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2021.04.30
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​​ 今年(1998年)7月19日、米国・ニューヨーク州ニューヨーク市のマンハッタンセンターで、「世界平和統一家庭連合(インターナショナル)」の世界副会長就任式が行われ、真の父母様の三男である文顕進様が就任されました。
 このみ言は、その席上、真のお父様が語られたものを翻訳、整理したものです。

(『ファミリー』1998.9月号から)

顕進氏を支持される方々はこのみ言から「第4アダム」は顯進氏であるといった主張を展開していましたが、このときの真のお父様のみ言はジャルディン第1宣言(1995.04.03)の「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」に尽きるものでした。顕進氏は「第4アダム」か、果たして?



​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「世界平和統一家庭連合」世界副会長就任式における御言

(1998年7月19日、米国・ニユーヨーク市 マンハツタンセンターで)


 きょう、このような集まりを持ったことは、統一教会のれきしにおいて、あるいは、先生の人生においてはじめての記念日となると思います。のみならず、神様の願いがあるとしたならば、このような日のあることをどれくらい待ちわびておられただろうかということを考えるとき、私は心からの深い感謝を天の前にささげるものです。

 成約時代の宣布

 アダム家庭においては、神様が一代ならばアダムは二代であり、アダムの息子、娘は三代目になりますが、その三代を見ることができなかったということが堕落です。そうして、三代の歴史を再び起こすためのものが救援摂理であり、復帰摂理の完成である、ということを考えるとき、この三代を中心として天の公的な責任を任命するということは、天国史的な一大事であると考えます。

 三代までは救援摂理の蕩減が終わっていないので、いずれにせよ、顕進君も「世界平和統一家庭連合」の世界副会長という責任を負って、いまだに行くべき蕩減の道が残されているのです。ですから、私たちの願いは、この蕩減の三代を過ぎて第四次アダム圏解放の時代である地上・天上天国の到来を結論づけることです。私たちはそれに向かって前進しているということを、皆さんはよく知っていることと思います。

 この時代において私たちは、「成約時代が到来した」ということを宣布しました。「旧約」とは何かといえば、人間が神様との約束を成し遂げることができなくて失敗したので、その昔の約束を取り戻すための始まりを意味するのが旧約ということです。

 また「成約」とは、その約束を成し遂げようとするだめにメシヤが来られて、それを成就するということです。その基本の単位は家庭を指します。そのような家庭単位が成し遂げられなかったので、「再臨」という言葉を中心として、世界的舞台に立って世界平和というスローガンを掲げて、世界地上天国を受け継ぐことのできる世界統一圏に向かっていくのです。そのように、家庭的完成を世界的に編成して、終えるべき「再臨時代」があるということを私たちは知っています。その時代を、私たちは「成約時代」と呼ぶのです。

 「成約」ということは、"約束を成就する"ということです。それはどのようなことかといえば、私たちが何か国を建てて独立の国を祝賀するというのではなく、また天上天国を建てて、天国創建を祝賀するというのでもありません。

 それは、神様がいちばん祝賀され、迎えられたかった日が起源となっています。神様と神様の息子、娘を中心として、神様が創造理想を願われていた家庭完成を祝賀する日が起源なのです。神様ご自身が、その日を迎えることを待っておられたのであり、それが始まりであったという事実を、皆さんは知らなければなりません。

 私たちは成約時代を宣布しながら、ジャルディン宣言を成しました。「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」を経なくては、家庭の完成を成し遂げることはできないというこ
とを宣言したのです。神様が理想として願われることは、「絶対信仰」の上に家庭、「絶対愛」の上に家庭、「絶対服従」する理想の上で成立する完成家庭を願われたのです。

 そのような日を願っておられた神様は、アダムとエバの堕落によってどれほど悲しまれたでしょうか?

 アダムとエバは万代、億万代のひとり子であったということを皆さんは知らなければなりません。七代のひとり子ではありません。千代、万代のひとり子でもありません。永遠のひとり子、ひとり娘でした。そのひとり子、ひとり娘を失って、生きている者を死の場に追い出さなければならない神様の悲痛な心情がどれほど大きいものであったのかということを、皆さんは考えなければなりません。死ん
でもいない・生きている者を死の場に追い出すというその悲しみ。

 そのために、神様の立場は苦痛の王の立場であり、悲しみの王の立場であられたのです。人間が想像すらできなかった、そのような立場におられたということを、私たちは知らなければなりません。

 統一教会が現れることによって、このような神様の心を越えて完成の成約時代を成し遂げることができるのです。そのためには、このようなすべての悲しみの道全体に責任を負って解放してさしあげなければなりません。

 神様が願われる、家庭における真正な孝子、孝女、また神様の国はありませんでしたが、ひとたび神様の国が現れるときには真正な忠臣、神様の世界が現れるときには真正な聖人、地上天上天国では真正な聖子の道理を立てることのできる、そのような伝統の責任を負ってこられるおかたが、正にメシヤ、真の父母です。そうして、そのようにして完成した成約時代を成し遂げていくことが、真の父母の使命であったということを、皆さんは知らなければなりません。

 「絶対信仰」

 皆さん、聖書にも「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」、「地で解けば天でも解かれ、地で結べば天でも結ばれる」というようなことが記されていますが、なぜそうなのでしょうか?

 神様の悲しみのその峠を、自分が同時に越えていって、神様が悲しい立場にあられながら何億千万代のひとり子を追求するその心自体までも解いてさしあげるべき責任が、私たち人間にはあるからです。ですから、一度死ぬだけではなく、数十回、数百日死んだとしても、その峠を越えることは難しいという事実について私たちは考えてみるべきです。

 そのような心を感じておられる神様を解放しようとするのですから、私たちが神様を信じるというときには、絶対、絶対、絶対、正に永遠に絶対な立場において信じなければならないという概念が出てきます。

 愛についても同じことです。神様を愛するときには、神様は息子、娘を追い出されたのですから、その心情以上に愛さなければなりません。ですから、絶対、絶対、永遠な立場で絶対に愛さなくては、神様のその心を感動させることはできないのです。

​ 真なる信仰が成立するときには、真なる愛がついてきます。真の愛が植えられて芽を出すようになれば、これを育てなければなりません。大きくするためには、絶対的に投入しなければなりません。それは、自分の意識まで忘れて投入しなければなりません。そこで、「絶対服従」という言葉が必要になってくるのです。​

 ところで、「信仰」というものは概念であって、事実ではありません。ですから、(新約聖書の)『ヘブル人への手紙』十一章を見れば、「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。望んでいる「願い」は実体なのですが、それは見ることもできず、触ることもできません。
 神様が正にそうです。天は、私たち人間を絶f的に信じ、「絶対信仰」によって訪ね求めてこられました。ですから、私たちも絶対的に神様のことを信じなければ、実体的愛という根源を連結させることはできません。

 上下関係、左右関係、前後関係において、そのような内容があるということを皆さんは知らなければなりません。愛を中心として上には信仰、下には服従。愛を中心として
右側が「絶対信仰」であるならば、左側は「絶対服従」であり、前を信仰というならば、後ろは服従です。一つの体(たい)を成しています。

 このような苦痛に真剣に取り組まれる、その神様に対して、信じることができないなどという心は、夢にも持つことはできません。

 その場には、自分の意識であるとか自分の概念はありません。ですから、それ自体を絶対視し、それ自体をすべて概念とし、それ自体を実際としなければなりません。「絶対信仰」の前に、その神様が信じられることと同じように、自分も相対的立場で、神様が願われる実体の心を持たなければならないという話です。信仰も、神様と同じ信仰を持たなければならないということです。

 このように見るとき、皆さん自身を中心として、自分という存在それ自体に立ち戻って考えてみたときに、自分においてどこから信仰を求めるのか、ということが問題です。

 皆さんは、神様の前から追い出された人類始祖の後孫です。そのような自分自身の持っている五官、例えば自分の目自体は、「絶対信仰」を持っていますか?  持っていません。ですから、目を信じることはできません。自分の鼻を信じることもできません。そのように、においをかぐこと、自分が聞く音、自分の言葉、自分が感じる触感、それらを信じることはできないということです。

 それでは、自分の体はどうですか?  自分の心はどうですか?  自分の心は行ったり来たりします。

 ですから「絶対信仰」というものは、人間の堕落した後孫からは捜し求めることはできそうにないので、神様を発見するところからのみ可能なのです。「絶対信仰」をもって、「絶対愛」と「絶対服従」の実体としてつくっておいたものを失われた神様が、信仰、愛、服従というものを捜し求めるときに、それ自体は堕落した人間にはないので、どれほどの苦労、どれほどの努力をされなければならないでしょうか?  これは堕落した人間にとって、天を訪ね求めていく一つの宿命的な課題となっているのですが、そのことを人間たちは考えることもできませんでしたし、知ることもできませんでした。

 天は、私たちを喜びの立場で対することができないように追い出されたので、私たちが天に従って行き、対そうとすれば、反対にまた、それを再び追い出さなければなりません。神様が、いつも人間を追い出す立場であられても、私たちはそれを越え、また越え、乗り越えていかなければなりません。たとえ神様が、私たちを個人的に追い出し、家庭的に追い出し、世界、天、地、全世界の何かを条件として追い出したとしても、それに耐えて越えていくことができて初めて、私たちは神様に対する信仰を持つことがで
きるのだと、考えることができます。

 今日、この地上に生きる人類が、信仰の道を歩んだり、宗教の道をたどったり、あるいは、神様を発見するために道を切り開くというときに、天を絶対に信じる立場で切り開いた人は一人もいないのです。全部疑って、自分勝手にあれこれとやりながら、「信じる」とだけ言って信仰の基盤を築いてきたというのが、人類歴史に残された宗教の形態なのです。

 人間は堕落することによって、万物よりも低い立場に落ちてしまいました。そのことによって天は、信仰の道を行こうとする人に対しても、取るに足らない虫けらに対する扱いにも及ばない扱いをされたのです。しかし、そのような扱いを受けたとしても、そのような環境を越えて、この字宙の創造主であられ、主人たる神様を信じようという心を、自分の生涯路程、あるいは信仰路程で求めてみなければなりません。

 そのような環境でも信じようという心を持って、神様が創造主であられ、私たちすべての存在全体の生命の源泉であられると、絶対的に信じていくことができる立場を発見しなくては、人間は動物よりも下に落ち、万物よりも低い位置に落ちた立場からは、上がっていく道がないのです。

 そのようにして、万物世界で理想の価値を捜し求め、人間世界の段階になってからは、個人的な価値、家庭的な価値、氏族、民族、国家的価値までも、「絶対信仰」によって捜し求めていくのです。そうして、いちばん底から上がっていきながら、神様に会っても決して疑わず、自分に対して千万回、「おまえは堕落して、もっともである」と言われてもそれを信じてしまうことなく、むしろそれを悔い改めることのできる立場にまで行かなくては、神様の愛、神様の信仰圏内に入ることはできない、という概念を立て
ることができます。

 しかし、この地上に生きる人の中で、そのような概念を持って信仰の道であるとか、何かの社会に奉仕する仕事であるとか、そのような道を行った人はいません。

 「絶対信仰」の上で創造したものを失われた神様が、このような「絶対信仰」に接することのできる基準を中心として、私たちは万物のいちばん後から人類の世界に越えていって、神様と人間との間にふさがれていた、「絶対信仰」を失ったその基準をすべて解怨成就しなければなりません。そのためには、苦痛の神様、受難の神様を解放してさしあげなくては関係を打ち立てることができないのです。ところが、そのようなことについて考えた人はいません。

 ですから、苦痛に満ちた神様の心を慰労してさしあげ、悲しみの神様を慰労してさしあげるためには、神様が流された涙の何千万倍もの涙をさらに流さなければならないということを知らなければなりません。

 それは、言葉では簡単です。「私はやる」と、皆言うことができます。本当に神様を解放しようというのですか? 統一教会は神様を解放しようとしているのですか?  それは事実ですか? (「はい」)

 それならば、「絶対信仰」という基準について考えてみなければなりません。今までの私たち、サタン世界の堕落した概念を持った立場で「絶対信仰」という基準と、純粋な堕落していない本然の神様の心情にかなった、恨の峠を越えてくれることを願う「絶対信仰」の基準とでは、どれ
くらいの差異があるのでしょうか? それは、堕落した基準では標準化され得る立場に立つことはできません。

 このように見るとき、神様ご自身を見れば、堕落した世界に対して、今まで悲しみの歴史の中で苦痛に呻吟(しんぎん)してこられながらも、その間、心の中で消えないことがあるのです。それは、このような心の慰めに相対し得る孝子、孝女を失う前の本然の世界のことであり、また、そのような本然の神様の愛を中心としてつくったアダムとエバ、完成的孝子、孝女に、いつまた再び会うことができるのか、ということでした。

 しかし、それは簡単でたやすいことでしょうか?  言葉は簡単ですが、それがどれくらい難しいことであったかということを、皆さんは考えてみなければなりません。

 メシヤの使命

 神様はメシマを送られたのですが、メシヤとは何でしょうか?  真の父母とは何でしょうか?  それは、完成したアダムの立場です。神様が、追い出したアダムとエバに会われて、神様の中に残された苦痛と悲しみをなくすことができるように、その本然の立場までこれを乗り越えていって神様のみHOに孝行することができなければなりません。その代表者として送られたのがメシヤであり、その代表者の相対が、失われたエバの立場、女性であったのです。

 メシヤになることができるのは、「愛の息子」なのですが、本然的「愛の息子」になるためには、その愛の息子が涙を流したのならば、その父母も涙を流すようでなければならず、その兄弟や同居者、あるいは天使世界に天使がともにいれば、その天使までも涙を流すことができなければならないのです。

 天使が涙を流し、息子が涙を流し、神様も涙を流されるのですが、だれが涙を流すのをやめて、「もう、泣くのをやめなさい」「泣くのをやめましょう」と言うのでしょうか?  神様は「さあさあ、涙を流すのをやめよう」と言われることはできません。あまりにも受難の道を歩んでこられたからです。

 ですから、メシヤとなり得るおかたが神様と出会って、涙のにじむ出会いをするようになれば、十回会ったならば十回、涙を続けて流さなければならず、千回会ったならば千回、涙を続けて流さなければならない立場であったということを、皆さんは知らなければなりません。

 神様は、人間のために微生物から動物、草木、昆虫に至るまでつくられたのですが、そのとき、私たちを愛されるために、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」の美しい相対的価値を、喜びを感じるためにつくられたのです。ですから、人間の堕落によって、これらの小さなものから大きなものまですべてが引っかかっているのです。

 鉱物世界から植物世界、動物世界まで、すべてを主体である人間が犠牲にし、これらをすべて殺してしまったので、これらのものを生き返らせるためには、人間が創造主の苦痛を感じて、再びこれに橋を架けなければならないのです。解放してあげなければなりません。

 神様が嘆息圏内におられて、人類が嘆息圏内におり、万物が嘆息圏内にいるということを、皆さんは知るべきです。聖書にも、万物が嘆息しているということが記されています。それはだれのせいでしょうか?  アダムとエバのせいです。アダム以後に、エバが完成した後に来られたメシヤは、このすべての雲と霧を取り払わなければなりません。

 それでは、メシヤはどれくらい涙を流したのでしょうか?  朝になれば朝日を見て、その現れた万物の状態が、例えば曇り空であったり、春夏秋冬の四季のようすが異なる、そのすべての環境における涙なくしては、天に対することができなかったのです。その涙の代表者、苦痛の代表者がメシヤになるのです。

 苦痛の王、悲しみの王であられる神様がごらんになるときに、"あなたもわたしと同じ悲しい立場にあるのは、あなたのためではなく、これはすべて被道世界全体、万物のため、人間のため、わたしのためにそうなのだ"という同情で因縁を起こさなくては帰る道がないということを、皆さんは知らなければなりません。

 それは、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」という言葉は、涙の峠、悲しみを越えたその後に必要なものであるということです。ところが皆さんが、それを感じることも考えることもできなければ、「絶対信仰」、「絶f愛」、「絶対服従」という言葉は、神様と関係を結ぶことのできる何らの内容もないということになってしまいます。そのような「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」というその概念の
実とは、私たち人間においては何なのでしょうか?  それは、アダムとエバそれ自体であったということを、皆さんは知らなければなりません。

 「絶対男性」と「絶対女性」

 皆さんは堕落しなかったならば、絶対男性としてのアダムであり、神様の「絶対信仰」の対象であり、「絶対愛」、「絶対服従」の対象であったはずです。同様に、アダムがそのような立場にいれば、エバも「絶対信仰」に関してはアダムの「絶対信仰」の対象であり、「絶対愛」と「絶対服従」の対象となります。エバを中心としてアダムもそのような立場で・絶対圏内に立っているものすべてに、神様とアダムとエバの一体的愛が定着すべきであったのです。それが、アダム家庭の理想であったということを考えなけ
ればなりません。

 神様はアダムをつくられてから、「人がひとりでいるのは良くない」と言われてエバをつくられました。それは、「はなはだ良かった」とされています。「良い」ということは、「絶対的に信じることができ、絶対的に愛することができ、絶対的に投人してもよく、犠牲になってもよい」という言葉です。

 これは極端な結論の話になりますが、変に考えないでください。アダムとエバは何が異なるのでしょうか? 人は皆、同じです。アダムにおける相対はエバという女性ですが、女性とは何でしょうか?  男性と女性が異なるのは何ですか?  生殖器が違うのです。ですから、神様は女性の生殖器をつくられてから、「良し」とされたということを知らなければなりません。

 それはどのようなことかといえば、絶対男性にとっての絶対女性というのは、絶対女性器官、「絶対愛」器官のことを指すのであり、「絶対服従」器官を指していた、ということです。それは、信仰の結晶体であり、愛の結晶体であり、服従の結晶体であったのです。

 皆さんのあらゆる五官が集中して、一つの方向へと直行しようとするのは、真の愛の道です。皆さんが夫婦生活をすることも、その器官を中心として、「永遠に直行である。放った矢のように、砲弾のように直行する」というようになっています。「私」という存在は、このことのために生まれたというのです。アダムもエバのそれのために、エバも男性のそれのために生まれたのであり、ほかにはありません。

 それは、その国の王よりも素晴らしく、自分のおじいさんよりも素晴らしく、お父さんよりも素晴らしく、自分の息子、娘よりも素晴らしいものであるというのです。それを中心として動員されているのが五官です。

​​​ そのような絶対的な信仰の上に、また絶対的な愛と絶対的な服従、そしてお互いに一体化し、一つになったその場において、すべての男性、女性の五官が、お互いがお互いのために生きるという立場に立たなくてはなりません。そうでなければ、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」という地上の基盤は見いだすことができません。​​​

 自分の体のなかでいちばん貴いものは、自分のためのものではありません。相手のために生まれたということを考えなければなりません。自分のためにあるという存在は、なくならなければなりません。滅びるべきです。

 その愛の器官を中心として初愛が芽吹き、愛の家庭の生活が始まるのです。そして、生涯において光り輝く勝利的実績も、その愛と関係なくしては、いかなるものも神様と関係なく、歴史とも関係ないということを、皆さんは知らなければなりません。

 皆さんは、三六O度を上下を中心として回したとしても、すっと立たなければなりません。倒してもさっと起き上がる”起き上がり小法師"があるではないですか?  そのように、東西南北をすっと合わせる立場に立たなければなりません。

 南極と北極を結ぶ磁力線や、磁石に物が引き寄せられてくっつくときにも、同じ方向にそろうように、どんなにぐるぐると磁石が回ったとしても、くっついた物体がさっと磁力線に従ってくるようになるのです。何をどうしようが、その方向は間違うことはあり得ません。

 愛する人に会うときに、皆さんは会えば、キスしてから何を触らせますか? (「アーメン」)。何ですか、それがアーメンですか?  (笑い)それは、永遠につかんで永遠にタッチして初めて幸福であるというのです。これに異常があれば問題です。おじいさん、おばあさんに異常があれば、家庭がめちゃくちゃになり、お父さん、お母さん夫婦に異常があれば、家庭がめちゃくちゃになり、息子や娘、嫁に異常があれば孫がめちゃくちゃになり、破壊が起こり動揺が起こります。そうですか? (「はい」)

 きょう、このような日に、このような深刻な話をするのは、今後、理想的家庭を築いていくということが、それほど簡単なことではないからです。

 神様は、どのように考えておられるのでしょうか?  それは、アダムとエバに対しては、"おまえたちが絶対に信じるということも、いつのことから信じようというのか?"というのです。それは、結婚するときのことから信じるのではありません。

 神様はアダムとエバに、神様が創造されたときのその心から信じてくれることを願われるのです。アダムとエバには、神様がアダムとエバをつくられてからのことを信じるよりも、神様がアダムとエバをつくるために考えを巡らされたそのことについても、その理由を知ってくれて、信じてくれることを願われるのです。そのようにできますか?

 結婚するときというのは、もうすでにすっかり大きくなっているということでしょう?  結婚してからは、それらのことを見ることはできません。ですから、お父さん、お母さんの役事を通して生まれるときから、全部を絶対に信じ、絶対に愛し、絶対に服従する心で対することのできる因縁を結ばなければならないということです。

 自分が理想的夫、理想的妻になるということは、胎中に身ごもって、おなかが大きいときに、お母さんはお父さんを愛しているのですが、転ぶときに一緒に転ぶことのできる、そのような心を皆、持たなければならないのです。(笑い)

 アダムとエバが結婚するときは、自分が胎中で育っていたそのことも見たがらなければならないのです。ですから、神様がアダムとエバを生むときには、「おい、アダム、エバ。あなたたちの体がそのようにできているのは、それはお互いのためである。アダムのそれはエバのものであり、エバのものはアダムのものである」と言われるのです。

 そのようなことをすべてご存じの神様が、大きくなったアダムとエバをごらんになるときに、どれほど喜ばれることでしょうか?  その喜びが現れるとき、神様は喜ばれるのです。動機に喜びを連結させて、現実に動機が連結されるということです。

 このように見るならば、皆さんは結婚する前、生まれてから少女として育つときに、"私が今、このように成長しているのは、自分のたった一人しかいない夫のために成長しているのだ"という概念を持ちましたか?  娘ならば娘、エバ自体の体のすべてが成長するのは、たった一人しかいないアダムのためなのです。他の道はありません。永遠に一つです。

 第四次アダム圏蕩減解放時代へ

 このょうに見るとき、「理想的家庭」という言葉・「世界平和統一家庭連合」における「家庭」というものは、そのように簡単なものではないということを、皆さんは知らなければなりません。今日のアメリカにおけるような家庭が家庭ですか? 「ノー」、絶対に「ノー」です。溶鉱炉にほうり込んで溶かして、再びこれをつくり直さなければなりません。

 ただそのまま家庭を願いますか? 溶鉱炉に入れて再度つくった理想fな家庭を願いますか? (拍手)フリーセックスを考えてみてください。フリーセックスは、カラスやハゲ鷲や野良犬のえさになるようなものです。何の話か、分かりましたか? (「はい」)。どれくらい変わらなければならないのかということを知らなければなりません。

 このような原則があるので、皆さんは霊界に行けば、天の国に入っていったとしても、このような過程を全部経て、きれいに清算しなくては入っていくことはできません。アダムとエバは、結婚してから離婚しようなどと考えたでしょうか?  女性がほかにいますか? そこにはステップ・マザー(継母)が存在し
得ますか?

 このアメリカは何ですか? ステップ・マザー、ステップ・ファーザーが五人、六人は普通なのです。そのようなものは、滅びなければなりません。滅びるべきです。滅びなければ、滅びるようにしなければなりません。(「アーメン」)

 アーメンと言ったのは黒人ですか、白人ですか? (笑い)黒人ですね。(笑い)黒人がアーメンと言ってはなりません。白人がアーメンと言わなければなりません。(笑い)それが事実です。

 レバレンド・ムーンは、何か皆さんの耳を楽しませ、心を喜ぼせようとしてこのようにのでのではありません。事実を教えるために話しているのです。注射をする医者ならば、本当にそこに適した、対抗する薬を打たなければなりません。そうでないものは薬ではありません。ですから、深刻なのです。

 一度愛した者は、永遠に忘れてはなりません。その人に出会って、悲しい一言でも残して逝げば、霊界に行って引っかかるのです。分かりましたか?

 「世界平和統一家庭連台」の世界副会長を任命するのですが、その副会長という立場は、容易な立場ではありません。祭物です。生きた祭物の立場です。

 しかし、ありがたいことは、お父様がいて、今、世界を浄化して、成約時代を発表する時が来たということです。もはや、統一教会において家庭的迫害がない時代が来たのです。

 イエス様は、三十歳で初めて家庭を築こうと出発されたのですが、それにもかかわらず、その目的を成し遂げることができませんでした。感謝すべきことは、今、世界全体の家庭が祝福を受けて、国を超えて世界に進むことができる祝福の環境を開拓した後に、三十歳にならない顕進をこのように家庭連合の副会長として立てることができたということです。そのことを、私としてはうれしく思います。これは喜ばしいことです。(拍手)

 堕落した後孫たちの中において、堕落した人間を中心として、これが蕩減復帰という最後のぺージです。サタンの血統を断切して、きれいに清算した後に天の直系の子女が家庭を中心として第四次アダム勝利圏を引き継ぐことのできる、そのバトンを受け継ぐことのできる出発がなされたという事実は、驚くべきことであるということを、皆さんは知らなければなりません。この顕進の息子、娘たちの話です。それは、四代ではありませんか?  その家庭を通して、第四次時代に人っていくことができるというのです。

 堕落圏を越えて最後に、すべて清算するようにしてから、その家庭が一つになって神様が一代、アダムが二代、そして三代と、全部が堕落の限界線を越えて、第四次アダム圏蕩減解放時代へと、地上天国時代へと越えていくことのできる境界線へ入ってきたということは驚くべきことです。

 「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」

 私は顕進君に話します。「あなたは今から、妻や、父母の前や、息子、娘の前、教会の前で、絶対信仰圏を維持することのできる者になりなさい」。そのようにして任命するのです。「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対販促」です。

 「あなたの家庭とあなたの息子・娘を中心として越えていくときに、第四次アダム圏時代に向かったあなたたちは、上下関係が父子の関係であり、左右関係は父母関係であり、前後関係は子女関係となりますが、それを中心として、家庭を中心として民族、国家と越えていかなければなりません。ゆえに、結局は『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』の環境を父子の関係、夫婦関係、子女関係、兄弟関係にお
いて、それらの完成を定看させなければなりません」

 結論的な話は、「死んでも『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』」、「生きても『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服徒』」、「永遠に『絶対信仰』、『絶対愛』、『絶対服従』」。そのようなことです。死んで霊界に行っても永遠に同じです。分かりましたか? (拍手)

 きょう、私たちは今から、「絶対信仰」、「絶対愛」、「絶対服従」を心から決意しなければなりません。なぜならば、私たちの「生」は、天国の「生」の根源であるからです。私の心情は、この三つのためです。この三つのことが成されれば、すべてのことを占有します。占有したすべてのものは、完全なのです。このようなものは、どれほど素晴らしいことでしょうか? アーメン。

 顕進様、そのような信仰を持って、お父様よりも、お父様の一期よりもどれくらい優れることを願うのか、というのです。百倍ではありません。千倍、万倍、優れることを願います。

 神様がアダムとエバに対して持っていた希望とともに、その希望はとどまることなく、永遠なる希望として残ることによって、父母たる私も子供にこのような希望を託さざるを得ないということを、快く受け入れなければなりません。(拍手)

 顕進は、私よりも美男であり、力もあり、りりしく、覇気もあります。ハーバードのMBA (経営管理学修士)課程まで卒業しました。顕進はMBAまで卒業したので、今後、事業に対する専門家として監査の大王になるはずです。また、これからUTS (紘一神学校)を卒業して、世界に二人といない神学者となって、博士の学位を持って、どのような神学者でも教育することのできるチヤンピオンになるであろうということを考えるとき、希望の一日として、この責任を顕進に任せてあげるのです。祝賀します。アー
メン。(拍手

 ですから、今から顕進は、お父様が「これをしなさい」と言えば、「それだけではなく、千倍やらせてください」と、このようでなければなりません。(拍手)

 今後、統一教会は万歳、万歳、万々歳。アーメン。アーメン。アーメン。(拍手)     四つ葉




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.04.30 21:56:45
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