間が堕落することによって未だに一度もこの場に行けないのです。それで神は漠然とした所望を抱いて、愛ということを先に立て、指向する目的の基準に向かって今日の宗教、特にキリスト教を指導して来られたのです。

 それでは息子の使命を完結するためには、どのようにしなければならないのか? アダムとエバが堕落しなければ、この世は悪の世にはならなかったのです。ところがアダムとエバが堕落して、自分を中心に神が願わざる堕落した父母になったので、これを打ち壊して神を主とする父母の場を決定しなければならないのです。これがイエス様が抱く最大の目的であり、使命だったのです。

 ですからイエス様は、新郎・新婦の理念を持って来られたのです。では新郎という名詞が何でしょうか? 太初に神がアダムとエバを中心に天地万物を創造されたその日から、所望とする所望の全体を完結する内容が、この新郎としう名詞の中に入っているのです。ですからアダムとエバも神のまえに、彼らの目的を成すことのできる新郎・新婦の基準を所望としなければならないのです。イエス様当時に、このような基準が決定されていたなら、今日この世の中はこのような悲しみの歴史は過ぎ去り、世界的に新しい歴史が出発したのです。ところがこの基準が決定されていないので、神はまた再び所望の一時を願いながら、人類の歴史を率いて来ておられるのです。


 復帰摂理の最高の中心

 ですから今日の歴史は、父母を捜し求める歴史的な方向へ流れているのです。神様がおられるなら、その神を中心に創造の目的を完結させる、即ち救援の目的を完結させる真の父母があって、その真の父母が神のまえに孝誠をつくさねばならないのです。同時に天使たちもまた、その真の父母の息子・娘を中心に忠誠の道理をつくさねばならないのです。これが本然の創造原則なのですが、これが壊されてしまったのです。しかし我々はこれを再現して、蕩減しなければなりません。失ったら失ったその姿を、捜し求めなければなりません。

 霊界があり、地上があるのですが、霊界とはどんな世界か? 堕落前のアダム時代の天使世界にあたるのです。今日終わりの日に面しているこの地の人類はどんな立場か? 堕落したアダムとエバの世界と、堕落していないアダムとエバの世界を連結すべき過程において引っくり返っているのです。

 この二つの世界を連結させるために、イエス様が訪ね来られたのです。しかしイエス様は来るなり、福音を伝播する道を出発できなかったのです。なぜならば、堕落した世と、堕落しない神本然の世、この二つの世を連結しなければならない責任がイエス様にあったので、イエス様が堕落した世のすべてのことを相続しなければ、堕落しない世へと出発することができなかったのです。この世をサタンがまず主管しているので、サタンを打ち倒してその主管権をことごとく奪ってくるのではなく、サタンを自然屈伏させて、それによって喜びの中にすべての権限を神のまえにお捧げできる基準を立てなければ、堕落していない本然の世界へと出発できないのです。

 このような岐路でイエス様はイスラエル民族を率いて、神が摂理される真の世界、即ち地上の堕落した世界から、堕落しない世界へと越えて行かなければならなかったのです。こうしてイスラエル民族は永遠に勝利的基盤の上に立つ民族という、神様が選ばれた国という決定を受けるべきであったのです。ところがこの所望を残したまま、イエス様は十字架につかれたのです。ですから最高の中心は新郎・新婦であり、その新郎・新婦の内的な意義は真の父母なのです。

 皆さんは原理を通して知っているでしょうが、人間は堕落することによって真理を失ってしまったのです。信仰を失ってしまったのです。そして人格を失い、心情を失ってしまったのです。人間は本来、神との永遠不変なる心情の基台の上で、落ちようにも落ちることができない関係だったのです。

 神が私のアボジだという認識のみを持つなら、世の中がどんなに否定しても、神は我々のアボジなのです。世の誰が自分の父母を父母ではないと説明しても、屈伏させることができるでしょうか? できません。同じようにアダムとエバが堕落しなかったなら「神はまさにわがアボジだ。このお方は私を中心におられるのだ」とすることができるのです。この地の上にこんな基準のみ立ったなら、ここから天道が場をつかんで出発するのです。

 復帰しなければならない父母の基準、子女の基準、天使長の基準

 世の中で人は、どうなれば幸福でしょうか? お金が多いと幸福なのではなく、環境が福があると幸福なのではないのです。心情の足場が立った環境で永遠に変わらぬ中心を持ったときに、ここから幸福が出発するのです。この心情の基準が永遠なる世界を動かすことができる基準であるなら、永遠なる幸福圏内にあるようになるのです。ですから心情の基準が一時的なものであるなら、すぐにその圏内を越えなければなりません。

 本来、我々の人間始祖は神を中心に、神の心情と愛を中心に、神と完全に一つにならねばならなかったのです。また神は心情の目的を完結するために天地を創造されたので、この心情の対象である天地万物を愛する息子・娘に、愛を中心に相続させてやらねばならないのです。神が天地万物を創造されたのは神のためではなく、アダムとエバのためだったので、喜びもまた神ご自身によって生じるものではなく、アダムとエバによって生じるのです。皆さん、世の中の父母も子女を見て喜ばないでしょうか? 喜びとは対象によって生じるものなのです。

 極めて高い神の愛が、アダムとエバに相続されることによって、天下万物全体がこの因縁を離れては存在することができないなら、この因縁を持つアダムとエバを中心に、横的なこの世界に生きる千秋万代の後孫たちに神の心情が連結されたなら、今日この世がかように悪なる世にはならなかったのです。霊界があるのかないのか分からないこの世にはならなかったのです。堕落前のアダムとエバが天使と一問一答し、神と一問一答したように我々もそうできたなら 今日この終わりの日に数多くの人々が神を見忘れ、神がいないと言うことはなかったのです。

 神と心情的に連結されていれば、神が悲しむなら人間も悲しみを感じ、神が喜ぶなら人間も喜びを感じるのです。これは皆さんが霊的な体験をすれば、だいたい分かるのです。自分がどんなに良くて踊りを踊る環境であっても神が悲しむならそうはできないのです。神と同じ心、同じ情で一つになって、環境がここに合って動くことのできる基台となるならば、堕落はあるべくもなかったのです。

 アダムとエバを中心とした新郎・新婦の因縁が、神から出発しないでサタンから出発したので、我々はこれを復帰しなければならないのです。天地創造以後、今まで多くの歴史が過ぎて去ったのですが、アダムとエバは未だに神を主とする本然の新郎・新婦の場に出てはいないのです。本然の新郎・新婦の場に出るにはどうしたらいいのか? 善なる祖先が生じ、善なる子女が生まれることです。ところが堕落することによって、本然の善なる父母の基準、本然の子女の基準、そして本然の天使長の基準が壊されてしまったのです。ですからこれを復帰しなければなりません。


 洗礼ヨハネの格位と使命

 今日キリスト教の信者たちは、イエス様が天使長のラッパの音とともに雲に乗って再び来るというのですが、そうではありません。その前にこの地上に天使長の使命を完結する天の忠臣が出なければなりません。そうして「わたしが来たのはわたしのみ旨のためではなく、神の息子のみ旨のためである」と宣布する者が出なければなりません。このようなことが、イエス様当時には起こったのです。この使命の代表的な中心存在が、洗礼ヨハネだったのです。それで彼は「悔い改めよ、天国は近づいた! わたしが来たのは、わたしのためではなく、彼を証しするためである」としたのです。

 この洗礼ヨハネは僕として来て、イスラエル国の全体を代表して、堕落した直後のアダムの立場を復帰しなければなりませんでした。堕落直後のアダムの場を、堕落しないアダムの立場に連結することができるその場を、復帰しなければならなかったのです。堕落したこの世において、堕落しないアダムの場に復帰して、世のすべての権限を彼に相続させることを約束すべき代表が、洗礼ヨハネであったのです。

 「悔い改めよ、天国は近づいた」という言葉は洗礼ヨハネ個人の言葉ではなかったのです。これは全イスラエル歴史を代表した、イスラエル民族を代表した言葉であり、四千年の歴史を代表し、この地球上に生きている全人類を代表する言葉であったのです。また洗礼ヨハネがイエス様に洗礼を与えたその場は、歴史的なすべての責任を相続する場であったのです。その次から、イエス様は出発されたのです。

 これは何でしょうか? この地に未だに天の忠臣が現れなかったということです。忠臣が出たなら、この地上に真の神の息子が来なければなりません。天使長はこの神の息子に侍ることによって、天のまえに忠臣の道理を尽くさねばならないのです。神の息子を愛することによって、忠臣の基準が決定されるのです。ですから歴史的なこの終末時代にきっと、神が愛する息子が現れなければならないのです。であれば忠臣が決定されるのです。 神が洗礼ヨハネを呼び立てられたことは、その時まで四千年の間神と対決してきたサタンの魁首天使長、神に背反したその天使長ではなく、神のために忠誠を誓ってでる天使長の立場を代身するためだったのです。イエス様に忠誠を尽くし、イエス様のためということです。イエス様の苦難を自分の苦難として、これを押し開いてゆくために、ありったけの力を尽くすということです。ところが洗礼ヨハネが、このような責任を果たさなかったのです。それで歴史的な悲しみは、さらに加重されざるを得なかったのです。洗礼ヨハネの弟子たちはイエス様の弟子になり、洗礼ヨハネはイエス様の三弟子の中に入らなければならなかったのです。洗礼ヨハネを歓迎した数多くの群れは、イエス様を歓迎する群れにならなければならなかったのです。こうして洗礼ヨハネは新郎・新婦の本然の名をもつ神の息子・娘のまえに、忠誠なる天使世界の代表的な実体として現れた者として天使世界を率い、実体サタン世界を防備しなければならなかったのです。神が訪れて来ることができる天使長の実体目的を完結した洗礼ヨハネであるべきであったのに、彼がこの使命を完結できなかったので、イエス様がその使命まで責任を負わなければならなかったのです。

 それで僕になるという道理が生じたのです。「わたしが仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのだ」とされたのです。神の息子がそうなら、そんな法がどこにあるでしょうか? 新郎として、あるはずもないことです。それゆえ栄光の中で出発するはずのイエス様が、悲しく怨痛なる僕のくびきを負って、出発しなければならなかったのです。こんな歴史的な過程が残っているので、この峠を越えるために行くのがキリスト教の二千年の歴史なのです。

 それで神は民族的な摂理を、世界的摂理に率いて来られたのです。歴史を率いてゆくときは、歴史の内部を全部精算しなければなりません。精算するときは個人的に、家庭的、国家的、世界的に、全部精算しなければなりません。本来は万民がそれを発展させてゆくべきなのが天の摂理であるにもかかわらず、その責任を成せずに歴史はだんだん、だんだん発展してゆくのです。神はこのような外的な歴史に歩調を合わせ、内的には歴史の目的と時を成すために、準備して来られたのです。

 キリスト教では「終わりの日には主が来なければならない」と言うでしょう。主が誰でしょうか? 失われた真の父母です。父母は霊的な基準だけでは駄目なのです。イエス様が死なれることによって、霊肉を中心とする真の父母の心情的な基ができなかったので、我々がこの基台を造って、神の祝福圏内でイエス様を中心とした真の血族にならなければなりません。ところが今日、キリスト教においては信ずれば天国に行くというのです。行って見なさいというのです。これは不可能です。信じられなければ、祈祷してみなさい。


 中心軸に入るならば

 もしも神と切っても切れず、サタンが否定しようにも否定できない神の直系の血族になったなら、彼らは神の血族であり、イエスの血族なのです。しかしこの血族がないがゆえに、心情的な定点が成立しないのです。未だに神の直系血族が中央を占めることができずに四方に散っているので、四方からサタンが侵犯してくるのです。

 しかしこの中心軸に入ってくれば神が直接主管されるので、サタンが侵犯することができません。軸に入って回り始めれば、その力をサタンは防ぐ道がないのです。ところが人間が未だに軸に入ることができず、全部が軸の周囲を回っているので神も主管できず、サタンも主管できないのです。人間がサタン側に行けばサタンが勝手に動かし、神側に行けば神が主管されるのです。こんな中で神は今まで、中心を決定するための摂理をなしてこられたのです。

 それではこの現世はどのような時か? アベルの立場で見れば、カインとアベルが対立している時であり、カインの立場から見ればカインがアベルを殺したのと同じ歴史的な時です。アベルを歓迎するカインがどこにいますか? これは現下イエス様がアベルであるなら、イエス様に従う人々を横的に見れば、イエス様のためのカインです。このカインたちはどうすべきか? サタンを打ち負かさねばなりません。であれば世界の悪なるものはなくなるのです。このような使命を果たす責任が、今日のキリスト教にあるのです。

 この世界はサタン側の世界である共産世界と、天の側の世界である民主世界、即ち唯物世界と唯心世界とに分かれているのです。ここにおいて出てくるのが、キリスト教を中心とする世界観です。神が望まれることは、アダムとエバのみ旨に背反して、アベルに背反するカインではありません。神のみ旨を歓迎し、アダムとエバのみ旨を歓迎し、アベルのみ旨を歓迎するカインです。こんな世界型が民主世界です。これを反対に打って越えようとするのが本当のサタンです。

 しかしここでカインがアベルに協助して、世界的に真のアベル的な使命を果たすためには、息子の使命を成さなければなりません。でなければ父母の場に上がれないのです。息子の場を決定しなければ、父母の場に上がれないのです。なぜ? アダムとエバが堕落して、カインとアベルを産んだことは、神の息子だと認定できんないことだからです。神の息子・娘として決定できないのです。ですから復帰時代には、神の息子・娘という基準を立てなければ、父母の場に上がることができないのです。


 アベル的な存在が行くべき道

 ですから全世界のキリスト教徒はどのような場にあるかというと、神に反対したカインではなく、神のみ旨に従うカイン、アベルのみ旨のためにカインがなすべき場にいるのです。であれば世界的なアベルの中心者として、主が来られるのです。ところで来られる主は新郎として来られるのです。イエス様が神の息子としてこの地上に来られ、責任を果たせなかったので、その責任を果たしてカイン的世界を統合していった後にこそ、神のまえに新郎・新婦の場へと上がることができるのです。復帰の原則がこうなのです。

 現在はどんな時か? カインとアベルが闘う時です。このような時にキリスト教はカインを主として一つにならねばなりません。民主世界はまたアベルとして来られる主と、絶対的に一つになる基準を立てなければなりません。昔アダム家庭に起こったことが、回り回って歴史的な最後の終点にきてこのような現象が起こるなら、ここに神を中心に心情的な基台を造り、真の父母の因縁を決定づけようとされるのが、神のみ旨なのです。

 ですからこの世界にカイン的なアベルが出なければならず、アベル的な家庭が出なけれあならず、アベル的な宗族、アベル的な国家が出なければなりません。それではアベル的な国家とはどんな国家なのか? アメリカですか? アベルがカインを屈伏させるための闘いの基台の上に、ある誠精を尽くして神のまえに祭祀を捧げる国、死ぬか生きるかという問題を懸けて、自身のすべてのものを神のまえに捧げる国、今日民主世界において最も悲惨な国、最も複雑な国がアベル国家です。

 外的な問題もそうですが、内的な問題も同じことです。アベル的なカイン、アベル的な家庭、アベル的な宗族、民族、国家が出るなら、世界は問題ありません。そんな場がどこか? 皆さん、我々の国に板門店があるでしょう。板門店は世界に一つしかありません。神とサタンが同時に讒訴している所です。天地の法度に外れればここに讒訴する所です。 韓国は三・八線を中心に、南と北にパッと分けられています。原理を通して見るとき、祭物は裂かなければならないでしょう? それで韓国の経済状態は極度に難しくなっているのです。

 皆さん、祭司長が祭物を捧げるときには上下を問わず、みな祭壇の前に頭を下げるのです。贖罪の祭物の前には、その国の群衆も頭を下げるようになるのです。これから統一教会がすることは上下、高低を問わず、民族全体が頭を下げるようになる基準を築くことです。これができなければ統一教会の使命は完結されないと、先生は考えるのです。

 祭物とは何でしょうか? 死の道を準備するものが祭物です。生きる道を準備するのではありません。ある一時に民族のために贖罪の祭壇にきれいに上がることができる準備をするものです。彼がいい物を着て楽に食べるのも、貴く捧げるためであり、生きていることも、その生命を貴く捧げるために生きているのです。祭物は環境が良ければ良いほど命を捧げる道、死の道を求めなければならないのです。厚くもてなされればもてなされるほど、死の日が近づいて来るのです。同じようにこの世界に、そんな運命の祭物の道を行く民族がなければならないのです。統一教会がこの祭物の役割をしなければなりません。それゆえ皆さんは、死の準備をしなければなりません。

 今日、統一教会が苦難をたくさん受けて、この後に三千万民族が受ける苦難の峠をまず越えなければなりません。これが祭物の道です。死の他にはない民族を、祭物が犠牲になって生かし、贖罪をするのです。祭物たるものが苦難の峠を越えてまず打たれ、犠牲になって神のまえに血を流すことによって、その恩賜を受けて民族が復帰することができるのです。またこのようにして祭物たる者は恩賜を受けて、回生することができるのです。我々統一信徒たちは、こんな道を行かねばなりません。このような使命は若い者たちがしなればならないのに、嫌だというのです。今回、先生が民主世界を中心に全世界を巡回するとき、何を見たでしょうか? 他のことを見たのではありません。どの国に神がおられるか? どの民族を神が愛されか? ということを考えながら見て回ったのです。どの民族であれ、神を愛さねばなりません。今は環境的に神を失いやすい社会的要件が多々あるのです。


 祭物の資格とその道

 祭祀を捧げる場においては、父母という観念を持ってはなりません。子女という観念も持ってはなりません。もしも祭司長の息子が罪を犯して、その祭司長なる人が「彼は私の息子ですから神様、私を見て息子の罪を許して下さい」という祈祷ができるでしょうか?こんな人間は祭物ではありません。子女という観念、父母の観念、この親族全体、即ち兄弟という観念、宗族という観念が残ったら、祭物となる資格がないのです。

 祭物は公的でなければなりません。祭物とは国のものですから、ある宗族やある個人のものではありません。ですから共同目的を代身しなければなりません。祭物の立場で「私の家庭の罪を贖罪して下さい」と祈祷しては駄目です。必ず共同目的を代身した祭物にならねばなりません。祭物が「わが民族を贖罪して下さい」と祈祷していいでしょうか? 駄目です。祭物たる者は大きく「民族の罪を赦し、世界の罪を赦して下さい」と祈祷しなければなりません。さらには「世界の数多くの哀れな人々を赦して下さい」と祈祷しなければなりません。このようにして許しを受けるなら、自然に自分の家庭や宗族も許しを受けるようになるのです。これが祭物の道です。

 復帰摂理を推進してゆくためには、必ず祭物がなければなりません。カインとアベルの闘いの場に、祭物がなければ蕩減ができません。カインとアベルを中心に蕩減復帰するためには、必ず祭物がなければです。六千年前、アベルはアベルなりに、カインはカインなりに神の前に至誠を尽くした祭物を捧げて環境を開拓して、アダムが神の前に立つことができる父母の位置を決定づける足場を築くべきだったのに、カインとアベルはそんな祭物を捧げる過程を経て、父母の位置を決定づける基台を造ることができなかったのです。こうして最後まで、父母の基台を成すことができなかったのです。

 このように見るとき、今日既成教会信徒たちがどんな立場か、知っていますか? 祭司長の立場です。それでは祭司長はどんな立場に立つべきか? 祭司長は祭祀に捧げる羊が死ぬとき、心情を共にして涙を流さなければなりません。絶対的に羊と同じ共同所有の場において、神のまえに民族を代身して贖罪の祭物を捧げなければなりません。自身の肉体の血の代身として、羊を捧げるということを感じなければなりません。

 祭物が何であるかというと、祭司長自身の体なのです。祭司長自体が、祭物なのです。みすぼらしい自分の姿を、民族を代身して神のまえに捧げるべき責任が祭司長にあるのです。であるにもかかわらず、祭司長がその責任を果たさなければ滅びるのです。またここに参与した人も、救援を受けられません。だからどうせ解決点を捜し求めなければならないのです。

 三年半の峠

 神が我々を愛することができるでしょうか? 幾人かの人に会ってみても、神の心情世界を知る人はいません。私が考えますに、統一教会員たちは祝福を受けた人たちです。私が統一教会の先生として、こんな話をするのではありません。この民族はこれから我々統一教会が行く方向を取らなければ、生きる道理がないのです。見ていてごらんなさい。その時が来れば行っても戻るのであって、その時に後ろで案内する人間がいなければこの民族は滅びるのです。その案内者には、民族が誤って行くなら正しこに引導すべき責任があるのです。引導する通りに従わなければいずれ戻る時があるので、後ろを向いた時に後ろで、私に付いて来いと指導しなければならないのです。このように両面の指導者を持つ宗教団体が出なければなりません。

 最高の場においては神の息子・娘の責任を果たし、最低の場においては僕の責任を果たさねばなりません。このように両面から神の心情を知るために、我々はどうすべきか? そのために先生が皆さんの後ろで指導しているのです。先に立って指導する能力がなくて後ろを向くとき、「私がこのように歩んで来たので、あなたたちもその通りに歩んで行けば生きる」とする指導理念体制を得ておかなければなりません。もしもこの民族がその道に従えば生き、従わなければ後ろを向くようになるのですが、どちらのときも指導することができる両面的な指導者を神の代身、必ず立てておかなければならないのです。

 ですから我々統一教会理念から見るとき、責任が極めて大きいのです。また行動面から見ても、極めて大きな責任があるのです。

 我々の教会が飛躍的に発展しないは、若い人たちのためです。大学に行っている青年たちのためです。今我々の教会が開拓する過程においては、大学に行くことが問題だとすることはできません。犠牲となり祭物になるこの道は、勉強することをやって行く道ではありません。地方食口たちはこのようなことを分かって、学校もみな放り出して全部がみ旨のために闘ってきたのです。このようにして一年、二年、三年程度はよくやるのですが、七年の峠を越えるのが大変なのです。約三年半ぐらいは何が何だか分からない状態でうまくゆくのです。世界の為に、民族の為にとうまくゆくのです。ところが三年半ほど過ぎると、自分のことを考えるようになるのです。始めの三年は祭物を捧げる時です。この祭物を捧げる時期がうまく過ぎてから、自分を中心に見渡すようになるのですが、まさにこの時に落ちてゆくのです。これは過程において生じる副作用なので、免れ得ないことです。ですから、七年期間を越えなければなりません。

 カインとアベルを取り替えるのです。ところが真のカインがいるでしょうか? 真のカインがどこにいますか? カイン的な真の個人と、カイン的な真の家庭と、カイン的な真の宗族、カイン的な真の教団がどこにありますか? 神のために忠誠をなし、これから来る主のために千回万回犠牲になると祈祷する、備えられた人間がいないというのです。

 だから我々統一教会員たちがアベル的な立場ですから、サタン世界に入っていって真のカインを立て、カインが我々のみ旨に従うときまで、即ち真のアベルの場を受け継ぐときまで我々が教えてあげ、アベルのみ旨を相続させなければなりません。それでアベルの場に橋をかけ、越えてゆかなければならないのです。

 であるなら、涙と汗と血を流さなければなりません。これは我々統一教会の標語と同じです。「涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に」流さなければならないのです。しかし今までは涙を誤って流したのです。汗を誤って流し、祭祀を誤って捧げたのです。ですからこれを再び収拾しなければなりません。「父母の心情で僕の体を使い、涙は人類の為に、血は天の為に」流せというのです。歴史路程において神が成されたように、その通りにせよというのです。皆さんが心で心配することがこの世的であってはなりません。


 自然屈伏という絶対的な条件

 今日アベルの責任を背負う我々は、アベルに対することのできる天的なカインがいないので、カインを養育しなければなりません。アベルを打ち殺すカインではなく、アベルのために命を捧げるカインを養育するのです。これが現下の我々の使命です。

 堕落することによって、この世のすべての権勢はサタンが持っていったのです。こうしてこの世の国の王も、主権者も、すべてがサタン側になったのです。ですからサタンが持っているすべてのものを、再び奪って来なければならないのです。しかし奪って来るときは、自然屈伏という絶対条件を立てなければなりません。自然屈伏させるのであって、強制屈伏させるのではありません。なぜ? アダムが言葉で誘引されたのは、強制屈伏ではなしに従ったのです。だから反対にカイン的な立場にある人々が、アベルのまえに自然屈伏するようにさせなければならないのです。堕落したアダムとエバのすべてをみな相続したように、復帰時代においてカインはアベルのまえに自然屈伏して、この世界のすべてのものをアベル的なものとして相続しなければならないのです。棒で打って屈伏させることではありません。打たれて奪ってくるのが神様です。昔から歴史に名を残す人は、その時代に打たれたのです。しかし過ぎてから認められるようになったのです。

 イエス様も同じです。二千年が過ぎた今日、歴史が証すイエス様を誰が信じなかったでしょうか? しかし二千年前、その時代に祭物の立場でみじめに血を流されるとき、イエス様に従った人間はいなかったのです。皆な逃げていったのです。今は信じるのがたやすいのです。

 こんな環境に処しているとき、アベルがなすべきことはカインを屈伏させることです。強制屈伏ではなく、自然屈伏です。それで神はカインを完全に屈伏させるために、愛するひとり子まで送られたのです。カインを完全に屈伏させるために、神様はご自身の最も愛する、さらには完全な息子を送ったのです。カインが自然屈伏しなければ、アベルは祭物になるのが原則です。カインが自然屈伏すれば、アベルは死なないのです。イスラエル民族のまえにアベルとして現れたイエス様は、イスラエル民族が自然屈伏しなかったので、死ぬ他はなかったのです。天道がそうだからです。

 打たれて奪って来るのか神の作戦です。一人を奪って来るために、一人を救うために、神は家庭を打つのです。であればサタンが讒訴できないのです。皆さん、これを知らなければなりません。世の中でも同じです。もしも他人の子供と自分の子供がケンカしたとします。自分の子供が悪いのは間違いないのに、他人の子供が悪いとその子を打ったなら、鞭打たれたその子の父母から讒訴されます。ところが他人の子が悪いのは確かなことを知っていて自分の子を打てば、その父母は讒訴しないのです。このように歴史は進行して来たのです。歴史路程において、神の為としてきた多くの人が血を流さねばならず、涙を流さねばならず、悔しい人生の路程を行かねばならなかったのです。これはなぜ、そうなのでしょうか? カイン的なこの世を自然屈伏させなければ、復帰することができないからです。

 それで神は新しい理念と、真理の道を探究させて、その真理が普遍化するに従って、その真理を追究することのできる歴史的な環境を開拓して来られたのです。

 世界を支配することのできる真理! 真の真理が現れて真の人間、真の愛、真の人格、真の心情を求めなければなりません。人間はいずれこのことを求めてゆくので、真の真理の前には頭を下げるようになるのです。また、真の真理を語る人の前に、自然屈伏するようになるのです。

 このような真理の御言と人格を備えた人間を定めて歴史を収拾していって、心情的な神の内的基準と合致して、神の側へと越えて行かねばならないのです。この世界の嘆息圏を越えなければなりません。越えて行くその峠が十字架の道であり、死の道なのです。

 求道の道とは、生きて死の道を精算して行く道です。この道を越えて行くためには、ゴルゴダを経て行かねばならないのです。


 アベルの二重の使命

 アベルはこの峠を越えるために、二重の使命を果たすのです。カインを屈伏させて彼を神のまえに立ててあげるのです。このようなアベルは神とカインの中間の立場で、上には神に侍り、下にはカインを屈伏させなければなりません。アベルという存在はカインを屈伏させるのに強制屈伏ではなく、自然屈伏させるのです。そのために血と涙を流し、無限に与えるのです。サタン世界の祝福圏を奪ってくるためには、心情的に無限に与え、全部かばい立てて真実の心を与えなければなりません。サタンに与えるそれが、自分の物より価値あるものであるとき、これが垣となって自然屈伏するようになるのです。アベルはカインを自然屈伏させなければなりません。こうしてカインから相続するすべてを、神のまえに捧げなければならないのです。これが祭司長の立場と祭物の立場を、蕩減することであるのです。

 祭物は元来人間でなければならないのですが、そうはできないのでイスラエル民族は人間を代身する羊を祭物に捧げたのでした。この羊は祭司長の体と同じであり、祭司長自体は心と同じなのです。即ち、祭司長はアベルの立場ですから、カイン的な立場の人々を全部自然屈伏させ、神の心情と連結させなければならないのです。イエス様はこんなアベル的な使命を帯びて地上に来たのです。ですから民族を収拾して自然屈伏させていって、神のまえに捧げるべきなのが、その責任を果たせずに祭物になったのでした。

 今日復帰時代に我々はアベルであると自任するならば、民族的なアベルの使命を成し、世界的なアベルの使命を果たさねばならないというのです。そうすために我々統一教会員は、民族的に反対しようとしなければなりません。反対していっても、真の道を行く群れに自然に屈伏して入ってくるようになるのす。

 皆さんが個人的な時代に個人的な立場でゆく時には、彼らが屈伏しないのです。しかし皆さんがアベル的な立場で、家庭的な基準をもって打たれたなら、個人が屈伏するのであり、宗族的な基準で打たれたなら家庭が屈伏するのです。ですから常に一段階前に出て打たれなければならないのです。それゆえアベル的な立場に立つ人間には、今が民族的な主義時代であると同時に、世界的な主義時代なのです。皆さんには民族を代表してカインを屈伏させるべき責任があると同時に、世界を収拾して神のまえに捧げるべき責任があるのです。世界を掴んで民族を救い、神のまえに捧げなければならない責任があるのです。ところで民族を救うためには、世界的な祭物の過程を経なければなりません。でなければ神のまえに民族を捧げることができません。これが二重の十字架なのです。分かりますか? アベルは先祖からの歴史的な罪を背負い、これを世界的に全部収拾して、神のまえに捧げるべき立場なのです。このように大きな使命に責任を負って、二重の使命を担うのでなければアベルの責任を完結することができないのです。


 血と汗と涙と心情で自然屈伏させなければ

 イエス様はこんなアベルの立場で民族のまえに訴えたのですが、この民族の中にはカインがいなかったのです。収拾されるカインがいなかったのです。それで三弟子を連れてゲッセマネの園でイエス様は「死ぬも生きるもあなたたちは、わたしと一つになるのだ。わが痛みをあなたたちが代身し、あなたたちの苦難をわたしが代身して、死の道も共に行くのだ」とされたのです。

 ゲッセマネの園における三弟子は過去、現在、未来の三時代を代表した人間相であったのです。アダム家庭のカイン・アベル・セツを象徴し、ノア家庭のハム・セム・ヤペテを象徴し、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、サウル王、ダビデ王、ソロモン王を象徴しているのであり、また一次アダム、二次アダム、三次アダムを象徴していたのです。

 こんな三弟子は、歴史的な期間を横的に縮小させたゲッセマネの園でイエス様に絶対的に侍り、サタンが攻め込めば打ち破る天の忠臣の使命を果たさねばならなかったのです。であるにもかかわらず、彼らはイエス様が打たれる前に代身して打たれる心情的な基盤をつくることができず、イエス様が三度、神のまえに談判祈祷をされる間にも、こっくりこっくり居眠りをしていたのです。それでイエス様は「暗闇の時が来た、あなたたちは行くままに行け」と仰せられたのです。これはイエス様が歴史的なサタンの侵犯を受けたことを知った御言なのです。

 人間の世に未だカイン的な勝利の基台が決定されていないので、今日キリスト教を中心に、この歴史を連結して霊的なカイン世界を率いていって、霊的な再臨理念を願ってきたのがキリスト教の思想なのです。ところで霊的な再臨のみでいいでしょうか? 霊肉共なる完全な再臨をすることのできる理念を得なければならないのです。今日このような面において、統一教会は一段階進歩しているのです。

 それでは今日、我々統一教会食口たちはどんな立場なのか? イエス様が越えて行かれた十字架の峠を越えねばならないのです。民族のまえに追いに追われる場を越えるべき立場なのです。それで我々統一教会は大いに追われるのです。三千万民族なら誰もが、統一教会と先生を悪く言うのです。しかし我々はイエス様が行かれた寂しい、瀬戸際の道を行かねばなりません。皆さんはゲッセマネの園で、民族を代身して祭司長的な立場に立つイエス様のまえに、祭物となるべき立場なのです。それで皆さんは地方に行って、血の涙を流さねばなりません。でなければ民族的な贖罪の使命を完結できないのです。先生がこのことをやらないで、皆さんにのみやらせるのではありません。先生もこのようなことを、みなやったのです。

 アベルの立場がどんな立場か? 二つの使命を完結させるべき立場です。拳で打って強制屈伏させては駄目です。血と涙と汗で、心情によって屈伏させるのです。であれば心情世界が創造されるのです。心情をもってゆくなら、従わなざるを得ないのです。

 弟子たちから十回、百回排斥されたイエス様の悔しい心情を、我々はよく知らなければなりません。それでイエス様が死なれる時、逃げて行った弟子になるのではなく、十字架に立ち塞がって自分が架けられるという弟子にならなければなりません。ペテロは終いには十字架に逆さに架けられて死んだのですが、ちょっと前にこのようであったなら、イエス様が復活される時に共に復活したのです。であれば今日キリスト教が、二千年づつもゆかないのです。皆さんたち、このようなことを考えてみましたか?


 大韓民国の行く道

 今日キリスト教徒たちは「お! ペテロは一番弟子であった」というのですが、ペテロが何の一番弟子でしょうか? イエス様が再び訪れて、立ててくださったので一番弟子ですよ。この男がどうしたのですか? 師が命を懸けて談判祈祷をしているその場で、居眠りばかりしていたのです。師が死のうとされる時、逃げて行った者が何で一番弟子の資格があるでしょうか? 気の毒なイエス様です。こんなペテロを再び訪ねていった悲壮なイエス様ですよ。イエス様が「ヨハネの子シモンよ。あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか?(ヨハネ二一:一五)」と問われるとき「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです(ヨハネ二一:一五」とペテロは答えたのですが、三度づつ繰り返して問う時のイエス様の胸の中は複雑であったのです。ですから我々には、三つの峠が残っているのです。

 イエス様は民族を代表するアベルの立場で、アベル的なカイン国家であるイスラエルを収拾して、完全なアベル的な国家に連結させなければならないのですが、この使命を完結できなかったのです。

 ですから霊肉が分断されたイエス様の恨が解かれるまでは、再臨の役事は成されないのです。神が安息することができないのです。イエス様の恨が解かれないで、どうして神のみ旨が成るでしょうか? 神様が安らぐことができるでしょうか? 息子が死のうとしているのに「よくやった! よろしい」という父がどこにいますか? イエス様のこのような曲折の恨を解き、神の恨の曲折を解くまではこの恨の峠を越えられないのです。なぜ?父母のゆえにです。

 それでは今日、我々はいかなる使命を果たすべきか? イエス様がアベル的な立場で、イスラエル民族をカイン的な国家として立て、天の側のアベル国家として相続すべき責任があったのですが、民族が彼に従わず、イエス様はその責任を果たせずに死にゆかれたので、この終わりの日の我々は、何をどうしなければならないのか? 再び来られる主は民族を中心に、世界的なみ旨を展開して行くのです。ですからキリスト教は今、世界的な足場を築いていっているのです。形態は民族的な形ですが、み旨は世界のために展開して行くのです。世界を所望として、民族まで率いて行かなければならないのです。

 蕩減の歴史は精算してゆかなねばなりません。ですから民族を代身したアベル的な基準が、必ず民族と糾合しなければならないのです。そのためには、そのような国がなければなりません。私が有り難く思うのは、韓国が昔から神に侍ってきたことです。今韓国は神を求めなければ行く道がありません。政治的な面、経済的な面、どの面をとっても行く道がないのです。他人の力を利用しては駄目です。どこの国でも他の協助を受けていては生きることができません。援助をするのは全部エサです。エサなのですよ。ですからこのようなことを跳ね退けて、自力で養うのです。でなければ、血を流す事が起こるのです。

 皆さん、我々はアベル的な国として、アベル的な生活をしなければなりません。アベル的な国の責任を果たすのです。復帰路程において、救援を成すことが我々が必ず達成すべき目的です。それゆえこの目的を達成するためには、カインを自然屈伏させなければなりません。民族的なカイン国家を、アベル的な国家のまえに自然屈伏させて、その国家を自分自身が主管するのではなく、神に捧げて「この民族を世界の国家を代表した祭物として捧げますからお受け下さい」としなければなりません。であれば受けられるのです。ところがそうではなく「あ! 大韓民国がアベル的な国家の使命を果たしたので神様、今この国を世界的な代表国家として立てて下さい」としたら、神様も受ける道理がないのです。天法がそのようにはなっていないのです。大韓民国がアベル的な国家の使命を果たしていって神様に捧げるとき「神様、この国家を世界のための祭物として捧げます」としなければなりません。世界万般の数多くの国々が仰ぎ見て朝貢を捧げ、頭を下げさせるために捧げるのではないのです。

 霊界を動員させることができる聖地

 これから民族的な運勢と共に、世界的な運勢が歩調を合わせてゆく時が来るのです。ですから先生が韓国のソウルで選んだ聖地を、世界的に接ぎ木することをするのです。国内のみならず、世界的に接ぎ木するのです。韓国の聖地を世界的に接ぎ木することは、何のためでしょうか? 世界を韓国の地として造るためなのです。蕩減復帰の原則によって、サタン世界に行って聖地を決定すれば、その所が韓国の地になるのです。なぜ韓国の地になるのか? 天的に見るとき、聖地のみを選んでおけば、そこが韓国の地になっているからです。

 このように聖地を選んだ基盤の上で、神が愛する息子・娘を送るなら、神に侍ることができる基盤が築かれるようになるのです。このようになれば霊界が協助しないわけにはいかないのです。

 世界各国を順訪しながら聖地を選んで決めて、統一信徒たちを早く早く配置しなければならないと考えたのです。そこに配置する人たちを復帰されたアダム・エバの基準に立てて、今まで霊界が接することができなかった基準を蕩減させるのです。であれば地上において、横的な闘いを展開することができるのです。

 天使が堕落させたので、天使がこの地上に来て、サタンを追放しなければなりません。これが蕩減復帰の原則です。霊界を動員して、地上からサタンを追放するのです。

 今まで一〇五か国に聖地を決定したのす。これによってこれらの国に、すでに韓国の沃土が生まれたのです。このように見るとき、韓国は富者でしょう? 韓国は世界で一番の国になったのです。一〇五か国に沃土がある国がどこにあるでしょうか? これを管理する人間が、統一教会文先生です。これは笑い話ではないのです。聖地を祝福することによって、国家主権が神の側に倒れ込んでくるのです。

 先生は韓国の山川を涙のあふれる心情で、誰よりも愛したのです。また世界も愛したのです。ですからアメリカに行っても、四〇日の間に四八州の巡回をやったのです。アメリカ全地にも私ほどアメリカを愛した人間がいないのです。アメリカの歴史の中で、四八州を回るのに四〇日でやった人はいないのです。四〇日の間に四八州を回るのですから、どれほど一生懸命でしょうか? 本当に急ぐ時には、時速一一五マイルまで駆けたのです。 アメリカの地を巡回して、私がアメリカの主人だと考えたのです。「アメリカの地はわが地だ。反対する者は反対しろ」という思いで回ったので。こんな心を抱いて往き来したのですが、誰が何というでしょうか? しかしながらただ往き来するだけで終わったのではありません。往き来するだけでは終わらなかったのです。

 私は誰よりも、アメリカを愛していたということです。なぜか? アメリカの地はアメリカの地である前に、神の地であるからです。アメリカの人々の先祖が何百年か前に入ってきて、占領したので彼らの地になったのであって、私が占領したらどれほど良かったでしょうか?(笑い)


 勝利のために実践すべき三つのこと

 天下万物が自分を憎む主人を願うでしょうか? 娘さんたちはどんな夫を願いますか?自分を最も憎む人を願いますか? 違うでしょう? 最も愛する人を願うでしょう?「はい」愛、愛が良いというのをみれば。心が根っこごと引き抜かれて入ってくる愛の密度が通じるなら、よくは分からなくても本当に素晴らしのです。

 皆さんはどんな主人に侍りたいですか? 昼でも夜でも、最も愛してくれる人に侍りたいのです。

 来年の元日まで、一週間になりました。今から特別誠精を尽くして、世界の数多くの民族に後れをとらない皆さんになってくれることを望みます。

 我々が七年路程期間にやることをみな合わせれば、地が一つになる条件が立つのです。この条件が立つということは、どんな意味か? それは経済的基準が天の側に回復して入ってくる時になるということです。即ち、経済的な基準、物質的な基準を回復する基準が成立するということです。物質的な基準を回復するということは、統一教会がこれから財政的な基準が、からりと開ける時代圏内に入るということです。であれば皆さんに、自家用の一台づつあげたら良いしょう? 統一教会食口たちに自家用の一台づつ買ってあげるのも大変なのです。道がぎっしり混んで通うことができないからです。だからあげないというのではありません。(笑い)

 三〇億人類を引っ張るなら、わが後ろに倒れ込むという信念をもって行かなければなりません。心情を立てるときには、統一教会にかなう者はいません。こんな信念をもって、この人類を理念的に制覇する皆さんにならねばなりません。婦人たち、自信ありますか? こんな一念を持っているので、統一教会の理念は凄いのです。神様までもが驚く理念を我々は持っているのです。

 その次には、誠精を尽くして忠誠をなして三〇億人類が全部動員されたとしても、我々に付いては来れないという信念を持たねばなりません。神のために忠誠をなしても、誰も我々を凌駕できないとするのです。その次、善なることにも世界人類が付いて来れないほどに先に立たなければなりません。世界三〇億人類が付いて来れないほど、先頭に立って前進して行くのです。

 この三つだけやれば、勝利は決定されるのです。問題はどのくらい続けて行けるかということです。何十年行くのか、でなければ何年行くのかということは、皆さんの努力と持久力に左右されるのです。分かりますか?

 第一は「理念的に制覇せよ」第二は「誠精と忠誠において誰よりも先になれ」第三は、「善なることに最高に先になれ」です。この三つだけもって実践すれば、これからの勝利はすでに決定されたも同然です。結果は持続する力と期間、そして努力に従って左右されるのです。勝利を得るのは皆さんの努力いかんによって、七年が五年に短縮されることもあり、一年に短縮されることもあるのです。こんな観点で皆さんが世界復帰途上においてこの大きな使命に責任を負い、一生懸命に駆ける勇士にならねばなりません。なるのですか、なりませんか?(なります)それでは今晩、すべてが成るのです。約束をするなら事が起こるのです。それでこれを復帰の条件として立てるのです。


 ごはんに飢えても人類のために貯金せよ

 先生は我々の教会がある所に行くごとに、これからアベル的な存在の基台を復帰しなければならないという祈祷をしてくるのです。先生はこのための摂理的な計画によって聖地を選択してきたのです。聖地を決めることは経済的な復帰のための基台を造ることでもあるのです。それゆえ各所にみなアベル的な財政支援をしなければならないのです。それで先生が各国に行くごとに先生の名によって貯金をしているのです。アメリカに行けばアメリカのお金で、日本に行けば日本のお金で、ドイツに行けばドイツのお金で預金通帳を造っておいたのです。

 先生の名によって預金するということは、子供が父母から万物に対することができる心情的な因縁に、同参できる特権を付与されたのと同じなのです。

 皆さんが先生が行く道に同参するということは、世界史的な誇りなのです。これは今日物質復帰のための、アベル的な祭壇を積むのに重要なる条件になるのです。それで国ごとに預金通帳を造っておくのです。

 アメリカに行って四〇か州を巡回して、韓国に帰って聖地祝福のために七二か所を巡回したのです。元来は二一日間にすべきなのですが、一六日間に条件だけ立てて先日の二一日に回ったのです。先生は近頃どんなことにも、強行軍なのです。

 巡回途中で全羅道光州に行った時、雪が降ったのです。雪がとてもたくさん降って風が吹きつけたので、すべての交通が遮断してしまったのです。光州からヨンアンを経て帰ったのですが、夜の十二時に到着したのです。交通が遮断されてどうして行くことができるでしょうか。警官が道の要所を守って立っていて行けないのです。しかし「どけ! あなたらに捕まるものか」と考えて押し退け、光州まで戻ったのです。

 これから先生の名によって天的な誠金を集めてアベル的な祭壇を造り、これを中心に世界復帰に必要な基盤を構築しなければなりません。このようなことを考えながら巡回して本部に帰ってきたので、本部からこのことを始めなければなりません。

 全世界の我々統一教会食口は、このような運動をしなければなりません。今はアメリカの食口に、韓国の食口がすることです。韓国がアメリカよりもお金はありませんが、お金が問題ではありません。誠精を集めなければなりません。

 我々は昼食を食べなくても、人類のために貯金しなければなりません。今日多くの人々が貯金をしています。個人のために貯金をする人もあり、家庭のために貯金をする人もあり、自分の会社のために、自分の国家のために貯金をする人もいます。しかし統一理念を中心に世界問題のために、天と地の公的な基準のために貯金をするのは、歴史以来我々が初めてです。このどえらいことを我々がやるのです。

 こんな条件を立てることによって、これから韓国経済を支援する世界的な財閥が相当に関心を寄せるようになるのです。国際的な運勢が韓国に入って来るのです。こんな背後のみ旨があるので、聖地を選択したことを皆さんは知らねばなりません。


 韓民族が一つになることによって世界が復帰される

 今日先生が行くべき復帰摂理路程に二つの峠が残っているのですが、一二〇か国にこのような基盤を決定しておけば、一つの峠だけは越えるのです。これがこの一つの峠を越える天的な因縁になることを、皆さんが知らねばなりません。これを決定しておくことによって、明年からは統一教会が動けば動くほど発展するのです。なぜそうなのか? 明年が七年路程の六年目にあたる年だからです。六数はアダムとエバが堕落した数です。アダムとエバが七数過程を越えらずに失敗した恨が結ばれた数なのです。しかし蕩減復帰のためのすべての天的な蕩減条件を、世界的な舞台の上で立てたので、今日我々が一致団結して動くなら、すべての面で飛躍的な発展をすることができるのです。

 このような発展のために始まった運動が、今江原道で起こっている勝共運動であることを知らねばなりません。この運動が全国的に拡散する契機を造って、総団結して勝敗を決定づけなければなりません。このような時期が来年か再来年であることを知って、この民族を生かすための先鋒に立つのです。このような時代的な運勢が我々の前に近づいていることを、肝に銘じなければなりません。

 皆さんは先生がこれまで築いた天的な計画が、どんな時代入ってきたかということを、大体分かったのです。

 神のまえに立てられた韓国民族がみ旨を受ける日には、世界復帰の遺業を担って成し遂げることができるのです。韓国民族だけが一つになれば、世界復帰は簡単なのです。このような運勢に合わせて、これから統一教会がどのように発展してゆくべきかに責任を負って指導する使命が先生にあるのです。これを皆さんが分かって、ここに歩調を合わせるため、あらゆる誠精を尽くさねばなりません。

 今回地方から来た修練生たちも、外国の青年たちに負けたら駄目です。地方に行って見れば、ざわついているだけで中身がないのです。そんなぐわいでは駄目です。修練を受けて帰ったら、そうであってはなりません。ここでの修練は洗脳工作ではなくて、心の革命心情の革命を起こしてくれるものなのです。我々の力を合わせて世の中のため、統一のために精一杯やってみるのです。

 皆さんはこれから統一教会の青年としての義務と使命が、どれほど大きいかということを知らねばなりません。全世界を神のまえにお返しできる時代的な環境が展開しているのです。先生がもしも皆さんであれば眠ることもしません。我々はどうしてこんな時代に生まれたのか? 星まわりが良いのか悪いのか分かりませんが、とにかく得意の時に生まれたのです。神は世界を活動舞台にして行ける環境を造っておいて、我々を待っておられるのです。また世界の数多くの民族が我々を呼んでいるのであり、世界の数多くの民が我々に会うために列をなして待っているのです。皆さんはこの期待に応えて報いる、天的な義務と使命を担う先鋒者となるのです。このように分かって熱心にこの期間を送ってくれることを、お願いします。

 韓国教会においても、この時代に韓国の地にメシアが来るという啓示を受けているのです。新しい時代が近づいて来ているのであり、これを外的に連結させるための新しい恩恵の歴史が始まったことを、先生は皆さんたちにすでに話したのです。今からの歴史はある傾向へと流れて行くのです。世界的な責任を背負うアベル祭壇として、全世界の青年男女に負けないよう、努力してくれることをお願いします。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.04.20 06:10:05
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