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2021.09.21
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「言葉と行動」

1977年1月30日
ベルベディア


 神が語り行動する理由

 今朝のメッセージの題は、「言葉と行動」です。日々の生活において、私たちの言葉はひじょうに大切です。私たちの言葉は、多くの重大なことをします。それらはインスピレーションを与えたり、幸福をもたらしたり、心痛を起こしたりするものです。一般に、人々はよく話せる人々を賞賛します。しかしながら私たちの生活の中で成功するためには、言葉だけでは充分ではありません。その言葉が行動によって支えられなければならないのです。

 私たちは、人間生活における成功の秘訣を決定しなければなりません。言葉が多くの行動が少ないのと、言葉は少なくても行動が多いのとでは、どちらがよいでしょうか。人がもつ言葉と行動の組み合わせがその人の価値を決定し、その人の人柄と人格を明らかにするのです。その基準は、人間にとっても神にとっても同じです。

 では、しばらく神について考えてみましょう。なぜなら神も語り、行動するからです。神は全能で遍在されますから、神にとっては、どんなことも不可能ではありません。では、なぜ神は、わざわざ話をするのでしょうか。全能なる創造者である神は、ご自分の行動を誰にも説明したり、弁解したりする必要がありません。それなのに、なぜ神は話す必要があるのでしょう。なぜ神は、わざわざそうするのでしょうか。地上であれが霊界であれ、私たちは、私たちの生活に幸福と喜びがあれば、笑い、踊り、そして歌います。しかし私たちは、自分たちだけで喜びや幸福を伝達できるものではありません。そのように、神がその喜びを表現するためには、神は何かを必要とするに違いありません。私たちは、神が話し、行動することを知っています。それは創造するためでしょうか。聖書によると神は、神の言葉によって世界を創造したと書いてあります。それは、神が山の頂山に登って遂造物が現われるように叫んだということでしょうか。本当に神は、物を創造することだけに関心があるのでしょうか。

 創造には、なんらかの目的がなければなりません。神は創造することだけのために創造しているのではありません。神が話して行動する中心的な理由がなければなりませんが、それはなんでしょうか。神が世界の救済のために語り、行動することを知っています。しかし実は、世界の救いは神が本来意図したことではなかったのです。それは堕落の後に、はじめて必要となったのです。統一教会のメンバーたちに、ひとつ聞いてみましょう。あなた方はは、世界の復帰が必要であるこの緊急事態を、永遠に続かせたいと思いますか。それとも、復帰を終えて新しい夜明けを迎えたいと思いますか。神も新しい夜明けをみたいと願っています。神は確かに救いのみ業をなさっていますが、それが神の永遠の仕事ではありません。神はそれを早く終えたいと願っておられるのです。復帰は、創造の本来の考えが全うされていないために、今、必要とされていることなのです。

 しかし神は、救いのみ業や創造以外にも、なお語り行動しています。それはなんでしょうか。それは愛です。真実の愛のためです。もしそうであるなら、真実の愛とはなんでしょうか。

 調和と統一の世界

 誰も真実の愛については、人間の言葉で説明することができません。真実の愛が来る時、私たちの骨と器官・五官は正にすべて微笑み、同じ瞬間にどっと笑いだすことでしょう。その時、の救いは神が本来意図したことではなかったのです。それは堕落の後に、はじめて必要となったのです。統一教会のメンバーたちに、ひとつ聞いてみましょう。あなた方は、世界の復帰が必要であるこの緊急事態を、永遠に続かせたいと思いますか。それとも、復帰を終えて新しい夜明けを迎えたいと思いますか。神も新しい夜明けを迎えたいと思いますか。神も新しい夜明けをみたいと願っています。神は確かに救いのみ業をなさ-ていますが、それが神の永遠の仕事ではありません。神はそれを早く終えたいと願っておられるのです。復帰は、創造の本来の考えが全うされていないために、今、必要とされていることなのです。

 しかし神は、救いのみ業や創造以外にも、なお語り行動しています。それはなんでしょうか。それは愛、真実の愛のためです。もしそうであるなら、真実の愛とはなんでしょうか。

 調和と統一の愛の世界

 誰も真実の愛については、人間の言葉で説明することができません。真実の愛が来る時、私たちの骨と器官・五官は正にすべて微笑み、同じ瞬間にぞっと笑いだすことでしょう。その時、私たちの心はどうするでしょうか。私たちの体が微笑み、どっと喜んでいる間、私たちの心は石のように冷たくなっているこでしょうか。私たちが真実の愛と連絡をとる時、あらゆるものが反応します。そこには調和と統一された行動があります。私たちの心と体全体が、それに調和して反応します。これは永遠の、しかも遍的な原則です。

 たとえば、多くの異なった種類のダンスがありますが、それらすべてについて言えることは、あなたの腕と足が動きだす前に、あなたの心が既に踊っているということです。なぜ私たちは踊るのでしょうか。それは、ダンスは真に愛の表現、喜びの表現だからです。天国の世界は音楽の世界、ダンスの世界、笑いの世界です。しばらく美しい歌について考えてみてください。「私は英雄(ヒーロー)だ」とか「私はヒロインだ」とかいう、自分を讃美した歌がたくさんあるでしょうか。そのような歌は、人々の心に訴えません。そのような歌は、たとえ短くても、人々を厭きさせてしまうでしょう。ですからそれらは、二回、十回、あるいは百回と繰り返すことができません。しかしあなたが愛の歌を時は、それを百回、千回と繰り返した後でも、なお新鮮さと興奮があるでしょう。愛の歌は、千年間繰り返されてもそうなのです。たとえ全宇宙が権力とお金と知識によって完全にぎゅうぎゅう詰めになったとしても、なお愛の歌のための余裕は残されているのです。

 お金と権力と知識は永遠に存続しませんが、愛の歌は永遠の新鮮さと永遠の認識と永遠の喜びとを持っています。理想世界、特に完成された霊界は愛の世界です。愛は永久的に極点に達しています。その世界からは、音楽と歌とダンスと喜びの笑いが起こってきます。すべてのものは理想世界と天国の中心的な特質である、このひとつの真実の愛を中心としています。あなた方はこれに異議がありますか。それを願わない人が誰かいるでしょうか。誰もが理想的なものの方を向きます。理想世界は尊敬を得ようとして、「自分はヒーロだ」とか「ヒロインだ」とか言おうとする人は誰もいません。そのかわりに誰もが、愛の世界に溶け込んでお互いに調和した授受作用をもつことを願います。

 「今の世界においては、お金がすべてである」という人々がたくさんいます。彼らは、お金が究極的な幸福をもたらしてくれると考えています。それで彼らは、お金持ちになって見せびらかしたい、マンションを持ちたい、すべてを持ちたいと願っています。彼らは富が人間生活の極致であると考えているのです。統一教会のメンバーは例外として、アメリカの女性はひじょうに金持ちの夫を持ちたいと思っています。そしてたぶん、彼女たちの次に高い目標は、ハーバードやエール大学で博士号を取得した、無限の知性をもった男性と結婚することです。あるいは彼女たちの目標は、それよりもずっと高いかもしれません。彼女たちは誰もが自分の所に来て尊敬を表明するようなファーストレディになって、世界の権勢を思うがままにしたいのでしょう。それはあなた方の目標ででもあるのでしょうか。しかしそれらは、朝の露のように消え去ってしまうことでしょう。

 愛のある場所

 愛の言葉について考えてみましょう。あなた方が自分の愛を言葉で表現するとき、あなた方はその説明をしたり、それに何かの条件をつけたりしますか。あなた方は、私はあなたがたくさんのお金を持っているから、あるいは、あなたが米国大統領だからあたたを愛する、と言うのでしょうか。あなた方は、説明を要するような愛と、あなた方の心に直接入ってきて、正に自分の骨の髄で感じるような種類の愛との、そのどちらを好みますか。私たちは、たくさんの種類の愛があることを悟らなければなりません。人を過らせるような愛、他人を利用しようとするような愛、他人を操るような愛など、ひじょうに多くの偽りの種類の愛があります。愛は非常に
 もし私たちが愛を分類するとしたならば、神を中心とした愛とサタンを中心とした愛との、おもに二種類に分けられます。それらの違いはなんでしょうか。まず第一に、神を中心とした愛には統一と調和があります。それがあるところでは言葉と行動、心と体とがすべて一つの共通のゴールを中心として統一されています。それらは一つの目的、一つの方向に向かって行動します。真実の愛は一つにさせる力であり、したがって心と体、男性と女性、家族同士、また友人同士を統一させる共通点があります。

 それでは、統一の基準と公式はなんでしょうか。愛がその基準を決定します。愛は主体と対象が出合い、心と体が出合い、男性と女性が出合い、親と子が出会う共通の場所です。その中心点に神が住んでいます。なぜなら愛は実際、神のものであり、それはあなた方自身よりも高いところからやってくるからです。なぜ神は、その王座を、愛という格別な位置に置くのでしょうか。それは、神が対象を求めているからです。愛である神は、愛がご自分に応える共通の場所を探しています。

 私たちは一般に、人体は神の宮であると言っていますが、聖なる宮とはなんでしょうか。それは生活のために働く場所という意味でしょうか。それは、工場、あるいは事務所のことでしょうか。あなた方は、聖なる宮について考えるとき、直ちに、平和と静けさをもっている、ある恒久的な休息所を思い浮かべます。愛の住む場所は、静かな場所でなくてはなりません。なぜなら、愛がなければ静けさも平和とないからです。もし私たちが神の宮であるならが、私たちは休息所、聖なる場所、神の愛の住む場所となるでしょう。これは私たちが、平和と平安とを回復することのできる唯一の方法です。

 あなた方が神の愛をもつとき、自分自身の中で休むことができます。私たちは自分自身を聖なる神の宮として高め、永遠に平和と平安を回復できる神の住む場所となりたいと願っています。そのような人格をもった人々の世界を、私たちは心情の世界と呼んでいます。あなた方が神に対して、あなた方自身の聖なる場所に住んでくださいと招待するならば、神の愛は泉の水のように、どんなに多く使っても、新鮮に湧き続けるでしょう。そしてそれは淀むことも尽きることもないでしょう。そのような人に、あなた方はなりたいと思いませんか。

 言葉と行動の統一

 もしあなた方が神の宮となるならば、あなた方は悲しんで泣いている人々を慰めてあげることができるでしょう。もしあなた方が神の愛の完成品となりつつあるならば、あなた方は完成した人間になりつつあるのであり、あなた方の近くに来る人々は、その愛の春のような雰囲気の中で溶けてしまうことでしょう。すると、悲しみや辛苦、苦痛は不思議と溶け去ってしまうのです。そして神を中心とした愛だけが、体と心とを調和させることができるのです。たとえばどんな人間の努力をもっても、世界のどんな糊を使ったとしても、愛のようには、心と体を一緒にさせることができません。

 統一教会では、私たちは互いを兄弟姉妹と呼んでいますが、どのようにして兄弟姉妹となるのでしょうか。一般に人々は、私たちが神のことばにより、統一原理を通して、兄弟姉妹になると言っています。でもあなた方は、統一原理それ自身だけど、すでに統一原理をもって生きている人格の、どちらを欲しますか。あなた方が本当に統一原理によって生き、完成させるならば、あなた方の人格は愛の心をもちます。

 「言葉と行動」が、きょうの私の話題です。気高い人格の人間であるということは、その言葉と行動とが一つの共通の原理によって統一されており、話しと行動を完全に一致させて行うことを意味しています。私たちは話した通りに行動しない多くの人々を見ることができますが、しかしなががあなた方が、高貴な、あるいは神のような人をそのような観点からみた場合、彼らの言葉お行動が統一されているのことを見い出すしょう。たとえどのような角度からみようとも、あなた方はそこに、矛盾ではなく調和と統一とを見い出すことでしょう。では、あなた方はどうしてでしょうか。あなた方は完全に言葉と行動とにおいて一つとなっていますか。自分自身の妻に対して、自分の国に対して、また神に対して、自分の言葉が自分の行動と矛盾しないと主張できるならば、その人は本当に完成された人間です。

 また私たちは、それらの言葉と行動が、何を中心としているかを考えなければなりません。ある人は、「自分の言葉と行動は、お金に関する限り、決して互いに矛盾することがない」と言うでしょう。ビジネスに関する所においては、彼らの言葉は黄金のようです。多くの学者たちは誇らしげに、「自分たちが宇宙の知識を追求している間は、その言葉と行動はまったく同じだ」と言うでしょう。地上の強力な支配者たちである大統領や王様、世界の帝王たちは、自分たちの言葉は法律であり、自分たちの言葉は行動を起こし、その結果、自分たちの言葉と行動の間は完全に一致している、と言うかもしれません。そのような基準で生きた人々は多くいます。しかし、人生の真の価値を考えてみるとき、私たちはそのような人々に、どのような評価を与えることができるでしょうか。

 彼らの言葉と行動は、たしかに一体化しています。しかしそれはお金、権力、あるいは知識といった特定なものに強点を置いてのみです。それを神の観点からみると、彼らは神のことばの基準以下でしょうか。それとも基準以上でしょうか。これらの異なった基準は、単に仮説というのではなく、人間生活において現実的なことです。私たちはそれらを、どこででも、毎日目撃することができます。

 では、あなた方の強調点はどちらですか。もしあなた方が言葉と行動の統一された人間になるとするならば、どのような強話点、あるいはどのような基盤の上で生きたいと思いますか。もし、あなた方の強調点と基盤が明確でなかったら、あなた方の方向は不安定であり、あなた方のコースはぐらぐらしたり邪魔されたりするかもしれません。

 宇宙の中心である神の愛

 いったい、どのような強調があなた方に、より高い価値をみたらしてくれるのでしょうか。誰であっても、人生の最高の方法である言葉と行動の最高の一致が、愛を強調することによって始まることを否定することはできません。このことを結論として、またしばらく考えてみましょう。誰かが、「何かがおかしい。私は完全に同意できない。私は革命を起こしたい。私は愛を壊してそれをつくり直したい」と言うことができるでしょうか。それは可能でしょうか。あるいは、愛というものは、この世で最も悪い人間がそれを革命することを考えることもできないようなものでしょうか。

 愛は普遍的なものです。世の中のあらゆるものが、そのまわりに一致します。もしお金を強調するならば、人生のある部分だけを支配できます。また、知識や権力を強調するならば、それも、ある部分を統一させたり支配したりできます。しかし、普遍的な成功をおさめることはできません。自分を賢いと主張するン々がひじょうに多くいますが、神が知恵の王者です。もし神と知恵者が共に、あることについて深く考えたとしたら、彼らは同じ結論に到達するでしょう。人々がいかなる永続的で普遍的な統一と平和を得ようとしても、それは愛を中心としたものでしかありえません。愛を強調してのみ、人間の生活様式に高貴さをもたらすことができるし、それを崇高なものにすることができるのです。

 神、または愛は、天国の中心ですが、私たちはそれから引き裂かれています。私たちは、天の中心が、愛を備えた神であると言わざるをえません。白人であろうと黒人・黄色人種であろうと、私たちのうちの誰も、それに反論することはできません。私たちは誰であれ、神と普遍的な愛を求め、憧れています。故に、神と愛は、ともに宇宙の中心です。それでは、宇宙的な人間となるためには中心をどこに立てるべきでしょうか。それは、自分の中心を、神と神の愛でつくるべきです。あなた方は、神と神の愛を備えた中心を既にそこに持っており、自分自身をその中心に受け入れられるようにしています。あなた方は、その中心の中にはいりつつあります。

 神は静止してはいません。神は呼吸し、神は行動します。神は宇宙の中心であるために、神が呼吸するときには全宇宙が神と共に呼吸します。神の影響を受けないものは何ひとつありません。あなた方は「私は神の呼吸や神の影響力とは関係がない」と言うことができません。そう言うことは、「私は、神のことばや真理や愛とは関係がない」と言うのと同じことです。全宇宙の中で、神のことばや神の愛と関係がないと主張できるものは、何ひとつないのです。神の行動は、全宇宙的範囲をカバーする波のようなものです。誰もがそれを感ずることができます。あなた方が、その中心と自分自身との関係を確立したならば、神のあらゆる呼吸、あらゆる行動、微笑み、そして囁きが、自分のものになります。あなた方はそれらを聞き、それらを感ずるでしょう。

 神の愛の領域

 ですから宇宙的な愛の中心的位置に立っている神が、そのような関係をもつことのできる人々を探しているというのも、また論理的なことです。神は相対的な関係をもつために、ひとつの対象を求めています。どんなものでも、ただひとつの方向だけに向かうことはできません。呼吸自身をみても、吸入することと吐き出すことがあります。ただ空気を吸い込むだけというのではありません。もしそうするならば、風船や泡立つ飲料水のように爆発してしまうでしょう。したがって、全宇宙において神は、吸入し吐き出しながら、誰かと一緒に呼吸したいと願っているのです。

 あなた方の手の使い方は良いですか、悪いですか。あなた方はそれを、良くも悪くもすることができます。あなた方が誰かの顔を叩く時、それは愛を表わしませんが、あなたが誰かを愛撫する時には、それは愛を表わします。愛か憎しみかの表現を代表するタッチの度合いがあります。愛の中心である神は、神と適当な対象とが共に呼吸しあい、完全に酔いしれ、完全に天に引き上げられるような授受を持ち得るような関係を求めています。

 もしあなた方が、神の愛のそのような領域に入ると、自動的に呼吸することさえ違ってきます。呼吸自身が、吸入と吐き出すことが、神の愛の陶酔の一部となるのです。ある意味であなた方は、神の愛の酔っぱらいになるのです。いったんそのような雰囲気の中に自分が完全に溺れてしまうならば、あなたがすることは、たとえ何も考えないでやったとしても、すべてが自動的に神の愛の表現になるのです。笑いと呼吸、微笑みと踊り、跳びまわること。あなたがすることにはどんなことでも、すでに跳びまわることにはどんなことでも、すでに神の愛が浸透しているのです。その気持ちはあまりにも尊いので、あなた方は、いったんそのような神の愛を体験すると、それを世界のどんなものとも交換したくありません。あなた方はいつも笑いたくなり、あなた方の口を閉めるのには千年間もかかるでしょう。あなた方の踊りは永遠に続くでしょう。そこには遅屈というものがありません。

 もし、そのような喜びの領域、そのような愛の領域が可能であるとするならば、あなた方はそれに触れるための手を伸ばしたいと思いませんか。いったんあなた方が完全にその中に引き寄せられ、完全に神の中心的な愛とひとつになるならば、あなた方がこの世に出てきて話をするとき、すべての表現が神の表現になります。そのような一体の世界から語る人は、世界中に神の愛をばらまきます。その人が行動するとき、その人の行動は愛の表現であり、それは神の愛の波を世界にもたらすのです。これらのことについて聞くだけでも、あなた方の徴笑みはだんだんひろくなっていきます。その世界は、絶対的に可能です。そのような生活様式は、絶対に可能です。

 もし、そのような神の愛を知らず、また経験することも、それと一つになることもないならば、あなた方の言葉や行動はむずなしいものです。たとえあなた方がここに立って、「神の愛がこの世にきた」と宣言したとしても、まだこの世的な喜びや笑いにしがみついているならば、あなた方の言葉はなんの基盤も持っていません。それらの背後には、何ひとつ確固としたものがありません。

 あなた方が神のおられる中心点から話すとき、その言葉はもはやあなた方から出ているのではなく、無限の貯蔵庫から出てきているのです。そのような特別の位置において、あなた方は恍惚の喜びで、また、完成という引き上げられた感覚で生活し、行動し、話しをするのです。あなた方がなすことは、どんなことでも、あなた方自身の行動やあなた方自身の言葉といったものがありません。すべてが神の愛の伝達者、あるいはかけ橋となります。いったんあなた方が神の愛を味わおうと、人間生活や人間関係はすべて喜びであり、刺激となります。呼吸で、吸収することと吐き出すことは共に意味があり、喜びの刺激を増大させます。そのようにいったんあなた方が神の愛の圏内に入ると、あなた方はそれだけ多くの変化に富んだ経験を得、それだけ多くの興奮を感じるのです。ダンスに変化と運動があれば、それだけ大きな興奮と喜びがつくりだされます。ダンスで動く腕ではなく、あなた方が表現せずにはいられない、ある感覚の表現なのです。このようなダイナミックで理想的な生活が、私たちの成就しなければならないものです。

 生命の源による愛の生活

 ここで私たちの考えを、しばらく宗教に集中してみましょう。宗教は、人間生活の中で神を探し求める一つの方法です。しかし実際、神が究極の目標でしょうか。そうではありません。私たちは、神の愛の圏内に入ろうとし、神の愛に陶酔したり、浸ろうとしています。それが宗教の目的です。それはスリルがあり、しかも悲しいことには、もし人間の堕落がなかったならば、私たちは宗教を必要としなかったであろうということです。本来ならば、私たちは中心的位置にあって生まれ、その中で成長し、永遠に天国で楽しむ生活をしていたことでしょう。

 愛や人生には、説明を要せず、また学校で学ぶ必要もなくい多くの面があります。たとえば、あなた方は親と子の間の愛の理論を学ぶ必要がありますか。それは自然であり、それは自動的にあなたの一部となります。愛は空気のようなものです。一日二十四時間呼吸をするのに、どこに空気があるかを説明する必要はありません。人間は生まれながらにして、神の愛を呼吸するようになっていました。もし、あなた方が、呼吸する空気を得るためにどこかに行かなければならないとしたら、あなた方はすぐに困難に陥るでしょう。なぜなら、空気を求めて待つ、長い列ができるでしょうか。しかし空気はどこにでもあり、神の愛もまたどこにでもあります。もし私たちが堕落していなかったならば、それが私たちの環境になっていました。私たちは生まれながらにして神の愛を感じるはずでしたが、人間の堕落によってもたらされた多くの妨害のために、私たちはそれができません。しかしながら、この堕落がいったん取り去られれば、神の愛はあなたにとって自然なものとなります。私たち個人の中心は神の中心に置かれるべきであり、そのような共通の中心があるべきです。

 根本的な話し方をすると、人々はなぜ生まれるのでしょうか。あなた方は力やお金や知識を完成させるためではなく、愛の完成のために生まれています。あなた方は愛のために、また、愛から生まれています。神は、愛をそのように偉大なものとしてつくったので、それが生命の源です。私たちは愛の結果であり、生命の結果ではありません。私たちは皆、私たちの両親同士の競争によってではなく、愛と美の中で生まれました。それが人間すべての生命の原因です。どんな誕生も、母親と父親が座ってお金を数えた結果ではありません。誰であっても、もっとも重要な科学的理論を論じた結果、生まれたのではありません。

 愛から生命が現われ、あなた方が現われました。私たちは愛によって生まれ、私たちの目的も愛によって結果を生むことです。主体と対象の愛の一体は化は、生命を新しく発生させます。ですから子供がいない夫婦は、なんとなく不安定です。夫と妻が一つになっているとしても、子供がいなくては、彼らが一つであることを鮮やかに示すことのできる共通の業績がありません。たとえ夫と妻の間に多少の喧嘩があったとしても、彼らが自分たちの子供を見るとき、彼らの不和はたいてい解決されます。神が男性と女性を一緒に置かれたとき、彼らが家庭をつくりだすことが神の理想でした。神は、彼らの子供をみようとされました。

 すべての人間の行動と私たちの愛の生活は、常に神の愛の中に沈められます。神の愛の雰囲気は、あらゆる生命を包含します。愛の約束は、この宇宙の最高の力です。アダムとエバが一つになるとき、その出来事は、実際、宇宙で最も重要な出来事です。神とすべての被造物とアダムとエバは、彼らのすべての注意力をそれに集中するでしょう。

 永遠なる愛の天国

 神は過去を代表し、アダムとエバは現在を代表し、彼らの子女は未来を代表します。過去と現在と未来は、すべて神の愛の包含する雰囲気の中で一体となります。あなた個人的位置は、過去と現在と未来の合成です。神があなたの創造に参加したので、過去があなたによって代表されます。そしてそこにはあなたの両親が関係しているので、現在がそこにあり、あなた自身は未来を代表します。愛を通して、一つの統一された位置がつくりだされ、彼らはその子に触って抱きしめたいのです。ここには不思議な力、つまり神の愛が働いています。その子供は親の愛の現われであるので、子供はその両親の愛に参加します。従らは皆、一つです。もちろん神の愛が環境をつくりだしたので、神もその位置に参加します。いったんあなた方全員が愛で一つになると、世の中のどんなものも、あなた方を別れさせることはできません。それが理想です。

 いったん愛が神の愛の環境の中で花開くと、誰もがそこに永遠にとどまりたいと思います。誰もがそれを永遠のものにしたいと思います。あなた方は神が、「さて、もうしばらくしてそれを変えよう」と言うと思いますか。理想に対する神の考えによると、愛の関係は、永遠の基準で確立されています。だからこそ神は、男性と女性が愛しあうのを見、その愛が永遠に存続するのをみたいのを願われるのです。あなた方は、自分の両親の愛を永遠に続かせたいと思いますか。あなた方は、彼らがあなた方を十年間愛して、それからあなた方から離れるのを願いますか。それでもかまいませんか。私たちは、たとえそれが夫婦、親子、あるいは神と人間の愛であろうと、皆それが永遠であることをせつに願っています。

 あなた方は、あなた方の両親の愛の代表であり、彼らの愛の実です。さらにあなた方は、神の愛の生きた見本です。神は暖かい愛のある所に住みます。それが天国です。この地上にいようと霊界にいようと、この一つの原則は変わりません。つまり天国の本質は、神の愛です。愛の繰り返しが歴史をつくる公式です。代々織りなされた真の愛の歴史があるのです。

 統一原理において、私たちは天的四位基台に関心をもっています。四位基台は神を中心とした人間愛の、種々の面を表わしています。故に、いったん私たちがその天的四位基台をつくると、何ものもそれを粉砕することができません。

 それでは天国はどこにあるのでしょうか。太平洋のかなたですか。いいえ、天国はあなた方のただ中、妻の心、夫の心、子供たちの心、祖父母の心の中にあります。天国はディズニーランドのようなものではありません。あなた方のいる所が神の住まわれる場所であり、あなた方の両親の住むところです。天国は、あなた方のただ中にあるのです。あらゆる愛は、あなた方のいる、正にそこに存在しています。いったん堕落の結果が一掃されると、あなた方はもはや、天国を追求する必要はなくなるでしょう。あなた方は天国で生まれ、そこで育ち、天国で完成し、極みに達するのです。

 神と親の代表である「私」

 「私」と言うことは、責任あることを意味しています。あなた方は「私は何も気にしない」と言うことができません。なぜなら「私」は親の代表であり神の愛の代表であるので、彼らが心配しているからです。あなた方の事情は単純ではありません。あなた方の事情は、ひじょうに天的な重荷です。今日の最も重要な新しい思想は、「私」を中心としています。多くの人々は、「私はどうなってもかまわない」とか、「どうしてあなたは私のことを心配するのか。私はあなたを必要としない。私は自分の好きなことはなんでもできる」と言います。そのような類いの「私」は、真実のものではありません。あなた方が理想に対する神の概念を理解するならば、あなた方はひじょうに責任のある「私」となります。

 あなた方が「私」と言うとき、あなた方の親が自動的に関係し、神も関係します。あなた方の過去と現在と未来が「私」に関係します。そこで私たちは三つの誇りをもたなければなりません。第一に歴史、つまり私たちの過去における誇り。第二に、私たちの現在における誇り。そして最後に、私たちの未来における誇りです。

 アメリカでは、特に骨董品に凝っている人々がいます。アメリカは僅か二百歳の若さであり、そんなに古くはないのですが、アメリカ人はそれでも過去について郷愁をもちます。彼らは骨董品を作りだそうとさえしています。彼らは、家を建てたり家具を造るための真新しい材木を使う場合、それを古く見せるように努力したりします。それをハンマーでへこませたり、ムラのあるペイントを使って、それをまいて染みをつくったりします。彼らはあちこちに穴をつくることさえして、それを百年もたったように見せるのです。

 人々はどうして、そんな気違いじみたことをするのでしょうか。人々は歴史に自分自身を登録させたいのです。彼らは、より長く残りたいのです。骨董品は歴史からきているために、その価値が高いのです。もしあなた方が、自分の祖父の祖父の使った物を持っていた場合、あなた方は歴史に何かの個人的なつながりをもつことになります。どんなお金ででも、そのような価値を買うことはできません。この犠牲は、私たちの本性の願望を反映しています。

 もしあなた方が自分を傷つけるならば、それは自分だけを傷つけているのではなく、両親の愛の実を傷つけているのであり、神の愛の現われを傷つけているのです。自分の子供が大きな苦痛を感じます。もし、あなた方が大きな喜びを感じるものをもっていれば、あなた方の親も、また神も、一緒に大きな喜びを得ることができます。そのように、あなた方の感情は、平行しているのです。

 歴史の所産であるあなた方

 アメリカでは、若い人々は自分の親について、あまり知りません。彼らは、「私の親は、私に生命を与えた。だから、それで彼らの任務は終わった。私は独立している。私は彼らとなんの関係もない」と言います。このことは、アメリカの文化が家族生活の美しさを失い、動物の国に近づきつつあることを示しています。このような考え方は神の宇宙的な原理に反しており、水素爆弾よりも危険です。アメリカの会社、特にアメリカの家族制度をみるとき、神はアメリカにあまり大きな希望をもっていません。アメリカは神の真理に至る最も大切な幹が失われているために、未来は暗く、不安定です。

 女性の皆さんが鏡を見て、自分の最高の顔だちは自分の目だ、と確信したとしましょう。するとあなた方は、自分の目を愛し、「私は世界で最も美しい二つの輝く目をもっている」と言うでしょうが、その時あなたあなた方は、左の目を「自分の母の目」、右の目を「自分の父の目」と呼ぶべきです。そのようにあなた方は、自分の一部を、あなた方の「おかあさんのもの、おとうさんのもの」と言うようにしてください。自分を、自分の親の表現としてみつめることは、すばらしいことです。誰でもが自分自身が好きですが、あなた方はそれを自分のために好きになってはいけません。それをあなた方の親のためと神のために好きになりましょう。それが美です。するとあなた方は、あなた方の親を愛し、あなた方自身のおとうさんとおかあさんと神を、自分を愛し自分を好むのと同じぐらいに好むでしょう。

 このような生活には、なんの利己主義もありません。たとえ自分を愛したとしても、それは利己的な愛ではありません。子供が学校で何か嬉しいことがあるとき、その親もひじょうに嬉しがります。そういった瞬間にあなた方は、「ああ、神様も嬉しいに違いない」と思ったことがありますか。あなた方が微笑んでいるとき、あなた方は「ああ、神様も微笑んでいらっしゃるに違いない」と考えますか。あなた方が誠に有頂天になって踊りまわっているときも、これはあなた方の喜びだけではないことを覚えておいてください。これはあなた方の親の喜びであるし、また、神の喜びででもあるのです。神は上の方で踊っているに違いありません。全宇宙も、あなた方のまわりで踊っていることでしょう。あなた方の喜びは宇宙全体にこだまし、波のように拡がるでしょう。

 このことは、自然にもみられることです。春が到来すると、ベルベディアは大変美しい所となり、多くの小鳥たちが早朝さえずります。しかし彼らは、「チープ、チープ」、「チャープ、チャープ」、「トウィート、トウィート」と、皆違うようにさえずります。彼らはまもなく、ニューホープシンガーズ・インターナショナルとなるでしょう。

 あなた方が喜びを表現するとき、それは別な人によって美しい生命のこだまとなり、全宇宙に波となって拡がるでしょう。その生命のこだま、歌や踊りのこだまは、自分のためだけのものではありません。あなた方が完全に、自分は親と神の代表であることに目覚めているならば、神があなた方の中に住んでおられるので、あなた方は神と親のために歌い踊っていることを感じるでしょう。そのようなとき、神が出て来て、「おい、黙れ。どうしてこんなに朝早く、おまえは私を起こすのか」と言うでしょうか。あなた方の親も「叫ぶのをやめなさい。来て食べなさい」と言うでしょうか。

 あなた方は貴重な存在ですから、自分を賞賛していいのです。しかしそれは、自分のエゴや自分の権力を拡大するためではありません。あなた方は歴史の所産です。あなた方は、数千年の歴史と伝統の体化物です。神は、これらすべての業績の背後で働いてこられました。神があなた方の中に、神の住まいをつくったということを知ることは、すばらしい悟りです。その生活はすばらしく、理想的です。そして、その中心に立つ人は、人生のテストを通過してきたので、神の承諾を得ています。しかしひじょうに多くの場合、私たちはこういう人生のコースに失敗します。

 神の息子・娘として

 あなた方はどこで生まれましたか。あなた方はどこから来ましたか。あなた方は、親の愛と神の愛から生まれましたね。それを忘れてはいけません。神の干渉があなた方の誕生に大きな役割を果たしており、あなた方はあなた方の親の愛の結果なのです。したがって、男性の世界はあなた方の父親の世界の拡張であり、女性の世界はあなた方の母親の世界の拡張なのです。あなた方が親をもつとき、あなた方は全宇宙を所有するのです。彼らは二人一緒になって男性の全世界と女性の全世界を代表し、二人一緒にあなた方の中に現われれました。ですからあなた方は宇宙の縮少体であり、中心です。あなた方が中心になっているので、あなた方の行動が正しければ、あなた方の行動はあなた方に大変な喜びをもたらし、あなた方の父母はあなた方の喜びを分かち合い、他の世界は彼らを通して、

 孝行は宇宙において承認されていますから、誰であっても、親に忠実な孝行息子・娘を尊敬します。その心によって、あなた方は自分の両親が他の世界と関係するための触媒点、または中心点となります。あなた方の両親は、あなた方の誕生以来ずうっとあなた方のそばにおり、神も常に関与しています。これらの同じ天的四位基台は、社会、国家、世界へと繁殖するでしょう。それが、理想的な生活がこの地上で天国へと拡大していくことのできる方法です。

 天的四位基台は、世界的および宇宙的スケールで人間生活のすべての愛情関係を代表しており、そしてまた、究極的にはこの地上での神の国を代表しています。それはあなた方も中心として小さな規模で始まり、あなた方の家庭、社会、国家、世界へと拡大します。ここで最も重要な要素が、あなた方の正す愛の質です。あなた方が第分の両親に対して利他的な愛を示すとき、あなた方は孝行息子となるでしょうし、あなた方が国家に対して利他的なな最も美しい愛を示すとき、あなた方は愛国者とみなされるでしょう。そしてまたあなた方が、この美しい愛を人類に対して示すとき、あなた方は聖人なる人と呼ばれることでしょう。

 これらの愛の質は、同じ中心から出発しているので、同じものです。それらは別々の中心点をもっているのではありません。愛の中心的位置を所有する人々は、本当に神の息子・娘と呼ばれるのでしょう。国家的観点からみて、彼らは神の国で最も愛国的な人々であり、神の宇宙的観点からみると、彼らは最も聖人なる人々です。しかし彼らは、いつも神の息子・娘として出発します。

 神の真理のすべての教えは、すべての人類が、たとえ堕落した世界においてさえも、神の息子・娘になりたいと願っているという、ひとつの単純な文章に要約することができます。私たちは、堕落した世界が、堕落した人類始祖から生じたことを知っています。堕落した世界を復帰するにに、誰かが宇宙に新しい共通の中心、つまり神の中心をもたらさねばなりません。故に、新しい、神を中心とした親が必要であり、真の父母という概念が生まれました。

 聖書全体の教えは、「堕落した世界は、サタンによって偽りの親を通して生まれました。ゆえに神は人類歴史の新しい始点、つまり真の父母をたてる」という、ひとつの単純な真理を指し示しています。そのように、私たちは真のオリーブの木に接ぎ木されなければなりません。サタン世界を代表する野生のオリーブの木であったものから離れて、私たちは新しい生活と新しい歴史を始めるでしょう。その空極の目的はなんでしょうか。それは神の子女となることです。

 けさの話題に戻りましょう。言葉はそれ自身のために存在するのではなく、行動もそれ自身のために起こるものでもありません。言葉と行動は、ある目的の役に立たなければなりません。話したり行動したりすることのできる資格はなんでしょう。あなた方は神の息子・娘として語らなければなりませんし、神の息子・娘としての資格をもつために、あなた方はどうあるべきでしょうか。あなた方は、自分が真の父母の、立場・労働・愛、さらに神の愛の現われであることを悟らなければなりません。そのように悟れば、あなた方は既に天国四位基台を成就したことになります。神は確実にあなた方とともにあり、真の父母も確実にあなた方とともにあります。彼らと一体となることによって、あなた方は四位基台を代表し、天地において神の息子・娘と宣言されることができるのです。

 あなた方の心から、誰もその考えを取り去ることはできません。もし人々が、あなた方を打ちのめして投獄したとしても、彼らはあなた方の心から、あなた方が天の父と真の父母と一つであり、天的四位基台の代表であるという悟りを、取り去ることはできません。あなた方は、自分がどこで終わるだろうかと必配する必要もありません。もし、誰かがあなた方を地獄の土牢の中に突き落としたとしても、あなた方はいつまでもそのにいることはないでしょう。あなた方はスプリングボードに乗っているかのように、天国の最高の位置にまで飛びあがることでしょう。私たちの救いは保証されています。あなた方は心情的な男性・女性となって、これらのことを単に論理だけによって理解するのでははく、感覚と感情によって理解できるようにならなければなりません。

 これらの感覚があなた方の骨に深く食い込んで、無意識的にでもそれらが常にあなた方の生活の一部となり、何ものもそれを変えることができないようにならはくてはなりません。

 神の愛に根ざす建設の言葉

 個人的にあなた方は、過去と現在と未来に関係しています。あなた方のおとうさんはすべての男性の世界を代表しているために、あなた方はそこに連結点をもちます。また、あなた方のおかあさんはあなた方に代表されているので、あなた方はあらゆる女性を愛することができます。さらにあなた方は、神の未来とあなた方の両親の未来を代表しているので、未来を愛することができます。

 あなた方は、あらゆる方向からの普遍的な愛の現われです。空極的に私たちは皆、神の御座に行くことになっていますが、独りで行くのではありません。あなた方は真の父母と共に行くのです。そうすると、神は手を広げて、あなた方を迎えてくださるでしょう。あなた方が真の父母と共に神の御座に近づくということは、実際、あなた方が全宇宙と共に来ているということです。真の父はすべての男性世界を代表し、真の母はすべての女性世界を代表しますから、父母と一緒になって近づくということは宇宙的な存在として近づくということになるのです。したがって、あなた方は独りぼっちなのではありません。あなた方が彼らと一緒であるならば、あなた方は全世界と共に行くのです。もしあなた方が、父母と共に神の御座に向かいつつあるならばあなた方を拒むことができないでしょう。

 それであなた方は、自分を包み、共に神の御座に行けるように、父と母をどのようにして自分のものにすることができるのでしょうか。それは、あなた方は自分を父の心情に受け入れられるようにすることによって、また、自分を母の心情に受け入れられるようにすることによって、彼らを自分のものとすることができるのです。単純な言い方をすれば、あなた方は敬虔な息子・娘にならなければ、必ずあなた方は、神の心をも動かすことができるでしょう。

 これは永遠の公式です。理想強な人間、あるいは神の目からみて完成した人間とは、自分の父親を愛するようにすべての男性を愛し、自分の母親を愛するようにすべての女性を愛し、神が全人類を愛するようにすべての人類を愛する人です。別な言葉で言えば、この人は神の観点から世界を見おろすことができます。その人は真に完成した人間であり、神のどんなテストでも通過することができるのです。

 その人は、天にある神の国へのフリーパスをもっています。たとえ神が特大のベッドで寝ていようとも、寝床にもぐり込んで神の邪魔をすることができ、それでも神はその人を受け入れられるのです。自分の言葉と行動を一つにさせるならば、あなた方は自分を完成させることができ、自動的に調和をもって生き、話し、行動することができるようになります。そのような人間は完成されており、それ以上、先のゴールはありません。

 言葉というものは強力なものであり、それは世界を建設することも破壊することもできます。そうでしょう。あなた方の心が神の愛の中で確立されているならば、あなた方の話すどんな言葉も愛の表現となります。その言葉はひじょうに荒々しかったり、不親切に聞こえるかもしれませんが、それは神の愛から来ているため、それは常に建設し、破壊することはありません。言葉はまた、審判者でもあります。もし私が、ある明確な規準について語った場合、それらの言葉は審判所となります。もし、幸福そうな人が耳を傾けているとしたなら、その人は直ちに、ひじょうに深刻になるかもしれません。たぶんその人は私のもとに来て、「私はこういうことをしました。私をお許しいただけますか」と言うでしょう。すると単純な許しの言葉によって、すぐにその人の士気をあげることができるでしょう。

 愛は大変強力であるため、あなた方が天的な愛に基づいているならば、あなた方の言葉も強力なものとなります。その言葉が愛に根ざしている限り、それは建設するだけで破壊することはありません。あなた方が本心から行動するとき、あなた方の行動は、宇宙から何かを取り去るのではなく、全宇宙を一層調和させることでしょう。

 統一教会の香り

 統一教会とは、どのよきな所でしょうか。統一教会の香りはどのようなものでしょうか。あなた方が魚市場に行くと魚の臭いがし、養豚場に行くと豚の臭いがしますね。それでは統一教会は、どうな匂いでしょうか。統一教会は、今朝あなた方が聞いたように、具体的な論理と哲学と確信をもっています。あなた方は神の息子・娘として語り、世界に出て行き、自分を神の代表として現わしています。ここに私たちは破壊的な力ではなく、建設的な力、宇宙を清掃する力として共に集っています。私たちは神の息子・娘という立場で、神の国の匂いと香りをもって、ここに集っています。もしあなた方が、その熱心さと悟りをもって行動しようと出て行くならば、あなた方はすばらしい結果をもたらすことができるでしょう。しかし、もしその基盤がぐらぐらしているならば、あなた方は何も建設できないでしょう。

 実際は、あたた方の言葉もあなた方の行動も重要ではなく、あなた方のなんたるかが重要なのです。もしあなた方が、神の息子・娘として絶対的な確信と自覚をもっているならば、あなた方はしたい放題に出て行動することができ、あなた方がすることはすべて、神の神の愛の現われるとなることでしょう。単純に話せば、あなた方は自分のためではなく、あなた方の両親、真の父母、そして究極の親である神のために生きているのです。あなた方の本当の親は、全人類を包む神です。だからあなた方も人類は、全人類を包む神です。だからあなた方も人類のために生きなければならないのです。

 私たちが世界の人類について話すとき、実際、私たちは兄弟姉妹について語っているのです。白人と黒人は一緒になって、最も胸がうち奮えるような美をつくります。たぜならその時私たちは、お互いの間で一層刺激を感ずるからです。白人が黒人を愛し、黒人が白人を愛する時は、自分が白人を愛し、黒人が黒人を愛するだけよりも、ずっと美しいのです。あなた方の言葉と行動が、あなた方自身の兄弟姉妹に対する愛の言葉であるならば、どんな方向に動いても、決してあなた方は妨げられることがありません。

 あなた方がすることは、すべて神の愛という内奥の性質の表現であるため、あなた方は二十四時間話し続けることもできます。もし誰も聞こうとしないならば、床が聞き、空気が聞くでしょう。あらゆる自然が耳を傾けるでしょう。そのように、あなた方がすることはどんなことにも被造物が応えるでしょう。そのような世界が私たちの永遠の世界です。霊界はすでにその原理について生きています。私たちの究極の目的地は天国です。この地上において、私たちは自己を鍛練し、天国で拡大される私たちの人格をつくりだす機会をもっています。あなた方が神の愛の体現者となったとき、人々はあなた方がすることはどんなことでも受け入れ愛するでしょう。

 愛の力で溶かされる心

 ではしばらく、親の立場について考えてみてください。あなた方の親はどのように感じるでしょうか。彼らは、あなた方が自分たちを愛する以上にあなた方の兄弟姉妹を愛してほしいと願っています。なぜなら彼らは神を代表しているので、神がそほように感じておられるからです。親の心と神の益は共通なものがあります。この宇宙で最も偉大なものは親の愛です。この愛は最も清らかです。なぜならそれは絶対的に利他的であるからです。真の父は、多くの利益が自分に対してよりも自分の妻にくることを願います。彼は、自分の妻が名誉を受けて賞賛されたり、すばらしい贈り物をもらうとき、自分がそうされるときよりも、常に大きな喜びを感じるものなのです。

 親の愛に近い愛は、どんなものでも高貴で聖なるものであり、愛が利他的であればあるほど、それは親の愛にそれだけ近いのです。宇宙全体は、その究極的な最高の形の愛に向かっています。なぜならそれが、正に神の愛だからです。神は完全に、神の子女のために存在します。愛の世界では誰でも、自分を最高位に引きあげようとする者は最も悪い点数をもらいます。愛の世界では、その基準は通用しないのです。

 愛の世界では、犠牲が最高の価値です。神の心情に近い宗教は、いずれも犠牲的な献身的な精神を示しています。どんな親も、自分の子供にどれだけの愛を与えようかと計算したり、「私はあなたの大学の授業料を払うから、あなたは将来、私に大きな家を買わなければなりません」と言う親はおりません。むしろ、彼らはためらわずに与え、彼らの息子、あるいは娘が成長し、国家や世界のために、あるいは人類のために何か重要なことを成し遂げることに喜びを感じます。それは正に、神の気持ちと考えを反映していてしいます。

 この道を侵す者は誰でも、神の世界では最も小さい者となり、それを強調する者は誰でも巨人となります。真の親はあなた方に、犠牲的な人間となるように教えるのでしょう。親は自分のことを忘れて他人のために犠牲になることを強調します。彼らは、「出かけて私があなたを愛したように世界を愛したように世界を愛しなさい」と言うでしょう。そのような人たちこそ真の親です。

 この基準から統一教会を調べてみましょう。私たちは正しい軌道にいるでしょうか。それとも間違った軌道にいるでしょうか。私はあなた方に、きょう、そして毎日、二十四時間私を愛さねばならないと教えていますか。それとも私はあなた方に、まずあなたは出て行き、神と人類に仕えるために犠牲的に自分を捧げるべきであると教えているでしょうか。私たちがその原則に従って生活するとき、私たちは滅ぶように運命づけられているでしょうか。それとも成功するよう運命づけられているでしょうか。実際、これは天的征服の秘訣なのです。天国征服は、愛によって、愛の力で人々の心を溶かすことによって成し遂げられます。あなた方の親、人類、国家、神までも、彼らすべての心は愛の力によって溶かされるのです。あなた方は、神を征服し、あなた方に対して神が手も足も出ないようにすることができます。この愛が囁くだけで、ただ存在するだけで、神はそそにいたいと思うのです。ただ、あなた方は神に来るようお願いしてください。そうすれば、神はそこへダッシュして来るでしょう。この点において、あなた方はすでに、私を指揮しています。

 奇蹟を起こす私たち

 このような観点からみるとき、使命が難しければ難しいほど良いのです。なぜなら、それは自分を試練し、神の目からみて私たちがどれ位の価値があるかを証明する、より良い機会を与えるものだからです。英雄は、緊急時や危機の時にだけ生まれてきます。一番の逆境の下で、私たちは自分が犠牲的であり、真に利他的であることを証明しできます。その精神を示すために私たちがこの地上に生きているのは、ある限られた期間だけです。永遠と比べれば、この地上での私たちの生活は閃光のようです。

 私たちが肉体をもってこの地上にいる期間は、私たちの愛と私たちの霊とを完成させるための機会です。私たちは、私たちの中にある神の愛を示すために、肉体を必要とします。それが、私たちの肉体が重要だある理由です。そこには問題の世の中がありますが、それは良いことです。これは、原理を応用し、それを生活化するための機会です。これは行動が入り込む所です。

 私は様々な問題を起こして世界的に有名になりましたが、それは良い意味においてです。私は毒を放出しているのではありません。むしろ、すでに多くの毒があるので、私がそれを中和することによって問題になっているのです。私は、サタンが六千年間撒き散らしてきた毒を中和する力をもってやって来た、最初の人間であると思います。こうすることによって、かえって私は問題を起こしているのです。外部の人々は、私が最悪の悪鬼だと考えているかもしれません。彼らには、そう考えさせておきましょう。しかし後で、彼らに私をみさせましょう。すると彼らは、私が初めの理解とはまったく違ったものであることを悟るでしょう。何かを復帰するには、通常、道路でUターンするように、一つの完全なサイクルをつくり、戻らなければなりません。しかし復帰をやめるために私たちは問題を起こして、その代わりに跳びまわってきました。私は、ずっと迂回して、行く時間を費やす余裕はないのです。

 たとえ人々が私について否定的なイメージをもっめていても、それはかまいません。少なくとも彼らは、私を知っているからになるからです。すると彼らがしなければならないことは単純なひとっ飛びであり、私たちはそれを一夜にして起こすことができます。それは私たちが肉体をもっている間、この地上において可能なことなのです。いったんあなた方が肉体を脱ぎ、霊界にあげられると一インチの霊的進歩をなすために、あなた方は何百万年も必要となります。

 私たちがここで霊と肉体とを一緒にもっている間は、私たちは奇蹟を起こすことができます。私たちの肉体は私たちの心を示すことができ、途方もない変化が起こり得るからです。しかしいったんあなた方が肉体を失い、霊だけになると、そのような機会はなくなります。そうなると、行動するためにあなた方は下りてきて、地上の誰かと一緒に働かなくてはなりません。現在、あなた方が自分自身の肉体でさえも、時々、自分の心にあまりよく反応しないとしたら、ましてや他人の肉体ではどうでしょうか。何事を成し遂げるにも大変ぎこちなく、はがゆいことでしょう。私たちが一度はっきりと神についての真理を知るなら、犠牲的な生活をすればするほど、私たち自身の業績のためには、それだけ良いことがわかるでしょう。

 正しい動機と心を持った行動

 心からの愛情なしに、兄弟姉妹にリップサービス(口先だけの好意)をしてはいけません。何かしようという深い動機がなければ、それをしてはいけません。誰かに感銘を与えるだけために何かをすることは、霊界では最悪の重荷となるでしょう。霊的法律は、真実味のない行動と言葉を復帰する手段を何も提供しません。単に統一教会のメンバーであるということだけが、天国にはいる保証とはなりません。それは、あなた方がどれだけ真理に生きているか次第です。どのようにしたら神の息子・娘になれるかをあなた方が知った今、あと残されたことは、正しい言葉を語り、正しい行動をするということだけです。

 心から話し行動することは、ひじょうに大切です。そのようにすれば、あなた方がどこへ行こうと、あなた方は準備する必要さえありません。あなた方の言葉は準備され、行動も準備されています。あなた方が正しい動機と正しい心をもって出かけるとき、あなた方の行動は自動的に出るでしょう。あなた方が何をしようと、それが伝道であろうと、あなた方にはひとつの中心的なゴールがあります。それは、あなた方が神の敬虔な息子・娘になるために、それをするということです。あなた方は神の国で、真の愛国者になりたいと願っています。あなた方は神の目からみて、聖人や聖なる人になりたいと願っています。それは一つの中心的共通の原理によって、それらすべてを威厳をもって成し遂げることができるのです。

 私は誇りをもって、あなた方を前線へ送り出します。私たちは前線で苦労しますが、そこにはなんの恥もありません。なぜなら私たちの目的は、フォード自動車会社やIBMやどんな一流会社で働くよりも、はるかに偉大なことだからです。これ以上に高貴な心も、これ以上に崇高な仕事もありません。このように生活することによって、私たちの親に対して、私たちの社会、国家、人類、そして神に対して、私たちの愛はより強くなり、また、神の目からみた私たちの霊的成熟度と業績も膨大なものとなるでしょう。私たちの動機は正しいのですから、なぜ私たちは恥じる必要があるでしょうか。

 私たちはとんとん拍子に繁栄するでしょう。なぜならこれは神の真理であり、それは従うべき唯一の道だからです。利他的な行為は成功するようになっています。なぜなら、万人の内的本性は、そのような業績にあこがれているからです。結局それは、世界を勝ち取る唯一の方法です。それが、私が常に生きたいと願ってきた道であり、私が常に生きてきた道です。

 韓国と日本で、私は幾度も時計を見ることさえしませんでした。たとえ朝の三時、四時であろうと、私の話に誰かが耳を傾けている限り、私は時刻に気づかずに教え続けました。各国の指導者たちがイーストガーデンにやって来て私に報告するとき、彼らはいつも私の話しや聞くことに情熱的ですが、十二時から一時頃になると、私は彼らの心がわかってきます。「なぜ先生はこように話しを続けられるのですか。なぜ私たちに、ベッドに行って休みなさいと言わないのですか」。しかし私は彼らに、私はあなた方の親として、いつも私の心の中心ひじょうな興奮を感じるので、どうしてもしをやめたくない、とは決して言いません。神もまた私と共に常に目を覚まし、情熱的で、神の子供たちがするあらゆる小さなことにも注意を払っていらっしゃるのです。

 これは、私のあなた方に対する忠告です。あなた方の心が沈んでいるときは話してはいけません。また、あなた方の心が本当に感動していないときは行動してはいけません。私たちはこの世の中で、言うべきことと行うべきことをひじょうに多くもっているので、いったん私たちがその価値を知ると、私たちは自分の仕事に誠心誠意をもって身を投じることができるのです。

 神とさえ競争できるあなた方

 なぜ私たちは伝道に行かなくてはならないのでしょうか。もしあなた方が、ニューヨークの街頭から一人の人を連れてきて神を理解させることができれば、彼の先祖全員も引きあげられます。地上での行為によって、多くの魂が霊界で助けられるでしょう。あなた方が神の真理を分け与えるとき、あなた方は神の愛の仲保者となります。あなた方を通じて、ひじょうに多くの人々が真理を知ります。あなた方は彼らの永遠の生命を生き返らせることができるのです。あなた方は、神の愛を彼らに振り掛ける愛の仲保者です。あなた方の立場は、霊的母や父のように、絶対的にすばらしいものです。

 あなた方は伝道の影響を知りまえんが、もしかするとあなた方は英国の人々全体に影響を及ぼし得る人を伝道するかもしれません。あるいは伝道された人が、それをするだけの実力がある重要でお金持ちの別な人を伝道するかもしれません。あるいは伝道された人が、それをするだけの実力がお金持ちの別な人を伝道するかもしれません。するとその人は、あなたの霊の孫となるでしょう。一人の人に真理を理解させることを通して、あなた方はその人の国全体、及びその人の霊界全体に影響を及ぼすのです。あなた方は、自分のうちに世界を動かすことのできる力をもっているのです。もしあなた方が一人の人を動かすならば、たぶんその人は多くの国々、あるいは大陸を動かすことができるかもしれません。真理によってあなた方は、その一人の婦人や男性を動かすことができるわけです。

 たとえ話をしましょう。カーター大統領のおかあさんはホワイトハウスに行くことができますが、彼女はそこに行くだけのどういう権利をもっているのでしょうか。実際、彼女はホワイトハウスに行けます。なぜならそれは、彼女が大統領のおかあさんだからです。それと同じように、もし、あなた方の霊の子がある国の指導者になった場合、霊の親としてあなたは彼らに会う権利があるでしょうか。本当に現実的にこれらのことは可能です。しかし、あなた方が霊界に対して影響を与えて見えない道は、なお一層、意義あることです。たとえあなた方の霊の子が国家の指導者にならなくても、心配しないでください。その人は、その人の先祖を通して、霊界で大変重要な立場をもっているかもしれません。

 外部には、神のために偉大な指導者になり、この世界を変革できそうな有能な人々が多くいます。そのような人に真理を伝えることによって、その人がもっているすべてのものである、教育、経験、そしてお金は、神様のために使われるでしょう。外部の多くの人々は、私が彼らの子供を盗んだと言って、私を大変非難しています。もちろん私はそのようなことをしたことはありませんが、どうして彼らばそう感じるかは理解できます。彼らはあなた方に食物や衣類、教育を与えてくれました。しかし、突然あなた方は私の弟子となり、今は、彼らが理解できないことに仕え、専念しているので、この世的な言い方をすれば、それらの親たちは自分の子供が盗まれたと考えてしまうのです。

 しかし、あなた方は最高の目標と業績を遂行するためにここに来ています。あなた方は、真なる価値というものは見えないものであることを知っていますが、あなた方の親は、あなた方自身が一番価値あるものだと感じているのです。それで彼らはあなた方に希望を託していましたが、それが突然、彼らの基準からすると気違いじみたことをあなた方が始めてしまったのです。あなた方は、本当に革命家です。あなた方は初め、それぞれ個人的な目標や私的な野心をもっていましたが、統一原理を聞いたとき、一週間以内にあなた方の心の中に重要な革命が起きました。それがあなた方の生活の方向をまったく変えてしまったのです。

 私は、あなた方がそんなにも自分を徹底的に変えてしまったことを、誇りに思ってほしいと思います。と同時に私は、あなた方に神の真理の力を称えてほしいと思います。このことはつまり、あなた方が伝道に出かけて行くとき、あなた方も他人の中に同じ革命を起こしことができるということを意味しています。あなた方はそれを誇りに思っていますか。各個人は全世界を代表していますが、あなた方はすごいスピードで、より良く変わることができるのです。あなた方はそれを自分の目でみてください。そして、あなた方の業績を誇りに思ってもいいのです。

 あなた方は、神とさえ競争することができます。神は六千年間、人間を変革しようと努力してこられましたが、あまり多くのことを成し遂げることはできませんでした。しかしあなた方は、一週間以内で、人を変えてしまうことができるのです。それは興奮できる仕事ではないでしょうか。どうしてあなた方が宣教をやめることができるでしょう。どうしてあなた方の足も休むことができるでしょう。興奮させることが起こっているのです。どうして私たちはそれをやめられるでしょうか。

 神のために行動と言葉を投資せよ
 
 考えてください。あなた方はこの地上にいる間に、一千年の生命を変革することができるのです。もしあなた方が、一千人の霊的子女をもったならば、あなた方は世界で最も裕福な親となるでしょう。そして実際、あなた方は自分の国を建設するでしょう。するとあなた方は、世界中の子供たちを訪問するのに三年以上もかかるでしょう。あなた方は、あなた方の霊の子にとって、最も重要な人となるでしょう。あぜならあなた方は、彼に、この世で最も貴重なもの、つまり神の息子・娘になる希望を与えたからです。その人は完全にあなた方に負債を負っています。彼はあなた方を追い払うどころか、むしろあなた方を歓迎するでしょう。

 今から十年ないし二十年たったら、すばらしい旅行が始まるでしょう。その時は、あなた方に「世界中のあなたの霊の子を訪問しなさい」と言うでしょう。ある人は訪問する人々を多く持っているでしょうし、また別な人は、自分の子供たちがどこにいるかさえもわからないでしょう。訪問する人が誰もいなくて、独りぼっちでいることを考えてみてください。世界の至る所に自分の霊の子を訪問する人は無限の喜びをもつでしょうし、なんの収穫ももたない人は、なおポツンと立っていることでしょう。

 教育によって知識を得ることはひじょうに大切ですが、それよりもさらに大切なことは子供をもつことです。あなた方は伝道に出ていって、二十四時間ぶっ通しで倦むことなく語りますか。あなた方が神の子になる時、あなた方の話す言葉は神の言葉です。ですから、あなた方の言葉とあなた方の行動を最大限に投資しなさい。あなた方の体を怠けさせてはいけません。なぜなら、これは神があなた方に与えた唯一の機会だからです。自分を浪費させてはなりません。

 もし、あなた方が自分のためだけに語り、自分だけのために生きたならば、なんの栄光があるでしょうか。しかしもし、あなた方が自分の体と自分の言葉を神のために投資したなら、あなた話すあらゆる言葉は、目的と結果をもって弾丸のように飛びます。無駄な言葉を話してはいけません。不平を並べないことです。不平不満はあなた方のエネルギーを浪費する言葉です。

 もし、あなた方が自分の体を自分自身のために用いたならば、あなた方の働きは残りません。しかしもし、あなた方が自分を、他人のために伝道したり、生産的な物事に捧げるならば、あなた方の行動は残るでしょう。きょう、今まであなた方がどれだけ多くの無駄な言葉を語ってきたか、またその逆に、どけだけ多くの言葉を神のために生産的に語ってきたか、あなた方は分析してみてください。

 さあ、前線の活動に出かけてください。あなた方の使命がなんであれ、そのために出かけてください。でもそれは消極的にではなく、喜んでしてください。まず自分の動機を集めることです。動機がなければ消極的パターンに陥るでしょうし、それはあなた方を益としないでしょう。またあなた方も楽しくはないでしょう。あなた方の言葉と行動は、神の記憶に記録されなければなりません。私はあなた方に、神が記憶することのできるようなことをしてほしいと思います。ボランティアを喜んでする人、あふれる情熱をもって喜んで参加する人となってください。

 私はあなた方を学ばせることはできません。学ぶのはあなた方自身です。あなた方は、自分の天国のために、資格を得なくてはなりません。すでに道は開かれており、あらゆるものがあなた方を待っていますが、あなた方がそれを利用しないかぎり、それはあなた方のものにはなりません。神の息子・娘として、そのような言葉と行動に専心しようとする人は、どうぞ手をあげてください。どうもありがとう。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.09.21 20:17:27
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