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2021.05.14
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「​子女の日とはいかなる日か?」

(第九回子女の日のみ言葉)
1968年11月20日(陰暦十月一日)
韓国・青坡洞旧本部教会にて


 メシヤの使命

 きょうは第九回「子女の日」です。我々食口たちが子女の日を迎えるたびごとに、胆に銘じなければならないことは、この「子女の日」がどれほど重要な日であるかという事実です。神様は天地万物を造られた後、アダムとエバを造り、彼らを中心として、「子女の日」を迎えなければならなかったのですが、そうすることができませんでした。

 もし、そのようにして「子女の日」を迎えたならば、そこから「父母の日」も立てることができたし、「万物の日」も立てることができたのであり、「神の日」も定められたのです。この「子女の日」というのは何であるかと言えば、子女として勝利して、栄光の場に出ることができるそのような日が、全宇宙的に始まったという日なのです。

 ところが今日、人間たちが堕落したために、アダム以後に全人類は神の御旨の前に一致しうる立場で勝利して、神が許諾することのできる栄光の場に参席した人は一人もいないというのです。このような立場に置かれるようになったのを救援するために、即ち再びそのような場に引き上げておくための歴史が今までの摂理歴史なのです。

 それではメシヤとは何でしょうか? このようになった人たちを、そのような立場に引き上げておくために来られた方が救い主です。それ故に、「子女の日」と言えば、この一日が他の日と異なって、そう言うのではなく、「子女の日」と言うのは、子女たちが神様の栄光の場に同席することのできる、そのような一時を、堕落することによって持てなくなりましたが、歴史以後に初めて、そのような日を持つことができるようになったことを、子女たちとして最初に記念する日なのです。

 その日が始まったために、その日が始まった過程を経るようにすべく努力したその方に従って行けば、そのような栄光の日の中に自分が参席することができるのです。それ故に、今日我々統一教会において、統一教を信じる人々は、統一教が導く道をついて行くようになれば、必ず子女の栄光になる立場に立つことができるというのです。

 そのために、この「子女の日」がなくては、救援も受けることができないというのです。皆さんが霊界に行くようになれば、イエス様も行っているという事実を知らなければなりません。では、この地上においてイエス様が再び来なければなりませんが、その理由はどこにありますか? それは、神様の前に受け持っていた責任をもって、メシヤの使命をもってこられた責任を完遂することができなかったからです。完遂出来なかったが故に、再び来なければならないというのです。

 ある人がどこかに出張に行って、その用事がすべて終わったなら、再び行く必要がないのです。ところが、それを皆果たすことができず、残して来たために再び来られるのです。即ち、責任を全うすることがてきなかったが故に、息子として、神の栄光の場に参席できなかったということです。そのために今まで祈祷するのです。祈祷というのは、未だに自分が所望するところのものが成されていない、その要求の条件をかけて願うことなのです。それを天が成してくれることを、力を補給してくださることを天にお願いするのです。

 それ故に、そのような要求の場を逃れるためには、この地上に再び来られて、自分の本来の使命を完結することのできるその一日を決定せずしては、勝利の場に出ることができないのです。

 真理の中心

​ 今日、キリスト教において、イエス様が十字架ですべてを成したということは、十字架で死ぬことによって霊的救いを成したという意味であって、霊肉の救いをすべて成したということではありません。本来、神の創造理想は、霊的天国をつくるためのものではなくて、この地上にアダム・エバも、彼らの息子・娘もこの地上で天国の息子・娘として生きなければならないというのです。しかし、そのような基準を取り戻した人が歴史以来一人もなく、そのために一つの家庭も成すことができませんでした。​

 ​それでは、どこにおいて堕落したかといえば、アダム一人で堕落したのでもなく、エバ一人でもなく、夫婦が共に堕落したというのです。このように、夫婦が堕落したために、夫婦が神の前に怨恨の種を蒔いた張本人になったというのです。一人で蒔いたのではなく、二人で共に蒔いたというのです。それ故に、二人で蒔いたものを取り除くためには二人でなければならないのです。​

 それで、イエス様はこの地上に来られて、“新郎であり、新婦である”と言われました。このアダムとエバが蒔いた罪悪の苦い根を根こそぎ抜くためには、その父母であるアダム・エバと同じような立場をこの地上において再び再現させておいて、これを抜き取らなければならないというのです。それ故に、新郎であられるイエスという方はメシヤなのですが、それはお兄さんの救い主ではなくて、父親格の、即ち、我々を直接生んでくれることのできる父親、救い主だというのです。

 では、イエスを信ずれば復活すると言う、その内容は命が再び生き返るということですが、それはお兄さんを通して生まれる法はないというのです。生まれるという、それ自体の言葉を中心として見るとき、父と子の因縁を持たずしては、再び生まれることができないのです。そのために、イエスは何かといえば、父であり、聖霊は何かと言えば母なのです。今日、キリスト教界では聖霊は何かといえば、聖霊は聖霊だろうというのです。アダム・エバが堕落したので、男性・女性、即ちアダム・エバが堕落する以前の円であれば円、三角形であれば三角形の姿を持った男性・女性がその場を埋めなければならないのです。

 アダムによって偽りの父母となったので、これを埋めることによって真の父母となるのです。真理の起源は簡単です。歴史の根源は簡単だというのです。今日、真理の内容が何であるかといえば、真理がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理がいくら良いといっても夫に代身することはできず、又、自分の妻や子供を代身することはできません。最高の真理の中の真理が何であるかといえば、父母であり、子女なのです。それでは、その真理の中心が何であるかと言えば愛です。

 それでは今日、人間の世界においてのこのような原則を中心として、最高の真理の中心、皆さんが神を真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体であるという、それは何なのか? 同じ話です。真理が成立しようとすれば、愛と生命がなくてはならないというのです。

 人間が真なる言葉、真理を語ることができる人になろうとすれば、自分の生命の中に真理が沸き上がっていなければなりません。自分の欲望がなくてはならないのです。欲望というものを中心として見る時、私の人格基準を中心としては相対的な立場なのでしょう? 同じことです。そのために、最も核心は何ですか? 生命の本体とか、愛の本体とか真理の本体とかと言うものは何ですか? ​神様なのです。神様は何ですか? 父と母です。それ以上はないのです。簡単だというのです。​

 イエス様と聖霊の役事

 では、キリスト教は二千年間何をしてきたのでしょうか? 新郎とは何なのでしょうか? この地上に、宇宙の人間の中において、新郎が来られる、新婦は何なのか? 新郎はお父様であり、新婦はお母様です。なぜ父親と母親が必要なのかというのです。過って生まれたために、再び生み返さなければならないからです。それで、「再び生まれなければならない。」という言葉が出て来たのです。

 皆さんは全員生まれるには生まれたのですが、父母もないのに生まれたのと同じ立場になったというのです。そのために、すべて打ち砕いて再び練り直して、母親のおなかの中に再び入って行って出て来なければならないというのです。これが救いの歴史なのです。

 そうしようとすれば、イエスが父親にならなければなりません。それではイエスを信ずる人たちはどんな立場になるのでしょうか?

 結婚をする前に、父親のおなかの中に隠れている息子の種、娘の種と同じ位置に戻って行かなければならないのです。イエスを信じて何をするのでしょうか? イエスと一つになって、即ち、「イエスが私の内にあり、私がイエスの内にある」ということはどういうことですか? イエスは未だに結婚の席上に出ることができません。それでは、今までイエスを信じてきた人たちは何でしょうか? 霊的に新郎と新婦の立場に出ることができず、そのような立場に立った男性の中にいる子供としての立場を探し求めていくのが、イエスを信じる人たちがなしていることなのです。

 今や新婦の体であり、母親の体を通して生みの苦労をしなくては、再び新生することができません。このような過ちを正して、埋め合わせるために霊的にこの業をするのがキリスト教のイエス様と聖霊の役事なのです。それで、聖霊を受けない人は救われない、即ち、お母さんのおなかを経ずしては生まれることができないと言うのです。

 それでは、なぜ聖霊は来て、罪を清める役事をするのでしょうか? ​聖霊は母親の神であるので、人類の母が罪を植えたために、罪を植えた人が来て、清算しなければならないのです。​

 蕩減の原則により、聖霊はこの地上に来て、罪を贖う役事をするのです。罪を贖って何をするのでしょうか?贖った後には、即ちアダムが結婚する前の、体やおなかの中にある息子の種、娘の種の立場に入って行かなければならないのです。
 それ故に、イエスをどれだけ愛さなければならないのか? 自分の命よりももっと愛さなければならないというのです。そうではありませんか? 一体にならなければなりません。男性であっても、女性であってもイエス様を愛さなければならないのです。

 男性も、イエスを愛することに自分を忘れてしまうほど慕わなければならないし、女性も自分を失うほど、イエスを慕わなければなりません。この世において、今まで一緒に生活してきた自分の夫や、妻が死んだとしても、「イエス様はいなくてはならない。」と言うことができなければならないのです。

 接ぎ木する業

 それで、我々統一教会において「子女の日」が出てくるためには、アダムとエバが播いたものを切ってしまって、解放することのできる起源をつくらなければならなかったのです。「子女の日」を持つことができなかったために、この万物が解放されず、万物も嘆息圏内に入っており、神様も嘆息圏内に入ったというのです。即ち、「子女の日」を迎えることがてきなかったために、神様が喜ぶ栄光の日を迎えることができなかったのです。

 それ故に、「子女の日」を迎えるためにはどのようにしなければならないのか? 間違った子女が、間違うようにしたものを全部是正することのできるその起源において、神にすがらなければならないというのです。子女が間違った行動することによって、神を失ってしまったのを是正することのできる息子・娘たちが出て来て、「子女の日」を立てることによって神を捜し求めるというのです。神を捜し求めえたときはどのようになるのか? 神が栄光の場に出て行き、喜ばれるようになるというのです。神が喜ばれるようになるので、息子・娘たちも喜び、万物も喜ぶようになるのであります。

 それで、統一教会では、「子女の日」と「万物の日」と「父母の日」と「神の日」を捜し立てたのです。「子女の日」と「父母の日」はお互いに通ずる日なのです。「子女の日」と「父母の日」は一度に成されるのです。しかし、これを捜し立てるためには、どのようにすればよいかというと、一人の男性をおいてみるとき、男性一人ではその位置にそのまま行くことは出来ないというのです。

 復帰路程において、どのように出て行くかと言えば、堕落することによって、神の息子の立場から僕の僕の位置にまで落ちたのです。それで僕を主人として侍ることを知らなければなりません。このように、神の息子の立場から、僕の僕となった立場まで落ちたことを回復するのに、六千年という歳月がかかったというのです。

 では、それを復帰するためにはどこまで上って行かなければならないのでしょうか? 逆に上って行かなければならないのです。旧約時代においては、僕の僕になった立場から、僕の位置まで上って来たのであり、新約時代においては僕の立場から養子の位置まで上ったのであります。従って、皆さんも直接神様の息子となれず、養子なのです。養子! 養子は血統が異なります。

 では、この養子の位置から直系の位置に行くためにはどのようにしなければなりませんか? イエス様によって接ぎ木されなければなりません。今日のこの世が偽りの、野生のオリーブの木となっているために、真のオリーブの木が来て、接ぎ木する業が成されなければならないのです。

 では、イエス様はどのような立場で来られたのかというのです。息子として来られたのですが、これが真のオリーブの木です。野生のオリーブの木と真のオリーブの木は何が異なりますか? 見た目には皆同じです。皆さんが見ても、イエス様も耳があり、目もあり、口もあり、食べて寝る、すべて皆同じだというのです。ある人々は、イエス様は御飯も食べず、トイレにも行かず、そのままいるとそのように思っています。しかし、イエス様もスプーンを持って御飯を食べなければならないし、トイレに行って便をしなければならないのです。
 このようなことを言うと気分が悪いでしょう? しかし、これが聖なることなのです。ほかのことが尊いのではなく、今日人間世界であるように、御飯を食べることが最も聖なることなのです。それを知らなければなりません。聖なることが他にあるのではなくて、太陽と月、星、聖霊すべてが尊いのであります。それを否定する人間はこの地球上から追放されなければなりません。存在価値を自分が否定する立場に立つのです。蝶が飛び、蜂が飛び、鳥が歌い、子供たちが跳び回って遊ぶことが聖なることなのであります。イエス様はなぜ断食をしたのでしょう? 好きでしたのではなく、仕方がなくてしたのです。

 それでは、聖なることというのは何ですか? 私が眠りたい時眠り、御飯を食べたい時食べ、遊びたい時遊んで……ということが聖なることなのです。特別なものとして考えないでください。

 天国はどのようなところなのでしょうか? 思いのままに食べて、思いのままに生きることができる所です。規制を加えないところなのです。規制を加えたとしても、その規制は私にとって規制にならないということです。すべてのものを克服して、すべてのものを祝賀することのできる権限をもって、消化することのできる能動性をもつことが天国です。

 宇宙主管の前に自己主管を

 今日、統一教会においても、地上天国と言うのは地球が変わると思っているかも知れませんが、方向が変わるだけです。今までは後ろに行っていたものが、逆に回ればいいのです。即ち目的が変わるだけです。

 それ故、今日宗教者たちは堕落して、どんどん前に進もうとしますが、舞い戻らなければならないのです。戻れば復帰できるのです。昔、出発した位置を過ぎて行くのです。どんどん上がって、アダムが堕落したその基準を更に過ぎて行くようになれば、神に出会うというのです。

 それ故に、宗教者たちは神に出会おうとしています。そのために、この世と全部隔離して行こうと言っていますが、更に深く入って何をするかといえば、昔アダムが出発したその基準を越えて行こう。そうすれば、越えて行けば神様がいるのです。

 それ故に、神を捜し求めて行こうとすれば、この世のすべてを否定しなければなりません。そのために、この世を否定せずしては、宗教は真の使命を果たすことができないのです。宗教は否定から出発したのです。それ自体からみる時、堕落を否認することができません。我々は僕の僕の位置から僕の位置に上って行って、再び養子の位置を経て、接ぎ木されて神の前に帰って行くのです。

 それでは、接ぎ木されたオリーブの木と、接ぎ木されないオリーブの木がどのように異なりますか? その実が異なるのです。野生のオリーブの木も接ぎ木をすれば、真のオリーブの木の実を結びます。サタンは真のオリーブの木を切って、野生のオリーブの木に接ぎ木をしようとし、神は野生のオリーブの木を切って、真のオリーブの木へと接ぎ木しようとされるのです。サタンと天はこれが異なるのです。

 そして、人の中においても真と偽りがありますが、何が真であるかといえば、良心が真であり、体は偽りなのです。では、この野生のオリーブの木である体が、真のオリーブの木である心を切ってしまえばどうなりますか? 全部が偽りになります。心に接ぎ木された人は神の息子であり、体に接ぎ木された人はサタンの息子です。

 それで、宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさいと言うのです。戦争の中において最大の戦争は何ですか? ヨーロッパ戦争でも世界大戦でもありません。私を征服する以上の大きな戦争はありません。この戦争は六千年以上も継続しているのであり、未だに戦いが終わっていません。我々の先祖のおじいさんたちが、この罪悪の風呂敷を更に大きく作ってくれたというのです。それで、皆さんは六千年罪悪史の一つの結果物となってしまいました。

 では、この罪の荷を誰が解き放してくれるでしょうか。皆さん自身としてはできないために、それよりもっと大きな力をもったメシヤが必要だというのです。

 それでは、「子女の日」というのは、何がどのようになるのでしょうか? 「子女の日」を我々が必要とするのは、「子女の日」を我々が失ってしまったために、それを我々が必要とするのです。「子女の日」は誰が失ってしまったのでしょうか? 神様が? 万物が? アダムとエバがしました。では、この「子女の日」を誰がつくり出さなければなりませんか? アダムとエバが失敗して、三角の穴を開けたとすれば、誰がこれを埋めなければならないでしょうか? アダムとエバがこれを埋めなければなりません。

 最初のアダムは滅びるようにしたアダムであり、二番目のアダムは回復するアダムなのです。それ故に、最初のアダムは滅ぼすようにしたアダムであるが、二番目のアダムであるイエスは、救ってくれるアダムになりました。そして、最初のアダムは父として、滅びる父となったのですが、二番目のアダムであるイエスは、父として、救ってくれるアダムになりました。

 聖霊は何ですか? 聖霊は女性神です。これを地上に結びつけるために再臨しなければならないというのです。再臨して何をしますか? 雲に乗って再臨しますか? とんでもないことです。雲は何ですか? 雲は雨を含んだものです。地上にやって来るとすればまだしも、雲に乗って来るとは……。荒唐無稽なそういった信仰はするなと言うのです。

 私がこんなことを言うからといって、異端だと言われるのですが、誰が異端であるか、見てみれば分かります。本物であるか、偽物であるかというのは、結果を見れば分かるのではないでしょうか? 統一教会とキリスト教会がぶつかってみれば分かるというのです。「あーあー、統一教会! 統一教会には行くな、行けば滅びる!」そう、イエス様は死んで地獄に行っても三日間伝道したのですが、そのイエスについて行こうとすれば、地獄に行ってでも伝道することができなければならないのに、自分は地獄の見物もしないって? 地獄の見物をしなくては、天国の味が分からないのです。自分が苦労の味を切実に味わった人であればこそ、どんな小さな幸福であっても、とても甘く感ずることができるというのです。

 私がこの間、魚の肝を少し食べてみましたが、とても苦くて、いくら口を洗っても、変わらなかったのです。ところが、蜂蜜を少し口に入れると、どれほどうまいか?それは、本当に薬中の名薬でした。それも、苦いものをそのように味わってみなくて食べたならば、まあそんな程度で、それほどまでおいしい味とは思わなかったでしょう。

 男性が結婚して、夫人が気に入らず、一緒に生活できないと言っていたのが、楽しく生活している夫人に出会うならば、どれほど幸せでしょうか? だからといって、結婚を二度しなさいというのではありません。

 人は刺激を受けなければなりません。刺激は普通の場では刺激になりません。反対になる立場において刺激が来るのです。それで、天地なのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ、天がはっきり現れてくるのです。そうではないでしょうか? そのために、反対なものが必要なのです。

 それ故に、イエス様は今まで霊界に行っているために、かわいそうなイエス様となったというのです。これが統一教会の主張なのです。かわいそうなイエス様が救いをなしても、かわいそうな救いしかできません。また再び行って、再び来て、更にひと皮脱がなければなりません。これが統一教会の論法です。ところが、分かってみると、この統一教会の論法が神様の論法なのです。統一教会だけの論法であるとすれば、私は主張することもしません。そのようになったことを私ははっきり知っているために、このようなことをしているのです。​
 歴史以来、穴が開けられた男性と女性ばかりであって、穴を埋めたという父母がなかったので、​真の父母が出て来なければならないのです。それで、イエスが小羊の婚姻をするために来られるということは何の話かといえば、真の父母として来られるということです。初めて神様が「息子・娘である。」と言える資格、即ち、堕落の恨を残したサタンの息子・娘となったので、サタンに打ち勝つことができなければなりません。サタンを引っ張って来て、神の公判廷に出しておくことのできる、検事のような役割をすることができる資格者とならなければ、神様の息子・娘になれないのです。​

 今までは、サタンが私たちを引っ張って行って、全部神様の前に、「こうこう、こういった罪人ではないか。」と検事の役割りをしました。サタンが悪を中心とした検事の役割りをしたけれども、善を中心として悪を処断することのできる検事の役割をすることのできる人が出てこなければなりません。その検事の資格をもって初めて来られた方がメシヤなのです。

 それでは、メシヤはいかなる人なのでしょうか? 人類の父なのです。その一日を二人の人が忘れてしまったので、二人が一緒に訪ねて来なければならないのです。これは個人的にしなければなりません。統一教会の文先生であれば、文先生個人として、「子女の日」を迎えるようになるのであります。

 み言葉と一致し得る人に

 それでは、私たちは「子女の日」のために何をしなければならないのでしょうか? 復活をしなければなりません。堕落したために、神のみ言葉を失って神の愛を失ってしまいました。み言葉と人格と心情を失いました。それ故、復帰しようとすれば、これを取り戻さなければなりません。

 では、神の中に隠されて、復帰すべきみ言葉というのは何でしょうか? み言葉どおり実践して、み言葉の実体となって、み言葉の実を結ばなければなりません。愛してこそ実を結ぶようになるのです。み言葉を中心として実践して、愛の実を結ぶために愛さなければなりません。愛してみようとするならば、自分を中心とした愛で愛してはなりません。愛の主人は神様ですから、神様を中心とした愛で愛さなければなりません。

 それで、統一教会はみ言葉を中心として実体復帰をしなければなりません。そして、心情復帰をしなければなりません。即ち、み言葉復帰、実体復帰、心情復帰の順序です。

 アダムが堕落することにより、神のみ言葉を失い、体を失い、神の愛を失ってしまったので、この三つを復帰するために、統一教会ではみ言葉を中心とした復帰をしなければなりません。では、統一教会で教えているみ言葉はどのようなものでしょうか? 歴史以来、神が求めてきたそのみ言葉を代表なさることのできる、そのみ言葉を教えてあげているのです。それ故に、み言葉と一致し得る人にならなければなりません。統一教会の文先生が進んでいく道には大韓民国が反対し、世界が反対しました。それでも、くじけずに、善を中心として勝利しました。そのために男であれ女であれ、そういう心情をもった方が現れる時には、ついて行かなければならないのです。

 歴史以来、神が捜し求めてきたみ言葉を代表するそのみ言葉を教えてくださった、そのみ言葉と一致することのできる人となれ! そういう人になろうとすれば、数千万人が反対します。統一教会の文先生という人に大韓民国が反対し、世界が反対しました。そのように反対するのに、くじけなかったというのです。それ故に、そのような心情の人となるためには、男性であっても、女性であっても、そのような心情をもった人に従って行かなければなりません。

 今日、統一教会では生命運動をすることのできる真理の人になるためには、男であれ、女であれ、その一つの中心に会いたくて、涙を流すことのできる動機の源泉を持たなければなりません。そうでなければ、堕落した男性や女性を救うことができないのです。父が泣けば、息子や娘も涙を流さなければなりません。統一教会の文先生であれば、文先生を中心として、私が涙を流せば、男性であっても、女性であっても、同じ事情の中に入って、自分の心が間違いなくそうであると言える立場に立たなくてはなりません。さもなくば、そうすることのできる所に向かって、再び尋ねて行かなければなりません。

 どの程度、そのように前なければならないかといえば、私の愛する息子・娘をさて置いてでも、「先生!」と言い、私の妻や私の夫を捨ててでも、「先生!」と言うことのできる、そういう道を捜し求めなければなりません。
 霊的に救いを受けるためには、イエスの中にある息子の種、娘の種の立場を捜して行かなければならないのと同じように、今後、主が実体として来られるならば、その実体を中心として、結婚しなかった、昔堕落しなかったアダムのおなかの中で、これからお母さんに会って生まれることのできる子供の種の位置に入って行ってこそ、生まれてくることができるのでしょう? そうではありませんか?

 それが、どのようにして罪悪の種として生まれたかといえば、その罪悪の愛を通して生まれたのです。それでは、お母さん、お父さんのおなかの中に、骨髄の中に隠すことのできる存在がありますか? 誰であっても、それを愛することによって深く入って行くのです。統一教会に、そのような原則に一致することができる内容が欠けているというときは、統一教会はまた再び行かなければなりません。どんなことをしてでも、皆行かなければなりません。しかし、これが事実そうであるならば、統一の男女は一つとなるのです。

 父母の道理

 この頃は私は直接指導をしなくてそうなのですが、私は昔、悪口をたくさん言われ、うるさく言われたので、従って来ようとする人たちが退いてしまいました。そうでしょう? 今だってそうです! 私が夜を徹して酔いながら話をすれば、皆さんも酔うのです。私がうれしくなって話をすれば、皆さんもうれしくなるのです。そうではないでしょうか? そうでないとすれば、皆さんが偽物であるか、私が偽物であるかなのです。
 男も、自分の父母が想い出されたら涙が出るでしょう? 着られず、食べられずに苦労しているのを思えば、子供として道理を果たせなかったために、ただ涙が出るし、苦痛を受け、病で臥すようになれば、自分の一生を通じて悔い改めたいという心がなければなりません。骨がある男性であれば、そういう心があってこそ男なのです。そういうことがなくてはならないのです。

 それは、堕落によってアダムとエバが神様の前から離れる時、そのような心を感じたのです。悲しくて、悲痛な心を感じていたのです。それを初めて復帰するにおいて、喜ばしく、感謝する心が起こらなければならないのです。

 それ故に、統一教会では何を教えてくれるかといえば、父母の道理を教えてくれるのです。ここで教えてくれることが、従来のキリスト教の教えと異なるのです。キリスト教は息子の宗教を教えてくれるのであり、統一教会においては、何が違うと言いました? 父母の宗教、これが異なるのです。父、御子(みこ)、御霊(みたま)の名前で祈祷すると言わないで、なぜイエスの名を通して祈祷するのですか? 皆さんが男性、女性を中心としながら、男性だけ好きだと言って餅を与え、女性は少し待つようにと言ったら気分がいいですか? 三位一体にしておきながら聖霊はさっと取り除いて、「イエスの名で祈祷します。」と言うのはどういうことですか?

 家においても、お父さんだけが良くて、父の誕生日が来たとして、お母さんがいても、お母さんのことは考えもしないで、「お父さん、ありがとうございます。」と言えますか? 天地に二人といない父母(の価値)というのは、今日(神を)信じない人たちも知っています。

 目も耳も全部が合わさってこそ調和が展開し、全部のものが合わさって、目も耳も原則的な目的が成されていくのです。耳も鼻も目も、二つが合わさって目的をなすのであって、手も一つだけで働いても何もできません。二つが合わさってこそ、すべてのものの調和が起こるのです。息を吸い込むだけでは生きる法がないというのです。吸い込むことよりも、吐き出すことの方がもっと必要だというのです。吐き出して、炭酸ガスを出してこそ、たくさん入って来るようになっています。

 再創造の道

​ それ故に、男性だけ出て来てはいけないというのです。この堕落世界は、男性を中心とした世界です。私が出て来て、女権を根本的に解放させなければなりません。それで、一個体をおいてみるとき、復帰するには僕の立場を経なければなりません。堕落するとき二人で落ちました。落ちる時は、二人が落ちたとしても、上って行く時には、二人が上って行くことはできないのです。​

 上っていくのは、再創造するのと同じです。創造する時に、一日でアダムを造って、エバを造ったと言いましたか? 再創造もアダムを造っておいてこそ、エバを造らなければならないのでしょう? それで、今までの歴史は復帰歴史であったために、アダムを造る歴史でした。そのために、この世の聖人、賢哲には女性がいません。女性の聖人を見たことがありますか? 聖人のお母さんということは聞いたでしょうが、女性の聖人はいないのです。

 孟子の母親の話は聞いたでしょうが、そうだからと言ってその方が聖人ではありません。結局、今までは再創造の法度です。堕落した人間を救済するにも、二人同時に救うことができないというのです。まず原則があって、再創造の過程を経て行かなければならないために、今まで来られた主はいかなる方でしょうか? 創造目的を完成した男性として、この地上に天地の相続権を占めるために来られた方が主です。簡単なことです。

 それは何かと言えば、エデンで堕落しなかった時に、エデンの園でアダムを造っておいて、そのアダムが結婚する前の立場の、その人格者として代表して来られた方が主です。来られて、結婚式をなさるために来られた方が主です。来られて何をするかと言えば、女性、即ちお母さんを捜し求めるのです。

 そのために、今までの旧約や新約の歴史において、教会の指導者や、預言者たちはすべて男性でした。このように少し男性を育てておいて、それを麹として更に少し大きく、更に大きく、そうなって世界的な代表者としての神様の息子としての資格をもつために、更に大きくして、その息子の位、心の位、体の位、すべての事情の位、希望の位、全部の位をもって来られた方がイエス様です。

 そのような男性として初めて、堕落する以前のアダムを造ったのと同じように、神が直接関係して造っておいた息子を再び造った型が、この地上に来られる主なのです。それでは、主が来られてどのようになるのでしょうか? アダムを造った後に、アダムの肋骨(あばらぼね)を取って、エバを造ったというのですが、肋骨を取って、本当に造ることができますか? それを見本として造ったのです。

 最近、クリスチャンたちは、男性は肋骨が一本ないと言うそうです。解剖してみなさい。もっと大きいのがあるのに、なぜないと言うのですか? それで、天国に行こうとするのです。幼稚園の囲いの中で、「僕、大学院で博士になるよ!」と言うのに似ています。そう言うのを見ると、統一教会の文先生が来て、キリスト教の解放が始まるのです。カトリックの修道女たちが、そのヴェールを被って往来することが、どれほど苦痛でしょうか? それでは、天国はさておいても、パラダイスにも行けません。

 既成教会との一体化を

 ところが、統一教会の食口たちは、また、これは頭が大き過ぎて困るんです。頭が大きくて、足がぐらつくんですね。頭だけ働かせてしまっているんだね。それが問題なのです。それで、体は既成教会の信者たちに接ぎ木しなければなりません。だから、私は既成教会の人たちから悪口を言われるけれども、既成教会の人たちが必要なのです。皆さんは、統一教会の食口たちが必要だというけれども、私は既成教会も必要なのです。

 それで、闘うことにおいて、私一人にも負けるというのです。彼らは遠ざけようとするし、私は近付こうとしているわけですから……。近付こうとしている人たちを排斥することはできません。彼らに一つ必要なことがあったとき、二つを与えれば「あーあー」と征服されるようになっているのです。

 既成教会の信者たちは、「文イエス? 統一教会の文なにがしという看板をかけた。」と言っています。しかし、私がイエスになって、何が悪いでしょうか? この世の人が皆、イエスを捜し求めているのに、私がイエスになれば、この世の人々はみんな私を尋ねるようになるのは仕方がないでしょう? そのようにして、かわいそうな韓国の民を助けてあげた方がいいのでしょう? 一体何が悪いのですか?

 私はそういう言葉を言わなかったが、この既成教会の人たちは、「文イエス☆☆」と言っているのです。統一教会という名前も私が付けたのではありません。しかし、この名前もそれほど嫌ではないので、そのまま使っているのです。

 私が思うに、神様もどうしてそんな運命になってしまったのでしょう。神様はあらゆる見物をしていなかったでしょうか? 神様があらゆる見物をし尽くしたので、息子である人間たちもそのような見物をせざるを得ないのですよ。「お父さんもそうであったので、私もそうすることができます。」そのように考えれば心が安らかでしょう。

​ 女性の解放運動​

 結局、ここにおいて成す運動は何かというと、解放運動、即ち女性の解放運動であります。今や男性を立てて、男性を復帰することができる時が来たので、女性を造らなければなりません。女性を造ってからすべてを整えておけば、男性でも女性でも同じであるという解放運動が展開されるというのです。

 第一次世界大戦の前後を中心として、世界的な女性運動、人権擁護運動が始まっているように、女性の解放運動が始まるようになったのです。新郎である人類の父が人類の母を迎えて、天国の法度を確立なさる時代に入って来たために、歴史はそのような方向に終結点を結ぶようになるのです。

 統一教会の食口たちは、今やすべて私の世話にならなければならないので、気分が悪いですか? 世話になればありがたいという考え方はせずに……。それで、なぜ世界で、男女がどうだとか、女性運動がどうだとか言っているかと言えば、人間は、男性は女性が必要であり、女性は男性が必要であるのに、なぜ出発点から同等な権利と位置をもって生まれることができなかったのかというのです。

 この原則、即ちアダムを造った後にエバを造った天地の法度があるので、女性が(先に)この地上に登場してはいけないのです。誰が天理をひっくり返したかと言えば、女性がそうしました。そのようにして男まで駄目にしたので、男性が解怨成就して女性を救うことのできる時になるまでは、女性は頭を上げたら大変なことになるというのです。

 では、この女性たちの中でもその歴史を研究してみる時に、どのような国家が最も恵みを受けることのできる国家となるのでしょうか? 女性たちが無慈悲にも虐待され、迫害され、無慈悲にも苦痛を受けた歴史をもつ国家、民族を中心として、選民的な摂理の救いの手が近付くことのできる基台が立つというのです。それが大韓民国だというのです。男性よりも女性が恥ずかしめられ、かわいそうで耐えることがてきないほど、世界を代表することのできる民族、最も女性が悲惨であり、卑しめられるそのような民族を救い出して、再び造らなければなりません。

 そうする時には、同等な位置において造らなければなりません。それは、女性の中において、陶器師が陶器を造って焼くのと同じように、また、雑巾の切れっ端までもみんな破れてしまった、そのような最後の極限において再び造るというのです。それ故、女性が耐えることのできないほどの苦労をする歴史の過程を経た、そのような女性を中心とした国家から再創造の歴史の救いの手が始まるのです。ですから、大韓民国のような所には、そのような意味で主が来られる可能性があります。

 では、韓国において今まで女性たちが苦労してきましたか、きませんでしたか? 子供を産むためには女性は苦労をしますか? しませんか? 自分が卑しめを受けなかったならば、自分自らを卑しめなければなりません。そのために自分を惨めな立場に置きなさい! しかし、そうすることのできる能力がないので、神様が卑しめるようにしてでも、そのようなことを通して蕩減しようとするのです。

 そういうことを見るとき、私は統一教会の食口たちをもっと苦労させなければならないと思います。そのために韓国の女性たちはかわいそうなようですが、かわいそうではありません。それで統一教会においては、女性たちは今まで先頭に立って闘ってきたというのです。

 良い夫婦としての出会い

 ここで僕の僕とならなければならないし、僕にならなければならないし、さらに僕から養子となって、養子が接ぎ木を受けることによって息子とならなければなりません。息子が息子となる前には、天の福を受けることができないのです。天の福は男性だけで受けたということができますか? 女性として女王となったならば、それが福を受けたことなのですか? いくら女王であると大声を張り上げたとしても、いくら君王であると大声を張り上げたとしても、相対圏がなければ滅びるのです。男性たちも、女性がいなければ滅びるのです。自分一代で滅びるのです。

 福とは何ですか? 何かよい食事をして、よい生活をすることが福ではありません。自分の相対にうまく出会うこと、夫婦として正しく出会うこと、天地の因縁に従って、天倫の法度に従って、いい夫婦として出会うことが福(恵み)なのです。それ以上の福(恵み)がどこにありますか?

 いくら人気があって、いくら権威があって、どれだけ何がどうだと言ったとしても、彼が妻にうまく出会わなかったときは、その夫の価値がなくなるのです。たとえ看板が立派で、見かけも良く、体格が良い夫であるとしても、どうしようもないというのです。どれほど美しい女性であっても、夫とうまく出会わなければ運勢が暴落してしまうのです。そのために、恵みの中においても何が大きな恵みであるかといえば、相対によく出会うということが、最も大きな恵みであります。

 何? 栄光の月桂冠?……しかし、月桂冠が何であるか知っていますか? 天国が何であるか知っていますか? その相対的な価値をです。

 それで、息子を中心として復帰して、最後にはどのようになるのでしょうか? 偽りの因縁を中心にして、偽りの愛によって堕落したために、真の愛の神が与える神の愛を受けて、神の家庭、天道について行って、天道を守ることができる家庭から天国を成して行かなければならなかったのです。しかし、イエス様も家庭を成すことができなかったために、イエス様も天国に行くことができず、楽園に行っているというのです。楽園というのは、堕落することによって生じたものであり、天国に行くための待合室なのです。神が創られたものではありません。

 天国はどのような所でしょうか? 男女が共に、家庭が入って行く所なのです。それで、イエス様はこの地上に来られて何をしましたか? 新婦を尋ねて来ましたが、求めることもできずに亡くなったために、今まで楽園に行って、二千年間祈祷をしながら聖霊を送って役事をしているのです。

 女性が罪を造ったために、女性神である聖霊が来て、罪を拭ってくれることのできる世となって、その母親が聖霊の実体として現れることができるようになれば、そこに再び新郎として来られるのです。そして、新しい種を注入して再復活させて、新しい天地の復活体として、神を中心とした新しい世界を造ろうとすることが目的でした。そうしてこそ神に計画があって造ったものであるわけでしょう? 神の目的によって造られたこの世が、今日のこのような堕落世界であるとすれば、そういう神様はどうして必要でしょうか?

 もし、堕落する以前の人間がすべて堕落していたとするならば、堕落していった人間たちがいくら救援を求めたとしても、以後に再び堕落する可能性が多分にあるというのです。

「父母の日」と「子女の日」の決定

 それで、統一教会において“この日”をつくったのです。制定するにも統一教会の文先生が制定し、内容を整えたのも、文先生が整えました。歴史をひっくり返したのです。しかし、それは決して一人でできるのではなく、必ず祝福という基準を懸けてできるのです。統一教会の合同結婚式がそこから出て来たのです。この世においては、統一教会の合同結婚式はお金がなくてそのようにするのであると言っていますが、事実はそうではありません。

 この日を迎えることによって何が始まるのでしょうか? これを中心として初めて先生を中心として見るときに、この過程を経て、父母の位置を決定するのです。それで、一九六〇年に「父母の日」を決定した後に、これらの日々が決定されたのです。順序がすべてそうなのです。父母、即ち、天地人類の父母として登場するようになる時に、「子女の日」も決定するのです。もちろん、復帰路程において子女として決定付け、父母の出発を見るのです。

 しかし、ここにおいて父母のみではなく、子女として横的な面において、「父母の日」の出発であり、「子女の日」の出発なのであります。復帰の立場においては、「子女の日」が最初であり、「父母の日」が後であり、横的な基準においては「父母の日」が初めであり、「子女の日」が後であるために、天地間に歴史以来初めて「父母の日」が来ました。これは天地間に勝利の歓声をあげることのできる日なのです。

 この日が展開することによって、霊界には塞がれていたものが解かれていくというのであります。それ故に、この地上の悪なる世界は、だんだん統一教会によって消滅されていきます。先生がすることに従って左右されるのです。それが原理的ですから、共産党は八代を越えることができず、崩れてしまうのです。

 そして、四十年目に二つに分かれなければなりません。一九一七年から四十年後の一九五七年から中ソの理念紛争が生じ、そして統一教会はその頃から出発するのです。それが先生においては創立の一九五四年から四年たって五七年、そして三年たって第一次七年路程に入っていた時だったでしょう。それは皆そうでなければならないのです。ある一つの動機に拍車が合わなければなりません。

 相対のために生きる

 今日、キリスト教において、摂理の主流心情思想に永遠になければならないものとして、父母が子供を愛するその愛が、思想の土台となっているのです。その内容が変わるでしょうか? これは神様も、私たちの何千何万代の父母もそうでしたし、これを侵犯する存在はこの地上に存在することができません。

 これを知らないのです。天地がこれを捜し求め、イエス様もこれを捜し求めるために来られたのです。新郎が来たならば、新婦が来なければならないでしょう。そうすることによって家庭が生ずるのです。「私がなぜ女として生まれたのか?」そう思うかも知れませんが、女性として生まれた結論は何でしょうか? 結婚するためなのです。男性を迎えて、愛を受けて夫婦となり、父母となるのです。これは、いかなる人生においても、いかなる存在物であったとしても、この法度を踏みにじって用がないという存在は滅びてしまうのです。

 今日、仏教やキリスト教が栄えるのは、男子創造時代圏内に、その天運圏内に入ったためです。分かりましたか? だから、妻帯僧が勝利するのです。ローマ法王庁の神父、修道女たちだけでは滅びるのです。ローマ法王の前に二人が出て来て、もしカインもアベルもローマ法王に「結婚すべきですか? 結婚すべきでないでしょうか?」と問い質す時、「すべきでない。」と言う群れはすべて滅びるのです。女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれているのです。それが最高の真理なのです。

 ここにおいて、最高の真理を離脱することは最高の悪です。最高の悪。それはコンパスの中心台の中心です。これは移すことができません。神にこれがあるために、父母が息子を愛する原心情的基準は変わらず、従ってそれはサタンも占領できなかったというのです。
 いくら父母は悪ある者だとしても、息子に対してはどうでしょうか。「人を打ちのめす時、気分がとても良い。あなたたちもこのように人を殴らなければならない。」と、そのように教育する父母がいるでしょうか? 悪なる父母も、その法度には順応しなければならないのが天法なのです。殺人強盗のじいさんでも、いかなる悪もこれは占領することができないために、悪は常に相対的な立場に立つとしても、中心にはなれないのです。

 神が本来立てようとされた神の子女たちとして立つことのできる、息子と娘のその位置を尋ねて越えて行かずしては、その高い天国に入って行くことができません。それを記念することができ、それを決定づけることができることが、統一教会の文先生の権威であり、誇りなのです。それで、「子女の日」と「父母の日」と「万物の日」と「神の日」を捜して立てたのです。

 最も意義深い日

 では、我々統一教会において、最も大きな名節は何かといえば、堕落した人間においては、「父母の日」よりも「子女の日」がもっと大きな名節です。分かりましたか? 自分が父母として登場することのできる道は、六千年かからなければならなこでしたが、その立場に出ることがてきさえすれば、それ以上の願いがないのです。堕落した人間においては、最も貴重な日が何の日と言いましたか? 「子女の日」なのです。

 それは、父母の権限を剥奪させた堕落の恨に更にそれを付け加えてきた六千年の人類歴史を蹂躙して来たサタンを打って、勝利の旗を掲げて現れる日、その日を今日、堕落した人間がもってこそ、天国に行くことができるし、天の父母に侍ることができるのです。

 皆さん! 統一教会の食口であったとしても、一人で行っては天の父母に侍ることができません。侍るとしても、今後の橋を掛けなければなりません。分かりますか?だから、男性、女性、全部霊界に行っている人が橋を作っておかなければなりません。同じように、皆さん一人一人で橋を作らなければならず、(そうしなければ)直接侍ることはできないのです。

 では、今日、統一教会の食口たちだけがこの日を守るのでしょうか? これは、これからも世界万民が永遠に守る日なのです。クリスマスが問題でありません。堕落した人間には、最も意義深い日が何の日でしたか? 「子女の日」なのです。その次に、「子女の日」の栄光を持つことのできる権威をもった勝利の王者、王女たちを侍ることができる日が「父母の日」です。それ故に、子女となるためには蕩減路程を経なければなりません。

 ところが、このごろはじっと見ると、蕩減の道をまっしぐらに行かずにいます。みんな教えてあげた後にも、そのように真っすぐに行くことがてきなければ、私は責任をもちません。霊界に行って私に「先生、私は青坡洞教会で先生に会ったではありませんか?」と、いくらそう言っても、その時は私の目は原理の眼鏡をかけている時です。分かりますか? 私が歩んできたその眼鏡をかけるでしょう。そしてそれに合えば、受け入れるでしょうし、合わなかったら受け入れられないのです。

 私も神様の目から見る時に、復帰摂理の路程において、蕩減路程を行かなければなりませんが、神様もそのような眼鏡をかけて御覧になるために、私は今までその眼鏡に合わせるためにこの仕事をしているのです。それ故に、私は世間のすべての人々に対して、私の良心には少しの呵責もないのです。良心の呵責を受けては大きいことを言えないのです。

 復活と祝福

 さあ! それではそのような喜びの日が、そのようなものかと想像はついたでしょう? しかし、それをどれほど知ったのか? 骨身に染みるほど、電気が通じて全身が震えるほど知ったかというのです。うれしくて飛び跳ねたり、あまりにもうれしくて、気絶してひっくり返るほどに跳ばなければならないのです。

 けれども、そのように喜んでみましたか? 神様が六千年間苦労をして捜して来た、そのような娘であり、息子が解怨することができ、息をつくことのできる、そういう日が早く来れば、神様はどれほどお喜びになるでしょうか? 喜ばれる神様の前に、「あっ! あの神様はなぜあのようなのか?」といぶかしがることができますか? 「父よ!」と言って走り寄って、手を取り合って踊るだけではなくて、私の手足で踊りを踊ろう! こうすることのできる資格をもって、父を刺激させ、更に喜ばせることのできる皆さんとなっていますか?

 皆さん、「父母の日」はこれから皆さんが長く、久しく輝かさなければなりません。私が二階に行って眠ってしまったとしても、皆さんはここに来て挨拶もしないというようにはなっていないのです。ほかの日はいくら祝賀しようとしても、祝賀にならないようになっているのです。

 そして、「子女の日」は先生においても縦的な立場にいるために、先生個人においては、み言葉復活、実体復活、心情復活の過程を経て来たということなのです。分かりました? 実体復活、心情復活という言葉を聞いたことがありますか? み言葉復活という言葉は聞いたことがないはずです。それは神様が決定することなのです。み言葉復活、実体復活、心情復活を経て来るのです。心情復活を経ずしては、男性としての本分を絶対に果たせないのです。

 こうして、神の公認を受けて出るとき、初めて神の祝福という門を開けて入って行くことができるのです。もう一度言うならば、エバを再創造することのできる、堕落した、理想の男性としての心情をもって、その人格、心情を中心として、み言葉を中心として、その理想の立場に再創造することのできる具体的な見本となるのです。それでは、相対であるエバは、絶対服従して、そこに一つになりうる基準まで従って来なければなりません。

 それ故に、今日、縦的な立場において息子の位置を決定し、その次に、中心から見る時に父母の位置を決定する立場なのです。それが一九六〇年度です。先生を中心として、そのような父母の位置を縦的に決定づけたために、復帰過程においてそのようになるのです。父母の立場を決定したので、横的な立場において「子女の日」の宣布がなされるのです。

 ​復活には、み言葉復活、実体復活、心情復活があり、それは先生を通して出て来たのです。​蕩減をしなければならない日がそうです。それがなされたために、初めて一人の男性を中心として祝福がなされ、新しい歴史時代に入って行くのです。従って、皆さんに対しては、父母が出て来たために、初めて新しい時代の息子・娘として祝福することができるのです。皆さんは蕩減路程において、先生のように実体復活の過程を経なくても、先生に付いていけば、それを先生が皆接ぎ木してきたために、皆さんはサタンの讒訴を受けずに、蕩減路程を経て行くことができるのです。

 宇宙統一の公式

 それでは、そのような「子女の日」は喜びの日ですか、悲しみの日ですか? 「子女の日」を迎えるようになる時には、父母を捜すのです。そうすることによって、「子女の日」が決定され、私たちは神に対することができるのです。そうでなければ、皆さんたちは、父母がなく生まれた孤児のような立場です。父母なくして生まれたのが堕落です。父母のある立場で、父母たちが死ななかったので、初めて正常な息子として生まれるのです。そのために、今やそのような基準を先生を中心として決定づけるのです。

 それで、一九六〇年度を中心として、「父母の日」、その次には十月を中心として「子女の日」までこのように始まったのです。子女がいれば子女を中心としてなさなければならないことがあります。子女を中心として十二人の息子・娘を捜さねばなりません。その次には、蘇生・長成・完成の三時代を経て、三十六家庭が出て来ます。

 そして、カインとアベルをすべて蕩減復帰させるために、七十二家庭が出て来るのです。そのようにして、一つの家庭を中心として、家庭的な環境を経て、家庭を一つの国家的な代表として立てて、更に世界的な代表として立てて百二十カ国、それを捜すのです。そうしたことは、皆さんがなさなければならないことですが、私が代わりに捜してあげるのです。そのために家庭が入って行き、社会が入って行き、万国が入って行くことのできるこの期間となったために、天と地が重なることができる時が来たために、新しい時代へ移って行くのです。これは七年路程を経て来ながら入って行くために、歴史はだんだん変わって来つつあるというのです。そのために民主世界も終わりが来たというのです。分かりました?

 ところで、皆さんは、どれほど「子女の日」の意義を深く知っているかというのです。先生が話をしてくれるのでそのように分かるのでしょう?
 ある人はこう言うでしょう?「あーあ、文先生はうまく装うものだ!」と。事実、装うことは、うまく装うでしょう。でも、いくら装ってみても、それ以上装うことができなければ、それは公式となるのです。公式になれば、法となるのです。そうではないでしょうか?

 公式とは何かといえば、ある一つの公式が百のものに当てはまるとすれば、百にすべて当てはまるモデルとなることができるのです。即ち標本となることができます。そうすれば公式となるのです。公式は別のものではありません。それ故に、どこにでも持って行って当てはめてごらんと言うのです。異常がありません。神が持って行って貼ったとしても、異常がなく、他の人が持って行って貼ったとしても、異常がありません。そして、世界の数多くの人がいくら研究してみても、これは公認しなければならないとなれば、結局最後には宇宙統一の公式となるのです。そのようになれば、統一の世界がなされるのです。ただ時間的な問題だけです。

 統一教会の精神

 そのために私は、今まで色々な悪口を言われながらも、堂々と耐えながら、このことをなして来ているのです。皆さんは疲れて座り込んでいるかも知れませんが、私は実に面白いです。世間に起きる、あらゆる事件が本当に面白いのです。これからこのようなことが生じなければならないのに、私は他のことを考えているのです。

 皆さんは、今見て別のことを考えています。復帰路程がこのようになっているのに、皆さんは別のことを考えています。そうではないでしょうか。そのような面白味があればこそ、生きられるのでしょう? 統一教会であれば、統一教会という一つの家における主人としての、父の立場があったために、統一教会の文先生は苦労をするのです。それもいいというのです。そのように苦労をすることまではいいというのです。しかし、その結果を見る時、共に喜ぶことができなければならないというのです。

 そのために、誰でも私の仕事、言い換えれば、皆さんの仕事に協助しなければなりません。もし協助をしなければ、その結果を見る時に、本当に感謝しなければなりません。そのような時においても、「協助することのできる道を行こう。」と決心できる、そのような材料としなければならないのに、「こうやっても、ああやってもいいし、ああしてもいいし。」と言うのは全部妨害になるだけなのです。このような事実を皆さんもみんな御存知でしょう。

 そしてまた、「時」というのは何かといえば、昔の原点を取り戻すことです。そうですか、そうでないですか?皆さん「時」は好きですか、嫌いですか?「時」となれば、どのようにしなければなりませんか? ここに生命をかけて苦労しなければなりません。苦労しなければなりませんよ。先生は、今日まで父の前に「時」を合わせるために苦労をしてきたのです。

 統一教会の精神を知らない人は、人ではありません。皆さんたちは先生が必要ですか、必要でないですか? 自分が必要な時以外には投げ出してしまうのです。そのために、先生は気分が悪いというのです。初めからそうであるならば、教会に入って来ない方が良かったというのです。そうでしょう。そうでないとすれば、この民族を復帰し、この国、即ち救援摂理の御旨がすべてなされる時まで必要でしょう?

 皆さんはどれほど必要であると思うか知りませんが、事実はそれ以上、もっと天宙復帰する時まで必要なのです。御旨のために死ぬ時まで、必要であればいいのです。そのために、「子女の日」に接するたびごとに、このように意義を考え、更に「子女の日」に対する意義を深く感じて、この日を捜し求めて来るまで、天はどれほど血みどろなゴルゴダの道を歩んだかという事実を深く知らなければなりません。

 そして、ここにいる皆さんは、億千万代において死刑宣告を受けた囚人と同じような立場です。そうではないでしょうか? 自然刑法によって、殺人強盗よりももっと大きな罪状の札が立てられているのです。このような囚人は自然の刑法によって死にます。他人が殺して死にますか? 自然の刑法によって死ぬというのです。人はどのように死ぬかという問題は重要です。故に、死ぬなら見事に死を遂げなければなりません。御旨のために働いて死ななければなりません。

 復帰時代は三点ですが、縦的には神様・先生・子女復帰であり、自然的に見れば、祖父・息子・孫まで結びつけて横的復帰が成立するのです。そのために、私たちは蕩減復帰をしなければなりません。この世的にしたいことを皆なして、どうして蕩減復帰の道を行くことができますか?

 道を行く時も、先生は昔は歩いて行き来しました。電車にも乗って行くお金がないからではなく、あらゆることにおいて、すべて蕩減の道を歩むことをなして来たのです。そして、そのお金でかわいそうな人たちを助けてあげました。なぜそうするのでしょうか! 人は祭物となる立場で、天の前に捧げる心のある人が、恵み(福)を受けることができるのです。

 祭物を捧げる立場まで出て来るためにも、復帰の道、即ち蕩減の道は歩まなければなりません。個人を蕩減するにおいても、自分自身では蕩減することができません。相対的な存在を立てて蕩減しなければなりません。

 その天的な存在が、この世に今まで出て来ることができなかったために、相対的な人物を立てて蕩減するのです。それが祭物時代です。次に相対的な、即ち蕩減することのできる実体が出て来たのが、実体祭物時代であるイエス様の時代なのです。その次に、最高の相対が何かといえば男性においては女性であり、女性においては男性です。即ち愛なのです。イエス様はこの地上に来られたのも、愛を中心として家庭を捜し求めようとしたのです。

 三時代の勝利者に

 では、どのようになりますか? 私自体においても、物質に対する祭物の過程を経なければなりません。そのために、私の体を中心として祭物の過程を経なければならないのです。サタン世界の愛を捨て去って、神の世界の愛を蕩減復帰しなければなりません。つまり、私自身が物質を超越し、肉体的な欲望を超越し、欲情を超越し、今までの現実的で感覚的なすべてを、一切を否定しなければなりません。そういう過程を経なければならないのです。それを否定せずしては、神を愛することができません。

 従って、神の愛を受けることのできる男性でなければ、家庭を持つことができません。女性も同じです。男性と女性が、皆同じ蕩減路程を経なければなりません。そのために、この世のすべての物質的なことを重要視する人は滅びるのです。自分を中心とした信徒たちが集まる教会は滅びるのです。

 従って、誰しもこのすべてのことを超越して、御旨に従ってゆかなければなりません。歴史的に見ても、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、モーセもそうでした。即ちこれを完全に捨てるのではなく、永遠のものとして取り替えるというのです。旧約時代は物質を蕩減する時代であるために、祭物をおいて天の前に出て行ったのです。

 今日、我々自体を見ても、旧約時代・新約時代・新約時代の三時代を経て、現在歴史的な縦的な時代を横的に蕩減しなければ、神の息子・娘となることができないのです。あたかも、イエス様がちょうどそうであったように、物質を蕩減し、私の体が御旨のために死ななければなりません。そのようにして神を捜し、愛を捜さなければなりません。それが復帰歴史なのです。このような過程を経なければならないにもかかわらず、何も知らず、反対しているのです。そうしていては滅びるのです。

 今日、蕩減復帰ということは、旧・新約聖書を中心として、私自身において完成しなければなりません。従って、皆さんは旧約時代の勝利者とならなければならないし、新約時代の勝利者とならなければならないし、成約時代の主体者とならなければなりません。

 こういう背景で見るときに、皆さん自体においては、旧約的な立場をとることのできる物質的な危険をたどって、体を犠牲にしなければなりません。このような隠れた秘密を知っているために、統一教会の人たちは今日までのいかなる教会の人たちよりも優秀であるというのです。

 ところで、ここには蕩減というものがあります。この蕩減を経なければならないのです。それ故、今日縦的な役事を、横的役事で蕩減して来るのは間違いないというのです。

 旧約時代は祭物、即ち万物を中心として蕩減していた時代であるために距離が遠く、新約時代には、息子であるイエスを中心として蕩減していた時代ですが、子女を中心として見れば、自分の実体の息子・娘なのです。息子を中心として見れば、神の心情圏内に入って行かなければなりません。ここにおいて、子女の立場を決定付けるのであり、ここで新郎・新婦の立場が始まるのです。旧約の祭物・万物時代を経て、息子であるイエス様を通して新郎・新婦の家庭を捜して来るのです。

 天国への入籍

 このような歴史が六千年をおいて下って来て、縦的な歴史が横的に蕩減されるために、皆さん自身が、御旨の前において物質を超越しなければ、御旨の道を行くことができません。また御旨を中心としてイエス様が「アバ、父よ!……私の思いのままにではなく、父の御旨のとおりなさしめたまえ……」と死んでも、十字架を背負いながらでも、感謝するのと同じように、皆さんも死の道を訪ねて行って、十字架の道を越えて、ゴルゴダの道を越えて行かなければなりません。

 即ち、ここにおいてゴルゴダの道を越えて行くのです。ゲッセマネの園を越えて行くのです。民族を代身し、世界を代身して、ゲッセマネの園を越えなければなりません。これが統一教会の指導方法です。峠を越えるのは、イエスと共に死んで越えるのでなくて、生きて越えなければならないのです。そのために、縦的な歴史を横的に蕩減復帰しなければなりません。これが六千年の歴史であり、七年路程に該当するのです。七十年を七年で蕩減するのです。これは公式的です。そのために、堕落した人間は、今日誰にとっても七年路程が必要なのです。

 それで、神霊的復興集団も七年だけ越えれば荷物をたたむのです。それを越えることができれば、いくらでも収拾することができるのです。そのために、縦的歴史を横的に蕩減するのであります。

 今までは、イエスと聖霊の役事、即ち祭物を捧げる時代でした。ところが、統一教会では父母が実体的に十字架を負うことをします。従って、この公式的な路程は誰もが皆歩まなければなりません。これから祭物を捧げるためには、自分のすべての財産を天の国に入籍させなければなりません。お嫁に行く花嫁と同じなのです。イエスは新郎であり、私たちは新婦であるので、すべてお嫁に行くのです。

 従ってお嫁に行こうとすれば、自分の物を全部持って行かなければなりません。この世の万民は新婦の立場であるために、すべての物質も相続圏内にあるのです。それ故に、我々は天の前に相続を受けることができる立場として、出て行かなければなりません。そうするためには、すべての物質を入籍させ、体を入籍させ、心情を入籍させ、このようにすべてを入籍させることがお嫁に行くことなのです。このようにして、イエスは結婚するようになるのです。

 このような立場で、先生だけがなすのかと思っていたでしょうが、先生は世界的な使命をなし、皆さんは氏族的な使命を担当しなければなりません。これはどれほど宇宙的な膨大な事実でしょうか。地上ではこのような事実を知らないでいますが、霊界ではこのような事実を知っているのです。この一日、即ち父母を中心とした「子女の日」をどれほど待ちに待ったか知れません。我々はこのような子女の日を迎える度ごとに、更にこのような意義深い意味を胸深く刻まなければなりません。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.05.14 22:18:49
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