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2021.05.03
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「記憶せよ侍義時代」

1967年2月15日(水)前本部教会


 統一教会は再販です。我々は初版ではなく、再版です。壊れたものはきれいに濯いで、再び造るには、自分の全てのものを捨てなければなりません。この時、自身の考えが少しでも残っていたら、元来の位置に復帰できないのです。


​ 統一教会は再版​

 長子であり、初版であるサタン側は滅びましたが、次子であり、再版である天の側は滅びることなく勝利しました。我々の教会は初版に属しますか、再版に属していますか? 初版はすでにサタンが、みな占領してしまいました。初版に属している人間が多いのですが、全部壊されてしまいました。初版の使命を相続した人々が、再版に属する人々です。今日皆さんは統一教会に入って、7年路程の恵沢圏内に入っております。これは皆さんの先輩たちが苦労し、迫害を受けても、サタン世界とに闘いに勝利した結果に起因するものです。

 統一教会の若い女性たちはお嫁に行く時、初版に行くの、再版に行くの? そこのキムトンウオンさんどうですか?(キムシに向かって)「トンウオンシはその時、婿に行くのが良いですか、嫌ですか?」嫌だと言わないことをみると、良いという様子ですが? もしも嫌だというなら、悔い改めなければなりません。悔い改めるなら、どのように悔い改めるのか?「私は再びは婿には行きません」と悔い改めなければなりません。これが最も早く許しを受ける方法です。

 我々は悪口を言われるにも一番に言われ、鞭打たれるにも、一番に打たれなければなりません。殴られたら蕩減になります。しかし蕩減条件として、同一人物が同じ事を二回はやれないということを、知らねばなりません。アブラハムが3祭物を捧げることの失敗を精算するために、10倍以上の苦労の路程を経ていった事実は、どうにも否定できないのです。復帰路程において、蕩減条件を立てる人間は、ただ一度だけしか立てられないのです。重要な蕩減の使命を任されるために立てられた人間が失敗したら、その人間は再び立てることが出来ないのです。

 であるなら一度しかない蕩減時代が過ぎ去る前に、蕩減条件を提示できなかったらどうなるのでしょうか? もしも責任を担えない時には、生きてきた功績が吹っ飛ぶのです。今まで積んできた功績が、そっくり吹っ飛んでしまうのです。ですから死を覚悟して、必死に神のために闘わなければなりません。ヤコブがヤボク河で、天使と夜を徹して闘った時にも、死を押し切って闘ったので、勝利できたのでした。この急がれる人類の大事ですので「今夜は過ぎてしまいましたので、明日の晩に再びやります」とは出来ないのです。そのようにやったなら、何千年の歳月が過ぎた後にか、そんな時を再び迎えるようになるのです。


 緊迫した重要なる7年路程

 復帰の歴史は6千年の間流れてきましたので、一人の人間が6千年を蕩減して条件を立てるためには、少なくとも60年の間、み旨を抱いて行かねばならないのす。一生において6年ではなく、何と60年の間、煩悶しつつ蕩減条件を立てなければならないのです。ところがこのような期間に立てなかったら、120年の間に再び立てなければならないのです。ヤコブやモ-セは、イエス様のために蕩減路程(4千年)を行きますので、40数の蕩減路程を行ったのです。

 でありますから、一度時を逃したらダメだということを考えると、7年路程がどんなに緊迫して、重要であるかということが分かるのです。我々が7年の初めの戦いに挑戦して神に誓い、民族的な蕩減のために自分自身を祭壇の上に捧げ、祭物としなければなりません。皆さんは先生が、皆さんを祭物として民族的祭事を捧げようとする、一度しかないこの7年路程であることを知らねばなりません。

 皆さんが嫁に行き、妻を娶りしてこんな戦いの場に行ったなら、支障が多いのです。ですからできるなら7年路程を終ってから、嫁に行き娶るのが良いのです。今まで嫁ぎ娶った人たちは全て良くありません。それでは嫁ぎ娶った人は多いのですが、そんな人たちはどうなったでしょうか? 今まで嫁ぎ娶った人は、歴史的な蕩減の祭物になったのです。ですから今、若い女性たちは7年路程を全て終えなければなりません。神のみ旨の通り、韓国が歓迎することができる時代になれば、皆さんは一等婿ガネに出会えるのです。

 これまで先生は民族復帰の使命を完遂するために、7年路程を来ました。思想的な基準を中心に見れば、先生の内的な基準がアベル的な立場であり、外的な基準がカイン的な立場なのです。すなわちカインアベル的な基準と中心として見る時、内的な基準は思想的な基準だということです。先生は思想的な面におきまして、この国の全ての権力者や、ある団体を凌駕することのできる基準、すなわち天的な基準に立っています。このようにして3千万民族が一つになって、世界的な復帰路程を出発するなら、第二の初版ではなく、再版になるのです。

 初版において勝利の権限を持った人たちと、再版において勝利の権限を持った人たちの中で、どっちが偉大でしょうか? 初版で勝利の権限を持った人たちです。初版で勝利した人たちは、再版も思いのままに決定することができるのであり、彼らが行きたければ行き、でなければ行かないのです。初版に合格しなかった人間は行きたくても行けないのですが、合格した人は再版三版にも行けるのです。これは1次戦、2次戦、3次戦と延長させて来た復帰摂理であったからです。ですから第1次に勝利すれば、第2次に出ることができ、第2次に勝利すれば、第3次に行くことができるのです。もしも第1次の戦いで国家的な基準の勝利をなしたら、国家的な勝利の栄光を占めることができるので、全国に行っても、国家的な基準の重要な責任を負うことができるようになるのです。しかしながら世界的な責任を再び延長できないと、世界的な責任をなす立場にはなれないのです。

 このように考える時、統一教会の幹部たちは、よくよく知らねばなりません。今まで36家庭が韓国を主として、初版の戦いにおいて責任を担ったとしても、またさらに世界舞台へ出戦しなければなりません。36家庭は出戦の責任者たちです。ところが出戦をしない時には、神は行かないと叱ることもされず、責任追求もされないのです。その代わり、世界的な出動によって勝利の結果を招いたその場には、同参することができないのです。しかし「私はここで留まることはありません。先生に従って、再版終版までついて行きます」という人間は、どうせ苦労しなければなりません。苦労をする時、先生を代身して責任を負い苦労したならば、先生と同じ立場に立つようになるのです。ですから皆さんが7年路程の初版の戦いに加担して、真なる者として神のまえに責任を担い、涙を流し、血と汗を流したことがどんなに貴重なことかを、知らねばなりません。


 世界に拡散する統一教会の理念

 み言がいつから表れましたか? 先生が16歳の時から表れました。算式や数学問題を解く公式を話そうというのではありません。女で言えば何かおしゃれをしょうと、そんなおしゃれを覚えなさいというのではありません。男なら世の中で今まで生きて来た自分の居所の中で、覚えている道を求めて行くというのではないのです。皆さんはこの闘いに責任を負う者としての矜持を持って、この責任を中心として記憶しなければなりません。

 皆さんが生まれたこの世には、4大聖人、すなわちイエス、孔子、釈迦、ソクラテスがおります。このような聖人を追慕すれば、その聖人が生まれた背後の環境と生活が慕わしくなり、であれば聖人がどんな国に生まれたのかということが、問題になるのです。

 先生はイエスが生まれたイスラエルの国に行ってきました。ベツレヘムにも行って見、エルサレムにも行って見ましたが、そこは乳と蜜が流れるカナンの福地とは見えませんでした。半砂漠地帯に、畑が少しばかりあるだけでした。そこにはロバとラクダが多く目にとまりました。そしてオリ-ブの木が沢山ありました。これは気候が熱帯性だからで、良い地ではないように感じました。

 今日このイスラエルを、全世界に広がっているキリスト教徒が巡礼することが、一生最大の幸福と感じているのは、なぜでしょうか? これは、イエス様が生まれた所だからです。孔子が偉大だということは、孔子の思想を中心として国が興り、中国文化が創造されたからです。

 釈迦もやはり同じことです。王室の王子として生まれましたが、自ら苦行を通して悟りを開きました。こうしてあらゆる苦しむ人々に、生きる道を開拓してあげたので、苦しみを受ける全ての人々は彼を追慕すると同時に、彼が生まれた国まで慕うのです。ですからインドは、忘れてはならない国になるのです。

 それでは聖人を待つ我々は、何を考えなければならないでしょうか? その立場を考えなければなりません。その立場を考えたなら、その立場を成すまでの由縁となった環境を考えていって、であれば聖人が生まれたその国を、考えなければならないのです。ですから世界的な聖人が生まれた国は、疲弊し荒廃していたとしても、その地を尋ねる人々は依然として絶えないのです。皆さんはこのことを否定できません。

 歴史上のある一時代の、一国の主権者、すなわち自身の国の文化と権勢を誇った主権者は、歴史に1ペ-ジを残したまま消えていったのです。しかし年輪を経て、思想的な基盤を築き、世界的な文化を成した、人格的な素養を持ったそのような聖人がいたとしたならば、その聖人が生まれたインドならインド、イスラエルならイスラエル、あるいはギリシャならギリシャ、このような国を慕わざるを得ないのです。その国はたとえ滅んでも、その国にその聖人が残した痕跡をたどってみたく、その聖人が生きた当時の姿を想起して、その時代の文化と生活の感情に触れてみたいというのが、我々人間なのです

 統一教会の理念は、神の復帰摂理の中で、おそらく一度しか生じないのです。また今は対外的な関係から見る時、空前絶後の歴史的な時なのです。これはどれほど驚くべき事実でしょうか? 今日の韓民族の実情は、あまりにも悲惨です。口にも言えない重大なる責任を任された民族なので、世界のいろんな民族から同情される他はない立場なのです。しかしこのような環境の中にあっても、新しい世界を立ててゆく文化的な基台と、思想的な要所が、統一教会の動きによって世界に現れるようになるのです。我々がこのために専念すれば、今日我々が直面しているこの不幸なる立場が、歴史的な幸福のために闘っている立場だということを、否定する道理がないのです。

 それでは皆さんは、統一教会が持っている理念を、イエス様が立てた基準以上のものと考えていますか、釈迦が立てた基準以上のものと考えていますか? あるいはソクラテスや孔子が立てた基準以上のものと考えていますか? 皆さんが、彼らが立てた基準以上の基準を立てたなら、彼らよりもさらに高く、貴い価値の場に立つのです。皆さん、こんなことを考えてみましたか? 皆さんが見るに、先生は何事もなく捜し求めたように見えるかも知れませんが、今日この地上に立って、歴史を振り返って見る時、統一教会が提唱している理念が最高だというのです。統一教会理念を中心として、世界が一つになることは間違いのないことです。


 この民族の歴史的背景

 神の復帰摂理の終着点にならなければならない立場に、皆さんは立っているのです。ですから皆さんが立っているこの立場が、どれほど大変な立場か、ここに立っている皆さん各自の個体がどれほど貴重な、尊貴な存在であるかを、皆さんは考えてみなければなりません。

 先生がエルサレムに行った時、博物館に入って、イエス様が当時使っておられた何か遺物がないか、聞いてみたのですが、何もありませんでした。もしもイエス様が使っていた遺物、すなわちハシの一本でも残っていたら今、韓国のお金を全部やっても買うことができません。これは民族全部をやっても買うことができない、無限なる価値があるというのです。もしもイエス様が身につけておられた衣服が残っていたら、その衣服は無限の価値があるのです。文化世界における最高の価値として、代表となる価値なのです。これは歴史が過ぎて、それによって及ぼした影響を見てみる時にうなずけるのです。しかしイエス様当時に生きていた人々は、そんな価値があることを未だ知らないのです。その当時の人々は、イエス様と寝食を共にし、行動を同じくし、彼と共に修養する立場にあったのですが、彼らはそんな価値があることを知らなかったのです。これが全ての後孫のまえに、恥じとなったという事実を、我々は感じなければなりません。

 ですから時が過ぎて後に、その価値を感じるよりも、歴史を率いてきた実績を見て、その人格を尊重することよりも、その当時に価値を知ることができる素質と、そのようにすることができる性質を持たなければなりません。そのお方は、世界と取り替えることもできず、世界にある何物とも比較することができない、価値ある存在であると高くあげる人間がいたとしたら、その人間によって主様に侍ることができ、そのお方のものを相続することができる資格者となるのです。これを皆さんは、覚えておいて下さい。

 皆さん、過ぎ去った昔の自分自身を振り返ってみて下さい。先生や皆さん全てが、今まで惨めな道をきました。この三千里山川の歴史的背景を見やり、我々民族は惨めな民族でした。歴史以来、他民族から圧政を受け、蔑まれ、彼らから追われつづけてきた民族でした。このような歴史的な背景を推し量ってみる時、この地は歴史的な事由と、歴史的な怨恨が結ばれている地であり、この民族は歴史的な悲しみを留めている民族なのです。

 皆さんは、故郷の山川を慕うでしょう? ところで惨めで、歴史的な悲しみが宿っている故郷の山川であることを、皆さんは考えてみましたか? そこには忠臣、烈士たちの惨めに流された血と涙の痕跡が残っていますので、彼らの悲しみを解怨成就しようという心を持ってみましたか? そんな心を持って涙を流し、彼らを慰めようというのす。

 この民族は国運が悲運におかれているので、涙を流す他にはない事由があったのです。この民族を通して、全人類を復帰されようという神のみ旨がありますので、三千万倍達民族は、神の摂理のまえに忠誠を尽くす奉仕者となり、捧献者とならなければなりません。しかし今までは、そんな人間がいなかったのです。悠久なる歴史を見通してみる時、これが我々の先祖たちの恨となり、直接的には復帰摂理を主管される神のまえに、悲しみを残すこの山川、この民族になったということを、皆さんは知らねばなりません。


 人々が聖人と共に遺物遺跡を追慕する理由

 神は数多くの民族を選んでおいて、この国この民族を捜し求めて来られた事実に、三千万民族は感謝し、称賛しなければならないのに、そのようにはなっていないのです。倍達民族の後孫として生まれた皆さんが、民族を代身して、この民族の全ての失敗に責任を負うという、こんな考えを少しでも持ってみたかというのです。

 この八道山川を中心として、神がある郡、面、里の民家なり商家なり、ある家を尋ねて来られる時、その背後に結ばれた事由とうものは、先生が語るにも簡単な事由ではないのです。

 決定という錨を降ろしておいて、摂理を出発されるならここに歴史的な曲折が染みているのであり、歴史的な事由が宿っているという事実を知らねばなりません。これを知らない人間は歴史を相続することができず、これに責任をもって記憶しない人間は、神のまえに公的な責任を担うことができないということは、歴史的な事実なのです。

 どうして偉人や聖人を、後孫たちは追慕しなければならにのでしょうか? 彼らの心のうちには、歴史的な全ての事由がしっかりと結びつけられているのであり、善の事由と曲折がそのうちに絡みついているのです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基台を通して誠精を尽くさねばなりません。でなかったなら、目的に向かう道と関係を結べないのです。たとえ堕落の後孫であったとしても、人心は天心に通じ、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が行った道を追求するのです。ですからこれは本然の価値を追求することであり、自然的なことなのです。

 このような観点から見る時、統一教会員がこのみ旨をいかに念願として、現在おかれている立場においてこのみ旨を中心として、どんなにか苦労したか? 内的な体恤をして、自分が成さなかったらダメだと自ら自覚する者がいるか? このようなことを考える時、そうはなっていないというのです。

 ソウルは先生が学窓の時代から、涙を沢山流した所です。そして先生は三千里八道山川の名勝地を尋ね歩き、涙を流しました。各道の四方八方をめぐり、車に乗って道路を走る度に、神の苦しい胸のうちを少しでも早く解いてあげるために走る車を急がせ、涙がにじむ信念を持って、困難の中にある食口たちを尋ねるに汲々としているのです。全国の村むらから迫害される息子娘、迫害される隊員たちを残しておいて涙を流し、背を向ける歴史的な事由が宿るそんな村むらなのです。


 統一教会青年男女が流した血と汗の価値

 7年路程において統一教会の青年男女、すなわち歳の若い20代、10代の青少年たちが涙の決意をなし、家では追い出され兄弟たちには追われても孤独な伝道の行路に出て、歓迎されざる村に入り、他人が考えもつかない惨めな場で、み旨という名をかかげて身悶えたそんな村むらを、皆さんはどれほど考えたことがありますか?

 7年路程の間、三千里半島津々浦々に、統一教会の青年男女が尋ね求め、彼らは悲壮な心と涙のにじむ心情をもって、結ばれた神の歴史的な恨と、時代的な恨を解いてあげるために「私は歴史を代身し、この時代の蕩減の役軍として来ました」と考え、怨讐視する彼らのために夜を徹して祈祷していったのです。飢えたお腹をぐっと握り、アボジを呼んだその祈祷の声が、今も残っているという事実を考えてみたことがありますか?

 皆さんが今、安穏に生きているその村の環境のうちには、我々の先祖たちが涙で祈ったその声が、今だに残っているのです。彼らは消えて行ってしまいましたが、差し迫った場で神にすがって訴え、祈祷した内的な心情の祈りは、神の胸のおくに残っているという事実を、憶えておかなければなりません。

 我々に反対し、恨をうえつけた怨讐を屈伏させて神に勝利をもたらし、また我々の恨を解くことができるその一日がいつ来るかと、その一日が来るのを千万べん祈祷して身悶えた事実を、皆さんは考えてみなければというのです。

 このような観点から三千里半島を見やる時、昔我々の先祖たちが錦繍江山(美しい山河韓国の別称)と誇ったその名の因縁が、ここから結ばれたということを、皆さんは考えてみましたか? 神の息子娘が誠精を尽くし、涙を流し、血と汗を流し、自身の命をかけて談判して訴えたものが、正に錦繍江山なのです。

 過去に我々の先祖たちが知るべくもない立場で、この国を称賛し、この民族を称賛したか知れません。しかし知ってみれば倍達民族、大韓の息子娘が暮らしているこの三千里半島こそが実に、我々の先祖たちが流した涙と、誠精をこめた血と汗が染み込んでいるのです。天的な心情の基盤と価値が残っているという事実を、皆さんは記憶しておかなければなりません。

 誠精を込めた祭物のような立場で、祭壇の前に立たなければならない皆さんであるにもかかわらず、そのような祭壇の前に立てる資格者となっていますか?

 もしもイエス様が今この地に来るなら、その昔のイスラエル民族とユダヤ教ではなく、現在の統一教会のような環境の中に来られたら、我々を抱きかかえて慟哭されるのです。そしてこの三千里半島を見やり、この民族の内面に染み込んでいる事由を見れば、この民族を抱きかかえて身悶えし、慟哭されるのです。皆さんはこのようなイエス様の立場を考えてみましたか?

 このように行き違った事由が、三千里半島のために主体として立つ統一の青年男女の血と汗を通して成されるという事実を、皆さんは忘れてはなりません。

 この民族の因縁を掘り返して見れば、そこには血が煮えたぎる数多くの青年男女の涙が入り混じり、歴史的な恨を踏み越えてゆくと慟哭する先祖たちの涙の跡が入り混じっているのです。さらには復帰摂理の歴史的路程を来られた神の涙が染みこみ、皆さんが見上げている師の涙が混じっているというのです。皆さんはこの驚くべき事実の前に頭を下げ、真に姿勢を正し、自ら行動を自制して神の法度を守ってゆくために身悶えるという事実がありますか? これを憶えておくことを、皆さんは今一度考えてみなければなりません。

 新しい決意をなして行かねばならない我々

 皆さんは歴史的に入り混じっている事由の前に出て行くに、あまりにみすぼらしく、あまりに未熟で、あまりに及ばざる自身であることを悟っているかというのです。いま皆さんが自然を眺め、あるいは名山を眺める時、真に愛することができる心をいま一度考察してみなければなりません。皆さんは誠精を尽くし、心を尽くし、み旨を尽くし、鍬の柄を握って地を掘ってみなければなりません。皆さんがこんな心情で、地上にある全ての万物を従えて、主人のすることを成したと誇ることができる資格を得ましたか? これを論じてみなければならないというのです。

 自分の食口たちを守り導く時にも、皆さんは歴史的な責任を負ったイエス様を代身した立場に立って、強固なる心情をもって身悶え、縛りつけられた事由を伝えなければなりません。そしてそれらと共に天的な勝利を得てゆくという、誓いと決意のもとに導けなかったことを、悔い改めなければなりません。

 統一の役軍である皆さんは、知ってみれば驚くべき因縁のなかに引き込まれているのです。これは皆さんが、み旨に従っている過程では分かりません。しかしみ旨からいったん落ちてみれば分かるのです。その立場がどれほど貴く、福なる立場かということが、落ちてみれば分かるのです。しかし落ちてから知ったのでは、何の役にも立ちません。過ぎてから知ったのではダメなのです。そのみ旨のまえに立つ時に知る者が、賢い者であり、そんな人間は指導者となり、責任者となるのです。

 地方教会で責任を持ている皆さんたち、地方で神のまえに忠誠を尽くすと誓った皆さんたち、皆さんは過去に実体でこのように生きてきましたか? そうではなかったのです。それゆえ新しい面において歴史を代表し、時代を代表することができる、天が要求する本意に立脚して、その事由に責任を負って身悶えてゆくという、新しい覚悟をしなければならないのです。これを皆さんは、知らねばなりません。

 ですから河を渡る時も、昔のようにぼんやり眺めて渡る、そんな皆さんであってはダメです。お金を稼ぐことも、今までの金某なら金某の一生を歩んでいてはダメだというのです。峠を越える時も、今までその峠を越えてきた金某として越えたらダメなのです。ごはんを食べる時も同じで、道を歩く時も同じです。寝ても覚めても、悔しい時、嬉しい時、悲しい時、全ての行動全体をこんな観点から、再検討しなければなりません。いつ皆さんが時代的な責任者としてこんな歴史的な因縁を考えてみたか、もう一度想起して正しい関係のもとに、正しい姿勢を取らなければなりません。天的な蕩減歴史をなすという新しい決意をもって、三千里半島全域に向かって行かなければなりません。皆さんがこのような立場にいるということを知って、再びいま一度新しい決意をしなければなりません。


 後孫のまえに何を残してゆくのか

 今皆さんが責任を持つ地域や村に行く時、昔と同じ心で行ってはなりません。この国その地方のために皆さんが誠精を尽くし、忠誠を尽くしたその基盤を、これから皆さんの後孫たちが尋ねる時、彼らはその地を記憶すべき地だと考えるでしょう。ですから皆さんの後孫がその地を尋ねることができるように、歴史的な涙の跡を残してゆくと命をかけ、転換してゆく皆さんにならなければなりません。

 このようにして皆さんの後孫たちが、その地を尋ねてくる時「我々の先祖たちが、過去にこのようにやった」と語ることができるようにしなければなりません。先祖として、後孫たちが追従できるような一つの基準を立てておくと、忠誠を尽くす皆さんにならねばなりません。皆さんは一時に来て行く人間だと、考えないで下さい。生死をかけ、勝敗を決定づけなければならない責任を負った、天の勇士だと考えなければなりません。そのような姿をもって、自身が責任を持つ任地に入るのです。

 皆さんが行くべきその村を、もう一度考えてみて下さい。それではその村は自分が知っているそんな村ではなく、今まで日常的に接してきた村ではなく、事由と曲折が染み込んだ村であることを感じるのです。それでその村に対する、皆さんの態度が変わるのです。そうして後代の皆さんの後孫が、その歴史的な偉業を相続して、さらに偉大なる立場に立ったならば、その歴史的な因縁が発展したと言えるのであって、そうでなかったら負けなのです。

 今まで生きてきた全ての環境を一新して、歴史的な責任を負った者として新しこに行かなければならない時が来たということを、肝に銘じなければなりません。明日、本部教会を離れて車に乗って地方に入るとき、皆さんは何を持って行くのですか? 深刻だというのです。そのまま来て行く皆さんであってはなりません。

 この狭い空間に人が多くて大変だと、逃げ出したい人がいたらこの場を早く去って下さい。狭い場所に沢山の人が座っていますから無理かも知れません。しかし我々だけが思っているのではなく、神はとうに知っておられます。こんな姿を見て、世の中の人は笑うかも知れませんが、先生はそうは考えません。先生は神に「我々の教会を造って下さい」という祈祷はしないのです。こんな場にいることを、むしろ栄光だと思っているのです。昨夜もその門の後ろに押し出されて、野外講話になりました。これを哀れと思わずに、これを見やる神の切ない心情をお慰めするために「一時はこのようなことがあるのも、良いことではありませんか?」と祈祷する心を持って、参席する人間になって下さい。

 このような人間がいれば、これから世の中を蕩減復帰することができるのです。このような環境は、悲惨な境遇にある我々の民族のみが持つことのできる真実の財産であり、蕩減復帰することができる材料となるのです。


 新たに認識しなければならない時

 これはアメリカでは、夢にも考えられないことなのです。集会に対する規定というものがあって、規定人員以下は許されているのですが、規定より一人でも多くなったら法にひっかかるのです。規定人員より多く集まるということは、夢にも考えられないのです。

 しかし韓国ではそうではありません。アメリカでは夢にも考えられないことも、やる他はないのです。

 こんな環境が不幸の要因ではなく、むしろこれによって神のうちなる事情に深く入ることができ、我々の教会を造ってやりたい神の心情的基準を、我々に連結させることのできる恵沢と恩賜の条件になるのです。ですからどれほど有難いことですか? 皆さんはこんな立場で、考えてみなければなりません。

 今、本部教会に出入りすることも、これまでのように習慣的に来るのではダメです。行事があるので来て、日曜日なので来るというのではダメです。行き来することは誰でもすることです。誰でもすることをする人間を、神は欲してはおられません。統一教会のやることは、誰でもやることではありません。特定の人間のみができることです。

 特定の人間は、内的な要件が違い、外的な要件も違います。彼が持つ価値も違い、彼自身が持っている思想的基準も違います。思想的基準が違うほどに精神的基準も違うのであり、精神的基準が違うので、行動基準も違うのです。

 本部教会の門を開き、数多くの人々が出入りするのですが、この門を開いて入って来る時、震える手で門を開き「アボジ、慕わしかった本部教会を尋ねて来ました」と慟哭する食口に出会っていません。先生はこんな人間に会ってみたいと、ひどく苦待しているのですが、いまだに出会っていません。本部教会のみすぼらしい姿を見る時「わが胸に釘を打つなら打って、こんな姿を見なくてすみます。天の誠精がこもる基台が、どうしてこのようにみすぼらしいのですか? われ一代でこのみすぼらしさを、雄壮なものに変えてさし上げます」と忠誠を誓う息子娘にならねばなりません。

 今は皆さんが、7年路程の最後の峠を越えている最中です。先生の歳が47を過ぎ、48歳になる時です。この時に統一教会員たる皆さんたちは、これまでの考えをふり捨てていま一度、新しい考えを持たねばなりません。すなわち、本部教会に対しても新たに認識して、師に対しても新たに認識しなくてはなりません。地区長に対しても新たな認識を持たねばならず、地域長に対しても新たな認識を持たなければなりません。勤士に対しても新たな認識を持たねばならず、食口に対しても習慣的な観念を捨てて、新たな認識を持たねばなりません。

 皆さんがこれまで記憶して知っていたものが、神の願う基準に達していなかったなら、100%この基準に達するように、自身の考えを整備しなければなりません。こうして神が願うその基準に完全に達してこそ成るのです。そのようにすることのできる若い統一教会の食口たちとなることを、神はどれほど苦待しておられることでしょうか? 皆さんが神が願っておられる基準に達していると考えるなら、これは間違った考えです。その基準に達するということは、どれほど難しいことかを皆さんはいま一度考えなくてはなりません。とはいっても皆さん、落胆してはダメです。


 原則的な祈祷

 春になれば、皆さんの家の軒先に江南から来た燕が入って、巣を造るのを見るのです。そうして暫くして卵を産んで、約40日もすれば雛になるのです。その巣で育つ時には、狭い所で苦労するのですが、いったん成熟した時には天下を自在に飛びまわることができるのです。どんな渡り鳥よりも遠くに飛んで、いっぺんに江南まで飛んでゆくことができる素晴らしい燕になるのです。

 皆さんも同じことです。ここで辛い訓練を受けることは、これから近づく試練の実戦場において、敗者の悲しみを味あわないためなのです。ここで二重三重の試練を経て、新しい信念によって武装しなければなりません。燕のように、新しい天国に向かって飛んで行く皆さんになれば、今この基盤がどれほど恵まれた巣であるかということを、皆さんははっきりと分かるようになるのです。ですからここで食べることは、一生の何物よりも貴いことであり、ここで寝たり着たりすることは、何物よりも貴いことなのです。

 新しい時代には、新しい真理を受けなければなりません。地方にいる食口の皆さん、祈祷する時は、常に原則的な祈祷をしなければなりません。「神様、私がここのある地域のある所で、今晩祈祷します」というのではダメだというのす。神が祈祷を聞かれる時は、自分の所属をはっきりさせなくてはなりません。本部教会の南方なら南方、正南方なら正南方で、本部教会に対する方向を定め、何地区の何地域のどこそこにいる誰それであるとはっきりさせなくてはいけません。なぜそのようにしなければならないかと言うと、歴史的な伝統を尊重する意味においてそうだと言うのです。

 そのようにして、自分が現在率いている食口たち、すなわち自分を中心として横的に因縁を持っている食口たちのために、祈祷しなければなりません。「私には彼らに光を与え彼らのためにしなければならない責任があります。この責任を果たすための力が私には不足ですので、力を与えて下さい」このような祈祷は、通じるというのです。

 重要な祈祷、重要な解決のための祈祷であるほど、本部教会で誠精を尽くしたと同じ心情でなさねばなりません。祈祷する方法が、こうでなければなりません。本部教会がたどって来たこれまでの歴史的な因縁、歴史的な背後を探って、涙ぐむ心情の親友にならねばなりません。ここに神が共におられるのです。神のみ旨を中心として、本部教会で祈祷する人間がいれば、その人よりもさらに忠誠を尽くす立場で祈祷するという心を持たねばなりません。「本部教会でなしていることを、ここでもやります」と祈祷しなければなりません。ところが、そのように祈祷していないのです。祈祷していることを見れば、やっていることもまたそうなのです。


 主流に属する我々の責任

 統一教会の教員は、任地に向かって駆けなければなりません。自分がある一地方の責任を持って活動する時、良い事があったなら「アボジ、感謝します」としなければなりません。良い事がある時、自分がいいとその場で喜ばないで下さい。「神様、この事を喜んで下さい。本部であったこの事を喜んで下さい」このように祈祷した次に、自分が属している地区長や、地域長に報告した後で、自分が喜ばなければなりません。

 このような心で生活する人間が行く所には、道を塞ぐ法がないのです。統一の運勢が発展的な運勢だとして、その運勢が残っている限り、その人間が行く路程は、絶対に塞がれる法がないのです。塞がれたことが、かえって善にとって有益であるとしても、悪としてその人を縛りつける結果とはならないのです。

 皆さんはどこに属しているのでしょうか? 神の側に属していなければなりません。ところで神の側の中でも主流がありますが、統一教会の皆さんは主流に所属しているということに対して、自負心を持たねばなりません。

 主流に属する皆さんは、一本の木のように春になれば葉が芽生えなければなりません。夏になれば葉がおい茂り、花が咲き、秋になれば実を結ばなければなりません。その木が持っている影響を程よく受け、共に育たなければなりません。葉が育てば枝も育ち、幹も育ち、根も大きくなるのです。同じ立場で育つのです。これが木が持っている本質です。すなわち統一教会が発展するに従って、皆さんも発展しなければなりません。

 国家的な基盤を通して発展するか、部落的な基盤を通して発展するかは、範囲は小さくなりますがその形態は同じでなければなりません。そうではない所では事故が起こりますので、自ら不足なる立場であることを、悟らなければなりません。

 皆さんがこれを悟ためには、四方が決定されていなければなりません。すなわち、地区の東方区か西方区か、席も以北か以南か、決定していなければなりません。位置は上下と前後、左右の関係が決定された後に明示されるのです。皆さんが面している位置も、やはり同じです。皆さんは四方の度数に立脚して、価値を立て、位置を決定づけておかなければなりません。そうすれば現在の状況に符合し、正しい姿勢をとることができますが、そうでなかったら否定的姿勢となってしまいます。そうなったらいずれ歴史の流れに押し流されてしまう他はないのです。統一教会は世の中が発展するその軌道に従っては、発展しないということを知らねばなりません。

 今回帰って行く皆さんは、どのようにすれば神のためになるかを、よくよく憶えておかなければなりません。皆さんは神をよくよく記憶し、復帰摂理の路程をよくよく記憶し、自らをよくよく記憶し、地区長、地域長をよくよく記憶し、統一教会精神を持てば発展するということをよくよく記憶し、上下関係において自らどんな姿勢を持つかということをよくよく記憶しなければなりません。

 繁殖の原則

 上があれば下があるのであり、前があれば後ろがあるのです。下上があってはなりません。皆さんをじっと見ていると、自分から下を考えているのですが、これが下上です。自分から考えますと下となるのです。しかし上がまずあるのですから、まず上を尊重しなければなりません。たがいに好んで合わさった二つよりも、上をより良しとする方が、早く発展するのです。

 ですから聖書にも、二人が地において心を合わせ、祈祷したなら何事も成就される、とあるのです。神と人間においては、神は上になり、人間は下になるのす。

 上下の縦的な関係においては、繁殖はされません。繁殖をするためには分立作用をしなければなりません。そして横線上になければなりません。横線上にあれば、繁殖は自動的に起こってくるのです。

 地域長と区域長の関係のように、縦的な関係においては繁殖はなされないのです。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心として、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こるのです。これが創造の原則です。

 我々はなぜ、伝道をするのか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係では起きないのです。横的な立場に立って、一つになって、互いに授け受けてこそ成るのです。従って皆さんは教会長を中心として、教会員と横的な立場で一つにならなければなりません。そうすれば全ての面で発展するのです。地域長を中心として教会長たちが一つになろうとすることは、このようにして全ての面で発展させるためであり、地区長を中心として地域長たちが一つになることも、さらに発展させるためです。発展、すなわち繁殖させようということです。皆さんが忠誠を誓う時、ここにおいて数十倍の繁殖が起こるのです。

 時が大きいとか小さいとかはないのです。人間の心が大きい、小さいがあるので、各地方に離れていって活動する個人であっても、本部での全組織を中心として横的な基準に立たねばなりません。体内で感じる全ての感覚が、神経を通して細胞まで一時に及ぶのと同じように、全ての食口たちも本部組織に対して、同感することのできる立場でなければなりません。そうしてこそ天上的な生命を持つのです。ですから皆さんが本部を慕うのは、当然の位置なのです。

 しかしながら神経系を通して伝達するような、縦的な基準においてのみ関係を結んでいるなら、一時的には感じるかも知れませんが、継続して感じることはできないのです。我々の体の骨の組織を見てみる時、これは秩序だって縦横に連結されているのです。


 「記憶せよ、いま一度記憶せよ」

 近々本部から行ってしまう皆さんが、心に抱いて行かなければならないことが何か?

これは「記憶せよ、いま一度記憶せよ」ということです。皆さんが習慣的な感情をどれだけ超越しているかに従って、皆さんの人格が決定づけられるということを、はっきりと知らねばなりません。

 ですから本部教会に対する時において、食口に対して、地域に対して、各個人に対する時において、これまでに皆さんが取ってきた立場をもう一度、革新しなければならないのです。新しい立場で認識しない前には、発展しないのです。新しい創造力が発生しないのです。創造原理がそのようになっているのです。

 4段階倍加運動、これは今年我々が立てた4大目標の一つなのです。これを超過達成するために、理想を大きく持つことは問題とはなりません。しかし悔い改めを避けてゆく姿勢をとったなら、昨年が難しいなら今年はさらに不可能となるのです。ですからどえらい目標を前に置く皆さんは、これをさらに記憶しなければなりません。神の心情と、神の所願を悟らなければなりません。

 このようにして心情的な内的基台を造成して、4段階倍加運動、あるいは経済復帰するための活動を完遂して、この全てのことを成就しなければなりません。このような問題を見渡してみる時、皆さんがこれまでのように観念的な、地区長を通しての認識を持ってはダメです。徹頭徹尾、記憶された認識が、皆さんの四肢五体を動かして爆発させることができる、行動の源泉にならなければなりません。この爆発力が、昨年よりも小さかったなら、7年路程におきまして落伍者となるのです。

 ですから皆さんは再びいま一度、記憶しなければなりません。これまでの皆さんが知っていた地区長をもう一度、記憶しなければならず、地域長をもう一度記憶しなければなりません。皆さんは疲れるそんな場で、もう一度記憶しなければなりません。皆さんの心情が疲れる原因は、神にあるのではなく、皆さん自身にその原因があるのです。神が勝利された人間が行く道を、塞ぐ法はありません。忠誠を尽くす人間を、神は勝利の道へと導かれるのです。ですから皆さんが誠精を尽くしたなら、失望して疲れはてて落ちてしまうことはないのです。

 皆さんがみ旨の道で疲れるのは、神を中心として考えるのではなく、自分を中心にして考えているからです。自身から考えて滅びてしまうことは、正に堕落した後孫であることを自証しているのです。自分から出発したことが、神から出発したことと同じになってしまったなら、復帰は自動的にできるでしょうか?

 今まで積み上げられた罪悪の歴史を蕩減するという、このどえらいみ言を皆さんは聞いたのですから、蕩減復帰のための最前線に立って、神を抱えて身悶えてみたかというのです。皆さんは道なら道に責任を持つ地区長、郡なら郡に責任を持つ地域長、面なら面に責任を持つ教会長を中心として、真情から蕩減復帰のための最前線に立って、サタンとぶつかってみなさいというのです。


 困難にぶつかる時、想起すべきこと

 皆さんはこれまでの過ぎた歴史を振り返って見て、現在を見やり、未来に向かって行かなければなりません。過去から現在まで、認識し記憶していることを刷新して、新しい記憶と認識が、皆さんの心を捉えるようにしなければなりません。このような決意と信念を持つ皆さんにならなければ、初期の目的は達成できないということを、はっきりと知らねばなりません。

 そうするためには皆さんは、何を想起しなければなりませんか? 皆さんが初期の目的を達成するために、困難が伴はざるを得ないのです。当然、困難がなければなりません。 皆さんはこんな困難にぶつかるごとに、ノア爺さんが120年の間、周囲の人々の非難と嘲笑を受けながらも、手斧を握り、木を切り倒し、箱舟を造った姿を思い起こさなければなりません。また、アブラハム、イサク、ヤコブの3代に渡って天的な因縁を回復し、神が捜し求められた目的を達成するための大変な労苦を、皆さんは忘れてはならぬというのです。イスラエル民族のために、ノアが歩んだ120年がどんなに難しい期間だったでしょうか?

 これまでのイスラエル民族が神のみ旨のまえに立てず、数多くの民族に虐待され、世界的に追われる民族になったことは、イエスに侍らなかったという愚を犯したからです。しかしイエスはゲッセマネの園のおいて、血のにじむ祈祷をなし、十字架を背負いてゴルゴダの丘を登っても、自分一身が引き裂かれて滅ぶことは気にもしなかったのです。むしろ神と共に決意し、誓ったのです。こんな鉄石のごとき内的決意があったということを、皆さんは思い起こさなければなりません。

 いつか皆さんが、ゲッセマネの園で祈祷されたイエスのように「わがアボジよ!」と泣いて祈祷してみたことがありますか? 非難、嘲笑、嘲弄と鞭打ちにも屈せず、死を覚悟して十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かって行ったイエスの立場に立ってみましたか? また我々の先祖たちの全ての過去の因縁を、再び回想して見ましたか? この歴史的な事由が、今日皆さんのまえに再び再現して、皆さんによって蕩減されねばならないことが、復帰摂理の原則なのです。ですからこの時代に皆さんを、こんな条件の前に立たせるのであると、考えなければなりません。こうしてノア、アブラハム、モ-セのように、神の悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの心情を推し量ることができる自身になると、身悶えて自身に鞭打つ皆さんにならなければなりません。

 皆さんが涙を流す時、値打ちのない涙になってはなりません。大道商人の一声で駆け出して行くようではいけません。一人の人の言葉に、自分の命の道を無にする安っぽい人間になってはなりません。台風が来ても、皆さんは怯まずに立つことができ、怨讐が襲っても、その怨讐を打ち破ることができ武器となると、誓わなければなりません。このように誓う皆さんになればよし、襲い来る台風と、入り乱れた環境の中で、自ら崩れてゆく人間になってはならないというのです。


 神と先祖たちの立場で考えてみれば

 皆さんは歴史的な路程で、イエスがゲッセマネの園で血のにじむ祈祷をなし、ゴルゴダに向かって行った心情を、生活の中でどれほど体恤してみましたか? ノアが120年間耐えてきたその路程を、皆さんはどれほど行ってみましたか? モ-セが自身の栄光を投げ捨て、祖国であるイスラエルに対する愛国精神に燃えて、死を意に介せず、神のみ旨だけに向かって行ったその路程を、どれほど行ってみましたか?  皆さんたちは歴史を辿ってさか上り、彼らを慰めることができる各自とならなければなりません。全ての先祖たちをそんな立場で、慰めなければならない皆さんであることを、はっきりと知ったなら、疲れようにも疲れることができないのです。

 このように先祖たちを見やる時にも、皆さんは疲れることがないのです。そうであってこそ、過ぎし日の先祖たちの失敗を、復帰することができる一つの条件も、立てることができるのです。先祖たちがやっておいたことだけを、もってしてはダメなのです。にもかかわらず皆さんは、神を中心として考えないで、自分個人を中心に考えているのです。皆さんが何にもなくて惨めで、どんなに苦しいことがあったとしても、神が息子娘を失った時の悲しみの心情と、失った息子娘を捜し求めて6千年の間、歩みこられた哀しい歩みに比べることができるでしょうか?

 神は歴史路程において、悲しみと、呪咀と、凄惨なる環境にぶつかってこられても、ただの一日でも我々を不忠者とは考えられず、むしろ我々を救われようと摂理されて来られたのです。新しい所望の天国を夢見て、救援摂理をされて来られた神であったことを考えます時、皆さんはこのような神の心情に立脚して考え、神のされることに同参しなければなりません。そのようにすれば、歴史的な先祖となるのです。皆さんがこのようなことを考え、実地に感じたなら、落胆して疲れる理由がないのです。こんな話を聞いても、確実に認識できなかったら祈祷しなさい、祈祷。復帰原理を中心として、祈祷しなさいというのです。

 神がアダムとエバを創造される時、どんなにか多くの誠精を込めて創造されたでしょうか? これも知らずに、アダムとエバは堕落したのです。アダムとエバが堕落した時、神はどんなにか、悲しかったでしょうか? アダムとエバが堕落して、神はカインとアベルを中心に蕩減復帰されようとされました。ところがこれが壊された時、神の心情はどんなにか悲しかったでしょうか? 皆さんがもしも、そんな立場に立ったなら、どうなってしまうでしょうか? 皆さんはそうであってはなりません。

 皆さんはノアを中心に、ノアの立場で祈祷してみなければなりません。アブラハムならばアブラハム、モ-セならモ-セの立場で祈祷してみなければなりません。洗礼ヨハネなら洗礼ヨハネの立場で、祈祷してみなければなりません。イエスを分からなければならなのに分からなかった、惨めにも哀れな洗礼ヨハネの立場になって祈祷してみなさいというのです。また、3年公生涯路程を喘ぎながら行かれたイエスの立場で、祈祷してみなければなりません。背反した民族を全て収拾して、神の祭壇を造りあげ、勝利の結果を神にお返ししなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷してみなさいというのであり、イスラエル民族のみならず、堕落した数多くの世界の人類を復帰しなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷しなければなりません。また、これまでの皆さんの先生を中心として、先生の立場に立って、祈祷してみなければなりません。


 経済復帰を強調してきた理由

 それでは皆さんは何を考え、どんな祈祷をしなければならないのでしょうか? 皆さんの小さな村、郡、面、道を考え、祈祷することだけではダメです。現在、韓国を中心として動いている時でも、複雑な事由が多いのですが、これが問題ではありません。これよりもさらにどえらい世界的な問題が絡みあっているので、皆さんはこれを案じ、祈祷していかなければならない立場にあるのです。ですから国内で起こる苦しみの種は、苦しみの種にすることができないのです。ところで皆さんは、疲れることがありますか? 血がたぎる20代の青年男女がですよ。それで統一教会には、若い人たちが多いのです。

 もしもこのような環境で、皆さんに刃を突きつける時には、讒訴する群れとなってはなりません。最後の白兵戦で、銃剣を取って血戦をする人間にならなければならないのに、そんな場で自分のことばかり愛して苦しむ人間になってはダメです。

 皆さんの地区長、地域長たちが持ってみなかった歓迎の一時、さらにはそれぞれの地域に行って冷たくされ、歓迎されなかった先祖たちを代身して、皆さんが歓迎される時には感謝しなければなりません。彼らが夢の中にでも出てきたなら、皆さんは彼らに「私は受けませんから、あなたがお受け下さい」という内的な心情的基準を持って愛さなければならないので、そうではなかった時には、自分も知らぬうちに引っ張られてしまうのです。ですからこのような場に出て行く時には、断髪をして行かなければなりません。断髪をして、腰帯をぐっと締めて行かなければなりません。そんな時皆さんは、自分が目の前に現れたのを見て、笑ってしまう可能性が高いのです。消化できる観点で対し、その度に神を抱きかかえて祈祷しなければなりません。皆さんはアブラハムが持ってみなかった理想と、ノアが解くことができなかった恨、我々の先祖たちが持ってみなかった環境を、神を経て歴代の先祖たちのまえに返してあげなければならないのです。私は僕の僕ですから、歓迎を受けるに不足です、という態度で対しなければなりません。そうならば心情的な基準で落伍しても、サタンに絶対に引っ張られることはないのです。そうではない時には、十中、八九は引っ張られてしまうのです。

 経済復帰を強調してきたこの時は、なおさらそうなのです。今まで生活してきた全ての背後をみて見る時、皆さんが疲れてしまったら何の役にたつでしょう。地域長たちが過去には千ウオンを求めるのも、天の星を取るように難しかったのですが、今は万ウオンも取るに足らぬと考え、10万ウオンもさほどとは思っていないのです。先生が今までの記憶を通して、経済復帰を強調してきたのは、これが皆さんの生命の基台となり、神の足場となり、心情をかき立てる助けになるためであったのです。ところがむしろ、心情を売ってしまう材料に利用されてしまうことを考え、もどかしいことこの上ではありません。こんな問題ならぬ問題を考えます時、心情的な内的基台の造成を再度、強調せざるを得ないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。


 我々の安息の場所

 神を代身し、民族のためにゆく皆さんが、反共講義をすることは、若干の人のためにするのではないのです。復帰途上において共産主義は、必ず打ち破らなければならないサタンの勢力だからです。神は勝利した民族を立てようと骨折っておられるので、民族全体が歓迎するその日が来る前には、皆さんは歓迎されないという心を持っていなくてはなりません。民族が歓迎する時、皆さんが前に立つことよりも、先祖として行った全ての義人たちを前に立て、神が喜んでおられるという、謙遜な心を持たなければなりません。

 今、皆さんは歓迎されるそんな場に立ってはダメです。これは過程的な現象です。あくまで皆さんには、越えなければならない峠が多く残っているのであり、駆けなければならなこが多く残っているのです。その道を行くときに妨害となる要件があっても、これをきっと越えてゆくという皆さんにならなかったらダメだということを、記憶しておかなければなりません。でなかったら今まで積んできた伝統を、すっかり売り払ってしまうのです。7年路程の闘いにおいて立てた功労の中の一番が、正に伝統なのです。ところがこれを売り払ってしまうのです。

 先生は今まで、ジャンパ-を着てやっていました。ボロを着ていても恥じることなく、誇る立場で着ていたのです。でも事がある時には、環境的な要件を持たなければならず、対外的な威信も立てなければなりませんので、今は洋服を着ているのです。これは神に対するためであり、神の威信を立てるためなのです。ところで家庭に帰ってからは、昔の姿でいるのです。皆さんは先生がそんな姿でいることを、淋しがったり嫌ったりしてはいけません。これを嫌う人間はサタンです。

 工場が発展するのは、工場長の努力があったからです。その人が市内に出かける時にはきれいな衣服に着替えて行くのです。工場に帰れば再び服を着替えなければなりません。ところで再び帰っても、着ていた新品の服を脱いで作業服に着替えるのを嫌ったら、彼は工場長になることができません。すなわち再び帰って、その油が染み込んだ服を着るのを嫌って、機械に触るのを嫌ったら、彼は自分が築いた基台を喪失してしまうのです。皆さんもそんな位置にいるのが楽でしょう。ところで皆さんが惨めな環境にあって、涙を流して流浪の孤客となっている時、同じ道を歩んでおられる神であられることを、知らねばなりません。

 先生は工場に行く時、できれば洋服を着ては行きません。先生が心から決心した責任がありますから、同じことができないのが、恨なのです。

 皆さんを育てた安息の場がどこですか? 歓迎される場が、安息の場ではありません。天国や宮廷のように万民が仰ぎ見る場が、安息の基台たる休み所ではないのです。そんな場を投げうって十字架を背負い、闘って勝利した場において神の慰めを受けることができる所が、安息の場なのです。神が与えられる慰めを大きなものと見て、世の中で送られる慰めを好んだなら、国に売ってしまうことを、皆さんは再びいま一度考えなければなりません。

 経済復帰のために誠精を尽くせ

 今年は経済的な基盤を確立するために、動かなければなりません。皆さんが事業をやっていますから、既成教徒たちは「統一教会の若者は商売している。非宗教団体だ」と言っていますが、気にしてはいけません。我々が経済復帰するにおいては、豪華絢爛たる場ですることを、先生は願いません。歓迎を受ける場ですることは、さらに願っていません。行くなと言っても行かなければなりません。

 民族が全部歓迎したならば、今まで復帰摂理をやってはいません。私は3千万民族が、お互いの為に生きる、そんな統一の民族を成したら良いというのです。皆さんが良い場でこれを収めたなら、これは小さな蕩減になるのです。難しい場であっても、これを糾合して収めたなら、より貴いものになるのです。先生はこのように考えます。

 皆さんは苦しみ多くとも、この一つの物を売るために尽くす誠精は、どんな商人よりもより真摯でなければなりません。他の商人たちより何倍かの心情的な基準を持ったなら、値の張る物でも、頷いて買うのです。こんな消費者の数が、今年になってどれくらいになりましたか? そうするには皆さんは、自分の責任分野に入って、万事について祈祷して誠精を尽くさねばなりません。であればみ旨は成るのです。

 地域長たちが集まった時に、地区長が大声をだせば気分が悪いです。気分悪いという看板を、神様から受けましたか? しかし気分が悪くなるそんな場が、滅びの場ではなく、うまく克服したなら、皆さんが勝利できる基盤を築けるのです。こうして皆さんが帰ってくれば、そのままではなくてそんな前後、左右を知り、神を中心としてこれまでの自分自身を反省し、再び今一度、新しい立場で動いて下さることを願います。分かりますか?


 天の人間になるには

 皆さん、侍義時代が何ですか?(侍る生活をする時代です)皆さん、今は示威時代ですか、侍義時代ですか? ところで近頃、示威する人間は多いのです。ですから侍義なのか示威なのか、はっきりして下さい。

 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活におきまして、正確な中心を決めてゆかなければなりません。神に侍る時には、法度があるのです。この法度を破る時には、神は非常に怒れるお方なのです。子を愛する父母が、子供の一言で胸に釘を打ち込まれたり、抜き取られたりするのと同じように、神も人間を愛しておられるので、憤ることの多いお方なのです。ですからちょっとしくじると、神から怒りを受けるのです。ですから常に、先生も先生なりに、神を喜ばせてあげようとするのです。衣服を着る時も、きちんと着なければなりません。先生も衣服をきちんと着ている人を見れば、気分がとても良いのです。それで先生もそうしなければならないと思い、洋服を着て来たのです。そうでなければ、ジャンパ-を着て来るのです。

 面で称賛を受けようとして生活する人間は、うまくやる時は称賛されますが、そこで一度失敗したら、完全に滅んでしまうのです。しかしながらその人が、面で称賛されて、郡においても称賛されようと熱心に忠誠をつくしたなら、生きる道が残るのす。しかし郡でも称賛されようと、目を血走らせていたなら、一度失敗すればその人はむしろ滅んでしまうのです。しかしながら郡を忘れて、道のための目標を目指して行くなら、郡で失敗しても、また生き残ることができるのです。しかし我々統一教会員たちは、神を最も愛し、神の称賛を受けなければならないのです。世界のいかなる大統領の称賛が、問題ではありません。神から称賛を受ける体験だけが、永遠に残るのです。ところでいまだに、神からの称賛を受ける時が、ないのです。

 先生は我々統一教会が、大韓民国においてのみ称賛を受けることを、願っているのではありません。また、世界の30億人類が称賛したとしても、それで満足はしないのです。数多くの霊人たちが歓迎し、神から有難いと称賛されるそんな立場なで行かなければならないというのです。これはとんでもなく遠い基準です。

 自分が3年間、苦労して骨を折ったので、必ず称賛されなければと考えたなら、その間に苦労したことが、全て無駄になってしまうのです。民族と世界のために3年苦労したとしても、いまだ苦労した立場に立っていないと考え、より忠誠を誓わねばなりません。であればその苦労の値打ちが、ますます世界的に広がって、終いには大きな称賛、すなわち世界的な称賛を受けることができる立場に立てられるのです。そうなれば天の人間になるのです。


 先生が歩んだ道

 先生が皆さんを地域長にさせ、また皆さんに韓国に責任を持てと言ったことが、何の話か分かりますか? 全部アフリカ、南米、ヨ-ロッパ等、世界の五大洋、六大陸に送るためなのです。ところで韓国では、こんな考えを持っている人間がいないのです。日本人を見ても、全部が日本を離れて世界復帰のために力を尽くしていますが、韓国の統一教会の青年たちの中には、こんな人間がいないのです。いますか、いませんか?「います」いるといって、何がいる! であれば要件を持たなければなりません。

 皆さんが苦労し、骨を折って称賛されるという立場に立てば、その要件を得ることができません。ですから自分に任された責任を中心に、面を通して郡、郡を通して道を動かすと考えなければなりません。また、道を通してこの国を動かす、と考えよというのです。先生はこのようにやって来ました。

 先生は小さな土塀の家でひどい暮らしをしていても、今日のおかずは何にするか、明日は何を食べるか、という心配はしないのです。たとえ着る物はボロでも、食べるに困っていても、思いだけはこの世界を征服して天の国を造ってやると、そんな大言壮語をガンガンやったのです。

 ならば皆さんも地方に行って、一間の部屋、あるいは村の人々が入って来ない部屋、すなわち歳とって死にそうな人が暮らしていたのが息を引き取った、そんな部屋で生活したとしても、天下を統一する土台を残さなければなりません。そしてその土台の上に教会を立てたなら、天がどんなに貴く思うでしょうか?

 ですからその部落だけを中心にする、と考えるなというのです。そしてここで称賛を受けることを考えてはダメです。そんなことは、よくあることです。過ぎ行く旅人に、昼めしの一杯ももてなせば、その旅人が有難うというのと同じことだと、考えなさいというのです。

 こんな考えをもって、気分が悪いことがあったとしても「アイグ-、悔しくて、もうダメだ」と言って自分の胸に結んだ感情を、神のまえに訴える、そんな祈祷をしてはならないというのです。これをうまく克服して、み旨のために死ぬという立場まで行かなければなりません。何事があってもそのように考えたなら、み旨のまえに条件が立つのです。この条件に引っ掛かる人は、欲心が多い人です。欲心が多い人は、目の前にあることは全て自分のものと考えてしまうので、条件に引っ掛かるのです。

 教会の誰がどうで、誰がこうしたという人は、みんな欲心が多いのです。どんなに無いとしても、絶対そうであってはなりません。何が無くて、何が無いというのも、みな試練の舞台で神が私に、教訓とするためであり、私を教育するための材料として登場することだと、考えなければなりません。先生はこのように考えます。ですから全てのことを悔い改めて、その環境で皆さんは責任を果たさなければなりません。分かりましたか?


 侍ることと祝福

 皆さん、侍義が何ですか? 仕えるのは乞食ですか? では皆さんは、どれほど侍ってみましたか?

 皆さんはどこであっても腹がへった時や、ひどく難しい時に助けられたなら、とても有難く感じます。先生もそんな時がありました。今も学窓時代、困っていた時に助けてくれた人を忘れることができません。それでこの7年の間、先生が条件だけ立てたなら、その時は全部お返ししょうと考えているのです。先生は今まで復帰の道を歩んで来て、悲しみに出会う環境にある時、先生に恵みをほどこしてくれた人々をみな記憶しています。すなわち先生が世話になったことを、みな返そうと思っているのです。ところで今まで、なぜ返さなかったのでしょう? それは今返せば、小さなお返ししかできないからです。

 先生が一つ、恨めしく思っていることがあります。先生が以北で避難した時、先生を助けてくれた平安道の親友がいました。その人に対して、骨身に染みて有難く、いささかもその有難さを忘れることができません。それで先生はこの7年路程が終わって、世話になったことをお返しする時が来たなら、我々統一教会員たちの家は造ってあげなくとも、彼に家を造ってあげようと思っているのです。そんな人々にこれから真ごころを込めて、模範を示してあげたいと考えているのです。先生がこのように心で思っているのですが、その人がある時、食口たちの所に来て「あなたがたの先生が困っている時、私が助けてあげたのだから、私を助けて下さい」と言うのを先生が見る時、とても切ないのです。それで「気の毒な人だから、じっと耐えよう」と思うのです。先生はそのように忘恩の徒ではありません。先生はそのようにする深いみ旨があるのです。何の話か、分かりますか?

 皆さんは神に侍る者として、皆さんが嬉しい時、神をどれくらい喜ばしてあげていますか? 皆さんが腹がへっている時、ごはんを食べて感じる有難さ以上に、神に侍って差しあげなければなりません。

 皆さんは良い物を食べる時や、着る時、そして悲しい時や困っている時にも、常に神に侍らなければなりません。そして神の心に記憶される、事由を残さなければなりません。 皆さんが統一教会で出世するには、地方教会の教会長の心を占領して、その教会長の心に残る人間にならなければなりません。すなわち村なら村の中で、まず残ることができる人間、教会長の祝福を受けることができる人間にならなければならないのです。その次には、地域長の心に残り、地区長の心に残り、さらには協会長の心に残らなければなりません。そうすれば先生の心に残るのです。このように段階を経てゆくのです。


 7年路程は侍る生活の準備過程

 ですから皆さんが上の人の心に残るには、誠精を尽くさねばばりません。そのためには良いことが一つでもあったら、みな与えてあげたいという心が、皆さんに充満していなければなりません。

 心情の世界では、物をもって通じるのではありません。心で通じるのです。常に感謝する心で、上の人が悲しい時、同じく悲しみ、嬉しい時、同じく喜ぶことができる因縁をもって通じるのです。このように生きる人間に、神は共におられるのです。それで彼が悲しむ時、神も悲しまれ、彼が喜ぶ時、神も喜ばれるのです。

 ですから皆さんがこのような段階を経ないで、地区長に対し、地域長に対してはいけないのです。

 侍る時におきましては、段階があるのです。ですから統一教会員であるというなら、誰であっても7年路程をみな経なければならないのです。すなわち7年路程は、侍る生活に対する準備の過程として、堕落した人間にとって絶対的な過程として残っているのです。であるにもかかわらず、7年路程に対して、多くの人々が知らないのです。みな忘れているのです。皆さんはどうですか? 「7年路程が何だ? こうこうだ」このように考えてはダメです。ですから家庭で言えば、二人が暮らしていれば、4人で暮らす生活をしなければなりません。すなわち父母に侍らなければならないということです。しかし父母だけに侍っていたのではダメです。さらにはその息子まで、侍らなければならないというのです。分かりますか?

 ですから皆さん自身が「四位基台」を復帰するためには、父母だけに侍っていてはダメです。必ずその息子にまで侍らなければなりません。このようにして皆さんの全ての誠精を、そのまえに連結しなければなりません。そうすれば外的な面においては二人で暮らしていても、内的な面では何と4人、5人の生活基台となるのです。

 父母に侍る時は、3年は侍らなければなりません。なぜ3年ですか? 3数過程をいっぺんに復帰するためです。ですから皆さんが家庭を中心として生きる時には、先生がいつ何時に予告もなく、皆さんが暮らしている家を訪問しても、先生がくつろげる部屋がなければなりません。部屋がなければ、席でもなければなりません。その席は、誠精を込めた場所でなければなりまん。

 ですからその席を中心として、一間であっても、いつも誠精を込めた場所を造っておかなければなりません。そうして父母に侍ることができるその日が来たなら、服を着るにも準備された服を着て、履物を履くにも準備された履物を履いて、身ぎれいにして侍る準備をしていなければなりません。ほうきを取って庭をはくにも、みな掃いておかなければなりません。そして父母を千回、万回、偲ばなければなりません。皆さんたち、そのようにしてみましたか? そうしてみた? 生きた教会になるには、みなこのようにしなければなりません。教会にはお父様が来て、祈祷する所がなければなりません。平素、心情の蝋燭を灯して、誠精を尽くさなければなりません。

 慕わしい心を持て

 近頃、地域長を見ていると、いい加減な地域長が多いのです。仕事に行って礼拝の日になっても、礼拝は食口たちにやらせて自分はその日も忘れている地域長が多いのです。祭司は誰が管理するするのですか? 祭司長が管理するのです。そうでしょう? 祭司は客が管理してはダメです。ですから皆さんが地方で、公的な会合の場を重要視しなかったなら、発展しないのです。分かりますか、地域長たち? 区域礼拝も同じことです。

 主の日の礼拝の時には、必ず沐浴斉戒して、神のまえに敬礼を捧げ、また聖地を尋ねて祈祷しなければなりません。たとえ尋ねて来る人がいなかったとしても、神がその部落を思いやって、共にされる心情的な基台を築いておかなければなりません。神のまえに一人祈祷して、涙を流すその場は、絶対に心ぼそくはないのです。神が共におられますから、絶対に淋しくはないというのです。3年以上、皆さんが誠精を尽くしても、その村で得た人がいなかったら、その村は滅ぶのです。

 皆さんが爪を切るその時にも、お父様に侍ることができるその時、その時間が来たら、どうするのですか? どのように孝道をなすのでしょう? そしてどんな姿でお父様に侍るのか、考えてみなければなりません。お父様にどの川岸で、出会うことができるのか!どんな所で出会うことができるのか!

 皆さんが山奥に入って生活するなら、我々統一教会員の食口たちが尋ねて来たら大切にもてなし、また食口の中で誰か悲しいことがないかと、案じたりします。そして自分と最も親しい食口に会えたなら良かった、また先生に会えたなら、地区長に会えたなら、地域長に会えたなら良かった、という慕わしい心がなければなりません。

 毎日のように慕わしくないという人間は、神に侍ることができないのです。皆さんはこれが分からなければなりません。誰を慕うにも常に、慕わしさに染みていなければなりません。ところで夜、12時になると「やあ やあ ! さあ さあ 」という人間は、神に心配を掛ける人間なのです。親友には、夜も昼もないのです。心情の因縁を知ってゆく時には、夜が問題ではありません。

 他人から反対され、迫害された話を聞けば、その人よりさらに悔しくて胸が痛み、称賛された人を見たら、その人のことを地区長や地域長に報告して、誇ることができなければなりません。全部報告して誇りたいという心を、皆さんが持たなければなりません。

 ですから慕わしい心がない人は、侍る生活をすることができない人です。慕わしい心、すなわち本部を慕い、地区を慕い、兄弟を慕わしく思わなければなりません。こんな心で生活する人間は、絶対に淋しくはならないのです。

 そうなればその人によって、必ず繁殖が起こってくるのです。こんな基準で教会を立てれば、天上的教会になります。では、皆さんの教会はどうでしょうか? 全部みな冷え冷えとしているのです。このような慕わしい気分にならなかったなら、皆さんは写真でも見て、一人であったも慰めなければなりません。口にも言えないよじれた事由は、素晴らしいことなのです。であればお父様がその間に流した涙は、一つの感情によって解かされてゆくのです。皆さん、そのようにやってみましたか?

 その流した涙の中に、天に通じる感情が生じてくるのです。涙を流してアボジを呼ぶ時に、その声はどこに行くのですか? 食口たちの困難な様子を見る時、それは他のことではありません。皆さんが暮らしている村に、伝道隊員が来れば「彼らは自分の仕事を代身するために来てくれたのだから、彼らの所に行きたい」という心がなければなりません。


 修道の道を歩む人間は乞食の親類になれ

 孝子は父のことを代身して責任を負う立場ですから、父のことを代身して責任を持つことは無論ですが、その周囲に誠精の手を延ばすべき所があったなら、その場に行って見たく、またそこに行って涙を流し、そこの食口たちと一緒になりたいという懇切なる心がなければなりません。そんな心がない人間は、先生に侍ることはできません。そんな慕わしい心を持ってみない人間は、侍義の生活圏から離脱した人間です。すでに神と同じ目的を持っていないというのです。

 イエス様を信じる信者たちが、イエス様の愛の新婦である信仰の兄弟たちを愛すれば、これはイエス様を代身して愛したのですから、その人は早く蕩減復帰できるのです。

 完全なプラスは、完全なマイナスを生むのです。ですから完全に心情が一致すれば、完全なる心情の対象者が生まれ、新郎新婦の欣慕の心情を連ね、縦的にそんな関係を結べなければ横的に同志あるいはは食口、あるいは同胞の関係を結んで、繁殖してゆくのです。人間は腹がすけば沢山食べます。しかしどんなに腹がへっても、食べ物を横にいる人にも分けてあげなければなりません。

 皆さんよりもさらに忠誠をなした先知先烈たちが、皆さんと同じ立場で神のみ旨を立てることができなかったので、恨が残っているのです。ですから全体が神の対象になっているのです。

 皆さんたちに慕わしい心がありますか? 地域長が慕わし時がありますか? また、先生が慕わしくて会いたい時がありますか?「ハイ」時にはあるでしょう。皆さんが迫害され、悔しい時「先生! 先生を愛していますほどに、私を愛して下さい」とは言っても、自分がちょっと楽で嬉しければそうではなくなるのです。鞭打たれ、悲しい立場になった時には先生のこと考えるのですが、そうでない時には考えないのです。

​ ですからこれから環境がだんだん良くなって、統一教会を歓迎する人々が多くなる時、その時が正に統一教会の信者にとって、危機の非常時代になるのです。分かりますか?​

 まず財布にお金がちょっとあれば、祈祷する心も起きないというのです。皆さん、そうですか、そうじゃありませんか? それで修道の道を歩む人間は、みな乞食の親類になれというのです。家を捨て、山中修行するというのです。ところで我々は天国の門に入るまでは乞食の様子ですから、天国生活をする時にはいけませんので、我々は覆って行かなければなりません。

 その代わり心情だけは、いつも終始同じでなければなりません。皆さんは心情教育を受けていますから、今までそんな分野では道義的にゆくことができるのです。

 ですからまず、縦的な関係におきまして天的な基準を立て、縦横を蕩減しなければなりません。上下、前後、左右です。右左、後前、下上そのようになっているでしょう?「上下、前後、左右になっています」一切の影響は、根から上がって来るのです。


 勝利する生活

 先生は誠精を込める食口や家庭を、最も恐れるのです。そして苦労した食口を見ると、その食口が苦労したということを、先生はいっぺんに分かるのです。

 誠精を尽くすということは、むやみに求めることではないのす。ですから統一教会に入って、先輩たちが天に向かって誠精を尽くした基台の上でしくじったら、霊界に行って全部引っ掛かるのです。これが分からないで統一教会に入って、逆賊になる人々がいます。そんな人間は、7代が引っ掛かるのです。先生がさっと印を付けておけば、彼らはあの世に行って引っ掛かるのです。こんな怨痛なることがあるでしょうか? 悪の世界が滅ぶ時には、彼らはまず一番に滅ぶのです。

 ですから皆さんは、侍義の生活をしなければなりません。朝起きて、最初の一言を天のまえに捧げ、家を出る時には、最初の一歩を右足から踏み出して、天のまえに捧げるのです。平素の習慣がこのようになったら、皆さんの生活は侍義の生活となることができるのです。このような観点で皆さんは、原則的な基準で、生活における態度とするようにして下さい。

 さあ ! 今はこれくらいにして今日、記憶することを忘れませんか?「ハイ」

 今、皆さんは、自ら伝道基盤を築かなければなりません。ところで今、皆さんの心の姿勢で、できますか? さらに女性たちは伝道に行かなければなりません。統一教会食口たちは女性でも、3月以上伝道に行かなければなりません。そうしない女性たちは、これから嫁に行く歳になっても、嫁に行けないのです。これは蕩減条件が残っているからです。 また、結婚していない青年たちはどうなるのでしょうか? チョンガ-ですよ。チョンガ-なら、統一教会に来て女性たちを連れてこなければなりません。それで千年(青年)は一日の如く、一日は千年の如しです。間違いなく、目が落ち込んで待っているのです。ですからより多くの体験をしてみなければなりません。すなわち、霊的な感を通して相手方がどんな感じを持っているかということを、知らねばなりません。ところで大部分の霊界を通して預言されるいる人々が、これを失敗するのです。それでこれをよく判定しなければなりません。ですから霊界で教えても、むやみに喋ってはダメなのです。全て消化して、天的なものを追求するのに合致した位置に帰って、処理しなければダメです。でなかったら、パンクしてしまうのです。


 神のまえに忠誠なる先生

 先生はこんなことを体恤した人間なのです。先生が監獄に入っている時、どんなに裏寂しいでしょうか? ところで神は、先生に多くのことを約束して下さったのです。そんな時ごとに「あふ ! そんなにはるか遠いことを、どうして押し分けてゆくの」と言って神を怨むなら、千万にもわたる事由をもって怨むことができるのです。しかしながら男として生まれたからには滅んだとしても、天地を創造された偉大なる神を引きつれて立派に滅ぶというのです。本当にこれは、男らしいことです。

 神のまえに忠誠を尽くそうとしたのに、神が100パ-セント排斥されたとしても、これは素晴らしいというのです。しかし普通の人は、神が自分を100パ-セント排斥する立場に立ったなら、千べん万べん神に背反し、怨讐視して仇を返そうとするのです。しかしこんな立場に立っても、ホホと笑って「これくらいでは我が心は動きません」という人間がいたなら、神は「やあ 、こいつを見てくれ。千万の人間以上の気概を持っているなあ !」とされるのです。

 先生がこのように考えて決心しているので、神は先生を愛さずにはいられないのです。もしも神が愛さなかったなら、先生は千万の山場で間違いなく倒れたのです。しかし背骨が飛び出してものそりのそりと這って、死んでも心に抱いた決心を捨てはしないのです。 それで先生は拷問を沢山受けました。五体に全部血がまわるほど、また血が鉢に何杯も溢れるほど、鞭にも打たれたのです。


 時を失うなかれ

 日本統治時代には、軍靴で腹を蹴られる拷問も受けました。二人の男が左右から手を掴んで、また二人の男が上から踏みつけるのです。そうしたら腹の皮膚がどうなりますか?破れますか? 切れますか? それで便所にいって一度座って、起きてみなさい。それがどんなに苦しいでしょう。しかしながら先生は、気を落とさないのです。やあ ! 素晴らしいというのです。(笑い)神のためにこのようにしたということは、世の中にないことです。(笑い)考えてみて下さい、そうじゃありませんか? ではあっても私が出て行く時には、彼らに親切にしてやって行かなければなりません。約5・6時間、ひどい拷問を受けて、気絶してばったり倒れる時、その時むしろ彼に同情したのです。その同情は本物です。あ! その時その何某はどこにいるかと、考えたのです。享楽を追求する人間に、こんなことをいくら説明しても絶対に分かってもらえません。

 そんな場においては、アボジと共なるその時が慕わしいのです。鞭で打たれて血を吐いて、肉が熱くなるそんな場であっても「この血は歴史に背反した先祖の血だ。私には未だ行くべき道が残っているので、背負う十字架があるので、みな背負わせよ」という祈祷をしたのです。これはどんなにか男らしい祈祷でしょうか? 先生がこんな話をすれば、終わることがないのです。これまでこんな路程を、経て来ました。

 耐えて来たのですが、いつの日にか、返す日が来るのです。ですからアボジ、耐えて下さい。韓民族を審判されるなら、最後の審判をされる前に私に通告して審判して下さい。また、世界を審判されるなら、最後に私に通告して審判して下さい・・・。

 こんなことを考える時、運の悪さを嘆き、身の上を嘆く人間に比べれば、どんなにか素晴らしい男でしょうか? 歴史時代に一度現れて霊界に行くとしても、世界的に仰ぎ見られる人間になってみなさいというのです。どんなに素晴らしいことでしょうか? このようにすることは、一度しかないのです。この時を逃したら、ないというのです。この機会を捉えなければなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.05.03 17:27:20
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