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奇   知   外   記

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2021.06.11
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​​​​​​​​​​「命がけの伝道」

一九七一年三月十四日


 救わなければなりません。おいておけば地獄に行くのです。間違いなく行くのです。サタンが引っ張って行くのです。そのためにこれをふさいでその人を救うために真心を尽くすと同時にその人に会いたいのです。ごはんを食べる時も、いつもそのような心が責任者自身の心でなければなりません。

 命がけの伝道

 昔は統一教会の先生に対して色々とうわさがあった。統一教会に行けば、ほれてしまうか、あるいは暗示にかかるかするうわさがある。そのうわさが出るのは、人間の造作でできるものではない。責任をもったものがその生命のため生命をかけて尽くさねばならない。待ちに待つと門の前にたずねてくる足おとのように、紙一枚の音でもきこえてくるのです。この世で男女が愛する異性の愛が問題ではないほどのそのような心がめばえなければならない。そして夜を徹して祈れば来るなといっても来るようになる。そのために、市場に行こうとしたおばさんとか学校に行こうとした男達も、そのカバンをもって学校に行くとか市場に行くとかいいながら、自分も知らずに教会に来るのです。そのようなことが行われるのです。そのように皆様が生命をかけて談判祈祷をし、生命をかけて生命を救うために闘ってみるか、計画をたてて、一カ月の内にその人がこれを感じなければならない。

 さあ! 天が私と共にするのだ。生活圏の中において天が私と共にすることを感じるのである。又、その人と会えばせつない思いがうかぶので、話すことばは心配をしなくても話が自然に出る。その人に対し何の話をしなくても良い、会うだけで十分である。

 その人が来ても早く帰ってほしい、もう時間になっているのに早く帰ってほしいというような思いをもっている人は、伝道をしてもそれは何にもならない。帰りはしないかと五分でもまもっていてほしい。私達の世界では、男、女、皆な遊んでいきなさいといって、男なら上着を引っ張りたいし、女ならスカートを引っ張りたい。そして帰るとなれば、なつかしい悲しいそういう心情を味わわなければならない。それはお父様の心がそうであるから。今この人が何時間たてば完全にまわってくるのにそうならないその時、神はどれほど悲しく哀れだろうか。そのような心情を味わう場において伝道をしなければならない。そのようにして計画をたてるのであります。あの人は私は一年間で伝道をするといって談判祈祷をするのである。すでにわかるのである。必ずその人の背後には霊達が接しているので、接している霊を中心として全部整理しておけば、その人一人によってその村が動くのである。全部この雰囲気をつくっておけば豊かになる。そして皆様がその行動においてその人が私を待っているのかどうかすぐにわかる。そのような体恤的信仰生活しなければ天が私と同じ生活圏内で共にすることを知ることができないのであって、いつもやっている中においては味わうことが出来ないのである。動機がないのに結果があるはずはない。先生を慕うということがあるが、それはただそうするのではない。思慕することの出来る動機の実体がある。植えることをしないで収穫を得ることが出来ましょうか。主体と対象は必ず相応ずるようになっているのに、その動機が完全であればその結果は完全なものである。そして生命をかけて生命の動機をもたねばならない。

 伝道対象を選ばない

 皆様が伝道をする時には、若い人だけを伝道しよう、出来るだけ大学を出た人だけを伝道しようと思うかも知れないが、そうであってはならない。人を区別してはならない。ただ私がその人に真心を尽くさねばなる真心を尽くせるかということが恐ろしいのである。人に対して伝道する時、口で伝道する時、よくきけばそれは天でありよくきかなければ裁きである。恐ろしいのである。責任をもって伝道をして、医者が注射をすることによってその人を生かすことが出来るかというような深刻な問題である。生命をあつかうのは簡単ではない。あの人がああいう立場の人で私達教会のために利益になるから伝道する、そういう考えをしてはならない。教会の利益を天はたずねるのではなく個人の生命を天はたずねるのである。一人一人たずねて教会をなすのであります。それで老若男女をとわず人間は人間としての価値を認めなければならない。その人がいくら年をとって今にも死にそうなおじいさんでも、その祖先が善であるならばそのおじいさんと関係されることによってその人がそのおじいさんが功をたてないとしてもそのおじいさんのために真心を尽くした人が代わりに功を引き受けて天の使命を受けることが出来る。何の話かと申しますと、そのおじいさんは老いて力がなくて仕事が出来ない、しかしその祖先は極めて善である、その後孫を通してきている民族的なあるいは国家的な先祖の功績があるので、その後孫を通じなければならないのに、そのおじいさんは老いているが故に出来ない、という時にはそのおじいさんの為に真を尽くした人がその先祖の功を引き受けて代わりに立つことが出来る。

 真をつくして

 人をあつかうのに車をあつかうようにしてはならない。優れていようが、おろかでいようが、顔が良いか、そんなのによってはならない。どんな人であろうとも、私が尽くすか問題はそれである。今私は直接的にそんなことをしてはおりませんが、昔、特に祈祷をする人、山の中で祈祷する人達が、あるいは千日祈祷あるいは十年祈祷した者達が訪ねて来る。私はその人達を全部知っている。あの人はどんな人であるか全部知っている。知っているといって、そのまま対するのではない。その人が歩んで来た時からずっと知ってあげなければならない。大学の教授であるならば、その大学の学生を中心として小学校中学校を経て来た学生としてみなしてあげなければならない。それと同じようにそれは全部知ってあげて、その人が百点位功をつんだならば、その百点位知ってあげなければならない。全ての存在の世界には位置がある。人がやったことは理解してあげなければならない。苦労したのに対してはほめ、それに対しては全部を天に対することをやったその代わりに、これからより高めることの出来る次元のことをやれと命令する。その命令は喜ばしい命令ではない。漠然たる命令であり、以前よりもっと苦労するものである。これがより次元の高い出発である。これに負けてしまえば入るとき沢山もって入ったとしても出て行くときは何ももたずに出てしまうようになる。

 そのようなゲームが始まるのである。そのために人を真に誠意をもって対したかどうかが問題なのである。もし間違ったら、対人関係というのは全部審判の過程が始まるのです。その人が良いことを言えば良いことを言うことによって私が善となりうる結果となり、一言間違えばその生命の侵入をうければ私が天の前に公判されるのである。深刻な問題である。

 そのために明日何時に行くといったらその時間に行く。人間同志も約束を守るではないか。プログラムを定める、皆さん伝道する人が、一週間分、二週間分、三週間分、プログラムを定める。だいたい人は三人のうち一人立つ。それは原理がそうであるためである。天と四位基台をなす天地創造が三数となっているのであり、天を中心として三段階になっているのは創造の法則である。必ず一人を選んで立たせるためには、似た三人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人でしょう。全部そうである。それと同じく必ず伝道して立てようとしたら三人を中心としてみると三×三=九、十数をとるのであり、三十六名、その中でさがさなければならない。

 反対する人には

 反対する人も捨ててはならない。積極的に反対していた人達も第一次において、牧師であれば牧師、長老だとしたら、初めは訪ねて行っても追い出されたとしても、又訪ねて行き、その時は一歩遊んで入っていく、そうしたら怒り出す。わざとそのように怒らすのである。作戦をするのである。伝道に行くのではなく作戦をたてるのである。血気に満ちて牧師は追い出す。

 次も、前よりもっと一歩を進んで入って行く。こうなると牧師はいくにいかれなくなってしまう。血気も飽和状態になってしまう。その次は「イエス様の愛でもって伝道しなさい」といった牧師がこうであってはならない。祈祷しようと思うときこう悔い改めなければならないという思いがする。そうなるのである。そうなると、天の父よ、統一教会のおよめさん方が来たのに私は門前払いをして天が喜ばれることでしょうか? 敵を愛するのがイエスの教えである、その後血気になりきった時飽和状態に入ればこれを続けるのでしょうか? それともくだっていくのでしょうか? 続けられれば良いが、続けて行くよりもくだっていくのが多い。その時になれば私があまりひどすぎたその時はぐっとついて行って、牧師様お元気ですか、と訪ねると、その時はひっかかるようになる。うしろに一歩さがれば追ってくるのである。それは間違いのないことである。そのため三十一日以上自分があまりひどすぎたということを感じるようになれば必ず頭を下げ、まず言葉でもって蕩減するのである。だから反対する人はより早い。こうでもなく、ああでもない、そういう人はどうしようもない。甘かったら甘い、からかったらからい、どちらかにならなければならない。そのために一回、二回行くだけではならない。十回、百回、行かなければならない。にこにこ笑いながら伝道に行くのではなく、牧師様、長老様の人格テストに行くのである。天が共にすることが出来る。私は反対する人の家に行って、一年間ごはん食べながらねばった歴史をもっている。一年六カ月、そうなれば刃でうち殺したい気持ちにもなるでしょう。しかし私が誓った目的のために私の道きれてしまうことがあっても、やることはやらなければならない。ごはんを乞いながら、食べてもやらなければならない。それは私のためでない。その人のためである。おなかがすいたのが問題ではない。私のために苦心するのではなく、私でも楽でない。私も苦しくて死にそうだが、相手はもっとそうである。私のためにその家庭が大変である。はたんがおこるのである。結局はそれは天から恵みを受けるようになるのである。私が天の前において、サタンの前において堂々たるものであるためである。私がごはんを食べられなくてそうするならば罰をうけるであろう。私が何かを求めてやるのではなく、その人を救うがためである。そのために体面をのりこえるのである。こぶしがとんで来ても、たえていかなければならない。そうして、そのような人達をずーっと屈服させるのである。あの人は何度であり、あの人は何度であるというように計画をたててやる。

 私は人のためにこのように誠意をつくした。私の一生のうち一番誠意を尽くした人はその人の全部を知るのであります。皆さん、それをもっていますか。夜を徹しながら涙を流しながら、自分の妻が死んだよりも悲しみ、自分の子供達が死んだというのは問題ではない。天が必要とする人を探し出すためには、私の子女達に使命をすることを願わざるをえないことをみれば、涙と生命を惜しんではならない。そうしてみましたか。そうでないと、あの世に行ってもびりですよ。びりだから、そのような訓練をしなければならない。そうだとすれば行く道が迫害を受ける道が喜びの道である。おなかがすいたのが問題はでない。いくら千万人全部が後退したとしても、自分一人堂々と生きた神を証しうる、子孫とその機会をつくることが出来る。

 天に同情されるように

 自分を中心として、自分がお金をもらえば喜ぶ。そうである。損害を与える人を好む人がいるか。利益を与えなければならない。先生の生活は今もそうである。自分が今、夕方帰って来るとき、疲れて目が痛くなる時、そうであればあるほど苦痛である。その時、今日私は何のためにこんなに疲れたのならばそれは考える必要はない。公的路程に立っているため、天の前に私が損害を与えてはならない。天の前に利益を与える道を行けば、天は私を思わないで下さい、といっても天は思わざるを得ないのである。そのためにいつも必要なことを皆さんは知らなければならない。いつも天の前に同情をうける者にならなければならない。皆さんが行く路程において、皆様が歩む路程において、孝子の路程がそうであり忠孝の道がそうである。例えば、一生懸命に勉強している息子にその母さんが、もうそのぐらいにしなさい、その時親の言うことをきかなくても孝子となるのである。公的道はそれと同じである。父母のいうことをきかなくても孝子となるのである。国のいうことをきかなくても孝子となる。国の法を守らなくても孝子となる。憲法を無視しても堂々と善なる生活が出来るのである。キリスト教信仰の基準は世界のために死ぬ。貴いもののために死ぬのである。このためにその国の主権国家の法治国家の法を守らなければ、個人的にその法を中心として首を切られそうなことでも堂々とその世の法の処置をうけず残って、後代の勝利圏をもって報われることが出来る。それは自分の利益を探し求めていく群れではない。この世においての友達の間においてもそうでないでしょうか。損害をうける友達を好きなはずがない。一回、二回、三回になると、さっと変わってしまうのである。父子間もそうではないか。自分のみを中心として愛を欲求する人は必ず切れてしまう。一方的なものではダメである。それが自分のみのためではなく、これからより尊い家庭のためであり、二人が利益となる共同目標のために愛を追求しなければならないのに、共同目標なんかどうでもいいから私を愛してくれなければならないと。

 真を尽くしてごらんなさい。そうして全部土台にしなさい。真冬でも寒い部屋で祈祷すれば、手足が感触がなくなってしまっても、汗でびっしょりになるようにやってみなさい。その村がほめるであろう。そうなって初めて天が共にするのを知るのである。そのために皆様が計画をたてて天の前に談判祈祷して、私がこうやります、そのような訓練をして実践的生活圏内において最後をおさめさせることによって信仰が人格となり、初めて天の人となるのである。本当にあんた達はなってない。今でもどこへ行っても、先生の生活はそうでない。一人ですわって心で祈祷する。そのために今日までも統一教会がこのぐらい残っている。それが土台となっている。そういうなまける群れは真を尽くさなければならない。人に会いたくてどのぐらい夜、涙を流したか。この世は愛が必要である。その生命を救うため会うために、夜を徹して祈ったことがあるか。皆さん、どんな気分かというと、特攻隊が敵陣に入って、自分の味方が牢屋に入った時、ヘリコプターをもって急速に起こすような気持ちである。時間との闘いの中に人をのせるようなものである。一人の生命を救うためには、そのような時間の戦いの過程を通らなければならない。

 統一教会の伝統

 今、統一教会に残っている群れは、私が真を尽くした人達が残っているのである。その他は皆商売人である。それでは、その時先生が自分達に教えたその伝統はどうなっているか。ねてもさめてもその通りやらなければならない。あなた達が今やることをやらないで寝られるのか。蕩減条件がいくらでも残っているのに、それをそのままにしていびきをかきながら寝ることが出来るのか。とんでもないことである。そのようなものであるなら私は苦労しませんよ。迫害を受ける必要もない。牢には何故入るか。原則はどんなことがあっても原則通りである。そのために皆さんが人をどれほど愛したか。私が大韓民国の国のために青春時代から、このソウルの都市のために涙を流したのである。何故韓国はこうでなければならないか。何故統一教会はこうでなければならないか、と。そして排斥される中において、これが押し出して出て来たのである。

 生きた神様が皆様と共に動いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。これがあって疲れ果てることがないのである。皆、伝道に行って一年もたたないうちに、何日もたたないうちに、ああ! おなかがすいてたまりません、寒くてたまりません、それが問題でない。お母さんが死ぬし子供達が死んでいくのに、寒いと感じるのか。そのような心情を持たなければならない。国のために火花をちらすこの瞬間に、血と涙の出る歴史的な恨みをはらすこのチャンスをのがしてはならない。ごはんが問題でない。それが出来なければ時を失うのである。その意味で、この路程に従って行かなければならない。

 今この家に約五千万ウォン入っているが、それを私が全部火をつけてしまったとしても、ちっとも惜しくない。そうした時、地域長達、「私達は麦御飯を食べているのは、あれは何のざまだ。ああいうお金で私達に給料をくれて助けてくれればいいのに」と思う地域長はおばけのようなものである。そういうのは流れて行ってしまう。何が最も大事であるかを探し求めていくのが指導者達の行く道である。知らない者達がいろいろと言うのである。私を倒そうとしても倒れる私ではない。そのためにますます交叉がはげしくなるのである。家庭を中心として、婦人達も、祝福を与えながらいっかは仲良く生活するように、と言いながら、これは何だ。出来ないことは出来ない。なすべき責任があるから全部出させたのである。あなた達は自分達の婦人達を送っておいて、その子供達が母を慕うより以上に私は思っているのである。皆さん、責任者というのは人をだましてはいけない。それは後退するのである。来て損害を受ければ残るものはない。この原則をもって、皆さんは伝道をしなければならない。与える時は真を与えなさい、真なるものを与えなさい。原則というのは誰かの食べ残しではない。自分の兄弟達に与えずに何になるか。一番貴重なものを与えたために、それに報いなくてはならない。死も覚悟して行かなければならないのが統一教会の道である。

 伝道の楽しみ

 皆さんがこれをして人のために伝道してごらんなさい。天が共にある道を知るのに一番早こはそれしかない。皆さんは子供を愛するという言葉を知っていますか。今、とってもみにくい、愛らしい所は一つもない大木のようなおばさんでも、子供など生めそうにもないおばさんでもその子供を生んだら、そのおばさんからも鼻歌が流れて来るようになる。子供を生んでみれば、その大木のようなおばさんでも、自分の子供は愛することを知っている。子供を生んでみなければならない。それと同じである。天の愛があるかどうかわからない。天の人格的価値が私にあるかどうかわからないという者は、生命を生んで育ててごらんなさい。愛が湧き出ずるものである。伝道するために誠意を尽くし、そのために私はお腹がすいてぐうぐう鳴っても、その人がごはんを食べれば、私が食べた以上におなかが一杯になって喜んで、忘れられるところがあるんです。そのようなものをながめる時、元気が出るのである。伝道以上、私が昔み言をもって食口達を育てる時のおもしろさ。私が三十分だけ話をすれば変わってしまう。夜通しずっと話をする。そうするとクライマックスになって一度に変わってしまうのである。今夜十二時になって、一時、二時、二時四十分、三時、四時の時報がなって、ああ、もう眠れなくなるのに、そのようにして時間をみて計算するようであってよいものだろうか。一秒だけでも、四時五時になっても、眠れなくっても、その生命を救う。その死んでいく生命を生かすその偉大な快いことは、一晩眠れないのが問題でなく、何日食べなくってもそれは問題ではない。そのおもしろさを味わいなさい。それを感じる者でなくては、天の役軍となることは出来ない。そうするためには、誠意を尽くさねばならない。真心を尽くしてやりなさい。計画を立てて、皆さんが自分の一生のうち何年間、一つの生命を中心としてやっているか談判祈祷しなさい。してみなければならない。この道を行くなと言われるのが一番こわいのである。それを為すなと言われるのが一番こわいのである。

 責任者は自分の思い通りに生きられない。統一教会の文先生は、自分の思い通りに生活しているようにみえるでしょう。皆さんの前では思い通りに生活しているようにみえるが、先生は絶対に自分の思い通りに生活していない。そのために皆さんはこれを知らなければなりません。先生が一番初めにこの道の開拓に出る時の目標、「宇宙主管を願う自我主管」、それが第一の標語である。人は宇宙主管を立てる。そして自我主管を立てるのである。一番おなかがすいた時、私の生の交叉路には、ごはんのため死ぬのであるか、国のため死ぬのか。天であれば天のみ旨を中心として死ぬのか、それが問題である。逆らう者となるか忠者となるのか、ここで分かれるのである。おなかのすいた時、あなたは何と生命を交換することが出来るのか。

 先生はいつも空腹だった

 おなかがすいているのか、この奴め。先生は三十の壮年の時、おなかのすいていない時はなかった。しかし、この道をととのえて来た。先生は青年時代に他の人と同じように、よいものを着て食べたとしたら、天国があるでしょうか。悪い服を着て、良いものをつけている人達を救い出しなさい。そのために私が三十歳前には新しい服をつくれなかった。私の統一教会の歴史と伝統はそのように流れ来たのである。

 寝てしまう時がある。○○いるか! 南に来る時八十里の道を歩く時、荷物を背負って居眠りしながら歩いた。それは如何なる時であるかを知らないからである。眠りがなんだ。行く道がふさがれば国の運命が左右され、世界の運命が左右される。そんなところにおいても眠りが来るのか。自分一人で死ぬのなら問題にならない。皆さん、これを考えなければならない。天下太平であるんだな。先生はそのような深刻な日を過ごしながら、皆さんが今このように説教を聞き、今まで問題を起こしながらも歩んで来て、それでも皆さんが大事に思え、そのように大事に思えるのは誰のためかというと、かわいそうなのは統一教会の文先生でいらっしゃる。先生がかわいそうで、かわいそうでと痛哭するだろう。そうか否かみてみなさい。それは何故そうなのか。皆さんは知らない。絶対に負債おわないことです。みなさんは統一教会に来ていくら伝道したか。私の一生の問題をかけて、生命をかけて、イエス様もそうであるように、ゲッセマネの祈りの時、いかになったのか。父よ、この十字架を出来ることなら私から取り去らせて下さい、しかし父よ、あなたのみ旨通りなさしめて下さい、と三度も血と汗と涙を流しながら談判祈祷をなさったのである。そのそばでは居眠りをしていたのである。それは知らないからである。皆さんが息子娘を愛していき自慢する時、そのような時も時間を惜しまず伝道しなければならない。

 家庭を中心として夫達は、妻達が伝道に出ているのに、夜眠れるか。同じ立場で内外共に真をつくさねばならない。皆さん、神学的に言えば、イエス聖霊を送って働く時、イエス様は昇天なさって聖霊を送ったでしょう。それと同じ時である。新郎が部屋の中に入っていられようか。妻達が働くのに対し激励してあげるし、なぐさめてあげるし、手紙を書いて今日の教会のこと、我家においてはこのようなことがあったとか、その手紙を見て温かい情を感じることが出来る。夫がわかってくれているし、別れて生活してみると素晴らしい。手紙はたくさん書いてくれるし、子供達に話をしてあげたり、そのようになれば何と楽しくおもしろくなるでしょう。しかし、このような道は歴史をかえ、後孫達がその先祖の功績を讃えることの出来る尊い土台を築くのである。何と素晴らしいことか。

 皆さん、死んだ後に皆さんの墓の前で三日以上泣いてくれるような信仰の子女がなかったら、それは大変なことである。まあ、私が死んだら涙を流す人がいるかどうかわからないが、踊りを踊る者もいるかも知れない。韓国の人がやらなかったら日本の人がやるのである。そのような自分達になろうとするのですか。だから皆さん、これを知らなければなりません。

 善は全ての人々を利用するのであり、永遠に人類を利用するのである。利用されるのは何故か。それは亡びるのではない。その伝統を受けついで、如何なる時に我が祖先が人類のために死んだので、我は祖先の如くしたい。善のために助けるので、天の前に利益となる。天の前に利益を与えたので、天はその後孫に福を与えざるを得ないのである。天もよく、人間もよい世界がおとずれて初めて天国が来るのである。天は悲しみ、人が喜ぶのは、これは地獄である。両方が喜びあえるこの道を通じなければならない。善を立てるために全ての犠牲の代価を払うのも、この世界を動かすことの出来る善の内容となるのである。統一教会の者は三十代の時は苦労をさせる。殺したい気持ちになるかも知れないが、天は作戦を知っていらっしゃるため良くやった。今も天が私の前に現れて、文誰々よ、あなた自分を愛し休みなさい、そのぐらいやったら家も建てるし、良いくらしをしても良い、と教えた。

 先生の伝道方法

 皆さん、誠意を尽くさねばならない。皆さん、死ぬ前に財産をつくらねばならない。国のため、み旨のため、皆さん、それがあの世にいって財産となるのです。そのような功績が皆さんの伝道路程において、その生命を救うことの出来る一つの土台となることを知らなければなりません。わかりましたか?(はい) そうだったら、そうやってみなさい。

 先生が学生時代には昌○園のような所ではたくさん伝道したことがある。火をたいてそれを囲んで、高校時代の学生の時には他の人とほとんど話さないで、先生の友達にした。今もそれを思い出す。帽子を手にもって三年間伝道した。その間も友達が来て、あの人は誰だろう、自分の友達だ、そんなはずがないのに、しかし学校に行っては何のこともなかったようにする。人が出来ないこともやってみなければならない。御飯もよくもらって食べたよ。乞食のこともやってみた。貧民窟でも生活したことがある。炭坑地に行って石炭を掘ったこともある。全部やってみなければならない。塩田に行って塩かますをかついだこともある。今も、手ぶらで労働者の中へ飛び込んで三十分だけ働いても、全部私の友達になれる。昼食になると座ってみる。この野郎どもはこのようなことをやるのか、私は観相もよくみる。貪欲が多いな、根性が悪そうだ、整っているな。統一教の先生になったな、その時のあの人が統一教会の文先生になったとは夢にも考えられない。研究してみてもわからない。座ってずっと話をするし、すっと一つの映画の主演俳優として座らせておいて喜劇俳優となるのである。労働者の笑いはまた奇妙である。つばをながしながら、その時はまたそのようにふるまうのである。このようにして三日たてば私の友達は多くなる。自分の家に来て下さいと、朝から来て願った。そしてその人について行ったならば、ますで作った家で、門がない家で、その時は二月で寒い時であったが、布一枚かぶって子供一人もって生活している、かわいそうな労働者であった。妻を見たら話にならないほどである。その家に行って、その家が私の住居である、いびきをかきながらぐっすり眠らなければならない。ああ、神の威信がどうなるか、私の威信がどうなるか、体面がどうなるか、威信なんかそのような時はちょっと待って下さい。そのようになれば、その家の居室のおじさんとして行く。三日間いればそのおばさん(主人の妻)が、私、もう帰ります、と言ったら、まあ、いらっしゃらなくてもいいです。こんなにお客に対して冷遇する所があるか、と言ったら、まあ、すいません。もっといさせたかったらパーティを開きなさい、と言ったら、そのようにもする。そのようにも生活出来る。

 だから若者は三十歳以前は万事において苦労させる。それは私が築いた修練であり、私が築いた生活哲学である。学ぶことが多い。大学に行って学術的な理論の探求よりも、もっと深い内容のあるものである。それで実感がともなうものである。どこへ行っても友達が多いのである。学生時代には酒場にも行った。昔は桜町といった所に非常に大きい酒場があった。その時は学生の帽子はポケットに入れて、ジャンパーを着て、行って何故来たのか、酒を持って来た女の人に酒は飲まないがいろいろと聞いてみると、悲惨な事情の人が多い。それは社会の責任である。それを全部知らなければならない。酒を飲みに行ったのではない。全部知らなければならない。酒場の女の人を痛哭させたことを、今も思い出す。そのような女の人の顔を見て、悲惨な感じとして実感が感じられることもあった。そのような全部を知って、このような悪なる世の中でこれを集めて、一つの主体的な権限をまとめて、処理方法をどのようにするか。あなたがこのような立場にいた時どのようにするか、問題は深刻になる。とにかく酒場に行って酒場の女の人と一緒に座っているとして、神が、この野郎め、と言って地獄に落とし入れると思うか。他の人は指をさしてうわさをたてても堂々たるものである。私の良心に呵責がない限り、堂々たるものである。統一教会がたくさんうわさされても、それは偉い人が赴任する際、となり村の犬どもがほえるのと同じである。初めて迎え入れる為、小さな犬でも出て来てほえているのがあなた方である。そのように考えれば良い。なんでも終わりまでみればわかることである。李ぼっちゃんは堂々たる姿であったでしょう。(李ぼっちゃんは、韓国の「春香伝」に出て来る、悪い国政をする官吏達を治める地位についた人) 悪い官吏の前でも落ち着いて最後に自分の身分を表したときは素晴らしいでしょう。乞食の姿で現れたとしても、李ぼっちゃんは堂々たる者でしょう。同じく何事も一時が訪れるものである。今日赤い旗をふりかざしたとしても自慢するな。それは万民が引き下げ、火で燃してしまうだろう。

 統一教会の文何かという人の所には、長老だとか牧師がよく集っているよ。この野郎め! そのようにして来るだろうか。たくさんの皮肉の中で生きて来た男ではあるが、必ずいつかは受けた恥と屈辱に対し屈服させていこう。百日過ぎたら私の所に来て説教を聞かざるを得なくなる。そうなのである。私が特別に外に出て伝道するのでもない。人が信念を中心として正義で対する、信念を持っていれば集まるし、苦しみがあっても貫いていくのである。そのために今まで激しい嵐に吹かれても、堂々と今迄生き残って来たのである。これが統一の道である。ある一時においては統一教会は良い、どの位良いのか。世界的だと聞いているが、処刑するような場において、君統一教会を信じるか、信じてないか。このような試みをしてみたい。これによって皆さんの信仰がわかる。私が今迄直面した信仰的な試練路程を思い出す。一度このような試練をして信じることが出来るのである。そして私が知っている最後の多くを教えたいのであって、そうでなかったら教えたくない。

 さあ、みんな、そう思って伝道しなさい。真心を尽くし、誠意をもってやりなさい。この世の父母でも、その息子が悪こに入ろうとしたら現れて悟すのに、まして神を父母としているのに成されないことがあろうか。そう信じて伝道をやってみなさい。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.06.11 20:00:05
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