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2021.06.16
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「善悪の根拠地」

1971年8月21日
水沢里にて


 悪の根拠地

 世の中に住んでいる全ての人をつかまえて尋ねてみた場合に、その世の中が善の世界か、悪の世の中かと聞いたとすれば、誰でもそれは、善の世の中でなくして、悪の世の中だ!それが自分が住んでおるこの社会というものも同じであり、自分が住んでおる家庭も同じである。世界が悪の世界であったなら、自分が住んでおる社会も家庭も悪の世界に所属しておる。

 今我々は、この世の中というものは、善なるものを探しても求めたというような勝利的個人、あるいは家庭、あるいは善なる社会、善なる国、善なる世界は、いずこに行って求めるかということが、あらゆる人間の今まで求めきたその願いである。

 人間ばかりでなく、もしも神がおったとすれだ、神もそれを願うであろう。それは、過去もそうであったし、現在もそうである。又未来もそういうような運命圏を超越して行くならば、こう思った時に善なるもの、悪なるもののその根拠地、善・悪の根拠地は、一体いずこより発達したか。それが今までこれは、人生問題を中心として、もがき合ってきた哲学の解決すべき問題であり、宗教の解決すべき問題である。本当の善というものをもしも体恤した場合には、その圏に立って、生活して、した者が、おったとすれば、どればかり嬉しいことであろう。それをある基準が立って、悪がどういうようなその環境の背後関係でもって我を包んでおり、要はその悪と如何に対処してそれを解決していかなければからないという問題もはっきりしてくる。

 宗教の教える道としては、悪の道を教える宗教は無い

 今この人類歴史を通しての今までの教育の全ての問題を中心としても、悪を中心にして教えられていたのだから、まあ、そういうふうに誰でもその本心からそれを願い求め、あるいは、それに対して努力していくというような人は一人もいないのにもかかわらず、もう悪という世界は、なっている。こういうふうに考えてみた場合、これは真剣な問題である。悪は、努力しないような立場に立ったんだけれども、いつの間にか、世界を占領してしまって、いつの間にか我々の社会、我々の生活圏内を全ておびやかしてしまっておる。そういうような権力、権力のある悪人になっている。

 良心の全てをその考えてみた時でも、善なる一方を願っているにもかかわらず、悪にも占領されてしまったような環境圏になってしまう。そう思うというと、悪なるその力というものは、えいものである。こういうふうに思った時に、自分一人だにこの悪の世界に対して闘っていこうという思いと言うのは、なかなかのものじゃあない。本当に善なる人が、本当に善なる神がおるか!善なる人がおり、善なる神がいて、その神というものが、絶対なる神であったとすれば、これいつかも既に解決すべき基準なる善の根拠地があるべきにもかかわらず、ないということを思う時に、神がいるか!そういう結論を下さざるを得ない。我々は、そういう圏に立っておる。誰それもが、そういうような立場に立って、苦悶する立場である。

 まあー、こう考えてみた場合に悪の根拠地は一体いずこにあるだろうか。これは、問題である。もしもそれを発見したとすれば、この全ての世界をのり越えていくようなその力、強大な力が自分に、もしも自分にあったとすれば、これは、任されるか!これは重大な問題ですね。

 自分の中の「悪」

 過去とか現在とか全ての世界はせておいて、自分一身に確かめてみた場合に、自分一身においても、善のそと結果よりも悪の結果にいつも引きつけられていっておる。これを思います時にこれは、重大な問題である。
 それを考える時に、この悪の在存がもっておるその内容、悪がもっておるその根本的力の根底は、何を基準として、今存在の場を世界的に広めたのか。それが問題である!悪は何を基準として、こういうような発展の度をましていくことができるのだろうか。これが問題である。この問題を解決すれば、悪も滅ぼすことができる。そう思われる。

 こういうふうに考えてみた場合に人間ということを、人間自体を、あるいは、自分自身を分折し、開いているとするならば、だれそれも自分を尊重するその心を大切にもっておる。自分というそのものを尊ぼうとする思いを大切にもっておるんだね。

 しかし、自分の家庭であったら家庭、あるいは、社会でも自分に自分の為の社会みたいになったとすれば、個人もそうである。世界もそうである。自分がつき合っている友達に対してもそうである。家庭に入って、父母に対してもそうである。夫婦関係全てそうである。自分というものが、これを世界的に誰よりも強い堅盤をもってこれを連結させようとしておる次第である。

 これがいいものか悪いものか、もしもこれがいいものだったら、社会は、自分というものを中心として一つにならなければならない。しかし自分という自分を主としてみた場合に、世界的な環境をもちいることができるかというと、そうでもない。人間において、自分というものがある。もしもサタンの要求するその本質の要求するそのものが、自分を尊重するとなったとすれば、これはすぐ世界的になるだろう。こう思われるんだね。それは、個人より家庭あるいは、国家あるいは、世界をのりこえて、そういうような思想の基盤、そういうような国家的思想基盤あるいは、こういうような世界的な思想の基盤、そういうような国家的思想基盤あるいは、そういうような思想基盤があるとするならば、サタンは忽ちに世界を自分の懐の中にこれをだき入れることができる。まあーこう思った時にこうして世界がそうなっておるということは、恐ろしいことである。悪の世界がなっておるということは、恐ろしいことである。

 まあーこう思います時、もしも神がおったとすれば、神は何故人間を中心として、人間の社会を中心として、善なる世界を果たせなかったのだろう。

 こう思いますと、自分より以上に強い人間に関係をもつようなものがあったとすれば、それは、もう忽ちに、世界を善の世界にしただろう。こういうふうに思われますよ。まあ、そうしてずーっと自分を中心として、比較対照してみた場合には、自分を立たしたいという思いでもっていった場合には、こ、とんでもない結果になってしまう。これ自分というものを、あるいは、個人というふうにみてしまった場合には、大変なことになる。家庭を中心として、それをみてしまったら何になるだろう。あるいは、国を中心としてみたしまった場合には、何になるだろう。あるいは、世界を中心としてみてしまった場合には、何の世界になるだろう。

 自分を犠牲にする道

 こう思った場合には、自分が自分としての存在を無視する、あるいは、犠牲にする。そういう世界になった場合には、そこから善が生まれてくるというのが、歴史的罪の過程を通して考えてみた場合に、あるいは、天情を中心として考えてみた場合、自分を犠牲にするところには、よほどのものがあるんだね。そこには、自分ばかりでなくして、続く続かれるものがある。

 一人を中心として、考えてみた場合、十人の中で一人がもしも十人の中の犠牲になったとすれば、その犠牲になったその結果の起点に立って、立った場合には、十人というその人は、その一人を又犠牲にしたい心もちは、もたないんだね。その人の前にその十人の前に立たせたいという現象、それは事実である。

 いい友達というのは、自分の為に犠牲になる友達がいい友達である。自分を犠牲にする友達は、それは二人でも悪い友達という。簡単な位置から、善・悪の基準を発見することができるんだね。自分を中心として、自分の気ままに、自分の願い通りに、第三者を犠牲にしようとするところには、それは、誰でもそれを好かない。

 しかし、自分を犠牲にして、第三者の為に立つ時には、誰でも歓迎する。それはみんな喜びの対象として、それは、残したいんだね。そういうものは一人ばかりではなくして、多くあればいい。それは、誰でも願うものである。
 こう思いますと、自分というものと、自分を中心として、全てを要求するものと、自分を犠牲としながら、あるところへ行くもの、犠牲するところには、何も要求するようなものがないように思うんだね。自分だけでなく、全体が、その圏内に善びえる環境が残っておるんだね。

 自分を犠牲をする時には、結果がないような結果にもかかわらず残っておる。しかし自分をうち出してみた場合には、これは全てが残るように思われるんだけれど、過ぎ去ってしまう。から自分を主張して、自分を中心として立つということ思想圏に包まれた、そういう家族なりの氏族は、あるいは社会は、あるいは国家、世界は、それは善の世界か、悪の世界か、みんなが讃える、喜ばれる世界かと思った場合には、それは、誰もが歓迎せざる、そういう社会であり、世界にならざるを得ない。そうなると善の世界から全てが、その喜んで迎えるこういう世界になるには、もしも個人あって犠牲、犠牲にしたら家庭あって犠牲にしたら、あるいは、国家あって、世界の国々の為に犠牲するとなれば、国家のおる存在と思う。世界あって、現在の世界の為に、未来の世界の為に犠牲になるというような精神に包まれた、そういう思想に包まれた、そういうような世界だから、それは、誰でもがそこに行って、信頼するという国、世界にならざるを得ない。

 善悪の出発は「自分」

 よーく考えてみると、善と悪というものは、それは、世界的に相対的にあるのみでなくして、その基準というものは、自分より出発しているものであるということを、まずもって知らなければならない。悪の世界になってしまったんじゃなくして、悪の世界がその前になるようになったのは、悪のその動機となる自分という存在圏が、これは、引き続いて残っておるからそういう結果の世界になるんだよ。この悪の世界を、これを消してしまうには、処理して善の世界を作り出すには、その反対の方法を、悪の反対は善であるから、その悪が根拠地となすべきそういうようなその内容のその要件を切り取ってしまうところに、その反対の方向に行くに従って、善なる道は、その生まれてくるであろう、可能性を生み出す。可能性を生み出して、成てみた場合には、成した結果に立って場合には、みんなが反対する。みんながはらいのけてしまうところじゃなくして、それにみんな一つになろう。それをみんなを迎えようというような結果になった場合には、これは、すばらしい基準になる。なるだろう。

 こう思います時に、我々が立っておる現在の自分というものが、これが問題の根拠地である。過去を省りみて思う世界だというその支配圏に先だって、自分が善なるものに勝つように、それが問題だ。現在を批判する前に、自分自身が善なるものになっておるかというと、問題である。未来をみるならば、悪の未来となるであろう。それを悩む前に先だって、自分が未来の善なるものになるであろうかという問題。

 問題は、世界の問題でなくして、自分が問題である。こういうような自分の基準を中心として表われている。そういうふうに考えてみたら、そもそも堕落とというものがあるか否か判らない。堕落とは何か!悪と共にあってその逆の道に行った。堕落の結果に於いて、堕落の世界が悪の世界圏内というような、それはそうだから間違いなく、堕落した結果に於いて、悪の世界になるのだから、現世は間違いなく悪の世界だ。そうだから、悪の世界を出発なしえたその基準が堕落の基準である。その基準たるものは、世界でなくして、国でなくして、氏族でなくして、最頂点にある。一人は、一人の女、一人の男にかえってしまう。いわゆる先祖のところにかえってしまう。先祖を中心としてみた場所には、誰が始めたかと考えてみた場合には、女が始めか男が始めか、一人の出発の起点に戻るのではないか!

 その堕落の動機は、人間を中心として、堕落に足を踏み入れたのは、女である。第二には男だ。その中で人間ばかりを中心として、堕落の出発のその動機を考えてみた場合、もしも神様がおった場には、神様は、何故それを踏み出さないようにできなかったのであろうか。こう考えてみた場合に、神様は、善なる神様は、そういうような堕落の道を止めることができなかったのではないか。

 ここに於いて、いろいろな複雑な問題が起こってくるんだね。じゃあ、何故それを踏み出したのか。絶対なる神が造って、絶対なる愛と絶対なる真理をうけておる。

 それは、何者によってそういうふうになったんだろう。そこに於いて、今我々は、サタンという存在を知っているんだね。まあー、こういうふうに、動機はいろいろと、堕落の原理に於いての深い内容の自分は、どうなったか、知っておるんだけれど、その根拠地たるものは、ある命令に従わずして、そういうふうになったとすれば、その命令より以上のことを実行すれば、その命令より以上のことを実行すれば、のりこえることができるのだから、出発の、悪の出発の動機となったそれ以上のことを実行すれば、のりこえることができるのだから、入発の、悪の出発の動機となったそれ以上のものの出発の行動を成せる者が、可能なものにもかかわらず、それは、可能なる立場を発見できない理由は何処にあるか。

 それは、何か相対的にその行動的なものでなくして、愛の問題にかかってくる。血統的問題にひっかかってくるから難しい。そういうような内容になっておるから難しいんだ。

 愛によって勿論結びつけられた場合には、その愛の基準によって、その発生せられたその後孫とすれば、愛の存在を無視するその起点を求めて、経かなければ、その善なる世界は成すことができない。愛より以上の力、愛によってその生まれてきた人間の生命より以上の存在、それを満たさない前には、悪の世界をのりこえることができない。

 堕落というのは、我々は、その堕落の原理を知っておるんだから、こういう方向にして、その血統的汚れた血統を基準として生まれた、神に逆らう、反対の立場に立っておるから、それは悪の母体としてその基盤の上に生まれざるを得ない。それは悪の愛という。神様、非常にいやがる道なんだね。そうだろ!神様はひじょーにいやがる。それが人間の立場です。善と悪があれば、悪が喜ぶ人間になっておるんじゃー。
 
 統一思想の出発

 それで我々統一思想というものは、何処から出発するか、思います時に、善・悪の基準を生み出したその基準をぬいてしまった基台より以上の立場から、統一思想は、それの根本をおろしておる。

 それは何故かというと、悪の愛によって生まれた人間達にすれば、それ以上の愛、それ以上の生命がこれを生みださないところには、善の個人も生みださないし、善の愛の家庭も、善の愛の氏族、民族、国家も生みだされることはない。それは当然のことである。

 そう思いますと、自分に於いては、そういうような道を行かれるには、これをどういうふうにするか、こういうような道を立てていかなければならない。ここで自分を殺して行くような道を、自分を犠牲!犠牲!犠牲にしてしまうような道をとっていかないというと、悪は残ってしまうよ。

 万一死んでしまったとしたら、自分の存在基準を完全にしめつけてしまう。

 悪なる自分のものは、世界的にない。それを生みださないところには、悪と永遠に別れることはできない。

 これは、悲しむばかりでなく、我々自身の気持として、実感として、それを体恤する。そういうような場合に於いて我々は、善なるところに向けることができる。善の方向に向けるには生きている自分が自分を殺してしまう、なくしてしまったという、その過程を通過せざるしては、善の出発の根拠地は、生まれてこないというのが、これはずーと話の通りだね。

 神の来た悲惨な道

 それで、もしも神様がいたとすれば、神様が尋ねてくる道は、実に悲惨なる道であった、と結論が生まれてくるよ。個人があったら個人を、生まれておる個人を皆な殺してしまう。そういうような方向性を持ちつづけてきた御方が神様に違いない。そうなんでしょ。だから、神様は、この地に生まれた人間を翌日殺してしまうような、それを見ながら、希望とし、それを実行しながら自分の仕事として、なしてこなければ、善なる神の基準の立場に立つ一人の人を求めることは、できない。それを求めざる以上は、善なる家庭も、あるいは国家、世界も求めることはできない。

 だから、人を殺す、人を殺す、堕落した人間を殺してしまうというような、殺してしまうような立場に立つべき、そういう神の立場である。

 善というのは、許してやる。そういうところに善なる神様がある。許しのない、哀れみのもたないような、そういうような神様は、何の神様か!そうでしょ、そうなんでしょ。

 神様の仕事は、善なる世界を願うとすれば、これは、血統的問題、どうにもならない。犠牲にしてしまう。そういうようなところを、それをうちださないというと、善の世界は復帰できない。あるいは、求められないという。それを思った場合には、神様は慈悲の心をもっていない。無慈悲な内容しかない。神様であればある程、哀れみの心をもたない。

 そうだろう、我々が考えてみればね。善だから全てを待ちこがれながら、それを許しつつ、ある一日を待っていくような、そういう立場に立たなければならない、神様の負うべきところなのである。しかし、神は悪は全て処理してしまう。切ってしまう。殺してしまう。それでなければ神様になれないんだね。それで、そういう立場に立っているこの人類を、神様は許してやりたい、哀れみの心を持ちたい、我々の知っている神様は、そうならなければならないというような神様の立場にたちかえりたいという思いを持たざるを得ないというんだね。それでそういうふうにするには、第三者を犠牲にするより、自分を犠牲にする道しかないというんだね。

 だからサタンが、世界を犠牲にしようと引っ張っていくのが、それが悪のひきいる道であったならば、神はそれを選ぶ!そういう方向性を生みだすところに、神様の人間の前に善なる神として立ちえる立場を残すことができる。自分を犠牲にする願う道はない!こうなっておるんだよ。自分自体は、善なる神様とすれば、人心或いは、哀れみの心、同情心をもって、それで犠牲のそれは、相対圏に願うのではなくして、自分なりに犠牲になる道以外はないという結論の立場に立つんだね。だから神は、善なる神となるには、その悪の世界を打って、中に立つものではなくして、その悪の世界の為に犠牲なる基台をそれを満たすところに於いて、善の相対圏が、そのものが得られるというのが事実である。

 それで宗教は神様を中心として出発した。神様と関係あるもの、神様と一番近いものを勝ちとって、神様は、自分の身代りとして、犠牲になしてきた、歴史の背後関係を善・悪の分岐点を残してきていること、、思い出されるんだね。事実そういうふうになっておる。だから宗教は、宗教は歴史過程に神は犠牲の道を行かしておる。

 一番愛すれば、愛するそのものをまずもって犠牲の先頭に立たせる。こういう歴史である。そういう歴史でなければ、悪の世界を取り返す道はない。

 我々もそうでしょ。もしも子供がいる場合には、ね。悪い子供が罪を犯した。罪を犯した場合、代りのそれを要求されるような立場に立った場合、親がその子供の身代わりとして、打たれた場合には、両方共に打つことはできないんだね。許される条件が満たされるよ。

 それと同じように、自分を犠牲にして立つところに愛があるんだね。父母の愛はそこにあるね。父母の善なる、いい、偉い、優れたところ、みんなが讃えるところは、子供の為に犠牲になる親のその立ちどころにあるというんだね。

 それと同じように、神様も同じくこの人類が罪を犯して、善の方に立たれないそのものを救ってやるには、神自体が打たれなければならないような環境に立たなければならないと言うんだね。それで、神の方に近いものをいつも犠牲にしてきて来たった道が、神様の摂理の道である。もしも神様のものがあった場合には、そのものがこの罪悪の世界、あるいは人類の為に犠牲にして、神様のことを思っている子供があったとすれば、あるいはその僕があったとすれば、まずもって僕を犠牲にして、それがそれでもって、勝利の基点を求められない場合には、それは、子供を犠牲にする。子供を犠牲にして、それがその世界的善の基準を満たさない場合には、悪を屈服されるようなそういう基準を満たさない場場には、悪の世界の発展の反面に犠牲的な神の摂理の歴史が、悪の勢力が大きくなるに比例した価値の内容でもって、犠牲の基台を広めてきたという事が事実である。

 犠牲の思想

 そういうような伝統的宗教を宗教的基盤をもっておるならば、その宗教内には、必ず神がいますことになる。だから如何なる宗教でも、犠牲になるように教えているんだよ。だから、摂理の路程というものを思います時に、神は自分という権威を永遠の勝利の基準に正して、永遠と永遠につづりえながら、それを維持しなければならない、神様、自分と権威とか自分という存在の価値圏とか、立つところの基盤というものは、全然無視して来ておると思います時に、摂理の道は犠牲の道であり、悲惨な道にならざるを得ないことは、我々ははっきり判らない。整理して頭につめておく。おかなければならない。

 悪の道は、悪の道はね、悪の道は、犠牲の道じゃない!自分を殺して犠牲の道に入る。神の道は犠牲になる。ここにおいて、神様のところまで帰っていって、それをこういうように探り出してみた場合に、はあーん、善として残るべきところは、神と共につながる道にならざるを得ない。だから善なる方向に行こうとする者は、神と同じような立場の方向性をとらなければ立つことができないから、犠牲というような価値で、立つというところで、犠牲にするというようなところに立つに従って、神とつながることができるのだから、この世の中には、そういうような道をみんな迎えるようになるんだね。迎えるようになる。

 だからあんた達が犠牲になった場合には、それは、わしが犠牲になったとすれば!犠牲になったとすれば、それはなくなるか!犠牲になったら、もうなくなってしまうんだね。そうだろう。

 全体の為に自分が、もしも善の目的の為にその目的を残そうとして、全体の為に犠牲になったとすれば、絶対にこういうふうに、なくなって小さくなっていくんじゃないの。それでなぬなってしまうんじゃないよ。逆の法則が成立するんだね。逆の法則の法則が成立する。反対に!反対に!それは、そうか考えてみれば、そうじゃないか!

 我々の伝統的精神

 もしも一人の友だちが、みんなの為に真心を尽くしたその子供が、悪にやられた場合には、悪に責められてやられた場合には、その友達は、我慢して、黙ってそれを眺めておるわけですか。その本人より以上一体となってぶつかるんだね。だから一人が犠牲になるに従って、悪に立つものが、十人なら十人に全てがそうなる。そういうふうにして、悪!悪!悪とぶつかって、そうして悪のところへ行くんじゃないよ。それを処理してしまって何を置きぼりにするかというと、この犠牲になった伝統精神、これが伝統的精神となり、一つの種、種となるんだ!新しい種となる。その種がそれは生えない種ではない。それが生えた場合には、それより大きくなる種となって、そうでしょ、それもまちがいなく、我々の現実の世界においてもそういう方向性が残っておるんだね。あんた達の本心がそういうところに、勝ち進み動き出すんだね。

 だから我々の本心は、何の意味で新しい方向性につき消されるかというと、犠牲というそういう焦点を見つけたところから、そういう時に於いて初めて爆発する。立つんだね。そうか、そうでなきゃ、ずーと今までの歴史過程を考えてみても、歴史はそうなっているんだよ。本心は、いつ全体的の方向に向って、立つかというと、犠牲するところ、犠牲、自分の為に堕落して人の為に真を尽くしたそのものが、やられた場合には、そこに於いて爆発する。大きい力。それは新しぱ機として、出発の起点として、そういうそよ思想を中心として、進んで行くんだね。後退するんじゃないよー。

 これが正しい思想の中心基準として、それが世界の果てまで続く思想だから、その思想は、これは永遠に残るだろう。その思想が善なるそういう思想だとすれば、これが犠牲の基台に立ったその思想とは、一時期、途中で消えるのでなくして、その思想の目的を果たすところまで、永遠に続かなければ、善の道じゃない。これを我々は、はっきりしなきゃならない。これはまちがいなくそうだろう。(ハイ)

 善の道は反対される道

 我々の現実の社会の中で、こういうような現象がね、起こってくるんだね。しかしなかなかそれが難しい。やれば、確かにまちがいなくやれる道なのに、やるには、なかなか難しい。やるには、邪魔する者がおる。国が邪魔する。父母も邪魔するんだよ。兄弟も邪魔する。それは何故かというと悪の世界だから、悪の運勢に包まれているその力によって、それは、反発される立場に立つのは、当然だから、何故か!それは、生まれてきたのが善の世界じゃないから。悪はひじょーに恐れて、それをそういうような自分が生まれるのを恐れて、反対するんだ!

 だから善の行く道は反対される道だ!そうだろう。もしもだね、もしも十人の友達、その内の一人が犠牲に内の一人が犠牲になったとするならば彼がそれが、主導権を持つようになるかと言うと、犠牲になった者が、自然と十人の中心になってしまうんだよ。

 その願いのところまで行こう!そうなんだよ。結局は何かというと、そこから、そこから犠牲になった人は、これ別れてしまうんじゃなくして、十人をまとめてその中心の立場にちっーんと立つんだね。だから犠牲にすれば、結果は、中心者になれる結論になっちゃうんだよ。そうだろう。まちがいなくそうだろう。それは。そうかーそうじゃないか!(そうです)全部そうだろう(ハイ)まちがいないだろう(ハイ)中心者になれることなんだよ。

 いやー偉いことだ!中心者になれるその中心者になったとしてみんな好きになるやろ、みんなが、十人全てが喜んで侍るんだね。喜んで侍る。そうして中心者だけでなくして、それから我々を指導してくれ!そういうような立場に立つんだよ。だから中心思想と共にこの目的にまで自分達がひかれていく。いやでも、それは、主管されていかざるを得ないと言うんだね。だから、中心者になるというのは、最後には主管してもらいたい。主管しえる内容が、ここから決まってくるんだね。主管者と中心性とそれから中心性とそれから主管性が生まれてくる。

 堕落とは何か!中心性をなくしたことであり、主管性をなくしたことである。そうだろう。わかったの(ハイ)堕落とはそうであったかあ。中心性を失なったのが、万物の中心の立場に立つべき人間が、これはとんでもないところまで、相対的立場にななってしまった。絶対的中心の決定的ところを維持しなかったのが堕落だ!それを中心の立場におって絶対的主管圏を維持される。維持されなかったのが堕落だ!その堕落した全体的の内容を現実の世界圏内に発見せざる以上は、それ以上の世界を我々は、いくら求めても求めることは、できない。そうだそう(ハイ)

 愛する前の犠牲

 こういう風になっておるから、神様は結局そういうような道を立てて、行かざるを得ない結論になるんだよ。だから愛する前に犠牲になる!愛する前に犠牲にさせる!犠牲にさせるのは、サタンの愛をとり消す為の作戦である。それをとり消した場合には、愛する。それが本来の立場である。これをはっきりしらなければならないよ。そうだろう!(ハイ)

 サタンのその実体からサタンのその愛の因縁とかそれを犠牲にするまで、戻してしまうことによってとり消す。そうすれば、それをとり消すには、どういうような立場に立つ?

 犠牲というものは、堕落の愛の基盤により生まれた人間をとり消してしまって、とり消してしまったんだから、神様を愛せざるを得ない。だから犠牲ある犠牲になった後に愛するのが、神の犠牲の道だ。犠牲にさせるのは、堕落の世界から生まれてきたんだから、そうならざるを得ないということだ。これは現実問題だよ。これはっきりわからない。うーんまあ、そうだね。まあー個人の為に犠牲になった場合には個人をそれを天が中心者になって主管しえる。だからアベルの道は、それだよ。アベルの道は一体どういう道か。犠牲になる道である。犠牲になって死んでしまう、なくなってしまうんじゃなくして、中心者になって主管しえる環境を広めるその動機と要因となっておるから、その道において、神は、悪の世界に基盤を造り得られない。悪の世界に神の基盤を造りだすことができない。それ以外の道は、絶対に無い!考えてみなよ!その時代には、絶対ないから絶対なる神は、これをこの道を選ぶ。もう判ったの(ハイ)善なる道は、そういうふうにして生まれてこなければならないんだよ。

 イエス様の道

 イエス様は、そのようになったんだよ。

 人類歴史上に於いて、善なる位置をそれをイエス様は、一人肩に背負って来られたんだよ。わしは、万人の為に犠牲になる。過去、現在、未来は勿論、天宙全ての存在の為に、わしは犠牲になる。神がそういうような犠牲の道を行っているのであるから、神の実子としての独り子であったならば、それは全ての情的十字架をあえて相続してもらいたいのは、神の子供として最も思うべき立場である。それは当然なことである。そういうような心でもって、神の前に立ったその独り子イエス様であった。十字架につけられ、自分の為につけられたんじゃないよ!まちがって。彼らに。親の為に、神の為に、それから?人類、世界の為に。

 聞いて知らない人は、かわいそうな人(笑う)。そうだろう。これは、子供の教育すべき問題だよ。いずれ、犠牲になるその道に立っていかなければ、世界は、不幸の道をのり越えることはできない。いずれ、犠牲になるその道に立っていかなければ、世界は、不幸の道をのり越えることはできない。必ず一つになるんだよ。だから一つになることが問題だよ。各国の子供を犠牲にして、一つに従うような道を選ばなければ、とんでもないことになるんだよ。

 イエス様は十字架を背負う時、あー自分の欲望の為に死ぬんだ!その為に死んだんじゃない。これは立つ瀬がないよ。全てを自分のものじゃない!自分の為じゃない。まずもって、上は、神様の為に、それから下は、世界の為に。こう思った場合には、それは、自分を考えるこの基盤に立つ愛であってはいけない。神様は、自分じゃないんだよ。世界は、自分じゃないんだよ。それが四位基台、四位基台の立場が結局そういうような思想の立場をとらなければならない。四位基台は、親が親を中心としてやれば、これが回らないんだね。親ばっかり中心としたら回らないんだよ。上ばっかり中心として考えたら回らないんだよ。共にそれを考えて、自分を犠牲にしてこうしてやる!そうして自分がひかれていくところに、速く回るという原理があるんだよ。自分を押していく。押されていく。押していく。押してやる。自分が吸収される。そういうところに速く動き出した場合には、永遠に迎えるその基台となるんだよ。

 神の勝利圏

 自分を中心としてみた場合には、サタンがジーと飛んで来る。自分を犠牲にしてみた場合には、神様がポーとしている。

 発展してきた発展というのは、前に進行しておる。それを神様は許すんだよ。そういうふうにして、そういうふうに考えてみた場合には、神様は、よりサタンより高い御方である。サタンは、十の力をそれを働きかければ、神様は十一の力を働きかけるんだから、サタンより高い御方なんだから。結局は、神様の方に負けるんだね。最高の力を勝ちとっても、神様の下だから、神様の目的の方向に勝ちぬくには、近よっていくに違いないというんだよ。悪に負けるんだったら、その神様は復帰が出来ないんだよ。まあ、それみた場合には、これを一ペンに、勝利圏を残して、それを永遠と連ながらせる道というものは、犠牲のあったところにあるという事がはっきり判りましたね。(ハイ)

 見ることも自分の為に見るんじゃないよ。鼻で嗅ぐことも自分の為に嗅ぐんじゃないよ。聞くことも、食べることも、歩くことも、呼吸することも、全部誰の為?(神の為)え?神の為のプラス(人の為)

 神の御旨。神の働きかける国家というのは、人の為にやっているか?世界の為にやっているか?

 世界の為にやっていることは、神のことに徹する。だから国家のサタン圏に立っている国家としても、その国で人の為に犠牲になったものは、サタン圏内国としても、その圏内にあって、その国の為に犠牲になった者は、善のところに立ちかえる救いの道であるんだね。

 だから、もしも日本が第二次大戦に於いて、日本のサタン圏に於いて戦った兵隊達はどうなるか。こうみた場合には、自分の為に戦ったのではない。日本の国とか、そういうふうに戦って、喜んで犠牲になったというようなものはね、それは、神の国が造られた場合に、後に救われる道がある。早いもんだね。あんた達も先祖が善という話もね。先祖がいいからこっちに入ってきた、いいところあるか、日本国は、世界中に立った時、全部悪い。何がいいことあるか、結論だけ質間したら答えられいんだけど、こういうような内容があるから、あはーん、今まで犠牲になってきたのは、善の先祖にまちがいないというんだね。

 そういう歴史圏は、世界中につながって個人より、社会に今動いているんだよ。それがそれは結ばっていないんだよ。まあ、こう考えてみた場合には、個人がそういうふうに働きかけて、それが犠牲になったとしても絶対に滅びないんだね。個人が十人の前に犠牲になっても、十人をこれを復活させる、自分が十倍の力で働きかける基台ができる。

 キリストもそうだよ。十人の決意が、死んだ後になってこれ燃え上がって、世界の為に世界を燃やすんだね。そうだろう。こういうような思想体系の基台の上に、個人より家庭、家庭より氏族、氏族より民族、民族より国家、国家より世界につづく、そういうような基台が地上に生まれた場合には、世界はどんなになるだろう。考えてみた?

 そういう意味で、今まで世界的思想として体系的内容を整えて、歴史的、現在、そうして勝利的基準だとして正して、思想圏が生まれたことがあるか。

 統一思想と共産主義

 今の宗教は、個人復帰だね。自分が救われる為に。宗教心的だね。我が統一思想は、そうじゃないよ。自分は救われなくてもいいというんだね。だからちがうというんだね。自分は救われなくてもいい。自分は犠牲にすると世界の為に。そうなるというと死んでしまった場合に何も、何も残っていないようだけど、それを認めなければ、神の摂理は、これは嘘である。統一原理は今も、これはとんでもない。

 あんた達も世界の為に死んだとすれば、どこへ行くの、世界へ行くの?日本の国に残るの?(世界の為)それは世界の為。イエス様も自分の為に死んでおらず、世界の為に死んでいる。世界と共に死んでおったね。イエス様がそのキリスト教文化圏は、民主主義国家を完全に占領してしまった基準に立ったんだね。そうだろう。まさしくそうなっておる。まあ、共産主義によるとね、あなたのものは自分のもの。自分のものは自分のものである(笑う)素晴しい思想だね(笑う)実感的ですよ、直感的で実感的だよ。誰でも喜ぶ思想だね。まあ、そうなってこれは、結局は永遠にかかった永遠の喜びは、何の共産主義国家を造るかと言うんだね。それによると見物人になっておるんだね。

 しかし、神の方はね、神の方は、共産主義は、自分のものは自分のもの、あなたのものも自分のものであると言うんだけれど、神の思想は何かというと、自分のものはあなたのものであり、あなたのものは自分のものじゃないよ。あなたのものは神のものであり、神のものは自分のものである。(笑う)もう既に四位基台だよ。四位基台になっておると。あなたのものはわしのものであり、わしのものはわしのものではないよ。わしのものはあなたのものである。あなたのものは神のものである。神のものは?

 こうなるというと、一つ。二つ。男、女、考えてみたみた場合に四位基台になっちゃうんだね。そうだろう。四位基台になったんだよ。これが統一思想の伝統的思想だ。わかったの(ハイ)

 統一思想は一体何だ!統一思想は何かというと判りませんか、このような背後関係を言ってね。結論として統一思想はこういうふうにして立っているんだ。

 何故そんなに嘆くか!神は親父だから。神は親父だからね。こういう風にしないと親父になれないんだね。そうだろう。親父になれる道があろうか!考えてみたら堕落したサタンの子供になってしまったものは、こういうふうな方法をとらずしては、絶対子供になれる道は、絶対ない。だから人の為に犠牲になる。そうなった場場合には、あれは、世界的になっておるから、一つになって世界を動かす主人の立場に立っておるから神様の権威でもって我動かすことができる。人の為にやる。それに不安あるの。不安はあるか!本当に不安あるの。あるか、ないか!本当にない?(ハイ)それが神の為か!神は不安の実体じゃないんだよ。こうしないと帰り道ないんだよ。判ったの(ハイ)

 天国と地獄は自分から

 自分の為にやったら悪になっちゃう。追い出される。摘み出される。世界から。そうだろう。これはもうあなた達、今から実行する生活圏を通過していかなければならない。それをはっきりしなければいけないよ。はっきり!

 天国、地獄はいずこより生まれるやー。信仰の国から生まれるんじゃないよ。自分を中心として、地獄は自分より。天国は、天国も自分より。だから自分には、二つの行くべき道がちゃーんと準備してあるんだね。自分を中心としていった場合には、天国行き?まちがいなく何の道だ!(地獄)気持が悪い。心細くさせる道だよ。自分ということを今まで愛着心でもって、これを横着した考えは、今後一ぺんで抜いてしまわなければいけない。みんな、心細い、寂しい、そう思いはしないの(する)するだろう。それをはっきり判った場合には、明日から、自由自在にできないんだよ。そうじゃないの(ハイ)

 それ寂しがったら、もう死んでしまうよ。もう予め死んでしまった方がいいや。苦しい時罪を犯さない。一生涯これは罪を犯して死ぬよりも、かえって苦しい時に死んだ方が、霊界に行ったら天国に近い霊界に行かれるというんだね。そういうふうに考えれば、青年達は自殺するとか、そういうふうにすれば、ある方面に於いては、いい考え方かもしれないよ(笑う)まあ、悪の世界に於いてはね。それがいいかもしれないよ。

 悪の根拠地は、世界じゃなくて(自分)

 自分だ!自分に於いてみんな出たんだ。目玉を中心としても悪の目玉、善の目玉になるんだよ。これが自分を中心としてみた場合には、悪の目玉になるし、これら人の為にみた場合には(善)善なる。それは、全部そうだよ。寝るのもそうだし、行くのもそうだし、着物もそうだし、一切一身にかかっている一切は、そういう境界点に、境界点上に立っておることを忘れてはならない。

 その決意が湧湧き上がらなければ、善の世界へ行く道は生まれてこない。そういう自覚、そういう固い確信をもう既にもっておるべきなんだよ。君達、そうだろう。もっておったの、もっておったの、おらなかったのか!はっきり言え!

 今、先生の話聞いていたのでしょう。今から持つの、持たないの(もつ!)持たなくてもいいよ(笑う)正しく正しく教えてやるんだよ。今からそういうような考え方、持たなくてもいい、そうしてやれば、そうだろう。

 死んでも、闘ってもやりますという覚悟をもたなければならない。そうなの(ハイ)もたなくてもいいよ(もちます!)もたなくてもいいと。如何なる大きな事言っても、それは、けっ飛ばしても自信ある?(ハイ)そうなったら、みんな明日は天国行きだ(笑う)

 神の犠牲の道

 こういう思想に立った場合には、統一世界は一遍に生まれつつ出発する。統一世界はこれで始まるんだよ。考えれば簡単なもんだろう。こういうことを、こうだとしっかりした考え方を持った人は誰もいなかった。だから、先生が考え出して、先生が商売でやれる機会が残っていた。考えれば簡単だ。世界がどうこう問題でなく、自分に問題があったのだね。悪とか善とか自分の中にそれを処理して解決する方法がはっきり判った場合には、今から可能なる自分を発見するだろう。

 神の摂理の道は犠牲の道である。犠牲になって、我々は自分の為に犠牲になったということが判った場合には、頭下がるの、上がるの?(下がる)どれ位下がるの? 犠牲になる比例が大きければ大きい程、それはもう、それ以上である。それ以上の現象が起こってくるんだよ。

 それは、涙を流し、鼻を流し、よだれを流して、その御恩を何とかしても報いたい方法が始まるんだよ。だから感謝の念で涙を流す。苦しこではなくて感謝の道になってしまうんだよ。いやー、素晴らしいことになるんだね。

 もしも自分の兄さんが、自分の弟のやっていることを兄さんのようにしたら判るだろう、そうだろう、それ以上に兄さんの願いの道に立ったならば、犠牲になっても、かえってそれが犠牲の道のその報いである。それ以上の犠牲になるのが、犠牲の世界に於いての報いである。そうなるというと、あんた達は、全体より以上の犠牲になりたいの、なりたくないの。(なりたい)それが報いる道である。先生は神より以上犠牲になりたい。

 十年、百年の蕩減の道が残った場合には、一生涯に渡っても蕩減する。しかし死んではいけない、いけない。我は不具者になってもいいから、生命を残して蕩減の道を歩んでいく。それが子供の考えだ! それが報いる道だということがわかる。そう考えるよ。親もそういう子供を迎えた場合には、骨肉が分離して滲み出るような涙を流すんだよ。だから、神様も流しているに違いない。そういう子供ができるんだね。先生を泣かせ、神様を泣かせる場合には、泣いたより以上の悲惨な悲哀な反対の立場に立つというと、永遠に別れようとしても別れることはできないという結論になっちゃうんだよ。

 親孝行は、親を何べんも泣かすことだよ。そうだろう。なんでそんなにも、こういうような親に対して忠誠を尽くすかと思った時に、感謝の思いで親も泣くんだよ。親を泣かせる、それ以上の孝行者はいない。親を泣かせて初めて、日本的、世界的孝行者に立つことができるんだよ。判ったの(ハイ)

 そういう思想は、これは永遠に強くなる思想だ。全体を一遍に屈服させる思想だ。なおもすると、個人的立場から考えてみた場合、人が判ってくれるのは、かえって恥ずかしい。純粋なる親が判ってくれる前に人が判ってくれれば恥ずかしい。

 日本の地に於いて、あんた達はまだ、誰誰を好きだから、自分は何とか、だからあの人には見向きもしない。それは、先生、気持ちが悪い。みんなの為に今は面倒をみて、自分は残されてもいいというんだよ。

 自ら行く犠牲の道

 面倒をみてくれればいいなあ、そういう心は、まだまだ徹していないよ。その基準をのり越えていない。しかし、わしは面倒みてくれなくてもいい、というのは、勝利基準がもう既に、もうとっくに決まっている立場なんだよ。そうだろう。こういうふうに考えてみた場合には、そういう人達には指導者が必要じゃない。主管者が必要じゃない。彼に干渉しなくてもいいよ、一人の為に最高の権威の立場を、もう占領しておるというんだね。そういうのは、あんた達、気付かなければならないよ。

 自分を如何に主管するか。わしに関係し、我は行くべき道を開拓していくその道自体が、もう忙しい。時間がない。他に考える道がない。そういうふうに自分の行くべき犠牲の道を全うするように。だから友達の為に涙を流し、どういう涙を流してみたか! 本当に愛したという犠牲になる、サタン世界の親子以上の愛自身でもって、この道に犠牲になるんだよ。自分の社会、自分の属している社会に対しても、如何に自分を犠牲にしたか、愛の心でもって試してやる。みんなの為にそういうことをしたか! ある会社をつくるとしたら、十年でもいいから黙々と朝夕にして犠牲になるか。会社を社長以上に愛するようになれば、結局は、十年以上には、社長の後継ぎがなければ、社長の後継者になるんだよ。そうなるよ。

 日本中に於いて、統一の群れが今から犠牲になって、日本のいずれの者より、天のなかよりも、国民を愛し、代償として犠牲になって、それが十年、二十年……、そうした場合は、日本はみんな主管してもらいたいんだよ。それを、こういう統一教会は、統一教会がどこから来てもいい。それは中心にもたらすんじゃないか。成す者は、その環境にとらわれている。そうだろう。それ自体が真実である。こういう場合には、これを中心に対して指導してもらいたい、というようにならざるを得ないんだよ。そこまで持ち続ける底力を持っているかということが問題だよ。

 生命をもう既に捨ててしまったという考え、もう捨ててしまうべきものを、神は残してくれたのも、これはあまりにも申し訳ないんだ。

 牢屋から出発しても

 一番難しいところは、我等が責任を持つ。統一教会だよ。日本の行く所、世界の所まで、我々は責任を持つ。こういう思想だよ。そういう所を求めていくところに、神が、世界が、価値がある。だから先生も行く。人生生活。どん底の全てのこと、ずーっと探り、ずーっと通って来たんだよ。

 復帰の道を、どこで基盤を造るかと思った時に、復帰のその心情回復、これ、乞食の立場に於いて、復帰の出発の基準を神はなせるように願うんだったら、それでも構いません。万民の歓迎するような、そういうようなその教団の中でなくても、牢屋でも、わしは構いません。かえって、今日牢屋の中で復帰の基盤を造ろうとするのは、もっと素晴らしいことになるだろう。こう思うんだよ。恐ろしい思想だよ。

 そうなればなる程、それは牢屋の中で出発したと聞けば、出発した基準が悪いか。そうじゃない! それに後世の信者は、後についてくる者達は、それは最高の勝利感に打たれて、この怨讐圏をのみこもうという大きな力の原動力となって、湧き上がる。そうしてみた場合には、ああ、苦労の生涯は、簡単な生涯はない。神に感謝する生涯だよ。そうだろう。そういうふうになるんだよ。そういう思想が統一の思想だよ。考えてみれば、この思想があったならば世界を呑み込めるだろうか、呑み込めないだろうか。呑み込めるよ。こう簡単に結論を出しておけ。

 では、あんた達同志は兄弟愛を持っているの?(ハイ) 兄弟愛を本当に持っておる?(ハイ) みんな、兄弟愛を持っていたいんだから、全体の為の愛をもって行動したいんだから、全体の勝利のことを考えるよ。

 親は、子供に着物を作ってやって、それを親に感謝して、責めるんじゃないよ。やって、やって、又やってやりたい。それ以上喜ぶ姿をみた場合には、それ以上のものをやってやりたい。着物だけじゃなくても。初めて子供を見る場合だから喜ぶんじゃないよ。親から考えてみた場合、とんでもないことに喜ぶところを見た場合、恥ずかしく思うんだね。より以上のことをやってあげたい心、やって、やって涙を流すような立場が、親の心だよ。

 涙を流しながらやりたい心があったら、そういうところには必ず神が働きかける。その場には必ず神がいます。これは鉄則であり、原理である。

 こういうふうに考えてみた場合、あんた達は今まで復帰の道に於いて、どういう所に立っていたか、はっきり判るだろう。自分という奴は、はあーん、こんな者だ! このやろう! 殺してしまえ! こんなもの。そういう考えで決意しなければいけないよ。大抵、判るだろう。自分の過去がどういうものであるかということを、はっきり判るようになっただろう(ハイ)先生の話、これは親密の話だよ。この通りに天の摂理は進行して行くんだよ。こういう精神に、徹してこそ、今日の先生の位置が残せるんだよ。それが間違っていたならば、先生はとんでもないことになっちゃう。もう死んでしまっただろう。こういうような神の御旨に歴史的御苦労なさった神のお父さん! 親父の、自分の苦労たるものは、まあ、一かけらの小さな立場でよかったかね。恥ずかしい。そうだろう。とんでもないその勝利圏でもって、とんでもない祝福をしてやりたい。その親の心を洞察しておる立場に立った場合には、恥ずかしい。

 地上天国

 秋になれば稲の穂が実って、その稲がだんだんと頭を下げると同じように、だんだん熟していけばいく程、誇るのじゃなくして、姿を隠したい、そういう思いに打たれるんだよ。そういう人間ばかりの世界はどういう世界か、そういう世界が地上天国の世界だよ。あんた達、そういう観念の心でもって、地上から出ていったとすれば、霊界はそういうところだ。

 父母の愛と兄弟の愛と夫婦の愛とが三つ入り混じって、一つの方向を正していくのが、神を中心として相対的に立っていかれる。行くのが霊界だよ。おそらく、空気みたいになっちゃう。それが、そういうような愛の心情を持った者だったら、呼吸するには馬鹿馬鹿しい。注げば永遠に注ぎ込んだら、永遠にだ! そういうような境地に立つ。それが欠けた場合には、殺せだ! それ以上の地獄はないんだよ。十分の一しか空気を吸うことができないといえば、それを考えてみたら、それはかえって死んだ方がましかもしれないよ。それと同じような世界だろう。

 それに、神の今までの摂理路程に於いて成してくるその道を、自分の道として続いていかなければ、その国に入った場合には、とんでもないことになるよ。神と反対になるだろう。神がそうだから、神の世界に入った場合には、神が安らかに親の立場になった場合には、自分もそうならざるを得ない。自由なるその立場にいくんだね。
 こう考えてみると、世の中に三十六億という人類世界をずーっとながめてみたら、こういうような思想を持っておる者は何人位おるか!

 今まで先生一人しかいなかったね。あんた達、こういうことを聞くんだから、今からそれをやるんだよ。去りたい者は一人もいないだろう。こうなった場合に、あはーん、日本に今から追いつかれるよ。世界は、今から追いつかれるよ。この思想は、聞けばまさしくそうだ!

 善の根拠地を残す

 こういうようにこれを判って何するか。これが善・悪の根拠地。善の根拠地を残して、悪の根拠地をつぶしてしまう。悪を占領してしまうんだ。悪を切ってしまうんだ。だから、我々いかれる善の道を、それを進ませるには、その反面に悪をも愛するのだ。君達は敵対してしまう。一つの事が決まれば、それ以外の悪の事は、心配しなくても自然と、行くなと言っても、自然と姿を消してしまうというんだね。そういうものには、悪は、悪の本質というものは、自分を中心として立っておるだろう。悪の本質とは、自分を中心として立っているんだね。心細いとか、寂しいとかいうものは、そういうふうに立っているだろう。立っているから、そういうような思想は、ここに立ちどころができない。それは自然に変わってしまうんだね。我々として、自分を迫害する、反対する世の中で、世界を占領するよりも非常に難しいんだよ。それの勝つ方法として考えてみた場合に、一番、易いんだね。犠牲の道を出発したとすれば、自分は、もう自分を勝利した道である。これを自分を勝利する為に、今まで数千年闘っても勝利出来なかったんだね。自分が如何に勝利するかが、天宙復帰にとって重大問題だ。復帰の道の重大問題である。勝利し始め、勝利したという結論の最初の基準を上げた時、第三の為に犠牲になる。犠牲にしておるという。もう既に勝利した天に立った自分を認める。神も認める。これ判ったの(ハイ) 国の為に犠牲になったとすれば、個人の価値、家庭の価値、氏族の価値、民族の価値に立った基準に立つんだね。そうだろう。

 国の為に犠牲になったというのは、個人に勝ち、家庭に勝利しうる、氏族を勝利しうる、民族も勝利しうる。それは本当か! だから自分の家庭も、民族全ての民族も、氏族全ての氏族も全て個人をあがめるだろう。敬うのだから。そうだろう。全てを勝利した基準になれるよ。だから国の為に犠牲になった場合には、それ以下は、全てに勝利した基準に立つんだよ。世界の為に犠牲になった場合には、個人を勝利したんだから、統一思想は個人の為に、世界の為に犠牲になれ。何故か。一生近い生涯、いつそれをみんな勝利して、我を抜け出ることができるか、一遍に一遍の犠牲に於いて、これを抜け出る道はなかろうか、と考えた場合、この道があった。世界の為に、世界よりも神様を中心として、世界の為に続く道が、それを一遍に勝利圏に立ちかえる道であり、一遍に抜け出るその道である。サタンの世界を勝利せずしては、神の国に入ることはできないんだよ。あんた達、過去を一人一人抜いていってやれるか。三十六億みんなを倒しても、倒しても、まだ立つものがあるよ。霊界はどうするの。我々の最後の時代は、全部にうたれるような、こういうような地的基盤に立って、そういう行動をした霊人体は、一人もいない。しかし、我々はこういうような確固たる基盤の上に立って行動を成した我々以上のものはないから、我々を頼りとして呼んでおるから、呼んでおる道をいかれる。

 世界の為の犠牲者は、天地全ての存在が敬わなければならないよ。世界に勝ちたいだろう。勝つ為には、それは簡単な道じゃなく、それは世界の為に犠牲になる道だ。これを成した場合には、間違いなく、恥ずかしくなるところではなく、堂々と神の前に、神は感ずる。何故か! 神は、世界の為に犠牲になって、犠牲になってきたんだから、それに真剣になる。それをたやすく取り扱わないんだよ。こうなっているんだよ。判りましたか? 自分というものは、これは素晴らしい事である。だから、今に立っている自分というものは、善・悪の根拠地となっているんだよ。それを一つ取ってしまえ! 善の方に如何にして跳躍することができるかという事が、あんた達のそういう願いだろう(ハイ) 世界的人間になりたいだろう(ハイ) 世界的人間になる方法は、闘っては絶対にいけません。闘って、闘ってみた場合には、まだおつりが残るんだよ。それは犠牲の道だ。

 唯一の犠牲の道

 神はちゃんと見、わきまえられて、そういうような方向、日本には行くべきそういうような勝利の基台、そういうような天国は、生まれるという事を、よくよく神様は知っていらっしゃるから、最高の御方である、絶対なる神様は、それは絶対に一つしかなこを選んでおる。その道が、絶対に神様が行かれる一つの道が何かというと、全体として犠牲になる道だよ。そこによって全てが勝利することができるんだよ。

 世界の為に犠牲になった者は、先生なんだよ。あれを世界の為となる。生涯を世界の為に。それは、日本だけじゃないよ、民族、国家を越超して。だから世界は、聖人達の思想をより集めて、それを中心として法律を決めておる。そうだろう。法律はそこから。教育の資材もそこからとっているんだよ。まあ、こういうように考える時に、我々は不幸なものじゃないんだよ。不幸なもの?(ちがいます) どんなに商売やっても違うんだよ。違うんだよ。金儲けで自分の子供の為にやっているんじゃないよ。世界の為にやっているんだよ。それは、ぼろを着てやる方がもっとかわいそうだけれども、ぼろを着ながらも、こういうような尊この為に、世界の為に、我はこういうように一銭一銭も惜しみ、惜しんで、それで世界の為にこういうようになったとしても、ちっとも恥ずかしくない。それを無視した場合には、国家がひっかかっちゃうよ。国を無視した場合には、国がひっかかってしまう。国どころじゃないよ。そういう事を考えてみた場合には、十字架につけられたイエス様をちっとも恥ずかしくない! 先生はどうか。いくら立派な家へ行っても、ちっとも恥ずかしくない。それが民族を復活する花盛りの種をまく真剣なる天使である。勝利の釘を打ち、打つ。真剣なる立場である。そうじゃないの。三年も行かないよ。三年も続いた場合には恐ろしいもんだというんだよ。恐ろしいもの。何時でも何処に於いても堂々とやっていくと、日本全国は恐ろしいもんだったね。まあ、統一教会は日本に。日本の国に来ておる統一思想を恐れているんだよ。まあ、統一思想に対して、分析しようとして、血気しておるんだよ。恐ろしい問題だ、これは。個人もなく、国も捨ててしまう思想だ。しかし、国を捨ててしまって世界を拾う思想だ。そうだろう。世界の為にやっておる。まあ、こういうように、我々は世の中の人が持っていない尊いその宝を持っているんだね。

 遠くなくして、世界はこの思想に脅かされる! 歴史はもう既に証明しておる。今の自分を正して、第三者を犠牲になしてきた歴史の末は、もう尽きちゃう。再び新しい方向を研究しておかないというと、行かれる道は完全に滅びの道の現実である。ああ、我だってそうである。共産主義だってそうである。ここに於いて、統一教会は民主主義と共産主義を統圧する節になる。節になる。この思想以外には行かれる道は絶対ない。
 まあ、この思想の基準に於いて、自分の世界が開かれる。万民は一つになれる。兄弟より氏族より民族、国家より世界を一つに全てを好意的立場で愛される愛の因縁が結ばれる! それはそうでしょう。天国だ、我々の道は。そういう道が、今我々によって開かれる。

 先生の命令に従え! やれ! やるか、やらないか(やる!) 先生がいなくても第三者を立ててやらせてもこんなにやるのに、先生が直接やったら目玉から火が飛び出るよ。(笑う)まあ、自分の足は車より速いというんだね。そういうふうにわかるよ。待てよ、車なら休んで寝る時あるよ。我々は二十四時間だ。だから車より速いというんだよ。そうだろう。だから、うちの工場では夜中でも、何十人でやるところを、やれ! やれ! 数人位でやってしまう。だから速いことになっちゃう。

 だから二十年の世界、科学世界の文化基準は終着、終着点は結実するや。先生の計画圏内にちゃんとイカリをおろしてそこに結実するんだ。そう考えているんだよ。そうなり、そうなす可能性があるの、ないの?(ある) あると思えば、真剣になれ。ないと思えば、みんなそのまま帰ってしまえ。帰りたくないの? 絶対?(ハイ) 本当か(ハイ) 女の子! 一涯捧げても、よろしゅう(ハイ) ございます。(笑う) ございません、と調子を合わせないといけないんだよ。一生捧げてもよろしゅうございます。(笑う) まあ、それだけではなく、一生結婚しなくて、この髪の毛が白くなるまで犠牲になってもよろしゅうございます(ハイ) 男をみんな殺してしまってもよろしゅうございます(ハイ) 世界の女が皆そうなるとね、男は一世紀のうちに倒されてしまうよ。(笑う) 自然滅亡法則によって、簡単なもんだよ。そうなったら大変だもの。まあそれだけは、もしも女ばかりを世界からずーっと一カ所に集めてみた場合には、世界は、自然と統一されるんだよ。そうだろう。女の欲しい男はみんな頭を下げないという法則は、絶対にあり得ないんだよ。先生は、それは可能なる力あるよ。聞いてみろ。そうか、そうじゃないか(そうです) 先生の話だったら、一生涯、まあ髪の毛が白くなるまでお嫁に行かないという決意ある?(ハイ) あんた達日本の女ばかりじゃないよ。黄色も黒も茶色も白も青も、みんなそういう結実になったら、男達は自然と協力、予め手を上げて、それでも来るんだよ。聞かなかった場合には、女みんな一方に集まれ!(笑う) それは可能だ。何でこんなになったのか。これは研究やっても判らないんだよ(笑う) なった事実をいくら研究しても判らないんだ。アメリカの女だってそうだよ。韓国の女は言うまでもない。なら、男でもそうだろう。先生が親だったら、みんなここに集まれと言ったら、みんなそうなるの?(ハイ) みんな同じだよ。そうした場合には、これ等も統一する方法は、いくらでもあるというんだね。

 まあ、こういうふうに思います時に、我々は天下どこに行っても、敗者でなくして、もう既に勝利者になっておる。この犠牲の道を喜んでいくような者になった時には、天下にかなう者はいない。どこでも喜んで行く。みんながそれに勝利するよ。

 ローマはキリスト教に征服されたんだね。カイン族のその思想であるから、キリスト教に屈服される。そういうふうにみた場合には、世界はもう既に我々の生活圏内に全部巻き込まれておるんだよ。そういう思想なんだよ。我々は世界の為に犠牲になる。だから一銭も持っていないんだよ。先生は、何も欲しいものないんだよ。

 だから、善・悪の根拠地は何処にある?(自分にある) 自分にある。それをみんな処分してしまう方法というものは実に簡単だ。簡単である。死んでから自分より以上の価値があった場合には、死ねないと言う者は阿呆であるというんだね。

 一千万円持っているその全てを、おれは商売がてらに金儲けするんだ。これを投げうってしまって、三千万円儲けるという場合には、それを投げうってしまったという場合、これは喧嘩が起こるか、起こらないか?(起こりません) 喜んで投げうってしまうんだね。それで四千万円儲かるんだったら、それをみんなやってしまう。現実にその金を持っておるのはいやだ。捨ててしまって、何も持たないという法則を通らないというと、儲かる道はないんだよ。自分一身が犠牲になって、百千万円が、それより以上の価値に立ちかえるということがはっきり判った場合には、それを投げうつのを惜しむか、惜しまないか?(惜しみません) これが判らなければならない。

 自分が善悪の根拠地

 善・悪の根拠地は、はっきり判ったね。誰を恨むかというんだね。その前に自分を恨め。世界の人々は自分を教える為の先生である。そう思え。わしを一挙に勝利させる基台として捧げ物として生まれてきたのが三十六億全人類である。こう思う。それがなければ、天宙の勝利圏に立てることはできないだろう。世界的に立てることができないだろう。
 世界的時代圏に入っているんだから、実にやらなければ、複雑な世界だけど、この基盤に立っているんだから、我は世界に向けて働きかける。そういう時代にそれは可能なる時限、三十分圏内に入ったということは、世界的になった場合、一挙に世界を我等の懐に抱くような、そういう時代圏に入っておるから、社会的に、世界的にそれを適用させる。そういうような実に素晴らしい時になってきたんだ。

 嬉しい世界として眺めておるよ。悲しい世界ではないよ。いくら悪としても、現にあんた達は悪だけど、我々は善の道だとちゃんと勝利の基準を持っておるとして、喜んで眺めておるんだよ。そうだろう。希望をもって眺めているんだ。だから神様もそうだ。神様もこういうような、頂上のそういうところに行ったんだから、いまだに願い求めて来たそういう者達が、この地上にもう生まれつつある。広がりつつある。如何に神様、喜ぶであろう。霊界の先祖達は如何に喜ぶであろう。まして二十四時間見詰めながら応援しているんだよ。ヤレ! ヤレ! 統一ヤレ、というんだね。

 こういうことを考えますと、世界は我々の為に残された祭壇になる。テーブルみたいなものになっておるというんだね。もしも自分の国になかった場合には、日本の国になかった場合には、国を勝利したという条件を何処でもつ、そうだろ(ハイ) それだから、今の現実に住む家庭というものは、我の勝利の名札となり、勝利の名札をつけさせる為にあるんだと思う。ぶつかる全てのものを、我を滅ぼす為でなくして、我を世界的な権威ある勝利者として作る為にああいうものがあるというんだね。それを勝利してこそ初めて、みんなから認められるというんだね。だから、全てが我々の為にある。そういう思想になっておるんだよ。そういう考えでもって、今から日本に帰ってやらなければならない。どうだ、自信あるの(ハイ)

 まあ、今までみたいな考えでいたら絶対にいけませんよ(ハイ) もう自分は既に勝っておる。こういう思想をもって出発するのが、統一の思想である。だから韓国に於いても、聞くなといっても、みんな涙ぐむようにして、頭を下げるようになるんだね。それは恐ろしいものである。それは出来上がる。それは何故か。それは上のものもないというんだね。敵もなければ上のものもない。だから最高の勝利となって、敵がないんだから、その圏は天国にならざるを得ない。だから、そういうふうにいった者は、もう既にこの地上に住みながらも神様の勝利の世界に住む立場に入る結果になってしまうというんだね。こういう考えでもって、我々統一教会は、外的に活動しないんだね。とんでもないことをやらせる。宣伝をしないんだ。一方をずーっとやっていく。やっていくと、みんなはいつの間にか通りぬけてしまうんだね。だから実績の前には頭が上がらないんだね。その実績たるものの方法、手段をかまえてやった実績じゃないよ。涙と血を一つになって、誰でも涙ぐましい実績を抱いたその心の動きが、誰もが無視できないんだね。今度日本に帰りましたら、うんと働いてもらいたいというのが、先生の考えだよ。

 どうせ後になるんだったら、日本に於いて犠牲になるよりは、アメリカに行って犠牲になるよりは、ソビエトに行く、こうなるんだよ。そうじゃないの(ハイ) だから、そういうような準備をしなければならない。だからそれの準備を何処でするか。アメリカへ行ってするの? ソビエトへ行ってするの? 日本である。だから、今は準備の段階である。実行の段階ではないという考えでもっておらなければならないんだよ。そういう覚悟だよ。ここで鍛えたという精神の勝利圏を勝ちよせ、アメリカの財閥を動かし、ソビエトの財力を動かす。財閥をぬぎ取ってしまう。それを通り抜けながら、共産圏より以上強くならなければならない。こうなるんだよ。共産主義に負けてはいけない。民主主義の国民思想に負けてはいけない。そうなんだろう。だからそれに向かって進もうとする我々としては、それは相手の行く前に準備しておかなければならない。その準備の場が日本にある。その準備するところによって結実する者は、そういうところに行かれる前に死んでしまうんだよ。そういうところは夢の所である。全然そういう場を実行の場として迎えることは絶対できないんだよ。わかるか(ハイ)

 日本に於いていくら苦労あったとしても、アメリカへ行っての苦労は比べられない。何故かというと、日本に於いては感情が通ずる環境をもっている。自由自在に話せば理解され得る、そういう環境である。日本は狭いんだから、みんな親戚関係になっておる。だからみんな理解してくれる。それから助けてくれるんだよ。アメリカの場合は全然そうじゃない孤立一本だという場合には、その環境でなす。如何に孤独か。孤独の立場でそれをのりきれるか。如何に苦労な道が続くだろう。それを今から迎えていこうとする自分であっては、これを準備しておけばたやすいもんだ。これ以上の事があるに違いない。これ以上の道を見いだして、そこに耐え、訓練し、訓練された体験しておくという考えでもって、我々はこれを走り回らなければならない。努力しなければならない。そうなっているんだよ。今までそれ考えたの?

 訓練の場だ。実践のうちじゃない。世界的な実践じゃないよ。もっと世界的になるには、アメリカがもっと世界的になり、アメリカを通してソビエトへ行った場合、世界的になる。

 そういうふうに思った場合には、この日本の地に於いてもっと何かをやらせたいという者、これは、とんでもない奴等だよ。そういう者あった場合には、自分の悩みあった場合は、これは自分を、自分の環境を擁護する。それはもうサタンのものと思っても間違いないというんだね。そういうものには、絶対慕い求めて話もするなというんだ。これは生きたサタンだ。実体のその肉身を被った、生きた何か?(サタン) それあるよ。アメリカもそうだ。

 アメリカの如何なる地に於いて勝利した基準を世界からの地に於いて勝利した三回、そこを通過しないと世界的にならないんだよ。原理がそうなっておるよ。四位基台だから。そういうふうに思って、日本の地に於いて満足する者ならずして、アメリカとかソビエトに行く。日本はそうだろう。アメリカに行かれるだろう。中共に行かれるだろう。ソビエトにも行かれるだろう。(ハイ) だから日本を遣わせて、一遍に統一教会がそういうことを成したという勝利的な世界的基盤を先生は握りたいんだよ。日本人を正した場合には、アメリカや、それから中共も生かすことができるや。ソ連の共産圏も。もうそうなったら、日本は不幸か幸か(幸福です)

 その思想は恐ろしいというんだね。もっと犠牲を多くするのが勝利していくことだ。判っただろう。

 永遠に残る道

 この思想は、一遍で世界を呑み込んでしまうんだね。呑み込んでしまった。これは方法手段じゃないよ。それは事実の方策であり、これが道だというんだね。これは本当の道だというんだね。主管の道じゃないよ。そうだろう。だからこれは永遠に残る。永遠に残る。だから、ここに於いて成したその功績というものは永遠に残る。自分を中心として残したその功績は永遠に残らないよ。これは覆してしまうんだよ。崩れてしまうんだけど、これは第三者の為に犠牲になって残した功績は、永遠に残る。永遠にね。死ぬ時でもそれを神の前に供えて、わしは人の為にこうこういうことやりましたから、そういうことは弁解の条件なり、弁護士のその弁護すべきその条件となるんだよ。自分の為にやったのでは、それは弁解の余地はないよ。わかったの(ハイ)

 この世の中には、自分を占領する者あるとすれば、それ以上の思想をもって来ないというと占領する道はない。これ以上の道はどこにあるや。これ最後だね。これ以上の道はないよ。あるか考えてみな。

 これはみんなが好かれる道なの、みんなに嫌われる道なの?(好かれる道) あんた達、聞けば、それは好かれる道だろう。一般から聞いた場合には(嫌がる道) 死んでも考えたくもなこなんだよ。しかし、そういう者達は、後でこういうように話をすれば、一遍に参ってしまうんだよ。だから、これは素晴らしいんだね。新しい決意して日本の地に訓練の場として恥ずかしくない、そういう実力者になるように、今度帰れば、うーんと走り回って、犠牲になってもらいたいんだよ(ハイ)
 先生は命令して、アメリカによこそうか。ソビエトによこそうか。準備しておく者が勝利者になるんだよ。わかったの(ハイ) そういうふうにするに従って、我々は世界的悪を手をつけずして自然に滅ぼすことができるというんだね。これ以上素晴らしこはない。統一の原理はここにあるというんだね。

 祈りましょう。

祈 り

 天のお父様。今まで我々は、いろいろの思想の道を辿り、人生の行くべき道は何処にあるや。或いはもがき合いながら努力しましたけれど、その道を求めざるして、今まで苦悶したものでございますけれども、今朝、こういうふうにして話を聞いてみると、その正なる道は自分の中にあり、自分の一身に全てをかかえておることをはっきり知ることができました。それを切に感謝申し上げます。

 善悪の根拠地であるこの主体の自分を如何に占領しえるかという方策もはっきり知ることが出来ました。もう判りましたから、神に心配かけるような愚かな者になりません。堂々たる主の勝利者道を今から行きますから、自分より家庭をぬけ、家庭をぬいて、それから氏族、民族、国家、世界まで行かれるその決意をもう知っております。そうならなければならないこと絶対的に判りましたから、神は、自分に対して御安心なさるように、神を慰める子女となるように、なった場合には、神はもう既に我々は、我々に対して、世界の勝利者としての資格を与えてくれるという事を思います時に、実に感謝すべきこの時間でございます。

 どうか日本の地に帰りまして、我々は、この韓国に来られる前より以上の新しい人間にならなければならないことをはっきり判りました。自分の言った一言が世界を滅ぼす動機になり、自分の一身が神を喜ばせ、神の国を解放することができるように、そういう素晴らしいその中心者であるということがはっきり判りました。その価値を無限に延ばした、永遠に残るその価値が如何なる方向によって生まれてくることがわかりましたから、神、御安心なさいまして、我々がそれに愚かな、それは怠けるそういう立場に立った場合には、鞭打ちましても、今我々の犠牲なるべきその一方の方に全てを捧げていくように、更に励まして下さる事を切にお願い申し上げます。

 今までいろいろ不平を言いました。兄弟はああであり、と不平を言いました。しかし、不平を言う自信も持たない自分であるということが判りました。神の血統が堕落してサタンの血統に来た者が神の摂理圏内に立って、不平の思いを抱くそれ自体が恥ずかしいことではないか。大きい恥ずかしいこと、悟ること十分に成しましたから、今後そういうような思いを持たずして、感謝に伝えるような、それを仰ぎみるような、それ自分として神のその国の為に、神の世界の為に奉仕して、その生涯を終えるという尊い思想と共に行ける実体となるように、今の時間、覚悟して決意を成しましたから、神認めて、信じて、今後より命令を新しく知ることが出来るように祝福して下さることをお願い申し上げます。

 今朝、こういうようにして、新しい我々の立つところを示して下さった神に対して、それは天に対して感謝すると共に、今後の生涯は間違いなく神に犠牲しえる勝利の基準を神にかえすことが出来ますから、心配せず、信じて、神我々を信頼してもらいたいのが、今の心境であります。全ての神の好意に一致する生涯を残すように、我々の願いと思いを神の求めるその一致基準が決まることができましたこと感謝すると共に、全ての祈りを真の父母様の御名を通してお祈り申し上げます。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.06.16 20:17:26
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