4297168 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

奇  知  外  記

PR

X

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Recent Posts

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Archives

Comments

tomy4509@ Re[1]:春日浩一さんへ 訪問ならびにコメントありがとうございま…
tomy4509@ Re[1]:聖フランシスコさんへ 前トランプ大統領とスペイン前副大統領が…
聖フランシスコ@ Re:【オンライン生中継のご案内】5回神統一世界安着のための希望前進大会(02/25)  第5回神統一世界安着のための希望前進大…

Calendar

Headline News

2021.07.21
XML
​​​​​​​​​​​​​​​「我等は何故苦労しなければならないか」

1972年9月11日
水沢里での御言


 いかなる宗教でも、苦労ということ目的に行く過程において絶対的要件となっている。何故苦労が必要か、これが問題である。
 原理で教えられるところによると、人間は堕落し、無原理段階に落ちてしまった。人間としての形は持っているんだけれど、本然の神の理想に沿うような基準から見た場合、それは原理の内容に立っている価値のものと見ることはできない。
 そういうような人間が、再び復帰の目的に戻っていくには反対の方向を辿って行かなくてはならない。反対の方向というのは結局再創造の道である。
 こう考えてみると、自分というものは、神を主体とすれば相対の立場に立つ。
 堕落しなかった場合には、主体と相対は同一な次元に於て理想を果すべき存在である。それが堕落してしまったのだから、我々は相対的立場におるんだけれど、その相対的価値、あるいは内容においては神は相対者としてて認めることはできない。

 人間創造の目的

 神は何故、人間を造るようになったか。
 第一の目的は、相対者を必要とする為である。第二の目的は、無形世界と実体世界の万物に通じるに、神自体が形を持たなければならない為である。
 そう考えて見た場合に、アダムという存在はどういうものか。結局、無形の神がアダムの形をとって、主体者として実体界に立ったものである。第三の目的は、主体と相対が一つになる愛の理想を果たさなければならない。愛の理想圏をを永遠に残す為である。
 この三つの目的を中心として人間を造るようになった。
 人間を造るには、神から見た場合に力を投入しなければはらない。創造というものは、結局主体なる神から力を加えられる、ということである。その限界というものは、相対者が完全になるまで、そこに力が加わらなければならない。そして一つになってこそ、初めて神の理想が生まれてくる。
 創造理想から見れば、神の愛というものは完成した基準において生まれるべきである。
 その完成基準まで上るには、我々原理で教えられる様に三段階過程を過しなければならない。それは成長の期間でありながら、神がエネルギーを投入する期間でもある。その力が完全に投入されて、相対者として立ったならば、そこから初めて戻ってくる。戻ってくるには、より以上の力でもって主体に向きあう力が加わらないと戻ってこれない。それが愛の力である。愛なくしては、神が投入したエネルギーが戻ってくる道が生まれてこない。
 そう考えてくると、神自体が相対者を作るということは、これは消耗する立場である。あるものを存在させるには、そこに力の投入、力を犠牲にさせなければならない。これが創造の本然の姿である。

 我等の犠牲の道

 キリスト教だから、再創造の復帰の道を辿っていく我等人間としては、その道を辿っていかなくてはならない。自分においては再創造することができない。神によって、再び理想の自分に向って投入する道を経過しなければならない。
 ここに神が再び力を投入したという立場に立たなければならないのだから、そこに犠牲という道が生まれてくる。相対者を造るということは、結局、犠牲の道の始まりである。
 それが原理の本源の基準になっているから、理想世界、あるいは完成の人間を求めていく宗教においては、苦労の道を行かなければならない。自分を中心として、現実のそのものを犠牲にしていかなければならない。その犠牲の度合によって、神の本性が復帰される。いわゆる再創造の道を、自分なりに開拓していかなけらばならないのが堕落の結果我々の立場である。だから宗教に於ては苦労・苦行の道を辿って行かなくてはならない。それが根本になっている。
 発展の段階を見た場合、神はそもそも、実体界を造る前に天使界を造った。その天使界は、実体者としての理想を授けるところではない。それは目的に向って過程を通過する期間と同じである。それが、神を中心として、天使と、一つになって、実体の相対圏を造り出したのが、それが万物世界である。
 そして天使と神が一つになって人間を造った。神が霊的基準において相対圏を求めて創ったのが天使界で、実体者である人間が、神に向って何の超感覚を受け、価値の刺激を与える立場ではない。その道がないから、中間的天使界を通して、人間を創造する過程において刺激されたいとして、天使を相対の立場に立たせて、あるいは讃美の立場に立たせ、あるいは相談する立場に立たせて人間を造った。
 天使は、人間が造られていく段階ごとに相対的な感謝とか、刺激を神に与えることによって人間を造る過程の喜びを得ることができる。
 自分なり消耗の立場に立っておりながら、天使長の神に対する讃美、あるいは慰めの刺激、喜びの条件を神に刺激させ、人間を造る過程において喜びを得るようになっていた。
 こういうふうにして、天使と共に人間を造った。そうすれば、人間というものは、天使的価値・目的を完成させるような立場に立たなければならない。あるいは神の目的を叶えるような二重の価値の甚準に立ったのが人間である。だから、神は人間を目的としている。天使長は人間に対して希望を持って援助してやる。
 こう見れば、アダムという存在は、天使長の理想の完成者にならなければならない。そしてアダムというものは、神の理想の完成者にならなければならない。
 それでは、何故、エバを造ったか。
 神と天使長、あるいは神とアダム、こう見れば、一対一の立場に於いて縦的関係である。上下関係である。それは一点にとゞまる。天使長が中心点に立った所は、神も立たなければならない。
 何故、相対圏を必要とするか。といえば、共に横的基準を広める、中心を中心として相対圏を求める、相対圏は面積が必要である。ここにおいて横的な基準が造られる。縦的な関係を横的に適用しよう。それが創造の目的である。
 もしも、神と天使長、神とアダムという立場から見た場合には、全て完成した場合に、中心点は一つにとゞまる。その縦的一点を横的に広める為にエバを造った。
 だから縦的の愛が横的の愛に展開される。
 アダムという存在は天使長の目的完成の位置に立つものである。神の理想の中心者として立つものである。だから、天使長の目的と神の目的を共に完成した位置に立つものがアダムである。
 そのアダムという立場を、縦的の神の愛を刺激的な二重相対者として横的に立たせたのものがエバである。それが再び一つになった場合には、縦的な愛の力が横的につながることができる。だから、そういう立場を堕落のために成し得なかったのだから、この立場を再び復帰してくるのが、今までの歴史の摂理である。
 まず、天使界を神が創造したと同じように、天使的な使命を完成させなければならない。その次にアダムの目的完成がある。アダムというものは、神の相対者の立場に立つべきで、神の理想の完成者として立ったならば、そこにおいて、縦的の愛の理想が横的に展開される、それが創造の相対世界である。神を中心とした天国である。

 エバの創造

 あなたたちにおきましては、父母を中心とすれば、子供も縦的関係になっている。もしも親がない場合には、横的な立場においての相対圏が生まれて来ない。だから、親につながる愛のその実感を横的に共に適用される環境を持つことによって、相対圏の理想圏が成り立つ。
 だから縦的に一つになった後には必ず、横的に一つになる道がある。縦を主体とすれば横は相対圏である。
 それを神を中心としての愛を中心としてつながせたいとして求めてきたのが、アダム・エバの創造である。
 だから縦的の愛を横的に広げる為に相対者を造らだるを得ないのである。
 もしもエバがなかった場合には、人間は神ばかの縦的理想にとゞまり、天使界と同じ立場になってしまう。実体世界ではない。
 実体世界は横的理想をつなげる為に、絶対造らなければならない。その横的の代表者として立つべきなのが、エバという存在である。
 アダム・エバが一つになった場合には、共に相対となり、また主体・相対関係になる。一つになった基準から見た場合には、神は縦的な主体者になる。だから縦横共に、その愛の中間機関として連絡させることができる。ここにおいて霊的理想と実体的理想が生まれてくる。だから、我々人間においてアダムの前にエバがなければならない。これが横的に一つになると、自然と縦的に一つになるようになっている。
 アダムが完成したとするならば、神が力を投入したその力が、マイナスになるのではなくして、相対者として神に向うアダムの理想が、神に引きつけられる、神を求めるそういう力の作用になるから、結局、神が投入したより以上の力となって戻っていくことができる。そして神を刺激することができる。その刺激の力の基準がいわゆる、愛というものである。愛なくして戻っていくことができない。戻っていく愛によって、神自体が投ゥしたより以上の強い愛として神に戻っていくのだから、そこにおいて初めて神は喜びを感じることができる。
 親が子供を愛する。愛の道は犠牲が基台になっている。愛する者に対しては犠牲をしても、何の苦しみも感じない。何故かといえば、子供を愛するんだから、愛の心情がその中に秘められているから、いくら力を投入しても愛によって再び力が戻って刺激となる。力を投入すればする程、十の力を投入したとすれば、子供がそれ以上の姿だけとって立っても、親はそこに喜びを感じる。苦しみを乗り越える力の刺激を受けて喜ぶようになる。
 男女でも、愛する者に対しては犠牲をしても、自分の命をかけても喜びを感じて、愛すればこそ無限に投入しても、無限に喜びを感じることができる。愛というものは自分の創造したより強い力として神に戻って、刺激となるから喜びを感じるようになる。
 犠牲自体から考えてみれば、これは消耗である。マイナスである。マイナスになりながら、いかにして喜びを感じるようになるや。現実の平面的立場から見た場合に、絶対そんなことはあり得ない。しかし、愛あればこそこれは可能である。
 何故神は愛を投入するようになったか。愛がなければ帰ってこない。共に愛するところには、共に犠牲の力を投入したより以上の力でもって、授受作用を永続させることができる。
 だから永遠というものは、愛なくして成立できない、という結論になる。だから神は愛なり、と言えるのだ。
 力の作用から見た場合には、力学の立場から言えば、出力は入力より大きいという法則はない。しかしマイナスになった場合には神のもとに帰ることができない。入力より出力が大きいところに理想がある。

 愛の背後は犠牲

 だから、本当の親子、本当の夫婦、本当の兄弟関係が成り立つには、犠牲なる愛の目的の立場に立たなければ、本当という名前が成立できない、という結論になる。
 もしも子供から考えた場合、自分の親が本当に自分を愛する、というのは、本当に犠牲になって愛している立場をいう。犠牲になった親は悲しい立場である。しかし、子供がそれを完全に理解して、それに自分の愛をプラスさせて親に帰してやれば、親は犠牲になったより以上、喜びというんだね。
 だから本当の夫婦というものは、共に犠牲をして、相対者と共に行くような立場に立てば、永続的に犠牲の力に加わって愛というものが元帰される。だから夫婦というものはそれ以上の苦しみで結ばれたら永遠に一つになれる。
 本当の友達というのは、自分の為に全て犠牲になるものである。
 結局、愛というものが位置をとって立つには、本当に犠牲になり授けてやる立場に立って成立するものである。
 だから愛の背後には犠牲が伴う。
 今までの神は人間を本当に愛せなかった。堕落したのだから、完成されるまで力の投入をまだ神が完全にしていないから愛することができない。
 愛というものを本当に願うものがあったならば、神と同じ立場に立って神自体が愛の相対者を完全に完成するには、完成されるまで全てを投入する。子供が成長して、結婚するまで親は一切を投入する。全てに犠牲し、親に対する心情圏を判るまで投入しなければならない。そして心情圏がわかり、親孝行する立場に立つようになれば、犠牲した全てを忘れて親は喜びを感じるようになる。それが愛の道である。
 愛の目的を完成する道においては、原理原則から見た場合に、神の立場から考えた場合に、犠牲ということを我々も通らなければ完成基準をたすことは絶対不可能である。
 堕落した人間は、自分自体では力の投入ができないから、完成するまで力を投入し得なかった神の基準を、自分を通して理想の自分を再創造させていこうと、神を背負い、働きかけて、自分の完成をなしていくのが復帰の道である。

 一人のアダムを求めた歴史

 神から見た場合、天使長・アダム・そして愛の理想の基準を求めて創造してきたのだから、我々復帰路程において、再創造の原理を通して行かなければならない立場から考えてみた場合我々人間は、まずもって天使長圏を復帰しなければならない。
 信仰というものは、相対者がはっきりしていないものだ。相対圏がはっきりしていれば、これは信仰ではない。だからこれは何を意味するかというと、信仰を持つというのは無形実体圏を求める立場が信仰圏である。信仰は理想の実体がはっきりしていないというんだね。それを求めつつ行くところが天使長圏である。過程圏においた立場が天使長圏だから、その過程を通過する期間において、我々信仰生活が必要である。
 信仰生活の行くべき道は、天使長が行くべき道の過程を我々は歴史を通して辿って行かなければならない。
 復帰原理から見た場合に、僕の僕時代から僕時代に上ってくるんだね。再創造の道だよ。僕の時代から養子圏を通して、実子圏を通して、本然の完成基準を通して、理想的な愛を横的な世界において求めていくのがアダム・エバ、イエス様を中心として新郎・新婦の理想である。
 その完成まで行くには、天使長過程、アダム完成を通し、縦的な神の愛を受けることによって、横的な出発がなされる。だから今までの歴史は、結局、アダム一人を完成させ、神の相対の位置に立たせて、神を迎え、完成された愛を満たすことによってその愛がアダムと一つになっているから、横的な中心者に立つのが新郎である。中心者の前に相対的に立つのが新婦である。これが一つになったとすれば、神とアダムが一つになり、アダムとエバが一つになり、神とアダムとエバが一つになれる。そこにおいて、愛によって縦横が完全に統一される。
 だから四方八方、どこに行っても喜びの立場である。その環境を我々は天国という。
 
ここを願った神の御中心が堕落のために破られてしまったのだから、それを再創造する。
 ここにおいて問題になるのは、サタンの存在である。天使長圏が完成されれば、サタンというものはなくなってしまわなければならない。天使長のイエス様は天使長によってなされるのではない。アダム完成によってなされるのである。
 だから、アダムが完成した場合には、天使長理想が完成されると共に、サタンという存在位置はこの天宙になくなってしまう。
 天使長が未完成圏にいるのだから、未完成のサタンもいることができる。完成された場合には、残ることができない。サタンは完全に退けられる。だから、アダム完成が最後の問題である。
 神は、だから今までアダムを完成させる為にやって来た。これがメシヤである。
 堕落した人間が再び神のもとに帰るには、天使長のところを通過していかなければならない。天使長は僕である。僕を主人として迎えて行かなければならないから、僕の僕となる。
 僕の僕として立ち帰ろうとすれば、サタンというものは偽りの主人である。僕としての最高の理想は何か、と言えば、最高の主人を迎えることである。最高の主人は誰か、と言えば、自分の為にやってくれる主人を求めなければならない。
 堕落は、自分を中心として神の理想を奪い取ろうとした。神の理想は愛である。その愛を自分に引きつけようとしたのが堕落である。
 だから自分を愛する、という条件を満すところには、絶対復帰の道は生まれて来ない。

 不平不満は許されない

 神は我々に何故服従を要求するか。それは神自体が喜ぶ為ではない。我々人間を喜ばせるためである。神の理想相対圏に立たせて、再創造の目的を完成させることによって、堕落した要因を逆に押し除けて、乗り越える立場でなければならない。堕落はそもそも服従しないところから始ったのだから、それを元帰す為には、絶対必要な要件として、絶対服従せよ、と命令せざるを得ませ。だから完教においては文句を言えません。弁明がいえません。絶対服従である。こういう結論になります。
 絶対服従は、それは苦労である。苦労の目的は、結局は、神の完成本然の位置から、完成される立場にまで立った条件として認められる。だから苦労を犠牲をなしていけば、我々は完成圏に立つ。それ以外に道がないからその道を満たし、完教は相応した苦労の道を強調せざるを得ない、ということを理論的に整理しておかなければならない。
 堕落の道を乗り越えるには、絶対服従の道以外ない。だから神は、仕方なしにこの道を求めざるを得ない。
 復帰の道においては不平不満は絶対禁物である。許されない。
 絶対犠牲なる道で、泣き泣き行くとしたらどうなるか。絶対服従しながらも、希望満ちて喜んで行かなければならない。何故、そういう道を行かなければなないか。それは再創造の道であるから、希望の道を今行きつつある立場だから喜ばざるを得ない。信仰の道は落胆を感じながら行く道ではありません。
 だから犠牲と苦労は、全てを授ける器になるというんだね。
 
だから完教の中で、歴史が愛する完教は何か、と見た場合、命を捧げきって。歴史過程を通過した完教は、世界のすべてを愛することができる。
 キリスト教は殉教の完教である。血を流して世界に発展してきた完教である。だからキリスト教は宗教を中心として見た場合、神の前に一番の親孝行をした立場にある。だから、神様がいれば、キリスト教を中心として、世界が治まらなければならないという結論になる。
 だから、愛の心を持って、いかに長い間犠牲しながらやっていくか、ということが自分の勝敗を決める内容になってくる。
 しかし、本当の親である神であるならば、神がそういう苦労を子供にさせて喜ぶ立場であるか、辛い立場であろうか。この世の堕落した親子関係から考えみた場合にも、自分の子供に苦労させたい親は、絶対一人もいません。
 しかし、神は何故、こういう苦労の道を人間にさせるか。こういう摂理の御旨を率いていかなければならない神の立場はいかばかり辛いであろうか。神の立場を考えて見た場合、いかにかわいそうな神であろうか。我々、いかに苦労すると言っても、一生以外にはない。地上生活は一世紀以内の生涯である。
 だから、神に対して今日一日の励ましのものを授けてやるのが孝の道であり、忠の道である。ここにおいて、自分ながの不平・不満を言うものは天宙的に許されない不幸者である。

 悲惨な神の立場

 現実の自分と神様と因縁を結んで、これを永続させ、引っぱっていこうとすると、サタンが中間にいて、いつもその橋を爆破してしまうようなことを酬日やっている。それが誰が防備するか。誰も知らない。たゞ、知っている神、知っている霊界、再創造しなければならない天使長の助けの環境にいる者たちが援助しあって、復帰の目的に向って行かなければならないその神様と天使界というものは悲惨である。
 完成するまでの期間が長ければ長いほど、神というものは、言うに言えわれない悲惨な立場に立つ。
 もしも、あなたたちが神様の立場に立ったならばどうするだろう。我々、いくら苦労するといっても、一生涯何年にしかならない。
 統一教会に入って苦労したといっても、何年位になるの?長い者でも十何年にしかならない。十年にもならない者が沢山いるじゃないか。十年にもならないにの辛いとか苦しいとか、こういう姿はもう話にならない。
 我々は天宙的な借金を負って、弁証する道を見い出せないような、悲惨な運命を持って者が堕落人間である。それが、顔を上げて、神様に不平を言うとは夢にも思われないような立場である。
 この様な神の立場を知っている我々としては、親に対し親孝行しなければならない。親の最大の苦しみを自分が全て引き受けようとする者があればあるほど、親孝行の最大の者になれる、というんだね。

 メシヤの犠牲

 アベルはどういう者か、といえば、再創造過程を通過する立場であると共に、再創造させる神の立場に心情的に立つものがアベルどある。苦労の道を辿り、神の心情で再び創り変た勝利的圏を持つことによって、神の愛の相対圏、いわゆるカイン圏を神に帰すことができる。だから愛の心情でカインを屈服させなければならない。それは横的においてアベルは神様の立場である。カインを、神が堕藻人間を見るように、愛の心を持ち続け、その一人を復帰する為に命をかけて立つところがアベルである。アベルの道は犠牲の道である。これをなすことによって、地上に神の愛が実現されるという条件として生まれてくるんだね。そこにおいては、全てが頭を下げなければならない。命を捧げた者にはいかなる者も頭が下がる。
 それで、アベルの歴史は血を流す歴史になってきた。それが聖書の根本思想である。
 こういう風な立場に辿りながら、歴史的摂理をなしている神様は、いかにかわいそうであるか。
 自分が全世界全てを責任を持って、神様お休ゝ下かさい、自分に全ての十字架、全ての蕩減の道をまかせて下さい、というのがメシヤの立場だよ。だから、イエス様は、ゲッセマネの祈りにおいて、自分の思いでなく神のみこころのままになしたまえ、と最後の祈りまで成し得たというのは何かというと、全ての十字架を自分に任せて、神を休ませたいという立場がメシヤの使命感である。霊界・地界わあるいは神の心情界において、神に苦しみあった場合には全てを自分に背負わせてもらいたいというのがメシヤの使命感である。
 苦しいとしても、それは一生だ。長くて百年に過ぎない。この期間を克服することができないというのは、それは話にならない。
 いくらやっても神に申し訳ない。自分が自分を誇るという思いなどいくら研究しても見出すことができないのが我々堕落人間の信仰の道である。

 自分を完全に否認せよ

 だから堕落とは何か、と言えば、自分を中心として全てをくらべあわせた。そしてその結果は「不満」である。そして行動の道・反発に行くというのである。だから不満というのは信仰者には許されない。
 信仰生活に入ったならば、自分の自覚を否認してしまえ。対照比較をするな。ペテロなどもそうだね。十字架につくことがイエス様から言われると、あのヨハネはどうかとイエス様に言った。その者の生きてもどうでもいいじゃないか。
 比較対照しだすというと不満が生まれてくる。その目玉は何かというとサタンの目玉である。天使長の血統を受けついだそのままの目玉だよ。 だから、みんな取り消してしまえ。神を中心として完全否認されることによって、即ち完全に審いてしまった、という結果になるよ。完全に精算し営しまった、というのは完全に蕩減してしまったという結果になるよ。完全に蕩減したんだから、再創造される道ができる。
 宗教の本質はこの様な基準から、いろいろな経典という結果的歴史において書かれているのだから、本質を知らない立場においてそれをなしていくにはこれはたまりきれない。現実に苦しい。理論的に整理されていない。これではやっていけない。
 
そういうことを思えば、神のために悲惨な犠牲をなしたならば、時来たるならばそれ以上の価値圏に立たせる。祭物に対しては、神自体も頭を下げる。だからその条件によって、神もサタンも頭を下げるという結果になる。
 完全否認より完全再創造が可能である。だから、信仰生活においては文句は言うな。
 あんたたちは、「もうできない」という。できるかできないかは死ぬまでやってみてから結論すべきことだよ。
 不平を言うのは、神をせめることだ。恩返ししなければならない人間の立場であるにもかかわらず、神に対してそういうことを言われる立場には絶対に立つことができないのが我々人間である。
 先生の今までの生涯がそうだよ。獄中に入れられても、拷問で血をはき出すような立場に立っても不平を言う男にはなれません。世界全てが反対しても、サタン圏と緑が切れる、と思えばありだたいものだよ。恩讐圏がある場合には、一周するまで反対されるのが当然の道だよ。
 不平を言うな。感謝せよ。黙々と行かなければならない。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​






Last updated  2021.07.21 01:31:10
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.