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奇   知   外   記

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2021.07.21
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​​​​​​​​「今を守れ!」

1972年11月22日
松濤本部で


 あなた達は日本の現状がこれからどういう運勢圏にたずさわっていくかということがわからない。日本の運勢も知らなければ、自分はどういう運命の道をいくか知らない。そういうふうに考えて見た場合には、一生の問題もわからない。一年の問題もわからない。一日のこともわからない。つきつめてみると一日の運命もわからない。
 こう考えてみたら危ぶなくて危ぶなくてしようがない。そう考えて見た場合、果して、「今」という時間を、自分の時間だと信頼できない。はっきり知識の基台に立って、自分が主体になって、相対関係を結ぶ価値観を得た立場でいう「今」じゃない。自分自身が信頼できない圏内に立っているのが我々人生の道である。世界がそうであり、国がそうであり、氏族、家庭、あるいは自分の生涯、自分の一日がそうである。
 一日は長い。二十四時間ある。一時間がそうである。六十分も長い。一分は六十秒、結局、一秒が自分の勝敗を決する運命を運んでくるとは誰も思わない。
 勝敗の頂点は、一体どこにあるや、という問題をつきつめたならば、頂点たるものは国ではありません。あるいは氏族でもありません。自分の生涯でもありません。一日、二十四時間でもありません。それは一秒、瞬間、見えるか見えないか、その瞬間、期間内に自分の運命が預けられる。それは境目が交叉する。その交叉点に自分が立って、それをわきまえて、はっきりそれをたずさえていく者はいるや?
 なさけない人間だね。頼りない人間だよ。それによって自分は今、世界的であり、何か、自分を尊重せよ、とかいうその足場を考えて見た場合、それは悲惨なものだよ。そういうような群像が人間であり、何か個人であり、これがいかに卑しいものであるか、いかに無価値なものであるか、いかにかわいそうなものであるか。
 その一瞬、一秒、一分、の勝利圏、一分、一時間の勝利圏、一日の勝利圏、一月の勝利圏、一年の勝利圏、一代の勝利圏、氏族の勝利圏、民族・国家の勝利圏、世界の勝利圏、天宙的な勝利圏まで拡大させ得たその圏内に、住まれるべきそのお方が神様である。そう思った場合には神様は実にかわいそうな神様である。全能なる勝利圏を基台として立つべき神様であるということを思ってみた場合には、我を信頼せざるを得ない神様の立場はいかにかわいそうであるか。
 いつ世界的な天宙的な勝利の一瞬を守って、その一瞬のその絶頂に立って、天宙とともに注目し、心情全てが交流するような中心に立って、神の子女として自覚した、あるいは勝利をなし得た実体を神に捧げた時あるや。
 今十二時の鐘が鳴った。それ本当に十二時がわからないんだよ。数万の時計があるんだよ。本当の十二時を教えたのは一つしかない。全世界に広めていった場合には、天宙まさしく最高の十二時を合わせたのは一つしかない。そういうふうな立場から見て、そういう基準とつながる完全なる善というものは絶対地上にあり得るや。それは絶対あり得ない。
 だから神の復帰摂理ということを思ってみた場合には、ああ、神は、完全理想圏というものは、まけてまけて、おまけをつけたような、そういうような立場に立っているそのお方が神である。そういう結果的な神様に我々が侍るという時代には、それは不可能な答だ。それを理想として、地上に求めて来られた神様の数千年の歴史を思い出してみた場合には、実に神様はかわいそうだ。

 「一瞬」の勝利から全てが出発する

 まあ、そうみた場合に永遠の勝利圏は我々が生涯に求めても返してあげることはできないのであります。一瞬だ。一瞬だけでも勝利の基台を神に返す道あるなら、それを生涯かけて完成していく、万民代表してその一瞬を捧げる道あったとしたら、我は敗者でも、その基準に於て誰よりもすばらしい勝利した一瞬ではないか。その一瞬は無限の価値を基準に立つことができる。だから、そういうふうにみた場合には、価値観というものは、長期の勝利の基準が、それが望みの的であるんだけれどもそれは長い勝利基台とともに一瞬の基台を失った場合にはそれがむずかしいものだ。
 だからいかに一瞬を、我々が守り、その一瞬に勝利の基台を獲得し、自覚を本心ともに生涯の位置を固めていくかということは、これは神を中心とした全能な神の勝利圏を求めておるその神を思ってみた場合には、我々はその基台からこれを守って勝利の基台をさぐらなければならない。
 だから、足をこういうふうに踏み出す一瞬、その時が自分の生涯全ての解決する一瞬であるかも知れない。生涯一度だけあるべきそういう一瞬の時が足を踏み出すその瞬間にそれは自分に辿って来たかも知れない。だからそういうふうに思った場合にはその一瞬の足を踏む時間というものは、これは生涯かけて大切なよのだ。町を歩く時、手を前に出すその瞬間、その瞬間、さっと立つ時、この瞬間かも知れない。この一瞬をつかまえるような、真の誠意でもって迎える。友達同志で話しかけるその瞬間、その瞬間を、その一瞬の生涯をかけて勝利の基準を願う自分に、それは神から授けられたその瞬間になるかもしれない。あるいは寝る時間が、あるいは起きる瞬間が、このように思ってみた場合には寝ることもできなければ、行くこともできない。着ることもできなければ、食べることもできない。全てこの瞬間の位置を守らなければならない自分を見出すに違いない。たゞの一分だにゆるむような放心することはできない。そういうような強固たる心情の立場に立つ前行くも下行くも絶対的な瞬間の位置にはさまっている自分を思わざるを得ない。
 そこに立ってこの一瞬に勝利しなければならない。この一瞬を迎える、その一瞬からみた場合には、足からや、目からや、手からや、耳かやら口からや、どこからやとみた場合には、我々の本心の思いでそれを迎えればいい。それは本心の思いで固着した自分の一瞬を守り得る自分かといえばそうでもない。悲しみを感じなければならない。
 だから一瞬の生命はわからない。だから十字軍の団員がマイクロバスに乗って行くその右の足から出て行くその瞬間かも知れない。そういうようなことを思うよ。だから安らかな時にはそういうような価値は薄い。辛ければ辛いその瞬間には、高まれば高いその絶頂を迎えて、神は愛するその子女の一瞬の時間を迎える。
 十字架につけられる最後の一瞬、イエス様の場合は、「天の父よ、なぜ私を捨てたもうや、」と叫んだ。最後の一瞬、見向きもされない立場べそういう全てを忘れてしまうような立場で、立ち帰る一瞬、イエス様の生涯に一時しかなかったその一瞬、天のお父様、なぜわ自分を捨てたもうや、そういうこと言っている場合じゃない。
 もしその一瞬を生涯を通して求めて来たぱたとするならば、この一瞬までに願い求めた全てを成す、そういうことを言うべきにも拘らず、天に対して「なぜ捨てたもうや」というようなことを言ったというのは果してイエス様が勝利かどうか考えてみることだと思われるよ。
 だからそうなった場合には、我生涯の路程に於てもしも人間は自分というものは嬉しい時間であり、それから悲しい時間であり、それから辛い時間だね。
 韓国の言葉には、嬉しくたって死にたい。気持悪くて死にたい。苦しくて死にたい。皆な死にたい。死にたいという言葉で結末をつける。みんな死にたいという言葉で結論する。それをていると、民族の言葉である。世界的にそういう言葉を使う民族は、韓国民族である。だから世界的に蕩減を抱えた民族だというのである。こうでもああでも死ななければならないという道を、喜びででも死ぬという、辛い時でも通じるし、悲しい時でも通じるし、喜びの時でも通じるし、それはまあ一理ある。

 辛い「瞬間」を耐える決意

 こう考えてみた場合に我々一瞬がいつ、もしも神様が一番悲しい一瞬のイエス様が我々にかかった場合どうする。自分は悲しくても神の喜びの相対に位置によって迎える自分の立場にもかかわらず、自分は辛い、悲しい心情であるというのは神にそれは無礼である。
 あるいはたまりきれないその辛さに於て、どん底に於て、どうしようもぬき出る道がない、さし迫ったその立場に於て、何の授けようもない絶頂に立っていた時に、その時神様によく祈ったらその一瞬だったとしても通じる。
 だから信仰する者は、喜びの時には最高の悲しみの一点を迎える準備をしなければならない。最高の悲しい時には、最高の喜びを迎える内心の準備をしておかなければならない。最高の辛い時には最高の忍耐力を高めて、神の絶対的基台になり得るというような内心に決意を固めておかなけばならない。だから今、泣いている時であっても、神喜ぶ瞬間であれば、満面の喜びで迎えるような心の準備をしなければならない。喜びの立場に立ったとしても、それは辛い、その悲しみを感じるような、そういう極に通じる内外、それは相違う、そういう立場を考えなければならない。なぜかというと復帰の路程に立っている場合には、神様の立場と我々は反対になっている。いつも反対に引き返す、そういう準備をしておかなければ、神の絶対的勝利の一瞬を担うその足場を生涯を通して向い合う、成しあうことはできない。だから問題は、今日が問題である。一瞬が問題である。だから一瞬の延長を拡大て、一日一日を自分のに治めておこう。その一日一日を積み重ねて一月を自分の方に治めよう。その一月を重ねつ、その一日を自分の勝利の基準としてそれを迎えたい。
 そうしてみたら七二年は、もうすぎている。あと四十十何日で、もう七二年というのは永遠に去っていく。これが問題だよ。それだから来年七三年も神の方に治めている道になってきた。それをみた場合、それこそ一年の勝利的基台に立ったならばそれこそは世界にない十字架の道、いばらの道を、これを踏み越えるような辛い道ではないか。そう思った場合には悲しい。いくら悲しくてもこれは自分がそれをのり越えなければ神が何十回も同じ訓練をしなければならない、ということも考えられることがわかった場合には、瞬時瞬時の勝利をなし得ないで神の前に失敗した場合には、神を何回、何十回もはね返ししてしまう結果になるのだからそれを思った場合、十字架の道であり、いばらの道である。そうであっても全部喜びで消化して、神の為に一瞬の勝利の基台を引き継ぐ為に、そしてそれをのり越える自分になっていく。そういう一念を治めて、神に対して何か捧げるものが神に対して神自体の勝利の一日として、その用いられて、神の摂理に、歴史にこれを讃えるような一日となったならばこれは天宙に於てそういう道を、自分の生涯全てを犠牲にしてもそれは許されたら、それは夜も昼もなしに得たいというのは、それは自分の本心に願いであり、自分の実体の願いである。だから堂々と行け。自分ながらの願いとしてこう考えてみた場合にはあなた達は今、どういう立場に立っているか、どういう立場にいるか。そういう一年の勝利圏を、瞬間の勝利基台を獲得して一年の勝利圏を神の前に捧げて、神の七二年の、世界復帰の辛さがあろうけれどもその辛さを、私の七二年の勝利基台をうち立てんとし、これを七二年の絶対的勝利の基台として立たせてもらいたいという思いでもって七二年を過ごしたことあるや。

 一切を捧げても未練をもつな

 統一教会に於て皆さんは十二年とか十年とかいう歴史を通して来た。それをずーとふり返ってみた場合とんでもない。上ったり下ったり、それは進んでいけばいいのだけれども、後退したり、ぶつぶつ言ったり、蹴とばしたり、非常な被害を蒙らせながらようやく辿りついたけれどもその内容はめちゃくちゃになっている。そうみた場合、自分は蕩減復帰の道に先頭に立っている統一教会の食口だとそれでもいう者は話にならない。
 そういうことを考えてみた場合には自分が勝利の「瞬間」を拡大したそういう基台を迎えることができなければ永遠なる勝利の天国の世界は自分には遠いじゃないか。永遠なる天国の世界が遠ければ神はそれ故に自分を霊界に連れて行かねばならない立場に神はいかばかりかわいそうなものであるか。そう思う時に顔を上げることもできない。そう内心に思いつつ、自分のその姿が消え去ってしまうように思うそういう者にならなければならない。
 一切を捧げても末練がない者になろう。そういうような目玉、そういうような鼻、そういうような耳、ういうような手足、そういうような心をもって、果して自分を中心として弁明しあう、そんなことがあり得るか。それは自分の利益のために見つめる目玉であり、得るか。人と話す口などあり得るか。深刻な問題である。だから霊界は最高の深刻な勝利圏を成し得た本郷の地である。神様の前に立つべき自分の立場というものがいかになければならないか。自分に一生涯涙を流して、悔い改めをして歩かざるを得ないという悲惨なものである。だから自分なりに何の文句がありや。自分なりの辛いとか、何とかそういう感じがあるや。一切無の姿になって神のみ旨に迎え入れられるそういう言葉だけでも感謝である。それは自分の存在ではない。牢屋に入れられて拷問され、消えてしまってもそれがかえって神の取れる条件になる、というふうに思わなければならない。
 不平とか不満とか一言もありません。この口は今まで堕落の要因を成していった、これは、恨みを残したその口、そういうものは絶対いけない。むしろ、一生語らずして、言葉を語らずして生涯を終えてもそれがかえっていいじゃないか。

 「今」を勝利しなければ永遠の敗北

 だから「瞬間」を守れ。「今」を守れ。神様は遠くにあるのではありません。今、今を喜ぶ神を迎えられないものは永遠に喜ぶ神を迎えることができません。今、勝利の神を迎えないものは永遠に勝利は我々に遠い。今が問題だ。今を無視する者は永遠の勝利の神の世界を無視するものである。今の瞬間というものは永遠を判決するその支点だ。そういうような、毎日の瞬間が続いていく人生航路の道に立っている。そう思った場合真剣に生きる。一挙手一投足これは実に生命がけである。
 こういうように考えてみた場合、自分の一瞬を拡大して一生の勝利を、その上に家庭勝利を立てなければならない神の摂理。その勝利の上に氏族勝利を立てなければならない神の摂理。その氏族の上に国家の勝利を立てなければならない神の摂理。国の上に世界の勝利を立てなければならない神の摂理。世界の上に天宙を復帰しなければならない神の摂理。の摂理を望んでいる神はいかばかりかわいそうであるか。
 まあ、そういうことを思ったら、どんなに万民にいじめられたとしても、瞬間瞬間に神をなぐさめる勝利の一日、一瞬、それであって一番希望の明るさを感じさせてやらなければならない。闇の歴史の中に一瞬でも神の心に照して行くものがあったら駅それが望ましい。そういう生涯の一瞬がどれほどあったかが問題だよ。そういうような電気がショートしてスパークするようにそれが消えないで光り輝くことが一生続く。神はそれをはしごとして永遠に往来する。
 この日本に於てそういう道を誰が行くや。その瞬間の勝利の基台をいかにして神は歴史上に維持させていくかということが問題だよ。だから喜びの道では絶対不可能だから悲しい道に於て誰も反対できない立場に於て迎え入れる神の摂理の道である。だから一人も同情しないで、消えていく一瞬に神に向いあうそういう生命を中心としてつながせて、そういう外的因緑の勝利圏を拡大して、れが勝利の一瞬、外的勝利圏の拡大の条件として積み重ねて来たのが今、宗教圏の神の摂理なんだよ。そこで数多くの者がみじめな犠牲になって、たぱた一人、自分と神の中にうち依破るその瞬間以外に道はないというんだね。そう考えてみた場合には、この灰史を通しての闘いである。
 だから一人の人格完成ということを今まで我々復帰歴史から思ってみた場合に、六千年の歴史は何の歴史であったか。アダム完成だ。これはまあ聖書の歴史は六千年だが、科学から見れば、八十万年、百万年を数えるんだね。そういう長い歴史を今まで神は犠牲の道を歩つつ、結局は審判の道に於て勝利一点を求めて来たのが神じゃないか。今の時代に於て国と世界を乗り切れず勝利的瞬間を求め来たことを思った時には、これは夢か何か知らない。思いだにできない。一瞬の勝利の基台を持っていない我々として、国家的勝利的基準に今、立ち得ることになっていたことは夢にも思われない。そういうような時代の神の両極点に立ったという。だから今ののこ道が歴史に残して、相次いで我々に授けられたその一瞬の先を、これを後退の先として進めるか、それとも伸ばしていくかということは、我々の努力如何によって決まってしまう。その時代はもう来ません。今の瞬間の勝利の基準を集めて、その基台を如何にして大きくなせるかは、我々に課せられた使命である。

 全てを感謝して行こう

 だからそれを、ふり返ってみた場に、感謝、いかばかり感謝しなければならないか。感謝の思いもつかないような感謝の立場である。この全てがこの一点に支えられて、そういうような立場に立った現世の一日、あるいは一年、お生涯を迎えた時のこれは天宙的な立場である。だから歴史をふり返ってみると、我生涯かけて悲しい歴史のその全てを我でうち切って喜ばしい希望を仰ぐその立場に於て、新しい歴史を出発するのが我々の立場じゃないか。
 日本でもこの今を迎える為に数多くの善人達が犠牲になってきた。
 一年、一日がやがて行く時代に我々が勝利基準を迎えたと思ってみた時には、その一生とかじゃない。永遠の勝利の生涯を迎えたような自分個人である。この一日を我々は失うことは絶対できない。この一年を神様が嘆き悲しむ。遅らしてしまう一日であってはならない。それがもしも一和なら一年という過去をふり返った場合に、そういう神の真剣な、緊張なその神に向けて自分の立場がそれに追いつけななかったということを思いまする時、何百回、何十回死にきれない。そういう辛い思いに打たれた経験もあるから今はもう絶対死んでも、そういう悲しい立場に、悲しい境地に陥ってはいけません。
 だから自分の一瞬に日本の運命がかかっている。自分の一歩も、動かす方向によって日本の将来が左右される。
 そういう中心的な立場に立っているのが我々統一教会の食口達だ。摂理上からみた方向と日本の国の行く方向をみた場合、ありったけの力をもって、この一瞬を逃がしてはいけない。この一瞬を逃がしてはいけない。七四年まで総動員して、今の時間をこれを死守しなければならない。それが我々の使命である。そういう立場からみた場合に、我々の地区長、団長の決意、心情的態度、各自が瞬間の闘争に敗北者になってはいけない。自分をむやみやに費したそういうような立場は許されない。若い青春をむやみに送るような者にならずして、尊い青春を守らねばならない。力強く、そして高らかに、皆なから讃えられるように、人格の価値を表わす時として守らなければならない。今は我々の若い時期じゃないか。
 そういうような守られたる青春の基台の上に青年時代をどう送るか。その時、もしも勝利の基台を成し得たとするならば、何十倍の孝の道、忠の道がなるだろう。
 「今」を守れ、「今」という時を守って日本が神に負債させてはいけない。そのためにはまずもって自分個人個人に於て負債となる者ではいけません。全てやることに対して嫌だとか、辛いとか思うのでは神に対して面ぼくが立ちません。神は実にかわいそうである。瞬時とも神に対して勝利の基台を、世界復のその基礎をなさなければならない我々自身の立場であるそういうふうにしてあなた達は行かなければならない。必ず神は同情せざるを得ない。だから瞬時を守れ。だから今を守れ。特に一生涯のうちに、華々しい歴史を造る青年時代に、今日の価値ある一日を守れ。忠孝で守らなければならない。その生涯の絶頂を越えるような、決する瞬間であるかも知れない。だから、寝る時でも、起きる時でも、そういう意識で行かねばならない。

 一つになって勝利しよう

 統一教会の今の時間を守れ。統一戦線を守護する。それは統一教会の責任者と全てが統一教会の行く方向に全員が一致したその基台を固めなければ統一教会の今の勝利圏は求めることができない。一人、個人において成し得た真剣な基準と同じように統一教会全員が真剣な結束点が一つになれば問題ではありません。統一教会自体が個人の瞬間の勝利を守り、責任者と兄弟が縦横的に一致して真剣に進んで行かなければ、統一教会の今を守護することができません。
 生命を捧げて、それを全てが一体となっている所に勝利圏が立たない筈がありません。それは統一教会の利益とか、そういうようなものを満す為では絶対ありません。それを知ったイエス様は、死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん、と言われた。同じくそういう立場に徹した心境から発した言葉である。それを思えば先生もかわいそうなものである。
 靴をはく時間でも、遊ぶ時間でも、休む時間でも、寝床についた時でもその一瞬を守れ。孝の道を慕いつつ、忠の道に身を捧げてやって行けば神はもう遠ざかることはありません。もしもそれがそうでなければ、先生はいじわるの先生である。それを記憶して下さい。
 「今」を守れ。日本にも東郷元帥の「皇国の荒廃この一戦にあり、各員奮励努力せよ」ということばがあるね。
 一瞬間を守るように努力してもらいたい。そうすれば日本は間違いなく発展するよ。一瞬全てを捧げて、永遠の勝利が決定する。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.07.21 22:59:55
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