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奇   知   外   記

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2021.06.30
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​​​​​​​​​​​​「勝敗と現在」

1971年12月5日
ソウル本部教会


 我々の周囲には悲しい人々が多い。また反面、そうでない人たちもいる。我々の、家庭、都市、また、国家もまたみながそうである。発展するものがあると思えば、そうでないものもある。笑う人があると思えば、泣いている人たちがある。

 このように一様でない現在――ところが人間は、皆が悲しみを嫌う、と同時にまた孤独な場所を嫌う。そして、全体を願うのである。喜びと栄光、そして幸福を追求する。家庭と社会、そして国家もみな同じである。みなが悲しみを避け、栄光を迎えようとして、闘っているのである。世界もそうだ。

 愛の最後の終着駅

 もし、このような全体のものを支配するある存在がいるとするならば、その存在もまた同じではなかろうか! 天のお父様も、間違いなく我々人間と同じはずだ。

 愛は、孤独なそして苦しいところで与えられるべきものではない。あくまでも自由な、そして栄光ある場所で与えられるべきものである。そういう環境のもとで最高の愛を思う存分に与えたい。それが神の心情なのだ。

 今、この地上にそういうことができる人間がいるのだろうか? 我々はそういうことに対して考えてみなくてはならないのである。そのような最高の愛は、ある個人だけに与えられるべきものではない。家庭を越えて、さらにまた、世界を越えてより高き次元のものに与えられなければならない。これが愛の本質なのである。

 一人よりは二人、二人よりは三人――そしてまた十人――このようにして拡大して、その対象を追求するのが愛の本質なのだ。それゆえに人類愛というのがこの地上にあり得るのである。自分の国家よりも世界を愛することができる力が、ここより発生するのである。愛の最後の終着駅、それは最大のものでなくてはならない。多くの子供たちを養った経験をもった親たちは、この深い心情をよく理解するだろう。で、そのような人たちは敵をもつことができない。そういう内容を分かるようになる。その理由は、すべての人はみな愛を受けなければならないという事実を知るようになるからである。

 世界を除外して私たちだけが愛を受けたい――このような思考方式がここから破壊されるのである。

 神の欲望はある個人にだけ限定されない。全体にわたるということを天は望む。「公」と「私」とが、ここから分別される。「公」というものは全体のためのものである。それゆえに、全体が望むもののために尽くすのが、「公的」であるということができるのだ。私、一人だけの喜びというものはあり得ない。それは全体的な喜びから結局追放されるのである。天の内容というものは、こういうものだと私は思う。それゆえに知恵のある人々は将来のために生きる。現在のためにのみ生きられるものではない。それで、そのようなところから信仰というのが必要になるのである。そこに希望というようなものがあり得るのだ。ゆえに勝利というのは個人的なものであってはならない。あくまでも全体的なものでなくてはならないのである。

 君は君である。私は私である――そういうものではない。君は、私であり、私は君である。そういうところまでいかなければ駄目だ。個人の勝利においては、個人だけしか喜べない。二人が喜ぶということはできないし、また全体も喜ぶことができない。だが、個人的な勝利も、これを全体の前に捧げれば全体のためのものになることができるのである。

 愛は犠牲の道

 それで、犠牲ということが生ずる。犠牲によって、我々は公的な勝利を追求することができるからである。我々三〇〇〇万の全体の民族が笑ってのちに、(幸福になってから)私も笑うことができるのだという考えが生まれるようになる。それは範囲が広くなればなるほど、その価値が増大するからである。

 ここで「道」ということが、初めて言われるようになるのである。

 ここに世界の絶頂があり得る。そこで愛の道には必ず犠牲というものが同伴する。ところが手段や方法をもってしてはこのような道は歩けない。純粋でなければならない。そうでなければ人に笑われる。個人的な人とではお互いが喜べない。このような意味において、勝利というのはある個人のためのみにはあり得ないのである。それゆえに宗教においては、個人主義というのがあり得ない。もちろん、我々はあくまで個人として存在する。しかし、その個人というのはあくまでも国家のためにあるいは、全体のためにある個人であるという事実を我々は、はっきりと理解していなければいけない。そこで、我々個人というものは世界を象徴する存在でなければならないということになる。ゆえに個人は、より公的なもののために生きなくてはならない。

 このように果てしなく拡大していくのが神の愛である。我々は、統一教会のためにのみ生きてはならない。国家のために生きてはならない。世界のために生きなければならないのである。たとえ、犠牲になることがあっても、我々は、この道を歩まなければならない。このようにして個人は生きられる。美しい黄{たと}昏{がれ}を見る時、自分一人だけ見たいと思う人がいるだろうか? そういう美しいものは、あらゆる人が眺めて喜んでほしいと思うのが人間の本情であろう。永遠なる天国というものは、ある個人の内にだけはあり得ない。永遠なる天国というものは全体においてのみあり得るのである。

 それで宗教(特にキリスト教)は強い。誰もこの力を取り除くことはできない。言うまでもなく、このような宗教の道を歩むことは楽ではない。悲惨な姿をしなければならない。しかしながら、人類の歴史はそのような人たちを通して発展する。それゆえに我々は高次的な願いをもたなければならないのである。そういうところにおいて、個人は死んでもその道は発展していく。滅ぶ場合においてもそのような人々は望みを抱いて滅ぶことができる。そうでなければ、そののちに発展というのがあり得ない。

 永遠に残る思想

 世界のために尽くす統一教会――もしそうでなければ統一教会は滅んでしまう。我々は、このような立場で新しい文化世界、新しい文化的思想を打ち立てなければならない。我々は天と地を代表する思想を残さなくてはならない。それに成功すれば、たとえ天と地が崩れてしまうことがあってもその思想だけは永遠に残される。我々は国家のために受ける苦痛であるならば、それを誉れと考えなくてはならない。その当時は悲惨であるかもしれない。けれども、それは誰も取り消すことのできない愛なのである。

 イエスは十字架の上で死んだ。しかしながら彼を十字架に据え付けた天の愛は、この地上から消えてしまったのであろうか? そうではなかった。最も深く愛するひとり子を殺してまでもその深い愛をこの地上に顕現させたのが、神の愛ではなかったか! それが、真の父母の愛であったかもしれない。それは我々が想像することができないほどの次元の高い愛であったのだ。それゆえに、他の方面において新しい復活が開門されたということを我々は、はっきりと知っていなくてはならない。三〇〇〇万の、我が民を救う時までは、我々は悲惨な環境を忍んで闘わなければならない。それが、たとえ死の道であっても我々は行かなければならない。そのような所で我々は、初めて真に生きることができる。

 それゆえに統一教会が歩く道は一見して、死の道のように思われる。それは統一教会が、国のために生きるからである。我々は国が滅ぶのを、そのまま放っておくことができない。我々は全力を尽くして国のために働かなければならないのである。挙国的な活動の中心とならなくてはいけない。そうでなければ我々は滅びるほかはないだろう。

 勝者と敗者の分岐点

 今、我々は勝者となるか、敗者となるか、その運命が決定される分岐点の上に立っている。それが今から十年後に決定されるのではない。今のこの時点において決定されるのである。この現在の時点を乗り越えることができない人は、勝利者となることができないであろう。現在を克服できない人は、未来の勝利をもたらすことはできない。我々はこの難関をうまく越えて神を解放しなくてはならない。ゆえに我々は、現在を勝利しなくてはならないのである。

 神の運命も我々にかかっているという事実、我々は、はっきりと認識していかなくてはいけない。他人も救わなくてはならない。世界も救わなければいけない。また、神も救わなければならないのが我々である。このような公的な勝利は、暖かい部屋の中では勝ち取ることはできない。喜びの日というのは、今の我々には、よほど縁が遠い。我々は、既成教会と闘ってはならない。我々は彼らが願っている天国を建設してあげるために、全力を傾けなければならない。それは我々の目的が、あくまでも天国を建設するところにあるからである。

 では、今のところ天国が建設されているのだろうか? 今から我々は、天国を建設していかなくてはならないのである。我々は、中断することができない。挫{ざ}折{せつ}することができない。我々は、我々の家庭のためにだけ生きることができない。我々は、より偉大なるもののために出発しなくてはならないのだ。現在いるところに、そのままとどまっていることができない。我々は、我々がしなければならない全部のものを成し遂げなくてはならないのである。

 我々自身は救われなくてもいい。国家と世界を救わなければならないのだ。そういう思想をもたなければいけない。我々は、いくら飢えても前進しなければならない。いくら難しくても、我々は我々がしなければならないことを成し遂げなければならない。歴史と共に歩きながら、新しい歴史創造に参与しなければならないのである。天の目的と天の悲しみと、天の権威のためにも我々はじっとしてはいられない。我々は、今、前進しているのである。我々は、今、眠っていることはできない。世界のために闘っている人々と共に、世界のために我々も闘わなければならないのだ。そうすれば、我々は自分一人だけが闘っていないという事実を発見するようになるであろう。霊界にいる聖徒たちと共に立体的に闘っている自分自身を発見するようになるのである。こういうことが、もちろん、たやすいことではない。難しいことである。我々は一歩も踏み誤ることができない。こういう道を歩く時には、ブルブル震える時が多い。深刻なところを我々は歩いているのである。共産主義と闘うために、サタンと闘うために、我々は国家を越えて前進しなくてはならないのである。

 摂理の中心に立つ再臨主

 この世の中で、ある一人が生きているということは、その一人のためにのみ生きるということを意味するのではない。その人は、ある家庭に属しているだろうし、また、ある民族、ある国家に属しているのである。最少限度、民主主義の世界においてはそうだ。このような数多くの単位に取り囲まれて我々、一個人は生きているのである。しかし、今のところいったいどの個人が天の摂理の中心となっているのか? どの家庭が、どの国家がその核心となっているか? それをいったい誰が知っているだろうか? この内容を本当に知っている人は誰もいない。人間はこのように何も知っていないのである。

 それではいったい誰がそれを知っているか? 聖書を見れば天の父だけはそれを知っていることになっている。このように天の神だけが知っているその摂理の中心――その中心がキリスト教でいっているいわゆる再臨の主なのである。それゆえにあらゆる人たちはこの一人の個人とその家庭を中心として、一致的紐帯を結び、運命共同の生活をするようになっている。この一人を中心としてあらゆる人々が、何が善であり、何が悪であるかを知るようになっているのである。それゆえに我々は、その中心と一つとなって、悪を取り除くために全力を傾けなければならないし、またそのための訓練を受けなければならない。これができるかできないかによってあらゆる個人と、あらゆる国家、そして全体の人類が死ぬか生きるかという生死の問題が決まるわけである。

 ゆえにすべての人間は悪の世界を捨てて、この善なる中心と一つとならなければならない。この再臨の主は神の国が滅びるかどうか、またサタンの国が滅びるかどうかをはっきりと知っているそういう人である。

 その理由は、再臨の主が神の国とサタンの国に関するあらゆる秘密を知っているからだ。それゆえにその人は神の国とサタンの国が、あるいは興り、あるいは滅びるその間をくぐり抜けて、善の国を建設していくことのできる人であるのである。神の国を建てようとする人は、神もよく、またサタンもいいというような股がけの思想をもつことは許されない。そういう目的のために生きる人は徹頭徹尾、悪に勝利しなければならない。

 勝利したヤコブになろう

 ヤコブは二十一年を闘い抜いて、そしてまた天使を勝ち抜いたあとでイスラエルという勝利の名を受けることができた。神の国を建てようとする人は、みんなこのような道を歩かなければならない。モーセもそういう目的のために、一二〇年の間一人で闘ったのである。

 神が悪の勢力を打つ以前に、我々がその願望を成し遂げてあげなければならないのが本当である。もし、神がお一人で悪の世界を処理することができるとするならば、人間は何のために必要であろうか! それゆえに我々は、神の身代わりとなって悪を打ち砕き、勝利の一日を迎えなければならないのである。途中で倒れては何にもならない。

 もし、ヤコブが天使と相撲をとる時、“あー、やりきれない。誰かが助けてくれないのかなあ!”というような弱い考えを抱いたならば、どうなったでありましょうか? 神は確かにしょうのないやつだ! と嘆いたに違いない。しかし、ヤコブは自分一人で闘い抜いてそれに勝ったのである。それでイスラエルという、勝利という意味の名前を受けることができたのだ。

 このような勝利を得るためにヤコブは、腰の骨まで打ち砕かれたではないか! 我々は命を懸けて天使と闘ったヤコブの姿を想像してみる必要がある。彼は勝つまで決っして相撲の手を放さなかった。我々にもそのような、最後まで頑張る根強いところがなければならない。

 天国に入るためには、サタンに打ち勝ったという証明がなければならない。その証明書がなければ天国に入ることができないのである。けれども我々がサタンに打ち勝とうとする時、サタンはそのままいるのではない。最後まで抵抗し反対するのである。このようにサタンがしつこく反撃するために、神はそこに関心をもたなければならないようになるのである。

 神の道を歩く時には、ありとあらゆる困難にぶつかる。皆さんは女の人が子供を産む光景を見たことがあるか? 女は歯をくいしばり死を覚悟してある力全部を懸け子供を産むのである。今、我々統一教会の人たちはそのような立場のもとにいる。

 我々は後退できない

 このような立場において、我々は後退することができない。今、アメリカ人はその軍隊をベトナムから、あるいは韓国から撤収するといっています。しかし、我々は後退することができない。反対に我々は敵のほうに向かって突進しようとしているのである。それでは敵のチョンマゲを握り取って何をしようとするのだろうか! そうすることによって神様を喜ばせたいその一念しかない。神を喜ばせるところに我々の目的がある。サタンをなくすために、六〇〇〇年も闘ってこられた神を喜ばせるために、我々はサタンに打ち勝たねばならないのである。

 このようなことは一人ではできることではない。一人では到底不可能なことである。それゆえに国家と一つになって天のかたきに勝利しなければならない。我々はいかなることがあっても共産党を打ち砕かなければならない。それがすなわち統一思想なのである。誰が何と言っても仕方のないことである。我々は共産党に勝たなければならない。そうでなければ我々は目を閉じて死ねないのである。我々は共産党が滅亡するのを見なくては死ねない。これが統一思想である。

 未来の栄光を遮るサタンを我々は打ち取らなければならない。この目的のために今我々は包囲作戦をしている。敵を包囲するためにはもちろん多くの犠牲を払わなければならない。しかし致し方がない。我々は熾{し}烈{れつ}な戦争をしなくてはならない。

 皆さんは全部がそのような覚悟をしなければならない。我々は容易ならざる境遇において勝利しなければならないのである。悲惨な立場で勝利しなければならない。

 将来、神のほうで勝利したときいったい、誰が一番喜ぶでありましょうか? 確かに統一教会の文先生が一番喜ぶでしょう。その理由は? 我々は今までそのことのために夜も眼られなかったからである。勝利した場合には一番苦しんだ人が一番喜ぶのは当然なことである。

 我々は、敗者になってはいけない。絶対に敗者になってはいけないのである。それで私の祈りは全く真剣である。このような意味において皆様の祈りと私の祈りとはその質が違うはずだ。

 今や、我々は世界の運命を前において、我々自身の立場を考えてみなくてはならない。

 統一教会が滅んではいけない。三〇〇〇万の民族を生かすために、我々は敢然として闘わねばならない。このような闘いを敢行するところにおいて、ある個人的な事情のために中断することはできない。それは敗者を自らつくることになる。逃避者とならざるを得ない。神の責任を背負った人はそのようなことはできないのである。もちろん、悲惨な姿をする時があるだろう。絶望する時があるかもしれない。しかし、我々は後退するとか、中断することはできない。もし我々ができなければ、我々の子孫が受け継いでやる――このような覚悟を我々はもたなければならないのである。このような思想は最も恐ろしい。とにかく我々は、先頭に立たなくてはならない。我々は、一時に敵を攻撃することができる姿勢を整えなければならない。

 死を覚悟して出発した先生

 我々は死を覚悟しなければならない。この文先生は、この道を出発する時、既に死を覚悟した。ゆえに私の生涯において一番遺憾なことは、私が軍隊生活を経験しなかったということだろう。しかし、私はいつでも命を投げ出して善のために冒険を敢行する勇気をもっている男だと信じている。一線に出て、先頭に立つ覚悟をいつでももっている。

 いったい、統一教会は誰によってつくられたか? この統一教会の運勢をいったい誰が動かしてきたか? 皆様が動かしてきたのだろうか? あるいは歴史が動かしてきたのだろうか? 皆様が動かしたのではありません。歴史が動いてきたのである。我々はこのような事実をはっきりと知っておく必要がある。我々の力で動いてきたのではないという事実を。

 それは数千年間において、歴史的に血を流してきた先烈たちの功労が背景になっているから、我々が動くことができるという事実を明確に知っていなければなりません。それで我々は、歴史的な責任を背負わなければならないのである。我々は歴史に対する責任を負わなければならない。こういう道が現在統一教会が歩んでいる道なのである。

 このような立場において、我々は歴史の主体となるか、そうでなければ象徴となってその難しい問題を解決しなくてはならないのである。我々はそういう目的のもとに、お互いが同労者となって闘わなければならない。部屋の中に座って、このようなことはできるものではない。部屋の中にいながら、そのような事実を知っているとしても何の役に立とうか?

 とにかく美しい歴史に傷をつけた人は永遠に外されてしまう。我々はダイヤモンドに傷をつけるような、そういう人になってはいけない。統一教会という存在を歴史的見地から見る時、それはかつてなかった、また将来にもあり得ない貴いものであるためである。

​ 歴史が待ち望んだ「真の父母」​

 では、今までの人類の歴史が待ち望んでいたものはいったい何であったろうか? それは真の父母に会うということであった。真の父母がなかったために、今までの人類は悲惨な歴史の道を歩まなければならなかったのである。キリスト教でいうメシヤ思想というのは、この真の父母を迎えることを意味するものであった。いや、あらゆる宗教、あらゆる国家が探し求めなくてはならなかったものも、またこの真の父母だったのである。

 今、北韓では金日成を「父」と呼んでいる。だが「父」が二人いるわけがない。統一教会で、この先生を「父」と呼んでいるから、サタンもそれをまねているのだ。大韓民国が貴いという理由も実はこういう内容があるからだ。ところが真の父母はいったい誰が選定するのだろうか? このことを子細に検討することは、人間がしなければならないのである。人間はどちらのほうが善なる父母か、そしてまたどちらのほうが悪なる父母であるかを分別しなければならないのである。真の父母が二つあるわけはない。一つしかあり得ない。一つしかない人類の真の父母は、歴史の起点であり、歴史の希望なのである。永遠なる生命であると同時に愛でもある。それゆえに皆様は真の父母の心情を詳細に知り、それに合わせなくてはならない。

 それでは、父母のほうでは子女に対してどのような態度をとるようになるのだろうか? 悪の世界から選定された善なる子女であるゆえに、父母は無限なる神の愛をもって、彼らに対さなくてはならないのである。一般世間の父母とは、全然その子女に対する態度が違わなければならない。これと同じく、真の父母に侍る子女としての基本的な姿勢も、また、なくてはならないのである。万国から選ばれた、そして自分の国から選出された代表的な孝子として、孝誠を尽くすことのできるチャンピオンにならなくてはいけない。このようにしなければならないのがすなわち皆ようなのである。

 もし、皆様がこのような立場から去るようなことがあるとすれば、それは億千万代にわたる悲しみとして残されるだろう。しかし前に言及したごとく真の父母に尽くす孝子たちが続出し、そのような人たちが一つに結束するならば、彼らはどのようなことがあっても滅びることがないだろう。このような焦点上に立っているのが今の皆様である。

 そのような人たちは自分の欲することを全部行動し、また、話したいことを全部話しながら生活することはできない。今のところでは、そのような自由は与えられていないのである。統一教会に対する責任を担っているこの文先生も、言いたいことを全部言いながら暮らしているのでは決してない。祈りをする時も、「天の父よ……」と祈りを始め、その後はものを言うことができず、そのまま夜を明かしてしまうことがいくらでもある。気がふさがることがあまりにも多いので、天の父に対して面目がなく、祈りができないからである。天の父に対して申し訳がないからである。

 本当の孝子とは

 ところが皆様方はあまりにもずうずうしい。自画自賛的な人がいるかと思えば、自己を宣伝するためにきゅうきゅうする人たちがいくらでもいる。困ったことだ。本当の孝子というものは何も語らず、黙々として自分の責任を全うし、そして父母の前では顔も上げられないという態度をとるものである。そうでなくては孝子となることはできない。もちろん、忠臣になれるものでもない。このようなことを真剣になって実行している統一教会を世間では異端といっている。

 しかし、このように批判し続けていって、結局は、何も言われなくなってくる時が来るであろう。その時は統一教会がぐーっと浮かび上がるのだ。それゆえに皆様は、たとえ一日の生活にしても、いいかげんにしてはならない。一日の生活を貴重なるものと考えなくてはならないのである。一日、一日をまじめに生活しながら、一歩一歩を気高く踏んで進まなくてはならない。

 孝を全うするためには、不具になってもかまわないのだ。そのような人は時が至れば、太陽のように輝くであろう。星のように明るい焦点となる時が来るであろう。このような栄光を得るためには何も言わずに、黙々として歩まなければならない。
 弁明する人になってはいけない。登れと言えば登るし、下れと言われれば下らなくてはならないのだ。我々統一教会の人たちは弁明してはいけない。自己自身の基準がはっきりとしている人は弁明する必要がないのである。皆がそういうふうになれば、統一教会は絶対に滅ぶようなことはないだろう。

 ​先生は「針」皆さんは「糸」​

 今の、我が国(韓国)の情勢は非常に緊迫している。キリスト教では、既に二〇〇〇年の前からこのような時が来ることを警告している。では、いったい誰がこの国に対する責任を負わなければならないのだろうか? それは統一教会の勇士たちがその責任を負わなければならないのだ。

 我々は今、「破れた国」という着物を縫い繕わなければならない立場であると例えてみよう。すると、この私は針であり、皆様は糸のようなものである。糸は針にくっついていなければ着物を縫うことができない。針だけいくら通っても駄目だ。で、針も重要であるけれども、糸もまた重要であるという事実を皆様は、はっきりと認識していなければならない。皆様と私が一緒になって、針と糸との関係を結び、そして破れているこの国、あるいは世界という「着物」を修繕しなくてはならない。

 もし、国家が滅んでしまえば、統一教会は行くべき所がない。そういう意味からしてでも、我々はこの国家を固守しなければならない。我々はいたずらに共産主義を恐れてはならない。我々は、我々が既に決意したところを勇敢に実践しなくてはならない。我々は何も持たない裸の立場である。しかし我々は共産主義に勝ることができる。我々統一教会の人たちが国家以上のことをするようになる時には、天が我々を保護するだろう。ここに勝敗の鍵があると私は思うのである。それで我々は勝利を眺めることのできる勇士とならなければならない。

 我々は敗者としての悲しみを味わうようになってはならない。このような角度から我々は自我を分析し、批判しなければならないと思う。そして勝利のための苦難を克服する覚悟を決める時が今なのである。常に国を憂う人は悲しい人にならざるを得ない。もし皆様の中に本心から国家を憂い、世界を心配する人がいるとすれば、大韓民国を、この先生よりももっと愛し、世界をこの先生よりも、もっと愛さなければならない。そのような皆様は決して滅びることがないだろう。

 我々は自分の責任を尽くせない人になってはいけない。ゆえに我々は、我々の責任を全うするために倍の努力を傾けなければならないのである。

 我々は滅んではならない。滅ぶことができない。現在のあらゆる難関を克服しなければいけない。全体を投入して現実を救わなければならない。もちろん、金も必要だろう。その他の物質も必要な時があるだろう。判断に困る時があるかもしれない。

 しかし我々は勇敢に前進しなくてはならない。この先生はどこへ行っても皆様のために祈るだろう。ゆえに皆様も現在を克服しなければならないのである。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.06.30 16:40:31
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