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奇   知   外   記

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2021.06.23
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「統一の要因と方案」

1971年9月13日
水沢里の中央修練所


 訪韓した日本のメンバーに対して語られた講話。

  一つになる標準基準

 一つになるには、標準がなければならない。二つを一つに合わせるならば、一つになる。そのためには、標準の基準が絶対必要である。

 世界を一つにするには、「世界を代表した国」という標準がなければならない。国が一つになるには、民族的、国家的な標準の基準に一致された「主権」が成立しなければならない。

 また、民族が標準の基準に立つには、その前に氏族の標準が必要である。氏族であれば、標準になる一つの家庭が問題になる。これを突き詰めると結局は、「家庭を代表した個人」が問題になってくる。

 こう見てみると、我々人間が世界を一つにすることを願う、その立場自体を考えてみた場合に、その標準の基準を忘れて、今向かい合っているのが、世界における生活圏であり、情勢圏である。そして、今より先に進めば、何かの標準が生まれてくるだろうと思ってきたのが、今までの歴史である。言い換えれば、はっきりした標準基準を求めた上において出発してはいないし、その基準に立ってもいない。そしてその標準は、未来の世界において求めようというのが現状である。それが人類の実情であることを思うときに、それ自体が矛盾している。

 ここにおいて、神様がいらっしゃったならば、神様はどのような方法で世界を一つにされるかを考えてみるときに、結局は、神様自体も、ある基準を決定しない以上は、「それが正しい」とかと決定ができないのは、当然のことである。絶対なる神としても、その基準を無視することはできない。

 善を主体にして、それに一致すれば、それは善になり、神様の絶対的目的圏内において必要な要素として認めることができるが、そうでなければ、神様も必要なものと認めることができない。歴史過程において、聖人、賢人、義人がたくさん現れ、あるいは霊界と地上界をつなぐ預言者がいたが、彼らはすべて善を目標として進んでいき、歴史に貢献してきた。そうであれば、そういう人たちの願いも、世界のために絶対的標準の基準を得ること、またそのための努力であったに違いない。

 我々個人から見ても、何よりも必要なのは、その「標準的義人」である。その標準は、時代に応じて、あるいは文化圏に応じて、また発展にしたがって変化していくような基準であれば、それは理想の基準になれない。絶対的神の認める基準になり得ない。

 また、歴史の方向というものが、ある目的をかなえて進んでいくというならば、その標準が違った場合には、とんでもない結果になってしまう。歴史が変化しても、外的な姿は変わっていくとしても、その内的基準は変わってはならない。それが変わった場合には、理想も何も、善の基準も、我々の求める喜びの基準も、探すことができないという結論に到達する。であれば、その基準は、時代性、歴史性を超越した基準に立たなければならない。それで、人間の希望においても、多少の差はあるとしても、その希望をもち続け、それを相続し得る、そのような標準の基準にならなければならない。

 例えて言えば、結晶体みたいに、形は小さくても、それを成す要素は、絶対変わりないという内容で整えなければ、それは標準になり得ない。

 金も権力も標準にはならない

 こう見ると、世の中において標準となるべきものは何か? こう質問した場合、ある者は言うだろう。「この世的に考えてみた場合には、金である」と。金銭の問題だと、生涯をかけて、それを標準にして行っている人もあれば、そういう国家もある。

 ある者は、「それは金ではない。権力だ。権力さえあれば、すべてが成し得る」と言う。しかし、その権力というものは、権力差の一単位が過ぎれば変化していくものである。それは本当の、人間が求めていく絶対的完成圏を成すべき標準になり得るかと聞かれた場合には、「そうではない」と答えざるを得ない。

 最後に、一般の人の結論としては、「物でもなければ、知識でもなければ、権力でもない。それは、人間である」と言う。その「人間」を、再三思案しながら分析してみると、この人間たるものは、絶対的に信じられるものか。「普遍なる存在の基台に立ったものか。それが今、すべての標準の基準に立ったと確信している時代になっているか」と聞いた場合に、「これは困った」という立場に立っている。

 自分なりに標準的内容を備えていると確信している者がいるかというと、一人もいない。自分を中心として、万人はこうでなければならない、家族はこうでなければならない、あるいは社会はこうでなければならない、自分が願うその標準として練り合わせて、もっと上層的な、あるいは上級的な国家、世界は、このように発展して、これを結びつけなければならないと確定したその個人の標準の基準をもつ者は、世の中にいるか? このように突き詰めて聞いた場合には、「いません」と言わざるを得ない。

 なぜ、そう言わざるを得ないか。我々人間を考えてみた場合には、人間は変わりやすいものである。あなたたち自身を考えてみても、正月の元旦の日に、「自分はこういうふうに行く、公式的に決めておく」と決意をもって誓い、そして進んでいくときに、何日それを続けられるか。ある者は、一週間も行かずに、その決意がとんでもない結果になってしまうことをよく体験している。それが一日でなくして一年続けるのは、あまりにも難しいことであることは、あなたたちの生活圏内において、よくよく体験している事実である。

 こうなると、大変な問題になってくる。その標準は「人間」と決めた以上において、その人間が絶対的標準の基台になり得ないという場合には、どうなるか。希望も何もあったものではない。

 絶対の基準はなかった

 信頼すべき絶対的基準というものを、このようにかき集めて批判して考えてみて、一人の人間も求めることができないという結論に立った場合には、「世の中に標準になり得るものがあるのか」と問わざるを得ない。とすれば、そこから自分はどうなるだろうかと考えてみた場合、それは悲惨なものにならざるを得ない。そこにおいては、希望の家庭を考えても、それは何のための家庭か、あるいは社会、国家、世界は、何のためか。自分も決定できない立場において、その相対の理想圏というものは、何の存在意味があるか。自分が立っている基盤は、あやふやなものである。そういうあやふやな立場において希望をもつとか、戦ったり、欲張ったりするのは、それはおかしい。そういう結論にまで到達する。

 そうすると、あなたたち、決定的なその標準の基準を自分と結びつけ、その結びつけた確固たる標準基台において、自分の間違いない発展を願うとするならば、標準を求めること以上に深刻な問題はない。それを果たさない立場において、いくら国とか、世界とか、理想とかいっても、それは果たせるはずもなければ、望みの当てとするものでもない。

 何を標準に求めるかという問題がもしも解決し、それが間違いなくそうであるとすれば、その基準はみんなが願ゐるものでなければならない。一方は願うし、一方は願わない、あるいは、ある民族には合い、ある民族は合わない、というものであってはならない。本性を共にもっている人間であるから、平等に、あるいは共同にそれを求めるべき基準にならなければならない。

 我々は個人をずっと分析してみた場合には、個人というものが、統一の基盤である。しかし、果たして統一になり得るような実体になっているか? 統一という観念を探り出すことができないものになっている。統一の標準を満たさなければ、統一されたという結果も得ることはできない。このように考えてみた場合には、現実の我々自体は結果的なものである。この結果的なものが統一されているかというと、統一されていないのである。なぜかというと、我々人間には、良心と肉身、相反するものがある。肉身がこうしようとすると、良心のほうは反対に引っ張る。その中に、引き裂かれなければならない中間的な立場に立っているのが人間である。それを防備するのに苦労しているのが人間である。ある時はこういうふうに引かれ、ある時はこういうふうにと、行ったり来たりしている。ある方向に、直線的に行くということは、自分の生涯路程において、思われないような結果の自分であることを否認できない。

 我々は普通、良心がその基準になっているという。厳密に言うと、良心も時には行ったり来たりする。直線的でない。その良心も環境によって変わりやすいものである。肉身は言うまでもない。そうすると、良心が人間の本当の標準基準になっているか? なっていない。肉身自体はもっと当てにならない。

 こういうふうに、この世の中をずっと考えてみた場合には、標準たるものがないという結論が下される。こう結論を下した場合には、信頼とか人倫問題とか、道徳問題とか、これは何だ。これは人間が、仮想的な欲望の、ある目的を果たすための方針としてつくったものでしかない。それは、本来の我々の求めている標準にかなう方法、あるいは方策ではない。そうなると、これ自体が不信されるものになっている。こう考えてみた場合に、世の中は寂しい。世の中は実に砂漠みたいな、頼りにならない、こういう世の中になってしまう。

 価値ある「自分」を残したい

 我々、外的なものからずっと総合的に批判してみるときに、世の中で一番素晴らしいと思うのは何だろう。金は、人間と相対関係のものである。人間自体が問題になっているから、人間と相対関係のものはあまりあてにならない。学問とか権力とかも、人間と相対関係のものである。であれば、我々人間の生活圏において、その中でも残したいものとはいったい何だろう。

 そう考えてみた場合、「自分」というものは何が何でも、全部残したい。「自分」が死ぬということを一番恐ろしがる。残すばかりでなく、「自分」を何よりも価値あるものにしたい。そういう思いをだれしももっている。その思いは、抜き去ることのできない観念になっている。

 この「自分」とは、何を基準としてそのような考えをするのか。尊重したい、あるいは残したい、そして価値あるものとしてそれを残したいと思うのは、いったい何を動機として思うようになるのか。もしも、そういう動機がなくてそういうように思うと言うならば、人間自体が自分を尊重するという思想、自分より価値ある基準を願い求めているという思想は、これは空想である。

 しかし、それは今我々自体ばかりではなくして、過去のあらゆる人間、今、世界に数十億住んでいるすべての人間、あるいは以後生まれてくる数十億の、あるいは数百億のあらゆる人間、すべてがその観念を乗り越えることはできない。その観念下において、生まれて生き、そして死んでいくに違いない。人間世界からこの観念を抜き去る力があるか? ない。

 人間世界において、自分の優秀なる素性を、自分なりに一〇〇パーセントの価値を生み出すところにそれを総合すれば、一つの文化圏が生まれてくるのではないかというとき、「自分」を尊重するその思想を抜き去った場合には、文化も何も、発展の動機もなくなってしまう。

 そうすると、自分を残したいという、あるいはより価値あるものにしたいというように、自分を押し出す、その動機とはいったい何か。それは生命力である。生きる以上は、むやみに生きるのではない。ある目的をなしていきながら、生きなければならない。

 だから、存在と生活圏という問題が始まるのである。人間として、存在基台と生活圏を否認した場合には、自分なりの価値の基準をもつことはできない。結局、自分の存在と生活圏というのは、まとめてその内容を突き詰めていえば、生活圏というのは相対関係である。だから、自分と相対関係のために、自分を残したい。自分を残すのも、ただ残すのではなく、相対と関係を結ぶにおいての価値ある自分を残したい。

 価値というのは、一つでは生まれてこない。相対関係が必要である。結局、すべてをまとめてみた場合、自分の存在と、相対の存在という問題になる。

 絶対の「生命」と「愛」

 我々は、理想圏においては絶対を願う。あるいは、唯一を願う。あるいは永遠を願う。その基準に立った相対、結果のそのもの、それを必要としない者は、だれもいない。だからここにおいて、自分の存在と絶対なる生命、これはだれもが願うことである。

 絶対なる生命、その生命は一時だけのものを願わない。それから自分と同じものを願う者はいない。人間はだれでも、みな違う特質をもっている。だから、唯一なる存在を願う。唯一なる生命を願う。それから永遠なる生命を願う。

「絶対」とか「唯一」とか、「永遠」というその言葉で形容される単語があるとするならば、それは「生命」を中心として言えば、適応される。

 生命はいつも変わっていくような相対性を願わない。だから、これは絶対なるものだから残らなければならない。それから、唯一の生命だから、これは残らなければならない。その生命が一時のものであれば、それは流れてしまうけれど、永遠の生命だから残さなければならない。

 信仰とは何か? 絶対なる信仰、唯一の信仰、これはみな相対の立場に立っている。相対を求めるときの、その条件として、絶対的相対基準を願う。その中間的立場に立って、絶対なる信仰とか、絶対的信頼とかというのである。信仰、信頼自体が相対関係の中心ではない。相対関係の、橋渡しをするための言葉にすぎない。

 結果の言葉は何か? 愛である。生命があれば存在をなす。愛が成立するには、相対圏が必要である。このように結論を出すと、唯一の、あるいは絶対の、永遠の生命、永遠の愛、絶対の愛、唯一の愛。それは文学の歴史を通して考えてみても、愛というものは絶対である。だれでもが、見つめ、鑑賞するような、そのような愛である。たった一人であっても、愛を願うのである。それから、愛があれば、きのうあった愛は、きょうはなくなってしまうのではない。きのう愛があった場合は、それを元として、きょうの愛を積み重ねて、より高い価値基準を見いだすような、永遠の愛を願っている。

 存在と相対関係、これを他の言葉で言うと、自分と相対の関係になる。自分と相手ということになる。相手がなければ、希望も何も果たされない。もしも、「自分には相手、相対関係はいらない」と言って、男一人でいくら威張ったとしても、一世紀後にはなくなってしまう。だから結局、自分と相対関係である。相対関係において、標準の基台を求め出す以外に道はない。

 そうすると、自分の標準の基準は何か、相対の標準の基準は何か、ということが問題になってくる。男、女を考えた場合、女の標準が男か? 男の標準が女か? それはかえって男を標準としたより気持ちが悪い。標準というものは、より価値ある基準を求めて立たさなければならない。より絶対性に近いものでなければ、標準にはなれない。それは二人の良き関係において、標準なるものを探さなければならない。これは真剣な問題だ。

 この両者の間において標準になるものは何か。男と女の、その感情とか性質とか性格とかは、相反する。男に隙があると、女はとんでもなくなってしまう。かえって、自分の良心と肉身を中心とした自分一人を管理するより、男、女の管理はもっと難しい。そう思った場合、変わらないもので、唯一のもので、絶対的なものといえば、それは何か? これは愛である。愛というものは、男も女も、絶対必要である。愛というものは、一人で成立させることはできない。愛というものは、共同、一致した基準を願い求めて、その基準において果たす。それが残るものである。少しでも一致した基準が伴わなかった場合には、流れていくか、それから飛んでいくか、そういうふうになる。

 その愛というものは、どこに成立するか。共に共通目的の一点に徹した場合に、そこにおいて、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛、絶対の愛が成立する。愛なくしては、どうしても自分と相対関係を結び合わせる道がない。いくら考えてもない。同志においても、「ああ、うれしい」、あるいは、「善なる友達だ」と言い出し得るような基準を生み出すまでには、その背後において、共に愛し合うということがなければならない。愛の観念を基盤として、そのように言えるようになる。
 国を愛するとか、万民を愛するとかという問題は、みんなそこを基準として言う。だからなぜ、世の中において「国民が国を愛さなければならない」、「社会を愛さなければならない」、「家庭を愛さなければならない」と言うのか。それなくしては、何にもならない。結びつける動機というものが成立しない。なぜか?

 主体と相対関係は、違った質をもっている。違った質をもっているものが一つになるには、質を乗り越えるような、強烈な愛の基準を求めていかなければならない。それは本当に統一されるかと考えてみる。それが統一の要因になり、あるいは、人間の標準の基準になった場合には、素晴らしいことになる。

 ​愛によって生まれた者がなぜ対立するのか​

 自分に立ち返って考えてみる。人間は、堕落したものである。我々統一教会は、堕落ということを知っているから、問題の解決の方法を研究する余地はあるのだけれど、一般の人は、堕落とか何とか、それは分からない。「堕落も何もあったものではない」、そういうふうに思う一般の人々は、肉身と良心が相反する。これを何で結合させるか。難しい問題である。

 このように理論的にずーっと追求していく。何で結合させるか。もしも愛としよう。人間が何によって生まれたかというと、父母の愛によって生まれてきている。愛の結果物である。愛の結果物たるものが二つになっているという場合には、その愛が人間の絶対的統一の要因になるか。一つになる、そういう標準基準になれるか? それは自分から見た場合に、父母の愛によって生まれているのに、こういうように分かれて、相反するような者になっている。それを見ても、それは、あてはまらない基準である。

 この愛たるものが、自分と相対というものを本当の意味において一致させ、まとめさせる理想的な愛の基準において生まれているならば、理想的に一致した結果が生まれなければならないにもかかわらず、そういう結果になっていない自分を見た場合に、我々は、その愛なるものを疑わざるを得ない。

 父母の愛だけは異なる

 ここにおいて、おもしろいことを我々は発見することができる。
 この世の中をずーっと考えて見た場合には、日本人としては、世界を愛するより日本の国を愛したい、日本の国を愛するより自分の氏族を愛したい、自分の氏族を愛するより家族をより愛したい、こうなる。家族の中において、自分の相対者を愛したい、自分の相対者よりも、自分を愛したい。(笑い)このようになっているのである。それが今までの歴史であった。それを歴史においてずーっとやってきた。

 しかし、ここに変わった異質な愛があるというのである。それは何かというと、親が子供を愛する愛である。親が子供のために死ぬほど、命を懸けて愛する。それは自分を中心とした愛の相対を求めているのか? それはちょっと異質なものである。今まで見たときには、自分を中心としていたのだけれど、親の愛というものは異質なものだ。これは今まで、世界より日本の国、日本の国より氏族、氏族よりも家庭、家庭よりも自分というように愛するのが正統みたいに思ったその系列と、まるっきり反対の要因の基台の上に立った愛の現象が、たった一つある。それが、父母が子供に対する愛である。

 あなたたち、子供をもってみると、そういうふうになるのである。そういうことを聞いているだろう。親が子供のために、命をささげ、自分のすべてを犠牲にすることを問題にもしないということがたくさん見られる。

 本当の親の心を、親の愛の心をもったら、本当に子供を愛する親だったら、それは自分を犠牲にして、自分をほうり出して愛するというような道が、この世の中に一つあるというのである。これは根本問題を探っていく理論的な追求法である。多くの愛の中で、一般的な愛の階層があるとしても、その中において異質なものが一つある。これが問題である。

 では、愛といえば、どちらの愛が本質か。愛なるものが標準になるという、その論法の結果から見た場合に、どちらがより本質になるか。

 自分を中心として見た場合には、前者のほうがいい。しかし、親から見れば、犠牲になっても後者がいい。だからここにおいて、縦的愛とか横的愛を結合させれば、それが相反する方向に結合された結果になっているから、問題はそこに置こうではないか。人間が、そもそも相反するような愛の因縁でもって生まれた場合には、我々自体が二つになる。

 また不思議なことには、親の愛によって生まれている。その親の愛というものは、男、女を愛した愛である。その愛の結果において子供が生まれたのにもかかわらず、その親の愛は、男女の夫婦の愛より強い。これがもしもそうだといえば、これは弁証法的発展であると言う。そうじゃないの? 親の子供に対しての愛と、夫婦の愛と、どっちが強いか?それは万民を集めて聞いてみても、「夫婦の愛が強い」と言う者は一人もいない。

 いったいそれは、どういう結果か。強いのは、その背後関係において、どこからそれを補給してもらったから強くなったか、問題になる。

 そうなると、こういうような親子の関係に結びつけられている愛というものは、夫婦の愛の体験を通ってきただけで生まれてきたという論法は成立しない。それ以上の力の加わった何かの起点が、第三点が、あるいは第一点がなければならないという結論に達する。こうなるとはっきりする。それは何か?

 それは夫婦においての愛によって結ばれた、そういうものではない。別個の縦的な、根底を別にした愛の基準から結びつけられたものとして、これは認めなければならない。そうなっている。

 愛の第一原因は神様

 愛の中心はだれか? 父母ではなくして、その夫婦の愛を結ぶ基準ではなくして、そのほかのところにある。

 その愛の主体は神自身、その愛の根拠地、絶対なる愛の原動力、その第一の愛の原因がある。それを認めないというと、これを論法的に解決することはできない。
 作用した場合において、その作用した結果が作用し始めたその力より大きくなる力は、世の中には絶対ありません。力学の法則において、出力は入力より小なるのが原則である。そこに大なる力が生まれてきた場合には、その大きさに比例した力が、第三の位置から補給される道を満たさないというと、その結果は生まれてこない。そう見た場合には、弁証法的に小なるものが自然に発展したというのは言葉の誤りに違いない。

 自然はどこにあるか。それは加重させて、発展していったということは、それは正当な事実としてある。

 縦的に何が本体か。親なるものは素晴らしい。素晴らしいものだから、子供たちにとっては絶対のものだ。生命の母体になるから、素晴らしい。愛があれば親の愛になるし、生命の基台があれば親になる。だから親というものは、存在の基台にも立っているし、相対的愛の基台にも立っている。二重性をもっている。

 親からその生命を受けなければ、生命を育てられない。それから愛においては、子供は、自分や自分の兄弟を愛するのではなく、親を愛する。だから、子供を抱えた親は、二重的な要因の主体になっているのである。生命の母体になっているし、愛の動機体になっている。だから、そういう二者を共に抱えるような、そういう立場になっているから、親というものはすべてを主管し、すべての本質の愛の起点に立っている。

 だからその愛も、そういう結果の愛として、自分を犠牲にさせるような行動をなし得る愛を現すことができるのではないか。そういうふうに考えるのである。だから、「統一思想」が父母の愛をもち出した理由は、ここにある。

 父母の心情でもって、僕の体でもって何代にも公益する。これは「統一思想」の主流の思想であるが、その父母の愛を、そこから生み出していくのである。質の違う愛の方向があるからこそ、これを基台として神様は、それを増やすことによって、一つになり得ない実体の愛の結果となった外的な悪の世界を、取り戻す。その道がなければ、人間社会においては理想が果たせるかというのである。そこにおいて父母の愛を相続し、繁殖していかなければ、我という存在は、統一圏には絶対立つことができないという、その基準を初めて発見する。

 絶対の主体があれば相対が立つ

 もしも、愛する立場に立った場合には、この世的な愛でもそうであるが、愛の本質は、統一の性質をもっている。

 この世の中に愛があればこそ、家庭も成立する。その愛があればこそ、社会も成立する。それが欠けた場合には滅びるのである。それが固まれば固まるほど、強ければ強いほど、それが核心となって、相対の環境という相対圏が自然につくられるようになる。それは宇宙的存在圏の本質である。それを果たした場合には、完全なるプラスがあった場合には、完全なるマイナスは「現れてくるなと」だれが命令しても、それは自然と現れるようになるのである。陽電気が生まれた場合には、陰電気は自然と発生する。陰電気が発生した場合には、陽電気は自然と相対して発生してこなければならない。こうなっている。

 完全なる主体が立った場合には、完全なる相対圏が立つ。神様は完全なる絶対的主体であるから、神様自体の創造圏というものは、完全なる主体が完全なる相対圏を結びつけるのである。たくさんのものを受け入れ、それを並べて、絶対なる相対圏をつくるようになっているので、その現象下にあるものは、より核心の立場に対しては、それ相応の相対存在は自然と伴うようになっている。

 人間が、今世界に三十六億いれば、男、女に分けた場合には、十八億ずつになる。あなたたち、男として生まれるときに、日本には女がいないんじゃないかと心配して生まれた者はいないだろう。女が生まれてくるとき、男がいるかいないか心配して生まれる者はいない。人間が宇宙の主管主ならば、中心的存在実体をもって生まれるようになったならば、その相対圏は自然的に整うようになっている。そして、もしも人類をずーっと半分に分けて比較してみた場合には、ある時には何十万、何百万、何千万しか違わない。日本もそうだろう。比べてみた場合には、大差ない。差があるとしても、中間において、自然的な死ではなく、自動車事故とかでそういう結果になったのであって、本当は大概等しい。

 だから絶対なる中心がある場合には、その相対者は自然発生するようになっている。だから聖書はそのことを、女は男によってつくられたといっている。完全なるプラスがあった場合には、それを中心として、マイナスは生まれる。それはちょうど一致するはずだ。
 それがもしも、もう一つが現れてこなくて、授受作用をしない場合には、一時の存在は可能だけれども、永続はしない。それ自体もなくなる。こういうような論理の推理によって、絶対なる神様も万物がなくては、神様の価値もなければ、存在基準も絶対圏としてとることはできない。それでは理想がない。理想圏は立体的、質の違う刺激である。平面的立場の関係から立体的関係において、平面より以上の成果を立体的関係において受けることができる。

 理想というものは、個人において感じる感覚よりも、相対関係において感じる感覚は強い。それはなぜ強いか。自分一人だけでは、一方しか動かない。一方しか与えることができない。向こうがなければ帰り道がない。結び合うのだから、全体が整理されるというのである。相対がなくて、全体を与えたなら死んでしまう。全体を与えた場合には、とんでもないことになってしまう。与えるとしても、半分以下しかやれない。そうでなければ、中心が飛んでしまう。だから完全に与えるのであれば、完全に返るというのである。

 いったい、世の中において完全に与えるものがあれば、それは何か。肉身をもったこの個人を中心として完全に与えることができるか? 向こうにいっぱい充満させるものとは、何かというのである。金次第では、それはできない。話次第では、できない。何でもって完全に相手を充満させるか? それは愛によって充満させればさせるほど、不満か? そうではない。しかし、腹が減って食べて、いっぱいになった場合に、まだ食べたい? いっぱいになった場合には、どうなる? いっぱいになった場合には、それから上がるのではない。下がるのである。愛も同じである。愛も上がったり下がったりする。それも、永遠を目的としながら、それは一日生活圏の関係を貫いていく。

 一番愛される者

 神様から一番愛される者は、いったいだれか。絶対なる神様に対して絶対的犠牲心をもって、絶対死を覚悟して、勝利の苦労の先端に自分が絶対的に立つという者があった場合には、神様の絶対なる愛は他に行く所がないというのである。愛は二つか、一つか? 愛は一つである。その一つの愛を、それを占領する中心者たる者は、この地でいかなる者か? 神様が苦労するところがあったら、我は一遍に飛び込む。火あぶりにして殺すところあったら、我は先頭に飛び込む。手先から切って、そして殺すところあったら、我は先頭に、頭を切られる。そのような犠牲の場があった場合に、「我は行く」と言うものは、どういう者か? 神様から一番愛される者は、絶対なる犠牲を求めて、「その先頭は自分が占領したい」という覚悟で、生命を注ぎ合いながら走り込む者であるという結論がちゃんと出る。これは間違いない。

 十人の子供がいれば、その子供たちの中において一番親の心情をつかめる者は、かたわの子供である。他の九人の子供は、もう世の中においては堂々たる子供である。権限もあるし、力もある。対面するのも好ましいような、そういう希望の者である。しかし、「それなりに、適当に親に対して孝行する」と言っている。しかし、かたわのその子供は、見るのも気持ち悪い者だけれど、朝、早く起きて行ってあいさつをする。「昨晩どうだったでしょうか。きょうの母さんの具合はどうですか」。そして、食べる物があれば、食べずして蓄えて、乏しいものでもいいから、朝晩、それをお母さんにささげたい。着る物は、「自分は病気でかたわだから、いいもの着たって似合わないので、兄弟に分けてあげます」。

 だんだん親の心情は占領される。そして、その一家が滅びるという一大事が起こった場合には、その子はかたわであるが、自分から願って犠牲になって死んだという場合には、どうなるか? そのお母さんの心を全部占領してしまう。不具なる立場においてなしたことは、その相対基準に向かい合う価値は、不具の基準の結果としては現れない。反比例の結果として現れる。見たところはみすぼらしい結果になるように思われるけれども、心情的に見た場合は、何倍、何百倍、何千倍、その大きさによって父母は愛さざるを得ないということになる。

 こういうふうに見たときに、平和なる統一世界をつくろうと願う場合には、どういうふうにすればいいか。先生が主体だから、先生の前にそのように犠牲になる者があった場合には、先生の両手を下げてしまうの? 上げます? 先生がそういうふうにして、そのような群れをつくってしまったとするならば、神様は手を下げてしまう?(上げます)。それもみな同じことだといえる。目的を立てるには、こういう基準に立たなければいけない。

 だから、先生がこのような理論の基盤に立っていないというと、あなたたちに命令するとき、あなたたちから先生を見たら、気持ち悪いことをする。「これやれ。 これやれ」と言われて、今やりつつあるのだけれど、これをみな果たす前に、「あれやれ。 これやれ」。これをやろうとすると、「これやれ」。そんな時がある。そうなっても心配する必要はない。命をささげて、これに打ち込む。すべてに打ち込む。この本筋に合った自分自身をささげて、文句を言う必要はない。

 それから、それを基準において、心情的に神の前に相対圏ももってきてささげているか。それは種を植えて、何年、何十年、待つのと同じことである。このように信仰を立てる。このような場合、一般の人から見た場合には、とんでもないことをやっているように見える。

 だから、苦労のネジを締めようというのである。初めは日本的に締めよう。日本的に締めた場合には、日本しか復帰できない。日本的立場において、世界的に締めた場合には、日本によって世界が復帰される。理論は簡単だ。

 さあ、日本の立場で、日本的に締めよう。天宙的に締めよう。天宙的より、神様的に締めよう。天宙的神様がどのように締めるか。

 これを理論的に出して、今までその基準を願ってやってきた。これがもし滅びたら、神の存在圏も宇宙の理想存在基台は、地上にあり得ない。そういうものは、行く道がない。堕落した子においては、絶対なる神様の愛を受けるために、絶対的犠牲圏を一遍に乗り越えていった場合には、神様が困るほどに突き進んでいけば、神様も一応位置を譲ってやらなければならない。その譲った位置が、元の神様の位置であった場合、神様は驚いてしまう。

 堕落の位置はどうだったか。突き進んで神様が後退するのであれば、神様が理想圏におられることを考えれば、「では突き進んでいこう」と、そう考えざるを得ない。こうした場合には、苦労征伐の大将である。世の中では、すべてがそれを避けていたにもかかわらず、それを自分一人で、みんな占領してしまえば、「いやー、力の強いやつだ」ということになる。天下に一人しかいないという場合には、神様もそう言わざるを得ない。素晴らしい結果になるというのである。これは原理に合った話か? 非原理の話か?(原理の話です)。原理に合った話であれば、あなたたちに苦労させなければ、罰せられるのは先生だ。それを知りながら、なさないという場合には、だれが罰せられるか?(先生です)。先生が罰せられた場合には、あなたたちうれしいの?(悲しいです)。とんでもないことになる。

 復帰の心情、復帰の歴史を中心として行く現状はどうかということを考えたのである。

 命懸けの親孝行

 そうすると、父母が命令してから行動するより、命令する前に、その内容をなした場合には、どっちがより孝行であるか? だから、命令を受けて行動するより、今から十年以後にこういう命令をするということを分かって、その内容を今においてしたという場合には、十年の歴史は自分によって保護された、ということになる。ただし、これには条件が伴う。命を懸けなければならない。

 この目前の足場において結ばれる実践上において、命を懸け、そして滅んだ場合には、統一教会の文先生はもう滅んでしまったことになっているはずである。しかし、先生は、まだまだ滅びるという思いはしたことがない。いくら滅びるという境地にあっても、その滅びの境地は、踏み台を踏み越えて、より大きく跳躍するためにあるのである。大きい物を投げるには、一度後ろに持っていって、反動で投げる。反動力は、こういう作用をなす。それはかえってプラスの条件になる。

 だれも占領できないこういう人材が、伝統基盤になる。そこにおいて統一基盤が備えられる。それ以上の強さでもってこれにぶつかった場合には、それは破られる。だから命を懸けて、それから愛をもって、絶対なる命を愛でもって打ち込む。その犠牲の道を行く目的は何か。神の愛の世界をつくるためである。自分が愛を受けて、分けてやるために、である。

 観念だけ刺激しておけば、世界観はこれによってみな結論が出る。善悪は、これによって決定される。このとおりに行ってみた場合には、悪になる方式は絶対に発見できない。「地獄に行こう」と言っても行けない。「天国に行こう」と思わなくても行くようになる。だから、先生が締めなくてもいいことになったね。(はい)。だから、命令を受けるその体制をいつでも整える思想である。たった一人で生涯を打ち込んでも、それだけ世界を両手に抱えて死ぬような勝利者の立場に、神と共に行くことができる。一人で行くのではない。神はそういう男を、そういう所にやって、復帰の基台をつくらなければ、地上に神の国をつくれない。

 そうすると、二つが一つになる統一の要因とは、力ではない。何によってなるかというと、天的愛である。天的愛を迎える道においてである。愛はどういうところに成立するかといえば、相対関係に起こる。生きるために貴いものを受けるのであるから、それだけ謙遜にならなければならない。水平以下の立場になればなるほど、マイナスにならない。そうなれば、「神は愛してくれない」と言っても、自然と愛される立場に立つというのである。

 それを自分一個人に適用してみよう。良心と肉身が闘っている。なぜ闘うか。共に主体性をねらっているからである。それが永遠に続いた場合には、永遠に相反する。それを一遍でもいいから、相対関係につくってしまった場合には、どうなるか? 一つになる。

 反発作用は保護作用

 プラスとプラスがあれば、どうなるか?(反発します)。マイナスとマイナスは?(反発します)。今、良心が中心となりプラスになっている。電気の原理からいった場合、プラスとプラスは相反する。しかし雷は、大気中の雲の中に、たくさんのプラスの集まり、たくさんのマイナスの集まりで、相対関係をつくって向かい合い、それらが衝突する。それが雷であり、稲光である。プラスとプラスが集まって大きなプラスになり、マイナスとマイナスが集まって大きなマイナスになる。原則から見れば、反発するはずである。

 宇宙は、相互関係と反発作用をもっている。共産党もそれは原則だと知っている。弁証法を持ち出している。相互作用と反発作用がある。プラス同士は反発する。プラス・マイナスは相互する。もしも反発作用のほうが強かった場合には、天宙創造は可能か、不可能か。相互作用が強い。強ければ、どのくらい強いか。

 もしも反発作用が強いとなったとすれば、その相互作用を基準として、変わる過程を通過しなければならない。では反発するものが世の中にあるというのは、なぜか。それは相互作用を邪魔するものではない。

 なぜ、神はそういうものを創造したか。反発作用は、何のためにあるか。これは問題である。これは相互作用をマイナスにさせるためにあるか、プラスにさせるためにあるか。それは相互作用に絶対必要だからである。こういうすべての原則を見つめなければならない。自然の状況を通して、ちゃんと整理した立場に立たなければ、あなたたちはいつもふらつく。

 プラス同士が反発するという原則から見た場合には、雲の中の大きいプラスは生まれてこない。プラスとプラスが一つとなって、大きくなる。ここにおいて一つの問題が出た。プラス・マイナスというものは、相対関係を結んで授受作用をなした場合には、宇宙的存在圏において合格品である。そういうものがあった場合、宇宙が絶対保護する。そういう法則になっている。相対授受作用、相対理想圏だけを支持する宇宙圏内の宇宙の力になっているから、それを果たした場合には、絶対保護する作用をする。

 だから、プラス電気と、マイナス電気が授受作用をなした場合には、絶対圏に達する。永遠存在圏をなす。合格品である。存在と相対圏という、それは原則的に一つになっているから、理想圏である。

 だから結局、天から見れば、愛の道になっている。愛によって一つになる。

 このように相対関係になった場合に、そこにプラスがのこのこやって来た場合、これは侵害者になる。そのような場合、向こうへ出ていけと、けっ飛ばしてしまう。それ、実感が伴う。男の子は結婚しない場合には、女の子とよくつきあう。神経質な女の子も、結婚する前には、自分なりに男の子とつきあう。しかし、結婚した場合には、愛する女のところにのこのこ他の男が来た場合には、これは反発するの、相互するの?(反発します)。なぜか? それは男女が一つになって宇宙原理、創造理想的な合格品としてちゃんと立っているのに、「あなたは私を侵害する邪魔者じゃないか。おい来るな」と、自然に反発する。それは何作用か?(反発作用です)。相互作用は相対的に反発作用する。

 であれば、なぜ反発作用をするかというと、「あなたは宇宙の侵害者になる。罪を犯すぞ」ということである。だから自然と罪を犯さないように、神は保護力をもたせなければならない。それが反発作用だ。反発作用があればこそ、抜け出ることができない。だから永遠に存在することができるのである。そう思った場合には、相互作用を保護するための反発作用、そういう結果になる。

 問題はここにある。こういう原則であれば、世の中において、サタン的愛でありながら、一つの相対関係を結んでいるのをいかに復帰するか。より強い愛をもってきた場合には、ふっ飛んでしまう。だから、いくらこれがプラス・マイナスになったとしても、それが十と十とすれば、ここに百のプラスとマイナスがあった場合には、これはくっつく。さかさまにくっつく。原理的になっている。くっつくことはくっつくのだけれど、主体的な立場ではくっつかないで、相対的な立場に立ってこそくっつくことができる。だから、復帰の道はそうなっている。

 サタンと神は、プラスとプラスになっている。ここにおいて、神を中心としてマイナスをつくった場合には、相対はみなここにくっつく。だからアベルを通してくっついてこい。それは原理的、自然原則的な理論である。アベルにくっついてこい。マイナスになって、その本質をなくしてしまっている。マイナスとして来て、くっついてしまえばいい。それで一つになれる。

 だから、もっと強い愛をもっていけば、その環境において自然とくっつくのは、弱いものがくっついてくる。神の愛の強い者の愛というのは、みんな喜んで、闘ってこのように合わせる。あとにずーっとついてくる。強制ではない。それはより強い愛でもってする。サタン的、プラス的愛圏を無視することはできない。それで神様は実に原則的な神だから、カイン・アベルの原則は、実に素晴らしい。

 こういうことを整理して、ずーっと適用してみよう。そうなるかどうか。

 訓練というものは、願わなくても、だれもがやらなければならない。本当に訓練を願う者はいない。訓練はきついことをやらせる。それは平常ではない。異常な立場から鍛える。しかし、それをやってマイナスにならない。こう見た場合には、理論的に、すべてが、世界が解決されるじゃないか。

 これを信仰的に、イエス様の路程から見た場合には、実にこれと一致する。ずーっと原理を考えてみると、みんなそうなっている。我々統一教会の活動も、実にそうなっている。

 犠牲の道を行こう

 だから、できれば最高の奉仕をする。今までいかなる相対者に侍った以上に、すべてを担っていく存在として侍った場合には、その者は、「来るな」としても来るようになる。より強い愛情でもって犠牲になろうとした場合は、天宙、神様が動くのに、人は動かない、そういう原則があるか? 人は間違いなく、引っかかる。早い者は、三日で引っかかってしまう。だから我々は、黙々とそういうことをなしていけば、家庭を主管し、氏族を主管し、民族を主管するのである。ある特定の民族圏以上の数があり、民族圏より増えた場合には、それはその民族が後ろを振り返って見た場合には、自分一人だと思ったのに、どうなるの? 全部あとについてきている。そのように行ってみると、これは一番下に下がると思っていたのに、そこに行ってみれば、日本の最高の主権者まで願わずしてついてきてしまう。

 地球は太陽の回りを回る。こうして運行する。運行してみるというと、それは春も来るし、秋も来るし、冬も来る。だから、これから我は春に向かって行くんだとして、行くんじゃない。

 それと同じように、我々は公式的に運行する。だから統一教会に春があったの? 冬があった。それから秋になった場合は困る。反対になったら困るだろう。冬があった場合には、正式に運行の行路を通っていけば、何に向かうか? 春だ。歴史的な冬の時代は堕落圏である。それをもう少し譲って、秋の時代が来る。秋は夏から。夏の時代が堕落圏である。

 歴史的文化圏をずーっと見た場合には、古代文化圏は熱帯圏文明時代だ。今は温帯圏文明圏である。この温帯圏というものは、春の温帯ではない。秋の温帯である。だから冬の時代が来るから、共産主義シベリア文明圏である。共産主義、冬圏である。冬圏の文明圏が侵入している。ここにおいて神様は、別の出発点をつくった。内的春、内的夏、内的秋を迎えて準備して、新しい生命の実体をこの中に植え込もう。そして、のみほそう。この温帯文明圏において、のみ込めるような生命の実体だったら、もう春を迎えない。これをぶつからす。こういうようになっている。そののみ込める、そういうような実体文化圏を生み出さないというと、神の願う春の国、理想的春の国とはならない。

 愛の法則と体験の重要性

 愛は、二人の目的が、共に釣り合った基準において成立する。これは愛の原則だ。そうしたら、甲のものも乙のものも引っ張っていくことができる。だから愛は二人とも主管することができる。もしも、その立場にいる者を切ってしまおうとしても、絶対に切ることはできない。だから、こういう愛が永遠に維持される、その故郷がどこかになければ大変なことになってしまう。だから霊界はどういうふうになっているか。この愛を絶対維持させ、愛の存在を維持させるための、相互作用と反発作用がある。それが霊界だ。

 堕落世界には、そうならないようにするためのいろいろな反対がある。覆すそういう要件があるが、霊界はそういうふうになっていない。すぐ相互作用と反発作用、完全な相対的愛、本質の愛を中心にした場合、それは永遠に保つ。そういう力になっている。それは自然から違う。自然、その内容は、存在構造の法則作用よりは次元の高い愛の力を中心として、保護する作用と反対する作用がある。

 だから、地獄というものが生まれてくる。それは、反対圏のものを反対圏のものとして処置するために出てきたものであって、最後には、地獄という存在を見ることによって、霊界に行っている者は刺激される。かえって感謝する。強いその感謝を感じるようになるというのである。

 このように見れば、個人というものは、良心と肉身が闘う。良心と肉身が闘うこういう者が、いかに一つとなるか。その愛の基点は、どこから始まるか。自分自体からは始まらない。だから、絶対なる何者かを探し出さなければならない。ここにおいて、宗教とか神様とか、こういう問題になる。これは神様である。それから、一番高いものを願うという問題においても、神様を願う。ここにおいて、信仰問題が生まれてくる。愛の勝利体験を自分と直接関係結ぶには、体験の重要性、そこにおいては共通する要素源を、自分の相対圏に整えなければならない。それに違反するものを片づけて、相応すべき環境圏をなしていこうというのが、信仰の生活である。ここにおいて信仰が必要である。

​ だから信仰生活というものは、その標準的主体の思想である。だから、神様であれば神様の思想、あるいは宗教の教祖であれば教祖の思想を標準として、そこに近づくのである。そこに近づいて何をするか。その教祖は自分に対して内的の存在の立場に立ち、自分は外的な立場に立って、それが一つになった場合、初めてその教祖が願った愛を現実において体恤する。それは主体と客体関係である。完全な教祖があった場合には、教祖を理想としたそれと一致した基準に、生活一致、すべてに一致する。そして教祖をプラスとし、自分をマイナスとして授受作用をするというと、その教祖が願っていた本質の神の愛を体恤することができる。それを体恤して一つになったその時において、相対圏というものは、宗教なら自分の宗教において、それがお釈迦様ならお釈迦様の身代わりとして全般を愛するようになる。そうなった実体者が責任者になった場合、お釈迦様と同じ心情でもって結びつこうという平面的な実体圏が、生まれてくる。​

 このようにずーっと下に降りてくる。だから大きい苦しみ、それから小さい苦しみ。統一教会においては先生が中心となっているから、先生を中心として先生のすべての生活観と、相対関係のすべてを一致化することによって、先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面的に、その中にいかに早く見て感じ、共に接触し合ってなしていくことによって、その神の心情圏は自分のほうにつながるようになる。

 神様は素晴らしいお方だ。愛なる世界、その愛の根拠は神に下ろさなければ、完全統一ということはできない。完全統一の主体である神様は、絶対である。だから、聖書は「心を尽くし、精神を尽くし」とあるだろう。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、それから力を尽くし、何をどうするんだって? 神を愛せ。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛す」、これだけは必要だ。これ以上に必要な法則はない。何のためにささげるか? 愛のためである。愛の道に命をささげてみなさい。肉身も心も、一致する点が果たせるのであるから、どうせささげるのであれば愛をかけて一遍にささげる。だから心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するのは、その基準に立っている。

 統一の要因は愛

 統一教会で与えられた基準を越えて生活する者には、残す何ものもない。しかし、それ以下において一生涯を果たした場合には、それによって配給されたその恩恵で、永遠に報われる。こういう道だ。だからイスラエル民族が世界において、今まで滅びずに残っているのである。それはなぜかというと、昔、旧約時代にそういうように神様に奉仕した道があるから、回ってくるのである。

 愛は素晴らしいということが分かった。この世におけるサタン世界の愛も、一つに統合する力がある。一つにする作用がある。そのサタン世界の愛以上の力でもってなさなければ、神の国は立たない。より強い愛でもって相対環境に向かい合うところに、発展の原動力は出発する。発展の要因はそこに発生する。それが統一の要因である。

 そのように主体が願い、自分が願う、そういう愛の心情をもつには、まずもって神と一体とならなければならない。神の愛を多く受ける者、すなわちアベルにならなければならないという話である。ここにおいても愛の神が絶対なるプラスだったら、絶対なるプラスの前にマイナスになってしまう。愛される立場である。そうなった場合には、四方八方を包容していくと、プラス、マイナスが反対の境地に立つ。自然的現象である。四方八方を通じて回る。

 カインは、プラス、マイナスが反対になっている。それでプラス、プラスで反発するので、アベルがずーっと奉仕して下がって回っていくと、結局マイナス、プラスになって、強い方向に引っ張られて上がっていくのである。上がっていく場合には、完全に反発するプラス、プラスの基準がなくなるのである。

 心情的に侍って愛される者は、アベルの立場に立っている。旧約時代がなければ新約時代も生まれてこない。新約時代がなければ成約時代は生まれてこない。だから、この情的神の心情はどこから伝わってくるか。問題である。もちろん先生を中心として、神を中心としてつながるものを教えている。では、先生はどういう路程によってつながっているか。それは、先生を中心として考えてみた場合には、その愛を相続する系統がある。それはどこからか?

 旧約時代から新約時代を通して成約圏まで勝利を果たしたから、これは横的な勝利的心情圏を現すことができるのである。もしもこの縦的関係を相続してこなかった場合には、横的環境の勝利の中心圏は果たされない。先生はその情的基準を尋ねてきた。旧約時代から尋ねてきた。それから新約時代、それから成約時代を勝利してきた。だから、旧約時代と新約時代圏の過ちを取り返す。

 だからアダム家庭に入る。その根本的問題に入る。アダムの家庭を中心として、神はどういう方法をとってきたのか、これをよく考えてみる。悪がだれに入ったかというと、天使長、それからエバに入った。そして、アダムより、神にやってきた。やられた動機は、いったい何だ。愛の問題である。どういう愛の問題か。自分を中心としての愛の問題である。自分を中心としての愛の問題においては、堕落の経路を下りていくのは、当然のことだというのである。

 自分を中心としたところから出発したその愛の道は、結局は堕落性の路程になってしまった。天使長は、自分を中心として、神もアダムもエバもあったものではないと考えた。自分を絶対と見ていて、相対のすべてを無視してしまった。それはサタンのなすべき根拠地であるというのである。だから宗教は、そういうものをなくすために、高慢な道を避ける。「自分というものは敵である」こう簡単に言っているのである。これを復帰するにはどうするか。

 エバが天使長をアダムより以上愛した場合に、堕落したのである。だから我々統一教会は、その堕落圏を乗り越えるには、自分を愛するのではない。より以上アダム・エバを愛するその道を探っていかなければ、元の道に帰ることはできない。自分を犠牲にして、相対圏のために行こうというのが復帰の伝統的精神である。

 歴史は今まで、戦争の歴史であった。戦争したのは、相手を成功させるためではなく、相手を犠牲にして自分が成功するためにしたのである。相手を犠牲にして自分の成功のために、これが今までの歴史の方向である。この点を、あなたたちは、はっきり知らなければならない。「統一思想」が、いかにして世界を統一するかという問題である。

 見てごらん。創造の時にそれを蒔いたのだから、それを蒔いたあと秋になって、世界的にそれを収穫する、今がそういう時期である。それを植えるのに、だれを中心として植えたかというと、自分を中心として植えた。その自分というものは、肉的なものと、良心的なものがあるのである。民主主義も民主主義を中心として考えている。共産主義も共産主義を中心として考えている。二つの心が世界化されてずーっと結実したものが、それが民主主義と共産主義であるというのである。それは、物的世界と心的世界である。

 共産主義の力はどこにあるかというと、パンである。共産主義の組織化運動は、何によって果たせるかというと、配給制である。パンの分配、これの操縦によって共産世界を組織化、強化する原動となっているのである。

 民主主義とは、どういう思想か。キリスト教思想である。博愛思想である。愛を中心として、配り合いながら配給制度みたいに、より愛を配給してもらえるような道が見つかった場合には、大変なことになることが起こるのである。それはぶつからずして、当然たる博愛の圏に立った、それが今までの民主主義圏である。博愛と言うのであるが、全体の犠牲になれとか、具体的なことはよく分からない。

 統一教会の行く道

 我々統一教会は、具体的にやる。主体的に。自分が幸福になり、自分が成功する、自分が立派になる道は、より大きい愛を自分より以上他に配れば、やったその範囲が広ければ広いほど、その道においては、立派になる。今の世界にはそれはない。共産主義は共産主義自体を乗り越えることはできない。民主主義は民主主義自体を乗り越えることはできない。この両方を乗り越える主義が出た場合には、この地上に統一の世界が生まれる可能性を見いだすことができる。このようになる。

 そこで、共産主義というその主義は、今まで人間が求めてきたのは、自分たちを中心とした考えだから、これはいかに行くとしても、それは世界的に立ったのではない。国家を乗り越えることができない。なぜか。サタンは国家以上のことを結ぶことはできない。それは国家的、国家基準である。国家基準以上は乗り越えることはできない。これが共産主義も民主主義も、人間から生まれた最高の中心体とすれば、その国家において、国家を乗り越えることはできない。これはもう実験済みである。共産主義もイスラエル民族も、そこにおいては出発することは許されない。こういった場合、二つに分かれる。民主主義は世界より自分の国が大事だという場合には戦ってしまう。

 そういう、人間を中心として動いたものは、そういう人間のタイプ、自分を中心としたタイプも世界的になっている。それを何で引き上げるかというと、原則に立った天使長の主権ではなくして、世界圏を愛する神よりなった、その創造主をもうけて出発すべく、アダムは出発しなければならない。アダム圏というものは、神の愛をつくるものである。神の愛を復帰するという立場に立っている。自分を犠牲にしても相対の基準を立たせるような思想である。この思想があればこそ、初めて一つになる。それは原理原則に一致する。こういう観点から見た場合には、我々に民族観念というものは、サタン圏の結実の最高の基台であった。この基台圏を我々はいかに一時に滅ぼすか、こうなるのである。

 だから、神の子供になるには、サタン、天使長主管圏以上に立ったその資格をもたなければならない。だから、国家以上の思想的観点に立った者でなければならない。

 だから我々は、世界のために民族を犠牲にする。世界のために日本の国も韓国も、韓国の民族も犠牲にしよう。それだけの民族を犠牲にする。その時、サタン側もそれを打ち出してきた場合、神は非常に困る。そういう時が来るから、神はあらかじめ、それを覆す原動力として「統一思想」でもって、結果ならしめる。そういう圏を広めていかないと、天国をこの地上に建設することはできない。種を植えて、芽が枯れた場合には、その死にかかった体は肥料として摘み取って、そこから新しく芽が発生して大きくなる。大きくなるには肥料によって種になる立場を超越していくのである。

 「統一思想」は何によって成立するか。サタンは愛によって成立した。「統一思想」は何によって成立するか。これも結局、愛によって成立する。その愛の発現の出発点が、サタンと神とではまるで違う。神の愛は、自分を犠牲にしてみんなを生かす。だから神は、神の心情を承知している一人が犠牲になった場合には、必ず三者、四位基台だから三者は必ず動く。犠牲になった場合には、三者は必ず祝福を受ける。

 こういう戦法でもって、宗教は打たれれば発展していく。迫害されればされるほど、滅びるのではなくして、宗教は栄える。なぜそうか。こういう天的原則があるからそうなる。だから、迫害が悪いか、いいか。迫害なしに発展の道をきたすことはできない。だからキリスト教は数千年間、迫害されない日がないのである。

 もしも日本が、島原の乱の前に、今から三百年以上も前に、豊臣秀吉の時代に、キリスト教を完全に受け入れた場合に、日本はエバ国家となる。その時代に、素晴らしい文明になっている。今までの、四百年間の現代文明である。正しぴ洋文化の形じゃない。韓国よりは先じゃない。豊臣が反対したんだから、とんでもないことになってしまった。

 イエス様が殺される結果を決定づけたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネである。だからキリスト教の発展段階も、信仰の時代、それから愛の時代、希望の時代となっている。それは、旧教の時代は信仰の時代である。ローマのカトリックを中心とした中世時代に、ローマにおいて迫害されたら命を懸けて信仰していったのである。次には、聖書を中心として、イエス様と同じような立場に立ち、イエスの人格に触れ、愛の実践者になるのである。昔は横的教義時代。それから新教は人格的愛を中心とした教義時代。こうなってきている。それから新教が終わり、最後に来る終わりのものとは、これは統一教会である。蘇生、長成、完成の三段階目、これは希望の表象である。

 だから、イエス様の三人の弟子は、信仰と愛と希望である。ペテロは信仰者であり、ヨハネは愛の代表者であり、それからヤコブは希望の代表者である。だからヨハネは死んではいけないというのである。信仰、愛、希望、三つあるけれども、最後に残るものは愛をおいてほかにない。だから最後に残らなければならない、そういう愛の表象体であるイエスの弟子が中間に置かれた場合には、この世の中に残らなければならない。聖書にあるように、非常に愛されたのである。それから希望である。再臨の表象を希望にするのである。希望をもって、こういうふうに侍ってこられたのである。

 統一の方案は犠牲

 世界をこう見ると、これは統一の要因を迎えたということである。要因は愛であり、方案は犠牲である。これが一つに重ならなければ天国は絶対来ない。これは、どこにおいてもできる。家庭においても、平和な家庭、天国的な平和な家庭になるには、理想の要因は愛である。

 自分なりに穴をあけた場合には、どうなる? そこから崩れてしまう。しかし、共に頭を下げ合い、犠牲にし合うという環境が成立した場合には、愛は絶対滅びない。愛があった場合には、すべての完成基準をなした基準だから、そこには神様は降臨せざるを得ない。だから、神様を中心としての愛の相対圏をもっているところは、いずこも天国である。

 もしも、一氏族がそういう環境になった場合、すなわち一つの家庭が氏族のために犠牲になった場合には、その環境が救われる道がある。環境がよみがえる道がある。一つの家庭が親戚や同族に対して犠牲になって、すべてがそれに頭を下げるようになった場合には、一つになる。一つになりだすと、愛の目的は成立する。そして新しい大きい主体になるのである。そうして、それは氏族圏を中心としてプラスになった、それより大きい民族という相対関係に向かって突進する。それが創造の発展形態である。

 個人が家庭の犠牲になるのは、より大きいプラス圏を求めるためである。その犠牲の上の人たちが、どこかに逃げては絶対いけないというのである。そういうようにして、自分たちの中心者に侍るのである。中心者に立たせるばかりじゃなく、最後に自分を主管してもらいたい。主管してほしいのである。それはなぜかというと、そういうふうな人たちの環境を統一させて、より大きい主管圏、プラス圏を形成するということである。

 だから家庭のために犠牲になった者は、最後には家庭を主管する代表者になる。親父があっても、お兄さんがあっても、その親父やお兄さんが、家庭のために犠牲ならないというのであれば、親父やお兄さんをさておいて、一人家庭のために犠牲になったなら、みんなが寄り集まった場合には、反発することはできない。うなずきながら、その場にいるということになるのである。だから悪の世界も、願わない者も、願う者も、一方のほうに寄ってくる力は、このほうにあるのだから、これは統一される要因だというのです。だから、家族を中心として、氏族、血族、みんな出るのである。

 家族が氏族のために犠牲になった場合には、氏族全部を主管するようになる。新しくプラスになった場合、プラスのないところを境において、サタン界において、その民族の全体を代表して、この氏族がプラス圏においてマイナスを相対関係で結びつけて一つになった場合には、今度は新しい主体になる。その主体の立場に立った場合、その圏を歴史的にサタンに譲らせて、勝利圏を歴史的、伝統的に残して立たせたのが、イスラエル民族圏である。国家圏である。それをそのままサタンに殺されずして立った場合には、イエス様が来られた、その時に、新しい国家的主体的圏をつくって、ローマから世界をマイナスにして一つにまとめて、より大きい世界的中心に立たせる。それが今日まで、ずーっと公式になっている。それが再臨の時において、世界次元のキリスト教文化圏とキリストが一つになった場合、これはちょうどイスラエル圏とユダヤ教と同じことである。

 しかし、地上の勝利的絶対的民族とか国家とか主管圏はないのである。これは浮いている。だから霊的だ。地上に歴史的伝統、国家基準をもっていないのである。移動する国家基準、霊的な国家基準をもち続けてきたのがキリスト教文化圏である。それが地上に、ある一定の基準を結びつけなければならない。地上天国はその一点を見いださないというと、全体的中心の核心を求めることができないのであるから、その一点を求める。それは第三イスラエルというのである。韓国を中心としてのキリスト教、民族圏、国家圏。韓国では解放記念日、日本では敗戦した日であるが、解放した時に主権がないのである。それは再臨の主を中心として三年がたち、そして一九四八年において神様の国が初めて韓国になされたというのである。しかし、それが反対されて遠いところに行き、遠回りの道を今までやってきて、再び会わざるを得ない境地に向かいつつ勝利してきた。

 神様の犠牲の愛

 そのような勝利圏をどういうようにして立てたか。その思想の根底、勝利の根底は、たった一つである。
 神の愛が地上に立つには、サタン圏の心情圏において反対の、すなわち、自分を中心として全部を犠牲にする、そういう者があったとしたら神が主管するようになる。こういうふうにして今までずーっと我々は上がってきている。

 この方式を適用しよう。それが氏族圏を中心としてなすとき、これは一つの国を探すまでの戦いである。ここが旧約時代、新約時代だというのである。イエス様がそれを目指してきた。イエス様の目的を果たそうとしても、そういう限界基準が一国内、同民族を中心として主権をその指揮下に置く時までが、イエス様の求めてきた基準である。それが新約時代の終わりである。それが基準になった場合、そこから成約時代であるというのである。

 あなたたち、成約時代というのは来ているの、来ていないの? 国がなければならないという話である。

 こういうふうにしてあるアダム国家を求めた場合には、どういうふうにしてエバ国家を求めていくか。それも同じ法則である。その思想でもって犠牲しながら、影響しながら、これを一つにする方法を、同じくなしていく。

 心情基準を蕩減する勝利基台を包んでいかなければ、蕩減の道を見いだすことはできない。より高い信仰で勝利するのである。愛の実体を使って、より以上の愛でなければならない。そういう問題が、統一教会の伝統の進路において果たすべき道である。それをなすなら、命を懸けて守ってもらいたいのはアベルの立場である。そのアベルの立場が個人的、家庭的、全国的になって、それが国家、世界へ拡大していこうというのが統一教会の戦闘手段である。ちょうど日本は五十県だから、その県領域のアベル圏の主体者があなたたちである。先生と一緒だから、先生が命令したんだから、その基準に歩調を合わせるようになると、日本は滅びずして、相対的価値圏に達することができる。それは原則どおりだ。栄えるための原則になっている。

 旧約時代は物の時代である。だから物の祭物時代。新約時代は子供の祭物時代である。成約時代は完成期、父母の時代である。ここにおいて、本当は父母というものがサタンに讒訴される原則があるか、ないか? 讒訴圏、堕落したアダムの圏というものは長成期完成圏であって、完成圏ではなかった。七年間の期間を残した長成期完成圏に立っているから、それは七年間というサタン圏の蘇生、長成、完成圏になって、ここに三年間の期間を蕩減できていなければ勝利しない。だから家庭を連れて、サタンに勝ったという勝利圏を満たさなければ、家庭を連れて、堕落圏を蕩減した基準に立てない。それにはサタンに勝利しなければならない。

 歴史的勝利者になれ

 それを自分にまた適用した場合には、自分というものは歴史的勝利者にならなければならない。あなたたちは、「我々は六千年の結実体である」そう祈祷するだろう。何が六千年の結実体であるか。一人ぼっちで立っている。何が罪の結実体であるか。それは旧約時代を代表した者であり、新約時代を代表した者であり、成約時代の中心を受け継いだその者であるという話である。祝福された場合には、そういう立場に立つのである。子供をもった場合には、子供を集めて、物があった場合には物を集める。創造というものを反対にしてきたのだから、物より、子供より、神様、そうだろう。

 創造理想はそういうふうに最高の理想になっているから、私にも物があり、私にも子供があり、私もこうなっている。創造過程のすべてを、神と一致された基準をちゃんと備えてもっている。だから、物は旧約時代の祭物であり、子供は新約時代である。自分は再臨の主に会うというのであるが、それをもしも讒訴された場合には、祭物をささげてそれを復帰しなければならない。

 裂かないといけないようなものは、創造の神様が主管すべきものではない。それは罪である。裂いたり、血を流したり、そういう結果を主管する神様ではない。だから、そういうふうにした圏をもつにしたがって、我々は祭物として裂いてささげるものではない。そのもの自体において、その子供がサタンに讒訴されて、祝福されずに讒訴されて、イエス様の祝福のように、相対者をもらうのに歴史的蕩減をかざしていくような、そういう者ではない。

 だから、その中に生きていても、すべての子供は、自分自体もそういうものを越えなければ蕩減がまだ重い堕落圏につながった、そういう圏に立っている。だからそういうふうにして、感謝して暮らすのである。

 だから自分の旧約時代はあった。旧約時代でも、祭物を裂いてささげる旧約時代ではない。環境すべてが勝利した旧約時代圏を我はもっている。これをもっているから、祭物をささげながら失敗した旧約時代は我と関係ない。祭物を裂いてささげるところにこれまで失敗して、今までやってきた。そのものは祭物の勝利、全体そのものを勝利した基準に立つような、そういう条件をもっていないというのである。だから旧約時代完成圏を完成したそのものの実体圏である。

 物自体をそのまま神にささげることができるから、旧約時代の祭物、その目的を完成した圏をもっているというのである。イエス様は、自体を裂いて十字架につけられたのである。だからここにはサタンが讒訴している。しかし我々は、そうではない。我々の子供は新約時代の勝利者とした子供をもっているから、その子供をそのまま神のほうにささげてもサタンが讒訴し得ない実体圏をもっているのである。だから新約時代完成圏を我々はもっている。自分の父母として立っている。祝福されたという場合には、祝福されたその時において、あなたたちは、立たされているの、立たされていないの? その時代において迫害されたその道ではない。そのような迫害を受けずして勝利の基台に立った、すべての父母圏をもっているというのである。それがまさしく、堕落しないで完成圏を迎えたアダム・エバの立場である。こういうふうになっている。

 父母があり、子供があり、物があり、そのものすべてがだれのもの? 各個人において成されるのだから、あなたたちは神の上に立つことができるのである。

 しかし我々には、神の家庭、神の氏族圏があるのだけれど、まだまだ国がないのである。国がない。主権がなければかわいそうである。旧約時代、新約時代、成約時代、韓国がこういうような環境をつくりつつあるというと、日本もこれに接触させないといけない。どういうふうにして接触させるか? 物の接触である。

 勝利は近い

 統一世界はもう勝利するようになっている。つくられるようになっている。だから先生は伝統を今まで叫んできたのである。伝統が問題である。九億以上のアジア人民があるとすれば、それをうならせるだけの伝統が必要である。その伝統たるものは、何をもってするか。それを実証すべき材料が問題である。材料は密度が問題である。

 こういう思想でもって、日本人として日本の国が濁っている時代においてこういうことを成してきたと知って、感謝する時が来る。だから、それは原理だ。我々は歴史をつくっているというのである。そればかりでなく伝統を、これは永遠のものとして、その基準を残していく。死しても悔やむような道ではないというのである。栄える道である。こう思って今まで戦ってきている。

 そして日本は今でも忙しい。昼も夜もない。夜の十二時近くまで起きていて、もう四時前には起きている。寝るどころではない。我々の現状の忙しさより以上、天の心情圏は本当に忙しいというのである。

 我々において世界観は、もうちゃんと決まっている。運命というものは現実の生活面に決定的勝利圏をなせる基準だという。こうなった場合には、そこより新しい世界は生まれてくる。それ間違いないと思うだろう。だからこの道を行く者は、愛を中心として、人間の愛ではなく神の愛を中心として行く。現実に我々が歴史的勝利の実体者となるには、歴史的心情圏を受け継がなければならない。それをずーっと考えてみた場合には、神が六千年の歴史世界を苦労したのは、自分のためである。先生が苦労したのも、そうだ。すべてが自分一人を完成させるために、今まで苦労してこられたということがはっきり分かるようになるのである。それを返さずして、顔を上げること、食べること、笑うことができるかというのである。借金したものであるというのである。それをすべて蕩減して、神がもう同情されて、「おお、お前それでいいから」というような命令を受けたならば分からないけれど、それ以下においては犠牲を続けても、我々は報いる道がない。そういう恩恵を受けているというのである。

 こう考えてみた場合は、そこにおいて心情的報いを成し得なければならないというような各自の決意をもって、世界的舞台に働きかけるようになると、世界はどうなるか。戦わずして、一つになる。

 だから愛の心情、神の心情圏の愛を受けるためには、旧約時代、新約時代、これは供え物の血を流しながら、流さずしては蕩減の道を上っていくことのできない、そういう摂理路程にもかかわらず、我々は何の犠牲も果たしていないではないか。分かれば分かるほど、果たさなければならないものが、もっと大きい立体的なものが前に待っているということを見つけるのだから、それが分かれば後退はできない。それを受け持って、だれよりも先頭切って汗を流しながら、これを戦い抜いていく。そういう人がもしも倒れたとすれば、その倒れた墓場には花が咲く。冬にそうなった場合には、そこは春になってしまう。だから、過去の聖人たちはみな、神を慕って、神の愛を慕って今までずっとやってきた。そういう歴史ではないか。それ以上の心情圏を我々は神の生活圏と一致させてそういう者になっていけば、永遠の国のために神が涙を流しながら我々を援助するようになれば、これは世界的な勝利者になる。こう考えてみた場合には、これ以上素晴らしこはないというのである。だから統一の要因は愛の問題であり、その方案は、犠牲、それがない場合には、絶対神とつながらない。

 これを頭に入れて日本に帰っていった場合には、日本的な犠牲も尊いのだけれど、アジア的な三国に向けて犠牲にする国民運動を、我々いかに展開するかということが問題である。先生は今それをやっているのである。統一教会を中心として、まず統一教会自体、韓国の統一教会ばかりでなく日本と台湾と、そういう問題に応じて、アジア情勢に非常に頭を使っているのである。そういうふうにやって、苦労より、より犠牲にする。そういう道あればこそ、神を中心として行けばこそ、それは絶対、歴史は滅んでも統一教会は滅びないということをもちまして、日本に帰りましたら、より一層そういう精神で働きをしてもらいたいのが、先生の願いである。

 日本を愛する前に統一氏族を愛せ。統一氏族を愛する前に統一祝福家庭を愛せ。家庭を愛する前に統一の個人個人、食口を愛せというのである。それが神が求めている標準の基準と一致した場合には、それは世界が求める標準の基準と一致する。その基準が心情である。それをなした場合には、個人を持ち出してそれを基準として家庭、家庭を基準として氏族、氏族を基準として民族、民族を基準として国家、国家を基準として世界基準が立つ。こういうふうに立たした場合には、これが統一の要因であるというのである。基準は愛のこのような原理的発展の心情圏を生み出すことによって、尊い基準となして世界を復帰する、統一することができる。そこにおいて可能だということを、結論として言っておきます。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.06.23 19:47:51
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