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奇   知   外   記

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2021.06.19
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「我が家庭の行く道 }(その1)


 歴史的な所願成就の起点は私自身

 人間の心と体は、主体と対象の関係にあります。この体と心が一体となり、一つの起点を整えているかということが、我々において、最も深刻な問題なのです。

 体が心の要求のごとくに従わなかったために、心が願うままに体が応じることのできる立場を、今まで人類は模索してきました。また、この体と心の闘いを停止させて、ここに平定の起源を立てるために、数多くの人々が修道の道とか、あるいは、教育を通じつつ、あらゆる苦労をしてきましたが、いかなる人も、いかなる所でも、その平定の起点を整え、決定的な勝利を成したという事実が、歴史上にはありませんでした。

 この闘いは過去から今日まで継続しており、今も皆さん自体の中で継続しているのです。この闘いを、いつかその限界点を立て、清算することが人類の願いであり、人類を導かれる神様の願いとなってきました。このように、上では神様の所願であり、下ではこの地上に生きている人間の所願となっているこの所願が成就される土台は、何でなければならないのでしょうか。世界でなされる前に国家でなされなければならず、国家でなされる前に民族でなされなければならず、民族でなされる前に家庭でなされなければならず、家庭でなされる前に私自体で、なされなければならないのです。

 結局、その成就の起点は、対外的な、ある世界で準備されることを願うことよりも、対内的な私自体で準備されなければならないのです。私自体内で、決定的な勝利の起点を準備しない限り、我々が願い、神様が願われる地上天国は成されないのです。分立された私自身、二つの分かれ道で闘っている私自身を、どのようにして一つにするのかという問題が、人類が解決しなければならない課題であり、人類を通じて勝利の起点を捜し求めてこられた神様の歴史的な所願なのです。

 このような観点から見て、歴史的な所願の標準となるその帰着点がどこかというと、これは世界でもなく、ある国家でもなく、ある家庭でもありません。それ以前に、私自身でこの帰着点を解決し、勝利の出発を見るまでは、家庭から世界に行く道がないのです。このように、解決点を探しえない立場にある個人を中心として家庭がなされており、そのような家庭を中心として社会がなされており、そのような社会を中心として国家と世界が広がっているというのが、人類が生きている現在の世界の実情です。先生はこのように見ます。

 歴史過程を見るとき、このような立場で、歴史を通じて、闘いが継続されてきました。それでは、この闘いの本拠地はどこでしょうか。ある国がこの闘いの動機になっているのではありません。もしくは、ある氏族がこの闘いの動機になっているのでもありません。この闘いの本拠地は、どこまでも個人の心と体です。これが、この闘いの起源地であることを皆さんは知らなければなりません。これが平定されない限り、この闘いは止みません。これが永遠に平定され、永遠に一体となりうる基準が開かれるようになれば、ここから、私を中心として、神様が願われる権限が顕現されるでしょうし、完成基準が成立することでしょう。

 このように見るとき、神様の権限が現れる土台となりうるところは国家ではなく、「私」であるというのです。もしくは、神様が願われる完成の尺度となりうるところも、国家ではなく、「私」なのです。すべての勝敗が「私」という個体から始まるために、個体が完全に実体として現れ、まとまるようになるとき、そこで全体像を見ることができるのであり、その全体像の中に、初めて一つの形態を整えた、我々の理念的な世界が現れるのです。従って、すべての起源は相対的な世界にあるのではなく、私自体にあるという事実を、我々は否定することができません。

 体と心が分立した個人を植えたために、そのように植えられた個人が家庭へと広がり、氏族へ、民族へ、国家へ、世界へと広がってしまったのが現在の世界です。そのために、この世界に心的な人間の形が植えられ、体的な人間の型が植えられてしまったのです。それで、その結実として、二つの世界の形態が整えられたというのは、極めて自然な現象です。

 体を中心として引かれてきた今日までの歴史

 世の中を見ると、今我々が見ているこの世界はどのような道を辿ってきたかといえば、体の歴史と心の歴史を辿ってきました。そして、それが物質的な世界と心的な世界として現れ、対照的な思想体系を整えたのです。

 それでは、この世界を開拓してくるときに、いつも先頭に立ってきたのは何でしょうか。それは、心ではなく体であったというのです。すべての主体的な内容を整える起源が、心にならなければならないにもかかわらず、この世界歴史の発展において、体が主導的な役割をしてきたのです。
 それは、我々個人を見ても、如実に証明できるのです。皆さん個人を見ても、心に決めたとおりにしたくても、心に決めたとおりにはならないのです。正月一日になれば、誰もが新年を迎え、新しい心の姿勢を持って、一年を意義あるように、一生に忘れることのできない意義ある一年を残すためにと計画し、心を引き締めて、今年は体を導いてこのようにすると決心しますが、その計画と決心のとおりにする人がどれほどいるのかと考えてみても、その決心どおりにする人はごく僅かなのです。

 千に一つもないという事実を見るとき、我々は心を主として歴史的な動機を整えたのではなく、体を主として我々の生活環境と社会環境と生涯を引っ張っているという事実を否定することができません。

 それでは、どうして心が主体となったのでしょうか。どうして心が歴史過程で、主体的な立場に立って、体を導かなければならない闘いの道に立っているのでしょうか。このような場でいじめられ、苦しい立場に立つのが心であったということを、我々は考えなければなりません。

 これは、皆さん個人を見ると、確実に知ることができます。心はこうしようとするのに、体はあのようにしようとします。心がしようとするとおりになるのではなく、体がしようとするとおりになってしまうのが、我々の日常生活であり、短い生涯でも、それが今まで皆さんが生きてきた生涯の路程に違いないのです。このような問題を我々が確実に点検してみると、心が主体的な立場に立てず、体がいつも主体的な立場で、心を引っ張ってきた生涯を生きてきたのです。

 体を中心として、心が引っ張られていくときは、必ず外的な世界、神様がおられない所に帰結するのであり、心を中心として体が引かれていくときは、必ず神様がおられる所に帰結するのです。それでは、今日、この世界が唯物主義思想で蔓延している事実をみると、これは体を基準として引っ張られた、結果的な世界であると考えざるをえません。

 世界の問題より個人の問題の解決が急務

 外的な世界を平定する前に、私自身がまず解決しなければならない問題は何でしょうか。それは心を中心として体を平定させうる絶対的な権限を持つことです。そのような権限を持つことのできる心となれば、その心でも体を屈伏させることができ、その屈伏させた勝利の土台が万民に適用できる内容となれば、そこで新しい思想が生まれ、新しい世界を形成できる道が開かれるのではないかと、このように見るのです。

 ところで、人々は一番問題となる要因をどこに置いているのでしょうか。世界に置いてはいません。私に置いているのです。今日、人類を見ると、第一の問題点は、世界が闘う所にあるのではなく、その根本原因を皆さん各自に追求してみると、全部私に置いているという事実です。それで、皆さん自身を見ると、世界が高く、大きくなることを願うより、私自身が高く、大きくなることを願っているのです。「世界が幸福である前に、私自身が幸福でなければならない」と、皆このように願っています。私自身が幸福でなければ、家庭がいくら幸福だと言っても、本当に幸福だと言うことができず、世界がいくら幸福だと言っても、本当に幸福だと言うことができないのです。

 一般的に、希望を未来に置いているのですが、その起点は世界を中心として考えるのではなく、皆私を中心として考えているという事実を、我々は否定することができません。成功するのも、私がしなければならない。一等になるのも、私がならなければならないというのです。良いことも、私が良くなければならないのです。これは、人間が持つ、否定することのできない要求です。それにもかかわらず、今日、人間世界ではこれを否定するようなことをしています。否定する歴史の流れに従ってきているのです。このような闘いが入り混じっているということを、我々は考えなければなりません。

 世界を捜し求めることのできる動機的存在

 では、私自体の幸福の基準をどこで探すのでしょうか。これが問題なのです。神様がおられるとすれば、神様が人間に対して救援摂理をされるとき、歴史的な内容を通じて犠牲を払ってこられたのは、神様自身が幸福になるためなのでしょうか。そうではありません。神様の幸福のためになされたのではありません。

 神様は絶対的であり、全知全能の方であるために、その方には限界とか、何か時限的とかということはありえません。すべてのことを超越しておられます。それゆえ、ある事情の限界圏内に束縛されて、それを打開できない立場におられる方ではないのです。そのような方が今まで捜し求めて来られた所願があるとすれば、その所願はその方自身のための所願ではありません。我々人間に対して、子女を捜し求めようとする所願を持って来られたのです。それで、その所願は神様自体で帰結されるのではなく、人間において解決され、神様に帰って行くようになっているのです。このように見ると、何よりも各個人が問題となるのです。

 今まで、このような個人をつくるために、神様が動員され、歴史が動員されました。復帰摂理の伝統的な思想を見るとき、人間始祖アダム・エバが失敗することによって、カイン・アベルを通じて、新しい摂理の御旨を立てたその日から今まで、捜し求めて来られたことは何でしょうか。それは世界です。その世界を捜し求めることのできる動機的な存在は何でしょうか。それは一人の真の人なのです。そのような人がこの地上にいないために、その一人の人が来なければなりません。そのような使命を背負って来られる方がメシアなのです。

 メシアのための基台を立てる目的

 我々の原理では、信仰基台を立てた土台の上で、実体基台を立てなければならないと言っています。そして、実体基台を立てるようになれば、メシアのための基台が立てられるようになるのです。

 それでは、メシアのための基台を立てるのは何故でしょうか。私が初めて真なる位置を探し求めるためであり、体と心が一つになりうる起源を迎えるためであり、分かれてしまった天地が統一されうる起源を探し求めるためです。ここで、すべてのことが決定されるのです。私個人が完成できなかった歴史的な恨みを解き所願成就するために、神様がなしえなかった摂理の御旨を成就させるために、失われた歴史を探すために闘っている現代で、勝利を固く誓うために、暗澹たる未来を希望の未来に変えさせるために必要なのです。このようなことは全部、メシアを中心として、新しい出発をすることができるのです。その出発の基点に置くことのできるものは、一人の人によって決定されるのです。我々は一人の人によって始まる、そこに、一つとなることのできる道を探し求めなければなりません。

 そこで一つとなるためには、どうしなければならないのでしょうか。ここに、メシアという方がいます。(板書されながらお話しされる。) その方の体があり、その方の心があります。また、私の体があり、私の心があります。ここから見れば、メシアは神様と一つとなっています。その方はより強いプラスの立場に立った主体です。そのような主体の因縁によって、心と体があります。

 その心は強い心です。どれほど強いのでしょうか。世界人類の心を全部合わせたものよりも強いのです。その心がどれほど強いのでしょうか。この世界のすべての悪なる勢力が統合して攻撃しても、後退しないくらい強いのです。この世のどのような力を持って占領しようとしても、占領できないほど強いのです。メシアの心は、そのようなプラス的な内容を持っているのです。

 それでは、その心を中心として、体はどのようになっているのでしょうか。相反する立場にあるのではなく、一つとなりうる立場にあるのです。いつでも一つとなっています。心と体が完全に一つとなることによって、新しい私が成立するのです。そうなれば、皆さんは初めて「私」という人格が造成されるのです。心と体、この二つが一つになったとき、新しい「私」が形成されるのです。すべての事物は、このような内容を中心として発展するのです。

 より大きなものが生じるためには、小さなプラスとマイナスが兼ね合い、その二つが一つの価値をなし、プラス的形態を整えなければなりません。そのようになるとき、また他の相対的マイナス的形態と一つとなって大きく発展していくのです。このように見るとき、目的を否定しては発展がありえないのです。ここから、弁証法的唯物論が壊れていくのです。

 このように見るとき、メシアの体と心は一つになっています。ところが、我々人間を見ると、元来、人間の体と心が一つとならなければならないのに、どのようになっているのかといえば、これがメシアとは違って、逆さまになったのです。堕落した人間なので、体がプラスとなったのです。心が体に負けてしまったのです。「それは違う。私の心はいつも体に勝つ」と言う人がいれば、手を挙げてみなさい。ここに問題点があるのです。今まで、この体が主体となって心を引っ張ってきました。そのために戦争があり、闘争があるのです。

 本来は心がプラスであるにもかかわらず、体がまたほかのプラスのような主体的な立場で、今まで心を引っ張ってきたのです。このようなところには、戦争が止むことがないのです。プラスとプラスは相反するのです。和合をすることのできる道がないのです。それ故に、問題となるのです。復帰しようというのは、心に強いプラス的な主体性を与えようということです。そうして、体がマイナスとなるときは正常な人間になるのです。

 宗教の作戦

 ですから、これを替えなければなりません。あなたは私となり、私はあなたとならなければなりません。心と体が一つとならなければなりません。体が動機となってはなりません。心を中心として、私があなたになり、あなたが私にならなければなりません。ところが、今までは、そのようになりえませんでした。

 それでは、心と体を一つにするためには、どのようにしなければならないのでしょうか。体を弱化させなければなりません。それで、宗教はこのような教理を主張しているのです。宗教は心を強くし、体を弱くする作戦をするのです。この二つの作戦をするのです。万一、摂理過程にこのような歴史路程がなければ、神様はおられると言うことができません。堕落した人間を神様が救済しようとされる歴史的な証拠としての実体が宗教なのです。

 宗教の教えは、「心を中心として体を打て」と言います。それでは、体を打って何をするのでしょうか。心を主体に立てるのです。心が主体にならなければならないのです。それでその主体を中心として体が一つとなっても、これがプラスとなるのではありません。来られる主と一つとならなければなりません。そうして、主がプラスとなり、人間がマイナスとなって接するのです。これが皆さんが言う、「メシアのための基台」なのです。「メシアのための基台」は、そのようにして成されるようになっています。

 そのプラスの作用が神様から始まって、アダム・エバの心を通じて体まで連結されなければなりません。このように、神様を中心として作用をしなければならないのに、心が立たなければならない位置に、体が立っているというのです。神様が主体なのに、体がまた他の主体の立場に立っているために、人類歴史が相剋的な立場を取ってきたのです。心がマイナス的な立場で引っ張られてきているために、これをひっくり返さなければなりません。そのためには逆にしなければなりません。これが宗教の道であり、修道の道です。

 心と体が一つになることのできる起源は神様

 このように見るときに、問題はどこにあるのでしょうか。皆さん自身にあります。世界をひっくり返す前に、自分をひっくり返さなければなりません。そのために、先生も一番問題となったのが、自分自身でした。これが大きな問題でした。

 それでは、自分を中心として問題視する、そのような要件はいくつあるのでしょうか。復帰はそのままするのではなく、堕落した経路と逆の経路に従って、創造原則によってするのです。神様はアダムがエバの主体となって、エバが天使を主管するように作られたのです。ところが、堕落はその逆の過程を経てなされてしまいました。そのために、アダムを中心としてエバが指導を受け、アダムとエバによって天使長が指導されなければなりません。

 アダムはその指導の原則をどこから受け継がなければならないかといえば、神様から受け継がなければなりません。神様から完全な指導を受け、神様と一つとなる立場に立たなければ、完全な指導体制は出てこないし、本来の原理原則に一致しうる指導形態は成立しないのです。

 アダムは神様の前に完全な指導を受けることができ、個人的な感情から生活環境と生涯の路程を通じて、神様と完全に一つになることのできる起源を探し求めたでしょうか。探し求めることができませんでした。また、アダムは神様と共に喜ぶことのできる動機を持ったでしょうか。持つことができませんでした。堕落によって悲しむべき動機を持ったのです。神様と内的に一致し、干渉を受け、指導を受けられる立場に立ったのではなく、干渉を受けることができず、指導を受けることができなかったために、神様は追放しなければならなかったのです。すべてのことが相反する立場に立ったのです。神様とアダムが一つとなり、アダムとエバが一つとなるのが正常なのです。こうして、天使長を愛さなければなりません。

 皆さん自体を見るとき、皆さんはどのようになっているでしょうか。皆さんの心は神様と一つとなりうる内縁を持っています。しかし、皆さんの体と環境は、それと反対の立場にあります。即ち、堕落圏に属しているのです。

 堕落の起源はどこから来ているのでしょうか。もちろんアダムから堕落しましたが、それは、どこまでも対象的存在である天使長から始まったのです。天使長は人間の前に対象的存在です。アダム・エバを見るとき、アダムが主体ならば、エバはその対象として一つとなるとき、天使長はその外の存在です。(板書されながら) 横的に見れば天使長がいて、エバがいてアダムがいて、神様がいます。これを縦的に見れば、一番下に天使長がいて、その上にエバがいて、アダムがいて、神様がおられます。

 皆さん自身は、一つとなりうる起源をどこから探さなければならないでしょうか。心から探すのではないのです。それを知らなければなりません。心から探すのではありません。本来、心は一つとなろうとしています。羅針盤が南北を示しているのと同じです。ところが、南北を示さなければならないのに、これが反対に北南を示しているというのです。それだから皆さんの心は、しきりに戻ろうとします。そのような作用をしているのです。それで、体と心が闘っているのです。

 それでは、神様と一つとなりうる土台が心にあるのか、体にあるのかというと、心にあるのです。心は神様の側にあるために、自然に一つになりうる環境になっていますが、体はサタンの寓居地となり、悪の出発地となっているというのです。故に、サタンの出発の起源、動機がどこかというと、心ではありません。体です。それで、体は心が行こうとする道と反対の道を行こうとするのです。体が好むところからは、神様の前に行く道を捜し求めることができません。体が嫌がる道からのみ、神様の前に行く道を探し求めることができるのです。

 祭物を捧げる目的はメシアを迎えること

 復帰摂理の歴史において、縦的な蕩減条件を横的に蕩減復帰しなければならないと言われています。それでは、私を見るときに、「私」という存在はどのような存在でしょうか。神様の身代わりとなる心があり、その身代わりとしての私があり、私を中心として相対があり、相対を中心として子女がいます。四位基台の形態以外に、何があるでしょうか。万物があります。私を中心として家庭があれば、家庭の他には何があるでしょうか。万物があるのです。

 では、再創造歴史とは何でしょうか。再創造歴史とは逆さまにすることです。堕落したために落ちてしまったので、これを再び引き上げるのです。そうするには、外から逆さまに入って来るのです。出て行くのではないのです。堕落しなかったならば出て行ったのですが、反対になる業をするのです。逆さまに捜し求めて入って来るのです。それ故に、旧約時代は祭物時代です。祭物時代は万物を打つ時です。家庭を中心として見るとき、父母がいれば息子がおり、万物があります。即ち所有があるのです。

 縦的な歴史を見るとき、旧約時代はどのような時代だったのでしょうか。(板書されながらお話しされる。) 物質を打つ時代でした。新約時代は子女を打つ時代であり、成約時代は父母が十字架を負う時代です。これを縦的に蕩減するので、捜し求めて入って来るのです。これを横的に展開すれば、これは物質に該当するのであり、これは息子に該当するのであり、これは自身に該当するのです。個人はこのような立場に立つことができる存在となることができません。

 そのような環境を、個人は持つことができません。家庭を持って初めてできるのです。家庭でなくては、このような内容を満たすことのできる土台を持つことができないのです。万物があり、息子があり、父母があれば、家庭がなくなりますか。 復帰歴史では、このような縦的歴史を横的に蕩減しなければならないので、そのような内容を決定するためには、家庭を持たなければならないのです。

 今まで、神様を訪ねて行く時、旧約時代は神様の前に祭物(万物)を打って捧げた時であり、新約時代はそれより一段階上がってきたのです。蕩減復帰なので、外的に攻め込んでくるのです。神様が打っても、そのまま打たれる人々は天の物であり、そのまま打たれない人々はサタンの物です。ここで不平を言い、反抗する人々はサタンの物になるのであり、絶対に服従し、順応する人は誰の物になります? (「神様の物です。」) これを決定して出て行くのです。

 祭物とは何でしょうか。命を懸けて犠牲になりながら、じっとしている人を誰が打ちますか。祭物は誰がつかみますか。他の人はつかみません。祭司長がつかむのです。祭司長は神様の代身でしょう? それで神様が打つのです。その時、「アイゴー。私は死にたくありません」と言えば、サタンの物をそのまま受け継ぐのです。しかし、「喜んで死にます」と言って、感謝して受け入れれば、そこで復活が起きます。体は死んでも、神様の前に再び新しい者として受け入れられ、存在認識圏が成立するのです。こういう業をしてくるのです。それ故に、物を打って神様が受け入れられる基準を立てるのです。そのような時代が過ぎた後には、物を打って犠牲にさせ、それによって息子一人を探し求めるのです。それで、旧約時代の所願は何かといえば、真のオリーブの木として、又命の木として来られるメシアを迎えるということです。

 メシアの所願

 それでは、メシアの所願とは何でしょうか。自分が犠牲になっても父母の立場へ進むことです。そのためには、代わりに蕩減しなければなりません。必ずアダムとエバを中心として、蕩減法が展開されるのです。その責任は誰にあるのかと言えばアダムにあるのです。それ故に、アダムはエバを探すために、相対を探すために来るのです。相対を誤って探した時は、犠牲になるのです。それで、イエス様は家庭を探し求めようとしたのです。

 家庭を探す前に誰を探さなければならないかといえば、天使長を探さなければなりません。天使長を屈伏させなければなりません。神様が万物を創造されるときに、協助した天使長がいたように、万物を支配することのできる息子が現れたならば、そこには勝利した天使長がいなければならないのです。イエス様の時に、この地上で勝利した天使長型の代表者は洗礼ヨハネでした。

 イエス様の使命

 洗礼ヨハネは、霊界で失われた天使長の代身者として、地上で復帰された存在でした。天使長型洗礼ヨハネとアダム型イエス様が一つになって、万物を支配しなければなりませんでした。そうするために、イエス様は万物を支配することのできる勝利の祭壇を相続しなければなりませんでした。その祭壇がユダヤ教でした。ユダヤ教は旧約聖書を信じ、祭壇を守ってきた宗教でした。祭壇を守りながら万物を犠牲にし、祭物を捧げたその基台を、イエス様がすべて引き受けなければなりませんでした。洗礼ヨハネは、イエス様がそれを引き受けられるような手続きを踏まなければなりませんでした。ところが、洗礼ヨハネが失敗することによって、全体の内容が乱れ、イエス様がその使命を代理として担わなければならない立場に立つようになったのです。イエス様はその使命を果たす第二次路程で死んだのです。

 イエス様はどんな使命を果たすために、サタンと闘ったのでしょうか。洗礼ヨハネ的使命を再び行う路程で十字架につけられ、亡くなりました。それで、息子の使命を果たすことができたでしょうか。できませんでした。イエス様は亡くなった後、どういうことをしたかといえば、天使長を捜し求めました。その次に、息子が行くことができるようにしなければなりません。従って、僕として行かなければならなこと養子が行かなければならなこを探し求めるのです。イエス様は直系の息子になることができませんでした。直系の息子の使命を果たすことができなかったのです。天使長の道、僕の道と養子の道を行くようになったのです。

 それ故に、イエスを信じても、せいぜい養子にしかなれないのです。血統を連結させない因縁は天使長級の立場です。それは、血統の違う立場にいるカインと同じような存在です。今までの摂理歴史は、その血統を連結させるための闘いを行ってきているのです。

 イエス様は十字架で、息子として亡くなったのではありません。イエス様は霊と肉が一つになった息子の立場で、神様の前で、勝利の基台として捧げる立場で祭物になったとすれば、再臨する必要がありません。完全に捧げることができなかったのです。半分しか捧げることができませんでした。体は失い、霊だけが捧げられました。これは霊界の天使世界に相当するものなのです。

 ですから、キリスト教を信じて行った人達は、どのような級に留まるのかといえば、天国に入ることができず、楽園級以下の霊界に行って待機するのです。即ち、天使長が支配する霊界、天使長圏に該当するのです。それ故に、霊界での勝利の保護圏として、地上で勝利の保護圏をつくっておかなければなりません。それを継承させることが神様の御旨であり、イエス様が来られて行った御旨であるため、キリスト教は霊界の勝利圏と地上の勝利圏を一遍に捜し求めて立てて、天使長圏を継承しなければなりません。これがキリスト教の使命です。キリスト教では、実体的完成はありえません。霊的完成のみがあるのです。従って、キリスト教は霊界を中心として出て来たのです。

 再臨主の使命

 それでは、再び来られる主はどのようにしなければならないでしょうか。霊界の天使長圏を屈伏させる権限を持たなければなりません。それを持たずして、地上での出発をすることができません。再び来られる主は、この地に来られる時、霊界で勝利したイエス様以上の全体の霊的世界を継承する立場で来なければなりません。言い換えれば、イエス様が洗礼ヨハネから継承したと同じようにです。洗礼ヨハネがイエス様から霊を中心として継承しましたが、その約束どおり果たすことができず、分れてしまいました。それで、これを再び行うために、キリスト教を立ててきたのです。

 これと同じように、再び来られる主も、アダムの立場として来られるため、天使長圏の世界であるイエス様を中心としたキリスト教圏、数多くの宗教圏はその主の前に属さなければなりません。そして、キリスト教を始めとしたすべての宗教が、来られる主の前に、霊的に相続しなければならないのです。このような相続を受けないで、地上で再臨主として君臨することができません。故に、主は霊的世界を統一したその統一方案をもって、地上世界を統一するために来られなければなりません。

 統一するためには、霊的世界で引き継いだものを肉的世界のキリスト教に引き継いであげなければなりません。そうしなければならないのに、地上のキリスト教は霊界を中心とし、地上世界を中心としていません。ところが、来られる主は霊界を中心として来られるのではなく、地上世界を中心として来られるのです。ここで衝突が起こるのです。一つは霊界を眺め、もう一つは地上を眺めている立場にいます。それで、一歩間違えば、ここから分かれ易くなるのです。それがキリスト教の運命であり、来られる主の運命です。そして、これが一つになったといえる基準ができなければ、息子として完成したといえる立場を、地上では探すことができないのです。

 では、地上で完成しなけばならない基準はどういうものでしょうか。それを知るために、まず、イエス様が何故死んだのか、ということを知らなければなりません。第一に、家庭を持つことができなかったからです。二番目に、国を持つことができなかったからであり、三番目に世界が一つになって、イエス様に侍ることができなかったからです。悪が支配している世界のために亡くなったのです。悪は国だけを支配しません。世界を支配します。この三つのため、イエス様は十字架につけられ、亡くなったのです。これが、闘っていかなければならない三段階です。

 再び来られる主がしなければならないことは何でしょうか。主はこの地に来られて、まず、霊界と肉界を統一しなければなりません。その統一方案を模索しなければなりません。必ず霊的世界の勝利の起源を備えて、肉的世界の勝利の起点を準備しなければなりません。それを準備するのに、個人からしなければなりません。それで、霊的なものを代表する心の基準と、肉的なものを代表する体の基準が一つになることができるか、これが問題なのです。一つになることができないとすれば、その内容は何でしょうか。これが問題です。

 本性的基準となる心の土台

 来られる主の苦衷は何でしょうか。霊界と肉界をどこから繋げなければならないかというと、それは世界からするのではなく、逆に個人からしていかなければなりません。それでは、来られる主も体と心を持って来られるのに、その方の体と心は絶対的に一つになっているのかというのです。そのようになっていれば、堕落圏に属していない立場で、神様の主管圏にいるかもしれませんが、その方も、サタン世界の血肉を通して出て来られるので、すべてがそうではないということです。

 その作用は皆様と同じように、起こるのです。心を中心として、体を屈伏させる業をしなければならないのです。そのようにして、どの基準まで上らなければならないかというと、堕落前のアダム・エバよりも低い基準ではいけません。その基準を越えなければならないのです。神様に尽くすためには、体と心が一体とならなければなりません。アダムとエバ以上の立場を発見しなければ、霊肉を中心としてアダムの失敗した世界を復帰できる新しい出発の基点を探すことはできないのです。

 それでは、一つになるのに、最も難しい内容は何ですか。それは堕落性本性です。神様と同じ立場に立つことができないのです。心は神様と同じ立場に立とうとしますが、体は神様と同じ立場に立てないのです。従って、私の体は神様が望むとおりに感じ、望むことができるかというのです。体の欲するままにすべきではなく、神様がなされようとするとおりに、体が行わなければならないのです。今まで、この闘いをしてきました。そうしなければ、復帰ができません。

 神様がなされようとするとおりするには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は心よりも高い位置にいますか、心より低い位置にいますか? (「高い位置におられます。」) 高い位置にいるので、心がしようとするとおりに、体は神様と関係を結ぶことができますか。とても難しいのです。心が動機になって堕落した基準を中心としてみれば、これは完成ですか。長成期完成級の基準から心が出発しました。だから、これは天使長の心の基準を引き継いだ立場です。

 しかし、本性的基準となる心の土台は、神様と一致点を持っているので、神様を中心として考えることのできる因縁を持っています。その心が作用する基準は長成期完成級であるので、天使長と一体となる基準を離れては作用することができません。作用は必ず相対基準を通してなされるからです。体は心の相対となっていますが、その体が堕落した天使長の最初の土台になっているのです。言い換えれば、長成期完成級以上の立場を越えることのできない相対であるため、その相対の位置以上は、心が作用することができないのです。

 もしアダムが心を中心として完成したならば、その権限は天使長も主管し、体も自由に引っ張って行くことができたのですが、完成できなかったので、天使長に支配される立場に立ちました。それ故に、心はどうすることもできず、体に引っ張られる立場に陥ったのです。これが問題です。

 来られる主も、やはりこのような闘いを経て、心が神様と一つになる起源を強固にしなければなりません。霊界では天使世界と神様が一つになっています。そのような因縁を決定付けるまでは、神様と一つになることができないのです。

 世界的、天宙史的闘争の母体は個人の心と体

 私達は、天使長級の心の基準と相対基準を結んでいます。それ故に、上がろうとしても上がることができません。けれども、私達は心の別の主体を持っているので、心がそれ以上に上がろうとして闘っているのです。

 心の別の主体は神様です。心は、高い位置にある神様の相対的立場で一つになれるので、人間は天使長級の相対基準で作用していた心の立場を離れ、より高い次元に上がることができるのです。ですから、心の作用がより強くなければなりません。そのようになって主体的作用ができるときに、再創造の役事が展開されるようになるのです。

 完全な主体が生じれば、完全な対象が生じるのは天地の道理です。完全な主体形である心の基準が決定すれば、不完全なものは除去されるようになります。完全なものが入ってくれば、不完全なものは退いていくのです。光が入ってくれば、暗闇は退くようなものです。

 皆さんが聖霊を受けたり、神様の恵みを受けると、体についていた悪が、「退け」と言わなくても退くのです。このような作用をするようになります。体の本能は長成期完成級に相対的基準を置いているので、それより高く強い心の主体を作って、その基準が今までより高くなれば、再創造の能力が発生して、体の本能を無視してしまい、心の位置に入って行きます。従って、サタンが去って行くのです。恵みを受ければ、サタンが去って行くのです。

 今までその闘いをしてきたのです。そのような世界的闘い、天宙史的闘いが起こっている母体がどこであり、根拠地がどこかといえば、世界ではないのです。体です。体と心であります。それは本当に科学的なのです。強く絶対的で、完全な主体である神様の前に、私の心の方向を神と同じようなコースにし、正面にその位置を置けば、世界が全部自分の心の中に入ってくるようになっているのです。皆さんは恵みの立場に入ってみてください。

 それが何故きゅっと入ってくるのでしょうか。世界も神様の心の中に入っているために、神様と一つになるので、世界が全部自分の手の中に入ってくるのです。そのようになることができます。それで、恵みを受ければ、世界は私のものになるのです。心が強い主体として完全に立ち、完全なプラスになれば、完全なマイナスを作り出すのです。創造の能力が発生するようになるのです。ですから、反対の立場にある存在は追放されるようになります。

 ところが、いつも神様と一つになっていればよいのですが、これが上がったり下がったりするのです。心霊が上がったり、下がったりしますか、しないでしょうか。(「します。」) 心霊が高い時は神と一つになって、心霊がある線以下に低くなれば、神様が離れて行くのです。この時、サタンが主管するのです。そのようなことをしているのです。サタンの線、堕落の線、長成期完成級の線以上で上がったり下がったりすれば、無事に通過することができるのです。皆さんがこのような立場に入ると、直ちにサタンから打たれます。このような闘いをしているのです。

 結局、天と地が波動を起こしている立場が、今日、皆さんが立っている立場です。見れば見るほど危険であり、スリルに満ちたことが、我々が見ている現在、この世界で起こっていますが、世界で最も危険で激烈な場面は、私の心と体が左右になって、衝突が起こっている場面であります。

 従って、原子爆弾が落ちて、世界がいっぺんに全滅するとか、潰れてしまうことよりも、自分の生命の脅威を受けるときに、世界にはない恐怖を感じるようになります。皆さんは、そのようなことを感じたことがありますか。今、そのような闘いをしているのです。上がったり下がったりしているのです。いつも神様と一つになっていればいいのですが、一つになれず、この堕落線の下に落ちて行く時に、神が離れていくのです。これが天地の道理です。くだらないことをしては、発展できません。走るときも、ただこのように走ろうとして、走っていますか。このように走って行かなければなりません。(動作で示される) 皆さんはいつもこのような基準を中心として闘っていかなければなりません。今までの歴史は、反復される闘いの歴史を経てきました。このような心的作用の波長のような形態が、歴史発展上に、横的に世界形態へと展開したのが、世界の悲惨な戦争史です。上がったものが、そのまま下がっていくときには悲惨になり、砕けてしまうのです。

 神様と一つになる方法

 それでは、来られる主はどのようにしなければならないのでしょうか。心を中心として、神様と一つにならなければならないのです。神様と一つになる方法は何ですか。第一に信じることです。心が誤っているのではありません。人間の祖先が堕落したときに、知っていて堕落したのではありません。知らないで堕落したのです。このようになることを知らなかったのです。従って、一つになることにおいて、第一の方法は何ですか。それは信じることです。

 家庭の話までしようとすれば、時間が相当かかると思います。しかし、仕方がありません。題目は「我が家庭の行く道」です。今まで個人の話をしていると言われるかもしれませんが、今、その家庭に向かって行く途上にあるのです。

 神様と一つになる方法の第一は何ですか。(「信じることです。」) 二番目は何ですか。犠牲になることです。犠牲になるには、何を犠牲にしなければなりませんか。心を犠牲にさせることではありません。信じることとは、心がみんな信じることです。信じるということは良いことです。信じることはみんな信じなければなりません。信じるからといって、皆天国に入るのではありません。それは、間違っていない事実でしょう? (「はい。」)

 皆さんは統一教会を信じていますが、統一教会の信徒が皆天国には行けないのです。信じるには、皆信じます。皆さんも皆信じるでしょう? (「信じています。」) 間違いなく信じていますか? (「はい。」) それでは、皆さん、信じることは間違いないですか。満点ですか、満点ではありませんか? (「満点です。」) そうであれば、神様が信じることを願う基準と完全に一致しているわけですね。信じるには、誰が信じますか。信じようとするでしょう。何を信じるのですか……。それでは、信じますか、信じようとしますか? (「信じようとします。」) 何、一分前には「信じる」と言ったのに、ああだ、こうだと言ってひっくり返しましたね。(笑い) ですから、問題が大きいというのです。信じるというふうに考えないでください。

 それでは、「堂々と信じる」と言うことができる時はいつなのでしょうか。「私の体は、いつでも私の信仰と共に生きて行くのが原則です。それを幸福として考えます」と言うときに、信じる基準が合格基準に上がることができるのです。このように見ています。従って、信じながら死のうとする者は何ですか。死なんとする者は死に、生きんとするものは生きる。そうですか? (「違います。」) 死なんとする者は(「生き」)、生きんとする者は(「死ぬ」)。信じることは死ぬことであり、死のうとして信じることは生きることなのです。これを知らなければなりません。これは心とは違います。これを知らなければなりません。

 死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ

 体が死のうとすることは永遠に生きることであり、体が死なないようにしようとするのは、永遠に死ぬことであります。心は死のうとします。誰でも、心は犠牲になろうとします。この世の人々にみんな良くしてあげたいのですか、してあげたくないですか。皆さんの心はどうですか。(「よくしてあげたいです。」) 自分が一年苦労しても、世界の人々が皆良く、豊かに生きることができれば、それは問題がないのです。

 ですから、心は犠牲になろうとするのです。反対に体は尻尾を振るのです。このように相反する二つの存在の形態があるということを、はっきりと知らなければなりません。従って、体だけ殺そうとする者が、心まで殺すようになれば、信じることがなくなってしまいます。それは選り分けなければなりません。心を中心として、それを選り分けなければなりません。心が神様を完全に信じれば信じるほど、信じる心と反対のものがあるので、反対するものを殺すべきです。心まで殺してしまえば、何が生きるといえるでしょうか。相対的基準がなくては、肉界は存在しないようになっています。

 死のうとするのに何を殺さなければなりませんか。体を殺さなければなりません。言い換えれば、体を殺す人は生きるということです。従って、信仰の限界点、神様を標準にしているその基準は何でしょうか。死んだ人が生き返るのではなく、死ぬようになった人が生き返るのです。それ以上の立場に上がって行かなければなりません。「死なんとする者は生き、生きんとするものは死ぬ」という言葉は、そのような意味で言った言葉です。

 私の体は何を基準として、神様の公認を受ける内容になるのでしょうか。信仰故に自らの首を締めることのできる人に間違いないという基準に立てば一点の位置になるのです。一点の位置から出発するのです。そこから作動が始まるのです。

 第一に信じる条件、その次には犠牲です。犠牲になるといっても、内容が違います。「私が救いを受けるために犠牲になります」、と言うときには上がって行って下りて来るのです。犠牲になるにも二種類あります。「私のために、私が救いを受けるために犠牲になる」と言うときには、神様も利用してしまうのです。そのような人は、神様も利用してしまう人になり、神様の御旨の基盤も私のものにするという人です。

 天国は神様の基盤であり、そこの主体は神であるのに、そのような思考方式は、神様を利用してしまうということであり、神様の基盤を利用するということになります。そのように犠牲になることは正しいことですか、間違っていることですか? (「間違っていることです。」) イエス様は、そこで引っ掛かったのです。「父よ、父よ、私の願いどおりではなく、父の御旨のとおりにしてください」と言いました。犠牲になるのに、顔色を伺って死んでいったのです。しかし、こうしても、ああしても、とにかく死ぬようになっていました。他に方法があったでしょうか。既に、成り行きは皆傾いていたのです。既に死ぬようになっていました。ところが、イエス様は死ぬのに、私というものが出てきました。私というものが出る日には滅んでしまうのであり、神様が現れる日には生きるのです。

 従って、私が天国に行くためにイエス様を信じるというのは滅びることなのです。その宗教は滅びるのです。そのような宗教は、終わりの日になれば、荒廃したものになってしまうのです。そうして、骸骨の魂だけが残って、ごろごろ転び回るようになってしまいます。このような原則からみて、そうなっているからです。

 統一の方案は絶対的信仰

 堕落は、どのようにして生じたのでしょうか。神様を信じないことが、堕落の起源になったのです。次に、神様の前に体を捧げることができないのが堕落なのです。体は神様の前に捧げなければなりません。従って、犠牲にならなければならないのです。次に、誰を主体にしなければならないかといえば、神様を主体にしなければなりません。このように見る時、現在の宗教思想は審判を受けなければならない運命圏にあるのです。この手錠に、すべてが引っ掛かっているのです。この手錠を切り抜けなければなりません。

 それでは、イエス様はこのような基準を中心として、その生涯を標本的に神様のためにサタンと闘いましたが、その方はどこに行かれましたか。神様を信じましたか、信じなかったですか? イエス様は神様を信じることにおいて、氏族や、自分の家よりもっと信じましたか、あるいは、それ以下信じましたか? お母さん、お父さんよりももっと信じましたか、あるいは、それ以下信じましたか? (「もっと信じました。」) 神様を絶対的に信じたのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければならないのです。

 次にイエス様は、「私の信仰は世界と替えることができない。誰も占領することができない。絶対的である」ということを公認させるために、体、心、すべてを差し出したのです。皆差し出したから、サタンが触れることができるのは体しかないのです。それが自分の舞台だからです。サタンがイエス様をつかんで殺す時、イエス様は生きている立場で死んだのです。ご自身のために死んだのではありません。私の思いのままにしないで誰の思いのままにですか? (「父の御旨のままに。」) このようなことを考えた時、イエス様もこのようなことを知っていたのです。私というものを立てる日には滅びるのです。統一教会の文先生が御旨を成していく時、統一教会の文先生を立てた日には発展しますか、滅びますか? (「滅びます。」) 滅びるのです。そうすれば、統一教会の文先生には神様が現れないのです。神様だけが前におられれば、もう私の心がすべて溶けてしまいます。私がそのような道を行っているのです。

 私がさっと壇上に立って祈ってみれば、ここに神様が喜ぶことのできる人が何名いるのか分かるのです。ここに三名いるとすれば、体が風船のようにふわふわ浮いているような気になります。しかし、一人いるという場合、骨が千斤万斤に押される気がします。これが蕩減なのです。責任者は生きた祭司長の責任と、生きた祭物の責任を果たさなければならないのです。皆さんはそれを知らなければなりません。骨がとても重くなってしまう時に、「アイゴー、ああ、これは本当に大変だ」と言いながら、逃げてしまえば大変なことが起こります。ここで闘って、押しておかなければなりません。そして正常な解放圏を備えて、さっと壇上に立たなければならないのです。今、この闘いをしているのです。この闘いは、まず皆さん個人の闘いです。皆さんの心霊生活や…。個人が全部この闘いをしていくのです。従って、最初の内容は何ですか? (「信仰です。」) これが何のための内容ですか? (「一つになるためのものです。」)
 統一することのできる基台、土台はどこですか? (「体です。」) この体を一つにする方案は何ですか。絶対的信仰です。信じることにおいて、原則を離れてはいけません。

 統一方案とは、絶対に信じることです。皆さんは信じる立場にいますか、信じようとする立場にいますか? (「信じようとする立場にいます。」) 気分が良いですか、気分が悪いですか? (「悪いです。」) 皆さんは信じる立場にあると思っていたでしょう。先生もそうです。信じる立場にいるのではなく、信じようとする立場にいます。世界を中心をして、まだ信じようとするのです。従って、いつも注意しなければなりません。深刻にならなければなりません。

 信仰の目的は神と世界のため

 皆さんは今もそうでしょうか。六〇年代に初めて教会に入ってきた時には、良かったと言います。「初めは本当に良かったのです」と言っています。そのような人は全部落第です。入学する時はいいのです。落第した後に入学した時のことを考えてみると、その時は良かったのですか、悪かったのですか? 皆さんが入学した時の考えを持つことは、良いことですか、悪いことですか。落第すると、入学した時の気分が思い出されるでしょう? まず、それを知らなければなりません。皆さんは落第ですか、合格ですか? 皆一緒に答えてみてください。(「落第です。」) まず、そのことを知らなければなりません。従って、絶対的に信じなければならないのです。

 その次に、犠牲にならなければなりません。殉教しなければなりません。殉教するのに、自分を中心としてするのではありません。ローマ帝国時代の四〇〇年間に、犠牲になった人はどれほどいたでしょうか。「このようにすれば天国に行く」と言った人々は、霊界に行ってみれば、皆引っ掛かっているのです。もう一度十字架を担っているのです。十字架に付けられる練習をしなければなりません。私が行って、それをコーチしなければなりません。

 ですから、「私は千回万回死んでも、十字架の死の道に従って行くこの栄光を感謝します」と考えながら行かなければなりません。それが分からなければ、この瞬間に、楽園であれ、何であれ、何もかも皆踏みにじられるのです。それを知らなければなりません。

 皆さんは統一教会を何故信じますか? 皆さんが福を受けるために信じるのですか、神様を解放するために信じるのですか? (「神様を解放するために信じます。」) その次は何ですか。(「世界を解放するためです。」) それは本当に素晴らしいことです。神様が解放されれば、私は福を受けても余りある、そういう道があるのです。世界が解放されれば、私は最高の栄光の位置に上がって、花になり、香りになることができるのです。

 皆さん、御旨とは最初に神様であり、二番目に世界なのです。これはいつでも頭の中にすぐに浮かばなければなりません。誰のために御旨の道を行くのですか。(「神様のためです。」) これが御旨のためということです。イエス様も「父の御旨のままにしてください」と祈りました。父の御旨とは何ですか。世界を救うことです。従って、世界を統一するための道であれば、百回死んでも行かなければなりません。

 一つになるために、最初に何ですか。(「信じなければなりません。」) その次は何ですか。(「犠牲にならなければなりません。」) その次は何ですか。(「神様を主体としなけばなりません。」) 神様を主体にしないで、自分を主体にすれば、滅んでしまうのです。自分を主体にすれば、どのようになりますか。長成期完成級以上を上がることができますか。考えてみてください。サタンの血統を受けたこと以上、上がることができないのです。それでは、それ以上上がることのできる秘訣は何ですか。自分を主体にすると、上がることはできないのです。神様を主体にしなければなりません。きょう、このような思想的観点を皆さんは知らなければなりません。皆さんはもう統一することのできる方案が分かったでしょう? (「はい。」)

 神様に近付くことのできる位置

 皆さんは、朝ご飯をさっと食べてから、気分が良くて「ああ、誰なの?」と、息子・娘を呼ぶ時は、世界を代表した子供として呼び、子供を抱いて愛する時は、世界を代表した子供を捜し求める心を持って愛さなければなりません。そのような考え方を持ちなさい。

 今も先生はそうです。どこかへ行って来たら、できればずっと回り歩きながら子供達にキスをしてあげるのです。それが私の生活の習慣になっています。また、私の子供達は、お父さんに挨拶をする時も、お父さんとキスをします。どこに行く時も、お父さんの前でお話をして行くし、良いことがあればお父さんのところに来ます。そのような思想を育てなければならないのです。そうすれば、神様が嬉しそうに眺められるのです。神様のため、世界のために育ててあげなければなりません。自分の息子も、その道を行かなければならないのです。

 子供を生むのは私のためですか? (「神様のためです。」) 神様のためです。子供を育てることは? (「世界のためです。」) 世界のためです。そして、統一教会を信じることは、みんな何のためですか。神様のためです。その次に、統一教会を信じることは、統一教会のためですか。(「世界のため…。」)世界のためです。

 世界が私よりもっと良い立場に立たないうちは、私は休むことができません。安息することができません。神様が私よりももっと良くならないうちは、私は休むことができません。神様は、私よりももっと良い立場におられるのでしょうか。神様の立場が良くならないうちに私が安息すれば、それは不孝者です。そのような人は逆賊です。神様は今、この世界のために闘っておられるからです。先生は目が覚めると、ある時は申し訳なく思います。それはあたかも、処女が眠りから目が覚めて裸になっている上に、独身の男性達が目を皿のようにして見ている時の気分と同じです。どうしてなのでしょうか。神様は二十四時間休まれず、私のため、世界のため、血みどろの闘いをしておられるのに、その場で私は休んだことが、それほど恥ずかしいからです。そんなことを感じる時がありますか。

 皆さん、今、一つになる方法が分かりましたね。信じなければなりません。絶対的に信じなければなりません。その次は? (「犠牲にならなければなりません。」) 心を殺せというのではなく、体を絶対的に殺さなければならないのです。体を殺したということは、どのようにすることでしょうか。「この世で一番辛いことも私がします」。これです。

 永遠の統一的な場の出発点

 遠回りするようになれば、どのようになりますか。進みながら、このように退いて上がって行くようになれば、発展していくのです。ところで、このように進みながら、「やあ、疲れてもう行けない。行くことができないから退いて、ここまで行きましょう」と言えば、行くことができません。もう一度行っても、また行くことができないのです。(黒板に絵を描きながら説明される) 進みながら、もう一度背を向ける時には、絶対行くことができないのです。これを知らなければなりません。進みながら一度背を向ける時には、行くことができますか、できませんか? (「できません。」) 皆さんはそれを知らなければなりません。

 ですから、先生は粘り強くやってきたのです。一度進んで退く時には、それ以上の困難な道を行くことができないのです。それ以上の困難な峠を越えることができず、神様が御旨をなすことができなければ、その御旨と関係のない落伍者になるのではないかというのです。そのようになるくらいであれば、自分の命を捧げて神様のために殉教するほうが、どれくらい有り難い立場でしょうか。これが深刻な場だというのです。

 世界的な賞与を受け、世界的な決定権を相続する立場を探し求めていく私において、神様と完全に一致し、永遠に離れることのできない、結合され、結集された場であり、永遠に消えることのない統一的な場を、神はどこに準備してほしいと思われるでしょうか。誰かが見ている場に準備したいと思われるでしょうか。本当に愛する人を、他の人達がからかって見物する場で愛したいと思いますか、誰もいない場で愛したいと思いますか? どの場で因縁を結びたいですか? (「誰もいない場所です。」) 誰かが見ているのは嫌でしょう? 愛する妻を、通り過ぎて行く独身の男性がそうっと盗み見しても気分が悪いのです。それは誰でもみんなそうだというのです。

 呼吸したとしても拍子が合わなければなりません。そのような立場を経て上がって行かなければならないのです。「君と僕は同じものだ」というのです。その立場が何の立場かといえば、授け受ける場です。新しい一体を中心として呼吸するのと同じことです。それは心臓が鼓動するのと同じです。一体の世界が、そこから出発するのです。そのような厳粛な場だというのです。

 それならば、どこで一つになろうとしますか。私は、もう既にお話しました。調子を合わせて踊り、歌を歌う、そんな場所で一つになることではないというのです。そのような所で一つになっては、神様とは何の関係もないのです。サタンと闘って勝利するためには、サタンが一番嫌がることをしなければなりません。

 高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

 サタンが一番好むことは、足を合わせて踊り、男性なのか女性なのか分からない、同じような格好をして大騒ぎをする、そのようなことです。そのような者達と歩調を合わせてはいけないというのです。その反対の場が開かれなければならないのです。その場は死ぬか、生きるかという場です。そのサタンが好む場から、背を向ける道があるといって上がってきました。しかし、そこからは自分一人では上がることができません。神様の力が加わらない限り、上がることができないのです。

 皆さんは下がって行く場でも、「上がって行く」ということを考えてみたことがありますか? だから、復帰路程は……。(黒板に図を描かれる)。これが上がれば、これは下がって、これらは二つの起点です。三点を探し求めて行くのです。ここから出発して、ここを経て行くのです。このように回って行くようになっているのです。これが回るようになっているのです。同じもの三つが一つにならなければならないのです。そうしてこそ、永遠に継続していくことができるのです。

 これをじっと見ると、八段階になっているのです。(以下、絵を書かれ、説明される)。皆さんは、この八段階を通過しなければなりません。これを中心として、堕落した世界が上がって来たでしょう? 我々の宗教は上がって行くのではなく、下がって行くのです。下がって行くと言っても、突然下がって行くのではないのです。こっそり下りて、また上がって行くのです。ここまで上がって、ここから復帰して行くのです。これが復活です。

 三段階は蘇生、長成、完成です。私という個体を中心としてみれば、個人復帰、家庭復帰、国家復帰の三段階です。その次に家庭を中心としてみるとき、家庭復帰、国家復帰、世界復帰の三段階です。一段階先立つのです。このように発展していくのです。だから、この峠を越えて行ってこそ、頂上に上がって行くのです。

 そうであれば、下がって行くのが良いことですか、悪いことですか? (「良いことです。」)下がっていくこともなく、上がって行く道を求めることができますか? 「いやー、私は下がって行くのが嫌いだ。こちらに上がって行く」と言って行けば、どこに行きますか? 逆に上がって行ったら、サタン世界に行くというのです。サタン世界は上に上に上がって行くのです。上がって行けば、受難の世界です。自分を主張して福を受ける世界です。それは、愛の世界ではありません。愛の世界は、人の為に生きる世界です。

 皆さんは、妻を娶ろうとすれば、どんな人を娶りたいですか。自分のために与えてくれる人を得たいですか、それとも、私がその人のために与えてあげる人を得たいですか? 私のために与えてくれる人を得たいでしょう? (「はい。」) では、私のために与えてくれる人が悪なる人ですか、善なる人ですか? (「善なる人です。」) 善なる人です。自分が動機になって相手の人の為になれば善なる人になるけれど、相手の人が動機になって私のためになれば、私は馬鹿者になるのです。僕がそうです。僕は愛の相対にはならないのです。

 イエス様は「生きようとする者は上がって行きなさい」という話をしましたか。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われました。全部反対です。それは、下がって行こうとする者は上がって行き、上がって行こうとする者は下がって行くという意味です。故に、我々は下がって行く道を捜し求めなければならないのです。

 大韓民国も下がって行かなければなりません。刑務所以下の位置まで行かなければなりません。追われ追われて、捕えられて刑務所に行けば、そこは解放圏ではありません。何故かといえば、他者の意志によって閉じ込められたからです。それは僕の立場です。引っ張られる立場であるために、主体になることはできないのです。神様が主体として現れなければなりません。それ故に、私自らが進んで下がって行かなければなりません。自ら進んで下がって行ってこそ、主体が生じます。犠牲になれば中心存在になるのです。矛盾も衝突もなく主体圏を奪うことのできる道は、下がって行って犠牲になる道です。ここから初めて、神様が願われる天国圏が備えられるようになるのです。

 興亡と勝敗の境界線は私にある

 皆さんは、朝友達にさっと会って、「おい、お前の財布にある物をみんな出していけ」と言って、友達の財布をいじってみなさい。三回でもそうしてみなさい。そうしながら、その友達に「私の所に来なさい」と言えば、来ますか。会いたくなくなって荷物をまとめ、逃げてしまいます。しかし毎朝、友達に会って、「お前は本当にいい友達である」と言えば、その人が皆さんをいい友達であると言いますか、悪い友達であると言いますか。(「良い友達であると言います。」)私を中心として友達を利用しようとすれば、私は悪い人になり、私が友達に利用されようとすれば、私は良い人になります。これが原則です。善はどこから出発するかというと、ここから出発するのです。真の位置から出発するのです。善悪の基準を知らなければなりません。

 十名の友達がいて、逃げてしまえば、その人はどうなりますか。いなくなるので、結局、滅んでしまうのです。悪になれば滅んでしまうのが法度です。一方、善になれば興るのは、何故法度なのか。善なる人は十人に、「こいつ、ここに来るな」と言っても、「あー、今年だけでも付いかせてくれ」と言うのです。「今どこに行っても、そのような人に会うことができない」と言って、気張って付いて歩き回るのです。十人が離れてしまうのではなく、繁殖していくのです。言う人ごとに、「あ、そう、私も行きます」と言うのです。それで、人々がより多くなるのですか、少なくなるのですか? (「多くなります。」) 多くなるので、滅びますか、発展しますか? (「発展します。」)

 皆さん、滅びたい人は一人もいないでしょう? (「はい。」)見ると、目はしっかりついているのですね。みんな発展したいのですね。(「はい。」)発展する道を教えてくれる先生は正しい先生ですか、間違っている先生ですか? (「正しい先生です。」) 滅びることを教える先生は? (「間違っている先生です。」) (笑い)

 滅びることだけを教える先生が真の先生になれますか。「もうすることがないので思いどおりにしなさい」と言ったり、「青春は一度しかないので、酒も飲み、煙草も吸ってみなければならない」と教えればいいでしょうか。この世では、子供達に飲酒を教える父母もあるというのです。統一教会は絶対そうしてはいけません。反対になっているのであります。そうしながら、「行きなさい」と言う道は何の道かといえば、良こではなくて、全部、苦労する道です。その道は滅びる道ですか、発展する道ですか。(「発展する道です。」)

 それでは、最も発展する鍵を握ることのできる立場はどのような立場ですか。神とサタンが闘うところで、勝敗を決定する境界線はどこなのか、それを探してみましたか。どこにそのような三十八度線がありますか。私にあります。それで、この体を散々踏んで、粉々にしようとするのです。それが境界線というものなのです。それは世界のために粉々にしなければなりません。

 それを天の国で宣伝するのです。天の国で、霊界で宣伝して、神様がご存じになり、天使世界が知って、霊界全体が知るようになる日には、歴史が知るようになるのです。そうなれば、先祖もみんな知るようになるのではないでしょうか。先祖達も、「そう、この者め、私より立派だ」と言うのです。先祖達が「私よりも劣っている」と言うでしょうか。立派だと言うでしょうか? (「立派だと言います。」)「ひどい奴だが素晴らしい」と言うのです。

 高い因縁を踏んで上がって行った時、何千里も上の高い所に上がった時、そこから落ちれば死ぬしかありません。少しでも間違った日には、粉々になってしまいます。そこで、すべての勝敗が決定されるのです。

 サタンを屈伏する秘訣

 それでは、ここで下りて行くようになる時、どのようにしなければなりませんか。つかんで伸びなければなりません。それではゴムの紐を伸ばして引っ張って、一番下に行って、パッと放せばどうなりますか。それは限界線まで上がって行くのです。そのようになっているのです。

 そういうことを考えた男がいるとすれば、神様は逃げられるでしょうか。目をはっきり開けて眺められるでしょうか。考えてみてください。神様に神経があるとすればそこにすべて集まりますか、集まりませんか? 心臓があるとすれば、心臓がどきどきしますか、しないですか? 神様が得意になることならば、得意になると言わないでしょうか。神様がいいといって眺められないでしょうか。「それ、もう一度してみなさい」と言わないでしょうか。この場にいれば、サタンがどれほど好むでしょうか。サタンは「下がって行け」と言うけれども、神様は希望を持って見られるというのです。そういう何かがあるというのです。

 宇宙の心情を相続して、天国の所有権を備えた一つの波動が天地の間に起こらなければなりません。大きな音を出そうとしたら、振幅が大きくなければならないというのです。そうしてこそ、長い間続くのです。そのようになれば、幅広く行きなさいというのです。神様が、世界で幅が一番広い方ではないでしょうか。神様が好きなものを好きだと言うことも一等です。

 私が千回万回死ぬ、そのような峠の道においても、死なないで立ち上がるときには、神様はどれほど喜ぶかということを考えてみましたか。従って、イエス様も「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」と言われたのです。それでは、そのような立場がどこにあるのか。それは話すことがでなかったのです。そのようにして、神様のために下がるようになれば、それほど、より高い所におられる神様が放っておかれるでしょうか。それを今はっきりと知らなければなりません。

 ここで終わりましょうか、続けましょうか? (「続けてください。」) 家庭の話までしようとすれば、何時間かかるかしれません。しかし、これは必要なことです。先生が心霊世界で闘ってきた公式路程を教えてあげるのです。適当に話すのではありません。このようになっているのです。今に見てください。(図を描かれる。以下、図をご覧になりながら説明される。)

 このように下りて行って、回らなければなりません。ただ単に、その場に立っていていいでしょうか。(「回らなければなりません。」) ただその場にいれば、どれほどいいでしょうか。このように下りていって、かえって希望を持って、もう一度上がって行くのです。これが復帰です。

 そうするには、どのようにしなければなりませんか。サタンよりも優れた者にならなければなりません。サタンよりも劣っていては復帰できないのです。サタンの本質は何かといえば、自分を高めることです。これを屈伏させる本質は何ですか。(「低くなることです。」) 自分を低くすることです。従って、自分を犠牲にすることが原理です。

 このようにして下りて来れば、神様と私との距離はどのようになるでしょうか。神様と人間との距離(A)は固定されています。人間の良心の清さの基準と、神様がその人間に接することのできる基準は、人により違うのですが、固定されているのです。従って、私がこのようにして上がれば上がるほど、神様はより権勢の神様として現れるのであり、より有り難い神様として現れるのです。

 もし、私が下って行くようになれば、このくらいの距離(B)があるにもかかわず、その場から再び上がっていくようになれば、この圏内には国も入って行き、世界も入って行くのです。何十年ではなく、何百年がそれによって蕩減されるのです。そのようになれば、世界がそれによって恵沢を受けるというのです。

 それでは、神がどこまで下がって来られるのか。この基準(A)を中心として見れば、私が、ここ(D)まで下がって行けば、神はここ(C)まで下がって来られるのです。ですから、この悪なるサタン世界までも、神の上にあるようになるというのです。この圏内にあるものは全部、神の側に干渉できないようになるのです。預言者のような人達は、こういう仕事をして行きました。この位置(D)まで下がってきて、このように帰って行くのです。このような一方的な役事をするというのです。神はここで、こういう業をさせて、この圏内を中心として関係しているのですが、この位置がこのように上がるようになれば、この圏内は全部崩れるのです。

 このように見る時、世界を占領することのできる秘訣、サタン世界を打ち壊すことのできる秘訣はどこにありますか。下がって行くところにあります。ここ(D)まで下がって行けば、神はこの位置(C)に下がって来られるのです。神はここに下がって来られるのです。ここで、さっと回るようになれば、また違った形態の円となるのです。このようになれば、神は高い所におられるために、このような円を中心として役事されるのです。ですから、この下に下がっていくようになれば、この基準が(板書されながらお話される)このように開かれるのです。ここ(D)で、私がこのように帰って行けば、私によって、このような位置にある環境が復帰されて入って来るのです。そうして、出て行くようになるときには、その環境が自動的に集まってくるというのです。

 そういう人はさっと見ると、心がずっと引っ張られて行くのです。神が作戦されるためであるというのです。その一人が中心となって神の輪のようなものが作用するため、その人がいれば、その人の話し声を聞いただけでも、もうサタン圏内に位置が定められるのです。天国圏が作用するというのです。この圏内から、この圏内へ入って行くというのです。恵みある人々が、恵みの役事をし、その過程で天と共に役事していた環境は、サタン圏を全部除去させるのです。同じです。それ故に、下がって行けば行くほど、私の所有権を拡大させ、私の勝利圏を拡大させるのです。

 最後まで忍耐しなさい

 神様に侍って下りて行くところにおいては、いつも自分の個体が問題になります。個体が勝利しなければなりません。そのためにも、やはり個体から世界まで勝利できる条件を立てなければなりません。即ち、サタンを屈伏させなければならないということです。サタンから勝利しなければならないということです。

 それは何の意味かといえば、天使長級にあったものがサタンになってしまったために、今日、人間がサタンを屈伏させることによって、アダム級へと復帰されるというのです。そうするためには、皆さんは、サタンを屈伏させる深い谷間までも下りて行かなければならないのです。そこはどこかといえば、サタンが最も嫌がる所です。サタンは上がることを好みます。従って、反対にその線を中心として、それ以下に下りて行くのです。これが作用することのできる圏内まで下りて行くのです。その最後はどこですか。宇宙の頂上まで上がって行けば、そこで終わりですか。(「下りて行かなければなりません。」) 歴史がこのように下りてきたでしょう? (黒板に書かれる。)このようにして、個人、家庭、氏族、国家、世界へと広まってきたではないのですか。このように大きくなってきたのです。これがその世界というものです。今まで忍耐してきた道です。

 アダムは忍耐しましたか、忍耐できなかったですか? 死にながら、「天のお父様、私は死にます」と言いましたか。それは聖書には出ていません。その次に、ノアは忍耐しましたか、できませんでしたか? (「忍耐しました。」) アブラハムは忍耐しましたか、できませんでしたか? モーセは忍耐しましたか、できませんでしたか? 次に洗礼ヨハネは忍耐しましたか、できなかったですか? (「忍耐できなかったのです。」) 三十歳まで忍耐したではないですか。若い人がいなごを食べて、野蜜を食べて、ラクダの毛衣を着たりしたので、むちゃくちゃではないですか。一度やってみてください。どれほど哀れなことでしょうか。

 荒野では良いレンガの家がありましたか。食べ物が多くて……。野蜜がただ単に石ころのようについていましたか。退屈になれば、いつでも行って食べることのできるようになっていたでしょうか。いなごといっても、飛び回るのであって、いつも目の前に飛んで来て、「取って食べなさい」、と言うふうになっていたでしょうか。それを取って食べるためには、どれほど大変だったかを考えてみてください。いなごの巣があって、それを一遍に取って食べたのでしょうか。一匹だけを取って食べたのでしょうか。(笑い)

 また、岩の隙間にあるその野蜜一つだけでも何日間か食べれば、みんな無くなってしまいます。それで、食べ物を捜し求めるために、版図をどれほど広げたでしょうか。十里ですか。数百里ではなく、数個の村を越えて歩いて行ったことでしょう。その数地域をさまよったのです。ですから、彼は忍耐したでしょうか、できなかったでしょうか。(「忍耐しました。」) お父さんお母さんが訪ねて来て、「息子よ、どうかそうしないで。私達がいるのに何故そうするのですか」と言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? それで、忍耐したでしょうか、しなかったでしょうか? (「忍耐しました。」)

 イエス様も忍耐しました。イエス様の心情をみた場合、イエス様が死んでからペテロ、ヤコブ、ヨハネを訪ねて来た時に、「この野郎、これから私は復讐しなければならない」と言って、その首を切ってしまったでしょうか。イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネのために死んだでしょう。だから忍耐しましたか、忍耐できなかったですか? 自分を殺した怨讐達に対しても、それを越えて行ったのです。「父よ、彼等を許してください。彼等は何をしているか分からずにいるのです」と言って、越えようとしましたか、こちらに立とうとしましたか? 越えようとしたでしょう。歴史の前に立ったというのです。そうしなければ、新しい歴史を出発させる人になれないというのです。それでは、忍耐していく歴史の中で、「私はびりになります」と言う人がいたら、手を挙げてみてください。いないですね。みんな一等になりたいでしょう? そうしてこそ気分が良く、興味が湧いてくるのです。

 復帰摂理のチャンピオンになること

 一等になることは簡単ですか。マラソン選手として、一等になることは易しくないでしょう? (「はい。」) いわんや神様の復帰摂理において、チャンピオンになろうとすることは、どれほど難しいことでしょうか。アブラハムの前に言って、「文某、あなたはそのようにしてはできない。このときはこうで、このようにするのである」と、このように教育を受けてできるでしょうか。ノア爺さんやモーセ、洗礼ヨハネ、イエスのところに行って教育を受けてできるでしょうか。

 従って、神様と談判しなければならなかったのです。「私は誰からも教育を受けません。神様が直接教育してくださるのであれば、最高の方法があるでしょう」という思考公式を持っていました。「神様が、間違いなく『最高の方法を教えてあげよう』と約束だけしてくだされば、私は千回万回死んでも忍耐して残る自信があります。一度してみてください」。このような覚悟ができていました。「神様、あなたが教えてくださるとすれば最高の道があるでしょうに……。あなたを信じえないので、今まで、これ以上の道を行使することができませんでしたので、これからあなたを信じ、恨みを解いてあげます。あなたの恨みを解く人に出会うことができなかったとすれば、私がそれを解いて差しあげます。その代わりに、誰も解決できなかったものを、失敗しないで勝利できる最も適切な秘訣を教えてくださいませんか」と言う度胸を持っているということです。

 それでアブラハムをつかんで行こうとしたのでしょうか、イエス様をつかんで行こうとしたのでしょうか。(「神様…。」) 神様をつかんでいこうとするのです。そういう何かがあったのです。それで、神様が怒らなければ良かったでしょう。そういうふうにやったのではないでしょうか。まず最初に、「この世で生まれた人の中で、ああいう奴には初めて出会った」と言われながら、尻込みをしたりされるでしょう。しかし、私にはそのようなものがあるということを知って、一度つかめば離さなかったのです。へばり付いて離れない蛭のようでした。世界一の接着剤の中の接着剤であるというのです。(笑い)

 知らないから離すのであって、知りながら離すことができるでしょうか。間違いなく、そのようになるということを知って、離すことができるでしょうか。手が離れるからといって離すでしょうか。手が折れれば口で、口が駄目ならば足で、足が外れれば腰でもって。腰が駄目ならお尻で、手首でもつかんで離さないのです。一度会うのがどんなに難しいのに、億千万年に一度会うかどうか分からない、そういう方を離すでしょうか。勝ち気であるというのです。そのような意味で、私はヤコブが好きです。

 アダムというのは、堕落したために、「塀が生じた」ということであり、エバは復帰して、もう一度帰って来なければならない立場であるので、「エバ」と言うのです。(注・アダムのダムと韓国語の■=塀の発音は同じである。エバは韓国語で■■であり、「やって来い」という意味にもなる。)

 次に、アベルは何かといえば、アベルは、アダムの上に座って星を取りなさいとして、「アベル」と言うのです。ノアは自由奔放に放してやったというのであります。(笑い)「あなたの思いどおりにしてみなさい。一二〇年間はあなたの自由にしてみなさい」と言うのです。その間、神様は干渉されないのです。その次に、アブラハムは不合格になったら駄目です。(笑い) モーセはすべて細密に集めなければならない人であるので、「モーセ」です。イスラエルの民族の中で一人も放してはいけないのです。

 その次に、洗礼ヨハネは失敗すれば恨みが生じる。気をつけなさい。(笑い) また、イエス様は「あー、どれほど受けたのか、ここにある」と言って「あげる」という意味です。神様の復帰歴史がそのようになってきたと思っているのです。先生が椅子に座りながら、ありとあらゆる考えをしてみたというのです。(笑い) それで、どれほど頭が複雑になっていたでしょうか。

 そのようにして、大騒ぎになって神様に会ったのに、離すことができるでしょうか。ヤコブが天使長をつかんだ時、離しましたか。ヤコブという名前を復帰しなければならないのです。準備しなければならないということです。ヤー'(■=ヤ、■=倍)倍にしてこなければ、エサウを復帰できない。ヤー! あなたはその倍でしなければならない、それでヤコブというのです。天使をどれほどしっかりつかんで離さなかったことでしょうか。腰の骨が折れれば折れたで、手は絶対に離さない。肋骨が折れてしまっても、背骨が折れても、手は離さなかったのです。

 天使はどれほど焦っていたでしょうか。ヤコブの腰の骨を打ちましたが、ヤコブは「そんな腰の骨があってもなくてもいいのだ。それで私は離さない」と言うので、最後までつかんで離さなかったのです。考えてみてください。ヤコブが笑いながらそうしたでしょうか。どうだったか考えてみてください。この世で最も深刻な立場で、その決戦を狙う彼の表情は断固としていたのではないでしょうか。

<2に続く>




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.06.19 23:27:18
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