6245020 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇   知   外   記

奇  知  外  記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Recent Posts

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Freepage List

Comments

Calendar

Category

Archives

2021.04.23
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「審判の目的」

コリント前書 一三章:一節-一三節
一九六六年一月二日(日)前本部教会


今回、地方を巡回して伝えた内容を中心に、この時間お話します。


 悪なるこの世、悪なる人間

 今皆さんが生きているこの世界を、皆さんは善なる世界だと考えますか、悪なる世界だと考えますか? 善の世界ですか、悪の世界ですか? 誰に問うてみても今我々が生きているこの世界が、善ではなくて悪であるというのです。単に韓国人だけではなく、世界人類に問うてみても、同じ答えが返ってくるのです。

 それではこの悪なる世の中に住んでいる人間の中で、善なる人間が多いか、悪なる人間が多いか? この悪なる世の中に住んでいる人々も、やはり善なる人々よりも悪なる人々が多いという事実を否定することができないのです。そしてこの悪なる世の中に住んでいる我々自身にも、やはり善なる部分よりも悪なる部分がより多いということを、認めざるを得ないのです。

 こんな自分になるまで蹂躪されてきたすべての過去、蹂躪されている現在を見るとき、悪の因縁を踏み越えられる基台を持てず、生活舞台を得ることができず、未来に希望を持てない人生になっているということは、惨めな事実といわざるを得ないのです。

 それでは数多くの聖人、賢哲たち、あるいは数多くの道主たちが願った所望が、何であったのでしょうか? 彼らのすべてが、善の世界になることを所望としたのです。彼らはこの世界の過去・現在・未来を案じ、悪の世を善の世にできないことを嘆息したのです。ところで未だに自分自身が、すべてが悪だという環境にとらわれており、今日我々が生きている社会と世界が悪なる社会、世界になっているという事実は、何としたことでしょうか?

 数多くの人々が願っているにもかかわらず、未だにこの世界は悪の世です。悪なるこの世界を善の世界にすることは、今日人類が共に解決すべき重大なる問題です。これを解決するまでは平和が訪れないのです。悪を取り除いて捨てさるまでは、新しい天国、新しい理念の世界は建設されないという事実を、我々は否定できる道理がないのです。

 真の良心をもつ人間であるなら、環境が乱れれば乱れるほど「私だけはこの悪なる世の中で真の人間になろう」と訴えて、泣き叫ぶ声を聞くことができるのです。

 このような良心を中心に人生路程を開拓して行くべき自分をおいて見るとき、一日の生活がこうであり、一年の生活がこうであるにもかかわらず、善を中心に自分自身が勝利したという場に立っていないで、むしろ善なる環境ではなく、悪なる環境にあるということを知るのです。このような自分の惨めさ、この世界の悲惨さに誰が責任を負うべきか?

これは大きな問題といわざるを得ません。こんな世の中に生きている皆さん自身であることを、はっきりと知らねばなりません。


 悪なる世に責任を負ってこられた神

 世の中でどんなに立派て、どんなに世界に号令する人がいたとしても、彼自身やはり悪なる環境にとらわれて生きた人間であることに間違いなく、現在どんなに優れているという人も、悪なる環境に生きる人間であることに違いないのです。こんな人間が未来を夢みて世界に号令をかけたとしても、やはりその世界が善の世界にはならないのです。ですから全知全能の神様がおられるなら、神はこのような世をそのままにしておかないのです。神は結局、新しい対策を強く求めなければならないという結論が出るのです。

 神がおられるなら、この世界をこのままにしておかないのです。天地を創造して善の目的を立てられた神がおられるなら、こんな世をこのままにしておくはずがないのです。それで悪なる世界を善なる世界に戻す闘いが、過去から現在までつづいて来たのです。摂理歴史過程に、この闘いの実証が表れているのです。

 こんな過程から見るとき、イスラエル民族を中心に選民思想が現れたことは、有難いことと言わねばなりません。犯罪のこの地、悪なるこの世を防いで真の個人を立て、真の家庭、真の宗族、真の民族を立て、新しい摂理の理念を中心にこの悪なる世に対峙する新しい思想が、歴史過程にあったという事実は、有難いことと言わねばなりません。このようなことがなかったなら、神はいないという結論が出るのです。幸いにも選民思想が現れたことを見て「あ、このようなお方がいるようだ」と感じるようになるのです。

 ところでこの選民思想は歴史以後に生まれたものではなく、本来歴史以前からなければならないものなのです。悪なる人間になり、悪なる世界になった後に生まれてはいけないのです。本来から善の基準のうちにある人間なら、選民になるようになっていたのです。悪の基準のうちにある人間が、選民になることはできないのです。それゆえ選民思想は歴史以後に出たものではなく、歴史以前からあったものなのです。であれば神を善なる神、人類を愛される神であるとすることができるのです。もしも歴史以後に選民思想をおいたなら、その神は神様ではないことになるのです。

 選民思想は歴史以前からあったのです。それで歴史をたどって現在に至ったのです。選民思想はこのように、過去・現在・未来に通じるものなのです。この選民思想による一つの完成された選民の実体は、堕落した世界を中心とする人間をいうのではなく、神が本来天地万物を創造されるときに定められた、創造の目的を完成した場にある真の人間、即ち神が永遠に取ることができ、神のみが対することができる真の人間をいうのです。

 この真の人間に対する基準は、人間が堕落した以後、悪が結ばれた以後に立てられたものではなく、人間が堕落する以前から、悪が出発する以前から立てられたものなのです。ですから皆さんは、善なる世界を造らなければならないことを、知らねばなりません。

 この世は悪なる世の中であり、悪が占領している世の中です。こんな世の中でどのように善なる人間を育ててゆくのか? この天地を創造された主人がいるなら、これはそのお方に重大な関係があると言わざるを得ません。善なる人間を育ててゆくのですが、これが今まで神がこの地に対して摂理された方向です。そしてこの善なる人間を育ててゆく方便として、立てたものが何でしょうか? 宗教です、宗教。分かりますか?

 それで堕落したその日から、人間には宗教が必要だったのです。たとえ人間が堕落したとしても、人間の本心の深いところに宗教を抱く心の本質、即ち信仰をするという心の本質を持っているのです。これは本来、悪が生じてくる以前から人間には選民の基準、神の創造目的を完成するという基準が定められているからなのです。即ち創造目的を成すという本性が備わっているのです。この本性は常に人間をして、神が指向する善の目的を指向するようになるのです。これは自動的な現象として現れるのです。また我々の良心は、我々が善に向かって動いてゆかざるを得ないように作用しているのです。


 一つの目的を指向して来た人類歴史

 皆さんは天地を創造された神は、二人ではないということを肝に銘じなければなりません。もしも二人の神がおられるなら、創造目的が一つだけでしょうか? 二人の神がおられるなら、創造目的も二つになる他ありません。創造目的が二つになったらいけないのです。この点も考えなければいけません。ですから神はお一人でなけばならないのです。お一人の神でなければならないことを、知らねばなりません。お一人の神が創られた全被造万物が、二つの目的を持っているという結論を出すことができるでしょうか? それは有るはずもないことです。

 お一人の神様が、一つの創造目的を立てられて、一つの目的を完成するために、一つの材料をもって、すべての存在物を創られたという事実を知らねばなりません。

 お一人の神様が一つの目的を中心に、全天地万物を創られたので、この歴史がどんなに渦巻いて押し流されて転がっていったとしても、この歴史は一つの目的に向かって行っているのです。

 太初に人間が完成されていたなら、善なる世界へと出発することができたのです。であれば今も善なる世界であるのです。しかし今日この地上には善なる人間よりも、悪なる人間がより多いということを見るのです。これを見てもこの世界が善として出発したのではなく、悪として出発したという事実を認定せざるを得ないのです。

 神様はこの天地万物を、ただ一つの目的の為に創られたのです。しかし我々が現在暮らしているこの世の中を見れば、善と悪が併存しており、互いに違う目的を指向していっているのです。これは許すことができないことです。ですから神様は半分を除去しなければならないのです。

 それでは除去すべきものが何でしょうか? それは言うまでもなく、善ならぬ悪です。過去の悪を除去し、現在の悪を除去し、この地球上から悪を永遠に追放することができる一日が来てこそなのです。このように天と地に、天の主権を立てて完全に悪を除去してしまう日が、まさに審判の目的を完成した日なのです。

 神様が一つの目的を持って摂理をされてきた人類歴史を見てみるとき、悪は分散してゆくことを知らねばなりません。悪は統一してゆくものではなく、分散してゆくものです。悪は分散するのです。ぶつかって分かれ、また分かれてゆくのです。

 人間は一つの祖先から出発したのに、今日このように数多くの民族が生まれ、各々異なる歴史背景をもって、多くの国家に分かれているのか? それは人間が悪として出発した結果なのです。互いがぶつかって二つになり、二つが四つになり、このように倍数に分かれて、数多くの宗族を編成してきたのです。

 悪は統合することができないものであり、悪は分立するものであり、分立の結果は滅びるのです。これが天理の公法です。

 今までの歴史は善と悪の闘争史です。この悪はそのままでは除去できないのです。ぶつからなければなりません。善と悪がぶつかれば、悪が善よりもまず滅びるのです。少し善なるものは、少し悪なるものよりも、ややあとに滅びるのです。これを知らねばなりません。より悪なるものがまず滅び、やや悪なるものがあとに滅ぶのです。


 人類歴史は善と悪の闘争史

 皆さん、考えてみて下さい。ここに同じ大きさのリンゴが二個あります。二つともおいしそうで、見るも見事です。ところが一方のリンゴのへたに、ハエの糞が一つ付いていたとします。ところで二つのうちの一つだけ持って行くとしたら、どちらを持って行くでしょうか? 大多数の人々が、ハエの糞が付いているリンゴを持って行きますか、付いていないのを持って行きますか? 聞くまでもなく付いていない方を持って行こうとするのです。これは子供に聞いても、百人が百人、千人が千人、万人が万人、全部が良いものを選ぶのです。これは否定できないでしょう?

 もう一つ例をあげましょう。ある村でいじわるな人が、おとなしくしている子供に手を出して喧嘩を吹っかけたとします。では誰が良い人間で、誰が悪い人間でしょうか? 大多数の村の人々は、喧嘩をしかけたその悪い奴にそっぽを向いて、ぶたれた子供の側になるのです。悔しくもぶたれた子供の側になるのです。これを見ても悪い側は孤立するのであり、良い側は後援者が生まれることを知るのです。これは否定できません。

 この原則から見るとき、この天地を主管される大主宰、絶対的な善の主体たる神様の前で、より悪い奴とやや悪い奴が争ったら神はどちらの側に付くでしょうか? 神はやや悪い側に付くのです。それでは神がおられる側が滅びるでしょうか、滅びないでしょうか?滅びないのです。

 善と悪は必ずぶつからなければなりません。ぶつからなければ判決を下すことができません。ですから人間が数多くの戦争を経てきたのです。数多くの民族に分立してぶつかってきたのです。この中で神は、善なる民族に訪れて立てられたのです。少し善なる系統が残って、その系統を通して歴史が続いてきたという事実を、否定できないのです。

 それでは今は、どんな時代でしょうか? 数多くの国家が、一の目的を指向して、一つの理念圏内にだんだん流れ込んでいる時代なのです。民族の思想や国家の伝統、慣習や文化を越えて、世界的な思想と伝統と文化に向かって行っているという事実を我々は現在、目的としているのです。多くの民族がだんだんどこへ行くのか? 一つの基準に向かって行っているのです。

 人類歴史上数多くの戦いがあったのですが、常に悪が上になり、善が下になっていたのです。悪がまず出発したので、上で世の中を思いのままに支配してきたのであり、善は後に出発したので下になっていたのです。しかし善はだんだん高い場へと上がってきて、悪はだんだん下がってきたのです。今、悪は滅亡して永遠に下になる時が来るのです。即ち善と悪が交差する時期が来るのです。そしてこの交差時期が創造主の目的を完成するための、出発の時期であることを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは善と悪が戦ってきて、どちらが残るでしょうか? 善が残るのです。このような観点から見るとき、今日、共産主義と民主主義が戦っていますが、どちらの主義が残るかということは自明なことです。民主主義は神を中心とする主義であり、共産主義は神がいないという唯物主義です。この二つが互いに戦っているのです。


 悪に勝つ秘訣

 同じように神がおられるにもかかわらず、いないという人間と、おられるという人間のうちで、どちらの人間がより善なる人間でしょうか? おられるという人間がより善なる人間です。厳然とおられるのに、いないというその人間が偽り者でなければ、誰が偽り者でしょうか?

 こんな観点から見るとき、世界の終末期にどちらの側が勝利するでしょうか? 神が一つの目的のために摂理され、世界を一つの目的に向かって率いて行かれるなら、必ず神の協助を受けなければなりません。神の協助を受ける側が勝つのです。神はどちらの側に協助されるでしょうか? 少し善なる側に協助されるのです。それで争うことは悪いことですが、その中で常に少しでも善なる側が勝つのです。それゆえ共産党が負けるという結論が、自動的に出るのです。

 第一次大戦もまず起こした国が負け、第二次大戦もまず起こした国が負けたので、第三次大戦が起こればやはり同じになるのです。常に前半戦、中盤戦までは悪が優勢です。分かりますか? これは原理で蘇生、長成圏はサタンが侵犯したが、完成圏だけはサタンが侵犯することができないということと、相い通じるのです。序盤戦、中盤戦までは常に悪が優勢だったのです。しかしながら後半戦の土壇場に入ると、常に逆転したのです。

 これは過ぎた歴史を見れば分かることです。悪は終わりまで耐えることができないのです。ですから終わりまで耐えるなら、悪はそっくり譲歩してしまうのです。悪は終わりまで耐えられませんが、善は最後まで耐えられることを、知らねばなりません。

 大概みれば終わりまで耐えられない人たちは、血気の多い人間、傲慢の心が多い人間、自分の主張ばかりする人間なのです。しかしながら終わりまで耐える人間は、大きな目的を持つ人間、その目的のために希望を大きく持つ人間なのです。即ち、目的の基準を明日におくのではなく、遠い未来におく人間であるほど、終わりまで耐えるのです。神はそんな人間に福を与えるのです。これは否定することができない事実です。

 悪は自分を中心にするのであり、善は絶対者たる創造主に対して、相対的な位置に立つのです。ですから大きな目的を望み、大きな目的に向かって行くほど、小さな目的に支配されては駄目なのです。しかし悪は忍耐できないのです。悪は巧妙に運行します。皆さんはこれを良く知らねばなりません。

 ですから問題は悪を除去することです。それでは悪の故郷、悪が生まれたところはどこか? 悪の根拠地がどこで、悪の本郷の地がどこか? 悪の故郷は大韓民国ではありません。どこの国の地でもありません。ある看板を付けている団体でもありません。

 大韓民国を構成しているものは個人と家庭です。世界は数多くの宗族と民族と国が合わさって構成されたものです。しかし悪の故郷はこのような家庭、宗族、国家、世界ではないのです。

 それではこの悪の故郷はどこなのか? それは正に人間なのです。悪の本郷、悪の根拠地はまさに人間なのです。分かるでしょうか? 我々だというのです。まさに我々。

 人間が堕落したことを、何によって証明できるでしょうか? ある人々は「堕落とは何の堕落か? 堕落したことが見えるのか? それは臆病者や弱い者たちが信じることよ」と嘲笑うのです。人生の落伍者がゆくところが宗教だと、考える人々が多いのです。しかしこれは、不当千万な考えです。

 それでは皆さん、堕落が何でしょうか? 人間が堕落したでしょうか、しないでしょうか? 堕落したように見えますか、見えませんか? ところでどのように堕落したことが分かるの?

 神に向かっている本心

 神は一つの目的をもって、この被造世界を創造されたのです。それゆえ神の創造を受けたすべての存在物は、この目的に向かっているというのです。

 皆さんは朝日が昇るとき、すべての万物が太陽に向かって息をするのを見ましたか? 草木はむろん、すべての動物たちもそうするのです。夜の眠りがあまりに長く、あきあきしたのす。それで「懐かしいお日さま、どうぞ昇ってきてください」と自分の喜びを表現できるあらゆる要素で、朝日を嬉しがるのです。このように万物が太陽を慕うのは、太陽が生命の源泉であるからです。

 このようにこの宇宙の中心である神がおられるなら、人間にはこの神に向かって行く本心があるのです。もしもなかったなら、万物にも及ばないのです。ですから皆さんの良心は「やあ、某よ、神様のところへ行け」と命令するのです。

 それでは皆さん自身は「私は神の創造目的の世界に行ける」という自信がありますか?とんでもありません。初めて来た人たちには済みませんが。

 皆さん自身を、じっと分析して見なさい。皆さんは目的が一つですか、二つですか? はっきり言ってみて下さい。皆さんの心の目的も一つでしょうか?

 一九六六年、新年早々皆さんは「私は一つの目的を中心にして行く。この目的は、私が私として目的としたものだ。私はこの目的のために死ぬまで行く」としなければなりません。過去の神が別におられ、現在の神が別におられ、未来の神が別におられるのですか?神がこうだ、ああだとされるでしょうか? 違います。神は直線的であるのです。

 皆さん、世の中にも真っ直ぐな人、あるいは生一本な人という言葉があるでしょう? ところで人間が真っ直ぐだというのは、何を中心にしていう言葉でしょうか? これは天理法度を中心にしていう言葉なのです。

 それでは皆さんの心が真っ直ぐでしょうか? 結局、結論を下せば我々は二つの目的の中で生きているのです。ところが二つの目的の中で、一つの目的も得ていないのです。これでもなく、あれでもないというのです。じっと見ると心がゆく目的と、体がゆく目的が別になっているのです。これを自認しますか? 賢い人なら否定できないことです。

 我々自身の姿がこのようであるので、良くても嫌でも否定できないのです。気分が悪いでしょうが、このようになっているので仕方がありません。

 それでは現在、我々の人生がどのようになっているのか? 我々は二つの目的の中にいるので、どれか一つを完全に選択できないでいるのです。一つの目的に向かって行くことができないのです。回り回って生きているのです。そうして死んでゆく人生なのです。

 神が宇宙の大目的を立てられたなら、このような人々はその目的の世界に必要な人々でしょうか、使このない人々ですか? どのような人々でしょうか? 彼らは役に立たない人々です。このような役に立たない人々が行って集まるごみ箱、人間ごみ箱が、まさに地獄なのです。

 人間ごみ箱を集めて、保留しておくところが地獄なのです。罪人たちがまさにごみ箱に直行です。申し訳ありません。先生もこんなことは言いたくないのです。

 皆さん、あるお金持ちの紳士が数千万ウオンの家を建てるとして、ごみ箱をまず造ってから家を建てますか? 家を建てて暮らしてみて、クズが出るのでそのクズを集めるのにごみ箱が必要になるのです。同じように神様がごみ箱のような地獄をまず造っておいて、天地を創造されたでしょうか? これはもっての外の話です。地獄は堕落の報応として生じたものです。イエス・キリストや救世主という方が来なければならないのも、人間が堕落したからです。祈祷やら宗教やらいうものも、本来は必要ないものなのです。本然の人間生活には何らの必要もないものが、堕落によって必要になってしまったのです。


 二つの目的を持つなら除かれる

 皆さんは一つの目的に向かって行く人間ではなく、一つの目的を持っている人間ではなく、二つの目的を持っている人間なのです。このように二つの目的を持っている人間は、一つの目的を中心に摂理される神のまえに置き代えられるのです。ですから人間は堕落したというのです。

 本来は善のみのために、一つの目的のみに向かって行くべき人生なのです。ところがこの人生のまえに、どのように悪が侵犯して入ってきたのか? これが人生におきまして、恨の中の恨であり、世界の恨であり、宇宙の恨として残っているのです。

 この悪をどうしなければならないか? 悪が完成したところに善の目的が成るでしょうか? 駄目です。それで人間には宗教が必要になったのです。宗教がまさに二つの目的をもつ人間を、一つの目的のみのためとする人間に変化させるのです。しかし宗教だけでも駄目なのです。

 皆さんは二つの目的を持っているので、こうだああだとなるでしょう? そうですか、そうじゃありませんか? そうじゃありませんか? 二つの目的を持つ人間は、こうだああだとなるのです。皆さんはこうだああだとなる人間を、好きですか? そんな人々は行く所ごとに除かれるのです。そんな人々は済みませんが、除去しなければなりません

 天宙はああだこうだとする存在、二つの目的に向かってゆく存在のために創られたのではありません。創造主神様が、一つの目的をもって創られた被造世界ですから、この被造世界は一つの目的の世界を指向して行かねばなりません。これが天理法度なのです。ですから二つの目的を持って、ああだこうだというときには除去されるのです。

 皆さんはああだこうだとしない場、一つの目的に向かう場に立っていますか? でなければ皆さんは、間違いなく審判を受けなければならないのです。

 二つの目的を持つ人々が理想として構成する世界は、ああだこうだとする世界の他にはならないのです。なぜならば、その世界を構成する人々がああだこうだとする、二つの目的を持っている人々であるからです。その人々には変わりうる可能性が、百%介在しているのです。これを我々が、断ち切らなければならないのです。

 本来、人間は一つの目的のために、一つの創造目的のために、即ち神様が指向される通りに従って創造されたのです。しかし今日人間たちは 二つの目的をもってああだこうだとしているので、正してあげなければなりません。そのままにしておいて、本心が指向する通りに行けるでしょうか? できません。でありますから、この二つの中の一つを叩きつぶすのです。それでは心と体の二つのうちの、どちらを叩きつぶすのでしょうか? まさに体なのです。

 叩きつぶすには戦争のように砲をぶっ放して叩きつぶすのですか? 違います。砲は一度受けたらそれきりです。二つの目的を持つ人間に一つの目的を持たせることは、強制して打ってできることではありません。自然的に「私は捕虜になりました。私を捕虜にして下さい」と、天理の公法のまえに現れさせなければならないのです。ですからこの作戦が最も大変で、最も難しく、最も耐え忍ぶ作戦なのです。

 ですから二つの目的の世界を整備して来られる神が、その苦労をしておられるのです。それでは神は、喜びの神でしょうか? 違います。しかし今日のキリスト教徒は、喜びの神だと思っているのです。栄光の宝座に座っておられる神様なのだから、何の不足があるだろうか? 天地万物がそのお方のために生じたのだから、何の悲しみがあるだろうか?クリスチャンはこのように考えているのです。

 皆さん、祈祷はなぜするの? 役に立たない祈祷は、なぜしますか? 神様は皆さんが祈祷してくれることを望んで、皆さんを創ったのでしょうか? 神は人間が自分の事情をもって祈祷することに対されて、苦痛を感じられるのです。だから悲しみの神であるという結論が出るのです。


 宗教の教えは肉的世界を否定すること

 神様がどれほど悲しんでいることでしょうか? 人間が八〇年間、呻吟して苦労することを、神の悲しみに比べられるでしょうか? 数多くの人類を子女として復帰するために苦労される神、一つの目的世界へ率いて行くために苦労される神と、人間とどちらがより悲惨でしょうか? 神がより悲惨なのです。今日人間は神に対してあまりに知らないのです。知ってみれば「あ! こんな事情をもっておられたお方なのだな、そうだったのか」このようになるのです。

 我々はこの体を叩きつぶさなければなりません。これが最も骨の折れることです。この大変な分野を、誰が責任を負うのか? 宗教が責任を負わなければなりません。これを叩きつぶすのに、誰が責任を負うのか? 初めて来た人たちはしっかりと聞いて下さいよ、宗教が責任を負らなければならないのです。

 宗教は尾根となる教えです。誰もがこの教えを知らなければ、天法のまえに立つことができません。それでは宗教の教えは、どのような教えでしょうか? 体が好むことを教えてくれる教えでしょうか? 違います。宗教の教えはこの体を叩きつぶすことです。こうして良心を解放させなければなりません。分かりますか?

 宗教を確実に知らなければなりません。宗教は何でしょうか? まさにこの体を打って良心を解放させることです。そのようになればどれほど良いでしょうか? 良心を解放させ、肉体を拘束するということが大部分の宗教の教えなのです。

 聖書に空腹の時、ごはんを一杯だけにしないで三杯食べなさいという御言があるでしょうか? この天下に対して傲慢になれ、血気にはやれ、自分の主張をせよ、自分の思いの通りにやれ、人倫道徳だ何だというものはない、という宗教の教えがあるでしょうか?

 この体はめしと汁よりも、もっと良い物を求めるのです。この体は良い場に行っても、さらに良い場に行うとするのです。ですから満足することがないのです。これを救援するには、どのように救援しなければならないか? これを捕虜にして捕えておくのですか?駄目なのです。

 ですから宗教は、何を教えてくれるのか? 宗教の教えの出発は肉的生活、肉的社会、肉的世界を否定するところから出発するのです。これをはっきりと知らねばなりません。 宗教の教えは肉的世界を完全に否定せよというのです。ここから宗教の教えは出発するのです。でなければ体を完全に捕虜にして、良心を完全に解放させなければなりせん。分かりますか? それでは結局、人間に宗教が必要でしょうか、必要ありませんか? これは当然、必要です。国の大統領も宗教が必要でしょうか、いりませんか? アメリカ大統領も宗教が必要ですか、どうですか? 誰にとっても宗教は必要です。宗教は絶対に必要なのです。


 正しい宗教生活

 それでは宗教は何を指向して行くのか? それは天地創造の原則に符合する天倫の道理に従ってゆくことです。即ち、唯一の神が天地万物を創られたのであり、一つの目的の世界に向かって摂理されて行くので、その方向に向かって行くことを教えるものが宗教であることを知らねばなりません。だからといって、統一教を信じなさいというのではありません。宗教がなぜ必要か、はっきりと知らなければなりません。

 宗教はまさに肉的世界の全体を否定して入るものです。仏教もそうであり、キリスト教もそうです。高次的な宗教であるほど、全般的に否定せよというものが多いのです。聖書の御言もこのようなことを教えているのです。

 堕落した人間と神がそのままでは、一つに合わさることができません。完全な解放を受けなければなりません。一つの目的を追究する人間として改造されなければなりません。ですから宗教が必要だというのです。これを皆さんは知るのです。

 育つ穀物が夏頃ポキッと折れたらどうなりますか? 枯れると同時に死ぬのです。その時からその穀物には、時ならぬ冬が始まるのであり、それでお終いになるのです。これは我々に堕落について、比喩で教えてくれるのです。人間の堕落は何と同じでしょうか?

これは春の季節、夏の季節を正しく迎えることができずに、季節の途中で時ならぬ冬の季節を迎えたのと同じなのです。

 宇宙は極めて小さいことから極めて大きいことまで、すべてが関係と関連性を持っているのです。今日科学が発達したのも、種々の公式と法則を発見して、それによって動いたからです。ですから今日のような文明世界になったのです。

 科学文明の世界を先に繰り広げたということは、法則を中心とした一つの公式があったからです。公式は全体の分野にどれほど作用できるか従って、恵沢となるかどうかが決まるのです。我々は宗教生活をするにおいても、名目的では駄目なのです。神は必ず公式的な法度を通して摂理されるので、この公式を知らなければなりません。このような公式的な法度を教えてくれる所が統一教会であり、この公式的な法度が入っているものが統一教会の教理なのです。統一教会の教理は過去から現在まで、復帰摂理歴史がどのように受け継がれてきたかを、はっきりと教えてくれるのです。これが統一教会の教理中、最も重要な内容なのです。

 それでは宗教の生活とは何でしょうか? 本然の基準を再び立ててゆく生活です。

 堕落が何でしょうか? 夏の季節に時ならぬ秋の季節を迎えたことです。今の二〇世紀文明は温帯文明であり、秋の季節の文明だという事実を知らねばなりません。過去の古代文明は熱帯文明だったのです。今は秋の季節の文明圏内に入っているので、枯れかかった枝ばかりが残っているのです。大体すべてのものがそうなのです。民主主義や共産主義がみな秋の季節になっているのですが、絶対にその実を結ぶことができないのです。


 どのようにすれば真のオリブの木になるか

 実りは万民が待ち焦がれるものです。ですから万民が待ち焦がれる実を結ぶことができる一つの基準が、この地上に現れなければなりません。秋がだんだん近づいて来ているので、この実が現れるのです。この実としてこの地上に来られるお方が、天宙を代表して来るキリスト教でいう再臨主なのです。このお方は天宙の中心存在であられるのです。

 今日人間がどんなに努力しても、宗教の道を立てたとしても、神様が本来理想とされた完全無欠の一つの完成した人間を捜し求めることはできないのです。ですから神は未だにその人間を求めて行く過程におられるのです。

 このように完成した人間が求められたら、彼によって完全な夫婦が成されるのです。そしてその完全な夫婦を通して、完全な家庭が成されるのであり、またその家庭を通して完全な宗族が成されるのです。そして完全な民族、国家、世界が成るのです。これがキリスト教思想にある、接ぎ木の役事を通して成されるのです。

 それでは接ぐには、どのように付けるのか? イエス様が「わたしは真のオリブの木、あなたがたは偽オリブの木」とされたのですが、接ぎ木するときは真のオリブの木を切るのですか、偽オリブの木を切るのですか? 偽オリブの木を切るのです。完全否定せよということです。ですから偽オリブの木の根元を切り捨てなければなりません。前枝を切るのではありません。前枝が一つも出ないほどに、根元から切らなければなりません。

 でっかい根元、数百年、数千年の古びた偽オリブの木を切ることは、何にも知らない人が見たら「この狂った人よ、なぜこの大きなものを切るのか?」と咎めるのです。真のオリブの木が実を結ばないときは、偽オリブの木と同じです。実がなければイエスを信じる人も、信じない人でも同じことです。ところが何をこのように信じたと騒々しくさわぐのか分かりません。我々はこんなこの世的なことは完全に否定して、完全に切り捨てなければなりません。そして切るなら元まで、スパッと切らなければなりません。

 切っておいて何をするのでしょうか? 真のオリブの木の枝を一本いただいて、誠精を尽くして接ぎ木しなければなりません。信じるということは、真のオリブの木をいただいて接ぎ木することを意味するのです。これは我々が神の永遠なる真のオリブの木の種として出発できず、善の子女になれずに悪の子女、即ち偽オリブの木になったらです。この偽オリブの木として生まれたのが、まさに堕落した人間なのです。堕落した人間は本来の創造目的を成す人間になれないのです。それで一つの目的に向かって行く真のオリブの木の道に従い、また真のオリブの木の枝を相続して接ぎ木しなければなりません。ですから、キリスト教思想が真であるのです。

 ところで聖書(ロマ書八:一五)を見れば、直接「父よ」と呼ぶことができず、橋をかけて養子の立場で「アパ、父よ」と呼んでいるのです。これは、養子は血統が違っているからです。

 今、この地に生きている人々は善なる神から出発しないで、全部が悪から出発しているので、まるごと切って善のオリブの木の枝に接ぎ木しなければならないのです。それで人の世のまえに再臨思想、メシア思想、即ちこの万民を救うことができる思想が現れなければならないのです。

 父母妻子よりもイエス様をより愛せよ

 それではこの救い主は何をすべきなのか? 真のオリブの木として来て、偽オリブの木であるこの世界三〇億人類を切って捨て、接ぎ木してあげなければならないのです。こうすることによって悪として出発した人間が、悪を審判して善として出発するという条件を得るようにしなければならないのです。それで養子の道理を尽くして、直系の息子・娘になったという場に立つのです。その場に行くことがまさに信仰生活の目的なのです。では皆さん、切るべきでしょうか、切らないでしょうか? 切るならどこを切るのですか? 足だけ切ればいいでしょうか? 足だけでは死にません。首を切らなければなりません。そうすれば死ぬのです。

 人々は食べるために働いています。良いことを見て、聞いて、食べて、良い物を着ようとします。先生は合同結婚式をたくさんしたのですが、この青年男女をじっと見ていると顔ばかり見ようとするのです。顔ばかり見て、他のことは見ようとしないのです。ですからどこを切らなければなりませんか? 首を切らなければなりません。この話は人間が必要とするすべてのものを、まるごと掃き捨てるということです。そうした次に、先生の頭を持ってきてくっ付けなければならないのです。

 それではどうなるでしょうか? 芽が同じなのです。イエス様の芽になるのです。即ち偽オリブの木に、真のオリブの木を接ぎ木すれば、芽が同じになるということです。

 それでイエス様がこっちに行けば芽もこっちに行き、イエス様があっちに行けば芽もあっちに行くのです。このようにイエス様が動かれると同じように、天に向かって方向を定めて行くことによって、初めて二つの目的の人間になるのではなく、一つの目的基準に立つのです。

 神の救援摂理は、天倫の法度を人間が自然的に従って行くようにつくることであることを、皆さんはよく分かりました。今ここまで話しましたので、否定することができないのです。

 皆さん、首を切りますか? 切らないの? それで皆さんはこれを切ることをする過程にあるのです。それでは、真のオリブの木として、人間に接ぎ木するために来られたそのお方を迎えて、我々は何を受けるのでしょうか? 新郎たるそのお方のまえに、我々は新婦なのです。この新郎から生命の新芽を受けて、愛の新芽を受けなければなりません。それでこそ初めて、新世界への新しい出発をして、摂理的な目的を完成する子女たちになるのです。これが大体的に見た、摂理観なのです。

 こんな観点から見るとき、何ほどでもない者が優れていると傲慢ぶって肩をいからしていたら、一時に打たれてしまうのです。また目をむいてこの世界をわが世界にするという盗人心をもって歩きまわっている者たちは、すべて打たれてしまうのです。

 二〇世紀の文明は一つの目的に向かってのみ越えようとする、秋の季節を迎えた枯れた偽オリブの木と同じなのです。この木は再び春の季節を迎えて、真のオリブの木の枝を受けて接ぎ木されることによって、新しい季節へ越えて行けるようになるのです。

 ですからこの堕落した世界にメシア思想が必要ですか、ありませんか? 必要でなければ止めてもいいです。必要ですか、ありませんか? どれほど必要ですか? 父母妻子以上に必要でしょう。それでイエス様は語られて「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない(マタイ十:三七)」とされたのです。誰よりもイエス様を愛せよという御言です。

 偽オリブの木を中心に愛するそれ以上の、誠精をもって真のオリブの木に侍って愛さない限り、接ぎ木することができないのです。こんな観点から聖書を見れば「そして家の者がその人の敵となるであろう(マタイ十:三六)」という内容が当たっていることを知るのです。まるごと切って捨てなければならないのです。それで父母も知らない、夫も知らない、息子娘も知らない、世の中も知らない、暮らしのことも知らないと、全部切って捨てなければなりません。それでは誰が反対するでしょうか? 夫たちが反対するのです。あなたはどうしてこのようになったのか、といって迫害して反対するようになるのです。それでは家の中が滅ぶのです。サタンの世の家は滅びなければなりません。それで家の者がその敵となるという言葉が出たのです。「ああ 、こうなるからこんな言葉が出たのだなあ!」と理解できるのです。

 こんな原則的な基準の天倫によって信仰生活をしなければならない人々が、これを知らないでいるのです。


 誰が異端か

 皆さんは接ぎ木されましたか? 接ぎ木されていないのです。今までの皆さんの生活観では駄目です。来られるメシアの生活観によって、転換しなければなりません。

 それでは今から二千年前に来ては行かれたイエス・キリストは、人類のために何として来られたのか? かのお方は真のオリブの木として来られたのです。それで偽オリブの木たちに対して接ぎ木しようとしたのですが、その真のオリブの木を切り捨てたのです。イエス様が十字架につかれたのです。好んでついたのですか? 好んでついたのですか?

イエス様が好んでついたのですか? 歴史路程において悲しい事が何だったでしょう?

それは真のオリブの木として来られたイエス様を殺した事です。これは悲痛であり、歴史的な神の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。こんな神の事情をクリスチャンは「あ、我らの主は十字架に、わが罪のためにつかれたのだ」と信じているのです。 ですからこの地上に根を張っている人間たちを真のオリブの木にすべく、再び来られる主は、真のオリブの木として来なければならず、霊的に来るのでは駄目なのです。このお方は必ず人間として来なければならないのです。雲に乗って来るというのは空想であり、想像なのです。私がどんなに知ってみても、そのようにはならないのです。

 私が今までこのようにやってきて、どれほど多くを知ってみたでしょうか? 統一教会の文先生を捕らえて殺そうと、世界がどれほど迫害したか知れません。誰が悪口を言われたくてこの事をするでしょうか? よほどばかでこの事をしているのでしょうか? 知ってみて、また知ってみて、間違いのない原則によってなっていることなのです。これを知っているがゆえに、この道を歩んでいるのです。

 それで、主は雲に乗って来るのですか? 水蒸気に乗って来るという話ですか? 神々しいことですが・・・。このように考えることが、まさに異端です。社会を惑わし、実際の地上に新しい世界ができることを否定しているのです。そうではありませんか? 荒唐無稽なこと、雲をつかむような話を教えているのです。「信ずれば天国に行く」という話で欲張りにして、「信じなければ地獄に行く」という話で恐喝、脅迫して、キリスト教が今まで発展してきたのです。「信ずれば天国に行き、信じなければ地獄に行く」これは半恐喝です。これではいけないのです。

 ですから終わりの日になって、真と嘘が明白に明らかにされることによって、キリスト教自体が社会から批判され、真理から批判されなければならないのです。

 今日の社会では、教会の牧師や信仰生活をする人々の話を、おかしいと思っているのです。おかしいと分かっているのです。この社会が真理の分野においては、遙かに先に立っているのです。ですからより次元の高い真理で解明して、世界を引導することができる宗教の理念が出なければならないという結論が出るのです。

 それで来られる主は、サジとハシを持って来なければならないのです。即ち人間として来なければならないということです。こんな話をしてまた、統一教会が異端でしょうか?見ていてごらんなさいというのです。既成教会員たちは我々を見て、枝が違うというのです。しかしながら、終りが違うことが異端ではありませんか?


 神様が選民を育てる方法

 さあそれでは、神様はどのようにされるのでしょうか? 一方は撤回して、一方は選択しなければなりません。そうするために選民を呼び出さなければなりません。神が選民を呼ぶためにどうされたか? 悪なる世に隠しておくるのではなく、必ず抜き出すのです。それでノアも呼び出されたのです。

 真が真であるためには、偽りの世において、真として認定を受けなければなりません。サタンも「その通りです。あなたの息子は真です」と認定しなければなりません。真として認定を受ける過程を経なければ、真が真として結実することができないのです。

 このような立場で摂理される神様ですから、選民を呼び出す神は常に苦労する場、常に打たれる場、常に悲惨な環境、それで数多くの人々が「あ! 私は嫌だ」と後退する立場に立てせておいて、選民を抜き出すのです。そのように抜き出せばなるでしょう? すべてが手を打って「アイゴ-おれは嫌だ」という場で抜き出すのです。完全否定の立場に立たせておいて、抜き出さなければならないのです。こんな場を通さなければ、選民圏を造ることができないので、神様はノアをして人間の世の中では、到底信じられないことをするようにされたのです。

 神様はノアに一二〇年間、アララテ山で箱舟を造れと言われたのです。これはまことにすてきな命令です。しかし冷静に考えてみれば、気違いの中の気違いのような命令です。しかし神様は早く世の中と絶縁して、早く世の中を否定して、早く世の中と離れるようにするために、こんな場に追い込まれたのです。知ってみれば神は真に凄いお方なのです。 イエス様はすべてのことに信じて従い、最後には十字架を背負って勝利されたので、メシアとなったのです。このように世を否定する場に立てることが、天の選民を選択するための方法なのです。

 ノアが一二〇年間、箱舟を造るときは気違いざたといわれ、狂った男だと噂され、迫害されたのです。初めは近い親戚が反対したのであり、だんだん拡大して従兄弟たちまで反対して、遂には全体が嘲弄したのです。このようにして民族が離れてゆき、宗族が離れ、遠い親戚たちが離れ、従兄弟たちが離れ、それで結局引くにも引けない群れだけが残ったのです。その群れがまさに自分の食口なのです。

 ノアの妻もどれくらい反対したか、考えてみて下さい。ノアは妻からたくさんの反対を受けたのです。こんな内容は聖書にはないのですが、常識的に考えてみて下さい。しかしノアは神のまえに、ありったけの誠精を尽くしたのです。


 神様に最も近い宗教

 今までの歴史を見ると、悪が善を打ってきたのです。しかし善も悪を打ったのです。なぜなら、まず悪が善を打ったので、反対に善が立ち上がって悪を打ったのです。これがまさに公義の法度なのです。

 ノアは万民が反対して、嘲弄して迫害する立場にまで追われたのです。このように神はノアの側になる人々が、一人もいない場まで引っぱって行ったのです。しかしながらノアの八人の食口だけは追い立てることができない因縁にあるので、神様は摂理することができたのです。

 このようにして時が来たので、神様は罪悪なるこの世を審判されたのでした。即ち、善が打たれたので、三倍まで蕩減させることができるのです。悪が善を侵犯するときには、反対に善が蕩減をさせることができるのです。であれば悪は損害賠償をしなければなりません。そのようになるのです。

 サタンがどんなに何だかんだといっても、ノアが天の側に立っているので、神は始めて審判をすることができたのです。こんな原則に立脚して、選民思想を抱いてきたイスラエル民族史を探って見るとき、アブラハムも故郷を離れて流浪の民となり、イサクも祭物になり、ヤコブもハランに逃亡して苦労したのです。そしてモ-セもエジプトに行って苦労したのです。そしてイエス様に背反したイスラエル民族は、今まで国のない民として、蕩減を受けてきたことを知るのです。

 このようなことを見てみるとき、選民として立てられるためには全世界が反対したとしても、天のみに向かって行く場に立たなければならないということを知るのです。そんな意味において、世界史的な終末期に選民圏を完全に立てることができるある理念をもって出る宗教団体があるとしたら、その宗教団体はこの世界が両手を挙げて反対する場に立たなければならないという結論が出るのです。分かるでしょうか? だからといってその宗教団体が、統一教会だけだというのではありません。このような事実を知っているので、ここで語るこの人間も今まで、四〇余年間反対されて監獄に囚われ、追われる立場に立ったのです。

 世の中の人々が統一教会の名前だけ聞いても、頭がガンガンする時が早く来いというのです。

 既成教会員たちは、統一教会員を最も憎んでいるのです。聖書にも「家の中の食口が怨讐」とあるでしょう? 神を信じるなら、食口となり兄弟になるのであって、そうでなければ怨讐になるのです。それゆえヨセフを、十人兄弟が売り飛ばしたのです。このように今日、既成教会が統一教会を追い出しているのです。一家の食口なら同じであるにもかかわらず、多くの教団が今日まで統一教会を死の場にまで追い込んでいるのです。

 反対を最も多く受ける人間は、神のまえに近づいて立つことができ、反対を最も多くする人間は、サタン側に近づいて立つのです。このような原則を握って今日まで先生は、統一教会を発展させてきたのです。

 だからといって先生が、既成教会の牧師や既成教会の信者たちを怨讐視することはないのです。イスラエルの国が凶年に入って飢えるようになるや、ヨセフの兄弟たちがエジプトのヨセフを訪ねてその膝元に屈し、食料を乞うてヨセフと一つになったように、終わりの日が近づけば近づくほど、だんだん統一の世界が成るようになるのです。

 これから教会に、不毛の風が吹いてくるのです。これは宗教指導者から信徒全体が、冬の木の葉が落ちるように、落ちてゆく立場におかれるのです。その時には心霊の凶年になったことを自認するようになるのです。しかしながらそんな凶年の過程においても、真冬の三か月の過程においても、これを貫いて越えてゆく生命力を持つ完全な種、即ち完全な真理を持つ宗教が出てこそなのです。

 真冬の三か月を過ぎれば、必ず春の日が訪れて来るのです。このように生命の種を持つ宗教は、時が来れば天地調和の法度に従って陽の当たる地を迎え、新しい生命体として出発するようになるのです。即ち、新しい段階へと越えてゆくのです。

 統一教会の使命

 昔には試練の暴風が吹いたのです。外的な試練よりもさらに強い、霊的な試練の暴風が吹いたのです。それゆえその試練にうち勝つ生命力を持った、真の真理を主張する宗教が出なければならないのです。でなければ秋が来て冬が近づくこの時に、新しい春を迎え、新しい芽として出発する一つの、天的な基盤を立てることができないのです。

 神はこの世を滅ぼすためではなく、新しい春を迎えるようにするために、試練と苦痛の過程を経させるのです。こんな立場にある教会が、まさに統一教会なのです。今我々は新しいのろしを、高々と掲げるのです。

 皆さんも知っているように、統一教会の「統」の字は率いるの「統」です。我々がこのような名前を持っていることは意味が大きいのです。それで我々は襲い来る死亡の波濤を押し退け、生命の力によってあらゆる真冬の季節を克服しなければなりません。こうして春を迎え、決して侵犯を受けない、天理を代表する一つの核心的な教団にしなければなりません。これが統一教会の使命であるのです。新年を迎え、皆さんはこれを確実に知らねばなりません。

 ヨセフが自分を殺そうとした兄弟たちを許し、歓迎したように、我々もそのようにする時が来るのです。我々に反対した者たちが統一教会に来て、その何かを分けてくれとう時が必ず来るのです。であれば私たちは彼らを愛によって抱いてあげなければなりません。ヨセフが怨讐のような兄弟たちを、刃で復讐することなく愛によって許したように、同じ父の同じ息子・娘であり、同じ血族であることに間違いない彼らを、愛によって抱いてあげなければなりません。

 天地の大主宰たる神は、公義の法度を中心に、天地を主管されるお方ですから、どんなに悪なるサタンも父母の場におられる神を侵犯することができないのです。同じように、ヨセフは父母を中心とする同じ兄弟たちであり、父母が愛する兄弟たちですから、彼らを打つことができないという心情基準をもって、父母の側で彼らに対したので、孝子のなかの孝子になることができたのです。何の話か、分かりますか?

 統一教会はこのような雅量をもって、既成教会のために与えなければなりません。先生は既成教会のどんな牧師も羨むことはありません。いつかは彼らが我々統一教会を訪ねて来るのです。そんな一日が来るのです。

 歴史の目的は外的な発展であり、宗教の目的は内的な発展です。今日この世界を神が発展させてきたことは、なにゆえでしょうか? 外的に一つの目的の世界を準備するためなのです。即ち、暮らしの足場を築いておくためであったのです。


 統一教会の出現の必然性

 神様は人間を創造される前に、何を創造されたでしょうか? 天地万物を創造されたのです。しかし万物の主管主として立てた人間が、堕落することによってこの万物を失ったので、人間は神のまえに背反者の位置に落ちてしまったのです。

 ですから神様は全世界が神の懐に安らぐことのできる外的な基準を、再び立てておく摂理をされているのです。これが今まで神様が摂理された政治、経済、文化を中心とする社会の発展であり、歴史の発展なのです。それで一つの目的のために行っているのです。

 未だに人間が、体と心が完全に一つになることがないのです。体と心が完全に統一された日がないのです。それで神は外的な基準を築いて来られ、今世界的な統一型を得てきたのです。同時に神は内的に宗教の理念を通して、内的な基準を築いて来られたのです。宗教は外的なものを除去して、この世に足を踏み入れない場に立たねばなりません。そうして一つに統一された基準を立てなければなりません。このようにして互いに吸収されて、統一されなければならないのです。

 今日、キリスト教を中心に四大宗教圏が形成されているのです。外的な面においてだんだん統一されてゆくことによって、内的な面においても統一される基盤を得なければならないのです。それで何をしようというのでしょうか? 一つにするのです。本来一つだったものが、堕落によって二つになったので、再び一つにするということです。

 お一人の神が一つの目的をもって人間を創造して出発されたのに、人間が堕落して二つの目的を持つてしまったのです。それゆえ歴史発展を経ていって、本来の一つの目的を指向する姿に戻ってくるのです。選民の因縁を通して、選民圏を成して一つに統一させていって、本然の基準によって戻ってくるのです。完全な人間として出発する歴史になることができなかったので、悪なる人間を審判していって、完全なる人間を再び出発させ、新しい世界と新しい天宙を出発させなければならないのです。

 神様は外的な万物をまず創造されたように、外的な摂理からして来られたのです。そしてこれに対比して、内的な宗教を発展させて来られたのです。ところですべて政治世界は争えば争うほど滅ぶのですが、宗教はそうはならないのです。

 皆さん、良心がああだこうだとするでしょうか? 良心は常に一つの目的を持っているのです。宗教は一つの目的を中心に天倫の方向に従って、内的分野に責任を負ってゆくので、滅びようにも滅びることがないのです。ですから宗教歴史は昔でも今でも変わることがないのです。しかしこの世界は変わる歴史過程をたどって、一つの目的に向かって発展して行っているのです。このようにして発展したものが、今日の現世なのです。一つの目的世界を成すことができる時代がこの時であることを知る我々は、何をしなければならないか? 内的に統一される方向をもって、すべてのもを収拾しなければならないのです。 このように一の目的を指向する神の摂理的な立場から見るとき、この時代は統一教会が現れるべき歴史的な時代なのです。何の話か、分かりますか? 統一宗教である統一教会が歴史的な帰趨から見て、きっとこの地に現れなければならないのです。


 宗教の理念によって世を治めるべき時

 それで何をすべきか? 世界を代身して統一の起源を造り、統一される人間として完成させることによって、統一された目的を果たす新時代を成さなければなりません。この世界は愛を中心に出発する世界です。これが摂理の概観なのです。

 今日まで体と心が闘って一つになれなかったように、宗教と科学は一致しなかったのです。しかし終わりの日になれば、完全に合わさらなければなりません。しかし科学が中心ではなく、宗教が中心でなければなりません。人間もやはり外的な体が中心ではなく、内的な良心が中心なのです。それで良心の道理を立ててゆく宗教の理念によって、世を支配する時が来なければならないという結論が出るのです。ここに意義はありませんか?

 このような世界が成れば、どのようになるでしょうか? その世界は神の目的を成す世界ですから、ここから神の愛が表れてくるのです。もしも誠精を込めて造る物が願う通りにみな成ったら、皆さんはどうしますか? 村や町じゅうに噂を広めたく、またその物がその国の代表的な傑作であったなら、世界に誇りたいのです。愛とはまさにここにおいて表れるのです。愛は目的を成すところから表れてくるのです。それで男と女が愛するということも、男と女の目的を成すところから可能になるのです。皆さんはこれを知らねばなりません。

 ですから神の愛も、人間の目的が成るところに始まるのではなく、神の目的が成るところから始まるのです。従って宗教は、神の愛を教えてくれるものです。

 皆さんの良心は体が悪なる行動をするとき、「やあ、よくやった、よくやった」としますか? しないのです。皆さんはこれをよく知っているのです。我々の良心は常に「善であれ、人間の道理を守って行動せよ」と命令するのです。

 皆さんがこの良心が願う通りにすれば、心はどうでしょうか? 心が良いの、悪いの?(良いです)なぜ良いのですか? 良い包みがパッと飛び出して、そうなのですか? また、良心が願う通りにしなければ苦しむでしょうか、愉むでしょうか? 苦しいの? これはすべてが苦痛として感じるのが事実です。ですから我々は死ぬのも共に死に、生きるのも共に生きなければなりません。であれば万民に対して救援摂理をすることができるのです。

 それでは良心の通りにすると、なぜ良いのか? これは一つの目的に向かって従ってゆくので良いのです。宇宙の運勢はどこへ向かって動いているのか? 大きなもの、小さなもの、すべてがどうしようもなく一つの目的にむかって動いているのです。また天運によって成されたこのすべての事由も、知ってみればその目的に協助するためなのです。磁石の周囲に金属があれば、磁石は金属を吸い寄せようとするのです。これと同じように、天理の公法があれば、すべてのものはそれに向かって動いて行くようになるのです。一つの目的に向かって行くということは変わらないのです。変わるものはこのような立場を離れた立場なのです。

 皆さんが望む目的が成れば心が喜びますか、苦しみますか? 皆さんが何かの事を成すとき、心が願う通りにそれが成れば気分が良いでしょう? なぜ気分が良いのか? それは自分の心を中心に、心が願う価値に接近して入ってゆくからです。それゆえだんだん近づいてゆくほど、皆さんはその目的基準に相当する心の喜びを得るようになるのです。


 審判と天宙の公法

 天の運勢は天倫の大目的に向かって動いて行っているのです。同じように人間の良心も天の運勢と接することのできる場にあるので、天倫に従ってゆくのです。

 十なら十の目的を備えて行くべき人生の目的であるにもかかわらず、この十の基準で九も成すことができないのです。皆さん、事が失敗すれば心が恨めしいですか、恨めしくありませんか? 恨めしいというのは、自然的な法度によって作用することなのです。もしもこの宇宙の目的圏内から、完全に後退したらどうなるでしょうか? 存在価値がないというのです。存在価値がなかったら、この宇宙の公法は破滅するというのです。

 良い悪いはすべて、どこで判断するのか? 人間の良心作用によるところの善の目的観を中心にして、その価値基準に従って左右されるのです。ある価値を追求する分野に同参できる量が、大きくなるときは心が喜ぶのです。しかし同参したその善の場から後退するときには、その量が大きければ大きいほど、心の苦痛も大きいのです。皆さん、病気になるとなぜ痛いのですか? 病気になるとなぜ痛い? 痛みの袋が裂けたからですか?

 ここに宇宙の標準が現れるのです。宇宙は完全を中心として、授け受ける法度で回っているのです。しかし一つになっていないそれ自体は、宇宙の公理に不合格な者です。不合格者は公理の法度によって除かれなければなりません。除去される分量が多ければ多いほど、宇宙の力がこれを押し出すのです。ですから病が起きると痛いですか、痛くないですか?

 これを見るとき、自然的に終わりの日になればこの世界は、一つの統一世界が成るのです。分かりますか? 統一がいつ、どのように成るのかといって、絶望状態で落胆してはなりません。この宇宙は完全に一つの目的に符合することのできる方向を得なければなりません。

 それでは皆さんは良心の通りにすべきですから、すべきではありませんか? 良心の通りにすることは、善となるためです。善になれば、どのようになるか? 神の目的の世界へと行くのです。神の目的の世界へ行って、何をするのでしょうか? 神様に出会わなければなりません。

 それでは人生の最高の目的が何でしょうか? 堕落した人間におきまして、最高の希望が何であるか?・・・「信仰、希望、愛、この三つはいつまでも存続するものであるが、その中で最も大いなるものは、愛である(コリント前一三:一三)」というこの御言は、真に良い御言であると考えるのです。しかしながらすべての人間が、これに対する完全な内容を知らないです。ですから皆さんは確実に知らなければなりません。

 善なるものは宇宙が保護して育成するのです。自由と解放と平和が宿るのです。そしてここに誠精が共にあるので、引力が生じるということを知らねばなりません。

 この世の法と天の法

 皆さん、良心が作用するときは恐ろしいですか、恐ろしくないですか? 天下に恐ろしいものがないのです。ここには権勢があるというのです。善はこの宇宙が保護し育成して自由と平和が宿り、生命と権勢が共にあるのです。これを屈伏させるものは天地に何ものもありません。ここに異議がありますか? 善であるときには、大統領が恐ろしくないのです。どのような六法全書が適用されても、関係がないのです。どんなに刑法が多くてもその法とは何らの関係がないというのです。ですからこの世の法は、良心の基準を統括することができないのです。即ち、この世の法は善の権限を侵犯することができないという結論が出るのです。

 それでは善の権限は、誰のみが主管できるのか? それは絶対者であられる善の主人のみが、主管することができるのです。人々は悪いものが善を主管することができないことを知っています。

 皆さん、国家の法をじっと見て下さい。何をするな、ということではありませんか? 何をやったら刑法何条には臭いめし、何項には何年の懲役といって罰を下すようになっているのです。

 ですから悪が何でしょうか? 善には自由と解放が宿っており、宇宙が保護育成するのであり、世界と共に権限と権勢が共にあるのですが、悪は制裁を受けるのです。宇宙の公のまえに制裁を受け、国家の制裁を受け、全体社会の制度のまえに制裁を受けなければならないのです。この悪を歓迎する存在は一つもないのです。ですから満宇宙には悪が存在することができないのです。

 今日この世の法は、制裁の法度なのです。大韓民国憲法をじっと見て下さい。心が良いおじいさんがいるとき、賞金を与えよと法があるでしょうか? 堕落の世には善に対する報償法がないのです。またなくていいのです。もしもあったら、神様がやることがなくなります。

 最後に公義によって審判を受ける日が来たら、どうなるでしょうか? 神は悪の法を打ち捨て、善の法を立てられるのです。その時には善なる人々に賞金を与える時代になるのです。皆さんは悪なるこの世において排斥され、悲しみを受けたとしても、善なる法と価値を中心に仕事をしなければなりません。であればいつかは善の福地で天法、即ち天的な憲法を中心に、善に対する報償を定める法が生まれるのです。天理の公義に従ってそんな法が現れる世界が、まさに地上天国なのです。地上天国が成される時に、皆さんは報償を受けるのです。

 悪なるこの世に生きている人々も、良心があるのです。彼らもこのような根本的な法があるということを、少しではあっても知っているのです。

 統一教会はこれから、善なる法を創る運動をしなければなりません。善なる人々がみな集まって、国際的な法を創って善なる人、善なる事をした人には個人別に選定して賞金をあげる、そんな時代が来なければなりません。ですから悪は制裁を受けなければならないのです。


 善悪の基準を確実に知らねば

 善は保護育成され、自由と解放が宿るのであり、真理が永遠に共にあるのです。人類に希望が宿り、天国を成すようになるのです。神と対応することができる権限が生まれ、神と同席することができる権限が生まれるのです。ここにはすべての分野があります。

 悪は制裁を受けるのです。制裁を受ければどのようになるでしょうか? そうなれば悪はなくならなければなりません。悪には平和とは反対に不安と恐怖があるのであり、生命の代わりに死亡の権勢があるのです。

 人間が罪を犯して、地下室や千丈の地の底に潜むとしたなら心がおだやかでしょうか?悪がもしも善を侵犯したとしたら、悪に損害賠償をしなければなりません。しかしながら善は悪を打つことができるのです。ですから皆さんはこうでも信じ、ああでも信じなければならないのが、善であることを知らねばなりません。それゆえ良心は善を、真情から愛しているのです。

 悪は常に善から叩きのめされるのです。もしも悪が善を打ったときには、何千万倍の損害賠償をしなければなりません。天道をもってこの地に来られたイエス様を十字架に釘づけたことも、悪が善を打ったのですからこれに対する損害賠償をしなければなりません。ですからイスラエルが滅びてなくなったのです。ドイツのヒットラ-に六〇〇万のユダヤ人が虐殺されたことは、イエス様を殺した罪に対する報償なのです。

 今日この世界が苦痛を受けているのは、すべてが悪が善を打ったことに対する報償なのです。この報償の代価を決定する公判の日が、まさに大審判の日なのです。どうかこの日が来れば良いのです。皆さんは嫌でしょうか? 先生が悪口をたくさん言われているので審判を適当にやればどうかといえば、皆さんは恐らく嫌だというのです。

 堕落した世を、神が共におられる圏内に発展させてゆく過程で、どれほど多くのキリスト教徒が虐殺されたでしょうか? 殺され、殺され、また殺された悪の代価を払って、今日まで復帰してきたのです。

 善なる場において悪を打つなら、結果は悪ではなく善になるのです。ですから悪を行う者を打てというのです。何の話か、分かりますか? この悪を許すことなく打てというのです。であればその悪が滅びるごとに、それだけ皆さんは善の功績を積むことになるのです。悪が世界を滅ぼしたので、悪を打つ行為に対する報償として、世界史的な勝利の賞を受けなければなりません。分かりますか?

 皆さんは善悪に対する基準を、はっきりさせなければなりません。皆さんは今、制裁を受けていますか? これは良くないことです。制裁を受けるということは「おまえは滅びの道に入った」という警告を受けることです。

 愛する息子・娘を食べさせるのに、お金がそんなに貴いでしょうか? 自分の生命と自分のすべてのものを投入しても、息子・娘と取り替えることはできません。この貴い息子娘を大宇宙の目的のまえに、極めて清い贈り物として捧げなければなりません。清く誠精を込めて育てなければなりません。ところが盗みをして食べさせるのですか? これは愛の法度を蹂躪することです。目的の世界へ越えてゆく愛の法度を蹂躪することです。これを知らなければなりません。誠精を込めて清く育てるべき子女を賄賂を貰って育てる? 終いにその後孫が父母を恨むのです。愛する子女のために誠精が通じる場で育て、保護しなければなりません。このような愛の法度があるゆえ、宇宙はそんな群れが残りうる歴史世界へと発展して行っているのです。


 善の方向と悪の方向

 宗教が指向する善の場へと行くことが、まさにサタンのまえに勝利することなのです。 悪と善の方向はどのように違うのか? 善は常に絶対者たる神を中心に相対的な立場に立つことであり、悪は自分を中心に主体的な場に立つことです。善なることとは何か? 自分を犠牲にして、全体目的のまえにプラスするものが善です。それでは悪とは何か? 全体を自分に引き寄せることです。悪と善は方向が異なるのです。体は全部、自分が願うことだけをしようとし、心は全部、体が願うことをしないようにしようとするのです。方向が異なるのです。

 個人主義思想は、天地間に許すことができないものです。それゆえ個人主義の思想は終末にはすべて、むごたらしい運命に逢うのです。それで愛する妻子も、父母も、宗族も、国家もすべて、失う段階に入ってゆくのです。自分一人を中心にゆくことは、終わりの日にはすべて整備されなければなりません。宇宙の原則から見るとき、悪は反発するようになっているのです。それで良心は常にこの悪に対して、言うこともなく反対するのです。善は常に悪を排斥するものであり、これは自然の道理なのです。皆さんは悪と善の方向がはっきりと異なることを知らねばなりません。

 皆さん、哀れな人を見れば「や、某よ! おまえはこの人に同情しなければ」と心が命令するでしょう? そうしろですか、するなですか? そのようにしなさいでしょう? そんな哀れな人、あるいは困難な人を見れば、心は助けてあげようとするのです。それでは一日に十人づつ助けたとして良心が「それくらいやればいい。今は休みなさい」とするでしょうか? 良心がそうでしょうか、そうではないでしょうか? 良心はそうではないのです。良心は固執するのです。大韓民国三千万民族のまえに良い事をやった、と良心が休めというでしょうか? そうではないとうのです。良心はさらに三〇億人類のために、良い事をせよと命令するのです。三〇億世界人類のために良い事をやった、と良心が休めというでしょうか? 良心はさらにやれと命令するのです。

 人間はこの人生の目的を失って堕落してしまったので、神と何千年の遠い距離をおいて落ちているのです。行く道は遠く、体がおかれている所は、善の場とは限りなく遠い距離にあるので、良心が休めと命令するでしょうか? 命令するかというのです。良心は本然の価値、本然の位置がどこにあるかを知っているので、これを慕ってその所へづっと行こうとしているのです。しかしこの肉体が現実に留まり、良心が行く道を塞いでいるので、しきりと善なることをしようとするのです。


 神の愛を占領せよ

 本来、人間がこの天宙の目的を達成するためには、この全宇宙を抱かねばなりません。神と因縁を結ばねばなりせん。因縁を結ばなければ目的を達成できないのです。同じように三千万民族が目的を達成するためには、一つの因縁を中心に連結されなければなりません。であれば目的を達成できるのです。

 良心はこの天宙の大目的を達成する因縁を中心にしているので、体をしきりに押し出すのです。体は良心に従って韓国と世界を経て、天と地のまえに行かねばならないのです。この目的点に行って、何をするのでしょうか? 体がこの目的点に到達したと良心が「今ややった、休みなさい」とこうでしょうか? 良心はまた目的を立てて行かせるのです。こうして神を占領しようとするのです。神を占領しなければなりません。皆さんはこれをはっきりと知らねばなりません。

 人間の欲心は終わりがないというのです。地よりも広く、天よりも高いものが、人間の欲心であるというのです。しかしこれは、よく知らない言葉なのです。人間の欲心の終わりとなるものが、良心なのです。それゆえ良心はその目的とするものが、宇宙の目的基準に立ち、宇宙の目的を達成する基準になっていなければなりません。こんな良心は、神を占領せよと命令するのです。

 それでは神を占領すれば良心が「今や終わった。休め」というでしょうか? そうではないのです。またやることがあるというのです。これが何でしょうか? この目的を達成してゆくには、神の胸のうちにある愛を占領しなければなりません。

 皆さん、金持ちの家の婿になるには、金持ちの家のおじいさんの心を掴まなければなりませんが、その方法はどんなものでしょうか? そのおじいさんの一つしかない愛をそっくり占領しさえすれば、その金持ちの家の娘は自分の嫁になるのです。そしてその娘の財産も自分のものになるのです。まさにそうなのです。

 良心は命令するのです。この天宙の目的を占領したと休むのではなく、神を占領したと休むのではなく、最後には一つの目的を完成して、天宙を支配することができる場で、神の胸のうちにある愛を占領せよと命令するのです。

 まさにここにおいて、宇宙の新しい理想世界が出発するのです。良心はこれを知っているので、神様が創造されたその目的の世界と神と、遂いには神の愛まで占領しなければならないことを目標に、皆さんを催促していることを忘れてはなりません。この点をしっかと知らねばなりません。ですから皆さんの良心が有難いですか、有難くないですか?

 我々人間には失ったものをきっと捜し求める行路があるので、七、八〇年の人生はあまりに短いのです。四〇年、七〇年、一〇〇年を生きる人生行路を経て、当たり前の生活基盤をもっては、行こうにも行くことができないのです。

 ですからこれを無視して独裁をしたとしても、一か月に十年、一年に一〇〇年ぐらいの実績を積むことができる場に追い立てなければならないのです。神のまえに行くことができない遠い所に落ちてしまった人間ですから、皆さんの良心は皆さんを休ませることなく追い立てるという事実を知らねばなりません。宗教はこれを教えるものです。これが宗教の目的なのです。

 宗教は神を信じよ、神のみ旨を知れ、新しい目的を持て、新しい天国に向かえ、として神の愛を教えるのです。信仰と希望と愛、この三つは常にあるのですが、その中の一番が何と言いましたか? 愛であるのです。この愛によって天地の法度が現れ、この世の中を正してゆくのです。間違って回ったこの世の中を、正しく回るようにするというのです。


 統一教会が立てる四大目標

 こうして正常的な本然の法度に従って、新しい天地の運勢がこの地球星に宿るそのときが、まさに主が来られる時なのです。主を迎えて目的の世界で愉み、平和の歌を、幸福を満宇宙のまえに高々と誇ることができるその生活が、まさに天国生活なのです。

 それなら審判は何を中心にするのか? これは神の目的と、神の愛を中心にするという結論が出るのです。

 それでは審判の目的はどうすれば成るのか? 善と悪の世の中で、悪を除去して善を繁殖して、一つの目的が完結されるその基準にゆけば成るのです。外的世界の目的もこれであり、内的世界の目的もこれなのです。外的、内的な希望も、神を中心とした一つの目的を成すことなのです。

 神のまえに全体が一つの共同目的を成す基準が成ることによって、始めて心が体を主管することを痛感する天宙史的な勝利の人間が現れるのです。こうして今まで良心が体のまえに制裁を受けたその制裁圏を脱して、良心が体を絶対的に主管する人間が出なければなりません。そんな人が勝利の王者となるのです。そんな人が天国の王者・王女の価値として、この宇宙を主管する万物の霊長という資格者になるのです。

 それでは統一教会員はどのような存在であるべきか? 天宙の目的を捜し求めなければなりません。宇宙の目的を捜し求めるなら、方向を一致させねばなりません。分かりますか? 方向が違えば行くことができません。目的に向かって従う人々は、方向が同じでなければなりません。皆さんは互いに手を取り合って、同じ方向に向かって行くのです。方向が問題です。言い換えれば、事情が問題となるのです。神は春の季節におられるのに、秋の季節にいていいでしょうか? 神は今、道を行っておられるのに休んでいていいでしょうか? これは事情が異なっているのです。皆さんは心情を一致させなければなりません。神は悲しんでいるのに、喜んでいていいでしょうか? 事情が問題なのです。

 神はこんな目的を中心に行っておられるので、過去の神、現在の神、未来の神であられるのです。我々は過去の神の目的が何であるかを知らねばなりません。過去の神の方向、事情、心情がどのようであるかを知るのです。こうして現在の神の目的、方向、事情、心情を知って、未来の神の目的、方向、事情、心情を知らねばなりません。これだけを通過すれば、人間は自動的に完成するのです。

 それで統一教会においては、何を教えてくれるのか? 摂理的な面での過去の神、現在の神、未来の神の、目的と方向と事情と心情を教えてくれるのです。目的は理念の完成をいい、方向は行動をいうのであり、目的と方向は互いに一致しなければならないのです。また事情は生活をいうのであり、心情は通じることをいうのです。統一教会はこの四大原則を立てているのです。理念統一、行動統一、生活統一、心情統一、この四つがうまくできれば間違いなく神の息子・娘になるのです。

 統一教会はこれを教えようというのです。分かりますか? 統一教会が指向する必須要件がいかなるものか? まさに理念統一、行動統一、生活統一、心情統一なのです。これが我々が目的を達成するのに必須要件なのです。この間に皆さんは何も知らないで、理念統一、行動統一、生活統一、心情統一を叫んできたでしょう? この四大要件を完全に知らねばなりません。分かりましたか?




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.04.23 20:41:36
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.