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2021.08.05
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※ webに挙げられていたみ言です。未校正で読みづらいものです。パスして構いません。




​​​​​​​​​​​​​​​「祈祷と環境的刺激」

1974年2月7日
松涛本部で


 我々が信仰生活を歩む時、くたびれた場合に前で引っぱってやったり、後ろから押してやったりする。そういうような環境を間違いなく保ってゆくならば、その目的に向ってゆくのにそう難しくはないんだね。自分一人でその目的をなしてゆくというのは、これは人間というのは朝夕に心が違ってくるんだから、考え方によっては違ってくるし過去、現在、未来あるいは青年の時、壮年の時、その時によって違ってくるんだね。だから信仰生活という、生涯をかけてすべてをのり越えるというようなそういう道を行かなければ、自分の正しい生来の目的地に達することは出来ないのが信仰生活の中心点だから、それをのり超えるには自分一人ではできないんだね。

 それからある目的、目的といってもはっきりして、科学的にあるいは実証的にわれわれが感づくような相対圏じゃないんだね。だからある時はあるようであるけれどないようでもある。そういうような観念的な目的基準にむかって行くには、ひじょうに難しい道であるというんだね。

 だからこういう道を間違いなく行くには自分一人では行けない。そのためには、信仰の友だとか、そういう友人が必要である。自分の事情をいつも連絡して、こういうような立場の現状を、いかに打破して行くかいうことを相談しうる、あるいは先生とかね。そういう関係を保てればそれは正しく行ける。また先輩があって、こういう時にはこういうふうに解決できる、というふうに直接関係をもって教えてくれればね。ひとつひとつそれはのり越えることはできるんだけど、そういう環境をもたなければ非常に難しいんだね。だから神を信じるというのは、神は存在するんだけれど実感的にはこなんだね。これをいかにして体恤するかということは非常に問題なんだね。

 どこから刺激を得るか

 一体神と関係をもつ基準はどこかという。どこでももちえるや。あるいは聖書を読めば聖書の中で関係を持ちうるか、というとそうでもない。だから聖書の中で神と因縁を満たせられなかったらどうするかというと結局、祈祷という問題になる。真心をつくして、自分のすべての忠誠をつくしてある目的とともに、それをつながせる神の存在をいかに体恤させるかというと、祈り、祈りしかないのです。祈りが非常に重要な問題になってくるよ。

 特に統一教会においては、歴史的全てが…そこにおいてあんたたちの先輩があるんじゃなくしてね、環境によって指導し得る歴史的勝利基準を持っている者もいない。みんな…これから開発してゆくというんだね。そういう立場からみた場合に、自分の毎日の信仰生活の刺激をどこで補給するか。人間がご飯を食べてエネルギーを補給するのと同様に、霊的エネルギー、霊的刺激をどこで補給するか。考えてみた場合に原理の本を研究するところも一部にはあろうね。真理の基準はその目的観念に徹し得るその理解の基準を、開拓してゆくとなると、心情の基準は通じないところがあるんだね。そうするにはその基準を両面で心情基準にまでつながらせるには、やっぱり深い祈りが問題。だから霊的体験が必要だという問題になってくるんだね。

 だから自分がいま一年の計画を立てた場合、これがどうなるかという予想がつく。それが直接霊界からの啓示でなくても直感的にでも、それを見抜き得られるというような信仰生活の本郷というか、その境地に立ってみると信仰の生活をするものは自信を持つことができない。そういう結論になるんだね。信仰生活するものは、未来においてはっきりした公式的な基準を組んで一年の計画と同じように、そういうふうにして漸次進んでゆくような物的条件基台がないというんだね。その度ごとにおいて神によって得られ、刺激されるような道であるから、絶対的に自信をもつということはなかなか難しい。それは自分一人でなく責任者という立場になると自分についているたくさんの者がいる。たくさんの者をこのままにしておくわけにはいかない。面倒をみてやらなければならない。面倒をみるということはあらゆる方面で、エネルギーを消耗するということである。それは婦人もおれば、壮年もおれば、若者も人間すべての属の各クラスの者たちが、みな自分とつき合って生命のカベをある目的に行く刺激をたのんでゆくんだね。それを指導していってみると、遠くなくして自分が果されないという思いにぶつかるのがもう自然現象なんだよ。

 毎日消もうばかりしている。まあまあ根がないというような立場に立っているということを、自分がつくづく感じるということがたくさんある。それが信仰生活する者のむなしさといおうか、そういうのがあるんだよ。そういう時であればこそ祈りが必要になってくる。だからイエス様にしてもいつも祈ったのだろうね。静かなのころへ行って全ての自分の行くべき目的にむかって、あるいは毎日の出来事に関して霊界からの指示、どういう方向に進んだならば、どういう結果になるという予感的な基台に立ってこそはじめて強いんだよ。だから目的は信仰者の立っている基準からみた場合、どこから力を得られるかというと原理とか教えね。指導する関係から刺激を受けるとともに、それ以外には祈りの他はない。あんたたち祈りというものわからんわけだろう。だから祈りの生活に入ってこそはじめて信仰生活の味を知る。祈りの世界の背後には神秘的な立体世界がつづいている。平面的な自分の感覚を超越した、立体的な感覚の世界が存在するということをつくづく感じるんだね。だからそれを自分たちが育てていかなければならない。

 君たち原理を知っているんだから、摂理の路程、摂理の方向を知っている。今どういう動向へ進んでいるか外的な情勢と原理の基準からみた場合、今の世界の神の摂理からみた場合にどういう時勢なのか。だったら神からわれわれにどういう点を要求するのだろうか。この外郭をみつめることができるのである。これは何よりも恵みだね。今までの信仰者は何もわからない。外的な世界の基準もわからなければ、内的な世界も何も基準がない。だから同じことをくり返してゆくのが信仰生活であった。それこそつらいがこの信仰生活である。だから信仰生活というのはなみなみならぬつらい道なんだね。それを何も知らないで信じているから見通しもつかない。出発の基準もはっきりしていない。過程もわからない。どこへ行っているのかわからない立場で信仰生活するのは、これはいわゆる天をしたいながらの地獄の生活にふさわしいものである。だからかわいそうなのは真実なる宗教の生活をする者である。神山牧師も中村牧師も人を指導する立場に、立ってきたんだけれど心の本随を追求してみると、自分なりに大きいことを言うとしても、自分からそれを確固した体恤の上で言うんじゃないんだね。体恤き信仰生活とうものは、実にかわいそうな立場である。

 責任者は心、食口は体

 しかしわれわれ統一教会としては神の摂理観を知っている。ああこういうふうにやってゆくんだ、いまどこにきているから未来はこういうふうになっているにちがいない。こうしたことを予想したということは偉大なことである。これを克服してからあそこへ行けるというふうに未来を予想できるから動揺しないんだね。自然的な環境によって自分に刺激される圏に立っているんだね。いまどういう段階にすすんでいるのかわかること、これは統一教会へ来て何よりほこりとするべきだよ。今までは何も知らない。先生があって歴史の段階がどういう段階にきているかということが、ずっと今の復帰歴史において話してある。それを聞いてみれば歴史はそういうふうに動いてゆくんだね。それは恐ろしいことだよ。先生が一人で言ったことが漸次世界的にその結果があらわれてくる。

 あんたたちはそういう立場において、今の時を摂理的立場からみて今の時勢の環境をはかりうる。先生があって見はかれるのじゃなくて、その基準をはっきり体恤圏として自分が身にしみるような事実のこととして、全てを体恤させるというのが何よりも尊いというんだね。じゃあ先生がいてこういう関係を持って指導される立場は問題ないんだけれど、先生の話を聞いて燃やされて帰ってゆくと、一週間くらいでまたダラーとなってしまう。それをくり返している。それはいいとね。あんたたちもやしと同じだね。水をかけずにやればみんな流れてしまうけれど、水をかけてやれば成長する。これと同じだよ。みんな自分の生命力としてためて、根となり幹となり枝となる。そういうふうになるように思えば、百%いいんだけれどみんな流れてゆくんだね。流れてゆくのころに新しい発展の自分の基準がみいだされる。水が流れていっても、それをのりきる時ごとに成長してゆくんだね。こういうようなくりかえしの人生の生活が必要だよ。だからあんたたちは指導者として、いつも考えなければならないのは周囲の関係だよ。関係が必要だよ。

 人間は、心情的に欠けた場合はさびしいんだよ。これをどこで補給すかというと食口たちを通してだよ。だからあんたがたに食口たちは絶対に必要だよ。自分たちに力なき場合には、食口たちがこうやって信仰生活をやっているのをみれば、ある時には霊界から教られる。そして自分でたずねて来て報告する。心に燃えて霊的に燃えて報告する。その報告は君たちの何人よりも尊い時間だよ。その時はいくら責任者としても、その報告をしてくれるものは、日々の生活をしてゆくうえでのメシヤと思え。その報告はその一人のために神が授けてくれたんじゃなくて、自分を刺激するために授けてやったわけある。だからその報告をその者の報告と思ったら大まちがいだ。それは自分の身代りの詞しをしていおる。そういう関係が必要だよ。だからそういう関係を結んでこれば、食口たちが恋しくなってくるよ。したうのである。早くこないか。自分ながら下の食口たちにしたがう心をもつようになる。自分が心霊状態が落ちた場合にはすぐやってくる。正しくない場合には必ず助けがやってくる。それは宇宙の原則だよ。原理の観なんだよ。そうやれば自分たちが誠をつくして食口たちを指導してゆく。

 自分が心の場合だと思えば食口たちは体の立場である。これがひとつにならなければならない。主体、客体が完全に一つにならなければ発展できない。増殖作用はできないというのが原理の教え、自分は内的な中心であり、外的な食口たちとひとつとる。特に授受作用しなければならない。自分がやれるものがければ、むこうからもらわなければならない。だから神が歩くというのに右足が、私は歩かないといぱてもそうはいかない。左足を出せば歩くようになっている。同じようにその環境でもって作用をともなわせながら、発展してゆくのが自然現象だら、あんたたちは責任者だから命令ばっかりするのであって、下の話など聞くのではないというのはまちがっている。

 子供みたいにお母さんみたいに、自分の姉さん、兄さんみたいに食口たちをしたうようになるんだよ。あんたたちそういう体験をしないだろう。だから食口たちが来た場合、立って帰るのがいちばん悲しい。そういう体験をあなたたちはしなければならないよ。もう少しおればよいのだがなあ、帰る姿をみた時にはたまり切れない。何かもう少し話をしたらよいのに、というような思いにあんたたちはいつも燃えあがっていなければならない。そうすれば帰っていってからだよ、じっとしてはおれないよ。のこのこやってくるなといってもやってきますよ。こういう心情的原理法を適用する。生活圏を保ちながら主体的立場に立つべきなのが指導者の立場だ。

 兄弟愛は神への道

 だからあんたがたはどこで力を得られるかというと、自分で得られる道がなければ、誰かによって得られなければならない。誰かというと食口である。兄弟しかないんだ。食口たちしかいないんだから、食口たちによって自分の生命の因ねんのつながりをここにおいて、結ばす以外には自分の発展する道が得られない。だからその立場と“神”。それ以外の本源には食口しかいない。地区長たちや地方で責任者になっているものたちは、命令ばかりはするんだけれどね。自分は命令ばかりするんだから、一日に命令する分も何週間も命令していると。もう命命するものがなくなってしまう。人は話が会うところによろこびが生じてくるんだね。授受作用をするところによろこびが生じてくる。ひとりで話しながらひとりで笑っていたら気ちがいである。返す作用の相対的な作用をするんだから、ここにいろいろなよろこびが生じていろいろ首をまわすしね。活動という結果も結果が必要となってくるんだよ。自分一人でえらそうなことをやっていたって何もならない。遠からず、狐独になってしまうよ。狐独でなったのを自分でよく知っているよ。みた目はからっぽで大きいことを言うということ、良心的には反作用によって苛責をおぼえる。これはいつわり者にとし、こうなってしまったら指導者は絶対できないというんだね。そういう原点に立つのが責任者なんだよ。、からその道は二つしかない。神による道によって伸展される道と、食口によって指示される道。

 しかしここであんたたちの場合、わからなくてはならない。神は見えないんだけれど、食口たちは見える。ここにおいて神を愛するより人間を愛すれば、神を愛したことに通じるということを、あんたたちは知らなければならない。なぜかというと神は親の立場である。全人類は神の子供の立場である。本当に兄弟愛でもって親より愛する兄さんがあったとすれば、その親は兄弟を愛するその兄さんに対して孝行息子、自分ばかりに孝行息子になるそのものよりもたのもしく思う。だから結局、食口を愛し、食口たちのために生きる者は、神のために生きるものである。そういうふうに生きる者は発展せざるを得ない。それは原理観からみて、完全に授受作用するところは神はその中にいます。結果において繁殖するという、原理で教える四位基台作用法則だよ。

 人間を研究しよう

 原理適用の生活、環境をあんたたちは活用できない結果に立っている、狐独になってしまう。ある新しい女の子がやってきた。それを研究する。あの目玉はああいうようになっている。鼻はああいうふうになっている。口びるは太めになっている。人相なんかは女の子にあっては、言葉はむっつりした言葉の言い方をするだろう。ああいうタイプだから、ムラなタイプだから、こういう時は必ず来る。さあっと待っていると、まさしく「あっ」まさしくムラの時で自分で報告するよ。人間に対しての研究が実におもしろい。みんなちがうんだよ。だから性格というものは、生まれながらのたまものであるというんだね。それをみて、コントロールしてゆく。あるものは霊的なタイプにちがいない。こういう感動を受けた場合は、それをオーバーする。それを病気になった者を、お医者さんが投薬して、ちゃーんと快方的に発展してゆく結果をみながら、よろこびと同じように、夜通しながら投薬して研究してよろこぶんだね。お医者さんと同じだよ。

 だからあれが入る時にはああいうふうなとんでもないしかただったのが、いまでは円満なタイプになりつつある。自分の科学的実験の結果そうなっている。そういう楽しみなければやっていかれないよ。だから食口たちの指導方法もまごころの戦いとなる。いくら自分が誠意をつくしてやったからといって、その結果はそれをだますことはできない。その通りの結果にあらわれてくる。自分が見たい、自分が恋しかったという思いのウラで、生命を愛する心情基準に立った場合には自分に対して、全てをささげて生命をかけて従うようになるよ。動機なき結果は宇宙の原則にない。だから指導者というものは動機を正しくたたせる者だ。生命を指導する。食口たちを指導することは一番むずかしい。生命の動機をいかにしてこれを応援してやるか。

 三倍投入

 それは原理のことばであるが、原理のことばは原理と自分とが一つにならなければならない。あんたがたは自分は別として原理があわない。原理が一致していないや。それは繁殖する環境がなっていない。主体と客体が完全に授受作用してひとつになるところによって、中心点が決しているところで神が臨在し、神が臨在するところで三倍基台を中心として、四位基台結果が生まれてくる。宇宙の創造原理なんだからね。だから人間はまことでなければまことの結果はうまれてきません。だからそのまことをどこに立たせるのかどこに求めるか、自分自体に求めることができなかった場合に、相対圏に求めた自分には、相対者を中心として自分にみとめることによって、自分の基準を正せることができるよ。そうだろう。逆もまた真なり、と同じように、自分がいまどういう者になっているや、環境からいやがられて、自分だけがいくらえらそうな顔つきをしていてもついてこない。だから先生は考えるんだよ。自分は食口たちと神、これがなければ通じない。あんたたち祈祷生活やらなかった場合には、食口たちのために自分なりの今までの経験でもずーっと証しをする。その証しをする時にその証しをするのでも自分が聞いた証しではしかたがない。体験した証しをした場合には、証しする時にその証しを聞いて燃えあがった場合には再び燃えあがる。

 だから生涯において、そういうプログラムをつくるんだよ。自分の生涯、み恵になった、そういうものは必ず操行に出てくるんだね。そして食口たちの指導する方法に適応される。自分の経験しないことを人に経験させることはできない。だから問題は環境をいかに結びつけるかということは問題だよ。それをもしも出来なかった場合には、まずもって神とひとつになった場合、授受作用した場合には繁殖。それは何によって(聞きとり不明)せるか、心情だ。神が恋しくて恋しくてたまらない夜どおししながら、祈りの深さによって神秘的な神さまの心情世界にうたれることが何よりも尊い。そういう宝の世界一の基準を早くみんなに分かちてあげたいと、そういう思いにこがれて話しかけると、すぐ自分の体恤した基準の相対結果物として立つ。神の心情基準をなしえたその基準は、距離をはなれてもその結果が生まれてくるよ。だから信仰生活には体恤の基台がなければならないということになるんだよ。

 だから祷することと環境的刺激、あんたたちは指導者がいて、友だちがいて刺激してうれればいいんだけれど、そうじゃない。ひとりぼっちだよ。みんな倉庫とすれば、サギを開けて配給するばかりであってもらえないんだろう。上からはやぱても方法がなければならない。だから食口たちからもらう、絶対にもらう観念をもたなければならない。今までそういう思いをしたもの手をあげてみな。たいがいそうは思わないんだね。

 まあ、アベルとカインとして、アベルにカインは絶対服従、カインのいないところにアベルがあるの、同等な位置だよ。アベルはやることであり、カインはもらってそれを返す立場である。だからまことにやるんだからまことに返してくる。サタン屈服させる方法なんだよ。神は自分をやってそんをして、サタンの悪の基準を消もうする蕩減条件を導入して、誰が導入するか、アベルが導入する。いままでの日本の考えでまちがっているところがある。カインはアベルに屈服する?そうじゃないよ。やって蕩減させてやる。蕩減させてやることによって善なる結果が帰ってくるんだよ。蕩減させないところには、善なる結果は帰って来ないよ。善なる基準というのは悪なる基準にとどまらない。悪なる基準を善に返すのは、それ相当の善が蕩減される基準に犠牲にならなければ、悪なる世界において善なる基準は絶対に生まれてきません。だからアベルというものは、カインに善を授けてやらなければならない。蕩減の条件を授けてやらなければならない。

 今まで日本の責任者たちの観念は反対である。絶対服従すればよい。それは通じませんよ。カインがアベルの方に絶対服従するという原則がなりたつか。サタンだよ。シチンぎ絶対服屈伏するか絶対反発だよ。そういう指導方針はまるきりまちがっている。神の世界とサタンの世界はカイン・アベルにかかわらず、アベルにカインは服従という立場は、そういう原則は反発原則であって、服従はありません。だからそれを服従させるには自分の投入結果が三倍あったらひとつ返ってくる。それは原理原則なんですよ。なぜかといえば蘇生、長成はサタンが持っている。完成基準が神の基準として復帰の基台となっている。だから三倍投入して一つが帰ってくるのが復帰路程の原則である。

 何故日本の統一教会が発展しないか、君たの信仰姿勢がなっていない。地区長たちの観念的自分の意識観が、天的基準に通じる基準に立っていないことになっている。地区長は命令ばかりするじゃない。寝る時も、みんな寝かして親の立場に立たなければならない。いままで世の中にうまれて自分たちのためにやった親以上に、できないものは天的指導者としては零である。ものがあった場合、いいものは自分。これじゃサタンより悪いじゃないか。いいものがあったら自分が食う。いいものがあったら自分が着るし、そうはいけない。これは原則に違反する。だからいくら真心をつくしてやってみたか、なみだながらにやってみたか。手をにぎりながら自分が責任をもってこれを生かしてやらなければ、ならないというような心情圏に立ったものがいくらあるか、反省しなければならないよ。

 だから原理的指導方法をいつも考えなければならない。カイン・アベルのことばの方法をなしえたって結果はとんでもない結果になる。原則的方法を適用することによって、原則的発展をみなすのが原理であって基準を立てずしては原理的結果は生まれてこないが自然だよ。問題はそこなんだよ。だから食口たちは必要だ。絶対必要だ。朝御飯より必要なのが食口だよ。

 恐ろしい責任者の立場

 なにもないところで自分一人でボヤーとしていて昼寝ばかりしているような者は罰せられるよ。将来の末はよくありません。だから、君たちは地方において食口たちがカンパをして全ての自分個人を犠牲にして、踏みにじって御旨のためにたって、自分の面子も何も思わずして、天ばかりしたいつつ、もうけた金を地区長さんたちが心の痛みに思わず、それを使うとううこと神はぜしません。先生はそんなことはしません。先生は喫茶店も入らない。絶一人では入らない。いちばん恐しい。恐しい金だよ。金を持っていた場合、あっよかった、そうはいかないよ。恐しいものだよ。その金はどういうまごころをつくして入ってきた金かというと、自分の主体的な立場の基準を保ってやらないと引っかかるよ。

 だからあなたがたは涙ながら見送らなければならない。

 身代りとして奉仕するその素直さ。それは善なり。思いをきよくする。そのくらしを自分が感謝しないようなものではこれは人ではありません。今まであんたたち、たいがいの責任者たちはそういうことをしてきている。先生が霊的にみた場合にはね。

 だから食口は絶対必要だよ。独、ひとりぼっちに自分が来ているところにこの自分をたよりとして、生命がけでとりとしてかけよゃてくるってことは考えてみな。その真剣さに対して、あんたたちいつわり者である。それ以上真剣でなかったらいつわり者になるじゃないか。善はそうじゃない。そうだろう。生命かけてやってきている、そのものを自分たちはとんでもない待ぐうをしてやった場合はその人の道は、いくら神様が助ようとしても助けられない。助けようとしたらサタンがざん訴するよ。だから直接に訪ねてくる食口たちに王様を迎えるような思いで、それ以上しなければならない。この子供が天の王様の子供になるんだから水だから堕落した自分たちからみて、神が本当に愛するそういう人をつかわしておったとするならば、王様を迎えるような心情を持って食口を迎えなければならない。

 そういう基準からあんたたち自分を反対してみな。自分がどんな責者だったか。まことの指導者だったらいつわりの指導者だったか。そういう根本的基準から正しておかなければならなかったと思う。食口なければ呼吸もできない。息を出した場合は吸わなければならない。自分がやったにもかかわらず、よろこぶ。自分たちから得られるの、相対的から得られる。だから食口たちを教えてみて原理はすばらしい。いやこの話しは生命が復活されるんだね。それわかるんだよ。だからまごころで伝え、いつわりなくまごころで伝え、慎重にいかに徹しているかと、それが恐しい。先生だってそうだよ。全米二十一ヵ所の講演やった時、毎日、口を開ければレコードみたいに言葉がでるようになっている。しかしそうかとってていつもその基準だったらまちがい。出発する十月一日のカーネギー・ホールに立つその時の心情以上の基準をいかに体恤するか行けが行くほどむずかしい。やればやるほど恐しい。だから壇上に出るその瞬間は、犯罪人が公判場、裁きの場に立って最後の審判のちょうど宣告のことばを受ける瞬間である。なぜかというと自分があやまった場合には、天来いままでまごころをつくした数多くの生命が切れる。自分の発した言葉には責任を持たなければならない。無責任の立場でその人を殺した場合はだれに追求するかといえば、殺したその者に追求する。だから責任がある。だから統一教会の指導者としてずっと多年間やったものは、こういう原則を忘れてはならない。

 自分を中心としてった指導者の後がない。必ずその子供は不良になり、後孫がきれる。

 天の原則はそうなっている。だからおそろしい。そういうこと感じたことあるの、原理は一回聞いたらいいや、二度、何回聞いたらそれでいい。それでいいんじゃないよ。自分の拾姿勢いかんでは、永遠に深く入る基準心情世界だよ。毎日同じことを講義するといって、それを通りすがりの道において友達と語り合うようなそういう講義はしません。だから環境と通じ霊界と通じる仲介役だね。これを自分がなさなければならない。そうするには愛の心を仲介しなければならないのだから、愛するしたう心をもって、愛しなければならない。自分の責任でもって(不明)ないと愛されるものは生まれてきませんよ。先生だに今までそうやっているのにあんたたち考えてみな。(不明)やっていままでやったのだろう。そうだろう。何の結果もない自分の中心的何ももっていない立場で、いままでふりかけていた。それは棒をもちながらふりかけていたという立場だろう。それでは行けば行くほどむなしくなる結果しか生まれてきません。天がいないようになる。統一教会自体は既成教会と何ら変わるや済同じだ。

 食口から刺激を得る

 だから刺激はあんたたちとしては食口以外にないしね。食口、それから神様。だから自信をもっている者が指導者じゃありませんよ。神を正して自信を持て、神の命令あっては神より強くなければならない。神、自分とともになすというところには、悪魔も審かなければならない正義に立って切らなければならない。強いものだね。だから神と自分がひとつにならなければ強い者になれないぞ。神と自分が一つになってこそこれは統一教会の心情的中心が立たれるのであって自分一人で心情的基準活立たれるの。

 考えてみな、原理的に分析してみな。原理は人に教えるために勉強するのではありませんよ。自分が原理を中心として生活するために勉強するんだよ。講義をよくやるものが指導者じゃありません。だからこんど商売もやれ、伝道もやれ。先生たちの姿を知らなかっ小相対圏の責任を持つことは出来ないから。商売やっている食口たちのつらさを考えたことがあるか。街頭に立って涙ながら、あいは電信柱をかかて要求しながら天に祈ったそういう立場もある。一本、一本涙を流しながら神に祈りつつかかえつつ販売したものをそれを思いもせず、どろぼうみたいに自分たちでで横どりしてかってに使いやがってそうはいきません。そういう者はサタン世界にも通じません。だから涙を流せ。それは物を愛る神さまを愛するように。物質を愛する神さまを発見せよ。

 日本では何もしないで入った年令で入ってきたから、とんでもない、とうったんだよ。次は人を愛する神さまを発見する。伝道せよ。「伝道するのは君たちの使命でわしは話す使命である。」これはだめだよ。親になるには子供の過程を通過して親の過程までかねてこそ親になるんだよ。先生はそういう訓練をやってきたよ。だから先生がいちばんたまり切れないことは人をむやみに使うもの、人のものをむやみに消もうするものである。いくら古い者としても、金をムダに使うものは、先生自体が一瞬を今おしんでいるよ。だからお母さんにいつもいわれているよ。中きいことをやる人なんだけど入ってみるというと一瞬もゆうずうがないね。何かみやげなんかもってきたら、ちゃーんとためておくよ。そういうような原則を知っているからね。それに違反した場合には自分がはねられるよ。だからそういう立場をみた場合に、いつももらいたい、いつもやりたいという思いだよ。いつもやらなければならない。神の前にはいつももらわなければならない。もらうものは百%もらうけんそんにならなくてはならない。また、やるには百%忠実にやらなければならない。そうみれば自分は何もないじゃないか。もらって百%やったら、永遠の水が同じく流れてくるんだね。それは真理だよ。

 今、先生にしても韓国に相当もっているんだけれど、まごころつくして昼夜休まず工場が発展するためにだれよりも努力したんだけれどね。信じてあんたたに任せる。もしこれを空しく使った場合には、その手を通して、体を通してその一銭がつたわる。今まで自分がつくしたその金はぬすんでゆく者がありません。もっていった場合には、弁償、利子だけ加えてさがす。そう考えている。神が反対する。そういう信仰の姿勢が重大だよ。

 そういった場合、本当に人を愛するか、本当に親子以上にやってみた。やりながらも恥しい。やりながらも悲しい。真の親の心はやりながらも天下すべてのものをやっても、足らない原理だよ。このものをやるには、わしは待ってちょうだい。やりながら足らなさを感じる親心、君にはいつかやったんだろう。それを返してちょうだい。親はこれをやって忘れてしまう。そういう心情が本来の心情圏だろう。そういう心情圏はだれもが願うよ。そういう指導者はだれでもひとつになる。指揮下に入って休みたいし入って寝たいし、ついて回りたいし、とよに行きたい。だからそういった心情圏に立ってみな、夜をあかしてもむこうは立つことができない。

 これを立つにひれふして何べんもおわびして立つような思いになるんだよ。だから食口たちがなければならない。千億万円あっても食口たちを求めて回らなければならな立場が地区長である。責任者だよ。それを得た時には金が問題ではない。生命の尊とさにはほれてしまう。の成長ぶりをみて、天下何ものにもたとえられないようなよろこびを感じる。それは神さまの創造の姿じゃないか、その創造のあとを体恤することができる。だから神はそういうことを人間を通して経験した人だから、神さまが人間をつくゆときの心情がどうであるかということが直感的にわかるよ。そういう経験があればばむこうではっと話をすれば、あっ何のために話しているかすぐわかるんだよ。あの人はああいう知らずにやっている結局、口を開けて話せばばこういうふうになるんだだろう。ちゃんとそうなってくるんだよ。そういう予感圏がひろがってくるんだよ。それは神の心情圏ををともなわなければその予感圏が発展して来ないんだね。そういう方面の教育は、将来立った時には、先生は本格的に教育しようと思っている。本心的教育ね。それをあん達原理を中心として原理の生活をやれ。

 食口は必要だよ。神さまの身代りとなって再創造するのが責任者だよ再創造するにはいずこからももってこなくてはならない。全ての鉱物が入っているから、みんな運んでやって、その原素をとって合わせなければならない。それと同じだよ。だから部落一体を山から、話原か全部愛して回るんだだよ。君たちは自分の県の全てのところ自分の足でふまなれていないところばない。君も成長したろう。ここに来ているぼくも一年間こうなったよ。生きているものは成長するんだから、枝のない自分に三人、四人枝になってきたよ。。友なり語りあうよろこびを感じるように。ものを愛し、人を愛する道が神につづうてゆく道であるとわかりましたね。


 投入

 自分を愛するところには何ものも存在することは出来ない。善の基準は何かというと、神様が創造する前は自分を考えるときだったね。そして創造というのは相対者をつくる立場をいう。絶対なる神が相対者として必要とするのは絶対的相対者である。だから神が百の力あったとするならば百の力以上のものを投入したいのが神の思いである。われわれ人間が結婚、相対者を求めるとき、自分より増したものを願うのが人情だよ。神様に似てい引からそうなるんだよ。自分より立派な自分者をもらいたいものだよ。なぜかというと、完全にそれと一体となれば自分が立派なものになるからだよ。もしも自分が六十%で、百%の相手とひとつになった場合には、それが善なる目的だったら四十%のものが加わるんだね。だから、小さいものから大きいものへと発展してゆくようになっ点ている。それは宇宙の原則だよ済いい相対者を求めるのは宇宙の原則だ。

 こういう原則の論法を神に適用するならば、神は主体であるから水神の相対者としてそれを立たせるためには神より以上のものを立たせたいんだから、相対創造には無限の全能なる力を百%より以上里入したい思いは神の相対者をより大きいものとして愛したい思いからみて事実を有の立場に立っては完全の相対圏は生まれてきません。千の主体であるものが、千そのまま残して千の相対者として生まれてきません。千そのものを相対の位置に完全に移動しておくところにおいて千なる相対基準はうまれてくる。そうなると主体はどうなるかというとマイナス、完全になくなる。

 だから百%投入したところに百の結果が生まれてくる。もし善なる百%自神様活法決'投入すれば、法決%の相対者しかうまれてこない済それをみて神はよろこばない。百%より以上のものを投入したい思いにかなって、その結果があらわれてきた場合に神様よろこぶのであって止だから相対基準を求める立場に立つその時には、自分というような存在観念は無視しないところには完全なる相対は生まれてきません。

 理想存在は自分のために存在しようという観念にはありません。相対のために存在する。理想圏はそこからはじまる。だから女の理想は何か水女水自分を中心としての理想じゃないよ。男が女の理想だよ。男の理想は何か。男の理想は男じゃないよ。男の理想は女だよ。結局、男は何のために生まれてきたかというと自分のために生まれたのじゃなくして、女のために生まれている。それを自分のために生まれたと思うのが堕落圏だよ。それを転換すれば理想世界だよ。簡単なんだよ。だから、ために生きる道によってまことの善、まことの理想、まことの愛が生まれるのであって、自分を中心にして生きるところにまことの理想と永遠の愛は生まれてきません。

 だから自分は自分のために存在するというところに理想はありません。真の愛のために生まれて存在したという立場をみたすところに真の愛がうまれてくる。この原則を宇宙の理想的原則として神は摂理の大憲法として宇宙のそれではかっている。だから善の道を行きたいのは人のためにやれ。

 神がそういうふうにために生きるところにそうしたら、神自体は何もなくなってしまうじゃないか。そうじゃありませんよ。天宙宙全てのその中心の力の本源である。主管の原動力となっているその愛は自分から生まれてくるのではありません。相対者から生まれてくるのであるから、いくら全能なる神でも相対者である人間をみたさない以上は、神の愛を発見することは出来ません。

 だから愛の完全のために創造を成したということは、既成教会の牧にはわからないよ。先生はこの公式を中心にして今までやってきた。この公式でもってやってゆけば栄える。完全なる善の基準にあった場合にはその相対者は善にとよなってひとつになれる。それは理想的だよ。原則的だよ。だから個人は家庭のために完全投入せよ。それは投入は神様が創造すると完全に家庭に投入した場合にはその家庭が自分にかよって創造されてくるよ。結局、そういった場合は完全投入有しきった全部がまちがいなく、完全に受けたというころにはひとつとなって誰を主体とするかというと完全投入した神と同じ立場だ。身代りの者となっているからそこを中心として中心者になるよ。それで神と同じように中心者になった場合には、より大きい目的観についてゆくには人をたてていかなければならない。

 だから、完全投入してみな、完全投入しない者は完全なる喜びを得ることができない。だから堕落は何かというと自分の存在意識を認識しはじめたのが堕落の本源だよ。サタンは何か、自分の存在意識を主張しだした。堕落エバは何だ、自分を中心として存在意識を持ちたいと、ああいうふうにして自分がよろこびたいということだったんだよ。

 すばらしい天的心情圏

 だから人を愛するには完全に物をその人に犠牲にしなければその人を愛することは出来ない。物を愛し、人も愛し、その人自体を完全に神のために犠牲にするという立場になければ神を愛することは出来ない。それを適応してゆけばどこへ行っても刺激を得るよ。責任者は環境によって刺激をされなければならないよ。

 雪なんか降る晩は先生は寝ないよ。刺激がすばらしい。やってみな。夜を通してずっと雪の中を歩く刺激はすばらしい。天下を求めてゆく一人男のすばらしさよ。だれもみれないんだけど、天とともにささやきながら、ある目的にむかって進むすばらしさよ。英雄みたいな思い。なんで雪が降るや。今晩、祝賀のために雪が降るんだ。こう思うんだよ。そういう生活が必要だよ。夜を通して歩いたり、山をぶらついたり、松林なんか、いっぱいしげっているまっくらなところで止あるところへ行った場合にはポカッと穴をあけて三ヵ月が、さーっと照りそそぐそういう立場の神秘さは刺激的である。だから先生は自然をとても愛する。清平に行って来た。朝また早く行く、三、四時間しかいない。なんで行くや。それこそわからない。朝の気持と夜の気持はちがう。自然をなぜ愛するか。自分の象像的性相の相対者である。そうじゃないの。それを愛しなければならないや。人間は自分の実体的相対者、神は主体的相対者である。

 三相対者を持つ自分は幸福である。

 だから刺激が必要だよ。より高い刺激を得るには物を愛し、人を愛せ、それができなければ神を愛せ。神と因ねんを持て、祈祷せよ。

 韓国においては、先生は最初のときにね、それこそ純粋なまごころでもってやった。百%の心情でやる。そういう時にはみんな問題になってくるよ。一度会ったものは帰れない。帰らない。青坂洞の本部にいった場合には、足が動かないんだね。死ぬならこの周辺で死にたい。なぜそういうことになるか、それはまことの基準に立ったとするならば、その相対圏に立つのが理想だから、それは死にものぐるいだ。生命なんか問題ないよ。だから先生がみたくてみたくてしょうがないよ。ねむりながらも「先生!」と呼びかける。そういうところまで入るんだよ。これはもう感覚もすべてがかたまってしまう。だからそうみれば天的な心情圏はすばらしい境地だよ。そういうすばらしい境地にむかってゆくときなのに、あんたたちなんだ。通りすがりの酒場で安い酒でも飲んでたわむれるようなやり方じゃまずいよ。だから食口を愛せ。食口のため自分の一身を昼も夜も、自分が寝られなくてもやれ。百%やってみな。結果はどうなるか。統一教会の原理の実相はどうか実行してみな。実行して反応がなければウソだよ。ウソ。思想統一、世界統一といっても空ら言葉にすぎない。そうやれば、その実相圏は、神がいますその環境をこの目でみることができる。よろこぶ姿をこの目でみることができる。

 あんたたちは統一教会のすばらしさがわからないんだよ。先生はいつもホールに立って話すああいう先生だと思うんだけど、そういう簡単な、存在ではありません。深いものを持っているんだよ。何かある。何かあるんだよ。先生が真剣になったとするならば、その環境は真剣になるよ。これが宇宙の原則になっている。

 自分をやり直せ

 そういうすばらしい統一教会へ入って何だ一年、二年たっても伝道できない?何人伝道やったや。統一教会へ入って何人伝道やったや。いったい自分が統一教会へ入って、先生があんなにいつも復帰の道をゆかねばならないということを教えたのに、三人と十二人百二十人まで伝道しなければイエス様の相対圏を成し得なかったならば、それは神のうらみとイエスさまのひとり子のうらみとイスラエル国家圏のうらみを蕩減することはできないということを教えているにもかかわらず、それを本気におしかけて、百%投入する。創造する神の立場に立って、自分を投入したことあるや。原理から聞いた場合、あるや?なきや?それを投入せずして相対者がうまれてくることはドロボーだよ。そんな神ではありませんよ。

 完全なる投入をしてから完全なる相対圏を求めるというのが神の再創造の原則である。われわれは神によってゆかねばならない立場にあるにもかかわらず、それを原則は無視して、自分なりの方法にしたがって、神様は自分のしもべになるの?そうはいきませんよ。だからあんたたち何かがまちがっているんだね。何がまちがっておるよ(大声)いままでやったこと何かまちがっておるよ。だから自分をやり直せ。それは理論的だよ理論的に。盲目的にじゃないよ。イエス様は人のために生命をささげるものが愛といったんだけど、なぜの原則は教えていないよ。われわれは理論的にちゃんと知っているじゃないの。完全投入して、もし完全相対者が生まれて来なかった場合には、統一思想、統一原理はうそである。文先生も神さまもあったものじゃないね。先生は実験してまちがいないとして統一教会の責任者に立つ。全ての迫害の道を堂々と行けるという、そういう実証をみてからこういうみちをふみ出しているんだよ。

 いまでもそうだ、アメリカの講演会の時は一人でもいい。人はたくさんこなくても、神とわしの二人だけでもいい。それで四位基台がつくられるからね。そう思っているんだよ。だからそういう立場に立っていまから帰ってやって。完全投入をやってみな。完全投入をやってみな。完全投入すれば自分の相対者はかならずうまれてくる。うまれてこなかったら、宇宙全体の神の復帰路程と神の復帰摂理は絶対可能ではありません。
 だから神は完全投入するから歴史は、動揺しても完全の相対者は一人でもよいから歴史過程に残されてこれを因ねんとして、次のときまで延長させることができる。それでもって神は発展の末が近づくのをみながらしのびきっている。末の世界にむけて摂理をめてきた。さあ、それでは自分はいままで完全投入してみた。考えてみな、いかに複雑か。

 復帰の道を行くにはわしが全てをささげて感謝すべき三人の子女が必要だ。十二人の子女が天に通\ゆく原則的だよ。だからそういうふうに再創造していって、自分を完全投入、三人、十二人、七十二人、百二十人が限界だよ。イエスさまの身代りに、ペンテコステのとき、百二十名が立たされた。これは世界的だよね。しかしそれは霊的であって実体的ではない。実体的基準を立たせるには、統一教会の自分はいままでそれをやってきているんだよ。

 だから統一の氏族は自分に絶対服従しなければならない。服従しないものは、ぶつぶつということはいわれません。自分が世界的先頭に立っているにもかかわらず、自分は家庭的基準においてぶつぶつ言われるか。そういう原則なんだよ。原則的生活をしないものは将来さばかれる。一族がさばかれた場合には先祖だに引っかかってしまう。三時代が引っかかるよ。アダム家庭、ノア家庭、それからヤコブ家庭の三時代が引っかかゃちゃうんだよ。過去、現在、未来の後孫まで引っかかっちゃう。こういう重大な問題をかかえて天地に布告して勝利的基準として立たすのが祝福家庭なんだよ。おそろしいよ。だからいい気になって自分から祝福されて自分の気ままに、とんでもないよ。自分はそういう無力な男じゃありませんよ。

 だからイエスさまひとりによって過去が解放され、現在が解放され、未来が解放される。三時代が解放される。一人が引かかった場場は三時代が引っかかる。だから自分の夫が問題じゃないよ。自分の妻が問題じゃないよ。

 大移動で摂理は発展

 その時は大移動のときがやってくるよ。摂理の発展は大移動によって発展してくるんだね。だから神様はノアもアララテ山にひき出して神とひとつになって投入して親族を引っぱり出す。アブラハムを引っぱり出して神とひとつになって、親族をロトと住むんだね。ヤコブも引き出して訓練して、ひとつになって、自分の兄弟エソウをすくうよ。イスラエル民族を引き出してカナンの民族をすくおうとするのが応じなかったから滅ぶんだね。原則はそうだよ。だからキリスト教中心の大移動したのがアメリカだ。アメリカを引き出して訓練して神とひとつにしてヨーロッパをすくわなければならない。ヨーロッパをすくった場場にはキリスト教をすくわなければならない。キリスト教をすくった場合にはユダヤ教をすくってやらなければならない。それをすくってから宗教をすくってやらなければならない。

 復帰段階は兄弟をすくうのだよ。兄さんをすくう道になっているよ。だから統一教会は大移動をする。だからあんたたちも移動するだろう。統一教会信じたものは東京のものが大移動する。全国へ行け!ハイ、ハイ。北海道へ行く。鹿児島へ行く。定着民ではありません。世界的移動人事でやっているだろう。日本からアメリカ来い。それからアメリカからヨーロッパへ行け!授受作用することによってひとつになる。

 だからあんたがたの父母は親泣かせの原研、なぜ?大移動するから。呼び出して訓練して、完全に神とひとつになって、絶対信じるようになったんだから今は帰って家庭を復帰するようになっている。公式的にはそういうふうになっているんだよ。みんな原理通りじゃないか。先生は無鉄砲にやるんじゃありませんよ。あんたがたは氏族復帰しなければならない。これはイエスさまの身代りね。イエスさまは氏族復帰圏は得られなかったから死んだんだから、イエスさま以上の基準を復帰できなければ神の子供になれません。本当は氏族復帰基台のうえに祝福されるんだよ。今まであんたたちは何もないうえに祝福されるのは、自分が統一氏族圏みたいな基準をつくってやったんだから、自分が直接責任持っているんだから祝福やるんであって、ぜったいできません。

 だから今まで、統一教会が有名になれば、一家、一族は一ぺんにあんたたちの話を聞くような時が来るんだよ。だから善なるうわさを全国につたわるようにして、一家がいっきょに生命をかけるようにして止誓って神に帰るようにならなれば氏族復帰ができるよ。そういうときがだんだん近近よってくるんだよ。

 だからわれわれは人数が少なくても全国的活動をする。少ない者が全国的活動をするためには倍以上の何十倍の働きをしながらやっていかなければならない。四十年の荒野予イスラエル民族の大移動のときだよ。いったりきたりしているんだろう我だから自分、四十年間だよ。四十年間。自分四十年から八十年まで。自分が八十一才になった場場合には、世界は限界までゆかなければならない。三次七年路程は自分が満六十才までだよ。二十年間〆それで国家基準を十二として、蕩減的世界を中心点を復帰しなければならない基準だから、それが韓国と日本とアメリカ、これは三位基台をみているんだよ。それが日本が果せなかった場合は、民主々義日本がもしも、今年までだよ。日本が問題なく共産圏にまき込まれなかった場場には延長されるよ。共産圏にまき込まれた場場には、統一教会の日本摂理は撤収だよ。その時は、先生が統一教会へ行ったんだから、それが可能であるよ。アメリカへ行って、日本と先生とヨーロッパの食口、全世界の食口をかためてアメリカに集中させるんだから、再び世界的拡大することができるよ。

 日本が失敗した場合にはイギリスが再び、エバ国家として登場する。そうなっているんだよ。だから先生がアメリカを中心としてアメリカがアダムの立場であるとするならば、イギリスはエバになって、ドイツが天使長の立場になる。ソ連と本格的に戦わなければならなくなる。結局は共産党と戦わなければならない。だから日本において生命がけでやらなければならないときだというんだね。みんながやらなければ久保木会長が先頭に立って宣伝せよ。救国の予言とか、みんな国を救うためには彼らはやった、もしも全国的に動かなくても、みんながそう認める方向に行かなければならない。日本の神の摂理の祝福条件をみんなかき集めることだよ。

 それで先生はもうアメリカへ家族移動したんだよ。だから韓国の情勢は動揺する。こんど帰ってきたのもね天的な条件でも残してゆこうとして帰ってきたんだよ。こんどいって式でもあげて祈祷をあげて、君たちはわからないだろうが、先頭に立って先生は自分のゆくべき道を堂々と歩いているんだよ。君たちが滅んでも先生は滅びません。日本一国が滅びても日本が問題じゃない。日本を捨てていっても、世界を保ってやったほうが、日本を世界が保ってやる道があるから、結局、それが全体のためになるんだから、先生がとじ込もってこうなった場合には、先生が引っぱかかったらどうなるや。それで韓国へ行って先頭を行って韓国のキリスト教を歴史にないことをやる。

 韓国へ行って先生はいちばん祈祷したのは韓国の人よりアメリカ人を愛し得るか。先生は韓国人だよ。韓国の食口たちがいろいろ内的においてブツブツいうものが生まれてきた。それは神の作戦上そうやっと思うよ。そういう者がいなかったとすれば、韓国立つのに先生は非常にさびしかったんだから、前もってちゃんと、こころをこれじゃいけないと、前もって移動するよう基準を正して。こうやったのもね、神の摂理をなすために、一時は動揺しても神が内的にそういうことを引きおこしてやったんだと思うよ。それにみんなくうち切ぱて立った場場は、完全に切り変えて、まごころを尽し得るかということは非常に心配だった。しかし、さあっと行くというと神が切りかえさせる。それが韓国に対してはもう一日も忘れなかった先生がね。韓国に対する思いは完全になくしなければならない。そうだろう。まごころというのはふたつない。

 責任者は自信無いのが原則

 自信をもつのは本当の責任者ではありません。自信がないのが原則だ。堕落した人間にとって絶対なる神の前に自信を持って立つものが現われ!そういうのが世の中にいるの。いると思う?しれはいないよ。だから自信持つな。み恵みをしたうまごそろ以外になにもいりません。いま神が自分に何をそそいでくださるというようなしたわしい思いにうたれる境地が必要だというんだね。お父さ!静かな部屋の中で呼びかけると、お父さまの声が部屋いっぱいになってしまう。そういう思いにうたれる境地が必要だよ。

 「お父さま」と呼びかけると、空気全てがお父さまの肌みたいに感じられる。そういう体験するの。小さい窓を開けて出発するときはお父さまこの子供は今日一日また行きます。神の権威と神のメンツと威信を立たしめるために今日は出ますからど一ぞそこなわない道に……。それが幼な子子の心だよ。どうぞお願い申しあげます。どういう道を行きましょうか。別れ道はだね。別れ道はどういうふうに行きましょうか、心のままに従がって行った場、とんでもないことになるんだね。そういう生活の基準をやってゆくべきものに自信持つことができるや。すがるこころだよ。すがる心以外にない。だから自信持たないのが正式だということがわかりましたね。

 だから神を中心として立った場場には心配するな。あんたたちもそいう境地に入れば同じようなことが沢山おこるよ。これは果さなければならない。そういう自分の立場において、準備をしていないし、話しをしなければならないし、これを生命をたすけてやらなければならないし、そうした場合には、腹の底から悲しみがおきあがってくる。そういう立場に立って神さまお願いします。ラッパみたいにふくれあがったよ。神様が話す。ういうのを体恤するんだよ。そうなってみな、いくら悪魔のようなものでも、そういうような復帰の道もあるということを体験したことのある人は何の心配あるや。だから愛すき神様以外にない。そういう心情が大切だよ。

 いっぱいにあふれて、いまだにだれかが「ポン」と涙をこぼせば、いっぱいにあふれてぼらると同じ。一点こぼれた場合にはザーッとでる口からはみんな涙が流れる。そういう心情にうたれてみな。これがいちばん尊いよ。

 だからあんたがた伝道にいった場場には、みちばたを歩くには、自分もたまらなくで電柱をかかえて涙ぐむような路程が一日に何回もなければならないよ。そうなった場場にに伝道は天が先祖たちが応援してくれるよ、それは霊界動員して夢にみて、みちばたで会って「はっ」ととんでもない人が引っかかってくる。「あなたさま」「なんだい」「実はね、昨晩あなたさまと夢の中でお会いになりました」そういう一言で生命がけで従う。そういう一日を送るんだねよ。そういう現象をおこさないようになったものさ責任の不足である。責任者の足らないところからそうなるよ、

 いっぱいになってあふれる水みたいに親をしたう心に信じられないこの世界において、たった一人のお方だけ、全てをささげても価値が残る。全てをささげてもそれにむくいられるようなお方を待べられる自分、それを見出したときの感謝、それを表現もできないや。草をみて、ああ、ぼくを知っていた、話しかけたい、そうすれば通じるよ。そういう心情が問題なんだね。

 説教が問題じゃありません。もいも説教的な心情にあふれて「あなたさま」一言で雄弁より以上の説教を身代りとしてすることができるよ。表情でもってね。実力は天下最高の実力者じゃないの。そこにコードだけつけておけば電流は深れるそういう心情が心要だ。そういう基準から批判してみな。自分がどんなものかね。泥棒だよ、泥棒。許されない泥棒だ。これが今日まで残ったのが奇跡である。

 自信ないと失敗するんだね。自信あるお方に侍れ、そうなるよ。それから食口たちがなければならない。先生はそういうときがあるよ。自分の家庭とかを潟ててね。天が寄こす食口を待つ時間というのは今でも忘れない。ずっと祈れば大衆の声が聞えるようになる。「先生!」大衆の声が聞こえる。これを神につなぎひきぬばそれば全てが通じるにもかかわらず、神の一まいが残ったんだね。そうだろう。むこうは生丙の起路に立って救いを求めている。それを手がとどかない。行かれない。こういうような苦しみ、これは神の心情である。

 日本は体質転換せよ

 いかにそれをのり越えることができるか。どこかに穴があるんだね。行かれなくとも通じる穴はどこかにひとつはあるんだね。神は摂理のみ手をこの地上に、悪の世界に働きかけるんだから、その穴はある。そこをみかけたとするならば通じる道がある。それをいかにみかけるや。夜、昼にそれをみかけるために、苦労するその瞬間は真剣なものだよ。そうしてそれをみかけて、通じて話しかける。そのささやく声というのは声というとのは天下いずれのことをやっめを求められない神秘的な境がある。 そういうふうにして朝ずっと待って一日中待ってもそれは忘れられない。一日中二十四時間待ってね。ああ来る来る来る。来るんだね。まだこれはつづかない。来ておる。それは実感するんだから、それはいつ会うや。あう瞬間来るんだろう。そういうふうな境地で人がよこされてきたと思うには、その人を愛する子供たちを地獄におとして、その電報や手紙つのより以上、深刻なものだね。人が先生の立場にあった場場にに、一生忘れてとびかけるようなた思ちになるんだよ。慕いこがれるそういう思いというものは尊いものだよ。そういうつうにすれば必ず人がよこしてくるよ。寝るどころじゃないよ。食うどころじゃないよ。すわっているのが立つのもいやになる。暗くなるのもいやだ、。先生の心情を打ちかける二人の間のその世界は天宙すべてが注目する観にうたれるね。そういう立場で話しかけてみな。その人はどうなるか。けっとばしても帰りません。

 そういう因ねんの続きをね、拡大して日本列島生みなおさなければならないのがあんたたちの使命なんだよ。先生が金教会長にはじめて会って出発したとき、ひとつの場所にすわって二十一時間すごした。そういう体験があるんだから、いくら国が反対しても通じません。首を切っても通じません。いまでもそうだよ。先生は深刻になればそういう境地に入るよ。そういう因ねんのつながりが結ばれたならば、生死の境が問題じゃあないんだな。そういうような人たちが、これぐらいになったとするならば駅そういう人たちの主体性の心情圏を持ちかかえたメンバーがこれ地区長クラスになったら、日本は数百万になっているだろう。これは体質変換だね。体質を変換しなければならないのが日本の現状だ。

 だから百日修練会もその準備の第一段階の出発だよ。第一段階、第二段階から第七段階までゆかなければならない。天国に入れる、神さまが永遠に愛せる子供はそういう無価値なものではありません。東大は入るにも、何年間も頭にハチマキしめて勉強しなければならないんだろう。東大へ入るより、神直系の氏族になることの方がたやすいものじゃないよ。だからあんたたちのまごころをつくす基準がまだ及んでいないことを自分なにさとらなければなりません。

 だから人を愛せ、自分よりね、相対者として創造する完全投入、自分が無になって、向うが百、千になるような立場をみとめた場合にに、完全に胞和状態になった場場合、完全に愛をかけておる。完全に成立した場合は愛というものは新しい周波だね。空中波みたいなの飛び出して自分に帰ってくる。立体的に刺激される。それによって霊界がひとつになるんだよ。だから愛は成熟されたのち第二の原理みたいな力としてやってくる。それは宇宙の立体世界、霊界につながるそういうようなや電気からいえば、周波からみれば、直通波があるんだよ。地上波と中間波があるんだけれど、それと似たようなものが愛であらわれる。愛の関係によって神様のよろこびがはじめてはじめられるんだね。だから神は愛なり、人間な愛を求めなければならない。人を愛するものは神を愛したことになるよ。。君たちがおいしいものがあった場場にに、ああ自分が食わなければならない。食口たちがいた場場には自分が腹へっても、それをためておいて食口を待っているこの美。先生はその境地をいくらでも体験しているよ。

 だから、その責任が及ばなかった場合は、祈祷せよ。だかからひとところなんか、涙でもって廊下なんかかわいたらいけません。先生だにそういうときが何年もあったんだよ。まごころをつくせ。だから今のときは簡単だよ。本当に創造原理がそうなった場合は自分はいかにして百%投入して水希望の実体者として残り得るやというんだね。それ神様の位椿だよ。百%投入して希望の主体としていかに残る得るや。それ神のいますところである。

 祈祷するんだね。祈祷は神と通じる道であり、食口たちは原理を通じるみちである。だから、原理をわからなくてはならない。そういう立場で今度帰れば新しい方向に転換してやってみるんだね。わかりましたね。いままでやってきたものは、みんな先生からみたら不合格である。先生がずっとそれなりに強くいったそのことが日本において果せられないのはなぜか。これは姿勢がなっていない。先生が教育しなければならないと思う。頭よりも現実的に訓練しなくてはならない。百日修練会はそうだよ。百日修練が六ヵ月修練会まで、三年修練会まで延びた場合には学校になるんだね。

 全国民に伝えよ

 今はどういう時かというと、イスラエル民族がエジプトでカナンに出発する出エジプトの時なんだよ。聞いても聞かなくても、国民みんなにれがウワサされるようにならなくては少省少当。イスラエル民族がエジプトにおいて知っているものを伝えなかった場合は出発しても神からさばかれる。晶族同志が互いに責任を持ち合っているようになっている済だから全国にだれでもそれは出るときには知らなければならない。だから先生はアメリカでも三年間はそのことだよ。久保木会長がやっているのもそのことだよ。日本民族に訴えよ。信じる信じない式われわれの責任ではありません。統一教会のうわさを知らないもの省ないように訴える。

 まあ韓国はみんな知っているんだから、みんな反対したんだから止滅びを願っているんだから、だからわれ韓国にわれわれは完全に責任分担を果したよ。先生がアメリカへ行くとき既成教会の最高クラスの迫害した代表に会いましょうと、一回連絡し、二回連絡し、三回連絡した。天的な立場に立った先生として、あんたに会う前には既成教会をさばかなかった。反対した代表的なものを今まではさばかなかったんだから、今から先生はうちたかったら、うっても先生は引っかからない。完全に地獄に落ち込んでもさばかない。
 そうだったという事を知るようになると、彼らが自分をあらためて考えるようになる。最高クラスの人に会うようにして、連絡して会わせろ、自分の使命を果した。神は愛だということを知っているんだよ。そういう切迫なる最高の宣言をなすべき立場において反対するものが先生に会ってくれなかったら既成教会は全滅だ。しかしその中で一人、二人はかならず神は残しておくんだね。それはそういうふうに卒直に言う。卒直に告白する。自分は統一教会に反対してきたんだけれど自分自体が神に対して自信なくしてきた。現代の神様に対して信仰する自信をなくしてしまった。自分の話二時間ほど聞いて、どういうことがあっても、今後、助けになるんだったら応じますという約束したんだから、既成教会も生き残る道が残った。

 だから先生をみてなんでもないと思うかも知れないけれど、恐しい表だよ。

先生がうちかけた場合、それをふさぐものがない。だからいまから韓国において反対したものは滅び出す。そうして枯ちかけなければならない運勢圏に入るだろう。みてみな、今から、文先生アメリカから帰ってきてちょうだいというウワサが生まれてくるんだね。だから時が長くないから、君たちは今から一体となって今年、第二次七年路程だよ。あんたの国に対して統一教会の使命感を中心にして、天的使命を果す、そういう最後の一年をいかにすごし得るかということが問題なんだよ。だから本当に愛して、あるだけの力を尽してやってみな。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.08.05 20:10:10
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