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2021.08.10
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「青年の希望」

1974年7月29日
ニューヨーク・ベリータウン

 一九七四年七月十五日~八月二十三日、米国・ニューヨーク・ベリータウンにおいて、欧米の教授や学生との共同生活、講義、討論などを通し文化の違いを越えた出会いをなし、また、今後の世界的指導原理の在り方を探ろうとする「国際指導者セミナー」が開催された。そこに各国から参加した大学生たちに対して語られた、文鮮明師の講話(七月二十九日)。


 希望を抱かない青年はいません。

 では、その希望、あるいは野心とは何でしょうか。「専攻する分野で成功することが私の野心です」と言う人もいるでしょう。しかし、そう答える人に「それが本当にあなたの野心なのですか」と真剣に問うてみる時、それを本当に確信している人はそれほど多くはいないことが分かります。そして、その野心を達成した時に、再び新しい野心に向かって出発しなければならなくなるのです。こういうことはよくあることです。例えば教授として成功し、教壇に毎日立っていても、突然、これは自分がずっと求めてきた野心ではない、ということに思い至ることもあるでしょう。

 たとえ自分の野心を達成したとしても、「私はそれを成し遂げ、本当に幸福であり満足している」と感じることのできる人はほとんどいません。いったんある段階に達したならば、それを乗り越えていきたいと思うようになるものです。言い換えれば、人は現実にとどまることなく、それを乗り越えていきたいと思うです。それではいったい、究極の青年の希望、あるいは野心とは何でしょうか。

 たとえ、どんなに一生懸命やったとしても、その野心を達成した時「私は幸せです。野心を成し遂げたからです」と言うことも、またそれを聞くこともありません。どんな世界的人物になろうと、さらに高い目標を目指さなければならなくなるからです。

 それでは、若者はいったい何を望んでいるのでしょうか。それは、永遠に代わることのない世界の中心存在となること、これが青年の野心ではないでしょうか。しかし、たとえその野心を成し遂げることができたとしても、もしその人が人格的に完成されていなければ、彼は人間として不幸だといえるでしょう。

  希望は私自身の中から出発する

 私たちは、どれほどの幸福感を感じれば、満足することができるのでしょうか。このことは、私たちが考えるべき重大なテーマの一つです。あなたが今まで知り合ったどんな若者でも、「国を越えて世界的になろう」という野心はもっています。しかし、たとえ形だけその基準が立ったとしても、それは真の理想にはなりません。真の理想とは、自分自身から出発してこそ、存在可能となるものです。結論を言えば、青年の基本的希望と野心とは、私自身の内の一つの中心点から出発し、世界に向かっていくものでなければならないということです。

 次に、私たちが「完成する」とはどういうことをいい、また、私たちの希望の中心とは何でしょうか。世界の中心となれる、その確かな「中心性」をもった人がいるとすれば、その人は過去において幸福だったでしょうし、現在および未来においても幸福であるでしょう。世界中の人々がそのような人を見つめるならば、その人を最も頼もしく、素晴らしい人だと思うでしょう。すべての人が、そのような人に自分自身を委ねたいと願うことでしょう。そのような理想的人物は歴史を通じて、終始一貫して認められてきたに違いありません。それでは、そのような人物は、どのように存在可能となるのでしょうか。

 理想的な青年像は、すべての国を包容できる力をもち、世界を、また、過去、現在、未来を代表し得るような青年像であるべきです。もしそのような一人の青年が地上にいるとするならば、彼は世界の宝となるでしょう。皆さんもよく知っているように、貴重な宝はすぐにはなくなりません。それらは必ず、不滅の性質をもっています。また、そのような青年は全体を反映します。私たちはすべて、そのような青年像を追求しなければなりません。

 そこで、私たちはまず、「人間」それ自体について考えなければなりません。一人の人を見るとき、私たちは、その人の内的なものと、外的なものとの二面を見ます。またその一人の人間の中に、「理想を成さなければならない人」と、「肉的存在としての人」との二面を見ることができます。それでは、理想とは何でしょうか。理想とは、すべての人にあてはまり、だれも除外することのできないものです。理想はすぐには現れませんが、しかし永遠のものです。

  中国の理想の概念

「理想」の「理」という漢字は、左側の「王」、右側の「里」から成り立っています。つまり、「王の里」すなわち「王の村」を表します。片方が全体を象徴し、もう一方が中心を代表するのです。全体が一つの中心に焦点を合わせる時、その時が理想なのです。それは一人では決して成し遂げられず、中心点を取り巻く全体があって、初めて理想は存在するのです。

 一つ一つの漢字は、それぞれの思想を表すとともに、組み合わさってより深いを意味を表します。「理想」のもう一つの要素「想」は、左側に「木」があり、右側に「目」があります。つまり、向こうにある木を対象として見ることを表します。すなわち、ある対象に対することを意味し、それは全体を表します。そして下に「心」が置かれています。これらが一緒になった時、一つの概念となるのです。人々がこれらの文字を使い始めた時、理想という概念の中に、幸福と理想のすべての要素が知らずに含まれていたということは、容易に理解できます。この理解の上に立って、一つの目的のために、私たちを取り巻く環境を発展させていった時、理想が存在可能となるのです。

 簡単に言うならば、理想は、一人では決して成し遂げることはできません。私たちが働き、働かせることのできる完全な一つの目的がある時にだけ、理想は存在できるのです。たった一人だけでは、理想というものはありません。相互関係が確立される時、そこに理想が芽生え始めるのです。

 それでは、理想的青年とはどういう青年でしょうか。彼は、決して自分自身の中に閉じこもることなく、全体と中心の両面を備えていなければなりません。それでこそ、初めて彼は、すべてを代表することができるのです。

 すべての個人は、他の人と異なっています。より外的なことに特別の視点を置く人もいれば、より内的なことに特別の視点を置く人もいます。とても弱い人もいれば、とても強い人もいます。傲慢な人もいれば、謙虚な人もいます。理想的な人とは、両端までも包容でき、中心に立つことのできる人です。

 理想的青年とは、すべてを包み込み、中心として雄々しく立つ人です。彼は自分自身だけでなく、彼の村や家庭、国家をも心配する人です。また、現在だけでなく、過去に、未来に、そして世界に関心をもっています。


  人間は神を中心としなければならない

 私たちは個人と人類についてだけ語っているのではありません。ある人が神との関係を完成しようとする時、初めて彼は理想的青年となることでしょう。もし神がおられるなら、神はどんなお方でしょうか。皆さんは、既に神は全体の中心におられる方であると、漠然と考えていたかもしれません。神の中にあって、私たちは過去、現在、そして未来を表すことができるのです。東西南北、どの方向からであろうと、私たちは神を中心としなければなりません。神は全宇宙の中心となるべき本質でなければなりません。

 それでは神と人間とは、いかなる関係にあるべきでしょうか。人間は生まれながら、神に似ているのです。いわば人間は、神に、あるいは神のようになりたいのです。しかし、もし人間自身が神の実体となるならば、人間にはもはや、主体と対象の関係はありません。理想的であるためには、私たちは縦的(時間的)関係とともに、横的(空間的)関係をもたなければなりません。

 そこで私たちは、外的にも内的にも完全な関係をもつために、二つの特性をもっています。ある人は肉体を中心として生きたいと思い、また逆に、心と魂を中心として生きたいと思う人もいます。私たちが外的なことを中心とするとき、それらは過ぎ去り、消滅していきます。また私たちの内的弱さゆえに、安易に強い悪の力に侵入されるということを、体験や過去の経験から学んでよく知っています。ですから人間にとって絶対的に必要なものとは、内的な強さであり、これは欠くことのできないものです。

 心と体の間の一致と調和を見いだして、初めて私たちは、理想のようなものを見るようになるのです。正にこの一点において、神と出会うのです。当然私たちは、神を中心として心と体が一体化した生活を願っています。これが一個人の内に成される時、そのような完全に調和した個人は、神と一体化したいと願うのです。それが人間の欲望なのです。

 既に知っているように、皆さんは、強い心をもつ時、強い人間になります。ここから一つの必然的な結論が導き出されます。それは、私たち自身、心と体において完全に一体化する時、また私たちの心が主体的立場に立ち、肉身が相対的位置において主管される時、私たちは神御自身のように強くなるということです。

 結論をごく簡単にいえば、心と体が完全に一体となる時、人間は理想的になり、理想というものが分かってくるのです。

 天国とは統一された世界

 皆さんが一人ぼっちの時、「これは素晴らしい」と言うことはできません。例えば「善」とは、皆さんの好むもののことです。その漢字は簡単に言えば、男と女を意味しています。例えば、男と女が完全に一つとなる時のように、主体と対象が完全に一つとなる時、それが善となるのです。これは東洋の理想というだけでなく、西洋の世界にも示されている理想なのです。

 聖書に、「神は男を造り給うたけれど、どうも十分ではない、そこで神は女を造ったところ、はなはだ善かった」と書かれています。理想となり、善となることは、相対的位置を取ることであるということを否定することはできません。いわば、真の男と女が一体となる時にのみ理想が成立するのです。それが理想です。善となる以前に、個人においては心と体の完全な調和がなければなりません。それらが真に一つとなった時、未来における幸福の要素となるのです。これは論理的にも十分納得のいくことです。

 それでは、天国とはどのようなものでしょうか。天国とは、二つの分裂したものを一つのものにしたにすぎないのです。それが天国なのです。漢字で「天」は「二人の人」と書きます。それがなくて天国の文字はありません。それはまさしく啓示ですね。なぜ人間は昔、そのような文字を使い始めたのでしょうか。なぜなら、もともと人間の理想は、「理想」そのものに直結しているからです。理想とは、二つのものが一つとなって、初めて成し遂げられるのです。それで、この過程は、既に一つの文字で表現されているのです。私たちはどんな文化圏においても、二つのものが理想を成し遂げるということを否定できません。

 私たちは、生まれつき貴重な存在であると思います。どうして人間がそれほど貴重な存在なのでしょうか。理想のために、備えられた欲望を成し遂げていく長い道のりがあるので、そのように感じるのです。私たちの理想達成への目標は、「私たちの心、あるいは良心と体の一体化を成し遂げることである」と言うことができます。理想的人間とは、心が一つの方向に進み、体は別の方向へ進むような人ではなく、心と体が一つの方向に向かって、永遠に進んでいく人です。それこそ理想像なのです。

 例えば、私たちの体はいつも自分自身のことを中心に考えています。そして心はいつも全体的な視野の中で考えています。これらが一つになる時、完全な理想的人間となり、その人は心と体の両方を主管することでしょう。

 私たち自身を見てみましょう。私たちの体と心は完全に一つとなっていますか。もし私たちの体を平面だとするならば、私たちの精神はより高い次元にあると考えられます。それらの確かな交差点は、どこにあるのでしょうか。そこが、私たちの理想を見いだすことのできる点なのです。その一点にすべてが一つとなった人は、すべての方面に通じることができるのです。それが神です。そこで私たちは神の似姿となるのです。また、肉体には時間的制約がありますが、私たちの精神には時間的制約はありません。限りある部分と限りなき部分が一つになる時、そこに理想が存在するのです。

 人類がまだそのようになっていないので、「神はいない」と簡単に言う人もいます。しかし、もし神がいるならば、私たちの心と体は、神のように作用しなければなりません。そうでなければ、神は二つの相反した方向性をもたなければなりません。私が言おうとしていることは、私たちには、神は二つの方向性をもつようなお方であると思われるけれども、神はそうではないということです。

 そこにおいて、私たちは人間の堕落を認めなければならないのです。私たち自身の、そして人類の、教育の必要性がそこにあるのです。私たちは「神は間違っている」と言うことはできません。神は正しい方に違いありません。すると私たちが間違っているということになります。人類歴史においてこの偉大な改革をなし、人類歴史を完成することは、宗教の仕事です。

 心が先にあった

 それでは、より価値あるものとは何でしょうか。より貴重で価値あるものとは、「私」あるいは「ある物」が存在する以前に、存在したものです。私たちの心と体を考えてみましょう。どちらが先に存在するようになったのでしょうか。存在の動機が人間自身の中にはなかったということは否定できません。人間は何か他の動機によって生まれたのです。「原因と結果のどちらが先でしょうか」と問われれば、私たちは「原因が先である」と言わざるを得ません。それでは人間は、どのように原因に通じることができるのでしょうか。唯一の道は、良心による道です。良心以外には、何もないのです。

 どんな人でも、心の奥底から、心を込めて愛してくれる人を、より大切にしたいと思うのは、皆さんもよく知っています。二人の人が同時に皆さんを愛する時、皆さんは、大抵肉身に対してよりも、心を愛してくれる人を選ぶでしょう。

 皆さんはなぜ、肉身よりも良心を大切にされたいと思うのでしょうか。それは良心がより先に存在したからです。世界で一番初めに存在したものは何ですか。それは神です。ゆえに、神には絶対的価値があるのです。私たちは、神によって造られた一個人の重要性を認めることができます。人間は第一の立場では決してありません。なぜなら第一の立場には既に神がおられるからです。

 それでは原因(神)と結果(人間)は、どのように関係しているのでしょうか。この二つの要素は絶対不滅であって、全世界を代表すべきものです。私たち自身にあるその要素とは、良心です。私たちを神につなぐのは、まず心です。それゆえ、良心家と呼ばれる人は、物質主義者よりはいつも愛されてきました。なぜなら、良心は肉身より先に存在したからです。

 なぜ肉体が勝つのか

 人間は、このような二つの異なった立場に分離され、宗教はそれらを一つにしようとしてきました。すべての宗教の第一の目標は、良心を中心として神と一つになることです。さらに第二の要求は、神と一体となったあと、良心を中心として皆さんの体を主管することです。皆さんは良心が命ずるままに行動しなさい。肉身が命ずるままに行動してはいけません。これこそが、すべての宗教のいわんとすることなのです。

 宗教は皆さんに、肉身的なすべてのことを否定せよと要求します。なぜでしょうか。それは元来、精神を中心として一つになるように創造された人間が、それを否定し、悪魔(サタン)が私たちの体を占領するようになったからです。人間は、自分の肉身を通じて、すべてを成したいと欲しています。私たちの肉身は、このことだけを考えています。このような生き方に、理想はありません。この種の人間は理想に反し、理想を破壊し、決して理想にくみすることはできません。ここに私たちは、肉体の完全な否定による、完全な宗教を見いだすのです。それゆえ、神はいつも人間に「肉体をささげよ」と要求します。

 神は、逆説ですべてのことを教えています。例えば、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)という聖句があります。私たちはこのことを理解して初めて、次の聖句が理解できるのです。「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)。

 したがって宗教の発展は、肉体の完全否定がなされる時にのみあり得るのです。宗派が中心となって、独自の道を守り発展させようとする宗派は、世界の宗教の中心とは決してなれません。なぜなら、これは神の意志と神性に反するからです。しかし、たとえどんなに小さくても、自分の宗派を乗り越えて神が願うものを願う宗教は、必然的に神と共に栄えるに違いありません。そのような宗教は繁栄し、全世界の隅々まで覆い尽くすことでしょう。

 すべての文化の基礎と背景になっているのは、宗教です。そして神は、ずっと宗教を通じて人を個人として完成させようとしてきました。私たちは神が私たちのために、これまでずーっと成し遂げてこられたすべてのことを見て、神がおられるという事実を認めなければなりません。

 神と人間が分かち合う幸福

 私たちが良心に主管される時、何が起こるでしょうか。永遠の価値と、自分自身の価値に対して、称賛することのできる人となるでしょう。原因と結果の両方が調和的統一体となる時、私たちはそのような価値を実感するのです。そういう時、私たちは体が壮快になるのを感じるでしょう。考えてみてください。そのように完成された時、私たちはどんなにか素晴らしい幸福を味わうことができることでしょうか。さらに五感を超えて、壮快さと幸福を実感することでしょう。それは全く別の次元のものです。今まで、そのような壮快さと幸福を体験した人は一人もいないと言っていいでしょう。

 大抵の人は、神が存在するか否か、ましてや彼らの良心の源が何であるかも知りません。皆さんに良心のようなものがあるということを知る時、さらにそれが価値ある敬虔なものであるということを知る時、皆さんはその価値を実感するでしょう。皆さんの良心の基準を神の基準にまで引き上げたと分かる時、皆さんは今まで味わったことのない素晴らしさを実感することでしょう。

 皆さんが簡単に想像でき、身近に得ることのできる、ある幸福の領域があることを考えてみてください。もし神がおられるならば、神と人間とが共に幸福と壮快さを感ずることのできる、ある基準があるに違いありません。もし人間が、一たびそのような基準のあることが分かるならば、その目的のためにすべてを犠牲にすることでしょう。皆さんはそれを望みませんか。皆さんがもしその基準を得たならば、世界のどんなものとも、あるいは世界のすべてのものとも、決して交換しないでしょう。

 そこで皆さんは、神は平面的な方でなく、皆さんと共にいつもいまし給うてくださる方であることが分かるでしょう。皆さんは、神の偉大さをただ賛美するのです。そして神の生命が皆さんの生命となるでしょう。神の全知全能が皆さんのものとなるでしょう。ここにおいてこそ、私たちは神の全き愛を、真に感じることができるのです。

 神は一人で愛と幸福を実現できない

 もし私たちが、その位置において完全に神の愛を感じることができるならば、どれほど幸せでしょうか。もし堕落していなかったならば、私たちの肉身は、神の相対的立場に立っていたことでしょう。もし幸福が、あるべき姿として成就していたならば、幸福は永遠であったことでしょう。その幸福は、不滅であり、永続したことでしょう。私たちの一瞬の生命のようにではなく、神が幸福な時、そのような神の相対的立場に立てば、永遠に幸福を感じることができるのです。

 神は、一人で幸福になることはできません。神は、愛をもっておられるにもかかわらず、一人では全く愛することはできません。神は、理想をもっておられるにもかかわらず、一人ではその理想を感じることも、成就することもできません。神がもっておられる、限りない理想、限りない幸福、そして限りないあらゆることも、人間なくしては決して成就されません。それが神によって創造された人間の、重大な、永遠な価値であると知るならば、私たちはどんなに幸福を感じることでしょう。もしそのような幸福な一日を体験でき、完全に神と一つになれるならば、人は、たとえ肉身を中心とした一千年の生活であっても、それと交換することはないでしょう。皆さん、そう思いませんか。

 長い歴史を通して、神はずーっと、この完全な究極の理想を探し求めてこられました。神は何千年もの間、それを切望してこられたにもかかわらず、一度たりとも、私たちの内にその完全な基準を見いだすことがなかったことを学ばなければなりません。私たちは最初において、完全に調和されて一つになるべきでした。私たちはそれを成さなかったために、分裂し、もがき、悩み、苦しんできました。それが人類歴史です。

 私たちが今、その理想の立場にいないということを、だれが否定できるでしょうか。いったんこれが真実であることを見いだすならば、「理想などいらない」とは、だれも言わないことでしょう。むしろ、だれもが求めていくことでしょう。そしてそのあとは、いかにすれば、その理想が実現できるのかということを考えるようになります。

 宗教こそ重要なもの

 人間の頭脳、心、あるいは能力などを、思うままに使うことによって、神の理想にたどりつくことができるでしょうか。いいえ、それはできません。私たち自身を神のやり方、神の思考法に徐々に近づけるために訓練すること、それ以外に方法はありません。そこで、宗教は人類に必要であると、結論づけられるでしょう。どれほど必要でしょうか。最も必要なものです。

 この方向に進路を置くとき、それに反対してくるものがあったとしても、私たちはそれを否定していかなければなりません。たとえ両親が反対したとしても、それによって動じてはいけないことを宗教は教えてきました。反対されても、勝利しなければなりません。たとえ家族中が、あるいは国中が私たちに反対しようとも――。それで皆さんが最も貴重な存在として、大切にするすべてのものを、否定しなくてはなりません。あえて、それを越えていかなければならないのです。

 神は、歴史を通じて、これらすべてを成してきました。神の愛によってこそ、それを成すことができるのです。神は、歴史上考えられなかったようなものを、皆さんに与えようとしています。皆さんが成したすべての犠牲とは無関係に――。

 神の理想、神が果てしなく与えてくださるもの、そして神の配慮を見いだすとき、それこそが、私たちの理想への出発点といえるでしょう。私たちは、神の生命、神の愛、神の理想を受けることができます。これらすべてを受けられるのです。これが青年の希望です。

 青年は最高の理想を切望する

 それゆえ、青年は理想を探し求めます。それは低い理想ですか、高い理想ですか。高い理想でしょう。どのくらいの高さでしょうか。どこまでも神を愛し、いかに高価なものでも踏み越えていけるほどに高い理想をもたなければなりません。それゆえ、人類歴史を通じて、ずーっと高い理想を求めてきました。今も、死に物狂いでそれに立ち向かっています。

 そこで、理想は高くなければなりません。天国を貫くほどに、すべてを解放できるものでなければなりません。人類だけでなく、神をも解放するものでなければならないのです。理想というものは、高過ぎるということがあるでしょうか。もし神が、人類にその理想が達成されたのを見なければ、神御自身も解放されないのです。神が束縛されている理由が、正にここにあるのです。

 だれかが良心に反した悪いことをするのを見るとき、私たちは行ってその人に対し「あなたは良心をもっているのですか」と問いただします。彼はその時、「永遠なるものの原理」がここにあることを実感するでしょう。それは、神と共になさなければなりません。

 良心には、その原因となるものがあります。それが、神です。その願うところは、永遠不変なる理想の実現なのです。私たちの良心はその一点に向かって進んでいます。

 完全なる花があるとき、すべての人はそれを自分のものにしたいと願います。すべての人は、比較能力をもっています。人間は自分を何に例えたいと願うでしょう。それは自分以外の人間ではありません。なぜなら、私たちは変化するものを欲しないからです。無限なる、永遠なるものを欲し、決して変わることのないものを欲するのです。理想とは、そういうものでしょう。

 最高の理想に立って、皆さんが神を迎えにいく時、神はすぐに現れてくださることでしょう。考えてみてください。私たちの精神が最高の理想基準に立つ時、肉身は自動的に制御されます。私たちの良心が笑う時、私たちの肉身もまた一緒に笑うのです。皆さんはかつて、そのような人に会ったことがありますか。

 イエス様は、「わたしは父におり、父はわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言っています。生まれつき私たちは、神と関係をもつことのできる、あらゆる要素をもっています。宗教によってのみ、皆さんの肉体を否定することができ、精神が要求する次元に、確信をもって進むことができるのです。

 神と世界のために生きる

 私たち人間は、四千年間、ライオンのえじきとなり、責め苦しめられたキリスト教徒を目撃してきましたが、なおも彼らは幸福そうに、この一つの理想を抱いていました。ローマへ通ずる道よりも確かな、幸福への道を、彼らは信じていました。それはあり得ることです。これを絶え間なく経験したならば、皆さんは目的に向かって突き進むために、これ以外は何も望まなくなるでしょう。この一点において、人間は果てしない、無限の価値をもっているのです。

 青年は、最高の理想と野心をもっています。数多くの人々は、自分自身の個々の幸福を追い求めています。しかし考えてみてください。どんなに熱心に試みても、皆さんは、自分自身を解放することができるでしょうか。いいえ、それはできません。それは、大変悲惨な状態です。

 ある人は、自分の家族のために生きています。「それは自分一人のために生きているより、いいではないか」、そう言うかもしれません。またある人は、自分の氏族の解放のために生きるでしょう。ある人は、国のために自分の生活をささげます。普通の青年は、自分の国のために犠牲となるところまで成長できるでしょう。これを越えて、世界の自由のために生きた人は、賢人、聖人と呼ばれてきました。でも考えてください。世界が解放されたとしても、もし神が解放されないならば、私たちはそのような世界を「理想世界」と呼ぶことはできません。

 人間には二つのタイプがあります。物質的に生きる人と、良心に従って生きる人です。私たちは、これら二つの典型として、唯物論と唯心論を見ることができます。民主主義世界は良い世界であると思われていますが、しかし何が良心を構成しているのか、特に良心はどこに向かっているのかということは分からないのです。一方、唯物論、共産主義は決して精神を解放することはできないでしょう。それゆえ共産主義は、ある程度までは繁栄するでしょうが、それ以上は越えていくことはできないでしょう。

 それではこの観点に立つとき、どちらがより価値があるでしょうか。共産主義ですか、それとも神を中心とした理念でしょうか。それは神を中心とした理念です。良心は物質以前に存在したに違いありません。そこで私たちは、共産主義でさえも、ある日、神を認めなければならないであろうという論理的結論に達するのです。

 共産世界と自由世界は、そのままでは一つになることは決してできません。なぜなら、それらは結果の世界だからです。私たちの良心が絶え間なく肉体と闘っているように、共産世界と自由世界もまた、最後まで闘うのです。それらが闘い続ける限り、理想はありません。たとえ人間が、地上においてその解決策を見つけようとしても、できないでしょう。人間は病気にかかっています。皆さんがその病気を治そうとする時、その原因を突き止めなければ、それは永続する治癒とはなりません。その原因を突き止め解決する時、その痛みを取り去ることができます。

 まず私たちが理想の人に

 世界の問題に対する解答は、個人の問題に対する解答でもあります。一人の人間によって、人間が悪化し、そして復帰するのを見いだす時、世界をも復帰することができるのです。私たちはこの点を強調しなければなりません。私たちは、世界ではなく、まず私たち自身とかかわりをもたなければなりません。それが完全なものの始まりです。世界がどんなに平和に、幸福になろうとも、人間が幸福になることができないならば、その世界は人間と何の関係もありません。不完全な人間が、完全なものをつくることは不可能です。

 他のだれかが理想の人となるのを望む前に、まず私たちが理想の人とならなければなりません。理想の人間は、過去と現在を代表して語るべきです。彼はまた、未来のための何かをもっていなければなりません。もし、これらすべてを成せる人がいるならば、その人こそ最初の理想の人間と呼ばれるでしょう。この一人の人が認めない何かがあるならば、それは理想とは言えません。このような方向を真剣に探し求める、そのような現代の文化や運動でなければなりません。

 過去の人類文化がどんなに親愛な、貴重な、価値あるものであったとしても、それは来たるべき未来のものとは比較になりません。いったん「過去」を投げ捨ててしまいなさい。そうすれば皆さんは新しいものを見いだすでしょう。この観点に立てば、神が備えてくださった永遠なる道を、私たちは進むことでしょう。もしそれを望むならば、どんな青年でも、神はすぐに知ってくださるでしょう。目標を目指して進もうとする青年を、神は守るでしょう。それが最も重要な理想であり、青年が抱くことのできる最高の理想です。

 もし、このような人生を生きる天性と決意があるならば、その時彼は、過去の歴史の宝となるでしょう。そして現代の宝となり、来たる永遠の未来の宝となるでしょう。

 聖なる結婚

 一たび皆さんが理想の自分になったとすれば、その次の、第二の欲望、あるいは野望とは何でしょうか。それは言うまでもなく、良い配偶者を見つけることです。人間には、男と女がいます。それを「人間」と呼ぶのです。私たちの第二の欲望は、真の男と女とが一つになることです。皆さん自身のことよりも、もっと貴重なことは、皆さんの配偶者となるだれかを見つけることです。人がどのように完全であっても、一人では完全にはなれません。その人の内に自分の完全性を発見できるようなだれかを見つけた時にのみ、完全になることができます。

 どんなにみすぼらしい女性であっても、自分の配偶者は自分よりもはるかに素晴らしい人であってほしいと願うものです。同じことが男にもいえます。男は、自分自身も完全になりたいと願うのですが、自分の配偶者に対しては、より完全であってほしいと思うのです。そして彼女と共に幸福になり、幸福感を感じたいのです。

 ですから理想とは、愛のうちに生活し、愛に酔い、高遠な諸理想を成就し、それらを周りに広めていくことです。

 しかしここで、「そのような男と女が存在するのか」という疑問が生じます。もし私たちが世界中を見回して、まれにさえもそのような理想の青年を見いだせないとすれば、どのように感じるでしょうか。神もまた深く悲しまれ、過去と未来の、すべての人類も悲しむことでしょう。

 個人がどのように完成を成し遂げたとしても、それが理想の終着点ではありません。むしろそれは、彼と彼の配偶者が一つになる理想への出発点なのです。そこに理想が始まるのです。私たちは、これをすべての人類が欲しており、あらゆる人が欲しているということを、決して否定できません。

 これは、私たちが天地に向かって発した宣言です。私たちはすべての歴史を代表して、これを宣言しました。この宣言は、未来への伝統を準備するためになされました。将来どのような荒波に出遭おうとも、私たちはそれを突き抜け、克服しなければなりません。これは人類のすべてが願うことであり、神さえも私たちに願っていることなのです。

 今まで神は、一つの目的をもち続けてこられました。それは、一人の完全な男と一人の完全な女、そして一人の青年を造ることです。堕落した人間においてはこれが成し遂げられないので、だれかが、神から直接に遣わされなければなりません。これがすべての宗教における、「メシヤ」の概念です。そのメシヤは、一人の青年です。

 聖書の最後にある黙示録の中で、神の理想の目的は、この完全な男と完全な女であるということが明確に示されています。聖なる結婚によって抱擁しながら喜ぶ時、これは全宇宙にも替え難いものになるのです。

 いったん神が、この高い理想を一つの基準として成就したならば、より多くのそのような個人や家庭が生まれるようになるでしょう。これが神の最も深い願いであり、また人類の最も深い願いなのです。

 変わらぬ愛

 私たちは、私たちの配偶者となる人が、永遠の変わらない愛にふさわしい者であることを願います。なぜでしょうか。なぜならば、真の愛は永遠であるからです。皆さんはただ一人の完全な配偶者を願うと思います。なぜなら、そのような愛は絶対であり、ただ一つしかないからです。そこで彼または彼女は、自分の配偶者に絶対の権威をもってほしいと思います。なぜなら、愛は全能だからです。私たちは神から生まれた者ですから、神に似て、このようなとても高い理想をもつようになったのです。

 では、皆さんは、どのようになりたいのですか。皆さんは、神に愛される子供になりたいのですか。そしてそれ以上に、私たちは自らを成熟させて、神を幸せにできるようになりたいのでしょうか。これは私たちの願い、野望であるのみならず、神の願いに違いありません。

 完全な家庭は、完全な個人を中心としてのみ存在できます。ところで皆さんはすぐに、「世界で一番美しい女性を配偶者にすれば幸せになれる」と思うかもしれません。しかし、それは違います。それでは、だれが世界で一番美しい男、または女なのでしょうか。世界で一番美しい男、または女は、自分の善なる目をもって善なる世界を見たいと思う人です。最高に美しい男、あるいは女は、何よりも自分の耳を通して何か善なるものを、そして善のみを聴きたいという人です。そして最高に美しい男、あるいは女は、自分の鼻で化粧品や何かのにおいをかぐだけではなく、世界の善なるもののにおいをかぎたいというような人です。最高に素晴らしい口をもった人はだれでしょうか。それは、自分の口を通して自分自身について語るのではなく、世界について語るような人です。世の中に対して敢然と立ち、歴史と人類のために神の立場から話そうとし、その上いつでもそうする準備のある人――そのような人こそ最も素晴らしい口をもった人であり、最も素晴らしい人です。

 いかに均整のとれた体つきをしているとしても、もし多くの人から嫌われているとすれば、良い人ではありません。その人の人格ゆえに、だれもが好きになるような人こそ、善なる良い男であり、美しい女だといえるのです。皆さん、それが分かりますか。

 反対物の統一

 実際に、さらに理想的なのは、百歳になって霊界に行こうとしている老人が、小さな赤ん坊と一緒に、幸せに遊ぶことです。そのような世界こそ、理想の世界です。

 それは、次のような結論になります。最も美しい男、または女が、最も醜い男、または女と一つになり、いかなることがあっても互いに離れないとすれば、そのような組み合わせこそ最も理想的なものだといえます。そしてそのような人たちこそ、最高に理想的な人たちなのです。

 私は、大西洋によく魚釣りに行きます。一週間ほど前、嵐だったのですが、私はあえてその中に乗り入れました。波は非常に高く揺れていましたが、その時私はこう思いました。「風は一方向から吹いているのに、どうしてそれは一つの大きな波を起こさないのだろうか」と。なぜなら、それはすべてのものが対称になっているという宇宙の原理に従っているからです。高く低く、高く低く、速く遅く……これらすべての変化から理想が生まれるのです。

 高い山に対しては、深い淵がなければなりません。そして、最も深い谷には、高い所から来るすべてのものが蓄えられます。最も高い所にはそれ以上のものはありませんが、そこで人はより低い所を見下ろして、何かをつくり出すことができます。それが理想なのです。それゆえ、授受作用も宇宙の至る所にあります。最高は最低と釣り合うのです。そしてそれが対称の在り方です。これがすべて意識せずに成し遂げられたとするなら、あらゆることが自動的に成し遂げられたなら、理想は自動的に実現します。

 もしある人がたくさんお金を持っていて、もう一人の人があまりお金を持っていない時、たくさんのお金を持っている人がそれをすべて自分一人のものにしておくならば、彼は自分自身不幸でしょうし、もう一人の人も不幸でしょう。もしその人がそのすべてのお金を、持っていない人に上げるならば、その人はそのお金を持つにふさわしい人です。

 地球の内部へと深く入っていくと、だんだん熱くなります。そして、溶解現象が起こります。物質を過熱すると、蒸発して上昇します。ですからここでは、高いものが低いものを補うようになります。皆さんが知っているように、水は高い所から流れて、最も低い所に行きます。しかし、それは再び蒸気として空中に上がっていきます。ですから私たちは、最低のものが、例えば雲となって高い山を主管するように、最高のものを主管する何らかの方法があるということを容易に発見することができます。

 この世界には、先進国もあれば発展途上国もあります。富んだ国もあれば、それほど富んでいない国もあります。西洋があれば東洋があります。そして、これら反対物、あるいは対称物が完全な調和をつくるなら、理想が実現するのです。

 すべての音楽は、リズムによってできています。それは風が吹く時も同じです。風はただ一吹きに吹くのではありません。このように風の動きをよく見ると、波のように吹いているのが分かります。風が一方向から吹く時でも、木の枝は、右へ左へと揺れます。また私たちが呼吸する時も、吸ってから吐きます。時々、私たちはまばたきをします。それが変化なのです。調和ある変化はどこにあるのでしょうか。それが問題です。「私は数学的な考え方をするのでそんなことは認められない」と主張できる人は、どこにもいません。いかに人が哲学的であり、数学的であったとしても、すべてはこのリズムによって運行しているということを否定できません。

 西洋と東洋の調和

 西洋人はおなかを下にして寝ます。多くの人がこういう寝方をします。彼らは知らずに、地上を見下ろしている立場を象徴しているのです。ほとんどの東洋人は、背中を下にして寝ます。これは天を見上げていることを意味し、精神文明を象徴します。特に時代の終末においては、人々の行動は象徴的意味をもちます。西洋人は少しばかり寂しく感じるかもしれませんが、それは仕方がありません。事実なのです。どうやって事実を変えることができるでしょうか。西洋文明は、物質を通して物質によって世界に奉仕します。しかし、それがすべてではありません。東洋は、その精神面において世界の指導的立場にあります。

 東洋は西洋に寄与します。神は一つの高い理想をもっています。二つの要素が幸福を形成するので、神は精神的性質と肉体的性質を人間に与えたのです。これらを調和させることによって、神は幸福を期待されたのです。アメリカ人が人を呼ぶ時、手のひらを上にして呼ぶのは、とてもおもしろいことです。実際にそれは、「天よ、こっちに来い。私のほうに来い」ということを象徴しているのです。そして東洋人が人を呼ぶ時には、手のひらを下にして動作をします。それは天の立場に立って、「地よ来い」と呼んでいることを意味します。それは、とても象徴的です。

 西洋文明はすべてのものを最小部分まで分析します。しかし東洋的思考は、問題を、要点または核心をねらって全体を把握しようとします。

 西洋人は、幸福な時には体いっぱいにそれを表現します。彼らはそれを完全に表し、何ものも隠しません。しかし東洋人には、「あいまいさ」というものがあります。彼は幸福な時、ある時は幸福そうに、ある時は不幸そうに見えます。

 歴史を通じて、すべての物質的なものを捨てて、霊的に完全となろうとしたのが東洋的美徳でした。

 東洋人は貧乏です。彼らは悪なるがゆえに貧しいのではなく、神によってそう運命づけられているのです。そのため神は西洋文明を、東洋文明のために相互的に準備されたのです。

 私たちは一つのことを明確にしておかなくてはなりません。それは、単なる物質文明の行き着く先は、悲惨でしかないということです。ところが、精神文明の行き着く先には希望が姿を見せます。希望こそ、貧しさの末に、私たちが得るものです。

「西洋人よ、どこに行くのですか」と聞かれたなら、西洋人は「私たちは東洋に学びに行くところです」と答えるに違いありません。そのように定められているからです。そして、東洋人は「どこに行きたいのですか」と尋ねられたなら、「西洋へ行きたい」と言うのです。そこで彼らは、今までかつて経験したことのないものを経験するでしょう。

 私たちは、物質文明が、その終わりに差しかかろうとしているということを確実に予想できるし、だれもがそれを容易に理解できます。そのことから、私たちはとても劇的なことを期待できます。

 西洋人たちが生き残れる唯一の道は、東洋的思考がとても価値あるものだと思えるような、ある道を見つけようと努力することです。言葉を換えて言えば、西洋人は自分自身を東洋思想に服従させ、その中に入って、そこから学ばなければなりません。なぜならば、人は自ら謙虚になってこそ初めて学ぶことができるからです。

 理想の拡大

 それでは、自分自身を完成させ、完全な配偶者に出会ったあとの、青年の理想とは何でしょうか。そのような男と女、そしてその家庭は、世界中のすべての人を友達にしたいと思うようになることでしょう。世界は、全世界の兄弟姉妹を見ているだけで幸福な人々の群れとなることでしょう。彼らが友達になればそれは麗しい光景となるでしょう。

 それは自分の国よりももっと神を愛するという信条を立てた群れです。そのような人たちこそ、世界中のいかなる者よりも、神を中心とした兄弟姉妹を愛することができるのです。それこそが、青年が目標とし得る、最高の理想ではないでしょうか。自分の配偶者を通じて、かつそれを乗り越えて、全世界の兄弟姉妹に愛を広げることのできる人は、成功した人です。唯一の成功した人です。その人は、神を中心にしているに違いありません。なぜならば、神なくして私たちは存在し得ないからです。

 もし人間を種子にまで凝縮するとすれば、その種子は何でしょうか。子供が生まれる前に両親がいます。だから両親が自分の根源、あるいは種子だというかもしれません。確かに両親は根源だといえます。なぜなら、種子は根源であり、根源から皆さんは生まれたからです。親、親、親、親……。そしてそれは究極の原因、つまり神にまでさかのぼっていくのです。

 すべての生き物の生の唯一の希望と目的は、それ自身の原因に似ることです。種子を調べてみましょう。一つの種子は必ず二つに分かれていながら、一つの袋に収まっています。そしてその小さな部分を取って見ると、それもまた違った袋に入っていて、かつまた二つに分かれています。どんなに小さな種子を例にとってみても、すべてがそのように分かれています。では、だれがそうしたのでしょうか。それは究極原因に相似しているのです。究極原因とは何でしょうか。神です。ですから神は、二性の内容、あるいは二性の性相を一つの不可欠な性質としてもたれているのです。そのほかのものも、すべてそうです。なぜなら、その原理を見習うからです。

 もう一つの例を挙げるならば、個人でさえ二つの要素をもっています。――体と心です。もしそれらが互いに対立するならば、滅びます。種子の例において、種子の内部の二つの要素は、互いに相闘うでしょうか。決して闘いません。もし闘ったなら植物にはなりません。万物の霊長である人間はどうでしょうか。個人として、皆さんは一つになっていますか。皆さんは完成されていますか。もしそうでないなら、皆さんは生命を帯びていません。つまり、まだ種子になり切っていないということです。完成された男も女も、一つになっていなければなりません。男と女とが一つになるならば、彼らは幸福になります。どうして男と女は一緒になると幸福なのでしょう。なぜならば、そのようにして彼らは神に似、神に近づくからです。ですから彼らは幸福なのです。

 すべての個人は、根をもたなければなりません。そして幹をもたなければならず、それから葉をもたなければなりません。この三つが木を完成するのです。だれが皆さんの根ですか。皆さんの両親です。皆さんは、自分自身を完璧な幹にしなければなりません。

 すべての種子は、植物のすべての要素を含んでいます。ですから、種子を植えると根が出ます。根は何ものかから出てくるのですが、その何ものかが種子の中に入っていたからです。幹が出てくるのは、既に幹がその中にあったからで、そして幹から葉が出ます。葉が芽生えてくるのは、既に葉があったからなのです。

 木を見ると、それは閉じた円に似ています。なぜ? 神がそうだからです。神が丸いので、木も丸くなるのです。根元は丸く、幹も丸く、枝も丸いのです。丸いものは速く回転できるのです。どこへ行くのにも、たやすく走っていけます。それは、蹴ればどこへでもたやすく飛んでいくボールのようなものです。そのため皆さんは、自分の性格において何か丸い完全なものが必要なのです。

 あらゆるものは、三段階になっています。指でさえ、三つの段階、あるいは関節をもっています。そして腕は、手首と腕の上半分と下半分とから成っています。それはみんな三つです。また、頭・胴・足……なぜなら、それが神の原理だからです。ですから私たちは、根・幹・葉という三つの段階を発見するのです。皆さんが、これらの三段階と調和して生きるならば、世界は皆さんのものであり、神も反対しません。

 極端な個人主義は避けなさい

 現在の私たちの生き方で、個人主義の極端な形は、「私はだれも必要としない。私は自分だけで満足だ。私は親など必要ない」というものです。個人主義は間違っています。それは存在の原理に合いません。つまり、それは種子に似ていないということなのです。ですから、個人主義は正されなければなりません。もし「家庭が一つの単位だ」と言うならば、その家庭の根は両親です。アメリカ人は、「私にはだれも必要ない。自分が必要だ」と感じます。「私は妻を必要としない」と言う人さえいます。あるいは、もし彼らが妻を欲すれば、どこででもお金で片づけることができます。それが神に通用すると思いますか。通用しません。

 青年は木の根に似ています。それが青年期です。その期間に、青年は力をつけ大きく成長します。幹が完全な幹として育つには、あらゆる栄養分を吸収する、完全な根をもっていなければなりません。私たちは今、過去のために存在しているし、これからは未来のために存在するのだということを確かめておかなければなりません。それこそが、私たちが今存在している目的なのです。ですから、いつもふらふらしている人や、他人を落胆させる人は、決して実を結ぶことはありません。

 青年期こそ、もちろん男性の人生の中で最も輝かしい時間です。一生懸命働き、最高の野心を抱き、世界で最高のものを期待し、そして力の限り仕事をします。完全なる男と完全なる女が成熟した時、その時、いつの日か花が開くことでしょう。花が咲けば、ありとあらゆる良い香りと、かぐわしさと、蜜とが満ちるでしょう。それが愛の始まりであり、それが青年期なのです。
 男と女とが一つになれば、彼らはその実を得、それから彼らに似た、何ものかが現れます。それが子供です。これらもまた、同じく三段階です。両親、私たち自身、そして子供。世界中どこであろうと、幹から出て、葉と枝は繁茂するのです。ならば、皆さんは葉が必要ではありませんか。木には葉が必要ではないでしょうか。必要です。そのため、皆さんにとって子供は絶対に必要なのです。

 皆さんが自分の内に三つの要素を備えた時、初めて皆さんは男だということができます。ですから、いかなる男であっても、これら三つをもっていなければなりません。利己的な人は、これら三つを自分のために保っています。もし皆さんが、「私は両親を喜ばせるために、これらすべてをやっているのです」と告白するならば、その時、神はうれしいでしょうし、皆さんもうれしいでしょう。だれでもこのような男を見れば、うれしくなるでしょう。だれでもその人に感謝するでしょう。だれでも自分自身のためには何もせず、むしろ自分の配偶者のためにしたいのです。西洋でも東洋でも、黒人も白人も、黄色人もみんなそろって、「そうだ」と言っています。

 もし親がただ子供のためにのみ、できる限りのすべてのことをなし、とても一生懸命働いているなら、あらゆる人は彼を見て「素晴らしい」と言うでしょう。私たちは、これが良き実を結ぶための道、あるいは過程であるということを覚えておかなければなりません。幹は、根と葉のためにあります。葉は、ただ幹と根のためにのみあります。そこに理想が存在します。

 皆さんは、自分の両親のために、何か良いことをしたことがありますか。皆さんは、自分の両親は自分より以前に存在していたので、皆さんよりももっと貴重だということを考えてみたことがありますか。自分よりも、自分の根を大切だと思う人は「良き人だ」と言うべきでしょう。私たちは、自分よりも、自分の子供を愛する人を「良い人だ」と言います。私たちは、これが最も深い、永遠の善に関する真理だということを悟らなければなりません。

 変わらぬ者になりなさい

 いったん、一つの成熟した自分になったならば、皆さんは簡単に変わる人間になりたいと思いますか。それとも永久に変わらない人間になりたいですか。根と幹と葉、これら三つのうちで根が一番変わりにくいのです。つまり、葉は幹よりも変わりやすく、幹は根よりも変わりやすく、根は一番変わりにくいのです。

 皆さんが木として育つときに、まっすぐ上に伸びたいでしょうか、それとも曲がって育ちたいでしょうか。(まっすぐです)。高く伸びたいでしょうか。それとも低くでしょうか。(高くです)。つまり皆さんは、理想と野望と希望とを求めているのです。皆さんは大きくなりたいでしょうか。小さくでしょうか。(大きくです)。皆さんは、現実が個人的なものであってほしいでしょうか。それとも世界的なものであってほしいでしょうか。(世界的です)。皆さんも木と異なるものではありません。木も同じなのです。これらの輝かしく成長した木は、すべての植物、動物、被造物の中心となるでしょう。時が来れば、花が咲き、実が実るのです。

 皆さんは、配偶者のために結婚しますか、それとも子供のためにしますか。(子供です)。しかし、現在ではだれもが自分のために結婚します。

 自分の子供にすべてを与える唯一の理由は、そのようにしてこそ皆さんの実が成熟するためです。理想の現実化が成し遂げられるのは、これらの喜びが現実のものとなり、これらすべての原理が一致した時です。
 私たちは、私たちが生きているのは将来のためであり、将来において現在よりも良い人生を送るためであるということにまだ気づいていないのです。私たちは、このことが分かりませんでした。歴史を通じて私たちは、結婚したいという思いをもってきましたが、なぜそうなのかは知りませんでした。私たちは、結婚して子供をもちたいと思ったのですが、なぜ子供が欲しかったのか知りませんでした。今私たちは、知りました。それは、いつでも神のため、神に似るためでした。神は、木の例えのように、人類が生きることのできる、完全な世界を見たいと思っておられるのです。

 中心との一体化

 何が、最も価値あるものでしょうか。最も価値あるものは、中心と似ているものです。ですから私たちは、中心者と似ようとするのです。東に伸びる枝と、西に伸びる枝は、二つの異なる正反対の方向性をもっています。しかし、たとえ方向が正反対だったとしても、一つの幹と一つの中心線があるので、これらはみんな調和しているのです。

 私たちは、あらゆる方向とあらゆる形のものをもっています。ですから、今神が必要なのは、一つの中心です。そうすれば、神は価値を判断することができます。神はその基準をつくろうとされているのです。家庭でもそれは同じで、より大きなグループでも同じです。神は、他の者の価値を比較し判断することのできる、何らかの基準が必要なのです。

 なぜ神が皆さんに「世界一完全な個人となれ、世界一完全な家庭と国家になれ」と要求するかといえば、皆さんが一つの幹、一つの中心線になるためなのです。一たびその価値、基準が確立されたならば、神はそれとの比較において、諸々の価値を判断できます。

 さてこれらのことから、私たちは現在の家庭に対する、新しい理想を得ることができました。それでは、家庭の理想は、どれくらい遠くまで拡大されるのでしょうか。(世界までです)。ならば私たちは、世界を代表する国の中心とならなければなりません。それからその中心の周りに、異なるものが異なる方向に向かうことのできる基準を打ち立てなければなりません。天は、私たちを訓練して、この目的にかなう国の一員にしようと努力されていることを忘れてはなりません。

 もう一度結論を繰り返しましょう。私たちは、いかなる歴史的偉業にも決して劣らない、私たちの完成を成し遂げなければなりません。私たちは、歴史上かつて現れたことのない男と女とになるのです。私たちは、世界と人類がもちたいと思うような子供を生み育てます。これが、神のもとに理想の社会と、理想の世界を創造し、獲得することの目的です。

 最も大きな理想

 神は世界のために、一日二十四時間働きます。私たちは神に似なければなりません。私たちは、神と神の努力に倣わなければなりません。ですから私たちは、いつも一日二十四時間、世界のことを考えていなければなりません。私たちが自らを神のこの理想の上に確立させるならば、その理想は私たちのものとなります。そしてそれは、青年がもつことのできる、最も美しい理想なのです。

 さて私たちは、私たちの人生の道程と目的とが、三段階の説明によるごとく、良き子供を育てる神に似ることだと知りました。私たちは、方向性において誤りを犯すことはありません。私たちは、絶えずこの一つの方向に向かいます。ですから私たちのメンバーは、何よりも兄弟姉妹を愛し、何よりも両親を愛するのです。それが私たちの姿勢です。

 ですから私たちは他のために生きなければなりません。これが、私たちの後輩にまねさせるために、私たちが確立しなければならない唯一の伝統です。

 あまりにもたくさんの一見重大な事柄がありますが、これよりも重大なことはありません。本当です。これが最も根本なのです。

 私は、皆さんが神に倣い、すべてを神のためになし、神を理解することを願っています。皆さんの、これからのすべての幸せと安全と、神へのすべての親密さとを祈っています。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.08.10 21:18:02
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