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2021.08.18
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「現実的蕩減と我々の使命」

1974年12月26日
日劇にて


 ただ今、帰りました。(おかえりなさい。拍手)

 我々統一教会の食口達は、一般の人達と違った道を行っているということを、各自がよく知っているのであります。我々の行く道は蕩減の道、蕩減の道とは堕落してきた反対の道を、さかさまに戻ってゆく道をゆかなければなやないのです。

 その道においては、何の内容もなしに逆に行けばいいというのではなくて、そこには必ず蕩減条件というようなその内容を静視してその条件を乗り越えて、初めてぬくようになるのです。また我々人間の方から見て自分なりに決めていくのでなくして、天地創造の本然の基準に一致したその道を、逆の方向に条件を通して行くということが、統一教会でいう蕩減復帰路程です。我々、蕩減復帰路程という基準から見た場合に、これは現実の問題なのであります。

 そこで今日、皆さんと共に話したい内容は「現実の蕩減と我々の使命」という題目でお話ししたいのであります。

 本来のアダムの位置に返る為には

 そもそも宇宙には、神様以外に何もないそのところより全てのものが創造されました。万物を創造なさり、その前に天使界を造り万物創造の後に人間を造るようになりました。これが神の主管圏にあるべき全ての被造物が、堕落の結果におきましてサタン圏の主管結果になって来たのです。蕩減復帰は反対の方向を踏んでゆくのでありますから、創造の世界において堕落したのだから、創造の世界の基準をまずもって復帰しなければなりません。

 神様が万物を創造したその創造物が神様と一つになったその神の主管圏にいられないようになったのは人間の責任においてそうなったのだから、それさえ返すそういう立場を取らなければなりません。いわゆる人間を中心として再びものを造り上げるという、再び人間がものを復帰して来なけれだならない、これが信仰基台というものであります。信仰基台というものは、ものを再び自分の力を投入してそれを神と一つになるべき位置に返すということであります。この地上において堕落したんだから、この地上において天使長的な基準と人間的な基準を再び創造するような過程を取ってゆかなければ、それは元の創造基準に立ち返る事が出来ない。そこで天使長的基準に立ったのがカインの立場であり、アベル的な立場に立っているのがアダムの立場である。アダムの責任の未完成の為に天使長という存在が堕落するようになってしまった。それを再創造しなければならないのが我々人間の位置であるから、我々復帰路程を越えてゆくという場合には、必ず天使長的なその存在を再創造しえたというそういう勝利的な、相対圏を主管しうるその位置を元返ししなければ、堕落しない本来のアダムの位置に立ち返ることは出来ません。

 アダムとして立つべき基準

 それで実体基台というものは一体何かと言えば、天使という基準を再創造して、アダム的な基準にその天使長が完全に一体化ならやしめる基準をいうのです。

 その基準を成し得たとするならば、その次にはアダムを中心としてエバという存在が問題になる。創造原理という立場から見た場合は、アダムを造ってからエバを造ったのと同じように、アダム自体を完成しなければエバの基準を復帰することが出来ないから、これまでの神の摂理というものはアダム再創造に向けて堕落と反対の方向に展開してきたものが、六千年の人類歴史であるのです。それは物を深し、それから僕のの僕の段階から僕の段階、僕の段階から養子の段階、養子の段階から実子の段階へと摂理は展開して来た。

 兄弟は、こういうような基準において、堕落したのだから、今はサタン圏に立っている。カインはサタン圏の方に、アダムは神側の方に立っているから、これを再び蕩減する為にカイン.アベルの問題を立たせて、ここに完全にアベルを中心として統一させようとする。それが成されるならば、そこにもとのアダムを基準として天使長を主管しえた立場において、夫婦基準を授けられる。アダムを復帰した後は次はエバを復帰しなければなやない。それがキリスト教を中心としてみた場合、新郎新婦の理想として今まで二千年の歴史を拡大して来たのであります。神の歴史の六千年の摂理路程を代表的に分折してみれば、旧約時代はもとの人間と一つになる時代。新約時代は本当の子供と霊的な子供が一つになる時代である。だから、このキリスト教自体は実子、本当の子供、霊肉共に実感した子供の基準が一つになる代ではなくして、霊的養子と僕が一つになる時代である。それが実子の時代において再臨の理想を完成して、この霊的養子的基準、実子的基準に勝利圏を立たせることができる。再臨の主が来られる基準ならば、霊的基準において実子の使命を世界的に養子圏の霊的勝利基準を受けついで、実体的勝利基盤を霊的勝利の基準に合わせて、共に一体となった基準において完成されたアダムの位置に立ち返る。そこにおいて、エバに対しての蕩減の使命を果す様になるのである。アダムの基準が生まれた場合にはエバ再創造の過程を踏んでゆくというのが、メシヤを中心としての新婦の使命である。アダムを中心としてそういう路程が残っているから、長い歴史を通してキリスト教を中心として新郎を迎えるエバの基準を世界的に拡大して、霊的基盤と共に肉的基盤を完成されたアダムの前に立たせて蕩減復帰する完全にエバがアダムに一つとなることによって、その本然の姿を復帰しようとするのが復帰摂理の内容であります。

 必要な三段階の実体蕩減

 こう考えてみると、蕩減復帰というものは我々の観念的な問題ではなくして、現実的な問題となっている。

 蕩減復帰とは何であるかといえば、サタンをいかに分別するか。それはものにおいて、実体において、それから愛を中心としてのその堕落によって、肉身と霊が分れるようになったのだから、心情によって分れたその霊肉の期間を神の心情を中心としてこれを結び合わせなければなやない。堕落と反対に、今度は神の愛によって一つに結ばれなければならない。キリスト教は、だから神の愛を中心として、これを個人から家庭、家庭から氏族、民族、国家、世界へと拡大してきたのです。これを分裂したままの神の愛ではなくて、莫然とした位置でまとめるのではなくして、アダムとエバが堕落したのはこの地上なのだから、地上においてこれを完全に蕩減しなければならない。そして結局、蕩減の目的はサタン分別である。ものよりサタンを分別し、実体よりサタンを分別し、心情を中心として良心的霊的基準においてこれを分別してサタンの讒訴条件を完全に乗り越え、神の前にもともとの人間の基準に立ち帰るということであります。

 我々統一教会においては、縦的の歴史を横的に蕩減する。この縦的な歴史は一体何を目的として来たかと言えば、それはアダムを完成させてサタンを完全に分別する一体何を目的として来たかと言えば、それはアダムを完成させてサタンを完全に分別するのが目的であります。

 アダムが完全な立場に立つには、まずもって信仰基台において、ものと完全に分別させ実体と完全に分別させ、良心圏において完全に分別させることによって勝利の基準が立つ。この勝利の基準が立つことによって、堕落した未完成のアダムが完成される。それは結局六千年の歴史はアダム完成を再創造する為に費した歴史である。再臨主というお方は、結局サタンに讒訴されない、神だけに主管され得るそういうお方として現われるということなのです。

 こうして考えてみた場合には、我々は各個人において旧約、新約、成約各時代過程の歴史的蕩減の因縁を残している。君達は年若いとしても、歴史過程において罪の蕩減につまれた罪の因縁の根底につながって生まれてきたのだから、摂理歴史を通してアダム完成を目標にしてきたそのものを横的において我一生涯の圏内におきまして三つの段階を横的に勝利すて、自分の立っている横的環境圏にサタンが侵害できないというような神の方向に立たなければ、神の子として立ち返ることが出来ない。

 だから我々統一教会は、莫然としたサタンではなくして実際の自分が実体的なサタンを対象として戦わなければ、分別しなければなりません。実体のサタンを迎えて勝利する道をゆくのが蕩減の道である。この道には物において蕩減、実体において蕩減し、心においても蕩減をなさなければなやない。その中心は何かといえば、神を愛する、神を愛すということである。

 堕落とはサタン的愛を中心として分別されたのだから、蕩減復帰においては神の絶対的に愛するというその基準に立つ以外には復帰の道は生まれません。神を愛する。愛するにはサタンによって堕落せられたアダムよりすべてが神の愛の立場においてまさるという実質の現実的蕩減圏の勝利の基盤を持たなければならない。だから再創造の過程を、堕落した反対の方向に向けて、現実の我々の障害圏におして再び蕩減をなしていくのが復帰の路程である。

​ 再び万物を愛する基準を求めて​

 それでは旧約時代とは一体何なのか。神が万物を創造する時には、例えばねん土の固まりそのままではものを造ることが出来なうい。水をかけて、その粘土に混ざったものがある場合には、砂は全部より分けて、果して自分の力によって自分の気の向くままに物を作ってもいいという相対的になった粘土でなければ、何の器も作ることが出来ない。まさしく、我々もそれと同じように再創造の力に相対しうる条件を投入して、目的にかなえる相対的なものを造らねばならない。しかし、堕落した血統の人間を中心としてみた場合アダム自体はその万物を愛することが出来ない。主管することが出来なかった。自由にこれを自分のものとして感じ、指導できなかったその基準を再創造しなければならない。そうするには物と自分が一つになったという条件を結びつけなけげばならない。そこで祭物というものは、結局アダムによって再び造り元返されたものとして神に捧げられなければならない。それは主人の全ての良心と実体と希望とが一つになった基準において愛されたものでなければなやない。

 だからその祭物というものは、結局、自分の身代りのものである。そこでものを完全に造って自分と一つになることによって、神の愛を中心として、アダムが万物を主管しえる人になりえたという。これが統一教会でいう基台である。

 物自体からみた場合は、この宇宙に数多くのものがあるとしても、自分にとって一番大切なものはたった一つしかない。神の愛を受けたアダムである。アダムが祭物を捧げる張本人である。自分が死んでも主人のところに行って死にたい。もし主人が殺してもそれは最高の喜びであるとむかえる相対的根底が結ばれなければ、祭物として捧げることが出来ない。一つにならなければならない。

 いくら動物といっても、自分の子供以上に自分の妻以上に真心をこめて一つになるような再創造をなしえたという心情的な相対基準で愛さなければ、神が完全に受け入れる祭物はありません。我々がその基準に立って万物を主管しえたとするならば、その祭物に相当するそういうような価値基準にあつかわれることが出来る。それが統一教会でいう信仰基台だ。イエス様が来られるまで、そういう歴史を中心として祭物を前にして一つになって神に帰ってきたのが旧約時代である。

 天使長的立場のカイン

 ものが創造された基台の上においてアダムと天使長が分かれたのだから、それを復帰する為に祭物の基台の上においてはじめて実体基台を立たされる。それがカイン・アベルの問題だね。アベルはアダムの立場に立ったし、カインは天使長の立場に立った。アダムは中心的立場であり、責任をもつべき立場であったから、彼は天使長再創造の道を行かなければなやない。その為には神の愛の心情基準に立って、堕落した天使長的立場にあるカインに向けて再創造の為の力を投入しなければならない。カインはそもそも神と恩讐圏に立っている。アダムの身代りに立つアベルとサタンの身代りに立つカインの間においては、サタンは、その愛が神と同じような原理基準を迎えるような基準になるまではサタンは反対するんだね。結局カインを復帰するためにはアベルしかない。自分の命をかけて投入しないかぎり復帰はありえないということになる。

 それはイエス様の時代を代表してみれば、イエス様自体はアダムの身代り、ユダヤ人というものはカインの相対圏に立っている。死ぬ境地になったイエス様はなぜ恩讐に対して愛のみ言を残してゆかねばならないか。それは堕落の原理の基準を死んでも乗り越えなければなやない。天的摂理、蕩減復帰の路程を知っているからこそ、サタンに命を奪われながらもカインを愛せた。堕落しなかったアダムの心情圏を、死んで永遠に神に向けて愛しうる基準をイエス様は再び立たせることが出来た。

 反面サタンにおいては、神に一致したイエス様を主管しえる何ものもない。サタンを勝利したる子供の位置において死んだ者を、子供として残して勝利圏に立たせることはこれ神の任務である。復活させて、祝福して世界的な霊的子供の勝利圏を拡大してきた。これがキリスト教だ。だから、キリスト教は子供だから養子圏だ。霊的だから実体性を持っていない。養子的な勝利圏を、その霊的基準を再び実体基準にあわせてはじめてだ霊肉共にサタンに対して勝利圏をもり返さなければなやない。これが、再臨の主が地上にこられて蕩減しなければならない道として残されているのである。

 この様な位置を統一教会は完成圏にて乗り越えるには、まずこれらの蕩減をしなければならない。

 この成約時代とは、霊的勝利の養子圏を受けついで、霊的な勝利の実体者として来られる再臨の主と一つになって、あらゆる迫害、あらゆる反対、蕩減の道があっても完全に一つになりえるその道のことである。そうなれば、サタンは我々個人より完全に退きません。

 我々の本体は未だサタンのもの

 神はアベルの立場であり、サタンはカインの立場であり、サタンは六千年の間反対してその内容といえば、サタンはものを代表として反対してきた。そして次は実体を代表して反対してきた。イエス様の肉体を奪い取っていったのだから、実体条件としてでは神様に反対するんだね。旧約時代はものの勝利、新約時代は実体勝利、成約時代は霊的勝利と共に実体勝利を合わせたその勝利だね。それを勝利しなければ完成勝利は出来ません。完成勝利圏にゆかければならないのが統一教会の行くべき道である。統一教会が実体勝利、いわゆる完成勝利圏を得るには、長成圏の勝利を持たなければなりません。長成勝利圏を得るには、蘇生勝利圏の上でないと得られません。結局、完成圏に立つことが出来ないというのが原理です。成約時代の我々としては自分が立てたとするならば、それは自分が自分でないのです。自分というものはサタンのものである。神と何らかかわりのない。良心もそうであり、肉心もそうである。自分の持っているものはどうか。これも自分のものではありません。サタンのものである。あなた達の着物、本当はサタンのものであ。自分の体というものは自分のものとなる前にサタンのものとなっている。だからその上に立ってある一切すべてのもの、愛とか全てのものは、神様と全然関係を持つような内容のものは一切ありません。それが現実でにおいての我々の存在である。だから、この存在を空間において蕩減し、現実において勝利しえたという実証を持たなければ神に立ち返る事が出来ないのです。

 歴史の標準圏を今日の我々に一致させる

 だから、サタンの子となるか神の子となるか、二つのうち一つしか道はない。ここに公的とか私的問題が起ってくる。天地創造そのものの原則から見た場合、神自体が公的存在である。自分の為に自分が存在しているというのでは、公的な立場は生まれません。自分は全体の為に、自分のものを否定し、同時にサタンのものまでも否定し、それはアダムのものであり、神のものであるという立場に立つか否かが問題である。現実的において、ものにおいて勝利し、実体的に勝利し、良心的に勝利し、そういう基準を実証される勝利圏を持たなければ、神が主管しえる主管圏内は生まれません。ここに集っている統一教会のメンバーは実体的に問題となる。アダム完成を各自がなさなければならない。旧約時代とか新約時代、イエス様とか再臨の主が来られたとしても、再臨の主の完成それ一人の為のものではない。それは万人の救いの公式路程を標準化する為に代表的に来たる存在である。それ以前、旧約時代、新約時代においては聖人義人たちはその時代圏においてアベルの立場の使命を果してエバ完成の一部分の歴史的にとりついで果していったものに違いない。そうすると、歴史を代表したその標準圏に我々を一致さる以外にないから、旧約時代のアブラハムは信仰の代表として、新約時代はイエス様を中心として、実体的勝利基準、再臨の時代には良心的勝利基準、そういう基準をなす事によって心情的問題が復帰される。神の心情という問題を解決する。だからこれは現実的問題である。

 縦的な歴史を横的に、我々一代の一定の期間内に、短期間内の条件、蕩減条件をなし、現実的に勝利し得た全体的な基準を満たない限りは、歴史を乗り越えて本来の姿にもと返す事は出来ません。いいですか?これははっきりしないと統一教会で、蕩減復帰は一体何かわからない。これはアブラハムの昔に必要であって、イエス様の昔に必要であって、我々とは何の関係がない? そうではありません。昔やったことはみんな失敗しているのであってこれは延長されている。我々は旧約の実体の祭物だ。新約の実体の祭物だ。我々は成約時代の□の良心が肉心が自由自在に主管し、その主管するようになるべきであった。結局、自分一人から見た場合、旧的時代も自分の為にやってきたというんだね。旧約時代でなかったら、実体的なその信仰基台というものは自分の現実の歴史の延長圏につながる道はないくなってしまう。新約時代の現実の問題としてそれは延長することができる代表的基準がそのまま延長されて現実につながっているというんだね。それが最後において清を全世界的に一気になす。だから一時において、現実の生涯において、この全てを清算しなければならない。清算の過程を統一教会でいうのは、信仰基台、それから実体基台、それから心情基台ともいうし神様の良心を中心とした基盤だね。神の心情に一致したそういう本然の良心。それが一つになって、一つになるということは、神をキリスト教以上にさなければなないということだよ。アダム以上に愛したというのは何によって認められるか。それは、ものをサタンより分割して愛した、実体よりサタンより分割して愛した、そして堕落した良心罪の立場に一致した者と違って良心的な方向性をもって神の心情の方向に相対させる立場に立ち返ることだよ。それによって、蕩減条件が現実的にたたなければならない。

 カイン・アベルの関係の本質

 神がアダムを愛する前に堕落したのだから、我々は神を絶対的に愛する。神を愛するのは天に向けて愛するんじゃないよ。地において清算しないと、愛する道が生まれて来ない。だから今、サタンと問題となっているのはものと実体と良心だよ。ここにおいて歴史的な勝利を立ててこそ、神を愛する〆そうするには、君達はこれを一度に蕩減する道は一体何だ。それが問題だよ。いかに一度でもって蕩減をはらすことが出来る。本当は、一切を蕩減しなければそれを神はとることが出来ないんだね。

 一切を捧げるには、自分が今まで持っているものを「神様、お持ちなさい」言って捧げたとしても、神料様はそれを取ることが出来ません。それはサタンに愛された、サタンの主管の跡がある。それを清算した者でなければ、神は祭物以外には受け取れない。その祭物のアダムの心情より以上の心情を持って、どのような反対があっても祭物を捧げるという。命を捧げる様なことがあってもね。その祭物をかかえて死ぬ。死ぬことがあっても分かれることが出来ないそれ以上の愛情の心情を残したとするならば、その時には神様がその達体、その犠牲になるそのものと一つになったと認めざるを得ない。

 今、統一教会で誤解しているのは、先生が地区長に任命した場合に、ああ自分はアベルだ。君達はカインだ。ただちに服従せよ!とう。これはアベルになれという命令をしたんだけれど、まだまだアベルになっていません。その命令は今からアベルになるんだという任命であって、アベルになったという任命ではない。ここに統一教会の非常な問題点がある。そのために発展も出来ない。そのために多くの者たちが落ちていく。この壁や現実界において清算する原理的なはっきりとした解釈を各自が知らなければ重大な問題となる。

 神様は万物のために犠牲になってきた。それは堕落した実体を持ったその者の為にも犠牲になってきた。それからキリスト教、堕落圏を乗り越えたといっているキリスト教の為にも牲犠になってきた。今、統一教会の為に神様は犠牲になって、います?いません?、どうです?歴史的過程の教会においては、神様は犠牲になってきたのだけれど、統一教会には犠牲になっていません。そう?同じである。歴史的摂理の立場において、真剣さを向けて我々が立っているという、そういうような体恤の立場に立たなければならないのが我々の立場である。

 だから旧約時代はもの、新約時代は実体、成約時代は良心を通じて心情圏まで、この三段階を横的に、一度に再臨の主を中心としてあんた達を神の供物にしようとね。イエス様の時代から見れば、イスラエル国はものだね。イスラエル民族は実体だね。イエス様自体は良心と肉心が一つになった神の心情圏一つになったそのものだね。それが完全に神様を中心に一つになったところにいて本然の姿が復帰されるのであって、完全に一つにならやらない場合にはサタン圏だというんだね。だから、イエス様に反対する場合には国でもユダヤ教でもそれは皆サタンだ。これをはっきり知らなければなやない。

 だから我々は、の路程に立った終末の信者としては、もう絶対服従、文句ありません。。祭物に文句あるの。
 だから動物を祭物に選ぶのに、従順な動物を祭物に選んでいるんだね。ヤギなんかは、主人が来て自分に合わなかったら駆け出してしまうんだね。羊はそうではない。いくら主人が包丁を刺して命を狙っても、メエェーとそのまま死んでいく。反対しない。

 蕩減復帰路程における祭物の基準

 その代表的存在がイサクだ。もしもモリヤ山上おいてアブラハムがイサクを祭物に捧げるとき、「お父さん、何故自分にそういうことをするのか」と反対したとするならば、イサクは祭物として立つことは出来ません。何も言わないでお父さんのやるままに従って一つになれるその道を辿ろうとするところにおいて、サタンを分別する事が出来た。その道を我々は現実世界に元返さなければなりません。蕩減復帰の道を行くには一番近い所、神様の立っているところで蕩減復帰が出来るの?そしてその物は自分の物ではない神のものである。神のものになるには堕落しない完成したアダムの心情に主管されている、愛されているそのものになったという様な結論に立たなければならない。だからそのものは死んでも、どこに行っても死ぬと所がない。アダムの主管圏内に死ぬ。だからアダムは反対しても死ぬ所がない。わかりました?逃げても行く所が出来ない。アダムが殺して取って食べると知っても感謝します。文句ありません。羊を捧げ物にするには、羊を夜にも昼にも自分の子供より以上に愛して、寝る時でも、主人と同じく寝たい、よそに行く時にも主人と同じく行きたいという、いつも一つになったものでなくては本物の祭物として捧げる資格はありません。わかりました?

 だから神に捧げるものは我々自分が気ままに捧げることは出来ません。自分の良心、肉身或は神の心情を体恤したすべてに主管される相対物の価値をすべて神に捧げる時には、そのものを神は間違いなく受けられる。何故!その基準はサタンが主管することが出来ないから。

 これを見た場合には我々現実的蕩減をしなければならない。これをずっと見るならば、僕の僕の段階それから実子の段階、実子圏でこれが再臨を迎えることだよ。メシヤの為の実体基台だね。それが成ってこそ初めて祝福がある。堕落する時は反対の方に落ちたんだから帰る時も反の道をたどって帰る。僕の僕から僕の圏、それから養子圏にもと返して、養子から実子に完全に一つになって捧げえて実子の基準を受けるんだから、実子が神の父母に返す祭物が生まれて来る。完成されたアダム・エバが一つになってその祭物を神に返してこそ、始めて神に帰る道がある。それから実体。新約聖書にイエス様が十字架につく時ゲッセマネ園の祈祷において自分の心のままにせずして、神の御こころとままにして成し給えという最後の祈りがありましたね。神の御旨の為に自分は生きても死んでもよい。そこには一片の疑いもない。たとえサタンが誘うと言ってもその道を曲げることは出来ない。自分の寄るべき父母と兄弟、そしてあらゆる国王が反対しても曲げることができる?どうです?出来ません。神さえも曲げることが出来ない。実体復帰を狙いとするなら、最後の最後に養子の実体となってサタンより一段高い反対をなしても、私は天の為に死ぬ、讃えるという心情の者でなければ、復帰の道は生れてこない。原理聞いてもそうなっているんだよ。だからそういう観点からイエス様を見た場合に命を捧げて死にたがる者が生き、生きたがるものは死ぬ。こういう観点を知っているイエス様は全世界のキリスト教信者に対して、第一の宣言は何かというと、死ね!死ぬ覚悟をしなければ神に帰れない!命だけ捧げれば、もうものなんかいらないや。一度にサタン屈服するには、蕩減原則によって全てを一度にまとめて神に捧げる。その道は必ず命を捧げる道であるというのだから、イエス様はそういう言葉を言ったというのは復帰の歴史からすれば最も意義のあることである。わかりました?

 統一教会のメンバー各自にはある者がいるからみっともなくて…と、そういうものはわしは原理はいいんだけれども、統一教会にはあの者がいるからみっともなくて…と、そういう者が沢山いるんだね。それは絶対いけません。人間がみっともないと憎む様な何ものの要件も、堕落した以上には道がないということをはっきり知らなければなりません。だから現実界において蕩減をしてサタンを分別しなければらない。

 蕩減復帰の為の七年路程

 それでこの分別期間、神様の六日創造完成と共に安息日を加えての七数、そして八日の再出発の公的路程を満そうとして創造なされたから、それを総計的に六千年の歴史に一千年の歴史を加えて七千年間の蕩減を成す。聖書では歴史は七千年になっているけれども、人間の歴史は八十万年も百万年もなっているといっているんだね。長いその期間において、アダム一人の再創造の為に神が費したその苦労というものはもう我々考えられない苦労である。

 統一教会は暦史的蕩減をなすには、誰でもが七年路程を行かなければならないというのが結論です。それは歴史を代表した全体的蕩減を満たす条件を立たせん為の期間である。この七年間の公的路程を行く時に蕩減復帰目的にかなう自分になりたいというのにそこにびつびつ言うことが出来るの?言えません。不平ということは成り立ちません。復帰路程に不平う者は誰だ!サタンだ!神の復帰路程にに反対するものは、不平不満するものはサタンだ。

 だから聖書の教えに最後まで耐え忍ぶ者は救われるとあるね。その最後になってその瞬間だけ忍ぶ者じゃないよ。続けざまに忍んで乗り越えた者が救われるという話だよ。その時、ああこわいから?そんなことであったら先生は生涯かけてこんなことはしません。誰が反対されたい者がいるや。しかたないからやるんであってね、嬉しいからじゃないよ。蕩減の道はそうなっているんだから、それを乗り越えるには、しかたない。堕落人間の運命のすべての経路を甘んじて、さかさまに行かなければならない。わかりました?だから神に誓って、「私は今から七年路程を歴史路程の七千年の歴史のすべてを蕩減する道を行きます!」とね。これに不平をいう者はいくら神学大学の博士といえども間違いなく地獄に行ってしまうんだよ。金もなければ、知識もないトンチンカンのおやじであってもね、絶対死しても行くというものはちゃんと間違いなく霊界では天国に行くんだよ。だから知恵ある者が天国に行く道が多くありません。目玉が大きくなってね、四方八方見張って比較対照する能力があるから比較する。だから本当の信仰者はね、従順なるものです。何も知らない。神に対してもわからない、そういう者が一番早く行ける。(笑)わかりましたね。

 それが分ったら大変なことだ。では我々、自ら僕になれる者や?僕は誰が決めるの僕が決めるの?それは自分が決める。堕落したアダムが決めたんだから、自分が決めなければならない。神様、自分は今から蕩減の道を行きますから、復帰路程において僕の僕の段階から行きますから、この世界の万民の僕として如何に扱われても使命を果します!

 反対は大きく受けよ

 いかなる時代でも宗教は迫害を受けるところに発展してきたというを否認することは出来ません。その迫害に追われて行ったところに発展したんじゃない、それを乗り越えてそれを克服したところに発展を成すのであって、けんかしたところに発展したんじゃありません。

 統一教会の原理とはこれ一体何じゃ。これは物理学の原理じゃありません。科学の原理じゃありません。堕落した人間万民に共通して行かなければならない鉄則だ。人間としてはね、万民共通の運命の公式である。それは大統領であるからといって認められるの? サタンが大目に見てやる? そんな事はありません。分りましたね! そういう道、僕の僕の段階から、僕の段階から、養子の段階かや、実子の段階から、父母の段階から、それを皆通過して神に帰る。大変だね! だから自分のものになる前に僕のものにならなければならないものだった。自分のものになる前に養子のものになるべきものであったというんだね。自分のものになる前に実子のイエス様のものになるべきであった。それがカイン・アベルを蕩減して新郎新婦圏によって夫婦が持つべきものであった。それは夫婦ばかりじゃなくしてね、真の父母のものとなるできだった。その過程で自分のものになるのではなくして最後に神様のものになってからこそ、自分に再び帰る道が生まれて来る。分かりました? これが復帰の原則である。この鉄則に一致しないものは神の前に絶対に到らない。オーバー、これはサタンのものそのままだよ。自分のものになりません。だからイエス様の時代においてアナニヤの例があったね。もの皆売ってから半分位隠してイエス様にすべて捧げますと言ったんだね。着物を着てから復帰するの、裸になって復帰するの? 自分が裸になってそれは七千べん打たれても不平言えないものである。大きく反対は受けなきゃならない。それで統一教会は蕩減捧ってあるんだよ。分かる? この体にはサタンのようなのが入っている。蕩減捧というの皆知っているんだね(笑)。清算しないと愛の実体に立つことが出来ない。はっきりした基準わかったね。それが分かれば結論は早いんだよ。

 君達は現実的にサタンを分別しなければならない。この三時代、我々に相応したすべてを蕩減する七年間において一度蕩減するすべての旧約時代に該当するものは、神のものなのである。新約時代に該当するよのはイエス様の実体だね。この体を捧げてもこわがりません。十字架につけられても神にそむく様な、イエスに反対する様な弟子の立場であるりません。死んでもイエス様が通っていたような血を流し得るような立場に立っても不平を言ってはならない。そうしなければ一度に蕩減復帰は出来ません。現実的蕩減完成を見い出す道はありません。

 生命をかける三弟子を持て

 統一教会のメンバーとして結論を言うならば、すべてを一度に犠牲にさせても感謝する者である。或は地区長がアベルの立場に立った場合には、わしが死しても地区長を永遠に捨てることは出来ない、それはイエス様が死ぬ時に三人の弟子が皆逃げていったね。これは旧約時代にものを犠牲にしたその伝統的捧げ物の基準に一致しなかった。その三人の弟子をイエス様が祭物と捧げて、イエス様が身代りに救われる道があった。はやくわしを十字架につけてくれ!と進んで出るようになったならば、イエス様は死ななかったかもしれない。それが反対の方向に皆逃げてしまった。蕩減復帰できない者は神も取ることが出来ない、神に帰るには、蕩減条件を清算しなければならないから、肉身を通してそれは霊と一つになる様な環境を縦的な立場において結んでゆかなければならない。そういう立場に追われ十字架に死んで、霊的基準だけ残して横的基準はなくしたんだからこれを再び取り返す為に再臨の主は来たんだね。肉身で来なければならない。わかりましたね?(ハイ)。この基準を世界万民が分ったとするならば、大きな問題となる。この地上に真の父母が生まれて来たとなれば、これはしめた! 一度に蕩減復帰しなければならない。そして、ものも実体も心も、真の父母の前にあって一つになる。

 もし地区長たちが、自分にたまりきれないように迫害するならば、これから蕩減復帰をなしにゆくんだあ、とね(笑)。今こそ自分の時間だとね。一回、二回、三回とその場で地区長を愛しながら打たれた場合には、それは神様が勝負を決定する。四回打った場合には、地区長が打たれる。という原理があるんだね。そうかといって覆讐のためにそうするのは、いけません(笑)。その原理を知っている統一教会の文先生は既成教会に今まで三十年迫害されてきた。三十年、追いかけられてもビクともしないよ。反対してもどんどん上ってきた。普通だったら喧嘩でもしたいのに喧嘩しない。三十年間黙っている(拍手)。だから原理基準を違反してそれ以上打たれた場合には、それは文句なしに神の方にアベルの方にずっと回ってくる。だから統一教会は打たれながら発展していく。その戦法だね。サタンのその世界は打ちながら失ってゆく。神の方は打たれながら得ていく、復帰していく、その道はまるっきり反対である。

 我々自分の行くべき道が忙しいんだね。死ぬ前にこの蕩減の道を清算していかなければ神の帰ることが出来ません。それでものを一つにし、実体を一つにする。信仰基台を勝利し、それから実体基台を勝利しなければからない。実体基台はサタンに自然屈服させなければ勝利できません。神が旧約時代、新約時代、成約時代の三時代を通じて得ようとしたアダムの実体を現実界において成し得たという基準を得るには、命がけで、自分が迫害された三倍以上の迫害されても逃げていかないような三人の弟子を持たなくてはなりやせん。そののちはじめて、祝福という問題が生まれて来ます。わかりました。(ハイ)

 旧約時代は六十代以上の、新約時代は六十から四十代だね。成約時代は二十代から四十代だよ。だから統一教会は年令が若い成約時代に立っている。神様がアダム・エバを祝福させるにはね三時代圏においてアダムが打たれて、イエス様が打たれ、再臨の主が打たれたね。子女を打たれるのは神が打たれることである。その三人の為にいくら苦労された神様でも不平いわず迎えようとするのと同じように、いくら三人の子女の為に悲しい事があってもそれを乗り越えてそれを愛する、そういうふうにしてサタン的三人が完全に復帰なし得たその基準において、歴史的三時代反対したサタンが自然屈服する様になっている。その屈服した基台の上においてははじめてイエス様は死ななかったけど、新郎新婦を迎えて蕩減復帰の道だね。その道をゆかなければならない。

 地上にいかなる心情を残すのか

 現実の蕩減復場は、実におそろしい。イエス様の十字架よりゲッセマネの山上より恐ろしい。そういうような運命の文叉点が一瞬に迫っている現実であるということを知りながら、勢いよく、いかに乗り越えることが出来るか。わかりました?(ハイ)だからすべてを捨てることが出来る。自分の命までを神の為に捨てるそういう立場に立って一切が復帰できるよ。

 自分は世界の為に、天宙の為に一生すべて捧げても文句ありません。サタンがしても神がしても私は間違いありませんというものになってね。神様がした場合には長いんだ。サタンがした場合には短いんだね。誰によって試験されたいん?サタンに。だから統一教会は蕩減の速度を早めるために、おのれをサタンの一戦に立たせる。個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、その基準を乗り越えなければなやないのだから、私は天宙の為に立ったアメリカを代表し、日本自体はね、一番恩讐圏の国家を代表させて愛したとすれば一番早いんだね。だからイエス様が恩讐に対して愛の祈りをしていたね。

 先生も今度アメリカに行って三年の戦いは、その心情をいかにこの地上にこの地上に残してきたかということです。その場合には、先生は思いもよらない勝利者になるだろう。まさしくそういうことを成して来ました。(拍手)それと同じ様に、日本の皆様も現実的蕩減と我々の使命という観念をいかに自分の立っている立場で神の栄光を受ける堂々たる子女になれるか、そうなる様に先島は心から祈るものでございます。わかりましたね。(ハイ)



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.08.18 23:01:01
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