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2021.08.02
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「キリスト教の将来」

1973年10月28日
ルイジアナ・ニューオーリンズ市芸術公演劇場


 皆さん、今夜はお越しくださってありがとうございます。今夜の私の話題は、「キリスト教の将来」というものです。

 今夜、私はすべてのクリスチャンが知らねばならない、神から示された新しい天啓について話そうと思います。私はまた、選民イスラエルについてもたびたび言及するつもりです。聴衆の皆さんの中には、きっとたくさんのクリスチャンやユダヤ人の方々がいらっしゃることだろうと思います。私はすべてのクリスチャンの兄弟姉妹を心から愛していますし、ユダヤ民族を高く評価しています。私がこれから話すことには、決して私の個人的な感情は入っていないということを、最初に御理解願いたいと思います。私はただ真理の証をしているだけなのです。

 時として真理を証言することは苦しいことです。それでもそれは、私が成し遂げなければならない使命であり、私の義務なのです。今夜私が話すことは、皆さんがこれまでもっていた知識と食い違うかもしれません。ある事柄は皆さんにとって、とても耳新しいことかもしれません。どうか皆さんが、聞いたことについて真剣に考えてくださるようにお願いします。

 私が何か新しい秘密を公開するのでなければ、皆さん方の前でわざわざ話したりはいたしません。もし皆さんが既に御存じの事柄を繰り返すのならば、なぜ私が来なければならないでしょう。今夜は、神の霊が直接我々の魂に語りかけることができるように、私も皆さんも共に心を開いてこの一時を過ごそうではありませんか。イエス様も山上の垂訓でこのように教えておられます。

 「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」(マタイ五・三、五、六)

 どうか今夜は、心の貧しい人になってくださるようにお願いします。柔和であってください。そして義に飢え渇く人になってください。そうすれば我々は共に神の国を見るでしょう。そして満ち足りるでしょう。それでは始めましょう。

 クリスチャンとキリスト教自体が、最後に越えなければならない峠があります。聖書の預言によるとクリスチャンは、世の終わりを通過し、大いなる恐るべき主の日に火の審判を受けなければなりません。聖書によると、終わりが近づくにつれて、天にも地にもたくさんの異変が起こるといいます。

 イエス様が再臨を約束された時、非常な危機感をお伝えになりました。イエス・キリストが天に昇った日より、クリスチャンは彼が地上に再び帰る日を待ってきました。過去二〇〇〇年間の歴史の中で、キリストの再臨を見ることがすべてのクリチスャンの希望でした。しかし、この劇的な出来事は決して起こりませんでした。多くの人々は待つことに疲れてしまいました。ある人々はついにこの再臨は文字どおりには起こらないのだと決めてしまいました。彼らの考えは、「これは神様が我々の注意を換起する方策なのだ」というのです。

 今晩、我々は聖書が預言するところの終末の意味を明確にしなければなりません。我々はまた、時が満ちて主が来られる時に、いかに再臨されるかということも知らねばなりません。

 まず第一に知らねばならないのは、神は破滅させるために世界を創造されたのではないということです。神は常に善なる世界が永遠に続くことを望まれました。もし永遠なる世界を創造されなかったとしたら、神は全知全能ではないことになります。しかしながら現在の世界は、終わりを迎えねばなりません。なぜならば、我々は神が望まれた善なる世界を完成することができなかったからです。善なる子女になる代わりに我々は、現実には悪なる被造物になってしまいました。

 アダムとエバはエデンの園で堕落しました。彼らは当時、まだ神の意志をはっきりと知る位置にはおりませんでした。彼らは混乱状態に陥り、誤った選択をしました。彼らは、善なる世界をもたらしたであろう神への忠誠と、実際に堕落をもたらしてしまったサタンへの忠誠の、どちらを取るかを迫られました。二つのはっきりした選択のうちで、アダムとエバは誤ったほうを選んでしまいました。彼らは悪をこの世にもたらしました。神の本来の願いは理想の世界――神が永遠に保とうとした善なる繁栄の世界を創造することでした。しかし人間が堕落し、神の善なる世界は突然終わりを告げ、人類の歴史は間違った方向に向かって出発したのでした。

 それゆえに、人類の歴史は悪の歴史です。神は善の種を蒔き、そして善の実を刈り取るつもりでした。しかしサタンが、それがまだ熟する前に盗んで、悪の実を刈り取りました。人類の歴史は雑草の実なのです。

 それでは終末とは何を意味するのでしょうか。いったい何が終わるのでしょうか。悪が終わるのです。神が悪に終止符を打つのです。神が用意された新出発から人間に対する新しい機会が訪れます。そして神が最初に望まれた理想である善の世界が実現されるのです。

 エデンの園で人間は、善を発展させる代わりに悪に陥ってしまいました。人間はサタンに征服され、罪の子になりました。ゆえに聖書では、「あなたがたは、自分の父、悪魔から出たものである」といっています。もし人間が堕落していなかったとすれば、本当の支配者は神だったはずです。しかし神は今日この宇宙の王様ではありません。なぜならば、サタンが神の王座に座っているからです。神が本当に世界を治めるためには、その前に、人間の堕落から生じたすべての結果を取り除かねばなりません。

 それでは皆さんに、終末のはっきりした定義を申し上げましょう。終末とは神が悪を終わらせ、新しい神の時代が出発すべき歴史上の時点なのです。それは古い悪の歴史と新しい善の歴史とが、交叉転換する時なのです。この定義から考えて、なぜ聖書は、天変地異が終末の印だと預言するのでしょうか。預言にあることが実際に起こるのでしょうか。聖書では次のように書いてあります。

 「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう」(マタイ二四・二九)。これは何を意味するのでしょう。何を我々は予期すべきなのでしょうか。

 まず第一に、これらのことは文字どおりに起こることはありませんから御安心ください。神は宇宙の中で何ものをも破壊されたりしません。神はたびたび、その真理を比喩や象徴で表されます。それゆえに、これらの聖句も象徴的に成就されるのです。第二に、神は宇宙を破壊する何らの理由ももっておられません。罪を犯したのは人間であって宇宙ではありません。人間だけが、本来の神の創造の理想からそれてしまったのです。なぜ神が、神の願いのごとくに創造の目的を達成した動物や植物や他の被造物を破壊しなければならないのでしょうか。神はそれら無実のものを破壊されたりはしません。

 それゆえに聖書は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」(伝道の書一・四)といっています。しかし黙示録によると、「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」(黙示録二一・一)とあります。この新しい天と新しい地というのは、神による歴史の到来、新主権の時を意味します。皆さんが家を買ったなら、家族と家財道具をもって引っ越すでしょう。そして、私は新しい家をもったと言い、また、その家の新しい主人になったと言うでしょう。それと同じように、神の子たちがこの宇宙を支配すれば、それは新しい天と新しい地とになるのです。

 冬が終われば春が来ることを、我々は知っています。しかし正確にどの時点から春が始まるか、言えるでしょうか。いったい誰が移り変わりの正確な一瞬を指摘できるでしょうか。できません。なぜなら、一つの季節から次の季節への移り変わりは静かに、また気づかぬうちに起こるからです。冬の終わりは春の始めと似ていますから、はっきりと変化を識別できる瞬間は存在しません。

 いったいいつ前の日が終わり、新しい日が始まるのでしょうか。変化は暗闇の中で起こりますが、ある日から次の日に移ることは疑えません。変化は最初は分かりませんが、それはまた必ず起こるものであり、取り消すことはできません。三十億の人々が地球上に生活していても、そのうち誰一人として、どの瞬間に前の日が終わりを告げ、新しい日が始まるのかということを指摘することができません。だから人間の側から見る限り、物事が起こる正確な瞬間をいつも知ることができるとは限らないということが分かります。しかし神はいつ冬が過ぎ春が始まるのか知っていますし、いつ夜が明け昼が始まるのか知っています。だから、神は新しい時代への変化を指し示すことができるのです。

 我々が新しい歴史に一歩を踏み出すことは、真っ暗な夜の中から明るい夜明けが出てくるようなものです。善と悪の交叉点ははっきりとしていません。それが交叉した時にも気がつかないでしょう。しかし、太陽があす昇ってくるのと同じくそれは確実に起こるのです。

 それでは我々はいかにして、いつ終末が来るかということを知ることができるでしょうか。神はこの瞬間を人間に秘密にはしません。神は警告もなしに、急に地上に裁きをもたらしはしません。神は大いなる恐るべき日の到来を、預言者を通して宣言されます。アモス書三章七節には、「主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」と記されています。神は御自分の代身者を選び、その人を通して御計画を宣言されます。聖書の歴史の中で神はいつもそうされてきました。

 預言者として神に選ばれる人は、この悪の世界に生きている人間の一人でなければなりません。しかし、彼は神に使われる価値があることを示すことができる信仰者でなくてはなりません。彼は絶対的信仰を示さねばなりません。これをなすためにはこの世のすべての成功を捨て、完全に自分自身を邪悪な世界から切り離さねばなりません。彼は自分に関するすべての邪悪な関係を断ち切って、自分を清くしなければなりません。彼はこの邪悪な世界ではもてはやされないでしょう。神は絶対善であるがゆえに悪の全くの正反対に当たります。だからこそ、いつも悪の側は神より遣わされた者を迫害するのです。

 ノアはそのように、神によって選ばれ、悪なる世界でさげすまれた人でした。神はノアに舟を造るように命じました。神は、川岸や海辺に連れていく代わりに、ノアを高い山に連れていきました。神の命令は悪の世界の目から見ればあまりにもばかばかしいものだったので、多くの人々がノアを笑い者にしました。彼がばかにされたのは、人々が彼を特別に変わり者だと思ったからではなく、ノアが神の命令に忠実に従ったからでした。世間の目からは、神のやり方は理解できなかったのでした。このように、とても本当とは思えない命令を与えてこそ神は、御自身の闘士として選ばれた人間の信仰を試すことができたのです。これがノアの時代に起こった物語です。

 そしてアブラハムの時も全く同じでした。神は偶像商の息子であるアブラハムを召命し、「すぐに故郷を離れなさい」と命じました。神はいかなる妥協をも許されません。神は悪が完全に否定される立場をとられます。それ以外のどんな方法でも善は出発できません。

 神は悪の一かけらも残らない新しい歴史を始めると言われました。神は人間から完全な応答を求められます。神の命令に従う者はまず、悪の世を完全に否定するところから始めなければなりません。このゆえにイエス・キリストは、「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ一〇・三九)と教えられたのです。イエス様はまた、「そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)と言われました。
 皆さんは、これはどういう意味だろう、と思われるかもしれません。これが、神が御自身のための人間を選ばれ、その人々を、悪によって完全に拒まれる位置に立たせられる方法なのです。さもなければ、神の闘士は神のために何もできないことになります。そうすると、神の立場から見ると、現在のクリスチャンたちはとても安楽に過ごしていることになります。これはとてもおかしなことです。なぜなら、キリスト教の教えの中では、安楽な道はないからです。いったいどれだけのクリスチャンが、本当に神の道を歩もうと真剣になっているのか、私には不思議に思えます。神の要求は絶対です。それは中途半端を決して許しません。

 それでは、いかにして我々は、神願う道を知ることができるでしょうか。神の摂理の歴史を調べてみましょう。今日我々は、終末を予期しています。神は以前にも終末をもたらそうとされたことがありました。例えば、ノアの時です。この時は神が悪の終わりを告げ、善の世界を始めようとされた歴史の交叉点です。ノアは神の摂理の中で中心人物として選ばれました。ノアの使命と終末の意味をよりよく理解するためには、我々はいかにして悪の世界が始まったかということを、よりよく知らねばなりません。

 エデンの園で神はアダムとエバに戒めを与えられました。その戒めは神の言葉でした。そして、サタンが彼らに近づき、うそでもって彼らを誘惑しました。そしてそのうそは、悪の言葉でした。アダムとエバはその二つの言葉から選択しなければいけない立場にありました。真理が一方にあり、偽りが他方にありました。彼らは偽りのほうを選びました。

 これが人間堕落の経路だったのです。世の末には、神は人類に真理を与えられます。神の言葉はその預言者を通して与えられます。もし人間が神の言葉を受け入れたなら、その人は死から生命に移ります。真理は生命をもたらすからです。人間は偽りによって死に、真理によって生き返るのです。

 それゆえに裁きは言葉によってきます。これらの神の裁きの言葉は、神によって選ばれた預言者によって明らかにされるでしょう。これが終末の経路です。新しい真理の言葉に耳を傾け、これに従う者は生命を得るでしょう。この言葉を否定する者は、死の中で生き続けるでしょう。

 神はその言葉を宣言するためにノアを選びました。ノアの宣言は、「洪水が来るぞ! 箱舟に乗れ!」でした。人々はノアの言葉に従っていれば助かることができました。しかし、人々はノアを気違いのように扱い、自分たちが滅びました。なぜなら、彼らは神の言葉に逆らったからです。聖書によると、ノアの直接の家族である八人だけが箱舟に乗ったのです。この八人だけが信じ、この八人だけが助かったのです。

 これより先に、神はノアに、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」(創世記六・一三)と言われました。このとおり実際に起こったでしょうか。確かに悪い人々は滅びましたが、それと一緒に物質世界がなくなったでしょうか。この聖句は文字どおりに成就したのではなく、神は地球を滅ぼされませんでした。神はノアの家族の善なる人々のみを残して他の人々を根絶し、悪主権を打ち壊しました。これが、ノアを通して、本来の善なる世界の復帰を始めようとされた神の御計画でした。

 もし神がこの時に復帰を完成していたなら、我々は終末についてあげつらうこともなかったでしょう。いったん善の完全な世界が実現されたなら、もう終末は必要ありません。そうなれば何ものも、神の完全な王国の永遠の統治を妨げることはできません。

 しかし、我々が今日終末を予期しているという事実こそが、神がノアの時に成功を収めなかったという証拠です。洪水のあとで何がノアに起こったかは、一部始終お話ししなければなりませんが、私は今夜はそのことについてあまり時間を割けません。簡単に申しますと、またもやノアの息子ハムを通して、ノアの家庭に罪が入り込んだのです。これによって神の洪水審判は無に帰し、邪悪な人類歴史はイエス・キリストの時まで続いたのです。

 キリストの降臨によって、神はもう一度終末をもたらそうとされました。イエス様は、天の新しい王国を地上に建設するために来られました。だからイエス様が最初に言われた言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」でした。確かに、イエス・キリストの到来の時は終末でした。大いなる恐るべき日の到来は、イエス様が生まれる約四〇〇年前に預言者マラキによって預言されました。

 「見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ書四・一)

 イエス・キリストの裁きは文字どおり火によって行われたでしょうか。イエス様の時に、その日は、すべてのものを文字どおり灰にしてしまうという形で訪れたでしょうか。違います。我々はそうではないことを知っています。これらの預言が当時そのごとく起こらなかったので、ある人々は、それらのことは再臨の時のことを指しているのだといいます。しかし、そんなことはあり得ません。

 洗礼ヨハネは、最後の預言者としてこの世に来ました。イエス様は言いました。「すべての預言者と律法とが預言したのはヨハネの時までである」(マタイ一一・一三)。洗礼ヨハネの到来によって、すべての預言とモーセの律法は終わりを告げるべきだったのです。これがイエス様の言われたことなのです。イエス様以前のすべての預言の目的は、イエス様を迎える準備をすることであり、そして、イエス様の到来によって何が成就されるかを知らせることでした。これらの預言はキリストの再臨の時のためではありません。神は完全な救いを成し遂げるために、その子イエスをこの世に送られたのてす。最初の降臨によって救いが成就されなくなって、初めて再臨が必要となったのです。

 それではなぜ、イエス様の時が終末だというのでしょうか。我々はもう答えを知っています。イエス様は悪主権の終わりを告げ、地上に神の主権をもたらすためにやって来られたからです。これは旧約時代の終わりであり、新約時代の始めでした。イエス様は新しい真理の言葉をもってこられたのです。

 イエス様がもたらした福音を、人々はどのように受けとめたでしょうか。ユダヤ教徒たちは彼を訴え、十字架につけました。彼らは旧約聖書の文字に捕らわれていて、新しい真理の中に、神の霊が宿っているのを感じることができませんでした。彼らはイエス様を神の子として証言すべきであった。その預言のゆえに犠牲となられたということは皮肉なことです。モーセの律法の文字によって、彼は罪人にされたのです。盲目な人々は彼を、十字架にくぎで打ちつけました。

 イエス様の時代には、多くの有識者、多くの教会指導者、そして律法と預言書によく通じた多くの著名人たちはメシヤを待っていました。もしメシヤが来て、旧約聖書をそっくりそのまま一言一句まで正確に繰り返したとしたら、彼らはどれだけ喜んだでしょうか。しかしイエス・キリストは、モーセの律法をそのまま繰り返すために来られたのではありません。彼は新しい神の律法を宣言するために来られたのです。人々は全く見当外れだったのです。そしてイエス様は訴えられました。イスラエルの人々は彼に言いました。「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としている」(ヨハネ一〇・三三)。

 聖書にはこう書いてあります。「そこで彼らは彼をののしって言った、『おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ』」(ヨハネ九・二八、二九)彼らはイエス様をこのように見ていたのです。モーセの律法に従順に従った者たちはイエス様に背いたのです。ユダヤ教の最も信仰深い人々が最初に、イエス様によって裁かれ、永遠の火の中に投げ込まれたのです。

 それでは、ここで「火の裁き」の意味を明確にしたいと思います。新約聖書によると「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」(ペテロⅡ三・一二)と書いてあります。この途方もない預言はいかに実現するのでしょうか。文字どおり、そのごとく起こるのでしょうか。そうではありません。この表現には象徴的な意味があります。神は、地上に理想を実現せずして、創造した地球や星やすべての被造物を滅ぼすはずがありません。もしそんなことをすれば、神は敗北者になってしまいます。すると誰が征服者になるでしょうか。サタンです。神がこんな目に遭われるはずがありません。

 我々人間の間でさえ、いったん何かをやると心に決めたら、それが成就するまでやり遂げます。全知全能の神がその意志を成就されようとするなら、もっともっとそうであるに違いありません。聖書の中で、火の裁きについて神がいわれていることは、炎によって裁きをもたらすということではありません。この重要な部分の意味は象徴的なものなのです。

 それでは、火について書いてある聖書の他の句を考察してみましょう。イエス様はこう慨嘆されました。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ、火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)。イエス様は実際に燃え盛る火を投げられたでしょうか。もちろん違います。

 聖書の中の火は象徴です。それは神の言葉を意味しているのです。だからヤコブ書三章六節では「舌は火である」と記されているのです。舌は言葉をしゃべり、そして言葉は神から来ます。イエス様御自身も「わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネ一二・四八)と言われています。

 現代の社会では、裁判所の言葉が審判を下します。その言葉が法律です。この宇宙の中では、神が裁判官の立場にいるのです。イエス様は弁護士として、人間を訴えるサタンに対抗する権威をもって来られました。サタンは彼の言葉で人間を讒訴しますが、これらは偽りの訴えです。イエス様は、信仰者たちの主張を擁護します。彼の基準は真理の言葉です。神が判決を下されます。神の愛が基準となり、そして愛はその言葉のことです。地上の法廷も天の法廷も何ら変わりがありません。共に言葉によって裁判を行います。火ではありません。ですから審判が下される時に、世界は火で焼かれてしまうのではありません。聖書はいいます、「この者(邪悪な者)を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケⅡ二・八)。神の言葉は彼の口の息です。イエス様は神の言葉によって邪悪な者たちを殺すために来られたのであり、そして「その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(イザヤ書一一・四)のです。それでは「口のむち」とは、何でしょうか。これは彼が神の言葉を語るべき舌を象徴していると見ます。

 この点を完全に解明しましょう。イエス様が人々にこう教えている所を見てください。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」(ヨハネ五・二四)人は真理の言葉によって死から命に移るのです。神は皆さんを燃やしてしまうためにメシヤを送るのではありません。神は皆さんの家に火をつけたり、社会を滅ぼすためにメシヤを送るのではありません。しかし、もし我々が主によって語られる神の言葉を拒否すれば、我々は裁きによって罪に定められるほかはありません。その理由はこうです。

 初めに神は人間と宇宙とその言葉――ロゴスによって創造されました。人間は神の言葉を否定し、そして堕落しました。霊的な死が、それ以来支配してきました。救いのみ業を通して、神は人間を再創造されてきました。人間は神の言葉に対する不従順によって堕落し、同じく神の言葉に従順になることで再創造されるのです。神のみ言は、主によって与えられます。み言を受け入れることは、死から生に移ることです。そのような死とは、我々が今住んでいる地獄のことです。このように、神のみ言は裁きであり、そしてそれは皆さんに、真っ赤な炎よりも、ずっと深い影響をもたらすでしょう。

 それではここで、もう一つの重要なことについて調べてみましょう。もしイスラエルの民が、真心からイエス・キリストを受け入れていたとすれば、どうなっていたでしょうか。イスラエルの国がイエス様と一つになることを想像してみてください。それは何を意味したでしょうか。第一に、イエス様は殺されなかったでしょう。人々はイエス様を、生きている主としてたたえたでしょう。それから彼らは、生ける主を司令官としてローマに進軍していたでしょう。そしてローマは神の子の前に、彼が生きているうちに降服したでしょう。しかし、歴史の悲しい現実の中では、イエスの弟子の群れがローマを征服するのに四世紀もかかったのです。イエス様は一度もイスラエル選民に受け入れられず、彼が必要としていた彼らの支持を得ることができませんでした。彼は神の国を地上に建設するために来ながら、実際は弟子たちに自分が誰であるかを秘密にするように注意されたのでした。なぜなら、人々は彼のメシヤとしての正統性を受け入れず、それゆえに、彼は王の王となれる力が得られなかったのです。

 今日、我々は多くのことを学ばねばなりませんし、また盲目的に信じてはなりません。我々は、聖書の背後にある隠された真理を知らねばなりません。イエス様が十字架についたのは御自身の意志によるのではなく、他の人々の意志によってでした。イスラエル選民の不信仰がイエス・キリストを殺したのです。

 今、私は大胆な宣言を行っています。イエス様は死ぬために来られたのではありません。イエス・キリストは殺害されたのです。繰り返しましょう。イエス・キリストは殺害されたのであり、彼の同族が彼を殺したのです。ローマ総督のピラトでさえ、イエス様を許したかったのです。彼らはイエス様のとがを見つけることができませんでした。しかし、キリストと同族の人々が彼を排斥し、ピラトに迫ってバラバを代わりに釈放させたのです。何と残念なことでしょう。何という悲劇でしょう。

 このことは皆さんにとってショッキングな、非常にびっくりするニュースかもしれません。しかし皆さんが単に驚くだけなら、私の目的が分かっていただけてはおりません。私は真理の証言者となるという私の義務のためにこれらのことを明らかにしているのです。

 ピラトの法廷で、「彼を十字架につけろ!」と叫んだのはイスラエル選民であり、祭司長たちであり、長老たちであり、律法学者であり、そして信仰深い人々だったのです。パウロは言いました。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」(コリントⅠ二・八)

 イエス・キリストの時代に生きていた人々は恐ろしい間違いを犯しました。しかし、彼らは今日の我々と比べて、そんなにも無知であり、盲目だったでしょうか。全くそうではありません。彼らは旧約聖書を一字一句学び、モーセの律法を暗記していました。彼らの理解に基づけば、イエス様はメシヤとしての資格に合わなかったのです。

 ユダヤ人たちはとても難しい立場にいました。もし律法の預言を信じようとすれば、彼らは自分たちが学んだモーセの律法を捨てなければなりませんでした。四〇〇〇年間の伝統が旧約聖書に基づいているのです。人々がある朝、目を覚まして、すぐ律法を捨ててイエス・キリストを神の子として完全に受け入れるということは、とてもとても難しいことでした。人々の目が旧約聖書の文字に縛りつけられていたので、律法の精神はただ頭の上を飛び越えていったのです。

 旧約聖書を開いてマラキの預言を調べてみましょう。「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」(マラキ書四・五、六)。イスラエルの人々は神の約束をはっきりと知っていました。彼らは暗唱していました。ですから、彼らはメシヤが現れる前にエリヤの来ることを予期していました。メシヤが来た時に彼らは当然、「エリヤはどこですか」と尋ねました。

 エリヤはイエス様より約九〇〇年前に奇跡的な業を行った預言者でした。そして彼が火の車に乗って天に昇ったということが書かれていました。エリヤが天に昇ったのですから、彼は天から下ってくるものだと思われていました。そのような奇跡がイエス様が現れる前に起こったでしょうか。人々はエリヤの到来について何かニュースを聞いたでしょうか。いいえ聞きませんでした。しかし彼らが実際に聞いたのはある日、「私は神の子である。神のひとり子である」と宣言しているイエス様の声でした。そしてイエス様は、弱々しくではなく、権威と力をもって語りました。そんな人間は無視することはできません。これはイスラエルの人々に大変なジレンマをもたらしました。彼らは直ちに、「もしイエスがメシヤなら誰がエリヤだ」と聞きました。彼らは当時、メシヤを待ち焦がれていたので、エリヤをも待っていたのです。彼らはエリヤは空の上の天国からまっすぐ下ってくるものだと信じ、メシヤもそのすぐあとで同じようにして降臨するものだと思っていました。

 ですから、イエス様が神の子として宣言された時、ユダヤ人たちは困惑しました。もしエリヤが来ていないのなら、メシヤが来るはずはありません。そしてエリヤが来たということは誰も聞いていません。イエスの弟子たちもまた、混乱しました。彼らが福音を宣べ伝えに出かけていった時、人々は、イエスの弟子たちがエリヤの到来を証明できなかったので、イエスがメシヤであることを執拗に否定しました。彼らはどこへ行ってもこの問題に直面しました。

 イエスの弟子たちは旧約聖書については知識がありませんでした。彼らが宣教に出かけていくと、多くの知識人たちは、「君たちは旧約聖書を知らないのですか。君たちはモーセの律法を知らないのですか」と質問して彼らを言い負かしてしまいました。弟子たちは律法や預言者の文を通して攻撃されると、困惑しました。ある日、彼らはイエスのもとに帰ってきて質問をしました。

 『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・一〇~一三)。イエスによると洗礼ヨハネがエリヤだったのです。

 これは本当です。我々はイエス・キリストの言葉に従って真理を決定してきました。しかしイエスの弟子たちはこのことを、長老や祭司長や律法学者たちに納得させることができませんでした。彼らにとってこの話はただばからしいものでした。そのような考えを支持する唯一の権威は、ナザレのイエスだけでした。だからこそ、洗礼ヨハネ自身の証言がとても重要だったのです。でもどうでしょう、ヨハネ自身も質問を受けた時に、自分はエリヤではないと否定したのです。彼の否認によってイエスは偽り人のよう見えました。

 聖書によると、「さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、『あなたはどなたですか』と問わせたが、その時ヨハネがたてたあかしは、こうであった。すなわち、彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した。そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った。『ではあの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた」(ヨハネ一・一九~二一)。ヨハネは自分で「私はエリヤではない」と言いました。しかし、イエスはその前に「彼はエリヤである」と言ったのです。

 ヨハネの答えで、人々がエリヤが来たことを知ることはほとんど不可能になりました。しかし、イエスはとにかく真理を宣言したのです。彼は、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(バプテスマのヨハネ)こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ一一・一四)と言ったのです。イエスは大部分の人々は真実を受け入れることができないことを知っていました。その代わりに彼らはイエスの動機づけを質問しました。イエスがメシヤらしくあるためにエリヤがまず最初に来ていなければなりません。そこで人々は、イエスが自分を偉く見せるためにうそをついていると思ったのでした。

 これはそれほど深刻な状況でした。あの当時、洗礼ヨハネの影響力はイスラエルの隅々にまで及んでいました。しかしイエス・キリストは、彼の社会の中では、世に知られない目立たない人物でした。誰もイエスの言葉を真理として受け取る立場をとれませんでした。このヨハネの失敗がイエスの十字架の主要な原因となったのです。

 洗礼ヨハネは既にヨルダン河で神の霊がイエスの頭の上に下っているのを見ていました。その時に彼はこう証言しました。

 「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれをみたので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ一・三二~三四)

 なるほど、洗礼ヨハネは証を立て、その時神が彼に望んだ使命を果たしました。しかし、あとになって彼は疑うようになり、ついにはイエスを取り囲む多くのうわさに負けてしまいました。あるうわさは、イエスは父なし子、私生児だと言いました。洗礼ヨハネはもちろんそのうわさを耳にし、そんな人間がどうして神の子であるはずがあろうかと疑いました。彼はイエスの証をしましたけれども、ヨハネはのちに疑うようになり、彼を裏切りました。もし洗礼ヨハネがイエス・キリストと真に協力していたとすれば、彼は人々をして、イエスをメシヤとして受れ入れさせたでしょう。というのは、当時洗礼ヨハネがもっていた力と影響力はとても偉大だったからです。

 私は皆さんに、尋常ならざることを話していますから、皆さんは私が何の権威によって話しているのかと聞かれるでしょう。それは聖書の権威と啓示の権威です。さあ、一緒に聖書を一語一語読みながら、洗礼ヨハネがいかに振る舞ったか見てみましょう。

 「さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、イエスに言わせた、『“きたるべきかた”はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか』」(マタイ一一・二、三)

 これは彼がイエスを神の子として証してからずっとあとのことです。どうして彼は、「あなたが神の子として来たるべきかたですか」などと、神霊の証を受けたあとで聞くことができるのでしょうか。イエス様は本当に悲しかったのです。彼は怒りを感じられました。イエス様は洗礼ヨハネに対して、「はい」とか「いいえ」という明解な答えを与えることを拒否しました。その代わりに答えて言いました。私につまずかないものは幸いである」。イエス様が言われたことを言い換えてみましょう。「ヨハネよ、私はあなたがわたしにつまずいたことを残念に思う。一度はあなたは私を認めた、しかし今は私を疑っている。あなたの信仰がそんなに弱かったのを見て、とても残念だ」。

 この出来事のあとで、イエス様は御自分の弟子たちにヨハネのことについて話されました。彼は弟子たちに修辞的な疑問を発したのです。

 「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。では、なんのために出てきたのか。預言者をみるためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである」(マタイ一一・七、一〇)

 ここでイエス様が言おうとしていることはこういうことです。「ヨハネよ、あなたは、荒野に預言者以上のもの、神の子メシヤを見に行ったのだ。あなたは多くのものを見たが、あなたの使命の中核である重要なところを見逃してしまった。あなたは、本当に、私を認めることができず、神の期待に沿うことができなかった。あなたに『備えられた民を主のために準備する』ことを期待したのは神なのだ。あなたは失敗してしまった」。

 イエス様はこのように結びます。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も彼よりは大きい」(マタイ一一・一一)。従来のキリスト教の解釈では、決してこの矛盾する一節を完全に説明することはできませんでした。

 歴史の流れの中で、預言者の使命はメシヤのために備えかつ証をすることでした。預言者はいつもずっと先のことを証してきました。洗礼ヨハネは預言者の中でもっとも偉大な人でした。なぜなら、メシヤと同時代の預言者というだけでなく、自ら生けるメシヤに証言できた預言者だったからです。霊界にいるどんな小さな預言者でさえも、イエスが神の子であることを知っていました。だから、最も偉大な使命を与えられたヨハネが失敗した時、最も小さい者よりも小さい者になったのです。

 イエス様は言いました。「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイ一一・一二)。洗礼ヨハネは神によって選ばれた器でしたが、イエス様の第一弟子になることを拒んだのです。彼は自らの責任を果たすことができず、シモン・ペテロが、彼の信仰の力で自らの長所のゆえに、中心の位置を獲得したのでした。洗礼ヨハネよりも信仰の面でより強く、がむしゃらな他の人々が、イエス様と共に、地上における神の国の実現をかけて、ひたすらに闘ったのです。洗礼ヨハネに忠実に従った篤信な人々は、本来なるべきであったキリストの十二使徒や、七十人門徒になれませんでした。もし洗礼ヨハネがイエス様の第一弟子になっていたとすれば、この二人は協力してイスラエル全土を統一していたでしょう。しかし現実には洗礼ヨハネは、神の子に従わなかったのです。

 ある日、ヨハネの弟子たちがヨハネのところに来て尋ねました。「先生ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」(ヨハネ三・二六)。彼らは質問の中でこう心配しているのです。「イエスのところへ行っているたくさんの人々を見てください。あなたは行かないのですか」。洗礼ヨハネの答えは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」でした。

 通常クリスチャンはこの句を、ヨハネの謙遜な人格の表れと解釈しています。これは彼の言葉の意味を間違って理解しています。もしイエスとヨハネが一致協力していたなら、彼らの運命の盛衰は同じはずでした。そうすれば、ヨハネの地位が下がっていくならば、イエス様は御自身の評価を高めることはできません。自分の勢力の減少こそが、ヨハネが恐れたことなのです。ヨハネはかつて、メシヤは「そのくつを(私が)ぬがせてあげる値うちもない」(マタイ三・一一)方であると言いました。そうでありながら、イエスが神の子であると知ってからも、イエスのあとに従うことができなかったのです。洗礼ヨハネにはどんな言い訳もできません。彼はイエスに従うべきだったのです。

 神はヨハネをメシヤの先駆者として送ったのでした。彼の使命は次のごとくはっきりと定義されていました。「整えられた民を主に備える」(ルカ一・一七)と。しかしヨハネの裏切りによって、イエス・キリストには彼の宣教を始めるべき何らの基盤もありませんでした。人々はイエスを迎えるべく整えられてはいませんでした。それゆえに彼は故郷から出て、人々が彼を信ずることができる基盤をつくろうとして、たった一人で働かれたのです。洗礼ヨハネが失敗したことについては疑いの余地がありません。彼はイエスの十字架について直接責任があります。

 皆さんは、新たに「何の権威によってこれらのことを言うのか」と問われるかもしれません。私は霊界でイエス・キリストと話をしました。そして洗礼ヨハネとも話をしました。これが私の権威です。もし皆さんがこの場で、私の言葉が真理かどうか決めかねるとしても、いつか必ず分かる時が来るでしょう。これらは皆さんに、新しい天啓として示された隠された真理です。皆さんは私が聖書によって話すのを聞きました。もし皆さんが聖書を信ずるなら、私の話をも信じなければなりません。

 それゆえに、我々はこの厳粛な結論に到達しなければなりません。イエスの十字架はユダヤ人の不信仰の結果生じたのです。彼らの不信仰の主な原因は洗礼ヨハネの裏切りです。このように我々は、イエス様は十字架上で死ぬために来られたのでないということを学びました。もし彼が死ぬために来たのだとすれば、ゲッセマネの園において、あのような悲劇的な、苦痛に満ちた祈りは捧げなかったでしょう。

 「『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい』。そして少し進んでいき、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたくしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』」(マタイ二六・三八、三九)

 イエス様はこのように一度のみならず、三度祈ったのです。もし十字架による死が神の目的の成就ならば、イエス様は代わりにきっとこう祈ったことでしょう。「父よ、私はあなたのみ意によって十字架上で死ぬことを光栄に思います」。

 しかし、イエス様はこの杯を自分から過ぎ去らせてくださいと祈ったのです。もしこの祈りが死に対する恐怖から来たとするなら、そのような弱さは、神の子としての資格を失わせるでしょう。我々はキリスト教の歴史を通して、多くの殉教者たちの勇敢な死を見てきました。そしてどこにおいても、人々は死の恐怖を克服したのみならず、彼らの最後の犠牲を勝利的なものにしたのです。そんなにも多くの殉教の中で、特にイエス様の十字架が神の願いを成就する栄光の瞬間だとするならば、なぜイエス様だけが恐怖と弱さを見せなければならなかったのでしょうか。イエス様は弱さのゆえにこのように祈ったのではありません。そのように信ずることはイエス・キリストを侮辱することです。

 ゲッセマネの園におけるイエス様の祈りは、死や苦しみに対する恐怖から出たものではありませんでした。もし神のみ意を成就することができるならば、イエス様は喜んで千回でも死なれたでしょう。彼が死の直前まで苦しまれ、神に最後の訴えをされたのは、御自分の死が単に神の摂理を遅らせることになることを知っておられたからです。

 イエス様は生きてその使命を果たしたかったのでした。イエス様が人間的な心の弱さから、もう少しの間の地上での生命を乞うたと信ずることは、悲劇的な誤解です。アメリカ独立戦争において、青年ナタン・ヘイルは、自分の処刑の際にこう言い得ているのです。「私は国のためにたった一つの命しか捧げられないことが残念だ」。皆さんはイエス・キリストはナタン・ヘイルよりも、小さな魂の持ち主だというのでしょうか。違います。ナタン・ヘイルは偉大な愛国者でした。しかしイエス・キリストは神の子だったのです。

 このことを考えてみてください。もしイエス様が十字架で死ぬために来られたとすれば、彼を引き渡す人間を必要としなかったでしょうか。皆さんはイスカリオテのユダが、イエスを裏切った弟子だと知っています。もしイエス様が十字架で死ぬことで、神の意志を成就したとすれば、ユダは、十字架を可能にしたことのゆえに、たたえられねばなりません。ユダは神の摂理を助けていたことになります。しかし、イエス様はユダについて言われました。「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイ二六・二四)。ユダは自殺しました。

 それに付け加えると、もし神がその子を十字架につけようとされたなら、選民を整えた四〇〇〇年間は必要ではなかったでしょう。神はイエスを野蛮人の一部族に送り込んで、もつと早く殺させることができたでしょう。そうすれば神の意志はもっと早く実現したことでしょう。

 みなさんにもう一度申し上げましょう。人々がイエス様を受け入れることが、神の意志だったのです。だからこそ神はメシヤという天の種を蒔くために希望をもち、苦労しながら、豊かな土壌を用意しようとされたのでした。これが神の選民イスラエルを立てられた理由なのです。このゆえに神はイスラエル自身を主に備えるために、次から次へと預言者を送られたのです。

 神は彼らに警告し、また、懲らしめました。説得し、叱りました。無理やりに押し出したり、罰を与えたりしました。なぜなら、神は神の民が神の子を受け入れることを望んだからです。ある日弟子たちがイエスに質問しました。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われました。「神がつかわされた者を信じることが神のわざである」(ヨハネ六・二八、二九)。イスラエル選民は神が防ごうと骨折られた、正にそのことをしたのです。彼らは神が送った人を拒否したのです。

 イエス様は三年間の公生涯を通して、一つの目的をもっていました。受け入れられることです。そうしなければ彼は自分の使命を全うできませんでした。第一日目から、イエス様は、人々が真理を聞いて自分を神の子として、受け入れてくれるために、あいまいな言葉を使うことなく、福音を説教されました。神の言葉によって彼らはイエスを受け入れるべきだったのです。しかしながら、イエス様は人々が神のみ言だけでは、自分を受け入れそうもないことを知って、奇跡を行われたのです。イエスは人々が奇跡を通して自分を認めてくれることを望んだのでした。

 「イエスは、この書にかかれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ二〇・三〇、三一)

 イエス様はめくらの目を開け、癩病患者をきれいにされました。彼はびっこを治し、つんぼの耳を聞こえるようにされました。イエス様は死人をよみがえらせました。彼は人々に受け入れられるために、すべてこれらのことを行われたのです。それでも人々は彼についてこう言いました。「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」(マタイ一二・三四)。何と悲しい状況でしょうか。イエス様はまもなく、人々に受け入れられることは、望みがないことを知りました。怒りと絶望の中から彼は叱りました。お前たち、「まむしの子らよ」(マタイ一二・三四)。彼は憤怒を隠すこともなく、怒りの中で爆発させました。「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう」(マタイ一一・二一)。そしてイエスはエルサレムに近づいてきた時に泣いて言われました。

 「ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとはしなかった」(マタイ二三・三七)

 誰がかつてこの胸が張り裂けんばかりのイエス様を理解したでしょうか。彼は言われました。「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」(ルカ一九・四二)。この時までに、イエス様は、死を免れるどんな希望もないことを知っておられました。それでも、イエス様はゲッセマネで神にすがり、十字架上でも神に訴えられたのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。

 このようにイエス様は御自分の意志でもない、人々の意志によって十字架上で亡くなられました。その瞬間からキリストが再び来ることは決まっていたのです。キリストは自分の地上における使命を全うするために再び来られます。人類は世界の完全な救いのために彼の再臨を待たねばなりません。

 ここで多くの方々はこう聞かれるでしょう。「イエスの十字架の死に関する旧約聖書の預言はどうなんだ」。私もイザヤ書五三章にあるそのような預言を知っています。我々は聖書の預言には、二つの側面があることを知らねばなりません。一方はイエスの受難と死を預言しています。もう一方は、例えばイザヤ書九章、一一章、六〇章のように、人々がイエスを神の子として、王の王として受け入れた場合の栄光の統治を預言しています。例えば、

 「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる義士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ書九・六、七)

 これが王の王として、君の君としてのイエスが栄光の主であるという預言です。もう一方にはこう書いてあります。
 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ書五三・四、五)

 これが苦難のイエスの預言です。これは全く、十字架の預言です。それではいったい、なぜ、神は聖書の中で二つの側面をもった預言をされたのでしょうか。その訳は、神はその摂理の中で人間、すなわち堕落した人間を相手にしなければならなかったからです。そして堕落人間は、邪悪で信用できず、裏切る可能性があります。

 ある意味では、人間の裏切る才能のゆえに神もサタンも人間を恐れています。神は絶対善でありますから立場を変えることはありません。サタンは絶対悪ですから、彼もまた、立場を変えることはありません。この点において神とサタンは類似しています。しかし、人間は善と悪の混じったものです。人間は神とサタンの間に立って、転換できる才能を備えています。それゆえに人間は予測できないのです。ある日、ある人が神に対する変わらない信仰を告白し、神に仕えることを誓ったとしても、次の日にはその同じ人が神を呪い、サタンと組んでサタンの奴隷になるかもしれません。

 神は人間がメシヤを送る摂理にどのように反応するか分からなかったので、仕方なく相反する二つの結果を預言せざるを得ませんでした。二つの預言は人間の行為によってどちらともなり得たのでした。このように人間の信仰が、この二つの預言のどちらを成就させるかを決定する要素でした。

 イエス様の場合にはイスラエル選民が信仰を示し、彼と一つになっていれば彼は受け入れられたでしょう。その結果、栄光の主の預言が完全に実現したでしょう。

 ところが反対に、もし人々が不信仰でメシヤが来た時に拒んだとすれば、不可避的に受難のイエスの第二の預言が成就されたのです。そして歴史は、選民たちが後者の道をとったことを示しています。それゆえに、栄光の主の預言ではなく苦難の主の預言が実現したのでした。このようにして十字架とキリストの受難が歴史に現れたのでした。

 イエスの時代に苦難のキリストの預言が実現したので、栄光の主の預言は全うされないまま残されました。そしてこれは、再臨の主の時に成就されるのです。

 私は、聖書にはイエス様の公生涯以前の生活の記録が御生誕と少年時代の少しの説明を除いては、あまりないということを申し上げたいと思います。皆さんはどうしてか、お考えになったことがおありでしょうか。

 三十年間というものイエス様は大変な迫害と辱めの中で生きてこられたのです。イエス様を悲しませ、苦しませる多くの出来事や環境があったのです。彼は本当に、社会の中でも、家庭の中でも誤解ばかりされてきました。誰も、ただの一人さえも彼を神の子として取り扱った人はいませんでした。彼は誰にでも与えられる通常の敬意さえ、与えられませんでした。彼の社会は彼をばかにしました。神のみ意はイエス様の生涯によって深く悲しめられました。皆さんに目立たないナザレの男であったイエス様の、青年時代の痛ましい、悲しい状況の一端をお話しすれば、皆さんはびっくりして肝をつぶすだけではなく、悲しみのために泣きだされるでしょう。

 神はこのイエス・キリストの痛ましい、辱めの悲劇の現実を人間に知らせたくはありませんでした。イエスの死は彼の意図でもなく彼の失敗のゆえでもありませんでした。イエスの死は殺害であり、彼の肉体はサタンによってとられたのです。キリスト教の救いは十字架から来るのではなく、復活から来るのです。復活がなかったとすれば、キリスト教は何らの力もなかったでしょう。十字架そのものは、不信仰による犯罪なのです。しかしながら、復活のイエスは、新しい希望、新しい贖い、そして救いの新しい力をもたらしました。ですから、我々が復活のキリストを信じ、これと一つになれば我々に救いが来るのです。

 どうか皆さんの祈りの中で真剣に、これらの事柄についての最終的な答えを求めてみてください。イエス・キリストか、神御自身に尋ねてみてください。もしイエス様が、生きて神の国を実現するという本来の目的を成就されていたなら、キリスト教は決して、今日のようなものであるはずがありません。イエス降臨の目的は世界の救済のためでした。ユダヤ民族は神の道具だったのです。しかし、救いは神の選民のみに与えられるものではなかったのです。イエスは、地上のすべての人々のための救い主だったのです。彼は全人類の救い主です。イエス様はその使命を完成されなかったので、再臨の約束をされたのです。

 それでは、いつ終末が来るのか考えてみましょう。これは私たちにとって、とても重要なことです。聖書には、終わりの日には神は、羊とやぎとを分けると書いてあります。この二つの動物の違いは何でしょうか。羊は彼らの主人、羊飼いを見分けますが、やぎは飼い主に従いません。今日、我々の世界は二つの対立する陣営に分かれています。一方は民主世界であり、他方は共産世界です。我々の自由世界は「神はいる」と言います。我々は飼い主を受け入れています。共産世界は「神は存在しない」と言います。彼には自らの主人を否定しています。このように自由世界は羊によって象徴され、共産世界はやぎに象徴されます。これら二つの対立するイデオロギーの世界が形成されていく時に、我々は、世の終わりが来たことが分かります。

 再臨主はどのように来られるのでしょうか。クリスチャンとしての我々の立場は、イエスの時代の長老や律法学者や祭司たちと全く同じです。当時の人々はエリヤとメシヤが天の雲に乗って来るのを待っていました。どうして人々はこう考えたのでしょうか。なぜ、彼らはこのような信仰をもったのでしょうか。

 彼らは単に、ダニエル書七章一三節に記されている預言に従っていただけなのです。「わたしはまた夜の幻のうちにみていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた」。偉大なる預言者ダニエルのゆえにメシヤが天の雲に乗って来るということを期待するのは、イスラエルの人々にとって、もっともなことでした。クリスチャンたちは今日同じように再臨の主が天の雲に乗って来るのを待っています。

 ヨハネは言いました「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世に入ってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」(ヨハネⅡ七節)。聖句によると、多くの人々がイエス・キリストが肉体で現れたのではないと言っていたそうです。それで、ヨハネは彼らを反キリストだと宣告したのです。しかし、旧約聖書の預言にある、天の雲に乗って来る神の子の来臨のことを忘れてはなりません。我々は、真理の全体を知らない限り、イエスの時の人々と同じように聖書の言葉の犠牲者となります。

 それでは皆さんにお尋ねしますが、もし主が雲に乗ってではなく、肉体をもった人間として地上に来られたらどうなさいますか。さあ、どうでしょう。私は皆さんに再臨主は人間の子供として肉と骨をもって事実現れるということを言っているのです。皆さんはまず「文先生、あなたは異端者なのですか」とお尋ねしたいでしょう。

 重要なのは、どちらの側に神がついているかということであり、神はいかにして、神の計画を成就されるのかということです。ある人間やその考えが異端と受け取られているかどうかということは、重要なことではありません。私が世界をどのように見ようが、皆さんが世界をどのように見ようが関係ありません。神がどのように世界を見られるのかということだけが問題となるのです。そして、神の目から見ると再臨の主に関して、またもや聖書の中に二つの側面のある預言を見つけることができます。黙示録一章七節は明確に雲に乗った再臨主の到来を預言しています。しかしながら、テサロニケ前書五章二節では「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」と書いてあります。それでは相反する二つの預言があることになります。我々はどうすればいいのでしょうか。皆さんは単に自分の都合の良いほうの預言を選ぶのでしょうか。

 たぶん、主は天の雲に乗って大きな音をとどろかせながら現れるでしょう。そう預言は書いてありますから。しかし、一方では主は夜の盗人のように現れるかもしれません。もし主が雲に乗って来られるとすれば、盗人のように隠れてこの世に、入り込むことはもちろんできません。ものすごく大勢の人が雲による来臨の壮観に注目するでしょう。そのようなものがどうして我々の目から隠され得るのか私には分かりません。

 それではいったい、何が真理なのでしょうか。我々は目の前に困難な問題を抱えています。何が真理なのか。終末の様相を見たなら、暗い室に入って祈れ、と聖書は教えています。誰が終末の時を知らせることができるのでしょうか。天使たちはその日を知りません。イエス様は、人の子でさえいつその日が到来するか分からないと言われました。ただ神のみが終末の時を知っていらっしゃるのです。ですから、私たちは神から答えを得るのです。私は皆さんが私の言うことを信じなければならない、などと言っているのではありません。私は私自身が真理であることを知っている事柄を公表しているにすぎません。しかし皆さんは、この真理が本物かどうか神に聞いて確かめなければなりません。

 終わりの時には誰も信じてはいけないと聖書は言っています。私を信じてはいけません。そして皆さんの教会の長老をも信じてはいけません。牧師も有名な大衆伝道者をも信じてはいけません。天がとても近くなって、聖霊によって、高く持ち上げられれば、そしてもし、非常に熱心に祈れば神と語り合えるし、直接神から答えを得ることができます。

 ニューオーリンズには、たくさんの牧師や英国教会牧師や多くの教会の長老たちがおります。彼らのうちのどれだけが真実に神の声に耳を傾けていることでしょうか。

 我々が霊的な耳と霊的な目をもたなければ、我々のこの耳もあまり意味がなく、この目もあまり有用な目的に使えません。イエス様は言われました、「耳のある者は聞くがよい」(マタイ一一・一五)。そして弟子たちには「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」(マタイ一三・一六)と言われました。彼は肉体的感覚器官を指して言われたのではありません。

 皆さんが霊的五官を通して、神のみ言に耳を傾けるとき、神の指令と導きを見いだすでしょう。しかし、天国の住民となることは、なまやさしいことではありません。外国人にとってアメリカ合衆国の国籍を得ることだけでも、とても難しいことです。我々がこの世の生活から天国の世界へ我々自身を移籍させることは、どんなにか難しいことでしょうか。しかし、我々はこのことを成し遂げることができます。

 私たちは、アダムとエバがエデンの園で堕落したのちでも、彼らはまだ神と直接通じ合うことができたことを知っています。旧約と新約の時代のあとで神が何らかの理由で、つんぼとおしになったのでしょうか。いいえ、神は生きて働かれ、今日我々は、神と直接話すことができます。神は皆さんに話しかけることができますし、そうすれば皆さんは神と直接対面することができます。

 使徒行伝では、終わりの日には「あなたがたのむすこ娘は予言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」(使徒行伝二・一七)。我々は真理を知らなければなりません。我々はいかにして天国の市民権を得るかを知らなければなりません。我々は、いつ主が来られるのか、そしてどのようにして来臨されるのかを知らねばなりません。

 我々の生活の中で、はっきりした導きがある場合でさえ、ゴールに到達できずに失敗する可能性があります。しかし、今日我々には何の導きもありません。そして、確信して従うことのできる何の命令もありません。

 聖書を見て、いかに再臨の主が来られるかを明らかにしましょう。ルカ福音書一七章二〇、二一節でイエス様はパリサイ人に、天国はどのようにして来るのか尋ねられました。彼は答えて言われました。「神の国は見られるかたちで来るものではない……神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。それから弟子たちに言われました。「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時がくるであろう」。しかし、もし主が雲に乗って来られるのであれば、我々はどうしてそれを見ることができないのでしょうか。黙示録一章七節では「すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」とあります。

 これは何を意味するのでしょうか。なぜ皆さんは彼を見ることができないのですか。我々がその日を見逃すことがあるとすれば、主がある方角から来ると思って待ち望んでいて、ちょうどイエスの時のエリヤがそうであったように、違った方角から全く予期しなかったふうに現れるという場合のみです。これが皆さんが再臨の時に主を見ることができないかもしれないという理由です。

 もう一つ不可能な預言がイエス・キリスト御自身によって与えられました。彼は再臨の主について宣言されました。「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ一七・二五)。もしキリストが再臨の時に、天の雲の栄光の内に現れるなら、だれがいったい彼を否定するでしょうか。誰も彼に苦難と痛みを与えたりしないでしょう。

 この預言が成就する唯一の場合は、人々が彼が雲に乗って来ることを期待していて、主が突然に肉体をもった貧しい人間として現れた時です。今日のキリスト教の指導者たちがイエスの時の祭司や律法学者や、長老たちと同じ誤りを犯すとは思いませんか。そうです。彼らはたぶん主を否み、拒むでしょう。なぜなら、彼の現れ方はキリスト教指導者たちにとって、とても受け入れ難いものだからです。このようにして、聖書は成就されるでしょう。彼はまず、苦しみを受け、この世代によって捨てられるでしょう。

 イエス様はかつて、もっとも大切な疑問を述べられました。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・八)。キリスト教の教えが、地球上をあまねく覆っている今日、この疑問は我々とどんなかかわりがあるでしょうか。なるほど、我々は信仰をもっていますが、それは主が天の雲に乗って来るという期待をもった誤った信仰だからかもしれません。もし、人の子が肉体をもって現れても、彼を迎えることのできる信仰をもった人は地上にはほとんどおりません。もし、このとおりでないとすれば、聖書は成就されません。イエス様は、信仰者が見られないと言ったのではなく、信仰が見られないと言われたことに注目してください。

 イエス様は、またこのようにも言われました。

 「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイ七・二二、二三)。この預言は、もし彼の再臨が天の雲に乗って来るのであれば実現されるはずはありません。

 再臨の時に人々は「主よ、主よ」と叫ぶことでしょう。それと同時に、再臨の主が自分たちの期待とは違ったふうに現れたなら、その再臨の主自身を十字架につけようとしているかもしれません。そうすれば、彼らは誰よりも悪者になります。

 これが聖書です。本当に目をもっている人々は見るでしょう。本当に耳をもっている人々は聞くでしょう。歴史を通して神は、成就される前に預言者を送っています。彼は御自身の計画について人々に警告を与えます。どれだけ今日のキリスト教信仰が篤く、何億人の人々がキリスト教会に属していようと、いったん再臨の主を――彼がどんな格好をしていようと――受け入れることができなければ、彼らの世界は没落の運命にあります。これが、イスラエルの人々が他の面では信義に篤いのにもかかわらず、イエス・キリストを否んだがゆえに味わった悲劇です。

 ですから我々もまた、新しい言葉を受け入れる用意が必要です。イエス・キリストはモーセの律法を繰り返すために来られたのではありませんでした。ちょうど、イエス様が新しい真理で御自身を証されたように、再臨の主も今日における新しい真理によって証されるでしょう。その真理は、ただ単に新約聖書を繰り返すことではありません。

 主は天の雲の中に奇跡的に現れるのではありません。なぜでしょう。それは、神はその子を、一度失われたものを復帰するために送られるからです。人類始祖は地上の神の国を失いました。サタンが世界を侵略し、エバを横取りし、そしてエバはアダムを堕落させ、神をたった一人、人間から離れた状態にしました。それゆえに、すべての人類は、悪の拘束のもとに苦しみました。神は、新しい歴史を始めるために新たな人類始祖を送らねばなりません。

 神のみ業は復帰であり、いつも最初に失った経路と反対の経路に進みます。つまり、神は最初に、神を裏切る代わりに、神と一体となり得る完成したアダムを見つける必要があるのです。そしてアダムはエバの立場に当たる相対者を復帰しなければなりません。完成したアダムと、完成したエバが一体となればサタンを打ち負かし、これを世界から追放することができるでしょう。このようにして、最初の正当な人類の祖先が新しい歴史を始めるのです。

 神の最初はアルファでした。これが悪に侵入されたので、神はオメガにおいて世界を復帰するのです。イエス様はコリント前書一五章四五節で第二のアダムについて言及されています。神はアダムとエバが完成した時に、祝福して結婚させてやりたかったのです。天の夫婦として、彼らは神の子供を生むことができたはずです。この生活はエデンの園では実現されませんでした。だからこそ、イエス様がアダムの位置に来られたのです。神は真の花嫁を見つけてイエスと結婚させたかったのです。人類の真の父母は、イエスの時代に出発しているべきでした。そして世界の悪の歴史を克服し、これを転換させることができたはずでした。この希望がイエスによって全うされなかったので、彼が部分的にのみ果たした使命を完全に果たすために、二〇〇〇年を経て地上に再び来られるのです。その時には、地上に天国が築かれるでしょう。

 善の新しい歴史はこのようにして始まります。神の真理と人類の真の父母をもってして、神の歴史の新たなアルファが始まり、永遠に続くのです。神の理想は最初の神中心の家庭を地上に復帰することです。このひな型を中心にして、他のすべての人類はこの家庭につながることができます。我々はそのごとくになるでしょうし、最初の天の家庭は広がって繁殖し、氏族的、国家的、そして世界的な神の王国が地上に出来上がるのです。

 神の国が文字どおり、目に見える形で出来上がるのです。イエス様はペテロに天国へ入る鍵を預けて言われました。「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)。ですから、地上における完成が天国での成就よりも先に来なければなりません。天国はまず地上で完成されるのです。

 現在では霊界においては、媒介地点となる所だけが開かれています。そこは「パラダイス」と呼ばれています。イエス様と弟子たちはパラダイスにいますが、彼らでさえ、天国が地上に完成されるまでは、天国に入ることは実際にはできないのです。その理由の一つは、天国は個々人のために備準されているのではなく、父と母と神の子供たちによる神の家庭のために備準されているのです。

 皆さん、私の言わんとするところはとても明確で、簡単であると私は思います。神はアダムから善の歴史を始めようとされました。しかし、アダムは堕落しました。神は歴史を復帰しようとされ、イエス・キリストより再出発しようとされました。しかし、当時の人々は信仰が足りず、イエス様に機会を与えませんでした。ですから、再臨の主に関する約束は成就されるでしょう。彼は肉体をもって人間の子供として、地上に必ず来ます。彼は第三のアダムとして来られます。彼は花嫁をめとり、黙示録に「小羊の婚宴」として書かれている天の結婚式という最も喜ばしい日をもたらすでしょう。彼は真の父母としての役目を成就するでしょう。神の本当の血統が打ち立てられ、そうして地上天国がそのごとくに完成され得るのです。

 今日のキリスト教が明らかな危機にあることは疑う余地がありません。これは、確立した宗教団体が、神の子を退けたあのイエスの時代と類似した危機です。我々の時代のこの危機を我々は認識しています。しかしそれと同時に、もやを通して、新しい希望に輝く一日をかいま見ることができます。

 終末は単にクリスチャンだけではなく、世界中の人々に差し迫っています。神の新たな歴史は、主の到来とともに始まります。彼を見、かつ受け入れる人は幸いな人です。再臨の主を認め、迎え、そして受け入れることがキリスト教の希望です。機会は我々すべての前にあります。すべての人間の人生の中で最も偉大な機会が、我々の戸をたたいています。どうか謙虚になって、偉大なる新しい希望に対して自分自身を開きましょう。現代はかつてなかったような霊的な覚醒の時です。皆さんは、自分の目と耳を開き真理を悟ってほしいと思います。私の希望はこれです。つまり皆さんとこの福音を分かち合うことによって、再臨の主の栄光に備えて我々が一つになることです。歴史の神を見ましょう。摂理の神を理解しましょう。そして我々の生涯の中で、生きている神を抱き締めましょう。

 きょうはこの市での私の最後の日です。皆さんがこれらの事柄を徹底的に調べられることを望みます。ニューオーリンズの私たちの教会に来て学ぶ機会や、修練会に出て統一原理の真理を探究してみる機会もあります。私は皆さんに何か新しいことを言うために用意してきたのでなければ、ここに来なかったでしょう。私は新しい真理を明らかにしています。このことだけを取ってみても、この話を深く掘り下げて研究することを要求するだけの理由となります。

 今夜、最初に申し上げたとおり、皆さんも共にこれらの考えを真剣に考え、かつ神に祈ってください。神は答えてくださるでしょう。どうもありがとうございました。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.08.02 17:53:07
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