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2021.05.06
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「蕩減が行く道」

 一九六七年六月四日(日)前本部教会


 この場は皆さんの立場では何にも分からないでしょうが、先生の立場から見れば優劣をつける場なのです。どんなに我々がこの場において、復帰摂理を成し、神のみ旨を成してさしあげるとしても、このみ旨が世の中に広がらなければ何の役にも立たないのです。

 先生は今まで反対される道を歩んで来ました。反対をされるのは反対されたのですが、それは世界的なものだったのです。しかしこれからは反対する人々に、反対するその内容をもって反対せよと言えるです。このように反対される立場で成した実績は、真のものとして天国の倉庫に積まれているのであって、これを取り出して万民に分けてあげるとき、それは万民が感謝の心で涙を流して受け取る、貴い礼物となるのです。


 蕩減復帰のみ旨

 皆さんは「蕩減復帰」という言葉を学びました。蕩減復帰ということは、小さな条件を通して大きなことを蕩減することです。例をあげれば、百人を許してあげるために、一人が代身にしてサタンに打たれる場にあっても不平不満をいわず、ただ神を思慕して心には天国を抱いてその場に当たる人がいるなら、その善なる一人の人間が打たれる代価として百人の罪が蕩減されるのです。

 蕩減の場に立つ人間は、周囲が追い詰めるなかにあっても天国を慕い、神を思慕して、死ぬも天、生きる天、生まれたのも天のため、生きるのも天のためという心を持たねばなりません。天から出発して天の過程を経て、天が終着点になるのです。こんな場を担って越えて行くことによって、百人の罪が許されるのです。即ち、人間百人の代表として一人を立て、彼が百人の代身に打たれて百人が打たれるこを許され、悪なる場から善の場へ帰ってゆくのが蕩減復帰だというのです。何の話か、分かりますか?

 それでは蕩減復帰歴史というものを、何によって知ることができるでしょうか? 神の摂理を見ても知ることができるのです。人類歴史は蕩減復帰歴史だったのです。ですから先生もここにいる真の人、四、五人のみを中心にしていけばいいのです。この言葉に異議がありますか?

 先生は今までこんな生活をしてきたのです。もしも先生が日本に行ったなら、地方では夜通し待って電話なり何なりして「自分がこの恩賜を千回万回お返ししますから、ただ手紙の一本でも下さい」と頼むのです。これは先生が願わないことですが、地方からこんな連絡が来るのです。これは本部でも知らない事実です。

 今度の期間はどんな期間か? 蕩減復帰の期間です。また今回の期間は伝道の期間でもあるのです。伝道の期間として出発する目的がどこにあるかといえば、先生が世界四〇か国を中心に、その三倍の一二〇以上の聖地を選んで決めておいたからです。これは地と因縁を結ぶべき関係にあるのです。先生は蕩減復帰のために三年間たくさんのことを考え、いろんな事をしてきたのです。

 人類歴史には、良い事と悪い事が反復しているのです。良い世界が成ってもこれが永続しないで、ある期間が過ぎると悪い時節があるのです。そして蕩減するときにおいても、必ず当てはまるのです。

 人間はある重要な事や、重大な問題が生じるなら、これをまえに誠精を尽くすのです。また自分がある目的を定めておいて、これを成すためにも誠精を尽くすのです。百日祈祷やら何かの祈祷だといって、誠精を尽くすのです。特に宗教を信じる信仰者たちは熱心に誠精を尽くすのです。それではなぜ誠精を尽くすのか? それは蕩減するためです。


 誠精と蕩減

 皆さんがこれからすべき重要事が、サタンに侵犯されてはいけません。あるいは選ばれた人が放棄されてはなりません。そのためには、その前に罪悪の要素を除くための蕩減を甘受する立場で、すべての悪の要素を蕩減しておかなければなりません。

 ですから誠精を尽くさなければなりません。誠精を尽くすにおいて、食べて眠て着ることを、そのまましていたら駄目なのです。誠精とは食べるものをみな食べ、眠りたいだけ眠って、着るものはみな着るそんな場においては、絶対にできることではないのです。ですからある重大事を前にしたら、必ず神と自分が談判する闘いをするのです。予め打たれるのです。神が打たれないなら、自分が率先してでも予め打たれるのです。打たれたらどうなるか? 神の相対になるのです。これが神がしてこられた、復帰摂理の法則です。

 こんな観点から見るとき、先生はこの期間を特別な期間と考え、できることなら聖地も一定の期間内に巡回しなければならないと考えるのです。それ以外のことは考えません。先生が工場に何度か立ち寄っても、そんな時にも心では我々が行く道のために、先生がすべきことが何であるかを考えるのです。その上外国の食口たちは我々の国に対して、大きな期待をかけているのです。ところが韓国人はこれを知らないのです。彼らは我々本部教会の食口たちを、想像できないほど高く考えているのです。彼らが想像できる最高の存在と考えているのです。

 彼らがどれほどまでに考えているかというと、先生は階段を雲に乗って上がったり下がったりするものと思っているのです。また先生がごはんを食べるときも、ハシでは食べないものと考えているかと思えば、トイレにも行かないと考えるのです。彼らがみ旨を知ると、最高の基準で韓国と先生を考えるのです。先生は彼らを見れば、顔がおもはゆいのです。どうしてこんな話をするのか、彼らの話を聞けば顔がおもはゆく、心がおもはゆいのです。どこに、世の中にこんな話がありますか? だから皆さんは彼ら以上に誠精を尽くさなければなりません。彼らは献金や礼物を捧げるときにも、何十回も祈祷して捧げるのです。

 我々食口たちは必ずこれを知らねばなりません。誠精を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対したら、その誠精を込めた礼物に審判されるという事実を、よくよく知らねばなりません。

 君王も自身の処身を誤ったら、即ち誠精を尽くす人間をいい加減に扱ったら滅んでしまうのです。またその君王に従う同僚たちも、その人間に反対したら天の逆族として追われるのです。ですから先生はそのように誠精を尽くす人に、やたらと接しないのです。それでこの期間に、暇のある限り聖地を回ろうと思います。

 その次には何をするのでしょうか? 過去に神様が先生に対してなされた、すべての事を振り返って反省するのです。自分がある事情に処しているとき、神が私を呼ばれて協助されたその恩賜を、彼らにも分けてあげようというのです。今日ここに集まっている数多くの食口たちが、育ってきた過程は千態万象です。出発から、これから天国の門に連結されるときまで、すべてが異なる道をゆくのです。

 このような人々を心情によって連結させるために、先生は今まで蕩減復帰の道を歩んできたのです。かように神が協助された心情の因縁を、彼らに連結させていって、彼らを神のまえに奉献しなければならない責任があるので、先生はこの期間に聖地を巡回しているのです。今回に特別に集会をしたのも、やはりこの趣旨からなのです。

 今先生は皆さんに対する時、昔の統一教会の食口という気分で対したくはないのです。どのようにしたら新しい気分で、皆さんに対することができるかを考えているのです。それで今回の集会の期間に、どうしたら皆さんと共に神が下された新しい使命と目的を中心に、新しい心情と新しこ義の法度を討議して、互いに一つになってゆく新しい心情を誘発させるかということが、今回に先生が考えたことの中で最も重要なことです。

 それで今回の期間に、皆さんが統一教会の草創期の時から入ってきて、神を信じて侍ってきて生活した全般的な状況を、全部発表しようというのです。であれば皆さんは信仰告白というか、証しを通して、今まで聞いたことのなかった多くの事由を聞くことができるのです。

 それらが何でしょうか? それはただ流れ去るものではありません。皆さんはこんな事由があったという、事実さえも知らないのです。しかし神様は復帰路程におきまして、きっとこのような事由を中心にして、蕩減復帰をさせるべき責任があるということです。実際その人は知らなくとも、神が公式的にこの責任を追求する立場で、彼らのまえにこんな事由を与えられたという事実を知らねばなりません。それゆえ皆さんはこれらの事由によって、蕩減歴史が発展していったという事実を知るのです。


 日本食口たちよりもさらに誠精を尽くせ

 先生が今最も心配することが何かというと、皆さんの心情が日本の食口たちの懇切な心情に後れをとってはならないということです。これが問題です。

 皆さんは寂しい場で喘ぐとしても神の心情を占め、あの世の天軍天使にも負けないという高い心情で、この国この民族を哀れみの心で治めなければなりません。これがあれこれと出入りするお客さんみたいに、習慣的に集会に参席して神のまえに恥ずかしい条件を残してはなりません。また韓国人のまえに日本人は民族的な怨讐です。ですから神の民として神のまえに忠誠をなして、み旨に対するその歩みが常に彼らよりも優れた基準を保ち、彼らよりもより勝ることを願うのが、先生の願望なのです。

 我々が彼らよりも劣る場にいることを見やるときの、先生の心情がどうでしょうか? 水が逆流するのと同じことです。皆さんの心的基準と、すべてのことを蕩減してゆく彼らの心的基準を比較して見るとき、ここに格段の差があることを先生は知るのです。それで皆さんが大学に行くことを制裁するという結論がでることを、皆さんは理解しなければなりません。何の話か、理解ができますか? 今日初めて来た人がいれば良く理解できないことです。しかし説明を聞くなら分かるのです。このように皆さんが新しい希望を日本の食口たちに与え、誇って見せてあげられる心的基準が成っているかが、先生の最も大きな心配なのです。だからといって日本人にサタンの業をやれというのではありません。それはなりません。

 天が見渡すとき、心情を尽くして誠精を込めるにおいて、韓国食口たちが日本の食口たちに負けていいでしょうか? また、じっと座って「負けてはならない。私は天国を成すのだ。私は神の息子・娘だからきっとやりとげる」と言うだけでいいでしょうか? 駄目です。絶対に駄目です。皆さん、やりとげる自信がありますか? ありませんか?(自信あります)自信があればやってみるのです。それで先生が今回の世界巡回を終えて帰ってきたら、神のまえに証しされるという自信のある人は、出迎えることを望みます。

 それでは蕩減復帰という名詞が、なぜ重要でしょうか? 我々統一教会では蕩減復帰という言葉をよく使います。この言葉が必要になった理由は、人間が堕落したからです。堕落によって我々は本然の道を行きたくても、思うままに行けなくなってしまったのです。神によって創られたので、神を捜し求めたくない人間がどこにいるでしょうか? この道は老若男女、古今東西を問わず、歴史上に去来したいかなる人間もすべてが慕って行きたかったのですが、思いのままに行くことができなかったのです。

 この道を行くときには、必ず条件を立てて行かねばなりません。蕩減の道を行くためには、条件という橋をかけて行くのです。


 蕩減条件を立てるにおいての中心-神様

 神を失った人間の所望は、神を失う前の本然の世界に戻ることです。これは誰もが望むことです。また本然の創造理想世界を与えるために人間を創られた神の所望も、やはり人間と相会うことなのです。このように人間と神が相会う場が永遠の本然の世界なのです。ですから神は人間を捜し求め、人間は神を捜し求めなければならないのです。即ち、神は人間を求めて下って来て、人間は神を求めて上がって行かなければらないのです。上がるには、そのままでは上がれません。ここには必ず、契約条件が成立しなければなりません。神が人間を求めるためにも、人間が神を求めるためにも、ここに必ず契約がなければならないのです。

 それでは契約は誰とするのか? また契約するときは何を必要とするのか? 契約するときは必ず条件を必要とすることを、皆さんは忘れてはなりません。

 人間は必ず復帰しなければなりません。堕落によって本然の世界から落ちてしまったので、蕩減復帰して本然の世界に帰らなければなりません。ところで帰るときは自分勝手に行くことはできません。皆さん自身が勝手に帰ることはできないのです。この道を行くには、必ず蕩減条件が必要なのです。それでは蕩減条件が何か? 契約を履行するときに必要なものです。ところで自分独りだけで「自分がここに一つの条件を立てたので、皆さんがここに千年の間いれば、すべてが天国に行く」とすればこれが蕩減条件として成立するでしょうか? しないのです。

 それではこの条件を立てるにおいて、根本中心が何であるか? 神様です。その次には人間を堕落させたサタンと、堕落していない人間です。堕落した人間は蕩減条件を立てることができません。堕落した人間は堕落条件を立てる資格がないので、絶対に条件を立てられないのです。神もおられサタンもいるので、堕落していない人間でなくては蕩減条件を立てることができないのです。これを皆さんははっきりと知らねばなりません。

 それでは人間が堕落することによって、どの程度まで落ちたのか? 高いといえば神の宝座から、地獄のどん底まで落ちてしまったのです。それゆえこの過程を再び復帰して上がらなければならないのです。復帰の道がどんなに遠く、復帰の峠がどんなに険しいかといえば、これは今日の人の世において、困難きわまる剣山峻嶺のようなものです。高いといえばヒマラヤの山が問題ではなく、深いといえば太平洋の海底が問題ではありません。我々が想像もできないほどに高い分水嶺があり、限り無く深いというのです。このように人間は堕落によって、誰もがあえて越えることもできず、入り込むこともできないほどに深いところに落ちてしまったのです。

 これを何によって推し量ることができるのか? 広大無辺なる全天宙を創造された神は人間祖先の堕落によって彼らを失ってしまったので、彼らを再び捜し求めなければ、彼らが本然の基準に戻ることができないのです。彼らが本然の基準へと戻ることがなければ、神の本来の心が発動されず、その本来の心の発動がなければ、神の本来の理想を成すことができないのです。ですから神は今まで本然の基準にまで上がってくる一人の人間を、捜し求めて来られたのです。

 この人間がどれほど歩んで来たのか? 今まで聖書上に現れた歴史を見渡してみるとき六千年という期間があったのです。しかし未だにこれを復帰させることができなかったのです。これはどれほど深く落ち込んだ人間でしょうか? 能力ある神様が六千年というものを捜し求めて来られても、未だにその一人を見出すことができないのです。

 それではなぜ捜し求めることができないのか? 能力がなくてそうだというのではありません。それでは今まで救援摂理歴史路程において、このように能力のある神様が、なぜ数多くの善なる人々を犠牲にして、神の為に忠誠を尽くした人々が蔑視と冷遇を受けて、悔しくも追われ追いつめられる場にあっても彼らをそのまま押し立て、また死の道であっても行くという心情で感謝した彼らに、なぜ同情されなかったのか? そのようにするしかなかった神の内的な事由が何であったのか? これは蕩減条件という問題が懸かっているからなのです。この条件はサタンも公認し、神からも公認を受けなければならないのです。また人間も、堕落しない人間から公認を受けなければ、この条件を越えることができないのす。


 蕩減の方法

 今日統一教会員たちは蕩減条件という言葉を学んでいます。皆さんは蕩減条件という言葉を漠然と使っているのですが、事実を分析して蕩減条件とは何をいい、またこれはどういうときに成立するかを知らねばなりません。皆さんがある蕩減条件を立てたとしても、これがきっと成立すると考えたら駄目です。こんな愚かな人間は蕩減条件を絶対に立てられません。こんな話を聞いたら大変でしょう? そのようでは復帰できないのです。蕩減条件は、神とサタンと人間との間に立てられるものです。

 それでは皆さんは蕩減条件を立てることができますか? できないの?(できません)できなければ救援を受けるの? 受けられないの?(受けられません)それではなにゆえに統一教会を信じるの? えらいことになりました。

​ それでは今日堕落した人間は、蕩減条件をどのように立てなければならないか? 蕩減条件を中心に接ぎ木しなければなりません。人間は堕落することによって息子の場を失って、神から遠い距離に落ちてしまったのです。僕の僕の場にも立てないのです。またサタンの支配下で億千万世、心を支えることができない惨めな人間になってしまったのです。こんな人間を神が蕩減復帰して来られたので、復帰歴史過程がどこまでも続いたのです。これは一、二時間でできることではありません。必ず天地創造の原理法度によって、再び逆に上がって来なければならないのです。​

 人間が堕落によってどの程度にまで落ちたのか? 神の僕にもなれない場まで落ちてしまったのです。本来、人間は何によって生まれたのか? 神によって生まれたのです。本来は赤子として生まれ、成長過程を経て完成すれば、神に侍る実体として神の体にならなければならないのです。

 それでは神は何ゆえに人を創ったのか? 相対的な関係を結ぶためです。愛は相対を必要とするので、この愛を成立させるためには、互いが相対的な位置に立たなければならないのです。このように愛を成すためには必ず相対的な基準を必要とするので、神はアダムとエバを神の体として創られたのです。

 それゆえ彼らが神の体となるときまで、父の愛を受けて育たなければならないのです。赤子のような過程を経た後に、息子の過程を経て、神と一体となった場まで行かねばなりません。そしてここにおいて、アダムとエバが一つとなった後に、夫婦となって子女を繁殖することによって、その子女もやはり神の息子・娘になるのです。アダムとエバから生まれた子女が神の息子・娘なのです。そうではないでしょうか? だから神は私たちの父であり、私たちは神の息子・娘であるというのです。

 もしも人間が堕落しないで完成したなら

 もしもアダムとエバが完成したらどのようになったでしょうか? 彼らが完成して祝福を受けることができる段階に入ったなら、即ち男・女として完全に成熟したなら、どのようになったでしょうか? 一つの愛を中心にして、満宇宙の母体的な結合を成すのです。これが成ることによって神と一体となり、この宇宙、天地創造圏内において神と人間が初めて一つの出発を始めるのです。その出発点が何か? 愛です、愛。本来、出発は愛から始まるべきなのです。それではその愛はどんな愛なのか? まさに神の愛なのです。

 このようになるべき人間が堕落したのです。本来はこの出発の原点が神の愛から出発して、人間のすべての生涯が出発し、ここに血族が生まれなければならなかったのです。ところがこの出発の時期を、サタンが強奪してしまったのです。

 今日の既成教会には、惜しむものが何もありません。彼らに善悪の実が何かと問うてみれば、これが指折り数えるような答えなのです。「それを私が知るものか、神がそうだというからそうであって。神が嘘の話されるか? 善悪の実は善悪の実でしょうが」こんな調子なのです。言葉ではいかにも簡単で良いでしょう? ところがどんなに意地悪な神様でも、善悪の実を造っておいて、取って食べて自分の息子・娘を滅ぼしてしまうような、そんな神様がどこにいるでしょうか? だから我々を見て邪教だ異端だというのです。

 しかし人間は善悪の実を取って食べて堕落したのです。この世界人類は元来、本然の血筋を通して生まれなければならないのに、不倫の愛によってサタン悪魔の血筋を通して繁殖してしまったのです。

 それでは皆さんは誰の血族でしょうか? サタンの血族です。世界でどんなに立派だと大きなことを言う人も、全部がサタンの血族なのです。サタンの血筋を受け継ぐサタンの雛たちなのです。雛が何でしょうか? 息子・娘です。

 皆さんは誰の息子・娘でしょうか? 堕落して誰の息子・娘になったのでしょうか? サタンの息子・娘です。皆さんにサタンの息子・娘だといえば、気分が悪いでしょう? ところでこの言葉を、本当に気分悪く考えてみたことがありますか?

 近頃、娘やおばさんたちが顔に白粉をつけたり何かを塗っていますが、何のために化粧しますか? サタンの雛がきれいになったと自慢するためですか? 笑い事ではありません。


 宗教人は蕩減のために体を打ってきた

 宗教を持って信仰生活をする人は、真の道を行かなければなりません。天の真の道を求めてゆくのです。人間の血筋の中に流れるサタンの血を無くして占領することができないので、宗教は真理を中心に「闘え、押し出せ、打て」と命令するのです。これに正面から闘ってゆくのが、宗教なのです。

 宗教を信じる人は、肉体を打とうとしてきたのです。野郎の肉塊、野郎の肉体を愛さねばならないでしょうか? それで血を抜け、断食をせよというのです。この肉体が怨讐です。この肉身は楽になることを、しきりと待ち焦がれるのです。

 下ることは易く、上がることは難しいのです。即ち堕落するのは易いということです。堕落は教育を受けなくてもよくやります。しかし神が数千年間、数多くの聖賢たちを動員して教育をさせてきても、この目的を達成できなかったのです。そうではありませんか? 皆さんも堕落しようとすれば、堕落の急行列車の一等席に乗る素質が濃厚なのです。なぜに? 堕落の大王たるサタンの血を受けているからです。この野郎の肉塊が・・・。これが事実でしょうか、違いますか? 真ですか嘘でしょうか? 先生が無駄なことを言っているのでしょうか? この肉の塊りどもが誤って食ったのです。この肉体を打ち叩いたといえる基準を、いつ残してゆくのですか? これを征服して天上世界のまえに主張し、歴史上の千々万聖徒のまえに誇り、後世の万民と全世界に向かってこの勝利を誇ることができる、天地が私を歓迎する勝利の息子・娘になっているか? 皆さんはこんな勝利の真の人生となりたくて身悶えてみたことがありますか? それが冠みたいなものを被って、コクリコクリして「あれかこれか?」とやっているのです。

 それでは自分の力だけで、ここから抜け出せるでしょうか? 自分の力だけでは抜け出せないのです。ですから神はここに非常対策を取らざるを得ないのです。サタンと結んだ血統の因縁、肉のすべての悪の条件をどのように追放するかを中心に、神は今まで闘争してきたのです。しかしこの事をそのままではできないのです。これを全知全能なる神の力で全部、張り飛ばしたらどんなに良いでしょう? しかしそうはできないのです。これは骨の中にもぐり込み、涙の源泉に入り込み、汗の源泉に入り込み、血の源泉に入り込まなければならない事なのです。愛の涙の谷間にもぐり込み、汗の谷間にもぐり込み、血の谷間にもぐり込まなければならない事なのです。付けているすべての仮面を脱がなければなりません。

 それで宗教人は、慟哭しなければなりません。涙を流さなければなりません。「悲しいかな、悲しいかな、悲しいかな! 何としてこの体は怨讐の血肉を受けたのか!」こんな自分が忠誠の道を行くために、天と因縁を結んでゆくと身悶えることを思うとき、胸が込み上げ、血がうごめく痛憤と怨痛に慟哭しなければなりません。このように慟哭する自分でなければ一刀両断にして、憤慨心を爆発させなければなりません。いっぺんに爆発してバラバラにしてしまうのです。皆さん自身が自分のすべての怨恨と感情を超越した場で、決死的に天を抱きしめて身悶えない限り、これを絶対に復帰できないのです。このようにあのように、痛々しくも恨み多い人生行路ですから、神の復帰摂理歴史が六千年もかかったのです。

 この肉体は良いものを無条件に食べようとする、下心を持っているのです。ところで肉体を分析して見れば、良いものが一つもないというのです。それで宗教は完全に否定するところから出発するのです。涙を流さねばなりません。涙を流すときは、アダムとエバが堕落した時に神の胸の内に結ばれた、骨髄の内に染みた神の悲しみの痕跡を全部、抜き取ってしまわねばなりません。恨を結ぶ怨讐の血筋を全部みな抜き取って、アボジの血肉を受け「アボジよ、私が来ました。今アボジのまえに孝道を尽くす真の本然の姿勢を得ましたので、今日からは安息して下さい。あなたの胸と骨髄の内に結ばれた恨を解いて差し上げます」としなければなりません。この地球上にこんな息子が現れなければ、神は解放されません。ですから、統一教会が出たのです。


 蕩減条件を立てる場は血の涙を流す場

 皆さんは汗は地の為、涙は人類の為、血は天の為に流さねばなりません。これがアボジの望む所願なのです。人類を抱いて涙を流すのです。涙を流すときは、そのままで流すのではありません。本然の心情と本然の園を失ったそのむごたらしい情景を見渡し、明日の希望のうちにそれが再び解放されるその道の前に、迫害と苦難と逆境が、泰山峻嶺のごとく立ちふさがるとしても、これを越えてゆくとして流すのです。

 それゆえ皆さんはこの道を開拓する立場において、血と汗と涙を流さねばなりません。涙を流し、汗を流しても終わりにならなければ、わが命が砕け散って神のまえに捧げても行かねばなりません。これが神の喜ばれる本来の姿として戻ってくる道なのです。神が喜ばれる体として生きてあげられなかった邪悪な種であるから、死ぬときは一個の童貞なりと残してゆくという心を持つ人間になってこそ、世界で神のまえに召命され、また神が記憶される人間になるということを知らねばなりません。イエス様もこんな立場で、この地上に来ては行ったのです。

 蕩減条件は自分自らが立てることができません。そこには神とサタンと真の人間がなければならないのです。ところがこの地球上には、未だに蕩減条件を立てることのできる真の人間が出ていないのです。ただ出るための、準備がされているだけです。神の蕩減歴史は段階を踏んで、一番下から始まってきたのです。

 それではここにおける中心使命が何でしょうか? サタンと因縁をもつ全世界に対して中心的な責任を負う人間は、どうしなければならないのか? 蕩減復帰をしなければなりません。これを成すにおいて、食べたいものを思うままに食べては駄目です。食べたいという代わりに、み旨をおいて慟哭する場に入らなければなりません。見たいものもそうです。死にたいくらい難しい場を、通過しなければなりません。この話が何の話かというとこの世の万事を全部失って、何にもない場に立つと同じ無価値な立場で、神が同情して下されば生き、そうでなければ死んでも感謝するという心で、こんな場を守ってゆかなければならないのです。そうでなければ復帰の因縁を結ぶことができなのです。蕩減条件を立てることができないのです。この場はそんな、遊び事で成る場ではありません。事情を通し、人情を通して成る場ではないのです。

 それでは人間は、どのような人間がいるのか? 神が愛することができる人間と、サタンが好む人間、この二つの種類の人間がいるのです。

 先生がすでに、蕩減条件は神とサタンの間で立てられると言いました。人間には神が極めて愛する人間と、サタンが極めて愛する人間の、二種類の人間がいるのです。ここに一人の人間を立てるのです。もしもサタンが好む人間がサタン世界を本質的に好まないで、変わらない天性を持つ人間がいたとします。この人間がサタン世界において忠誠を成したとしても、その忠誠は自分の目的の為ではなく、天下の為であったというのです。こんな人間はサタン側にいる人間であっても、天の側に戻ることができる可能性が高い人間なのです。神はこんな人間を、サタン世界から抜き取ってこられるのです。


 蕩減条件を生きて立てる人間と死んで立てる人間

 それでは神が愛されるということが、何でしょうか? 認定されるということです。そして神が極めて愛されることは、蕩減条件を立てる人間が現れることです。これをさらに説明すると、ここに朴なら朴、金なら金、ある人間がいるとして、神がこの人間をサタン世界から抜き取って愛される時までは、その人間が全部蕩減を受けなければならないのです。それで神とサタンとの間に、取り引がなるのです。

 神が「やあ、サタンよ、わたしが彼を愛してもいいか?」といえば「そうですね」となるのです。また、神が「わたしの為に忠誠を尽くし、夜も昼も万民の為に公的な生活をする人間だ。あるいは世界人類を救うために、解放させるために、復帰させるために働き、すべての幸福の要件を中心に、満天下を代表する人間だ。サタンよ、おまえもそれが分かるか?」といえば「そうですね。付き合ってみれば分かります」とこうなるのです。付き合ってみるとは、何の話でしょうか? 闘ってみるという意味です。

 そして「もしもおまえが調べてみて分かったら、どうするのか?」とすれば、「それなら認定しましょう」こんなやりかたで進展するのです。それで神が「よろしい! それでは調べてみよ。やってみよ」とすれば、その時からサタンが試験をするのです。今まで人類が受けてきたすべての試練、苦痛をその人間、即ち、代表格として苦労する人間に全部移し変えて、降り注ぐのです。そうなればその人間が、平安でいられるでしょうか? これが幸せに、平安に暮らせるでしょうかというのです。

 もしもサタンが「神様、その人間の手を切ってしまってもよいですか」といえば「そうさ、ではその手を切ってみよ」となるのです。皆さんは神の為に忠誠を尽くして、手まで切ることができるでしょうか? またその人間がたくさんの財産を誇っていることをサタンが試験して、すべての財産をすっかりはぎ取ってしまったというとき「アイゴ-神様、わたしは嫌です」としたら蕩減ができるでしょうか? 絶対にできないのです。もしもサタンがすっ裸にしようとして、さらには密室ではぎ取るのではなく、チョンロの十字路ではぎ取ろうとしたとき、「アイゴ-、それだけはできません。神様も事情は分かってくれるでしょう。それはあんまりです」と不平を言って拒否したら、蕩減ができないのです。チョンロの十字路が問題ではなく、それより何百倍も悲惨なニュ-ヨ-クのど真ん中ではぎ取られたとしても「はぎ取るなら取れ」とこれを越えなければなりません。

 その足がぶらぶらしているので、こいつの足を切ってしまえというとき、天に対して面倒だから切ってしまって下さいと、ぐずぐず言わずにさし出さなければなりません。首を切ろうとしても、よろしいとつき出すのです。それでサタンがこれを切ってしまったら、どうなりますか? 死ぬのです。死ぬのですよ。

 人間は死んで蕩減条件を立てる人もあり、生きて蕩減条件を立てる人もいるのです。歴史過程において数多くの先知先烈たちが去来しましたが、蕩減条件を立てるにおいて、死んで立てる人もあり、生きて立てる人もいるのです。忠誠が天上にまで染みて、反対したサタンまでも涙を流すなら、サタンは打たないのです。サタンも本来は天上の因縁をもってきたので、自分がしたことを悔いることを知るのす。それゆえサタンがわれ知らず涙を流す感情をもつなら、その人は生きて蕩減条件を立てる人間になるのです。

 生きて生前に、サタンをして自ら悔い改める感情を引き起こすことができなかった人間は、蕩減復帰路程において中心人物として登場することができないのです。分かるでしょうか? カインとアベルの祭壇においても、神は深く愛する息子を中心に、あのような摂理をされたのです。サタンはここに反旗を掲げたのです。


 蕩減にサタンの試みが付きまとう理由

 アベルは死んでも天の側だったのです。ですからアベルの血が訴えたのです。アベルは死んで蕩減したのです。神はある中心人物が死ぬなら、代身者を立てて来られました。このようにしてこそ、蕩減をしてカイン世界を押し分けられるからです。分かりますか? また神はアベルを通して立てた伝統によって一六〇〇年を下ってきて、神の為に、神を受け継ぐ世界が成ることを願われたのですが、サタンの血統を受け継ぐ人間ですから、そうはできなかったのです。このような人間に神が役事されるとき、即ち季節でいえば、春の季節を通して摂理された来られたのです。

 春の季節は一度しかありません。一つの時代がめぐるときには春の季節もあり、夏の季節、秋の季節、冬の季節もあるのです。人間も同じことです。神はこの四つの季節のうちで、春の季節のみを通して役事して来られるのです。これが神の責任なのです。それゆえ神は昔、アベルが誠精を込めたその心を中心にして、ハラハラするような心情で代を継いでノアにまで至ったのです。ところがノアのときの世はすでに堕落におぼれ、地上において天情の因縁を結ぶことができない世界だったのです。それでノアが、神のまえに出たのです。

 アベルが血をふりまいたその誠精を、この地上の人類が継承しなければならないのに、天情の因縁を結ぶことができなかったので、ノアは悪なるサタン世界を断念して初めて神のまえに出たのです。そして神のまえに誠精を尽くしたので、ノアは義人になることができたのです。この世の中、天地に生きている数多くの人間の中でノアだけが、ただ神の心情に従っていったのです。

 歴史的に見ればアベルの血筋を通してのみ蕩減の因縁が結ばれるので、ノアは神から召命される前にも多くの蕩減を受けてきたのです。それで神の命令を受けて、一二〇年にわたって条件物を立てるのに、サタンの攻撃があったのです。「こいつ、よくやるな。どれほど神を愛しているか見よう。おまえが一二〇年の間舟を造れるかどうか、見てみよう」とサタンが試験したのです。皆さん、考えてみて下さい。舟を川辺に造るならともかく、山中で造るのですから、これは根本的に間違っているではありませんか? これは反対される他はないことです。絶対に正常とは見なされないことです。またノアが舟を造りに行く時「今日は昼飯を食べて、ちょっと散歩しに登ろう」という考えで山に登ったでしょうか? 違います。めしなど食べてもどうでも、と舟を造りに山に登ったのです。

 一二〇年間、舟を造れと神が命令されたのですが、一二〇年のこの期間を短縮しなければ、という心情で夜も昼も全心全力を尽くしたノアであったのです。このように天性の節義を立てたのです。

 そうしてどうなったでしょうか? まず理論からして、抽象的にならざるを得ないのです。水は川や海に集まるのです。山のてっぺんに水があるでしょうか? だから悪口を言われる他はなかったのです。皆さん、考えてみて下さい。村の女たちが悪口を言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 私がそれを見ても、面と向かって悪口を言ったでしょう。皆さんならどうでしょうか? 反対する人々が、どんなに多かったでしょうか? このような場合では、反対する人間が普通です。そうですか、そうじゃありませんか? 事情を知らないのですから、ノアじいさんに反対する以外に別の道理があるでしょうか?


 サタンが愛する人物を抜き出して復帰の人物に仕立てる神

 もしもひどく反対する人間がいて「私はあのノアじいさんを一二〇年の間、働く場所まで追い詰め、しつこく反対する」としたならどうでしょうか? 神はその人間を祝福するのです。「もしもおまえが反対してノアじいさん倒れたら、おまえをノアの代わりに立ててやろう」神はそうされるのです。蕩減復帰はこのようにするのです。これが重要です。ノアが一二〇年の間、神のまえに忠誠をなしたその忠誠よりも、一三〇年、一五〇年、それ以上かかったとしても、ノアに反対してきっとへし折ってやるという人間がいたら、ノアが失敗して倒れる日には、神はその人間を抜いてノアの代身としてその場に立てられるのです。そのようなこともあるのです。このようにして神はサタンが最も愛する人間を奪ってくるのです。

 ですから先生は、既成教会の牧師で統一教会に最後まで反対する牧師たちを訪ねてみるのです。神を統一教会文先生や統一教会食口たちよりも、さらに愛する人々を・・・。

 こんな意味で統一教会の人々を全部一つ所に括りつけても、また統一教会の食口を探して世界をめぐる人間がいるなら、そこまでも残忍非道に統一教会の食口を粛清したとしても、自分がやった事が正当なことであると同時に天の為であり、また当然やるべき事であると考えてのそのそ歩き回る人間がいるなら、神はその人間を抜いて統一教会に蕩減復帰させるのです。これが凄いでしょう? これからそうなるかならないか、見ててごらんなさい。

 その目的基準が国と民族の為、世界人類の為というところにあるのです。そんなとき、神はサタンが最も愛する人間を抜き取って、神が最も愛する場に立てられたのです。例を挙げればアブラハム、モ-セ、使徒パウロのよな人々は全部がサタン側の代表者であったのですが、神が抜きだした人々です。むしろ彼らは初めは反対したのですが、彼らの心情と所願から見るとき、未来にはきっと神と出会うことができる人々ですから、神はその人々を抜きだしたのです。神は彼らを蕩減の祭物にされたのです。

 怨讐に仇を返すことのうちで、これ以上の方法がないというのです。言い換えれば、怨讐が最も愛する子供を抜きだして、天の側にしてしまうなら、これ以上の復讐がないというのです。再びサタンが復讐をしようとしても、自分の息子を殺すことができない原則があるので、復讐することができないのです。そのようになればこの世も解放され、悪の世が無くなってゆくのです。(ex.交差交代祝福?)

 それでは神はなぜ、こんな戦法を使うのかを知らねばなりません。サタン世界を完全に解放させようとしても、子供が父母に怨讐の仇を返すことはできないのです。また、父母が子供に怨讐の仇を返すこともできません。これを返すには人間が復帰されなければなりません。サタンの子供を奪って忠臣にするとき、サタンが仇を返す場において仇を返すことができなければ、今まで築いてきたすべての土台を捨てて後退しなければならないのです。これはとても深刻なことです。ですからサタンはノアに、どこの誰を立ててでも反対させたのです。

 このようにサタンは策謀をめぐらしたのですが、神側からノアが登場したのですから、サタンがおちおち寝ていられるでしょうか? 呪咀にもえて死ぬほどでした。これがどこでも殴り殺したい思いが、日に一二度以上も迫ったのです。それで一二〇年の間、こんな歴史を経ていったのです。しかしながらノアじいさんは環境がひどければひどいほど、神をだき抱えてきました。その反面サタンは天の側の息子・娘たちを引きずって祭物にしようとしたのです。妻を動員し、息子を動員して反対させたのです。このように天の側とサタンの側が、互いに奪いあう闘いをしたのです。それで結局ノアも、ハムのために駄目になってしまいました。復帰摂理はいつも息子が問題なのです。

 終わりまでがまんして耐えたなら

 ノアじいさんはひっ迫がはなはだしく難しい環境の中でも、渾身の力を込めて頑張ったのでこの環境にうち克つことができたのです。神の法度のまえに子女の忠孝の道理を尽くすのみ、という謙遜な心をもっていったのです。神のまえに出ればでるほど環境が非情であることを感じ、悲しみにおそわれたのですが、そんな時ほどノアじいさんは神様に恐れ多いという心で悔い改めの涙を流したので、彼が行く道を妨げる者がなかったのです。何の話か、分かりますか? このようにして一二〇年の間を過ごしたノアを、一度考えてみて下さい。ノア一人をおいて、サタン世界はあらゆる方法を使って打ち、反対するだけ反対したのですが、神が中心として立てたその基準において、ノアは忠孝の道に外れることがなかったのです。この基準は天宙の絶対的な中心として立てられ、宇宙の正義の人間として立てられ、真の勝利者として立てられたものなのです。それで神はこの基準に反対となるすべての怨讐の要素を精算しようとされたのです。

 このように終わりまで打たれたゆけば、凄い事が起こるのです。皆さんはどれくらい打たれたでしょうか? 我々統一教会員たち、きょろきょろしている目をじっと見つめれば自分の心が重苦しくなるでしょう。

 アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが最も愛する人間でした。しかし神は賢く愛すべき息子を奪ってきたのです。アブラハムが希望とした世界はその父の考えとは異なったのです。怨讐の息子ではあっても、考えることがその父とは異なったのです。アブラハムは自分の家庭だけではなく、未来のイスラエルを案じる心を持っていたのです。こんなアブラハムを神が奪っていったので、どうなったでしょうか?

 育つ時には彼の環境と親戚が内側であったのですが、そのすべてのものが怨讐になってしまったのです。その上、自分の国と宗族を離脱し、自分の父母に反対していったアブラハムが、行く家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあったかというのです。まさに独り残ったのです。ですからアブラハムは行く所ことごとく、試練と辛酸をなめたのです。エジプトに行ったときはパロ王が彼の妻を奪おうとし、どこに行っても追われるジプシ-暮らしをしたのです。

 しかしこのように追われる行路においてもアブラハムは、自身の父母と親戚から愛を受けて安楽に暮らすことよりも、イスラエル民族が自分を呼び、勝利が自分を呼び、幸福の基が自分を求めていることをより切実に感じていたので、ジプシ-の行路においても天の星を見上げてただ神のまえに望むことは、所望の天国へと駆けて行くということだけだったのです。

 それゆえ神はアブラハムに祝福を与えられたのです。彼のまえに迫る辛い苦痛と難しい環境は、他の人なら自分を呼び出した神に背いて自分の立場を嘆くのですが、アブラハムはそんな場にも神と共に深い因縁を結ぶことができる心情で神に侍ったので、彼の前途には幸福の門が開けていったのです。

 この時は自身の民族から試練を受ける期間ではありません。宗族から試練を受ける期間ではありません。民族的な試練を受けるべき時代を越えて他の民族が打つ時代なのです。ノア時代までは自分の親族、自分の宗族が打ったのですが、アブラハム時代になっては異邦の民族にまで及ぶのです。復帰歴史はこのようにしてだんだんその領域を広げてゆくのです。三つ以上の異邦の民族に追われるようになるのです。

 このようにしてアブラハムの後孫であるモ-セの時に至っては、民族的な蕩減をするのです。この時からはイスラエル民族をおいて宗族的な蕩減と民族的な蕩減をするのです。それでモ-セが行く道には数多くの民族が反旗を掲げて讒訴して、行く道を塞ぐのです。もしもイスラエル民族が、モ-セが導いて行く道を感謝と考えて彼に協助したなら、彼らは明るい天地を迎えたのですが、不平不満を口にして感謝する心を持たなかったので、神は怨讐を打つ前にイスラエル民族をまず打つ他はなかったという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。それで結局モ-セ一派は、荒野でタカのえじきになってしまったのです。

 しかし彼らに再度近づく民族的な試練を有難く受け、カナン七族が統治する怨讐の槍先も感謝で受け、天のみ旨と共に生死を共にするというその歩みのまえに勝利の結果をもたらしたということを知らねばなりません。このような立場で、民族的な蕩減をなすことができたのです。これは決して簡単にできたことではありません。


 蕩減の道をそのまま行けなかったイスラエル民族

 神はノア、アブラハム、モ-セと同じような人々を中心にして、その時代ごとに蕩減的な使命を連結させて基盤を築いてきたのです。こうして宗族時代、民族時代、選民時代を経てだんだんその範囲を広げていって、イエス様の時まで来たのです。かようにその版図がだんだん広がるならば国家時代を越え、世界時代を迎えるられるのです。そうではないでしょうか?

 こうしてイスラエルが民族編成を成して一つの法治国家、主権国家を中心にして神の勢力を引き上げなければなりません。それでその国家の勢力がすべての怨讐国家を凌駕するようになれば、これを中心にすべての怨讐世界を精算してしまうというのが、神の作戦なのです。

 ここまで神の勢力を引き上げるには、どのようにしなければならないか? イスラエル民族自体が試練を経て、カナンを復帰しなければなりません。彼らはカナンの福地が乳と蜜の流れる幸福の園であり、艱難のない世界、神が自分たちの願いを成して下さる世界だと考えていたのですが、蕩減復帰の原則から見れば、絶対にそうではないというのです。イスラエルの国の創建理念を全世界に植えつけるためには、イスラエルの国がその世界から、まず打たれなければならないのです。

 先生は近頃、こんなことを考えるのです。イスラエルが二千年前に打たれるべきを打たれなかったので、この時代になって再び打たれなければならない立場におかれているということです。だから正しく打たれて昔の全ての失敗を悔い改めて、神の前に出るなら許しを受ける道が開かれるということです。

 彼らの血のにじむ努力を通して一つの主権国家を立て、神に侍った当時の国力が弱かったので、どこからでも侵略されたのです。しかし彼らが神を中心に団結して夜も昼も一片丹心、国家と世界と神の為に、神のみ旨のまえに忠誠をなす世界的な基盤を代身すると身悶えて民族的な基盤を築いたなら、世界を支配することができる民族になったのです。また、地上のすべての人類を救援するメシアに侍って、万王の王が治める主権国家を成して世界を支配できたにもかかわらず、イスラエル民族はその責任を果たさなかったのです。蕩減の路程を行くべきが、そうはしなかったのです。

 彼らは蕩減をなすために世界的な試練と、世界的な圧迫を有難く受けねばならないかったのです。そんな姿勢をとるべきだったのです。彼らがそんな姿勢をとった上でイエス様を来られたら、イエス様は何をされたのか? イスラエルが民族的な姿勢だけ得たなら、これを基盤にしてイエス様は総力を傾けたのです。そしてロ-マの圧政から脱するためにイスラエル民族を団結させ、ロ-マに反旗を掲げるのです。これを契機としてロ-マから圧政を受けたすべての連邦国家がここに同調するのであり、そのようになればロ-マはここに完全に巻き込まれてゆくのです。

 しかしイスラエル民族はその時であることを知らず、自分たちにそんな使命があるという事実を知らなかったのです。ではメシアとして来たイエス様が、この地上で何をしなけばならなかったのか? イスラエル民族自体が蕩減すべきことを代身して、蕩減する立場に立たねばならなかったのです。イスラエル民族が世界人類から迫害される場で、勝利の要件をつくるべきが、そんな場に立てなかったのです。

 もしもイスラエル民族がイエス様と共に、世界的に迫害を受ける場に立ったなら、神がその民族を通して世界のまえに勝利の基準を立てたのです。しかしその責任を果せず、むしろイエス様を死の道へと追いやったのでした。どれほど怨痛であり、憤ろしいことでしょうか?

 それではイエス様は、こんな迫害の途上において何をすべきかというなら、民族を中心に世界的な蕩減路程を越えて行かねばならなかったのです。これがイエスの使命であったにもかかわらず、イエスは民族に追われ、むしろ自分個人が越えるべき峠を越えることができず、歴史的な責任を受け継ぐことのできる基盤でさえ造成することができなかったのです。だから天と地がどれほど身悶えて悲しんだかを、皆さんが知らねばなりません。


 蕩減の道には近道とえり分ける道がない

 イエスは元来、死んではいけないのです。生きて霊と肉を合わせて一つの家庭、社会、宗族を中心に、民族と世界を代表して蕩減してゆかねばならなかったのです。そんなイエス様が追われて死ぬことによって、霊的救援の基台のみを造ることになったのですから、イエス様の事情がどれほど悔しく、憤り痛むかを知らねばなりません。

 ですからイエス様は、再び来なければならないのです。来られるときは蕩減復帰原則によってイスラエルの選民圏を求めるのであって即ち、キリスト教の中のキリスト教を求めて来るというのです。

 それではキリスト教はどのようにしなければならないか? キリスト教全体が来られるメシアを歓迎して、サタン側の共産主義を難なく突破して、彼らを愛によって自然屈伏させなければなりません。こんな段階をどのように越えるべきかということが、現代における苦悶であり、来られる主が越えるべき最大の苦悶であるにもかかわらず、今日キリスト教信者たちはこのようなことを夢にも見ないでいるのです。まかり間違えばイスラエル民族と同じく、来るメシアを追い詰めて再び捕らえて殺してしまえばいいというのです。

 今日統一教会が、福があってか災いがあってか分かりませんが、世界の数多くの宗教とキリスト教から試練と迫害を受け、艱難と苦痛を受けてきているのです。これが良いことですか、悪いことですか? 良いことです。しかしもしも既成教会が統一教会と一つになって、大韓民国が統一教会と一つになったら、韓国の現実がこうはならなかったのです。共産党問題はすでに先生が解決していたのです。

 しかしこの民族が背反する場に立ち、既成教会が背反する場に立ったのです。迫害する場に立ったのです。あらゆる謀略を尽くして統一教会を迫害し、先生を殺そうとしたのです。しかし先生はこれに引っ掛かりません。千辛万苦終わりを求める天のみ旨のまえに、先生が楽になりたい心をもつなら彼らにやられてしまうのですが、千べん万べん死を覚悟して蕩減路程を行ったので、彼らに引っ掛からなかったのです。ただ一つやるべきことが何でしょうか? それは伝統を立てる道に従うにおいて、どのようにすれば彼らが讒訴する条件に掛からないかという問題です。また一つは、どのようにして蕩減の峠を越えるかということでした。

 皆さんはこんな先生の世界を知らねばなりません。先生の生活の中には旅人のような行路がたくさんあったのです。暗闇が迫る夕日を受けて道を急ぐ旅人のような道を、たくさん歩んだのです。背のうを背負って「愛する妻子を残して自分は行かねばなりません。行かざるを得ないのです」と祈祷した時を、先生は今も忘れることができません。うまくゆけば忠誠の道であり、間違えば怨讐となる他はない岐路において、神を迎える時まで私は妻子を愛することをしません、と祈祷したのです。七年の大艱難の峠を越える時までは愛することをしない、という覚悟で後にしたのです。目の前が真っ暗になり、どんな障壁が立ちふさがったとしても、民族を求めて行く道はこれ以上の道がないという覚悟で出たのです。世界を生かすためには、血の結ぶ路程を行かねばならないのです。こんな覚悟がなければ、真の世界を成すことが出来ないのです。

 こんな場にあっても自身の妻子、自身の家の者を抱いて涙を流せず、訪ねなければならない未来の大きな世界を抱いて、涙しなければならないのです。背のうを一つ背負って道を行く旅人の行路には近道がなく、えり分ける道がないのです。血と汗を流して求めなければならない困苦なる道なのです。旅人の行路を歩む、天の道を求めて行く青年の姿は、追われに追われる一匹の羊と同じです。求めるその道において流す涙は、私の涙ではなく私を通して流す神の涙なのです。


 蕩減路程において必要なこと

 先生は監獄に入って髪の毛を剃られるとき、神のまえに祈祷したのです。私が願って頭を剃られるのではなく、怨讐の手に引かれ強制されて頭を剃るのですと・・・。その時、先生の目がどんなに輝いたか知れません。剃り落とされる髪の毛を見ながら、自分が願った幸福を捨て、その上怨讐のまえに頭を剃られることは悲しいことです。復帰の事由を連ねてゆく路程において、そのすべての逆境が恨み多いことです。しかし、過ぎる時は恨みがましくとも、過ぎてみればこれをすべて神が私を記憶して下さるので、それにうち克つことができたのです。幾日も拷問を受け、鞭打たれて倒れるその場であっても同じです。私が鞭打たれるのは自分のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、自分が流す涙は、この民族の痛みを代身する蕩減の涙であったのです。

 私はすべての行路において神をだき抱えて身悶え、神の同情を受けるときまでこの蕩減路程の道を行かねばなりませんでした。私独りで、この道を越えてきたのです。

 イエス様もそうだったのです。民族を代身して蕩減復帰の道を行ったその歩みのまえに落ちる涙は、イエス様自身の死の道を案じて流す涙ではなかったのです。民族の死の道を案じる涙であったのです。自身に従った人々が背反して、天上において受けねばならない最後の審判を案じる涙だったのです。

 先生がエルサレムを訪問した時に見たのですが、イエス様がゴルゴダ山頂まで登る途中で倒れた所に立て札が立っているのです。十二回も倒れたその所を見やり「こんな蕩減の道を行かれたのだな」と思ったのです。その場で先生は「暗黒のような二千年前に新しい天的な使命を背負って、砂漠と荒野のようなこのど真ん中を訪ねたイエス様の事情がどれほど切なかったでしょうか? しかし大きく裕福な多くの民族をみな除いて、このように見る影もなく、やせ細ったイスラエル民族を訪ねてこられたことは、民族復帰の恨を一日も早く解こうとされたアボジの事情があったが故であるということを知りました」と祈祷したのです。

 その所を訪問する人は誰もが、イエス様が抱いた事由を深くお慰めしてさしあげる祈祷をしなければならないのです。それでこそ、その場においてサタンは気をもみ、神様は慰められるのです。それでサタンは悲しんで泣き、神は嬉しくて泣くのでなければならないのです。

 アダムが堕落することによって神が慟哭され、サタンもアダムも涙を流したのです。サタンは神に背信して追われて涙を流し、アダムもやはり堕落によって涙を流したのです。それでイエス様も涙を流され、サタンも涙を流し、アダムも涙を流したのです。ですから復帰の峠道では、神とサタンに涙を流させなくては復帰ができないのです。自分自身も涙を流さなければなりません。自分の涙が神を泣かせ、サタンまでも泣かすことができる涙でなければ、これを復帰させることができないのです。これが蕩減路程で必要とする条件物であることを知らねばなりません。

 今日皆さんは世界の大きな問題をかけて、天的な使命を背負ってゆくこの先生が行く道がどれほど寂しこであったかということを知らねばなりません。先生が同情を受けるためにそうだというのではありません。先生は寂しい人間です。多くの人が先生に従うのでそうは見えないかも知れませんが、実は寂しい人間です。誰にも同情を受けることのない寂しい人間なのです。

 アダムとエバが誰にも同情をされなかったように先生も誰にも同情されない人間です。サタンにも同情されることなく、神のまえにも同情を求めることがありません。同情を求めるなら自分自身の知恵に同情を求め、涙と血の汗と誠精がこもる場において身悶える自身に同情を求める他はありません。このように恨多こを行く先生であることを皆さんが知らねばなりません。今日も明日もそうでなければならず、またこの民族を越え、世界復帰路程においても、この道を行くということを知らねばなりません。


 真情から皆さんに神を愛する心があるか

 先生が外国に行くというので、ある食口がどうかしたら今回が先生に会う最後になるかも知れない、と涙を流すのを見ました。先生は再び帰って来るのです。しかしこの民族が誤って行くなら、戻る道がないのです。この民族が神のまえに背反者の烙印を押されるなら、この民族は間違いなく戻って来ることができないのです。先生はどんなに反対され、迫害されて悔しい場に立ったとしても戻る道があるのですが、この民族は戻る道がないのです。ですから先生は、皆さんが私のために泣くのではなく、民族のために泣くことを望むのです。

 師を慕う心からこの師に再び会えないのではないかと、心配してそんなことを言うのを見れば心が痛むのですが、神の為という心が先立たなければなりません。真に皆さんに神を愛する心がありますか? 自分一身の幸福のために、自身のみ旨を立てようと身悶える人がいるなら、皆さんはそんな人間に同情してはなりません。そんな人間は絶対に蕩減復帰の条件を立てる人物として、同情できないのです。自分がうまくやったとしても、他人が誤ったことを代身して打たれ、民族が誤れば民族を代身して打たれるのです。自分がそんな惨めな場に立つのは、世界人類の恨を解くためにそうだというのです。

 こんな環境を未だに求めてみなかったのです。それで今年、一日の試練を再び私のまえにやってくれることを、手を広げて訴えるのです。これは蕩減の条件を立ててゆく人々が今まで使命を果たしていないからです。

 すべての力を尽くして闘ったとき、その心が疲れたとしても、その背後には神を案じる心があるので「何とまあ! もう一度神の為に闘おう」と誓って行かねばばなりません。これが復帰路程に責任を負う人々が行くべき行路です。蕩減条件を立ててゆくにおいて、こんな道を行くべきことを皆さんは知らねばなりません。

 こんな観点から見るとき、皆さんは真に統一教会を愛しているでしょうか? 真に皆さんが統一教会を愛したなら、この民族と国を愛さなければなりません。真にこの世界を愛しますか? これが漠然と垣根だけ見て、愛するという言葉はいくらでも言えるのです。だからそうであっては、主人になることはできません。

 その垣根の内で彼らを収拾してあげ、彼らを解き放つという心を持って民族と世界を愛してみましたか? 真なる条件を立て、神も肯定される場において蕩減してゆくという心で、自分一身において蕩減の条件を残すと身悶えてみたかというのです。そのためには蕩減条件を立てて堕落の因縁を脱する完全な人間が、さっと出て来なければなりません。こんな原則があるので、先生は皆さんを押し出さざるを得ないのです。

 神が気をもみ、サタンも気をもむそんな立場において、そこで神の心情と因縁を結ぶのです。それでこそ堕落の因縁を脱ぎ捨て、天と地が一致するのです。そんな立場で神の心情を相続し、サタンの攻撃を受けて闘って勝つ自分にならなければなりません。蕩減の行路に勝利の立て札を立てて戻る皆さんになってこそ、それが決定的な路程になるのです。 もしも皆さんが神から、間違いなくこんな行路を経てきたかと質問されたら、何と答えるのでしょうか?

 恨多い歴史の路程を誰が行くのか? 国の為のこの道は統一の役軍が行き、人類の為のこの道は三千万民族と大韓民国が行かねばなりません。最後の試練の行路を越えるための復帰の道を行かねばならないのが、世界を統一する勇士たちの路程なのです。この道を行くには、そのままで行くことができません。神の為に行く道は条件を立てて行くのです。神がそんな道を行き、師がそんな道を行ったので、皆さんはどうするのですか? 絶対的な原理を求めて、未来の人類を解放させる勝利者の姿にならなければ、復帰の使命を完遂することができないのです。

 蕩減の道には至極なる慕わしさが必要

 今日まで神は皆さん一人を捜し求めて来られたのであって、皆さんは家庭と子女が越えてゆける道を築いたでしょうか? 子女が自分を通して神を求めてゆける道を蕩減しておかなければ、子女から追い出されるのです。皆さんは家庭を越え、親族全体が神に侍って生きるように蕩減条件を立てなければなりません。さらには家庭、宗族を越えて神がこの民族に訪れて来られるように蕩減条件を立てておかなければなりません。ですから祝福家庭の責任が重いのです。

 神が大韓民国を愛するなら、それは大韓民国だけのためではないのです。世界を愛するので、大韓民国を愛するのです。大韓民国を生かすことによって、世界を生かすためなのです。我々が荷を負ってゆくのも、我々だけが福を受け、愛を受けるための目的でゆくのではありません。我々が代身して十字架を負い、多くの群れが愛を受けられる場に立て、その愛が未来にまで及ぶようにしなければなりません。これが蕩減の道に責任を負う人々の使命なのです。

 天的な基準から見るとき、自身の心がどこに留まっているかを、自ら反省してみなければなりません。皆さんの中に「私はこんな環境、こんな事由、こんな事情があるので、神が公認される条件になるだろう」として安心する人がいるかも知れませんが、それは絶対にそうではないのです。

 皆さんは蕩減条件だけあればいいと思うかも知れませんが、そうではありません。自身の父母や妻子を見やるときに涙を流して慕い、恨が結ばれるほどに慕う心がなければなりません。皆さんは自身の宗族に向かって、恨が結ばれるほど慕ってみましたか? 蕩減の道を行くとき、慕わしい心が先に立たなければなりません。自分の存在意識を越えるほどに慕うのです。慕わしさが先に立って死線も跳び越えることができなければなりません。 教会を愛し、民族を愛すべき皆さんに、慕わしい心がなければなりません。先生がなぜこのような深刻な話をするかといえば、皆さんがこの時点において、新しい覚醒をすることを望むからです。蕩減路程は血と汗と涙で編んでゆくものです。過ぎ行くある旅人たちのために、川辺に放り込むそんな話ではありません。涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に流し、父母の心情、僕の体を通してこのような理念を求めるのです。こんな事由をもって、民族復帰と世界復帰の先鋒に立つということが、我々の思想なのです。

 今日なぜこんな話をするかといえば、皆さんが生きてゆくにおいて、最後の一刻を耐えて越えるなら、すべてを一ぺんに跳び越えることができるのですが、一瞬間を耐えることができなければその場に倒れてしまうからです。そうなれば恨が結ばれる場に立つ他はないのです。

 先生がこんな話をすれば、先生は苦労せよという話以外はしないという人がいるかも知れません。しかし蕩減法則を中心に分析をしてみるとき、蕩減の道を結論づける起点がどこか? その場は世界的な場なのです。ユダヤ民族のように、この道を歩むのが嫌な民族は滅びるのです。蕩減の道を避けて行く民族と国家は滅びるのです。人類も同じです。行く道がこの道の他にはないので、行かざるを得ないのです。それで四千年の血のにじむ歴史路程が受け継がれてきたのです。こんな歴史の峠道がなかったら、どうなったでしょうか?

 蕩減をするためには、どうせ打たれなければならないのです。しかし民族のまえに追われる悲しみよりも、自分自身から起こる悲しみがさらに重苦しいという事実を、その当時のイスラエル民族は知らなかったのです。それゆえ皆さんも外部から迫害されることよりも、内部から天をないがしろにして、天のまえに無感覚な状態になるのが恐ろしいことです。怨讐が誰か? 民族ならぬ皆さん自身が怨讐となる可能性が多いということを、よくよく知らねばなりませんん。それでイエス様も、自分の家の食口が怨讐だと語られたのです。

 復帰の隊列は、だんだん熾烈な闘いの舞台に展開されてゆくのです。行くべき歩みが遠くにあるのに、行くべき歩みを縛りつけて環境を逃避しようとする人間が誰か? まず入る人間です。内にいる人間だということです。

 個人は滅んでも民族が滅んでは駄目です。民族が滅んでも世界が滅んでは駄目です。世界が滅んでも神の復帰のみ旨が滅んだら駄目なのです。多くの歴史路程において、蕩減路程を歩んだ我々の先祖は死の道にも逆境を耐え、神の為に身悶えたのです。我々はこのような過程を甦らせ、自分のこの手がどこへつき、自分の体がどこへ行って倒れるか今一度悟り、倒れたら再び起きて勝利の蕩減条件を立て、勇士という立て札を掲げ、休む間もなく駆けなければなりません。これが統一勇士の使命です。にもかかわらず今が昼だか夜だが分からない人間であっては滅ぶのです。皆さんはこれを、確実に知らねばなりません。


 統一教会の責任

 蕩減して行く道は条件を提示しなくては行くことができません。世界的に見ても歴史的に見ても、この民族を神のまえに表すことのできる道を開くためには、蕩減の条件を立てずしてはできないのです。民族の解放を所望とする者であれば自分の親戚と宗族を抱え、友を抱え、国を愛する道、国を救う道がいかなることかを見せてあげるのです。涙と血の汗を流しても、彼らに見せなければなりません。これが神が教える教訓なのです。皆さんが泣いたからとて、できることではありません。

 これは数日の間でできることではありません。少なくともざっと三年は見なければなりません。三年以上、準備しなけばならないのです。それで三年間は耐えよ、三年間は死ぬほど苦労せよというのです。天国を成そうという人々が、神の息子になろうという人々が三年を耐えられないでしょうか? 三〇年でも意に介さずに行かねばなりません。

 今日先生が皆さんに話す「蕩減が行く道」には、条件が必要であるというのです。蕩減条件は神とサタンと、また堕落の因縁を受けていない即ち、蕩減復帰した人間がなくては完結することができないというのです。

 それではどうすれば、そんな場とそんな時を迎えることができるのか? 皆さんには資格がないのです。神が愛することができる条件を立てて、サタンが讒訴する条件から勝利したという土台を残すまでは、そのような資格がないのです。そのために責任を負うという人間が、統一教会の先生なのです。その次には個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のための蕩減条件を立てるのです。これを私が責任をもって行くというのです。

 このようになれば個人圏内において、体と心が解放されるのであり、家庭圏内では食口が解放され、宗族圏内では各家庭が解放され、民族圏内では各宗族が解放され、国家圏内では数多くの民族が解放され、世界圏内では数多くの国家が解放されるのです。分かりますか? このようにして六千年の縦的な歴史を、横的に蕩減しなければなりません。

 個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、国家復帰、世界復帰の道を準備して、一つの基準となる中心が来ることによって恨の行路であった個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のために開拓して行かなければなりません。この使命を背負って行こうというのが統一教会の責任であり、統一教会を指導する先生の責任なのです。ですから先生は今日もこの道を行っているのです。

 世界が韓国民族のために涙を流した、それ以上の愛の心で世界人類を代身して涙を流す自分にならなければ偽ものです。顔かたちも違い、風習も違い、思想も違うアメリカ人のために、彼らが韓国のために涙を流したそれ以上の涙を流すことのできる心を抱いていなければ、偽ものだというのです。民族と社会と歴史の背景が違っても、国境を超越した同族の心情で涙を流して祝福する心がなければ、この世界を復帰することはできません。

 神は自分の民族よりも世界を、より愛することを望んでおられるのです。それで先生はこの心をどのように誘発させるかということに対して、苦悶しているのです。皆さんが恩恵を受けて伝道できないで見悶えるその時よりも、環境が自由になるこの時に、民族を救うことができずに身悶えるその心が、より貴いということを知らねばなりません。


 韓民族の使命

 皆さんは自ら蕩減条件を立てることができないので、先生の背に乗って行かねばなりません。先生の背に乗って行け、私が深い川に架かる橋になってあげるので、乗って行けというのです。肩を踏んで、頭まで踏んで行けというのです。サタンの讒訴条件を逃れることができる道を築いてあげるというのです。ところがこれも嫌なのですか? それさえも嫌だというなら滅びるだけです。滅びなければなりません。そんな人間は落伍者になる他はありません。

 幸福になれる時代、六千年の縦的な恨を横的な基準において蕩減することができる幸いなる時代を迎えても、その時代をすべて逸してしまうのです。七年行路が悲しければ、この民族が傾いてしまうのです。これが分かるでしょうか? 言葉だけではありません。七年、七年ということが言葉だけではないというのです。悲しみの涙が先にたつこの年を見送り、今は祭物的な蕩減条件を示しておくべき運命におかれていることを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは今から皆さんはどうすべきか? もしも皆さんたちに素晴らしい人間、神様から福を授かる人間になりたいかと問うてみれば、すべてがその通りですと答えるのです。みんな欲心は大きいのですが、欲心の通りになれないのです。福を受けるためには、その三倍以上の苦労の基準を立てなければ、授かる福を持て余すのです。その福に値しないということです。そして天と地が苦労する三倍以上の苦労をした基準の上に受ける福でなければ、その福を伝統として後孫のまえに残しておくことができないのです。ですから三倍以上の基準を用意しなければ、天に従って行くことができません。

 先生は近頃、統一教会員たちに先生が福を与えれば、受けることができる人間が果たしてどの程度いるかを案じているのです。また、み旨のために苦労する人間が誰かを考えるのですが、それは福を受ける人間であり、み旨のために苦労する人間だからです。こうして蕩減の条件を立てた人間は、神から公認されるのです。

 先生は皆さんをどんな人間につくりたいでしょうか? 民族の隊列のまえに蕩減条件を立て、数千万代の後孫たちと、あるいは先祖たちが皆さんに頭を下げることができる民族的な勝利者としてつくりたいのが、先生の願いなのです。それで今年からは外国に宣教師をたくさん送ろうとしています。そうせざるを得ない天的な因縁があるからです。

 「蕩減が行く道」そこには条件が必要です。神が韓国の民を信じて訪れて来られたので皆さんは信じ訪れるそのみ旨を、世界に連結させることができる一つの連結体を造らねばなりません。どの民族よりも韓国人が世界に多く行って、天の旗を立てるべき責任があるのです。どの民族よりも涙を流してこそ、韓国に下された福をそのまま保って、他の民族にまで福を分けてあげられるのです。分かりますか?

 それでは行くにはどう行くのか? 条件をもって行かなければなりません。チュイポンジュンさんも日本に行って、日本人を韓国人よりもより愛したのです。そうでなければ滅ぶのです。これから祝福を受けた人が外国に宣教に行くとき、そこで自分の妻や子供に会いたくて涙を流したら、讒訴条件に引っ掛かるのです。自分の子供を考える前に、まずそこにいる人々を、自分の子供よりもさらに愛さねばならないのです。そうではな、自分の妻や子供が慕わしくしきりに手紙を出したら、家にいる妻や子供に良くないのです。自分の責任を果たして帰らなければならないのです。その国で怨讐が攻撃する非情事態を迎えたなら、その敵を追い払うために戦う大将のように、その戦いをすべて終えた後にこそ、帰って来るのです。

 それゆえ皆さんは、今がいかなる時点であるかを正確に知って「蕩減が行く道」に条件を立てるにおいて、自分は何をすべきかを、再度分析して見なければなりません。分かりましたか?(はい)

 今回、世界巡回に出発するのに、皆さんにこんな深刻な話はしたくはないのですが、仕方がないので話すのです。先生は今、こんな深刻な道を行っているからです。だからといって皆さんが心だけが先にたって、飛んで行きたい心が起こることを望んでいるのではありません。

 でも先生が皆さんを愛している様子でしょうか? 皆さんは先生が愛するほうが良いでしょうか、愛さないほうが良いでしょうか?(愛するほうが良いです)


 復帰の道は求める道、原理の道は踏む道

 先生と皆さんは死の恨があっても、同じ道を行かねばなりません。道を行って出会う人々も、すべて因縁があって出会うのです。それゆえ先生と皆さんは因縁を通して、神を喜ばせてあげるその一日を迎えなければなりません。未だ皆さんには行くべき道が残っているのです。

 今回で七年路程が終われば、再び第二次七年路程を越えなければなりません。七年路程において蕩減すべき基準を中心に条件を立てなければ、第二次七年路程を立てて再び行くのです。何の話か、分かりますか?(はい)ですから前に先生が話したように、皆さんは自身の食口であれ最も愛する父母であれ、一人が十二人を誠精を込めて因縁を結び、彼らのまえにアベルの立場に立たなければなりません。そうでなければならないのです。言い換えれば、蕩減の道で条件を立てる人間になるということです。しかしこの条件は、皆さん自らが立てることはできません。先生の後に従わなければなりません。即ち、先生が行く道が皆さんの行く道なのです。

 先生が食口たちを愛するためにある基準で身悶えるのは、皆さんが行くべき道を見せたあげることなのです。信仰の路程におきましては、御言によって死亡の世界から復活してゆかねばなりません。その場においては死んでいるからです。死んだ子供が蘇生する時のような、喜びを感じなければなりません。ここに神の価値があり、神の愛があり、自分の価値よりもさらに大きな価値があり、自分の喜びよりもさらに大きな喜びがあるのです。だから皆さんは悲しみを忘れて、その場を見渡して喜ぶことができなければなりません。 皆さんは一つの命が貴いということを、感じなければなりません。「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか(マタイ一六:二六)」というイエス様の御言をその通りに感じて、体験することができる人間になってこそ、宇宙を主管できる資格者になるということを確実に知らねばなりません。よく分かりましたか?(はい)

 皆さんは条件を立てる資格者になっているでしょうか? 本当に資格者になっていますか?(なっていません)いつ皆さんがサタンから賛辞を受けるほど神を愛し、いつ皆さんがサタンを感動させる事をやってみましたか? 皆さんがそうでないので、神が人類を愛して蕩減の道を開拓されて、その本然の世界に戻るまで従ってくるように教えるのです。これが統一教会の原理なのです。

 復帰の道は求める道です。原理の道は踏んで行く道です。先生がこの蕩減復帰の道を行くとき、先生の一生は捜し求める路程だったのです。だから皆さんは先生がすでに求めておいた道に従って行くだけでいいのです。ところがこれもできないのですか? ついて来ることができないのですか? 蕩減条件は神とサタンと、堕落圏を脱した基準を立てた人がいなければ、立てることができないのです。


 蕩減がなる場

 それでは皆さん自身が神とサタンの前に蕩減条件を立てられないので、どうしなければならないか? 先生に頼らなければなりません。こうして解放を迎えられる条件を立てて越えなければなりません。一方は上がってゆき、一方は下がるのです。即ちサタンの世は下ってゆき、天の世界は上がってゆくのです。であれば入れ替わらなければなりません。ですから皆さんは下がって行くのです。それで下って行ってできるだけ上がる運勢に乗って、上がって来るのです。蕩減は平安な場、自分が願う場においては成らないのです。分かりますか?

 それでは天国はどこから始まるのか? それはイエス様が生まれた飼葉桶から始まるのではありません。イエス様が十字架を背負って行った、あのゴルゴダの山頂から始まるのです。生死の岐路において、生死を決定づける場、死亡と復活が、生命と死亡が行き交う場において始まるのです。蕩減はこんな場で起こることなのです。ところで何をもって蕩減をするのか? 愛をもってするのです。

 統一教会の食口たちには先生が主人です。それゆえこの世のすべてのものをみな捨てても先生に服従するという心があってこそです。であれば神が愛を通して、我々の蕩減条件を率いて行かれるのです。天と地が公認し、サタンが公認する場、神が喜びに涙ぐみ、サタンが悲しみの涙を流し、皆さんが喜んで讃える場になってこそ、そこに蕩減条件が立って勝利圏を成すことができるのです。

 それでは統一教会においては、何を提示するのか? 皆さんの心情的な条件を誘発させるのです。ですから統一教会は最後の道であるというのです。真理を誘発させることが目的ではありません。勿論真理も誘発させ、その真理を通して人格革命を起こすのですが、そこには心情を誘発させる主目的があるのです。

 カインはアベルに従わねばなりません。アベルが指示する道に従順に従わねばなりません。ですから皆さんは先生をアベル的な基準で侍り、アベルを慕う心情で先生に従って来なければなりません。この道が最後の道ですから、死線をも越えなければなりません。未だ人類歴史路程において、この道を提示したのは統一教会だけです。分かるでしょうか? このような心情を中心に、皆さんが条件を立てて越えるなら、最後の峠道を越えることができるのです。だから統一教会が終わりの教会だということを、皆さんが知らねばなりません。

 心情の所願が解かれて初めて神が安息されるのであり、サタンがこの地上から永遠に追放されるのであり、我々自身も安息するのです。

 終わりの日にこのような条件を立てることができる道は、ただ一つしかないのですが、それがまさに統一教会であるということを知らねばなりません。分かりますか? そうですか、そうではありませんか?(そうです)これが実際に感じられますか?(はい)


 蕩減条件は独りで立てなければならない

 蕩減条件を立てるには、二人が立てることはできません。夫がいても夫を横に立てることができません。愛する父母や妻も連れて行くことができません。前後関係は許されても左右関係は許されないのです。分かりますか?(はい)二人が立てば復帰ができないのです。心情の世界においては、二人が立つことができません。二人の中の一人が、主体にならなければならないからです。

 夫が主体の立場に立つためには、父母のまえに絶対服従しなければなりません。また妻は夫に侍るに、神のように侍らなければなりません。なぜそうでなければならないのか? 蕩減復帰しなければならないからです。男が行く道に絶対に服従して従えば、前後関係が成立するのです。それゆえ皆さんは先生に従わねばなりません。そうでしょう?(はい)従うときは、泣いたりわめいたりして従うのではありません。良しとして従うのです。

 皆さんは先生がどこに行っても、先生を忘れようにも忘れることができないのです。先生が外国に行って長くなればいいでしょうか、早く帰って来ればいいでしょうか?(早く帰ればいいです)

 先生が今まで皆さんに強調したことが何でしょうか? 先生は皆さんがお金を集めて楽に暮らすことを願いません。「伝統を立てよ」というのです。どんな伝統ですか? 蕩減路程において、蕩減条件を立てる伝統を立てよというのです。また、これからもこのような伝統を立てなければなりません。これを立てておかなければ皆さんは、他のところに流れてしまうのです。

 皆さんが現在どんな立場にいるかということを確実に知って、先生が出発した後にさらに多くの祈祷と誠精を尽くさねばなりません。それで過ぎし日には漠然と生きていた生活を、今からは具体的に生きなければなりません。先生を愛するように自分の父母を愛し、先生を愛するように昔の信仰の同志を愛し、先生を愛するようにこの民族を愛さなければなりません。

 麹のような作用をする皆さんになって、世界のまえに出てゆくなら世界が天国になるのです。分かりますか?(はい)そのように知って、皆さんがそんな人間になるために努力してくれることを願います。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.05.06 22:10:38
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