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2021.05.25
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​​​​​​​​​​​​​「生涯において何をなすべきか」

1970年9月27日
ソウル本部教会


 今集っている皆様の中には、年齢的に見て、いろいろの人たちがいるでしょう。三十代、四十代あるいは六十代の人々もいるでしょう。しかし、年を取ったといって失望する必要はありません。今まで過ごしてきた自分の生涯が自分の理想としてきたところまでいっていないとしても、決して失望してはなりません。そういう人たちは、より一層努力するため全生涯を集約的に整理して、民族と国家と世界のために投入する準備をする必要があります。また、二十代、三十代の若い人々は、国家のため、全人類の歴史のために、大きな希望を抱いていることでしょう。しかし、希望を抱くということだけでは問題になりません。

 問題は、我々が環境に支配されるのではなく、環境を支配しながら、あるいは環境に影響を与えながら、寂しい人々を慰め、無力な弱い人々に力を与えつつ、未来のための希望を彼らに提示しながら、自分がいかなる生涯を送るべきかという点について深く考えなければなりません。もし、我々統一教会の食口たちがこのようなことをしなければならない天命を受けているとするならば、我々は生涯をいかに送るべきであるか――これが重大な問題になるのです。

 ここにおいて、皆様は歴史の復活体にならなければならないのです。

  理想と現実

 この国で生涯を送ったのち、死んでいった我々の祖先たちのことについて考えてみましょう。彼らは、この国がアジアにおいて、かくも弱い国家として存在することを望んだでしょうか。(彼らは)もっと富強な国として栄えることを望んだのであり、また望んでいるのではないでしょうか? それでは、果たして我々の祖先たちが希望としてもっていたその理想を、この地上で、いつ実現させてあげることができるでしょうか? 我々はその希望を実現させてあげる実体としての条件を、この地上においてつくり上げなければならないのです。これが問題なのです。

 それゆえに、我々は国民に希望的刺激を与え、彼らに未来に対する新しい希望を与えなければなりません。こういう点において、我々は確固たる主体性を保たなければならないのです。しかし、果たして今、皆様がこういう実体になっているか、これが重大な問題なのです。

「私でなければならない。少なくとも私が受け持っている分野においては、私でなければならない」――こういう自信をしっかり抱いて、自分の周囲をして協調せしめる、そういう立場に立っていなければならないのです。こういう立場から現在を眺める時、我々は果たしていかなる作戦を展開させなくてはならないか、これがまた問題となるのです。

  死んでも復活せよ

 正常的な作戦をするか。すなわち、宣戦布告をして戦うべきか。「我々は、これだけの十分な数と力をもっている。それだから、君たちと一つ戦ってみよう」、こういう態度を、今の我々が果たしてとることができるでしょうか?

 いまだそういうところまでいっていないのです。それではどういう作戦をとるべきか――我々にとっては、これを成し遂げ得るに、ただ一つの作戦しかない。それは奇襲作戦である。

 いつ、それを敢行すべきか――真昼に奇襲作戦を行うべきでしょうか? そういう人はいないでしょう。真夜中にやるのが当然です。真夜中といってもいろいろあります。静かな真夜中と、嵐が吹きまくる真夜中があるとすれば、我々は嵐が吹きすさぶ真夜中に作戦を敢行するのです。誰もが嫌い、誰もが動こうとしない真夜中に攻めていくのです。

 こういう道は平坦な道ではありません。険しい山の絶頂を登るような道です。いばらの道です。生死を決定する最も険しこに違いありません。そして、特攻隊でなくては、このような道を突破することはできません。今の、この国の中で、誰が、どの団体が、この特攻隊になり得るでしょうか。それは我々統一教会の食口たち以外にないのです。

 それでは、我々はいったいどのような精神的態度をもって、この道を突進しなくてはならないでしょうか。敵陣に攻め込む途中、あるいは敵陣に攻め込んでいって、「そこで死んでもいい」――こういう態度ではいけません。「我々は死んでも必ず復活する」――こういう自信のある精神的態度をもって、これに臨まなければならないのです。結局はこの問題に帰着するのです。こういう確固たる態度でなくては、そのような難しい使命を全うすることはできません。我々は、このような信仰の道を歩かなければなりません。あくまでも信仰を通して行くのです。信仰的希望を抱いて行くのです。どれほど長い時間がかかっても、この道をたどって進まなければなりません。

 我々一代でこの使命が達せられない場合には、遺言を通して後孫になさしめてでも、これを成し遂げなければならないのです。それでなければ、天の遺業を完成するという、我々の使命は全うされないというのです。

 一人残されても

 このような立場から考える時、統一教会の歩むべき道は決して平坦なものではありません。誰も想像もできないほどの奇跡を通して、勝利しなければならない我々の運命であるということを、皆様がはっきり自覚しなければならないのです。こういう点から、我々は、新しい立場で我々自身を見直し、また批判しなければなりません。統一教会を指導している者もそうでなければならないし、また指導者のあとをついて行く皆様もそうでなければなりません。我々はこの目的のために生き、この目的のために死ななければならないのです。あらゆる努力を、この目的のために集中させなくてはなりません。

 こういう道を歩む時には、必ず多くの犠牲者を出すという事実もよく分かっています。最後の一人となるまで我々は戦わなければなりません。全員が犠牲になって、たった一人残されたと考えてみましょう。そういう時にはどうするか。敵と共に死ぬのではなく、天の父と共に死ぬのです。そういう人が知恵ある人です。

 天と共に行こう

 イエス様がそういう生涯を送ったのです。イエス様はあらゆる境遇において天と共に歩いた人でした。

 こういう道のみが、歴史を受け継いでいくことのできる唯一なる新しい伝統の因縁を、サタンの世界の中に根深く植え付けることができる道です。それは、イエス様が最後に、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いながら死んでいったその態度の中に、あらゆるものが含まれているのです。それゆえに、我々は天の意志と一致するそういう道を歩かなければなりません。我々にとってはこの道が、一番正しこに違いありません。

 イエス様がそういう道を歩かれたために、彼の理想は歴史と共に動いて、今日の世界に重大なる影響を与えているのです。イエス様がそうであったために、キリスト教は世界的な宗教として発展しなくてはならなかったのです。こういう宗教は決して滅びません。そういう宗教的な道が勝利の基盤をつくり上げ、伝統のきずなを固く植え付けることができる唯一の道であるということを、我々ははっきりと知らなくてはなりません。今日において、我々統一教会が歩いている道もこれと全く同じ道です。我々の教会は、世界のために建てられたのです。世界の生死の問題を解決するために建てられた教会なのです。

 この国には三十八度線が置かれています。しかし、三十八度線よりももっと大きいものがあっても、これを解決する覚悟がなければなりません。今、我々が深く考えなければならないことは、この国の三十八度線は問題ではないということです。中国とソ連の三十八度線がまだ残っているということを忘れてはなりません。韓国の三十八度線は、将来、中国あるいはソ連の三十八度線を取り除くための、一種の予備訓練のためにつくられたものなのです。もし、我々がこの国の三十八度線を解決し、さらにこれを乗り越えて、第二、第三の世界的な三十八度線を解決するとするならば、我々は新しい世界に対する主体性をもつことができるでしょうし、また新しい世界の方向を提示することができるでしょう。それゆえに、我々は世界的な共産主義を徹底的に撃破できる実力をいかにして保つことができるか――これが問題なのです。

 共産主義は、今まで偽装戦術を使って世界的な侵攻を敢行してきました。これはあくまでも、サタンであるということを、我々ははっきり知らなければなりません。悪を中心として活動体系を整えてきたのが共産主義です。これは確かにサタンの業です。このようなサタンに対して、我々が果たして勝利し得るか――これが問題です。

 生涯を通して何を残すか

 一方、我々としては、個人として成功するということよりも、世界的な、歴史的な、天宙的な、広大なる目的に対して貢献することがどれだけ重要であるかということを、はっきり知っていなくてはなりません。

 ただ、食べながら生活していくことは誰もがみな同じです。しかし、問題となるのは、我々がいかなる生涯を送っているかということにあります。生涯を通して何を残すかということが重要なことです。また、何かを残すという点においても、これがただ一つの国のためであってはいけません。統一教会的な、統一教会式の何ものかを残さなくてはならないのです。統一教会的なものであっても、これは世界的なものでなければなりません。三十数億の全人類が両手を挙げて歓迎する、そのような世界的なものでなくてはならないのです。

 こういう我々の態度に対して、今日では共産主義者たちも非常に恐怖を感じています。共産主義者たちは非常なる憂いを抱き始めました。このような憂いが高まるにしたがって、彼らは第二の戦線、第三の戦線を敷くでしょう。しかし、我々は決して負けてはなりません。絶対に負けてはならないのです。どういうことがあっても勝たなければなりません。勝つためには、彼らよりも、もっと強い装備を整えなければなりません。生活力においても勝たなければなりません。一から百に至るまで、すべての点において彼らより優れていなければならないのです。これができれば、問題はごく簡単です。

 しかし、現実にはこれができていないのです。それゆえに、我々は負けても勝つという戦法をとらなければなりません。負けるのにどうして勝つことができるでしょうか。これが天の父の戦法です。

 打たれて勝利する道

 歴史上から見て、善人たちは常に打たれてきました。聖人たちも常に打たれてきました。ただそれだけを見ると、彼らはみな負けたような姿でした。しかし、彼らは決して負けたのではありません。彼らは必ず最後の勝利を勝ち取るようになっているのです。これが天の戦法です。イエス様もそのような戦法をとられたのです。それゆえに、我々の歩む道は決して平坦ではありません。苦痛と受難があふれている道を我々は歩いていくのです。平坦な道を歩もうとする者――そういう人は、天に対しては反逆者であると考えて間違いありません。

 我々の統一教会におきましては、特に、個人的な利益のために走った人々はみな消え失せてしまいました。他人が見ていようと見ていまいと、国家のため、世界のために黙々と働いている場合、そういう人々は言葉の約束がなくても、深く深く一つに結ばれていくのです。それゆえに、祈りにおいても、人の知らないところで祈祷をすることが最も大切です。見えない至誠を尽くすことが大切なことです。そういう人が最後まで残る人です。そういう人が最後の宝となるのです。

 統一教会はそのような人をつくり上げるために、一生懸命になっているのです。千万人を代表し得る信仰の実体をつくり上げるため、我々は骨を折っているのです。こういう方法をもって、我々は初めて天を解放することができるのです。それゆえに、我々は、自分一人が肥料となって、天を解放し、後孫たちを解放させる覚悟を決めなければなりません。

 一人山頂に残って、涙を流す――天のために嘆くその人は、世界の平和をたたえるその人よりも、もっと深刻なる人です。こういう意味において、イエス様のゴルゴタにおける三次の祈りは、いかなる祈祷よりも深刻なものであったのです。そういう人がいる場合、天は彼を取り巻いて深い関心をもたざるを得ないのです。そういう人が、全人類の希望の的となっていることを我々は知らなければなりません。そういう人を中心として、天は動くのです。

 自分一人の利益のために生きる人は光を残すことはできません。しかし、国家のために、世界のために、天のために生きる人は復活圏内に入ることができるのです。最後まで残る唯一なものは天です。ゆえに天のために生きる人が最後まで生きることができるのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.05.25 22:30:39
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