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2021.06.24
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「指導者の責任」

1971年9月14日
水沢里で


 朝の出発、夜の反省

 一日の中に於いて、そこに前後あるいは上下、あるいは左右関係に於きまして、そこに自分がより価値のいい立場に立つ時もある。その反対の立場に立つ時もある。こう見た場合に自分の気持ちというものは責任者としての気持ちというものはその自分なりに願っている目的に向かって何をその基準を中心として喜びの心情か、あるいは目的に向かいつつある自分によってそれは淋しい、あるいは悲しい、しゃくにさわるとか、気持ちの悪い立場、こういう問題が問題だ。そうすると、総合してみた場合に一日の生活全部が気持ちのいい、嬉しい時間が、寂しい、気持ちの悪い時間より多かったという場合には、まあそこには自分の公的立場に立っている責任者としてその目的に近づく、一歩前進させる動機の一日になったと云えるだろう。

 もしも、それを総合して見た場合に気持ち悪かったというような立場に立った場合には、それが多かった場合には、今立っておる現状の立場からその目的に向かう公的その指導者としてその使命を果たすその立場に於いて前進でなくして一歩後退した自分になったという実感できそれをみはかるそういうような立場を我々はいつも見いださなければならない。

 朝、起きると共に全ての周囲の環境を見まわして新しい出発するのを我々はみられる。一日のその朝というものは新しい出発の時である。こう見た場合にいい太陽が上ってくる。今日の朝は気持ちがいい。天気がいい。それで環境もこれ清潔だ。その中で又、自分の気持ちがよかったというようなね。朝なりにそれを考えた場合にはその気持ちたるものを一日もったならばそれは環境に於いて自分なりの気持ちに環境を持ち続けることができる。こうなるというと環境のいい、その気持ちいいことを忘れてしまう。それにつり合わして環境がいいから自分の心がよくなるというような立場に立つんじゃあなくして、環境がよくても自分の個人の立場がそれは環境に反対の立場に立ったならば環境を忘れて反対の立場にとり囲まれるようなそういう自分を発見することがある。まあ、こう見た場合、自然の朝という朝は全てが出発するというんだね。全てが新しく出発する。昨日と今日とちがう。こう我々は一日を迎えるたび毎に我々の生活に於いて朝になった場合にはまずもって新しく出発するんだという区切りをつけて、いつも整理しておかなければならない。あるいは寝る時にはこれは全てを清算して今日こうだったあるいは色々なことがあったんだけれどそれはこういうことが自分の責任者としていいことであった。悪いことであった。それみんな総合してまとめて寝る時にはそのこと自体も解決して休まなければならない。そうして朝には、その必ず新しい気持ちでもって出るようなその環境的因縁に総合する自分の自分自体を発見するのが必要である。

 自分は、さっぱりした気持ちでもって朝を迎えようとするのに環境も-気持ちが悪かった。とするとそれは環境からああ何も得るものがないというような立場に立った場合には自分より、この地点の方に何かいい影響を与えよう。そういう気持ち、そうすると環境自体が自分によって何を求めているんだというような、まさしくそういうように思わなくても自分なりの心的これ状況というものは実に素晴らしい。

 まあ、こうなるというと環境に向かって慰めの言葉でも言いだす。あるいは歌でもって自然をこういうふうに抱擁しあい乍ら歌でそれをなだめてやるとか、そういうように独り言を言うような心情で、今日は自分が中心である。そういう心的な責任という事も考えられる。だから責任者というものは環境に於いてそれを全てを責任もたないものとなれば、それは本当の責任者になれないんではないか。こういう習慣観念を自身の一身にいつもつけておいて人に対して自分を中心とすればそれは相対者である。昨日も言った様に全体と環境圏を我々は、これを乗り越えることによりそれは、生涯を通して共にそれは調合し乍ら、つり合ってゆかなければならない立場、ある人が自分の前に現われてきた。その、あらわれて来た場合にはその人が昨日と今日、あの人が今日は気持ちのいい人だ。そうでなければ気持ちの悪い人か。という場合には、向こうの人が気持ちいいその立場に立っておる。そうなるというと自分から見た場合には自分も気持ちがいい。向こうの人が気持ち悪いという場合には責任者としてはこれは零だ。それは完全に分かれてしまう。それは何か一つあう動機をそこから求めることもできないし、こっちからも求めることもできないし、両方求めることのできない立場に立った場合にはそこから完全に分かれてしまう。だから環境の中心に立っておるその一人の人間に対して、我々は、昨日と今日較べた場合に昨日は良かった。今日は間違った。という場合にはその環境に影響されずして気持ちのよくなったらそれをもっとよい方向に如何に刺激してやるか。それを満たさなければならない。これは何よりも重要である。気持ちいいことを、それを如何にして成長させる刺激を与えてやるか。それが指導者として重要なことである。もしも気持ちが悪い立場に立っておる、そういう場合にはそれをそのままおいてしまった場合には、その人は後退してしまう。昨日は気持ち良かったんだけれど、わしは自分と会った場合に気持ちよい立場だったんだけれど、今日は気持ち悪い立場に於いてそれ会った場合には指導者に向かうその人にとって、指導者に向かう心を自分が、昨日みたいな心の延長を願って求めてきたにもかかわらず、そこにおいてそれを何の果たす、願うその要件を果たされなかった場合にはそれは二重の淋しい圏であると言うんだね。

 兄弟が相談に来た時

 ある希望をもって責任者を訪問したのは、ある自分の淋しい、あるいは悲しい、困ったその分を何とかして補って貰うというような望みの相対者として指導者を訪問したにもかかわらず、その人が気持ち悪いとして自分も気持ち悪いようになった場合には二重の嘆きを受く。なぜかというと、自分の持ってきた希望が切られてしまう。それに比例して悲しい自分にそれはそれに比例したる淋しさがそれがここに負わされる。その二重の悲しい立場に立つ。こうなった場合には、そこからはこれは遠くならざるを得ない。そういう時になった場合にはその人は再び自分の方に心を向けて来たくなくなる。それがもしもみ旨をして、あの責任者はまあ、ああいうタイプだけれどこの道を行かれる。あるいはその目標を指したるその目標が余りにも大きいからそれ一人責任者に対してのその減少感、そういうものを感じたけれどもその減少感のその基準に於ける基準を中心としては、この摂理の道を反対するそれに比例ならないからついてくる。もしもそれで今日はそうだったけれど、まだ続けてゆく。ゆくと前にまた再びその指導者に何か昔と変わったその基準に於いて自分の助けになるかということを又捜してみる。そういうふうにして向かい合った場合に、再びそういうふうになった時は向こうでは自分と会った後に於いて、向こうでは苦悶するようになる。それはその苦悶というものは自分だけの苦悶ではない。自分が自分を中心として環境に包まれた、その苦しみを感じて今迄おったんだけれど、ああいうような指導者がもしもこの道の責任者になった場合にはどういうふうになるだろう。その憂いの方向は、自分の心配の方向にプラスさせて、み旨に対しての憂うような立場になる。それを自分の責任はどうか。それからその責任者はそういう欠点があると、それは知ったとして人間はそういう欠点があるだろう。こういうふうにして、それを善にしてその場をのりこえるとしたらその以上の人はどうか。あるいは地区長がそういう立場に立った場合には地区長たる者は一体どうだ。それは今、自分にその打撃を与えて下さったそういう人とは違うだろう。と、こういうふうにして新しい方向を求めて今迄の自分の観点のその願いの基準を求め出した場合にその地区長が又、気持ち悪いような立場でもって迎えてやった場合にはその人はどうなるだろう。それは自分の地域長からそういうふうにその求められないところを見いだしそれから地区長によってそういうような願いの全てが求められないという場合にはそのみ旨に対しての責任を誰がもつかということを思えば思う程、それは非常な苦しみの立場に立たざるを得ない。まあ、地区長もあてにならない。そうだったらこれ日本の統一教会の運命を思う時に全般的批判をしだす。

 神が指導者

 今、自分の県なら県におる地区長にまあそういう欠点があるかも知れない。外の有名な統一教会として名のあるその地方の地区長はどうだろう。その地区長は何かちがうだろう。そういうふうにして何か、そこを中心としてまだ、こういうような観点で向かい合ったならばその地区長なりに又、そういうふうになったならばどうするか。この人の望みの残る望みとしてゆかれる道というものはたった一つしかない。

 神様を中心として、神様は宇宙の指導者である。自分はそれの相対位置に立っておる。神様の命令があった。その命令に引かれゆく。まあこういう場合にその摂理を地上に於いて担当したある中心者がある。自分はこういうふうに行くんだというその使命を果たした場合には、その果たされた精神というものは使命というものは自分の生命の身がわりだ。全ての目的の勝利の基準である。生命あってその目的に向かう力あれば、あの基準を突破しなければ自分の生命の価値を認めることができないという確固たる信念に立った者でなければあるいは神が命令した命令に向かって進んでゆくことはできない。嬉しいことあれば、その基準を中心として嬉しく思う。悲しいことあればその基準を中心として悲しく思うというような信念に燃えておるものであったならばこれは地上においての環境は問題ではありません。一人一人の横的関係に於いての問題は問題ではありませんが、しかしその基準がはっきりしない時には、これはその基準が自分の全てを解決する中心にならずして、それを横的全ての問題が自分をひき合ってしまうような、そこに引かれ、あるいは引いてしまう結果になり易い立場に立たざるを得ない。

 こう考えてみた場合にはあんた達はどういう人達か。歴史過程において神のその摂理のある一点にそれを結びつけてその分野に於て神から絶対的命令を受けた立場である。ある目標に向かって、その目標たるものはその試練された責任を負っているそのものというものはその目的完成が自分の生死の価値を左右する。それに近づけばそれは栄えるし、それに後退すればそれは滅びる。その目的完成如何によって、自分の満足、あるいは不満が左右される。こういうような立場に徹しておった場合にはそれは環境にも左右されません。そういう立場に立った場合にはこの人は公的の中心者として位置を守ることができる。そういうふうに立った基準にもしも自分がおったならばそれは個人の関係とか、環境のその、それに反する苦しいこと、淋しいこと、あるいは辛いこと、いかなる苦悶の事があってもそれは問題ではない。これが破れた場合にはそれは左右関係の環境というものが非常に問題になってくる。この摂理上に現われておるその我々の歴史的先祖達を考えてみた場合、たとえて言えば、ノア、ノアのおじいさんだね。

 頼もしい男、ノア

 あの、ノアのおじいさんを考えてみた場合、我々個人と別に変わらない、一人の人間である。如何にして百二十年のその生活を、それを忍び切っていったんだろう。その動機なるものは何だ。毎日神様がああ祈る時間毎に、おお今日は、こうやったから明日はこうやれ。毎日命令するから行くんではない。

 絶対なる神ならば、絶対なる相対者に言う約束は一回でおしまいである。人格者であれば言ったことを再び言いたくない。ちゃんと秘密の事でも約束した場合には、それに生命をかけて全てをそれに投入して動くところに絶対的人格の価値がある。人格としての支柱がそれにおいて左右される。こう考えてみた場合には、ノアのおじいさんは、神様が百二十年の後には必ず審きをなす。審判をしてしまう。この世の人を皆審判してしまって自分なり一家を中心として人類の先祖とするのに残しておく。それを何よりも強く信じたばかりである。それが知ったばかりである。知ったばかりでなく、感じたばかりである。感じたそれ全てのその感覚の全てが環境にこれ環境を威圧する。おさえるようなそういう決意の体験をもったような立場に立ったに違いない。ここに何かぶっかけてもそれは問題ない。この前にも先生言ったように、もしノアのおじいさんのおばあさんが反対した立場に立った場合に自分がこういうような道を行くというのにその奥さんに言った場合にそれは絶対いけません。それから誰から言ってもそれ信じられるような話じゃあない。百二十年の後に審判する審きというのは、自分のノアのおじいさんが百二十年生きるかどうかわからない。いつ死ぬかわからない。それも何の保障を立てて約束したのでもなければどうなるものでもない。自分の一代じゃあなくして、もしも何代も続けてやるかわからない。その摂理上から見た場合には、これは確固たる信念をもつには余りにも遠い話である。まあ、そういうような環境的立場から見た場合には、そのおばあさんというものがノアのおじいさんの話をきくということはこれは常識的になかなか難しい立場である。それが話すると、とたんに反対した場合には百二十年間の怨讐になる。反対した場合には遠くなることはあるんだけど近づくということはない。子供がもしも内心にぶつぶつ言ってお父さんに、お父さん、そういう百二十年箱舟を造るとか、何とか、それはもう、我々はもう審判の時死んでもいいというんだね。そういう、せいたその子供となった場合には、その時から、親とそのお父さんと近づくことは絶対にできない。それがそれを可能なるのは一つになるのはお父さんが止めるか、子供が頭を下げるかというような立場になればそれは一つになるかも知れないが、もうすでに反対した、それは反対したその内容とは堂々たる内容である。世の中全てがそれを保障される内容になっておるから、子供としてはそれはうちの、ノアのおじいさんの内容はわからない。そういう信念をもたない子供としてはノアのおじいさんに屈服するなんてそれはとうていできない。

 そうかといってノアのおじいさん子供とかその奥さんに頭を下げては絶対にならない。だから永遠に別れるような立場が自然的に生まれてくるというんだね。そういう環境に包まれたノアのおじいさんが毎日、考えてみなよ。大工さんの総ての統合、準備しあう毎日が続くだろう。考えてみな。あるいはカンナ、あるいはノコ、あるいは全てを準備して、山に毎日これをかかえて上がると、そうなるというと、家庭全部がノアのおじいさんが家を出発すると、おお、家庭全部が、お母さんを中心として子供達は自分のお父さんをあざけるような立場に立たざるを得ない。そういう環境の続きの百二十年間を立てなければならない。そうなるというと食物はどういうものを食べさせたんだろうか。きづかいはある時まではその希望あるけれど、これは百二十年になってみないとわからないという立場に立った場合には、これはきづかいに対して望みをもったより以上のものとして度外視されざるをえないというんだね。こういう立場を何日きづかえたか。それは段々とあの家庭的な生活にはみじめになるんだね。着るものにしても、食べるものにしても、寝る所にしても、それがよくなるとあんた達思われるの。それは段々、時がたてばたつ程、もっとみじめだ。百二十年のその月日がせまるに従ってノアのその環境たるものは、これ悲惨そのものになるんじゃあないか。それなのに、あんた達もしも、ノアのおじいさんの立場に立った。ああ、われ、これこれいう統一教会の勇士として責任者として自分に何を言うとも、環境が何言うとも間違いなくそれは結果にきたすように決意したそのものを間違いないようになる。

 そういう決意をもったものとして来たとしても、ノアのおじいさんに立った場合には、最後に百二十年のいや、すれすれになったそこの場合を考えてみた場合どうなったんだろう。ある時はもう、家族全部総動員してお父さんにデモをやったこともあるかも知れない。それは扇動者は誰か。自分の奥さんだ。しかし、そういう環境をのりこえ、ノア自体のその思いたるものは現実の生活圏にあったんじゃあない。思いはね。自分というものは現実の生活圏におるんだけれど、ノアの実体は百二十年前にもう過ぎたるという決意に燃えたものに違いない。

 これを屈服するには百二十年以上先立つようなものでなければ屈服されないという。結局、百二十年をのりこえた心はそこに行っており、その実体はそういう立場に立ったもののようだから、百二十年が如何に反対してもそれは、ひっかからない確固たる信念の男であったにちがいない。だから、ここにぶつかる全てのものは、それはそういう決意に燃えたものに対して、反対する要件というものは、それに、マイナスの方になる所ではなくして、我、生きた神の心情、その信念をこの環境に完全としてこれは証明してやる。適格とした事実だとして歴史的にうえこんでやる。

 環境にせまる全ての愛と全てのプラスとそれはその時の内心によっては時を近よせる、引っぱりつける、そういうような刺激をもつ、急げ急げ、早く早く、この世よ過ぎてゆけ。現実をその罷免し乍らその未来を何よりも強く望んだ立場に違いない。数多くの苦しみがあったとしてもその苦しみがかえってその時の勝利の立体的価値を認める条件になるに違いない。来たらば来たれ。それは、自分にマイナスになさず何ものもこの世にない。

 こうなるというと、ノアの一人を中心として、地上に於て新しい希望の世界圏が生まれ出しておったということを思いまするにこのノアたる男というものは実に神から見た場合に失われた世界にいて、世界圏を創造なし得たそういう頼もしい男である。そういう所に立っておったからサタンもどうしようもない。この圏に立って神と合同作戦をなしたその結果の基準というものはサタンも侵入することができない。それは神ばかり主管あるいは干渉することができるんだから、ノアの審判圏を中心として三圏を払い下げる。だからまあ、ノアの家庭の失敗も、ノア自身がそういうような思いを百二十年間もって、それはあらゆる部分に注意し乍ら来た生活基準と審きの後のノアの心情基準、心の基準が下がっているんではないか。そういうところに於てまあ、失敗の動機が生まれてきたのではないか。こう思われますね。こう考えてみるというと、ノアのおじいさんたるその男は、それは百二十年のその前にあとに、その後の方に住んでいるんだというその信念自体は、あたり前でそこにぶつかる全てのものは問題じゃあない。こういうふうに行くものはこれは、神はいつでも共にいる。そういう人に立ったなら、これはいつでも公的な立場である。

 サタンの前に立って

 その基準が立っていない場合には、これは環境的に何がこうやったとか、ああどうしようか、ああこうしようか。これは実に困った。問題起こるたびにああ困った、困った。それは三回位困ったということになるというと、ははあ、これ責任とか、何とかそれがなんじゃあ。困ったのがもっとこれは大きい。こういうふうになって、自分の立場も皆な放りっぱなして投げうってしまい易い立場に立つのである。そういう弊害が我々の指導者の中におりやすい。まあ、こう考えてみた場合に、地区長だったら地区長として燃えた信念、如何なる環境にも支配されない。まずもってその信念に徹する、目的観念に徹して現実をその目的に引きつける自分なりの実力、あるいは力をえなければならない。その力たるものは、環境をこえて一方を引きよせ、そういう確固たる信念のそういう実体者になるんではないか。

 こういう新しい摂理に特に我々に見えないサタンが審く。あんた達いつもそういう風に自分一人で行くんじゃあないよ。その前が誰が前に直接立ったか。神が立っていないよ。自分の直接の前にはサタンが立っている。神はそのあとに立っている。サタンを屈服させたあとに神を迎えるようになったがこれは摂理を迎える我々の立場だ。自分の前に神がいないよ。だからサタンが立っている。神が我と会うには必ず蕩減条件を立たせないと、それを屈服させる蕩減条件でサタンを屈服させなければ神とつきあうことができない。だから、ノアのおじいさんの百二十年間をこれは神が主管したか。サタンが主管した。だから、あらゆる迫害がぶつかる。サタンのその打ち出す玉である。そこに倒れてはいけない。

 だから、我々の前にはサタンが立っておる。だからそれを防備する為に我々はどういう作戦をしなければならないか問題だよ。それを防ぎゆく決意はもっているか。この地にあってもわしは歴史の生活である。その信念がこの環境をきり抜くより以上のその決意に立たなければならない。

 第一の問題、それは、ただ何もならない。それはたった一つ神を援助することである。その次には、前にいるサタンを何によって屈服するか。自分ではとうてい屈服できない。

 なぜかというと、六千年間神に讒訴して、神に誓ったその讒訴に引っかかって、苦労してきた全能なる神もどうにもできなかったそのサタン側へ前へふさがっているこういう基準といかに対決したか。だからその問題は自分一人だにできない。自分一人だにできると思うのはこれは大変な間違いである。

 だから、ここに於て協助が必要だ。何の協助だ。原理的協助。我はみ旨に対しての主体者じゃない。待者である。だから、ここに於て主体者と一つにならなければならない。まずもって主体者と一つになる。環境に於ての主体者、それを持った場合にはその主体者が我々を指導する場合にそれを信じておればその指導者を信じた基盤に於ては、自分はその目的に向かう方向に於てはそれは心配しなくてもいいんだね。

 横的立場に於て中心者が指導者、自分の前に立つ指導者があった場合にはね、自分の上のクラスの責任者があった場合には、その上に、その侍る責任者をもっているその人は、その指導者はその行くべき道に心配しない。だから横的に於て指導すべき中心者、高い指導者を迎えて行くならばその高い立場に立っておる中心者が間違っていなこを行くならばそのあとに追いついて行くものは心配しなくてよい。しかしそれかといって、いつも、あるいは原理に責任を持っている地区長さん達がいつも久保木会長なら久保木会長とついてゆく訳にはいかない。生活環境、舞台が違う。それなりにそれに適応するそういう圏内の自分の管轄圏内に総合したその圏内に於ては自分が責任者である。

 もし、そういうふうに相談し乍らやって行くべき事があろうけれども方向の向きあいにはそれは可能だけれど、これはそれなりの責任者として立った環境から見た場合自分はその立場において中心である。中心者である。中心者を中心者として周期が違っておる。これは自分が合わせてゆかなければならない。

 こういう場合には、その責任もったその分野に於て自分の立っておるその立場から向かう目的過程がある。あるいはサタン圏がある。これを自分なりに如何にして解決するか。もちろん平面的基準にはこう行かなければならないけれど方向は徹底的にしておいて、それに於ては疑われないんだけれどこれは自分の生活圏において、色々な問題をかかえ、それを如何に解決するか。

 問題解決には祈りが必要

 それ解決する方法は一つしかない。それは祈りの問題以外ないと言うんだね。わかりました? 祈り以外にない。あんた達はその祈りということを観念的に考えてはいけませんよ。たいがい、自分自分なりの何か実力者だというものになってしまうというと祈りということはもう関係なくなるんだね。頭の中で考え、ああ自分もやればできると、どの位やればできるかというんだね。その限界はどこだ。こう聞いた場合、限界はやってみないとわからない。それは自信もつべきその自分じゃあないんだよ。やってみなければわからない。こうなるとまずい。我々は、真実なその所に入って祈祷するのが一番いい。

 だから歴史的有名な人、あるいは義人とか偉大な政治家というものは、あるいは歴史的学者でもそうだけれど世界的金持ちになった人でもそうだよ。それは真剣に考える。真剣に考える所にそれは何か。動機を見出すというのが常識になっているんだね。研究するものも真剣に考え、考える所に研究のそのはけ口が開かれる。真剣に考える。祈祷は何か。真剣に考えた所、一人で考えるんじゃあないよ。神様と共に考える。神様と共に相談しよう。こういう立場が絶対必要だというんだね。その立場に於て涙ぐんで相談し合った、あるいは祈り合ったというその感情を体恤した場合自分の感情は絶対ありませんよ。わかりました? 涙を流しえたというような立場に立った場合にはそれは自分、あるいは林とか田中とかそういうような一人の感情では絶対ありません。

 その祈る時の決意したその決意たるものは、自分一人の決意ではありません。ということをあんた達は体恤することができるよ。こうやってみるというと、そういうふうに祈ってみると自分の内的衝撃あるいは実体的感化というものが、自分を中心としてあるべくの力、あるだけの影響を来たすような動機がないということをはっきりわかるようになる。そこに於て涙を流し、あるいは民族を愛し合いたい。あるいは全ての責任分担、全ての悔い改めをして過去を反省し乍ら、未来にその未来を望み得るような、そういう強い力が湧き上がる。これを体験した場合には、そういう体験は、自分から出たと思ってはいけない。そういう体験あればその体験の感ずるその境に立った場合にはこれ神様、全能なる神様が今、この時間に自分を抱いて働きかけて下さる。語りかけて下さる。

 そういうような、あんた達観念をね、自分なりに発展させなければ発展して行かなければ、それは祈りの価値がわからんようになる。わかりました?(ハイ)あんた達、真剣に祈ったことがあった場合すぐわかっちゃうよ。それは内的刺激電波みたいね。最初には何もその整ったものではないだろう。うなるような、マイクのその故障になったものはウィピー、あるいはピー、ウーと音がでてくるね。そういう感化的な力が伝わって来るのがわかるよ。そうなると自分が小さいものでもふくれる感じもするし、浮き上がる感じもする。そういう感じが必ずあるというんだね。そういうものを感じないで今迄、祈ったというものは、これはサタン圏においてそのまま立ったと同じようなものだ。必ずある。神あった場合必ずある。あんた達そうだろう。ダイヤルを合わす時には、百から合わしはじめるの。零から合わしはじめるの。百からじゃない。なぜ零から、零から始めたら故障しないと言うんだね。百からやり始めたら、やるとたんにそれはとんでもないことになりやすいというんだね。

 謙遜はサタンを滅ぼす

 だから、何かというと、祈りの時は謙遜になれというんだね。わかった? 零、自分とああ、わしは、だれだれ氏の子供だとか、ハアーだれだれ関係の権力だったとか、ハハア、自分なりにこういうものだとか、そういう風に思うな。ゼロになれ、なぜゼロになるか。ゼロは四方八方に於てそれを出発スタートしても無理がない。何も逆らうことはない。だから方向を取って出発するに一番易い基準がゼロの基準だよ。十の所から出発するのはそれは難しいんだよ。だから、一番易い、そのかわり、それ一番易い基準になった場合にはサタンもそこについてきて、前に待っていたらどうするんだ。サタンはゼロの基準には絶対降りてくることはできません。ゼロの基準だった場合、サタンの存在基台圏というものはゼロ以下の圏じゃあないよ。ゼロ以上圏に立とうとして、それを動機として出発した基準が堕落だから。サタンは下がってくることは絶対しません。サタンは謙遜のそういうような行動をサタン世界に許された場合にはサタン自体が破滅になる。だから、恐怖だ。恐迫だ。そこにある。わかる? 神様もそれよく知っているからその反対作戦をやる。謙遜になれ! 上って行くんじゃあなくして下りてこい。

 反対だ。ゼロになれ、ゼロ。ゼロになれば神様が再創造なそうとするのが自分に対しての要求だ。そうすれば自由自在に、気ままに願いのものに対して再創造物としてとり扱うことが可能である。絶対的可能である。そういうふうにして、その新しい、そこにおいてせられる基準が新らしい一点を表していく。それが創造である。神は何もない所から新しい一点を見出して創造していくんだから、それと同じように創造原理的な立場に立って新しい一点は何か。その一点がサタン的じゃあいけませんよ。自分を中心として要求する一点じゃあいけません。そういう一面をいくらやってもできません。横的願いの一点を取り出して、これは神に向かって天のお父様。あなたの願うのはこれでありますか。

 我に対して神様の願う一番深い我を中心として世界的に、あるいは万民を中心として世界的に願う基準はこれでありました。そうした場合、神様も本当にそのことを言った場合には、「そうだ」すぐわかった。

 人間なりに自分の本当に願うものがあった場合にはこうだからと飛びかかってそれを願うような神の摂理、全般にわたっての解決する中核、そういう問題を持ち出して神のなすべき行かれる道をこの道を今から行かなければならなこありましょうか。しかし、我々から見た場合には祈りの礼儀があるんだね。

 ああ全ての万民が多くてもあなたの愛する子供達がたくさんあっても、その中で私は一等でありまして、こういうことをやって行きたいと思いますから、それを渡して下さい。それは礼儀に合わないんだね。相続が自分たるものはこういうふうにみじめなもんだから、自分に自分の前に、りっぱな人がたくさんおると思いますから、もしもその人達がこういうような中核な中心的なその事を思いつかずして求めておるんだけれど思いつかずしておるのなら我を通してこれを向こうに伝えて上げたい心持ちをもっておりますから、わしはこう思うんですけれどそれがもしも神のみ意にかなう、そういう内容に間違いなかったら我を通してそれを働きかけて下さい。

 こうなれば神様、人間と同じだよ。神様、人間のお父さんだから。そうでしょう。ちょうど本心に満たされた主人の立場が神様だから我々礼儀とか、法的に違反しないような謙遜な立場、それ謙遜な立場だろ。謙遜な立場、われに授けてやった。そのあとはどうなるか。もっとそれを出してやった場合にそれはみんな我が先に立つ。そのあとはどうなるか。最後に神さま、のけてしまいなさい。我神様だ。一つやってみましょう。そこ迄ゆきますよ。だから、そういうふうな祈り方いけませんよ。謙遜でなくちゃあ。礼儀にかなった、そういう祈り方をやってゆけば必ず神様それに相対してくれなければ神様自体が困るんだね。そうでしょう。そういう立場で祈りましょう。ゼロの立場で。

 中心になる地区長は誰か?

 ある一点というものは公的の一点をとる。そうして日本全国の地区長から見まわして見た場合には、地区長のうち、日本の地区長の誰の地区長に追いついて行くか問題。だから自分で地区長同士の働きかけの結果をみてその調和をさせるんだ。それは全国の調整、活動の状況はどうだ。わかり乍らそれに先立ってゆかれる摂理の旋風はその地区長のある全般、一人の方向をあるいは頼りとして、こう行く時には、その一人を頼って千遍頼って生かし、ある時はそれ素質が迫いつかなかった場合にはそれを補うような素質のある地区長、そうしてそれを立たせるには、ここに行った地区長より以上強いものを神は求めるんだよ。強固の信念の男には皆なが威信を持っていたらそういう人がこう行った場合にはそういう素質のあるものを代表として立たしていってその素質に限界がきたという場合には、他のものと交互にゆく。こういうふうにしてやってきていくよ。だからそういうような発展の因縁を天からそれは誰よりも、それは先に結びつけるそういうものになりたがった場合にはそういう神秘的な静かな境地に入って祈るもの以外にはないというんだね。そうでしょ。だから国家の非常時、激動する国家の非常時にあった場合にはね、その国家の成り行きはそれは宣伝して行くんじゃあないですよ。秘密に内証話にその路程をたどっていく。それを宣伝した場合やられてしまう。それと同じ。復帰の道は誰よりも真心を尽くして神に仕えて、そして内証話をして誰よりも忠実なるその心持ちをもって、献身決意をもった献身的な態度、謙遜な態度のその者達を立たして方向は進んで行くというのはそれはもう理論的にそうならざるを得ないでしょう。そうでしょ。神様が仕事におるか。心情におるかという問題を考えてみた場合に、神様どこにいましたい。知っているじゃない。神はその心情からこういうような働きをなぜ神は命令したか。先生はこういう働きを何故しなければならないか。これ以上の辛い神の心情的苦しみはこういう事が今なされているのは悲惨な立場である。くやしい立場である。しかし、行く道はこの道しかないから我々はこの道を行かなければならない。行くには心身とも直接に燃え上がって行くのが神の心情を知っている男として行くべき道じゃない、と思ったならば辛ければ辛いほどその場に於て涙ぐみ乍らやって行ける基準が生まれて来なければならない。悲惨であればその悲惨な環境と自分を後退させる条件になるよりは前進の条件に必ずなりえる。あんた達もそうだろう。食口達はある時は花をもたせたり、とらせたりその場合は、涙ぐむような、心情があるや。こういう心情問題が、問題だよ。だから仕事に神様いますよりは、それは情的の中心を求めて神様いましたいのがそれは創造本質の根源である。それ間違いないでしょ。だから、地区長、全日本の地区長を中心として見た場合、この地区長その一番中心になる、秘かな所に於て神に通ずる神の援助を受けるものは誰であるか。挿すんだね。自分がそれをなした場合には、感謝の念でもってこつこつやって行くんだね。いかに考えてみても自分はそういう立場に立っていないと、ああ、全日本のどこの地区長を中心として一点があるのか。教えなかったとすれば神の摂理圏に立っていない日本であるということを証拠することになるんだから、もしも神の摂理圏に於て立っているならば我々地区長の中に一人必ずおる。この中だ。それを求めて、その方向に歩調を合わせる一人、二人、三人、四人、こういうふうになって行くに従ってそれ、そうなれば、その一人の為に、全部が神の摂理圏の方に恵まれることができるよ。うん、あの地区長、なんだ。負けないや。そういうよりは、よい所はいくらでも百%吸収して、悪い所を補う。そりゃあ、あんた達同士でわかるだろう。ああ、どういう地区長はどういう所が得点だ。特徴だ。その特徴は他のものでもなく自分のものだ。五十の地区長があった場合には五十の特徴をあるいは盗みとる。気持ち悪い話だけれどね。うん、盗みとる。もしもなかったら育ててこれを存在させる。再創造する。もしもそれが自分にできなかったら彼にすがってそれを補給してもらう。そういう、その自分を再創造して人格のその基準を広めることができれば、高めることもいくらでもできますというんだね。いけないものは切ってしまう。

 自分の性格、性格時間表、ずーっとグラフにしながら書いてゆくんだよ。ああ今日は気持ちが悪かった。こういうふうにして測った場合にはグラフが何時間から何時間迄、ああ何時にはこうなったあー。書いてゆくんだよ。統計して、ああ一年間はどうだ。一日はどうだった。ああ自分は悪のものになっちゃった。この野郎でかいこと言うなと。片っぱしから診断してゆく。それが今必要だよ。それが責任者としての姿勢を今言っているんだよ。こりゃあ、問題が簡単な問題じゃあないよ。

 サタンとの闘い

 目的に徹したらその基準をこれを追いつくには、そこにサタン圏とぶつかってみないといけない。まず第一にその勝利するには自信をもって自分なりにゆくという、自分一人でゆく。やってゆく。六千年間神を苦しめた讒訴の王様がサタンである。讒訴の僕じゃあないよ。親がだ。

 それはあんた達観念が入らないから、そういうふうに実感的に環境からそういうサタンを取り除いてゆけるそういう存在位置をはっきりしておかなければならないんだよ。よたものの世界的な王様だよ。これ見える王様じゃないんだよ。見えない王様だから目をつむっているのと同じだよ。目をあけて見えるの。見えない王様だから、結局目をつぶっておって向こうは目を開けていると同じだよ。そうだろう。目をつぶって勝つという男と目を開けて開けて闘うという、そういう男と同じだよ。そういうもんだから、これはだから神に内証で神によって、あいつはこうでるんだからこうやって、それが必要だというんだよ。行くのは行かなければならない。死んでも行かなければならない。だからそれを作戦するには一人ではやるな。共同作戦でやれ。親父と子供がそれが一つにならない所においてそれがサタンの王様になったんだからそうだろう。サタンは親と子供が一つになった場合には、サタンは立つ所がなくなる。おい、君も基台のその用件というのは親に反対にきたすようなその動機によって主人に反対きたすような動機によって出発したそれに反対した善主権はあんたの干渉する権利はないんじゃあないか。わしは親と子、こう言うんだね。原理的にそうなっている。来るな。来られないよ。

 なぜ? 天のお父様はサタンも守る。神も守るだろう。神も原理という原則は神が立たしたその原則は神も守るの守らないの?(守る)サタンも守るんだから、あんたが主だというんだ。それ原理的にみんな整理しておかなければならないんだよ。あんたのあしたはというものは主人を否認してしまえ。親を否認させるような動機の親だから。それがサタンの立つ所である。基台圏である。その反対の主人に従い、親に従うという立場に立った場合には、あなたの基台とは違う。こうなるんだよ。それ理論的にそうだろう。

 おい、サタンここへ来ることはできない。しかし、来ることはできないと言っても来ることは来るんだよ。どこに来るか。堕落圏に、我々は国を持っていない。アダムとエバというのは、神というのは国を統治するべき主の中心者である。その世界的の中心圏はそこから始めるべきである。国を持っていないんだから、個人の時はそういう決意をもっても、ノコノコ周囲にずーっとくぐりまわるんだけれども、もしか、なった場合には、ああなった場合には、うん、君のいうことはもっともだ。ああ、主人に絶対生命がけでそれは親に生命がけで従う。

 堕落は生命がけで反対の方に従ってきたんだね。生命がけで親に従ってゆくという場合には、サタンはそれ自体をどうにも手のつけようもない。周囲にまわりながらもしも自分というものがやってきた場合にはやっつけてしまう。こういうような戦争を今やっているんですよ。それは話ばかりじゃあないです。もう話したいから、こういう話をするんじゃあないですよ。戦争はそういう風に出てきた。それは原則を中心として原則を誤った場合にはたちまちやられてしまう。いくら、いい顔したって、いくらすました顔したって、それはサタンの側と同じだ。ほかに何もないや。だから主人に従えというんだね。
 サタン世界もそうだろう。おい、君達絶対従え。サタンのやり方はこの野郎、やらんか。自分の価値、自分の存在位置を否認し乍ら、そしてそれを従うようにさせる。神の方はね。存在位置を是認し乍らそれを自分の気ままに自分が主体になって行動する。それは違うよ。それだから先生、強制的にあんた達にやれと言うんだけれど、こう思った時、やるかやらないか。やらなかったら自分の損害になるとちゃーんとわかるような原理だから行くなと言っても行くようになるよ。これをはっきりしなきゃあならないよ。だから、サタンは何故後退するか。

 これみんな、つきつめて聞いた場合には、ボヤーッと、ぼやける。何も解決の決め手があんた達ないだろう。そしたら何で行動するか。おー真の父母を侍っているか。

 原則が何かというとサタンが立った所は主人を否認するし、親を否認さす。自分を中心とした基準より出発する。それがそのサタンの世界である。神の世界はその反対だよ。主人に生命をかけて従わなければならない。それも強制的じゃあないよ。心に従って、そして親に生命をかけて従う。強制的にじゃあないよ。

 そういう道を行けば、天国と地獄は分かれてゆくというんだね。わかった? だから、あんた達はそうだろう。先生は何でもないんだけれど、先生に近づいていたいんだね。そうだろう。あんた達、先生の所に近くおりたい。そういう心持ちするの。珍しい運動が起こっているんだね。地上には。

 先生、その時そういう心持ちをもたなければならない、ならない、と言ってまわるのがいいんじゃあないよ。何かしら、何かしらそうやらなければ不安になるんだね。

 太陽と同じ、太陽が上ってきた場合には全ての草木の茎はね。みんな茎は太陽に挨拶するよ。動きがあるよ。それが宇宙の原則だね。それ自然的である。それが自由であり、それが、それは自分なりに何にもさしつかえがないというんだね。それがかえって心やさしいっていうんだね。やすらかになるっていう。だからその道が一番安息圏だね。だからそれを味わった場合には、これはそうならざるを得ない。どうだ。そうなるの。(ハイ)

 困難な復帰の道

 人間、哲学において、哲学の程度に於いて最高の征服者になれる。こう思われるよ。サタンの世界はそうじゃあないんだよ。逃げたいんだけれど、逃げてしまいたいんだけれど。これサタン世界だよ。だから統一教会を逃げたい者は逃げてゆけ。逃げてゆきな。行ってみたら、まわり右して来なければならない。まわり右して来る時には、昔は頭を上げていったんだけれど、こうあげていったんだけれど帰る時にはこう下げていく。

 なぜ反対したや。自分でもわからないというんだね。これはサタンにそれ共同になる立場に入っている。その気になった場合には反対しないというような覚悟したいんだけれど、反対しないという思いで思ったんだけれど、反対した言葉をもう話すと言うんだね。だから、もう仕方ないんだね。そういうふうになった場合にはこれは入る。出る時は自由だったんだけれど、入る時は実に難しい。堕落する時には簡単に出てしまったんだけれど、帰る時の復帰は何千年かかったの。六千年どころじゃあないんだよ。六千年、何百万年かかったんだよ。聖書の歴史はそれは六千年と書いてあるけれど。

 サタンのサタンがなぜ恐ろしや。侵入できない。それは原理の法則によって、神もそれを守ってゆくのだから悪の住んでいるサタンも守らなければならない。その境界線は何か。立場は違うよ。向こうは主人の親もまあサタンじゃあないか。何だろう。自分が大事じゃあないか。これが今の自由思想だよ。みなかきまわして切ってしまうんだね。そうなっておるだろう。神はまるっきり反対だ。反対であるんだけれど主人に生命をかけて、悪に生命をかけて、堕落していったんだから我々は生命をかけて、これはやって行かなければいけないんだよ。わかったの。(ハイ)

 そういう立場に立っている。これをのりこえていくには第一は信念、信念の決意、第二はそれはサタン圏があるから戦っていくに、自分一人の戦いは激戦である。歴史的な争奪戦である。そうするには、神と共に相談しなければならない。そういう境地をあんた達は願わないの。(願います)それをなされないものは孤児だ。だからそういう道は謙遜になれ。どの位謙遜か。子供がそういうふうにして腹減って何にしてて、まあお母さんのそのお乳をいっぱいのんでいい気持ちになって、まあ寝ている姿。こうみてもかわいいし、ああみてもかわいいし、逆さまからみてもかわいいような、そういうような子供みたいなようなそう考えるんだよ。それを直感的に如何にすればそういう感覚圏に誰が立ち入ることができるだろうか。それが問題だよ。その問題だよ。

 あーわしは今大学を卒業したさる者であり、あー何県の地区長だ。久保木会長からこういう命令をやれ、何をやれ、こういう位置に立った自分だ。ああそういう場合ゼロになれ。

 どういうふうにしたら直感的になるか。愛される子供はその一瞬全てに父母の手がついておる。お母さんの手が違った所がない。かわいいからこうなでる。手を上げてああそれやさわってみたい。一瞬全てが愛する親のその手の届かない所がない。全てのものだね。こう思うんだよ。そうすると言うと、わしの手はもしも自分が神の子供だとしたら、わしの手は神様の手先がさわりたいのだろうか。もしも神の子だったら神様の手がこの自分の手をさわりたいのだろうか。さわりたくないのだろうか。そういう直感というのを養ってゆくんだよ。ああ、天のお父様、そうなると子供は何もわからない年齢でもその感覚を触覚を感ずるような子供だったらああ手を握りたいような気持ちね。そうすると手を握るとしてお母さんがこの野郎、なぜ自分だけお母さんの手をさわるのか。こういうふうになってくると、神様手元にいく。そういうふうに行くと自分の手を憎むようになる。そういう境地が必要だよ。わかる。ああ、神様が自分の心に住んでああ、なぜに誘ってくれるんだという、ああ手を握りたい。たとえば自分の顔を打つようになる。そういう境地に迄ゆかなければならない。そういう心情境は、まるで子供の心情境と同じだね。足なんかをこう自分にさわり乍ら、神様にさわるような思いがするんだよ。自分でさわり乍ら、自分はこうさわり乍らそういう思いにこがれておってこういうふうにして自分がああ神様さわってくれるという、ああ神様手がないんでさわってみるというと自分が自分のかたにさわっておるという、その人はもう神様にはいつくっているようなそういう思いがするような自分一人でそれをやるような気持ち、全部子供の心だね。そういうふうにやったことある。それからお母様を親子の関係を非常にそれは実感できる。

 あー、あるものは鏡をずーっと見てから自分の顔では一番素晴らしい所はどこだろう。ずーっとみつめるのだよ。鼻か。口か。目か。耳か。頭か。くびか。さあ、どっちだ。手か。足か。あるいは尾っぽか。五体か。ずーっと見て、鏡みて、横から見た場合には神様は我見てどう思うだろう。こう考えるんだよ思いつくんだよ。。そうして自分乍ら顔を見乍らああいう時はと、自分が自分を干渉しながらね。自分も初め、神様の立場に立って自分を見るような思い迄ゆくよ。こういう境地に行ってみるようになると実に神様そういう遠い方じゃあないんだね。我々の一番近いもんだ。もっとも我々に近いもんだ。我自身に何を一番神様かわいがるか。これは鼻も目も口もそうだ。心だね。清い心を持ったそれでその中に湧き上がる親を慕う愛情心をもっている子供を育てる。そうだろう。だからそれは実に一人でやり乍らも、やり乍らも一人で出来るのではない。神様相談したいんだね。私こうやりますよ。如何でございますか。そういうように働くような思いつきの境地。そういう瞬間的な境地によくやってあんた達が生活をやり出し、祈りをずーっと続けてみなよ。そういう環境がそれは理論的にみてもそうなんでしょ。授受作用すれば必ず繁殖する。

 神様がそれをなでてやるようなね。思いするんだよ。それをなすのは、そうは言ってもそれをなすのは今迄の昔の自分とちがうよ。神の手に代わっていつもなしているような気持ちがする。そうすると気持ちいいだろう。感じが伝わってくるんだよ。うん、そういうあざやかな境地である。

 心情の出発基準

 情は情的出発基準は、大人から出発するんじゃあありませんよ。どこから、子供から。だから子供の境地に入って子供の心情基準を尋ねて行きなさい。神、親と子供と同じような関係において神と親と子供、親子の関係の境地に於いて自分がまじえてそういうようなこと言える立場に立って神と因縁を結びつける。そういうふうになるというと、神様見て、この野郎何のこじきつかいみたいなことするか。それが神から見た場合には何のこの野郎そういう気ちがいみたいなことするな。それは嬉しく思うか。ある男、女と恋しがって共に写真を見ながらキスする。喜ぶ。そうした場合にはその実体を後から見た場合に気持ち悪いの。(悪い)あんた達もそうなの。(ハイ)じゃあ神様みたいじゃあないか。こういう理論的に皆なこれを訓練させてそういう行動はいくらあってもいい。うん、そうすると神様はね。結局、そういうものは人間が喜ぶ。(喜ばない)あんた達映画を好きがるのは好きだからだよ。自分は生活し乍らも、同じゆき乍らも、自分の写真もって生活するように写してみたいのが人間の心情じゃあないか。それを何故強調するか。それは人間だって一緒じゃあないか。結論なんだよ。劇的な場面を人間は求めていっておるよ。人間はそういうような劇的な場面を願うようになるっていうんだね。

 そういうふうにやったってそれは主体がその実体がそれをみておこるわけにはいかない。あんた達は時々先生の言葉のまねしたり、それを見てあー、非常に嬉しがってそう言わない。そりゃあ、そうなれば一番いい。神様も同じだ。考えてみれば神様も人間にくらべて大きいお方が神様だよ。そういうような感情的動機を自分なりに造ってそういう環境の生活圏にジャンピングして入るんだね。そういうふうになるというとどこに行く時、行って参ります。こういうふうに三日前に別れてゆき合った場合にもそれでもって、こういう神の願う毎日を送った場合には、基準になるのは、あるかないか分からないようなこういう道だから、自分にも知らないうちに足が動き出しておる。そういうような情的、まあ何というか発露というかね。先生、動きのね、自分なりにそれを整理してその環境を主管し乍ら完全なる環境には完全なる存在が存在せしめるのが創造界の実情だ。景色のいい所を神様も願わない?(願う)あんた達は?(願う)魚は?(願う)動物もそうなんだよ。名所の所に魚は集まる。動物もそうだよ。

 あんた達はそういうようなこと考えたことあるの。ただ自分が体をこれ、かかえ乍ら神様とそういう嫁をもしも結婚したその男だったらね。自分の奥さんを抱き合うような心ね。神様抱き合うような心。それかと言って、ああ気持ち悪い、そう思うなよ。そりゃあ神様、そういうふうに造ってくれたものだから。神様と共に神様が造ってくれたその娘に向かってそんなにやると神様気持ち悪く思うの? どうだ。理論的にそれは神様自体はもっと喜ばなければならない。だから気持ち悪くないように、それは神様は、両性をもっているというんだね。そういうように、それは人間に授けてくれた尊い生命の関係というものは、神様によってなされた第二の実現場、試験所だよ。だから、あんた達子供をもった場合にはそれはまあ、実感できるものがあるよ。

 子供を持った親の心情

 子供をあんた達まあ愛するようになったら、寒い夜なんか起きて便所に行きたいから起きた場合には、そのまま寝るのにはちょっと何かその心細い。それで寝ておる所、子供の所へ懐中電燈なんかもっていって、こう照らしてみる。その時間というのは実に素晴らしい時間だよ。子供のないものにはわからないや。いくら説明したって。

 それは自分と、神様との関係にそっくりや。あー、わしが寝ておる時、わしは子供達にしてやったと同じように、ああ神様は自分に対してこっそり寝ている所を見て、あー、こうさわるか、さわらないか、なでたい心持ちでみつめてずーっと守ってくれる。恋しくなるんだよ。そういう気持ち、そういう所は必ず神様います。それは先生の生活のそりゃあ、経験になっている。そういう所を犯すというと神様、そういう抱擁しているまあ、そこに誰か入ってくると気持ち悪くなってくる。皆な環境をくつがえしてしまう奴らだ。神様そう思う。誰も干渉しない静かな所にそういうような心の立場に立ちたいという神様の心持ちがよく知るようになる。

 神の協助圏を結べ

 その時にはそういう境地には自然をながめる。自然をながめて何をするか。昔、自然をながめ乍らその瞑想した神の神秘的な霊境に接したその思いをそれをずーっと夕方の夕やけをながめ乍ら、あけぼのの空をながめ乍ら、太陽の昇る時のその空をながめ乍ら、あるいは水のせせらぎをながめ乍ら、あるいは風のふく所をながめ乍ら自分なりのそういう生活の過去があるからね。そうすると、その瞬間、過去の全てがずーっと思い出されてくるよ。そこに行って、自分なりの決意し、あるいは闘い、あるいはこういうような激動するその環境を自分一人でこういうふうに解決していくという闘いの真っ只中を自分の過去をずーっと闘うような映画をみるようなその思いするんだよ。

 そうし乍ら自分はこうだと、今のこの場合に於てはこうやって行かなければならない。

 それで神様どういうふうに願っておるのか。そういう心情的、新しい決意、刺激、刺激の立場がなければその環境を新しく収拾することもできなければ、新しい目的に向かって出発することもできないのが人間の肉体なんだよ。
 そういう境地が必要である。だから信仰生活する者達が祈祷、祈りの時間をもたないというのはこりゃあ研究すべきものだ。祈祷しなくっても瞑想は必要だよ。瞑想の中にお父様を呼ぶっていうんだね。そういう心情的基台を育て乍らあんた達は、環境をのりこえる闘いに勝利する為に神と援助する、協助圏を結んでゆかなければならない、というのは絶対的要件だよ。わかったの。こうしないとうまくゆかないよ。

 大衆を指導する力

 だから、そういう時にあんた達はね、大きな声で祈るんだよ。それは何故か。それは指導者だから大衆に感化力をもたなければならない。自分の思いの波動が波みたいに向こうから打ちただよってそして動かされるようにそういう祈りをするんだよ。そういう祈りをして自分がその時には大きい講堂の真ん中で、すみの方に大きな音響がきこえる。

 それは自分が直感的にあるいは実感的にそれ体験するんだよ。神様!その神様は何もない神様と違うんだよ。誰よりも近い神、何万年待って今まで待ってはじめて会う立場に立って慕い焦がれた、待ち焦がれたそういう立場にあって呼ぶ最初の言葉の「神さま」。そういう感情。そういうふうにしてずーっと神様の愛の宣言。神様、自分はこういう風にして神様を愛します。それは仕事に対して多くをやる。それは音響は反対に自分の方にきて、自分をよくほぐしてくれるような思いをするよ。それは雲みたいになってとんでもない境地に引き入れるんだよ。

 自分も歌を歌いながら自分の声が実に素晴らしかったらその自分の声に自分が打たれるだろう。それと同じだよ。間接的自分の声によっていかなる反応きたらすかというと、自分のその反響の声を聞き乍ら自分なりに、何気なしに知らない涙を流すそういう境地になって結ぶ。大衆の前に立って大衆は一ぺんに占領される。神と自分とそういう関係をもって実験してみる。授受作用を完全になせば大半なことが成せるのは理論的である。実験はできるよ。

 だから涙流さずして心情的基準に立った場合には大衆を動かすことはできない。情的基準が自分が神と共になければ愛の心にまき込まれて涙を流した場合にはその心境に一致した境地にあるいは壇上に立ってその基準を満たした場合には全部がまき込まれる。だから結局説教というのは自分の実験だね。だから説教の時間は恐ろしいと共に実に楽しい。そうなんだね。恐ろしいことは恐ろしい。いったん打たなかった場合には誰が打つかと言えばサタンが打つよ。自分の方に来るよ。誤った場合にはこれ蕩減の道である。だから真剣にやる。だからあんた達手紙書くとしてもいい文章を書くよりは、涙を流し乍ら、こつこつ書いたその手紙は相手を泣かす。虚の言葉はね、結果は表われないんだよ。まあ、真実な言葉は何百回聞いても味があるんだね。環境が違う所において味が違ってくるんだよ。

 いいものは子に分けてやりたい親の心情

 だから指導者というものは、いつも環境が問題だ。環境に引っぱられて行くような者になった場合には指導者になれない。ある主義とか、ある主張、ある思想、ある信用を得た場合に実体というのはそれは防波堤である。もしも神が援助して失敗したらサタンは讒訴する。おい、全知全能なる神の権威は何です。結局はわしの仕事になったんじゃあありませんか。そうなる。わかりましたね。そういう信念をもって行くんですよ。

 それから、そういう信念をもったとしても今祈ってそういう決意をしたとしても、そればかりひと所に座っておったらいけないというんだね。先頭に立たなければいけない。

 だからいい物を食った場合には、ああ今日は気持ちが良かったというよりは皆んなはどういう物食っておるんだろうか。自分がもしもいい物食った場合には心細い。何となく、言い表わせない心細い感じだ。そういうような立場に立った場合には、いい物あった場合には、これ全部食べる、そういう観念に立った場合、瞬間的生活圏に立っておるものとなれば、いい物あった場合には一人で食べちゃう。

 必ずいい物あった場合には分け合う。そりゃあ親だよ。親がそれは子供もった親はいい物あった場合には自分は何を食べようと言って皆な食べてしまう親はいないんだね。皆な子供にやりたい。やれない立場だったら一番苦労しておる食口達を思い乍ら心痛く、心の中で痛みを感じ乍ら食べた場合にそれは通るんだね。それは讒訴されないんだね。神が当然の事じゃあないかと思う。

 だからいいもの見た場合にはああ自分流儀に考えたらこれは中心者になれませんよ。皆なにやりたい。しかし、やれない立場に立っておる。それを心に痛みを感じ乍ら食べる。いいもの着てもそうだよ。いいもの着た場合には、自分の率いる食口達はどのようなもの着るか。自分なりに、いいもの着てすました顔してすましたスタイルしておる場合にはこれは神様の目から見た場合には恥ずかしいことだ。神様数千年の歴史過程を摂理を担当しつつ、群衆の戦いの真っ只中に立っておるその名に於てはいついいもの着たか? いまだにその失われた子供を求め、自分の一身を犠牲のその立場を忘れて、その求めてゆく所にいいもの思いつくだろうかって言うんだね。自分の身体とか自分の環境とかその目的の失われた子供が問題である。だから、そういうような立場に立っておる親を迎えて、それは安らかな立場を求めてやらなければならない自分、親がああいうようなボロの着物を着て自分を尋ねて捜して来るにもかかわらずそれをいいもの着せない者として、自分がいかにいいものを着るか。

 心情的だよ。いいもの着るとしても、あー違うんだよ。先生はそんな生活やっていないよ。そんなね。いまだにそうだよ。洋服はいくらでもある。絶対いいもの着ない。そういう心情的負債をね、食口達から、本心から、本心のメガネからながめて見た場合に指導者は心情の負債を負っているというような立場に立った場合には食口達から見た場合にはそれ以上になりたいという同情心が自分の環境より以上のその基準を残しておくんだったらその食口達はついてくる。それを、思いがあって又続けてやりたいというような思いが続くんだよ。それ自分も考えてやろうとしても考えてやる前に皆なその次元になってやるから考えてやる必要がない。そういうことになっておる。だから心情的指導者の立場に立っておる。衣食住が問題だ。食べ物、それから着る物、住む所自分だけいいように、そういう人がいる。いい所に寝た場合にそれは最初に食口が貧しい生活しておるうちに、いい所に寝た場合、寝台とかそういう所に寝た場合それは涙を流すような、しかし食口達はこういう風に寝てるんだからやらざるを得ないし、やらねば他に天のお父様どうすればいいですか。こういう天的同情圏、食口的同情圏そこに於てそれ以上ながめるような同情圏、それ以上の同情というものを残した場合にはその人はいくらいい生活やったって食口達の上に何を残してやるか。もっともっとその環境を祝福してやるというふうにならざるを得ないと言うんだね。

 そういう同情的心情境を残してその残した同情圏がみんなにそれは恵みの圏としてその環境に現われるような立場に立った指導者は食口に裏切られたり、食口に疑われたり、食口に嫌がられることは絶対ありませんよ。衣食住は問題だよ。だから簡単だよ。どうしたらいいか。


 恵まれない環境に立て

 より悪いものを食べなさい。より悪いものを着なさい。より悪い所に住みなさい。こうしたらすぐに情的世界に於ては食口を率いる世界に於て中心者として必ずなれる。わかりました。(ハイ)

 あんた達はここ迄も経験してみなければならない。神様が自分に一番世の中で尊いものを授けたいのが神の心か。神様自分を本当に愛するのだったら自分に一番尊い物をやりたいものは何だろう。

 男だったら一番素晴らしい女を授けたい。その次は子供。愛するものはそれを授ける順序から言った場合には一番愛するものに授けるものは反対から授けるんじゃあないよ。物をやってそれから子供をやって、それから相対者をやるんじゃあないよ。一番これは緊迫した立場に必要なのは相対者をやってそれから子供をやってそれから物をやってそういうふうになる。

 だから、あんた達も摂理圏におきましては、食口達はどういうものがなければならないのか。自分の相対者より以上愛した子供。自分の奥さん、あんた達ここ、祝福された者手を上げて皆なだろう。あー、自分には祝福された奥さんがいるや。先生から、神様、先生から、天宙的のそれは祝福より無限の価値の実体圏をなしておるのが家庭じゃあないか。それを認めてくれ。困るよ。神はそういう作戦をしませんよ。自分の愛する子供を犠牲にしたとして、六千年間犠牲にし、今迄ずーっと犠牲になってきても宣伝しませんよ。それ、わかってくれと、説明してそれを教えて、それをわかってくれることを願いませんよ。ちゃーんと捜して大きくなった場合にはね、大人になった場合には、大人になった日に於て礼儀があるんだから、自分が経験してみた場合には、神様に対してそれをなすべきことをそれを成そうとこう待っておるというんだね。

 それで我々子供を産んでみないというと親の有難さがわからないという話があるだろう。そういうふうになっておる。あの地区長、結婚しないより結婚してから問題である。子供を産まない時より子供を産んで問題であると言うんだね。こうなるよ。物を持たない時より物を持った時問題であって、貧しい時より金持ちになって、豊富に住む時が問題だ。こうなっておるんですよ。

 だから責任者はそれに加わるべき力がいる。物ができたとする。それは自分のものだ。責任という者は、責任者があって全部があるの。責任者があって全部があるの。全部のためだよ。

 中心者は貰おうとするものだったら、中心者になれませんよ。中心者という者はやる所だ。配給所だよ。わかりました?
 中心者としてあー、貰いたい。食口達から愛されたいという思いをもつんだったらそれは間違いだよ。愛される前に愛せ。愛した場合には愛されるようになるよ。こうなるんですよ。

 やった場合には、上げた場合には、向こうで持って来るなとしても返してきますよ。一人が全部に対して十分の一ずつ真心を尽くしてやった場合には向こうでは九倍ずつ真心を尽くして持ってきちゃうよ。それは何故か。

 その受くべき道、中心者を通してゆけばこそ、より、価値がある圏に到達するということ、ちゃんとわかるようになっている。それだけ間違いなければ、それは中心者を絶対困らせる立場に立たない。

 あんた達は、愛したいの、愛されたいの?(愛されたい)何故か。絶対なる中心者の神様がいるから。それはプラスの存在だから、マイナスに向けて動機となる。出発の起点だからそこから授けられる。だから我々は受ける立場だよ。完全に受けた場合には、こう盗んで逃げて行くの。愛されてそりゃあ、まあ、わしは愛された。これでまあ満点だ。それで逃げて行くの。この野郎、受けなかった場合には戦ってやる。その戦いに行くんだね。その喧嘩はいくらやっても滅びない。ああ、返そうとするのに向こうは貰わない。何故貰わないのか。頬っぺたをぶん殴ってしまった場合には向こうでどうだろう。ああ殴られた。あの野郎何故殴った。そう言うの? 打たれて感謝する心がある。打たれれば打たれる程、それは実に有難い。逆に打っておるのが不幸者とか悪いものだ。

 だから我々は愛されたいんだね。(ハイ)だから神は愛したいんだよ。愛されたい者が愛されるには、したいその神様の相対要件をなせと言うんだね。え、向こうの男に惚れたいというそういう女が居ればその相対要件にかなえうるようなその立場に立て。立てば貰われたいと思わなくとも向こうでちゃあんと波打ってくるというんだね。

 自分の存在観念を捨てよ

 だから問題は自分が問題である。あんた達は日本の中心者としてたくさんの人達があんた達を通り抜けてきた。そう思わないか。統一教会に頭を下げて、真心尽くして、頭を下げて謙遜な者が入ってきたにも拘らずその謙遜な者を完全に受けることができなかった。それは何故か。それは君達が責任を果たさなかったことによってそうなる。その動機は何か。

 やって来た人は皆な殺してしまった。自分はそれ以上やらなければならない。そう捜して、探ねて来たより以上のものを中心者はやらなければならない。それやるに、それ以上真剣にならなかった結果に立ったんだから結局大きな人を失ってしまった。それ見て死んじまえ、その人がそこに訪ねてくる以上に真剣になれ。そう、真剣でないと向こうは反発する。そういうふうにしてもし落ちて行った場合には霊界に行ってあんた達は讒訴される。

 先生はそういう国家を代表してある期間は国家を代表した期間だ。いかなるその国民たる代表者が来ても真を尽くしてそれはつき合ってやらなければならない期間だ。その期間は、夜通しでつき合った期間がありますよ。

 ああ、だからそこには自分の父母より以上の真をもってつきあってやれ、あるいは夫婦、子女、環境の全てのもののより以上の真心を尽くしてやれ。それに文句あった者は、自分は責任を負いません、って言うんだね。

 ああ、眠いから寝たい。お医者さんなんかは病気の死にかかった者は十二時でも、二時でも四時でもいつでもベルを鳴らした場合には動かないその医者という者は本当の医者ではありません。自分の絶対的公的立場にあった場合には自分の存在観念はないというんだね。捧げ者の立場だよ。
 だからあんた達、過去をずーっとかえりみ乍ら地区長というものは、重大なその責任者としての位置に立って、いわゆるやって来た過去の心情、今迄、自分なりにやって来た自分という者は、こういうふうにして第三者の立場に来て分析、批判し乍ら悪が勝った所は切ってしまう。

 心情圏の体恤ってことは、たいがいわかりましたね。責任者の位置というものは全てにやる立場だということをわかりましたね。やらなけりゃあならない。だから門を叩いて尋ねて来る者がおった場合にはあんた達、胸がドキドキするよ。恐ろしいよ。それは天からよこした代表者である。そうかも知れないよ。

 今、自分の心境は、私的生活をやってるんじゃあないか。子供をかわいがったり、あるいは環境に住むような、家庭的生活圏である。それ以上公的な立場に於て、それは尋ねて来た場合には、如何なる立場において迎えてやるかということ。重大な問題だよ。

 もしも神様が千の価値のものを天的非常時の問題を解決する為によこして、これを自分と関係もたす為によこしたという場合には自分なりに今迄やってきた習慣的のような、無責任な立場に於て、あ、おりませんと断って帰した場合どうするか。そういう基準に引っかからないようにちゃあんと注意して。

 先生はもう韓国に於て果たしておるよ。ちゃあんとつけている。近よらないように、今はいくら切っても先生引っかからないよ。もう宣伝しておるから。来た場合には、先生に会って、帰って行って、あとで悪口言うような、そういうことをやってきたんだから統一教会の文先生はいいけれども、あの劉協会長は悪いと噂をした。

 向こうが余程の基準、基準を踏んでくれた場合には引っかかるし。持ち上げて援助してあげた場合にはいつもそれをいい方に神の方にプラスさせる、そういう立場にいつも立つベきなのがこれが指導者の位置であるというんだね。わかりました? (ハイ)

 こういう情的基準がなくてはならない。親は何をやるか、全てのものをやる。全てのものをやって最後には自分の生命までやるんだね。

 統一教会は総合病院

 あんた達は統一教会の本質の主義、主張は何かというと、親の心を持って僕の体を、体でもって何か。汗は何、涙は何、血は何、献げると誓っただろう。そうだろう。あんた達はそう思った場合には、その統一教会というものはどういう所か。これは総合病院である。そうだろう。サタン世界に向けて統一教会は死にかかった世界を蘇らしてあげる総合病院であるというんだね。そうじゃあない。 (そうです)だからここに尋ねて来る者は何か苦しみがあるから来るの? 嬉しいから来るの?

 宗教の窓を、これは門を叩いて入る者は苦しいことがあるから来るの? 苦しいことがあるから来るのが原則だ。さあ責任者は指導者は苦しいものをここで奪い取るのが助けになる? それは悲しい、その顔して来るものを奪いとるのが責任者、助けて上げる。だから入る者は全部そこで希望をもつ。

 病気になって来たのは、きっと間違いないんだよ。それが肉体の病気でなくて内的病気となってきているよ。だから病気を治してやって報われる道が宗教の道だよ。

 あなた達は、病気はどうでもいい。おいおい、向こうへ行って来れ。そりゃあ泥棒根性だよ。そりゃあ泥棒だよ。それは悪者じゃないか。そういう立場に立った場合には、その責任者の行く所には一人も落ち着かないんだよ。行く所には苦労が迎えてくれるよ。神様あった場合にはこれはけっ飛ばしたい。

 さあ、ともにうち明けて話しましょうという場合にはね。どうだ。あんた達、こういう具合にやるんだよ。病気にかかって入って来た者達を正面からけ飛ばした? 抱き合って迎え入れた? どうだ。

 二つのうち一つだね。どうだ。本当に迎えました? それとも、入るとたんにけ飛ばした。

 それはいつも問題だ。そういうふうになった場合には神も、神様は消えて行くんだよ。神様が消えて行くとその環境全てのものは消えてゆく。その全てのものは消えて行ったんだから、その前に現われて来るものはサタンばっかり集まって来る。そうならざるを得ないんだよ。それは恐ろしい立場だ。
 だから先生がやるのは、これは統一教会の最初が真剣だっていうんだね。生命がけでやる。寝ることも、しゃべることも、だから、先生はもう朝飯とは関係ない。天国に行く道に、御飯の一杯がどんぶりの一杯がなに問題や。御飯よりも、もっと真剣な道だから、寝るのはなに問題や。疲れたのがなに先生今日、あんた達に何の話しする責任もってないや。朝向こうから三時半に起きたよ。清平からこっち迄来るのに、顔を洗って、そりゃあ、もうお祈りもして、こうやると言うと向こうで五時十分前に立ったんだよ。それでやって来たんだけれどね。何のためにのこのこ来るや? あんた達、望んでいない所に。そうじゃないの。約束もしない所を、なんで又現れて来るんや。朝御飯あとにして、朝も間違いなく御飯を盗んでしまうだろう。しかし、御飯を食べさせなかったって反対する者は、反対する。謙遜に誤ります。(笑い)まあ、そうすると、御飯を食べなくっても御飯一杯よりいいことが起こってるの、悪いことが起こっているの?(いいこと)ああ、本当か。(ハイ)ああ、そりゃあ嬉しいことだ。(笑い)

 これは重大な問題だよ。だから、入る全てのものは病者だよ。こりゃあ考えなきゃあならないよ。だから日本の統一教会を必要とするんだから日本も病気にかかっておる。韓国も世界も必要とせざるを得ない。どうか尋ねてくれるに違いない。そうすると、どういうふうにするか。それを奪い取るか。どういうふうにするか。そこにプラスさせるか。プラスにつきるんだよ。マイナスさせた場合には、これは永遠に分かれちゃう。永遠に再び帰ってこないよ。

 これはあんた達病気をみてもそうだろう。ああ、尋ねた場合にはもし亡くなった場合には、これは誰でも、もう紹介しないんだね。あんた達は統一教会の責任者として重大な責任あるよ。

 今迄、統一教会の噂を起こしたのは先生じゃあありません。皆な食口達だ。その責任は、だから天から見た場合には先生が責任になる。何も恥ずかしいことない。だから天はそういうため立つように従って我を敬遠するのではなくして、我を同情するんだから、統一教会を迫害され乍ら発展する。原理的にちゃんとそうなっている。だから環境を恐れない。
 神の同情する、同情される所を誰が侵害するか。侵害した者はやられる。それをこの世でちゃんと歴史的にもう実験をしておるからこうなる。

 “病気”の診断方法

 病者が初めてきた。お医者さんがおるというのに又、悪くなった場合にはこれを診断しなければならない。そうだろ。これ簡単じゃあない。簡単な方式を教えて上げましょうか。教えて貰いたい?(ハイ)本当か。それ、忘れないように。実に簡単だよ。そりゃあ病気の動機は簡単である。

 だから病気の動機がわかった場合には診断の方法も難しい?簡単だ。教えてあげますからね。

 人間が病気になるのは動機が何かというと物的条件、人的条件これ二つしかないんだよ。わかった? 簡単だろう。考えてみれば、そりゃあ病気にかかった動機は何だ。物的条件、人的条件それ以外ないというんだね。我々は一段高い実力あるから、それは治療することができるんであってね。そうだろう。神もそうだろう。神も、それから人的条件にはね、たとえて見た場合には子供がね。それから妻がね、それから主婦。これの因縁の関係に勝利すればそうだろう。そうじゃない? 考えてみな。延長圏に国も入るし、世界も入るだろう。氏族が入るし、民族、家庭全部が入る。

 そうする動機は簡単だろう。病気になったのが方法で、道を開けてやれば治るものが原理だろう。ちゃんと分析して、ずーっと統計を出しておくんだね。すぐ話してみればこれ物的条件かすぐわかっちゃうよ。あー、それは何か。それに対して再び立ち上がるようなもの希望圏がね。絶対変化しない統一教会圏というのが世界にあったか。昔はそういうことで失敗したんだからそれ以上の素晴らしい男、女になる。失敗したらそれ以上の基準、それ以上の成功する。何故か。そこにそれなりの基準に於て話したという真心でそのくらいでまあ失敗したというその大きい基台で大きい援助圏でもってそれらの力を合わせた場合それ以上の成功圏が自然的に生まれてくる。

 そうやるというとあー、新しい希望、新しいそれは病気になったより以上の、新しい希望それ以来信用もつようになったらその病気は治ってしまうんだよ。

 それから旦那さんの為にやった場合にはね。心情的に於ていかなる男よりも、もしも奥さんだったら、奥さんに真心を尽くして、心情たる男としてより女房が思いもつかないような男の心情的な立場に於て指導するんだね。

 アハー、あの旦那さんはこういう旦那さんだったね。だから、まるっきり反対の向こうは神経質だったら、ここではワンマンなね。ノロノロした男になっちゃうんだ。話しかけてもツーンとしておい、勝手に言うな。男だってことを自分は誇る。向こうを通って行くようにして反対の方策をとるんだね。そうなるというとずーっと何時間付き合った場合には、我帰る時には頼りとして帰るんだよ。それは理論的にそうなるんだよ。
 そういうふうにして自分に近いお父さんもいないし、兄さんもいないし、そりゃあ子供にも一番近いお父さんの立場に身代わりとなる。あるいは兄さんの身代わりとなってくれる人だと信ずるようになればどこに来るなといっても来るんだよ。それから父母の為に心配してこうなった場合にはその父母は悪い。問題はそこなんだよ。それによって皆な病気にかかってくる。それがずーっとこの何カ月、尋ねてきた場合にはそれは話すようになっているんだ。それに相対者になってやらなければならない。責任者はそれを果たさなければ何の役にも立たない。

 そうだろう。指導者はそれを治してそれより以上の価値の存在として希望をもったものとして救ってやる為に責任者が必要であって、指導者が必要であってそれをそういう立場できたものをもっと病気をぶっかけてやるのが指導者? そうはいかないんだね。わかりました?

 まあ、こういうような立場でずーっとやってくるんだね。そうするとあんた達はそういうような人を一人二人三人以上、これは何時間投入しなけりゃあならないか。計算しなきゃあならないよ。あーあの人は一週間だ。ああ一カ月だ。あるいは半年だ。計算時間の投入が必要だよ。そうだろう。

 食事せず和動せよ

 人を育てるには時間が必要だろう。時間どうして作り出すか。我々公的生活をしておるんだから仕方なしに御飯を食べる時間、自分としては公的時間というのは御飯だけ。私的の時間が先立つ以外ないのは、その時間というのは何かというと御飯を食べる時間、御飯を食べるのを忘れてやれ。そして寝る時間、寝る時間も忘れてやれ。そうして御飯の時間を一食抜き乍ら話をきけば向こうも感謝せざるを得ない。

 自分は御飯を抜いて自分のお金を払ったとして、あんな男女どこにおるか。それ反対じゃあね。まるっきり正反対の結果が現われてくるんだよ。御飯の時間を忘れて自分の為に真剣になって自分の方に話しかけてやったというと、一回二回三回四回というふうになると必ずその時は勝手に来るなとしても向こうからついてくるんだよ。そうか、そうじゃあないかやってみなよ。いいもの買って来るなと言ってもちゃんと買ってきてハアー、召し上がって下さいと言うんだよ。そう言うんだよ。

 そういうふうにして、ずーっと計画すれば計画通りに当たるんだよ。心理作戦だよ。その通りにする。そうやれば実に面白いや。おもしろい。これは、あしたは間違いなくこれ以上のことがあったなら来ないんだけど、これ以下のことがあったら必ずくる。来なければならないんだよ。そりゃあ来るように言う必要ない。だからそういうふうに、そうなったとすればマイナスになるか、そうでないか。自分のものやるか。自分の生命をやるか。そうだろう。自分の全てを真心尽くしてやったんだから向こうはそれを真を真心尽してやらなければ自分は達せられない。だから心は、ハー、やって上げるような、買って行くように、して上げるように、そういうように動くんだよ。

 だから原理講師する。ああ素晴らしい講師になった。最初感動したという、ハアー、わしは頭いいから、素質あるからわしの人格の感動でこうなった。そう思う。それ実におろかなことである。感化された者は自分に賛成する。そうじゃあないよ。自分を迎える為に、ハアー、恵まれてありがとうございました。その目的とする所は自分じゃあないんだよ。自分をのりこえて、天迄続こうという、そういう観念でもって頭を下げて感謝する所だという。

 それも知らないで、おい、お前ら反対の動機だったらパッ、首を切ってしまう。

 全てを報告せよ

 だから、食口というものは食口が自分を心配するんだね。恐ろしいものである。自分の一番近いものが怨讐になるといっただろう。神様の前にも一番手近い天使長がそれから子女が怨讐になっておるんじゃあないか。復帰路程にあって我々は絶対圏じゃあないよ。絶対圏に於て迄も堕落というものがあった。皆なこれ堕落圏にある。如何に注意しなければならないか。ひょっとすれば天使長になるよ。わかりました?

 だから、全てを報告せよというんだね。あんた達地区長だったら本部に報告せよ。毎月、それは聞いていても、聞かなくても報告してやっていった場合にはそれは自分は引っかからないんだね。こういう結果になりましたから、公的はこうだし、私的でこれは現在の環境にはこれ以下のことはありえないと思う、と。

 報告はするんだね。相談するんだね。そうして色々重大問題にかかった場合には自分だけでやるな。それを指示を受けてそれやった場合にはそれは失敗したとしてもその失敗は自分の責任とはそれは限らないんだよ。それは上の方で命令したんだから。自分は切られても自分は切られないよ。その人はもしも、その環境にまあ支障をきたすかも知れないんだけれど新しく行かれる道がサーッと開かれるよ。わかりました?

 「地区長」の肩書と中身

 先生は統一教会に於て大将だね。そうだろう。先生は、自分は統一教会に於て大将だとは思わないよ。親が自分の子供に対して大将だという思いするの。大将どころじゃあない。使いもの。使いもの。何かいいもの、何かいいように、それを寝ない乍らも、それを考える。自分の苦労をのりこえて考える。やりたがる。素晴らしいとこあるよ。

 だから先生、気持ちの悪いことあるや。色々のことやっているや。統一教会は勝共連合とか、新聞社だとか、会社だとかそういう、どういう問題が問題かというと会社といえば部長があって課長とか、係長とか、まあ位があるんだね。そうなるというと課長させたものに係長させてやるだろう。気持ち悪い悪い顔するんだね。そうだろう。どうだ。そうじゃないの。皆なそうだ。

 それじゃあ、天的世界を復帰できないよ。

 プールにベルトがそれ回ると思え。その下だったら、下じゃあないんだよ。こういけば、回れば上がるんだね。ああ、又上になった場合にはそれとんでもないんだね。上の立場になった場合には、苦労している食口の立場に立ちたいなあ。そうすれば円満にまわる。早くまわる。そりゃあ原則だよ。そう思え。だから上のものが先進む。下のものは先に立てる。だから、部長は課長のために奉仕すりゃあいい。社長は部長のために、そりゃあ希望もってやれというんだね。だから一番下まで下がるといってそれは自分は滅びるんじゃあないというんだね。下がるのにうまくさがれ。世の中は上がるものはうまく上がろうとするが、下がるのはそれはない。だから一方の世界だ。

 だから、我々天国を作るにはね。上がるのも願うんだけど下がるのも願う。

 おい、苦労せよ。もっと願うんだから天国は先だ。もっと願わなかった場合には天国はあとになる。

 先生は何だ。何の看板があるや。統一教会の先生は何の理事長や? うん、教会長や? 先生だ。先生。先生はいくらでもあるや。幼稚園の先生、小学校の先生、中学校の先生、高等学校の先生、大学校の先生、先生いっぱいある。何の先生や? 思ってみた場合には気持ち悪い先生だね。先生、雑貨屋まあ、そういう気持ち悪いことだ。その先生がこういうふうにやっているね。

 何? 看板がいい? そういう思いでやられるかっていうんだ。地区長だったら地区長の名前をかかえて恥ずかしいことだ。

 無名でもって、先生、今そうなっておる。そうかと言って先生の権利を失っておるかといったらそうじゃあない。もっていないようにしても皆な先生の所に来て相談してくる。その山の中の洞窟に入ってしまっても待つようになっている。

 結局、問題は、問題はその人でなければならないその人になれというんだね。上にも下にも、左右にも前後にもその人が絶対必要だという人になった場合には、環境がどうでも自分一人だけおった場合には、その完全なるプラスがあった場合には完全なるマイナスは生まれてくる。それが原則だよ。嘘だったら統一教会の原理はない。

 自分一人で山なんか行った場合には、先生山奥へ行ってもちっとも寂しくないよ。食口達一人でもいなくても寂しくないよ。そういう山奥へ行って洞窟の中で山野をながめ乍ら、山には最高の楽しみがあるんだよ。それ、猪が生きておるんだよ。虎が生きておるんだよ。そうだろう。そういうような動物が住んでおる。この高等動物は、それ以上頭もっているもの、なぜ死ぬや。なぜ食うものないか。そういえばそうだろう。頭使えばいくらでもある。誰もがいくらでもある。住む所作ればいいっていうんだね。

 つばめが自分の家、巣を造るようにね。小さい小鳥が自分の住む巣を造るように、これ万物の霊長たる人間が自分の寝る所造らない? それ話にならないだろう。そういうふうに考えるんだよ。だから、ちっとも寂しくない。まあ、援助しなくっていいって言うんだよ。そういう自信をもっておるんだよ。それなりに又、勉強しておるよ。よく知っておるんだよ。そういうものを研究してみる。だから魚もまあ、韓国内の魚は先生がとってみなかった魚はないんだね。海の鯨は別だけど。こりゃあ川とか池のある湖、淡水池のある魚というのはとってみない魚はない。皆なよく知っておるよ。性質もよく知っておるよ。(笑い)

 だから先生、昔はね、山へ行った場合には、こっちの方のながめて向こうの側へ行って見なかった場合にはこれは癪にさわる。どんな事があってもそれは向こうの山に上がってみて、アハー、こういうふうになっているなあとして鑑賞しないというと気持ち悪い。前のもの見ただけ気持ち悪い。そういう性質をもっている。だから、これ原理の世界を発見したんだね。それをはっきりしないというと鑑賞して気持ち悪い。一方隠したそれは隠し、隠されて、そうして見るような、騙かされて見るような気持ちするんだから。

 権威意識を捨て、素直になれ!

 それ、こういうふうに思った場合には、人事異動はどうやっても自分には引っかかりません。統一教会の文先生、今、統一教会の末端の食口の一人になっても絶対後悔をしなければそれかと言って自分の権威は落ちていってしまう、そういうようなことはない。

 あんた達はどうだ。あんた達は権威意識が強いの? どうだ強いの、強くないの? 小ちゃい地区長としてハアー、権威なけりゃあならないからこういうふうにして、そりゃあもう威張り上がったそういう態度をもって、権威は立つと思うの?

 それより率直になれ、率直になれ。わからなかったらそれでいい。今から勉強するんだから率直になれ。率直は万事に通ずるんだよ。

 だから自分の権威と言って、頭を下げたとして、権威が下がったんじゃあないよ。何か人事異動したって高くなるんじゃあないよ。わかりました?

 先生の一番嫌がることはそうだ。それは原則上、その堕落した天使長はいつも残っておる。それは我々戦う。わかりました?(ハイ)

 だから、自分をもち出してブツブツ言うな。弁解はいりません。そういう弁解することは神に申し訳ありません。

 我々はいい先祖になろう

 この時代に犠牲になれば、あとの時代に幸福になるよ。プラスになるよ。この時代にプラスになった場合にはあとの時代にプラスになる? マイナスになる。だから、我々はいい先祖になろうって言うんだね。マイナスになっても、あとの時代にプラスを残してゆくなれば我々後孫はあー、いい先祖と、これが先祖讒訴圏を蕩減する道である。あんた達は先祖を讒訴してきているんだろう。アダムとかノアとか歴史的とか讒訴をしてきている。先祖讒訴を我々一代に於てこれを果たし、払いとってしまうそういうような道を残さなければ、我々後孫はあー、素晴らしい先祖と讃えなければ、それは復帰の使命を全体的に責任もつ統一教会の祝福家庭として、それが果たさなければならない、まあ、こう思った場合には苦労が我々には世の中の何ものにも何にたとえることもできない。それは大きな、天宙的な恵みだ。その実体ではありませんよ。宝物を入れる箱みたいなものだね。そういうものだ。わかりました?(ハイ)

 心情的基準と環境、それから責任者はやらなければならない。それから相手を考えなけりゃあならない。それが自分ばかりではない。中間的な立場であるというんだね。これはいつもそういう基準にあんた達が引っかからなかった場合にはどこに行っても反対される者はありませんよ。反対された者はそれは自分が後悔し乍ら、自分の前にひざまずくようになるっていうんだね。それは、そういう人達は、これは信じてやれば神様は援助するっていうんだね。そういうような圏をずーっと見分け乍らその相対圏に条件に引っかからないようなその神の前で指導者として立ったとすればこういう人の行かれる道は絶対的に発展しますよ。わかりました?(ハイ)

 人のために涙を流せ!

 ここにかねてもう一つ言いたいことは、我々は、神様の心情をゆくんだよ。神様の心情。あんた達もう一つ言いたい事は何かというと、あんた達本当に人の為に涙を流して、一人の生命を自分の生命を捧げて真心尽くして、自分の立つ所を忘れて、そうしてその人の為に尽くした時があるか? どうだ。

 あるいは、あんた達の生涯に忘れることのない男、あるいは老年と壮年とあるいは青年とあるいは青少年と、いつ頃の階級にそういう人をもっておるや。あるか。ないか。どうだ。それ問題だよ。

 もしもそれが出来なかった場合には一般の人を愛することが出来なかった場合には、摂理上の我々の先祖に対して、自分は如何ばかりその同情し合い、その立場に立って涙を流しその立場で惜しんだ時があるや。もしも、アダムの家庭で考えて見た場合には、アダムの立場に立って堕落したその時の苦しさ、今、天宙が神の理想圏から落ちてとんでもない結果の世界になる。自分は顔を上げることもできなければこの身を隠すこともできない。そういう迫られた立場に立ったその境地に於て神様にそのアダムの為に祈ってあげるような、アダムに於て一番近い兄さん、あるいは弟の立場に立とうとした時があるや。そういうこと考えたことあるの?

 エバに対して、エバに対してそれを天的天宙的法則を乱してしまったような自分にかえって、自分にそれをわかった場合のその苦しみに立って神にそれは立つことのできない自分になってそれを身代わりとして、神様どうぞ自分を打って、自分を犠牲としても、あのエバを許して貰い度いというような涙する、そういうような歴史的先祖の身代わりとして、同情し合って神に祈ったというような立場に立ったことがあるや。あるの?ないの?

 もしあんた達、心情的歴史を受けつぐとするということが神の願いであり、先祖達の願いだったらそういうような心持ちをもった人おった場合には神様は如何ばかり喜んだか。もしもカインがアベルを殺した場合にその横に立ってカインの為に祈って上げるそういう人がおった場合に神はどういうような作戦をなしただろう。とんでもない結果の世界が生まれてくるよ。

 ノアの立場に於てその働く百二十年の間に、誰にも近い立場に於て相談なく、話の動機がなかったそういう、あるいはお父さんの立場であり、あるいはお兄さんの立場で、あるいは弟の立場であり、あるいはお母さんの立場であり、奥さんであり、妹の立場で励まし合う、そういうような自分となってあの苦労を忍びきり乍らかまえていく、それを見ながら、涙して同情し合うそういう心情的体恤をしたことがあるや。いつ涙こみ上げ乍ら、摂理を支える為に努力したことあるや。その価値を、その実体を、あいつぐそれ以上の真剣な立場に涙ぐんで悲しんだことあるや。

 もしもそういう時、それ以上の基準あった場合にはノアのおじいさんは全てを捧げても感謝するんだね。こういうふうに引きつけなければなりませんよ。

 アブラハム、モーセに、イエス様に、洗礼ヨハネに於ても罰するのが手じゃあない、許すのだよ。内心は、神様の心情あふれている心情圏を、もち出して神に新しく相談する道を願い出るような、涙乍らにそういい出るような、そういう統一教会の食口は何人いるや。考えたことある。

 もしもそういうふうに考えた者があった場合に、これは歴史の心情圏全てを相続するのにちっとも恥ずかしくありませんよ。

 現在的に於て、過去に於てそうであり、現在、世の中に於て神様が迎えてあるこの現世より万民を神様の身代わりに立って願う心情の基準を現実に於て求めて涙する者があったら神様の心情直接、現実のあるいは生活圏に相続し得る柱である。

 過去の心情圏、現実の神の心情圏、これを二つまとめた場合には、歴史的わしの心情圏によって包囲される。包囲、あるいは抱擁される。神の心情、過去の神の心情、現在の神の心情あるいは抱擁、包囲される。そういう所に神の歴史と共にその自分の後継者として残したいのが願う迄もありませんか。そうでしょう。

 そういう立場に帰って、我々が未来的の心情と後孫のために神様心配する基準を今迄は、我々は抱き合って、現在にうち切らしてあとの世界に残されている道を行くんだから、未来の心情圏を抱いて現実に成せるようなそういう立場も我はあるというだね。それはそうなした心情というものは、歴史がこの心情によって発展するんだから自分と関係をもって発展するようになっておる。その基準が真の父母の心情圏じゃあないかとね。そうじゃない? そういうふうになっておるんですよ。

 そういう心情圏を受け継いだその責任者として韓国行っても台湾に行っても日本に行っても世界にいずこの国に行ってもそういう心情をもってでたならば神様はそこにいまさざるをえない。神様はそれを願う。過去も、過去の先祖達もそれを願うだろう。現在の人間もそれを求めている。未来の後孫はそういう先祖になるのを求めて生まれてくる。もしもそれがそういう三点におかれて完成された基準が立った場合には歴史の中心点である。現世の中心点であり、未来の出発点であるというんだね。

 自分一代において勝利の旗をあげたとそういう基準あった場合にそれは天下は新しい方向において治められるよ。それは理論的にそうなるんだよ。

 指導者の責任

 神様は天下全てをそれを再創造するという主人だったらその主人の望む所にしか永遠を残す足場はない。そういう立場を我々は生命がけでそれを死守、あるいはそれを持続させ乍ら横的、あるいは国家、世界に伝統をそれを授ける為の立場がそれが指導者として、統一教会の指導者としての責任ではないか。

 だから、あんた達は親も苦しんで、お父さんも苦しんで、女は母の苦しみ。

 先生だけそういうふうになっておるんであって我々は違う? それに於ては、とんでもないことになる。皆なぶつかって、皆なぶつかった場合にこれに比例したね。天的位置はこれに比例した枝が茂るんだね。枝が多い程いいの? 小さい程いいの? (多い程いい)自分を主張する者は幹だけの木になってしまう。幹というものがあった場合、これは自分のためにあるの。枝は何の為にあるの。枝は何の為。これは皆なあんた達わかるだろう。根は何の為にあるの。幹のためにある。又、全体のため。それから葉はたくさんあるのがいいの。少ないがいいの。一つの枝に一枚ある。自分ばかり好きな人が立っておる。

 さあ、その枝に何、葉がたくさんつくのがいいの。葉ばかりついたらおばけになる。それから、枝がつくのは一番分かれた枝の、近い所につくのがいいの。遠い所につくのがいいの。近い所につけばつく程いい。それ何の話か。

 あんた達はね、責任者として、ずーっと何かを言うと上の方があった場合に紹介したくない人がたくさんいるんだね。おお、自分、秘密に独立するの、上行きなさい。そういう場合にはそういうんだね。それは何かと言うと、それは枝が遠い所につく。幹と遠い所につくという話だよ。そうじゃないか。幹の所に近い所の枝なのに。あー、その中につくんだというのは、これいいじゃない。そこからも新しい枝が生まれてくるんだよ。葉は素晴らしい根から生まれてこなければならないんだよ。枝がいくら大きくても、幹から離れた場合には、一番近い所が一つになっていくんだよ。

 そういう基盤が、先生それやったらたくさんでてくるよ。幹に近い方にたくさんでてくるんだよ。うん、そうだろう。

 それは何かというと、自分の責任者としてひきいるその者は一つになって、一つの幹に、共につきたいという思いだね。自分の後継者を早く早く作りたいという思いね。そうしないと発展できないや。
 なにか自分の食口達がそれで素晴らしいものがあった場合にはもう、とにかく切ってしまえ。まあ、地区長より原理講義がうまい。気持ち悪いや。これは親として子供がああ、あの家の子供は親より素晴らしいと言われて親は気持ち悪く思うの? 素晴らしい所が地区長の下におる食口達、そういう若者がりっぱだといって地区長に素晴らしいと言ったら気持ち悪く思うのか。それは親じゃあない。親じゃあないんだよ。それどうかと。それ天使長、天使長だ。サタンの血統だ。幹あれば幹より多く枝になりたがるものがあれば幹は大きくなるんだよ。そうだろう。

 枝より大きい葉をもちたがるそういう枝は早く太くなるんだよ。そうじゃあないの。そういうふうになっておるんだよ。

 木にたとえたら、あんた達責任となるや。だから、根になった場合には現れないんだね。現れるとまずいや。

 みんな、おお、世の中で一番えらいものは誰や。えらいというのはね、これは木の葉の先につく花だね。花だ。そう見た場合には枝も気持ち悪いし、それから根から見た場合にとんでもない一番遠い所にあるやつが一番喜んでいるよ。そういう現象だよ。

 いばる者は長くない

 あんた達の食口の人に偉そうに勝手なことやるものがあるんだね。それは入ったばかりで何カ月もならない。花というものが咲くのは何カ月もかからない。一番先に咲いた花みたいに香りをふっかけて、悪い香りも自分なりの香りもふっかけてそれをこの野郎と引き取ってしまった場合、花自体をそれを引き取ってしまう責任と同じ、咲いていた場合には、結果はわかっておるね。落ちないと言っても落ちるようになっているや。いばったものはすぐ終りだ。いばる者は長くないんだよ。すぐ終わりだ。

 それは良いことだったらいくらでもいばれ。扇動し乍らやっていかなけりゃあ、そういうものもいるんだよ。あー、入っていばり出したんだけれどそれは素晴らしい。食口全体を動員してこれを育てていけというんだね。

 まあ、一つの木にたとえて考えてみなよ。だからあんた達枝なの。花なの? 統一教会に於た場合には、幹は二つなの、一つなの? (一つです)

 だからあんた達何なの。枝です。枝でもその立場が違うんだよ。皆なね。枝だから周囲が皆な同じじゃあないの。一つの幹について皆なついておるよ。だから向かい合っておるよ。そのように誰が発展するや。責任者から、一層近い所に立ったものだよ。大きい木をもつんだよ。それから早こをもつものが大きくなるんだね。そうなるの。栄養素を誰よりも早く運んでしまうような力を持てばね。

 それは何かというと根と関係を切った場合には何ですか。それは大きくならないというのは幹が決めるの。根が決めるの。どっちが決める。幹が決める? (根が決める)

 根はこれは天を意味する。だから世の中万民は、これはいわゆる氏族あるだろう。その枝である。そこに幹なるものは何か。幹なるものはわからない。それは文化圏をね。

 ヘレニズムの立場にしてみれば、そういう様な歴史の二大潮流があるんだね。だから二つの木が生えている。そうしたらそれには何か。人本主義か神本主義かこういう結果になる。神本主義だったら神様と一番近い立場にあってそして頻繁に授受作用する所が、そこよりまず神が捜し出すだろう。枝もそこより先に出る。枝も先にふえていく。葉もそういう所から先に出るんだよ。そうなれば花は、花は咲くだろう。それが実るのも先に実るじゃあないの。皆な先に実る。だから、そうなるというとこれ問題だ。

 だから、世の中、今、人生航路に於てその根本は何じゃあー。世界皆なはもう知っておるんだよ。だから統一教会はこれを結びつけて、根はこうであり、幹はこうであり、葉はこうなけりゃあならないし、枝はこうなけりゃあならないし、花はこうなけりゃあならないし、実はこうなけりゃあならない。それをちゃんと系統的に教える所が統一教会だよ。

 あんた達花になりたいの、葉になりたいの、枝になりたいの、幹になりたいの。幹になりたくないんだけれど幹の近くなりたいんだね。うん、根になりたいの。根に近くなりたいの。根になれないや。

 自分の嬉しこというものは根に近くなる道。それから根と共に頻繁に往来する立場だから、統一教会に於ては地上の根はね、文先生だよ。各国の宣教師はその国の幹だよ。日本の幹は久保木だよ。久保木さんにあんた達くっついておれや。

 地区長は木の枝

 あんた達は枝だね。枝、枝が死にかかっているか、栄養不足か。それとも生か。生きたものは成長するし、生きないものは後退するんだね。生きた証拠は何か。だんだん増えていく。増えていって停止したものは今にマイナスだ。先の方はだんだん枯れていく。そりゃあ、そうなっているんだよ。なぜそう枯れるか、それは栄養不足だ。栄養不足だから根と幹の関係がうまくいってない。そうじゃあないの。そうなっておる。それがあんた達考えてみなよ。木を見る時そういうふうに考えてみなよ。だから、花はどういうふうに咲かせるや。自分より、枝より、葉より、葉の中に、葉の間に花は咲くもんであるというんだね。

 花はどこから咲くかというと枝から咲くんだけど葉のその間に咲くんだ。葉がなければ花が咲くの。枝があっても葉がなければ花が咲かないよ。花が咲いたとすれば落ちてしまう。だから枝が伸びるには葉がたくさんなくちゃあ伸びないんだね。葉は何かというと食口だね。食口、食口がたくさんいるのが嫌なの。子供がたくさんいるのが嫌なの。(いいです)子供をたくさんもった親は楽な立場なの? 死ぬ暇もない。(笑い)

 夜は夜、夜はそれは自分の夜じゃあないよ。子供の夜になっちゃう。昼は昼、自分の昼じゃあないよ。子供の昼になっちゃう。御飯食べるのは自分の為じゃあないよ。子供の為に食べる。こうなる。だからそういう親はたくさんの相対者をもつというんだね。そうだろう。

 それは不幸な親でなくてたくさんの愛の相対者をもったんだからたくさんの刺激の満足圏を誰にも負けない立場で感じちゃうんですよ。そういう感じたその親というのは涙が多い親、情的な親になっちゃうね。情的人間になっちゃう。情的人間になった場合には、四方、八方に好かれる男になってお母さんとなる。だから、神に愛する結果になるというんだね。

 だから子供が少ないよりは、子供が多い、子供をたくさん育てたその親は神の国の心情圏に早く帰ることができる。まあ、そういう時に於て、親が多いのが幸福だという結論になってくるんだね。

 だから心情問題、心情問題だね。だから歴史的な心情時代に於てノアより以上の涙を流してみたいというんだね。アダムより以上の涙を神の為に流してみたい。

 ノアが審判したあとに於て、八人の食口を率いて箱舟に入る時にそれを喜び得るような涙を流し乍ら、今迄神が守って下さったけど以後に於て神様もっと守ってくれるように、それ以上に忍び切り、それ以上に我は注意して、み旨を果たしていきますというようにして子供達に泣き乍ら、それは教訓となした場合には、今迄あんた達は服従しなかったんだけれど、いまだになって、どんなことがあってもたった一遍だけでも守って貰い度いのが、自分の願いだったというふうに、それは最高の願いで、その八人の食口にそういう教えをなした場合には、さあ、ハムという存在が、お父さん、裸になっている所を見たといって、それがそういうふうな行動なしたんだろうか。何か。それはなに。背後に何あるかも知れないとして、アダム、ノア時代が箱舟の中に八人の家族を連れて、そういうふうな教えをなした場合には、そういうとんでもないことにならないようにやるんだったに。なぜ、そうなったんだろう。それ、みんな自分の将来ゆくべき教えなんですよ。

 わしが神の前に果たしえた、そういう立場で喜ぶよりは、ひざまずいて、涙乍らに感謝しつつ、以後にもっと昔は蕩減の世界に於いて、親孝行したんだけれど、それ以後の世界に於いて誰も負けない親孝行しえる、その意志で第一歩を踏み出せば今の行くべき道は過去の何十倍真剣な栄光の道である。責任を持たなければならなこである。

 昔は、流してしまう道であったんだけれど、今は、これ永遠に残す道だから、これは真剣にしてやるというように思って、それは箱舟の中にあって食口達を教育した場合に、ノアの家庭はどうなったろう。

 こういうふうにしてみれば、ハムという存在は、そうなった場合には、この世界は歴史は一ぺんに変わってしまっただろう。そういうことがね。まあ、歴史の代表者の背後、前後関係に於いて、いつもそれはくっついてまわる。

 まあ、そういう立場から見た場合に、歴史的心情基準において、それより以上の立場において神を慰めるような自分になっていれば、この時代の心情圏において、誰にも負けない先頭に立って神に仕える未来の後孫の前に誰にもその讃えられるような先祖になりたい。そうするには、後孫の願う世界を後孫の為に、世界を建設する為に涙せる未来の世界を、苦しみを今にそれを実現させて、苦しみを自分でつくるという働きをしなければならない。

 だから、こういう心情でもって行かれる人は三時代心情圏を勝利的基準にまとめて生活するものだから、過去を愛した神であった場合には、こういう人は現在に過去を身代わりとして、もっと愛しなければならない。それと心情的復活だよ。歴史的復活になるよ。

 現在において、そういう心情でもって、神に仕えるようになればこの一人は、現在の世界的な心情的主体者になるよ。未来において、未来の後孫自体においても、誰も追いつけない心情の出発基準になっておるから、全人類はそれにつかえなければならない。神はだから、こういう者は三代の心情を重ねて、勝利の基台を果たしたという立場である。そこ迄行かなければなりませんよ。そういうふうにして、過去に対して、誰にも負けない、涙を流し、苦労の道を喜びの結果として来たすために、努力しなければならない。現世において、未来圏において、何はずかしくない、伝統的精神を残して行きたいという、こういうような立場で行った場合には、神様がもしもおるとすれば、歴史は、さておいてこの人を求めてきた。現世もさしおいても、この人を中心として未来を願ってもこの人から未来は生まれてくるようになっておるんだから、これ以上愛されるのは地上じゃないね。そこ迄行くんですよ。

 こういう感情的、心情的立場をとる時には、国家とか、そういう氏族とか、それを乗り越え、それはまさしく自分のそういう可能なる実体になりえるや。それを実験してみるよ。

 それは男として、ニグロの女、みっともないニグロの女の肌が自分にあいそうな顔付きでもって、こう近寄った場合には気持ちいいか。悪いか。うん、ずーっとテストやってみないといけない。どうだ。

 そういうような、心情圏に立って、その日本を愛してみなね。まず日本を愛されないというと、世界を愛されないんだよ。まあ、そういうふうにやって、統一教会の伝統的歴史観に立って、恥ずかしくないような、先生の前に立つに恥ずかしくないような、神様の前に立つに恥ずかしくないような、そういう皆さんになりたいのを願って、先生は話をしたよ。わかりました? (ハイ)
 さあ、祈りましょう。

 祈 り

 天の御父様、責任者という立場がいかに重要な立場であるかということがはっきりわかりました。神様の心情圏に於いて、自分の主体としている立場に、それから、やらなければならない自分であり、やるには責任をわきまえてやらなけりゃならない立場であります。そういうふうにして、神が喜ぶその指導者に立った場合には、責任ばかりじゃなくして、神と直接結びつける最後の喜びの実体圏を求めなければならないことをわかりました。

 こういう環境的心情圏ばかりではなくして、背後に神を求めている過去、現在、未来を通しての神の願いが、いつもいつもなされ、そうして神が同情しえる勝利の実体者にして、不足にならないそういうものに祝福して下さいませ。今回、日本から来られたその日本の地区長達をこの場に集めましたから、内心に於いて湧き上がる心情を体恤しうるように神導いて下さいませ。環境にその心情圏を植えつけることができる様に、そういう神様の求めきた立派なその種となるよう、働きかけて下さいますことをお願い申し上げます。

 この指導者の責任という問題も、考えてみた場合に、愛の根拠地に立って全ての関係を結んで、皆なの為に立たなければならないことを思います時に、自分なりの過去が余りにも未熟でありました。余りにも不足でありました。わからなくってなした全てを神よ、許し給え。いまだに新しく決意するこの身となして、新しい信頼、新しい希望、新しいその望みをもちまして、あなたの願う理想世界へ我等と共に願いつつ、望みつつ、侍りたてまつることをお願い申し上げます。

 誓った一瞬を神に捧げた以上は、これを引き下げるそういうような者に絶対なりません。決意したその者でありますから、その勝利圏迄、我々は犠牲を払ってもたどりゆかなければならない実体であるということを、今又、誓い決意を固めておりますから、今後ともに神は御期待なさいまして、勝利した子供として、サタン世界から見て恥ずかしくない、神の前に立たせられて、ほめられて、そればかりでなくして、無限の愛をもって神に愛させるに不足ない、そういう実体の者になるため、共に働き同情して下さることをお願い申し上げます。いまだに決意するこの現実に思い見て下さることを思いつつ、全ての祈りを真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。(アーメン)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.06.24 16:29:05
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