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2021.10.27
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​​​​​​​​​​​​​​「迫害と祝福」

一九八〇年五月一日 
ワールドミッションセンターにて


  神と迫害の関係

 あなた方が知っている通り、きよう五月一日は、一九五四年、私たちの教会本部を創立した、記 念日になります。きょうで二十七回目を迎えるわけです。これまでの満二十六年の歴史は、迫害の 歴史でした。なぜ迫害を受けたのでしょうか。それは祝福を受けるためだったのです。

 私たち宗教人は神を信奉するのに、それにもかかわらず、神を中心としたそのような群れが歴史 時代になぜ迫害されなければならないか。それは、一般の人にとって謎となる問題です。善なる人 は歴史時代を通してこのような迫害を受けてきました。万一、神がいるならば、そのようなことが あってはならないはずです。それなのに神がおられるのにそのようなことがあるという事実は、こ れは矛盾したことであり、万一、神がこのような神であるならば、神がいないという結論も下すこ とができるのです。

 私たち個人においては、私たちが善なる立場に立てば、いかに迫害されたとしても強くなり、悪 の立場に立てば、いかに強い立場にあっても弱くなります。そういうことを私たちは発見するので す。どんなに強い立場にいても、です。今日の私たち自体も同じです。それはあなた方がよく知っ ている事実です。男女を問わず、大小を問わず、すべてに共通的なものなのです。では、なぜその ようになるのでしょうか。

 この世界をみてみると、悪い人が裕福な生活をし、善なる人は良い生活をほとんどしていません。 それは、どういうことなのでしょうか。こういうことを解決することができないと、「神も何もな い」ということになります。このような問題をはっきりと解決しておかないと、いかに正しい立場 に立ったとしても、時間だけが過ぎて環境に対する打開策を持つことができません。そうすると、 その善なる人は弱くなり、いったん弱くなると、再び善なる道に帰ることができないという、この ような結果に到達するようになるのです。

 このような背景を中心にすると、神がいるとするならば、神も二種類の神がいる、と言うことが できます。神も二種類なくてはなりません。善を願い善を成す神がいなければならないし、もう一 つは、反対の神、すなわち悪に属する人を栄えさせる悪なる神がいなければなりません。

 神がこの世界を創ったとするならば、悪の神と善の神が共同で創ったのでしょうか。そうでなけ れば、悪の神がこの世界を創ったのでしょうか。それとも善なる神が創ったのでしょうか。善が先 に出発したのか、それとも善は途中から生じたのか、悪が先に出発したのか、それとも悪は途中か ら生じたのか、これらがみな哲学界の問題となっているのです。もし悪なる神が創造したならば、 根本も悪であろうし、過程も悪であろうし、結果も悪になるに違いない、という結論がでてきます。 この世の中は、そのようにして進んできたのかもしれません。

  神とサタンの支配権

 しかし、もしそうだとすれば、私たちの良心がいつも善を中心として強くなり、悪の世界の中で 善を中心にして闘おうとするのは、なぜでしょうか。それらは悪の神から出てくることができない ものであるはずなのに、その働きがあるとするならば、それはいったいどこから出てくるのでしょ うか。

 それでは、このような悪は、私たち人類が生まれたこの世界に、いつから入ってきたのでしょう。 それは一番最初の人から始まったのでしょうか。中間から始まったのでしょうか。

 未開の時代でも、発展した時代でも、そのような強い良心の働きは続いてきました。どんなに悪 い何かがあったとしてもこれを押しのけてくる、そういう強い働きをずっと継続させてきたのです。 電気も、強い発電所がなかったならば、ここに強い明りがつくことはできません。強いという事実 は、強い本から生じている、というのが論理的な説明です。そうしてみると、このような強い作用 は、本来、強い部分から引き継がれて生まれてくる、その作用は強いお方に因るものであり、そし て悪なる歴史が真に終わる時まで、この強い作用は継続するということがわかります。では、その 継続する内容はなんなのでしょうか。それは神を中心とした闘争の形態、これが組まれているに違 いありません。こういう結論に到達することができるのです。

 そうすると、この世界は、強い良心作用・強い善なる活動に、悪いものがくっついてしまったと いうことになります。このようにみるとき、良心を中心として、この体が一つにならなくてはなら ないのに、どうやって分かれてしまったのかという問題が生じます。本来、善なる神が強い良心を 与えて創った、分けられないはずの人間が分かれているという事実は、何かの事故が生じたという 結論以外、下すことができません。

 それでは故障した機械について考えてみましょう。それは機械の全部が故障したのではなくても 機械の一つか二つの部分が故障すれば、全体に故障が生じて使えなくなります。人間もそれと同じ です。言い換えるならば、私たちの良心までは故障していないということです。良心は故障してい ないのに、体だけが故障したという話です。それならば、この体だけを直せば、機械は動きだすと いう話になります。

 それで私たちがこういう観点から世界をみるとぎ、第一に本当に良心的な人、次にまあ大体中間 的な人々、その次に完全に悪なる人々、この三種類の人に分けられます。そして悪神がいるならば 悪神はどの分野を支配するのかというと、この体を中心として、この中間の人々まで支配すること ができるのです。その中間層まで三分の二。そして神は、真なるお方であるために、本当に良心的 な者だけを支配する権限があるのです。

  (黒板に書きながら)最初の種類はどんな人か、これは体を好む人です。二番目は中間的な、良 心的な人。良心も行ったり来たりします。一二番目は愛を中心とした心情的な人。このような人々を 間において、神とサタンが闘う、と私たちはみることができるわけです。サタンは外側を容易にこ こまで侵入します。神はここから、この怨讐をなくそうとしています。その闘いは、真に正義の人、 真に天の原則的な人、天が万物を創造する時に原則で創られた、その原則を中心とするのです。そ して、その原則に合うようになる時は、強いものです。このような闘いなのです。

  真の愛をもつ

 宇宙の公法がなくてはなりません。それはどういうルールでしょうか。真のルールとは、どのよ うなルールでしょうか。法というのは、なんでしょうか。それは、保護するためのものです。国を 保護し、完全なるものを保護する、完全なるものが侵犯されないための保護です。完全なるものの 保護、真なるものを保護するための法です。それでは、本当に真なるものとはなんでしょうか。本 当に真なるものが、真なる法であるに違いありません。その真なるものとはなんでしょうか。真の 人か。真の愛か。真なる神。真なる神の愛でしょうか。もし、そうだとすると話が合います。

 トルーマン(真なる人)になるには、どうしたらいいかというと、真なる愛を中心にするのです。 そうしてこそトルーマンになるのです。神様も、真なる愛をもった神であってこそ真なる神になる、 こういう結論を下すことができます。それ以上の定義を下すことはできません。それでは、そのト ルーラブ(真なる愛)とは、なんでしょう。トルーラブはトルーラブです。神が言われるには「私 はトルーラブの中心である」。人が言うには「私はトルーラブの中心である」。サタンも「私はト ルーラブの中心である」と言います。トルーラブとはなんでしょう。

 それは、何もかもすべてに好かれる、そういう愛をもったのがトルーラブです。この世界をみる と、万物世界・人の世界・神の世界がありますが、この全体を、万物世界も好きであり、人の世界 も好きであり、神の世界も好きなもの、そういう愛がトルーラブなのです。それで、トルーラブが 太陽のように輝いたときには、すべての万物世界が「ああー、トルーラブ!」、人の世界も「ああ ー、トルーラブ!」、霊界も「トルーラブ!」、神様も目をこのように丸くして「トルーラブ!」。

 さあ、そこで万物が先に、人も先に、そして神様も先にトル土フブに行こうとするのですが、誰 が先に行くべきでしょうか。秩序なしにワァッと行くべきでしょうか。どうでしょう。トルーラブ にも秩序があるでしょう。人にも、首があって体があるようにね。誰が先にトルーラブの前に行く べきでしょうか。

  (黒板を使いながら)万物世界は一番最後の段階にくるでしょう。人はここからここまで行くこ とができます。真なる人は、ここまで来ることができます。しかし、トルーマンが来ないときには 空くのです。その人が現われるまで席は空いているのです。ですから天国は空いている、そういう 論理が成立します。真なる愛をもった人が出てくるまでは天国は空いている、という話です。さて、 これは万物の世界であり、これは人間の世界であり、これは神の世界、神の管理世界です。それで 神様は、この世界を拡大しようとされています。人さえ立たせておけば、この宇宙は自然にその下 に治められてきます。これが今日、統一教会が進めている地上天国を造らなければならないという 活動なのです。

 では、あなた方はトルーマンですか。あなた方はトルーマンになりたいですか、なりたくないで すか。(なりたいです)。あなた方は、まだ、トルーマンではありません。「私はトルーマンだ」 という人は手を挙げてごらんなさい。トルーマンになりたい人は、と訊ねると、皆手を挙げるでし ょう。それなら、どうしてトルーマンとして生まれてこないで、今ここでトルーマンになろうとす るのでしょうか。それが問題です。神がおられるとしたならば、絶対そうなるにもかかわらず。

 それは堕落によるのです。堕落のために故障した、故障したという観念をもたなくてはなりませ ん。トルーマンがここにいなければならないのに、堕落してしまったとしたらどうなるのでしょう か。私たちの原理で言うならば、無原理圏に落ちてしまった、堕落の圏内に落ちたということです。 では、もとの世界に戻るには、どうしなければならないでしょうか。物質を橋として行かなければ なりません。次は人を橋としなければなりません。次には、神の愛を橋として。こういう論理が成 立します。(黒板を使いながら)それで歴史をみるとこうなっています。こうすればいい。簡単に すれば、ここから行くことができます。これを四方からすると混同してしまいます。

  真の愛を探していく

 私たちは宗教生活をしていますが、一般の人々も信仰心はみんな持っているでしょう。「きょう は陽がよく照っているから、きょうの仕事はうまくいくだろう」,、そんな心があるでしょう。人は そういう心をもって生活しているのです。「誰かいい人に会ったから、きょうは気分が良いに違い ない」、「朝、気分の良い話を聞いたから、きょうは仕事がうまくいくに違いない」。それはみん な信仰心になるのです。

 宗教を信じる人は、悪くても、良いことがあると思えば、良いことがあるのです。宗教を信じる 人が信じない人と一つ違うのは何かというと、悪い事があるときでも良い事がおこる、そう考える ようになることです。それで統一教会では、少し気分を良くするために「ああ、蕩減してしまいた い/」と言います。この言葉がどれほどすばらしい言葉かわからないんです。世上万事に谷間が多 いのに、宗教を信じる人は、ヒューッと飛び上がって行ってしまうのです。だから宗数的な人は、 どんなことがあっても泰然としてすごしているのです。一般の人々はここまでしか行けないのに、 宗数的な人たちは東洋に行った、そういう話なのです。遠くへ行く、そのことは、高く昇るという 意味です。高いといえば高いし、遠いといえば遠いのです。このようにしてみるとき、歴史的闘い は、ここにすべてがかかっているのです。

 近頃の時代の人々は、自分がすべてのものを主管したいと思っています。あなた方もそうですか。  (はい)。なぜ、そうなのでしょう。それは法に違反した欲心なのでしょうか。法に一致した欲心 なのでしょうか。それは法にかなっていますね。なぜそうなのでしょうか。人が真なる愛をもつ日 には、その願いのすべてが成就するに違いありません。真なる人になりさえすれば、すべてが適え られるのです。人々は、これを知らないでいます。真の愛の人になるためには、億千万年の歳月が かかったとしても、探しながらも行かなければなりません。真実の愛を自分のものにしなければな りません。人々の姿は、地球がこれくらいであるのに、自分の領域として働かなコーナーを持って  「ここは自分のものだ」と言うのと同じことです。

 最高のトルーラプは何かというと、人はもちろん、万物も、そして神までも行くことです。欲心 は何を立てるためのものかというと、お金を得るためのものでも、権力を取るためのものでもあり ません。真なる人を立てるためのものなのです。それを今まで人々は知らなかったのです。勉強を たくさんしたいというのも、トルーラブを探していかなければならないからであり、権力を握りた いと思うのも、トルーラブに一緒に入らなければならないからです。これが、「欲心がなぜ生じる のか」ということの答えです。欲心がトルーラブを指向しなければならないのに、横道に行って滅 びてしまうのです。真なる愛を探していく道の欲心の力というものは、無限なるものです。このよ うな結論になります。

 あなた方はこれらのことを、いたって常識的なこととして理解し、理論的に整理しておかなけれ ばなりません。これを、この橋を通って行かなければならない、それに自分の一身の運命がかけら れているということを知らなければならないのです。神の摂理、人類歴史はなんであるかというと、 これを連結させるためのものであり、私たちの人生の路程とは、これを行くためのものなのです。 人間の起こした事故のために、神もこの道を行かなければなりません。人も、万物も、この道を行 かなければなりません。皆、同じなのです。

  真の愛による救いの道

 神の真なる愛とは、なんでしょうか。神ご自身でしょうか。それとも何かの対象でしょうか。そ の対象とはなんでしょうか。それは真なる人間、つまり真なる男性と真なる女性です。そうだとす れば、真なる人間と真なる人間は、何をおいて喜ぶのでしょうか。それは、トルーラブをおいて、 一緒に喜んで一つになるのです。

 なぜ神様が復帰摂理、救援摂理をしなければならないか。なんのために人間が救援摂理において 十字架を背負い、苦難の道を歩まなければならないかというと、トルーラブのためです。本来、神 の愛を造ったのはトルーラブのためであるから、人を救援するのも、トルーラブ以外にはありませ ん。本来はドルーラブによって完成しなくてはならないために、再びこれを探すためのものが救援 歴史なのです。真なる神は真なる人をもつことができ、真なる人は真なる万物を、真なる宇宙をも つことができるのです。真なる万物は、真なる人間と真なる神をもつでしょう。同じ意味です。

 一番尊いものは、何かというとトルーラブです。トルーラブなしには真なる物にもなれないし、 真なる人にもなれません。さあ、それではあなた方はトルーラブを願いますか。(はい)。朝食を 何回食べないとしても、ドルーラブが必要ですか。一週間の断食をして十二時の鐘が鳴ったとき、  「神様、トルーラブがいい」と言いますか、「ごはんがいい」と言いますか。もし、’一週間、あな た方が「ごはん、ごはん」と言うならば、落第です。「ごはん」と言わないで「トルーラブ」と言 わなければいけません。

 人類は今まで歴史をかけて、トルーラブを探してきました。だから、私がトルーラブを一生探し て行くということは、私がその歴史の代わりに行くことのできる一生であるということです。一生 は短いけれども、この一生が、これを代身することができるのです。これは驚くべき事実です。自 分の一生において、愛するために前進し、人間の……すべての目的が完成されるのです。すべてが そこで完了されます。そうなると、神様も万歳、人も万歳、万物も万歳、です。

 この世で出来の良くない人がレバレンド・ムーンですが、そのレバレンド・ムーンは何をしよう とする人でしょうか。誰もが迫害をいやがります。しかし私は、迫害されることを好みます。それ をみると愚かな男でしょうか、賢い男でしょうか、どちらでしょうか。統一教会の歴史は、いった いなんでしょうか。人類歴史に統一教会がどうして必要なのでしょうか。レバレンド・ムーンがな ぜ必要であり、統一教会がなぜ必要なのでしょう。そのレバレンド・ムーンが現われたことが、こ の世の中と神のみ旨となんの関係があるのでしょう。

 レバレンド・ムーンの一生と、統一教会が歩んできた歩みというのは、歴史以来の、こういう真 の愛の道を探していくために歩んできた道なのです。人々がこういうことを知ったら、人類はレバ レンド・ムーンと統一教会に希望を見い出すでしょうし、人類が繰り返し繰り返し歴史をかけて、 天と地に記憶することになるでしょう。そういう場であることを、あなた方は知らなければなりま せん。その道は、西洋の人でも白人でも黒人でも黄色人種でも、すべての人が必要であるので、す べてが一つにならざるをえないのです。

  歴史的内容を終了させる統一教会

 これが神の摂理と一致し、人類歴史に一致しているかどうか調べてみましょう。これを神の摂理 としてみると、旧約時代・新約時代・成約時代となります。旧約時代は物質を中心とした、新約時 代は人を中心とした、成約時代は心情を中心とした時代です。ですから心情的人、心情的万物、心 情的神という言葉が現われてきます。今までは歴史について語ってきましたが、これを一人の人間 にあてはめて考えてみると、自分の心は成約時代、自分の体は新約時代、そして自分の所有物は第 一段階の旧約時代に相当します。縮小することになるのです。このようにしたならば、これはみん な必要なくなりますから、消してしまってもいいのです。(黒板を指しながら)これで代わりをす ることができるという話です。七、八十年という一生の間に、何千年の歴史を短縮させましょう。

 私は、それを短縮させておきました。だから、旧約時代の勝利の道をつくろう、新約時代の勝利 の道をつくろう、成約時代の勝利の道をつくろう、ということになるのです。これを三時代にみる と、物質主義(唯物主義)、人本主義(人間主義)、神木主義がみな入るのです。歴史がその通り に流れています。神木主義から人本主義に落ちてしまい、人本主義から物本主義に落ちてしまいま す。物本主義から下に落ちると亡本主義です。ディスコ・ダンスの踊りは、亡本主義です。最後は ここに落ちていく。そしてみんな無くなって滅びてしまう。上っていけば、ヒッピーもイッピーも、 なんの必要もありません。それで私たちは何を言うのかというと、世の中の物質を全部愛そう。そ して旧約時代を通過し、物本主義を克服しなければなりません。次には伝道、ホーム・チャーチで す。これを一生の間に、いや一生の間でなくて何カ月の間、あるいは七年以内に終えるのです。皆 さん、一生の間に一度、やってみたくないですか。(やってみたいです)。

 私も驚くのですが、一九六〇年の三月十六日は私が結婚した日です。昨日が陰暦の三月十六日で す。そして太陽暦では四月三十日です。一九七三年四月三十日は、私がアメリカに到着し、公式的 摂理の出発した日です。アメリカに到着してからの七年間と、結婚しての満二十年が四月三十日と いう一日に一致してしまった、これは不思議なことです。

 七年路程が終わると神の悲しみが過ぎ去っていきます。本来、イエス様は二十七歳の時に、公生 涯を始められるべきでした。それできょうは、教会の二十七回の創立記念日です。みな一つにまと められて、この二十四時間以内にかかっているのです。だから歴史的な時代に入っていくのです。 神様のために、私たちが働く時が来ています。強い決意をもって進めば、不可能な目標も必ずや可 能になります。目標に向かって直行することです。気持がいいですか。(はい)。

 話をもどしましょう。宗教的にみるならば、物質崇拝時代、つまり迷信の時代、それから人間崇 拝時代、そして創神崇拝時代に進んでいくのです。歴史的にもこのように現われています。そうい う歴史的内容を一つにまとめて、私の一生においてすべてを終了させようというのが、統一教会と いう集団です。レバレンド・ムーン一人を置いて、世界全部、宇宙と勝負してみようというのです。

 真を反対すれば弱くなる。二度反対すれば、また弱くなる、これは原則です。だから反対するも のは次第次第に軽くなっていき、こちらは次第に重くなっていくのです。だから世界が待ち上がっ ていくのです。そういう話です。一九七六年、全世界が反対しました。ユダヤ教も、キリスト教も、 アメリカも、共産党も、そして五大洋、六大州、宣教師を送ったすべての国が反対しました。アメ リカの国会では、フレーザー委員会が先頭に立って反対しました。それで結局、レバレンド・ムー ンは負けたのか勝ったのかというと、勝ったのです。彼らは、自分たちが勝った、とは言いません でした。こうして蕩滅をしておいて、アメリカでの七年を終えました。そして、ホーム・チャーチ です。

 もし、あなた方が私の言う通りにすれば、ホーム・チャーチを通して、すべての恩恵を分配する ことができるのです。あなた方は、ホーム・チャーチが必要ですか。(はい)。あなた方は、レバ レンド・ムーンとなんの関係があって、ホーム・チャーチをもつことができるのですか。それは、 あなた方はなんの資格も持ってはいませんが、ただ神様の真なる息子になっているからなのです。 真実の父、真の息子・娘、この変な言葉は、切っても切れない絆をもっているのです。

  迫害は祭物である

 それでは、真なる息子・真の娘とはどういうものでしょうか。この世界にいる四十億のすべての 人が皆逃げだしたとしても、自分一人だけは父母に似る人でなければなりません。「神様、私は絶 対的にあなたの息子です。私はあなたの為に生き、あなたのために死にます」という人です。足を 切られれば足を切り落として死ぬし、目を抜かれればそうして死ぬだろう、そういう人なのです。 そういう意味で、神様はレバレンド・ムーンを好いてくれるのです。

 多くの反対・試練を乗り越えることによって、サタンが卒業証書をくれるのです。サタンはどんなにしても、七分を越えてからは、ついてくることができません。試験が卒業することのできる条件であるのと同じように、サタンの反対を受け、その試験を通過しなくては卒業証書を得ることはできません。それと同じことです。試験は好きですか。(いいえ)。でも試験は必要でしょう。(はい)。試験がないと勉強しないでしょう。だから試験を通過していない人は、使い道がありません。あなた方は、より多くの試験を通過するほど、より有用になり、より多くの知識と能力を得るのです。結局、迫害が必要だということです。私たちが生きている世界は、迫害なしには回ることができないのです。そのことを知らなければなりません。

 物質に対する迫害を受ける、それが何かというと十一条です。物質に対する迫害、なんの話かわかりますか。物質の十分の一が祭物だということです。最も尊いものが祭物です。私たちは物質を祭物として、その祭物を中心にして、カイン・アベルの法則に従って屈服しましょう。物質的な時代、それは旧約時代です。その次は、人が物質の役割を果たします。つまり、人が祭物となるということです。これが新約時代です。次には心情という言葉が現われています。だから旧約時代は万物が血を流し、次に人が血を流し、その次は心情が血を流すのです。

 私たちは「ムーニー」と呼ばれ、悪い人間ではないのに、多くの苦痛を受けます。それはなぜでしょうか。ここで一つ、知っておくべきことがあります。祭物は、隣近所、すべての人に知られてこそ祭物になれるということです。そして祭物になれる人は、その町で重要な人、尊い人でなければなりません。統一教会の人々が、自分がムーニーであることを言わずに人々から迫害されて、祭物となれますか。もしそうであるならば、私たちは祭物となることはできません。このことは世の人々にはわからないことです。どうしてもそうするのかというと、時という問題があるからです。

 もしも、レバレンド・ムーンがアメリカに来てから、統一教会という名前を皆変えてしまって、そのたびごとに、隠れまわりながら摂理を進められたらどれほど良いことだろう。それなのにレバレンド・ムーンが、多くのことを争いあいながら「どうする、こうする」と宣伝をしたので国家全体に知れわたって多くの迫害を受けるのだ、とあなた方は考えるかもしれません。しかしもし、私たちがそのようにして最後まで待ったとしましょう。時が来て、神が「これをしなさい」と言った時に。私たちはできません。神は待っていません。時間は待っていません。「やれ」と言った時にしなければ、大変なことになるのです。だから神が「やれ」と言う前にやってしまえば、「やれ」という時が来たとき、やるべきことは皆やり終えてしまっているのです。

 私が計画通りに実行するために、どれだけ苦しい時をもち、本当に眠られぬ夜をどれほど過ごしたか、あなた方にはわからないでしょう。どのようにして、この二十一年を超過しないようにするか、この摂理が延長されないようにするか。もし、いったん延長されたとするならば、それは延長後に成されるという確証がないのです。いつまでも続くかもしれない。そのことを本当に心配したのです。そのようにして私は、一九七六年、七七年までに、本来一九八〇年までに完成しなければならないことを完成させました。計画よりも三年早かったわけです。でも、その三年間は三百万年のようです。今、私が安全圏にいるからです。わかりますか。

  すべてを真の愛のために捧げよう

物質を祭物として、それから人を祭物として近づいていくのです。個人的物質摂理時代、家庭的物質摂理時代、氏族的物質摂理時代、そうして国家的物質摂理時代、このようになるのです。すると世界摂理圏の中に国家摂理があり、国家摂理の中に氏族的摂理があり、氏族的摂理の中に家庭的摂理があり、家庭的摂理の中に個人摂理がみなあるのです。

 たとえば、アメリカという国が何かを所有しているとしましょう。それはアメリカの国のものであっても、あなた方のものではありません。国家と国家が対する時には、どのような財産であっても、アメリカの財産として管理されるのです。同じように、アメリカは世界に属しています。そして霊界と世界を一つに合わせると、世界が宇宙の中に入っていくのです。宇宙世界圏に入っていくわけです。それでは、この世界を代表して、メシヤは何をするというのでしょうか。メシヤが世界を代表して霊界に対して一対一で接触する時、それは、そのメシヤ世界圏にすべての世界があるということになります。すると神はどうするかというと、霊界とこのメシヤ世界との全部を一つにするのです。そのようにできるならば、メシヤはその神側に入ることになるのです。これがなんの話かわかりますか。

 それで統一教会では、個人は家庭のためにつながっていなければならないし、家庭は氏族のためにつながっていなければならず、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天宙のためにつながっていなければならないのです。そして天宙は神のためにある、という論理が成り立つのです。そうして、神はトルーラブのためにあるのです。すると結論は、すべてはトルーラブのために、ということになります。寝るのも遊ぶのも、何もかも、すべてはトルーラブのためなのです。どんなに打たれるようなことがあっても、それを真なる愛をもってするならば、彼は竟に介さないでしょう。彼は一層幸福になるでしょう。だから礼拝のときの最前列の人の顔はいつも同じだというわけです。真の愛を持った人になら、打たれてもいいし叱られてもいい、ということになるわけです。あなた方は、なぜ、そんなに先生を好きなのですか。

 自分が得たものをみな先生にあげたくなるし、小さな出来事でも先生に報告したくなります。そして先生に会いたいと思います。なぜでしょう。実際に説明するのは難しいですが、確かに何かがあるのです。もしも、そういう作用が起こらないとするならば、すべての人が一つになった天国というものも実現することのできない夢となってしまうでしょう。あなた方は、私から何かを得たいと思っているのです。赤ちゃんは自分のおかあさんのお乳を奪って飲むでしょう。私が見ると、いつでも子供はお乳を飲んでいます。赤ちゃんは、いつも自分にお乳やごはんを食ぺさせてくれる人を喜ぶのです。あなた方もそれと同じです。きょうはここに来て、もう二時間もみことばのごはんを食べています。

 あなた方は自分が体験したように、人々にもそのようにしなければなりません。たた物質を与えるだけでなく、人も与えるのです。そして神の愛、心情までも与えるのです。それはどういうことかというと、私たちの家庭を捧げよう、ということです。私たちの国を捧げよう。国よりも世界を捧げよう。なんの話かわかりますか。国を探していこう。世界を探していこう。天地を探していこう。そして、この全部を天のために捧げる、こういうことです。それを私一人をおいてみると、万物・人・心情という三段階になります。言い換えれば、私たちの所有物・そして体・心です。これを完全に捧げることができれば、今まで述べた全部を合わせて捧げたのと同じことになります。私自身の中で、すべてを成しとげることができるのです。

 それでは、それは誰のものですか。誰の財産・体・心ですか。私はすぺてを神に捧げてしまったので、神のものです。すべてのものは神のものであり、神はあらゆるすべてのものに対する所有権を持っています。それで私の所有物は、その一部です。だから、それは私のものですが、究極的には神のものです。神の所有が内的であり、自分の所有が外的なのです。内的な良心を中心にして体は外的であるのと同じように、神を中心にしたすべての権限の中に、私の所有があるのです。ですから私たちは、一個人のうちで蕩減します。

  無条件従順による一体化

それでホーム・チャーチというのは、世界の十一条のようなものです。私たちは自分のホーム・チャーチの地域の、すべての重荷とすべての罪を負うのです。それにはどうしたらいいかというと、ホーム・チャーチ(の地域)と私とが一つにならなければなりません。一つになることができれば、すべての問題が解決されるのです。ホーム・チャーチというのは、サタンの国という立場に立ちます。宇宙はサタンの主管圏になっている。そういう外的世界の全体をホーム・チャーチは意味します。(黒板を指しながらー心・体・所有を指しておられるらしい)これは内的立場に立ちます。それで、世界の本当の主人は誰かというと、これが主人です。数は少なくても真ん中の内的なこれ、つまり自分です。言い換えれば、ホーム・チャーチを担当するあなた方一人一人です。

 それではあなた方とホーム・チャーチ(の地域)とは、どのようにして一つになるのでしょうか。それには従順に従うという道があります。もし、ホーム・チャーチの人々が、あなた方をメシヤとして信じたならば、一日にしてその地域は天国となるでしょう。その従順とは条件のついた従順ではなく、ただそのままの無条件的な従順でなければなりません。「この家も財産もすべてがあなたのものです」と渡してあげることのできるような立場での従順です。「私のものは私のものだし、あなたのものはあなたのものだ」というのではありません。「私のものがあなたのものであり、そしてあなたのものが私のものだ」というのでなければなりません。

 こういうことを準備するために、神は宗教をつくられたのです。そして歴史をかけて宗教の領域を広げてきたのです。しかし、宗教指導者たちは、自分が主人でなく管理人であることを、知らないでいるのです。神は個人から家庭を立て、そして一つの国を立てようとされました。その国とメシヤが一つになれば、家庭、氏族、民族までも完全に統合することができるのです。そのような絶対の道を標準として、ユダヤの国を中心にしてユダヤ教と一つになった立場からメシヤを送ろうとされたのが、旧約聖書を中心とした摂理たったのです。ユダヤの国がメシヤと一つになり、その国がローマを屈服したならば、世界は完全に一つになったでしょう。そしてユダヤの国の祭司、ユダヤの国の王様が、この国は私の国ではない、この教会は私の教会ではないと言って、メシヤが来た途端に、絶対に従順に従い、「どうぞ、主人であるあなたがお持ちになってください」と言って主人に捧げることができたならば良かったのですが、実際は捧げることができないのです。これは大変に難しい。そこで事故が起きます。繰り返し繰り返し歴史はそこで事故を起こしてきたのです。

 サタンがどういうものであるかというと、神が所有するものを自分のものとして完全に奪った、公的なものを私的なものとして所有した、そういう存在です。堕落はなんであるかというと、すべてが神の所有でありアダムの所有であるにもかかわらず、自分の所有にしようとしたということです。これが世の中をびっくり返したのです。それと同じように、主人が来ているのに、それにもかかわらず自分のもののように考えていると、反対にすべてはサタンのものとなってしまうのです。本来、神に帰らなければならないものが、反対にサタンのものになってしまうわけです。

 心情を通して従順に従わなければならないのに、その可能性は本当に少ないのです。なぜなら、それをした人がいなかったからです。それは、たやすいことではありません。かりに私が、すべて自分の能力でたくさんのものを得たとしましょう。それでも「レバレンド・ムーン、それはあなたのものですか」と言われたとき、「自分のもの」になってはいけないのです。なんの話か、わかりますか。(はい)。

  迫害を受けて得る祝福

しかし、このような従順という第一番目の道は難しいのです。それで、祝福してあげたものを再び取り戻さなければならないという第二番目の道となるのです。それにはどうすればいいかというと、中心者が迫害を受ける、攻撃を受けて代わりに損害賠償を請求しなければならない、ということになるのです。この世も同じです。成すべき方法をきちんと定めておいたにもかかわらず、その通りにしないで反対した場合には、その人をやめさせて、すべての権限を奪ってしまいます。そしてその権限は、また責任者に戻ってきます。そして彼の思い通りに従う人に、その権限を与えるのです。

 神も二つの道をとって来られました。この従順にする方法が難しいために、反対させて祝福を相続させるという、二重の仕事をしておられるのです。ですから、メシヤが来られる時、キリスト教とキリスト教国家が絶対的に従順に従って国と教会のすべてを捧げないときには、必ず反対闘争歴史がくり広げられて、個人と家庭から、そしてすべての団体、全世界からメシヤは反対を受けるという、このような結論が出てくるのです。

 イエス様もこの道を行ったのであり、再臨主も同様の道を行くかもしれないのです。だから個人的にいけば、個人的に反対を受け、そして家庭的に反対を受け、さらに世界から反対を受けるのです。全世界から反対を受けるわけです。そのような一人の男が天の愛と一つになる、という結論になるのです。従順に従ったときには問題はないのです。それで、その後はどうなるのかというと、真なる人、真なる物。物も真、人も真。真の愛をもって経由していくと、このときは物がついてくるし、人もついてくるのです。(黒板を指しながら)万一、これがこのように行っていて、止まるときには、大変なことになるのです。なんの話かわかりますか。

 今、世界は、民主世界と共産世界という正反対のものに分かれています。こちらは天を捜していくし、共産主義は偽物として反対に物質世界を捜していきます。民主世界は自由と愛と平和を中心としますが、共産世界は銃剣を持って、威嚇と強制を中心として、同じ目的を達成しようとしています。そのように、民主世界と共産世界は同じパターンを保っていますが、まったく反対の方向をもっているのです。このように真っ二つの世界になっているのです。また、自由世界と、自由世界のキリスト教は、ひじょうに混乱しています。それは神の摂理と正反対の方向になってしまっています。今、自由世界の代表であるアメリカは、滅びつつあるのです。誰も何もしないと、それは破滅にまでいってしまいます。

 ですから私は、この使命を韓国で出発しましたが、自由世界の代表であるアメリカを救うためにここにやって来たのです。そしてアメリカを保護するために、共産党の攻撃に対して闘うのです。アメリカと自由世界の指導者は誰でしょうか。誰もいません。共産世界の指導者は誰でしようか。神が創ったこの世界に、ユートピア(理想郷)をつくることのできる人は誰でしょう。誰もいないのです。

 これからは統一教会が問題になるでしょう。人々は、共産世界をも含めて、世界の指導者は統一教会であることがわかってくるでしょう。アメリカはレバレンド・ムーンを見て、とても高い評価をしています。共産主義者も「統一教会は、自分たちよりも上であることを、認めなければならない」と言って恐れています。今は、そういう闘いの最中なのです。統一教会員は今まで日陰者のようでしたが、今私たちは、自分の責任分担を果たして責任をとらなければなりません。私たちはひじょうに多くの迫害を受けてきました。その結果、天のすべての祝福を刈り入れてしまったのです。人々は統一教会が滅びると思つたかもしれません。しかし、反対する者が滅んでしまったのです。

  今は勝利的時の転換点

 このように膨大ですべてが謎めいた歴史を理論的に整理し、世界情勢と共に、現在のこの時を明確に位置づけることのできる立場で、あなた方がみ旨に対しているということは、どれほど驚くべき事実でしょうか。あなた方は悟らなければなりません。今日、重要な立場にいるのです。あなた方は、パイプラインのようなものです。あなた方一人一人を通して、神の祝福が流れていくのです。それがホーム・チャーチです。これらの話は私が勝手に考えたことですか、それとも天の計画に合致した、理論的に正しいことですか。(正しいです)。だから私たちはどうしなければならないかというと、愛の爆弾、愛の原子爆弾にならなければならないのです。あなた方は、愛の爆弾になりますか。(はい)。それなら問題はありません。あなた方は勝利者になるでしょう。

 統一教会の二十七年間の歴史において、私はどれほどの苦労をしてきたことでしょう。何度も何度も死に直面することがありました。そのたびごとに「これを越えなくてはならない。もしここで自分が死んだとしたら世界はどうなるか。神は、人類はどうなるか」。そのことだけを心配したのです。そうして乗り越えてきたのです。サタンはそのことを知って私の道をふさぎ、私を打ち倒そうとしていたのです。本当によくも苦しめたものです。

 ワシントン大会を終えて、今、新しい戦いを宣布しています。共産主義者は笑うでしょう。それは何年か前に、アメリカが「東洋人が来て、アメリカの問題を解決するんだって」と笑ったようにです。自由世界との闘いは、もうみんな終わってしまいました。自由世界から高い評価を受けて、もう勝利したのです。あとに大きな闘いはありません。あなた方が強く立って、祝福を受けて力強く進むならば、アメリカは統一教会の人々と共に生き延びることでしょう。そうして、その分だけ共産党は衰退するでしょう。

 今は、勝利的な時の転換点です。あなた方の七年の、まったく新しい始まりとなります。今後の三年間は、家庭教会に入っていくべき、ひじょうに重要な時期です。自由世界の七年を終えながら、世界に向かう七年の出発をしなければなりません。歴史的なすべての背景をみて、摂理的にそうならなければならないと、あなた方も思いますか。(はい)。

 今、あなた方が知らなければならないのは、迫害の時代に迫害を受けた、それ以上の心情をもって、ホーム・チャーチを進めなければならないということです。それ以上の心情をもたなくては、天は助けることができません。私も、迫害を受けた時代の心情以上で仕事をしなければなりません。どのようにしてかというと、愛で教育しなければならない、与えることに努力しなければならないのです。ホーム・チャーチは、あなた方の教育の場所なのです。教育をして、愛を分けてあげなければならないのです。もう迫害はありません。ほんのしばらくの間。七ヵ月ぐらいでしょう。統一教会がいいという噂が出てくるまでです。

  時に合わせて働こう

きょうの主題は「迫害と祝福」です。レバレンド・ムーンが今まで迫害されてきたのは、世界の祝福を集めるためのものだったのです。迫害が、祝福を取り戻すための神の作戦であったのです。これからは、私たちを歓迎する人々が現われるでしょう。そして各国の首脳がレバレンド・ムーンに会おうとして先を争うようになるでしょう。あなた方がより多くの努力を払うならば、その努力に応じて、より多くの成果を得るでしょう。ここでは蕩減よりも増大があるでしょう。

 先日、二週間のセミナーがありました。そこで私は、短い時間だけ、お話ししました。それで彼らは完全に変わり、ひじょうに希望をもつようになりました。彼らは、ひじょうに感謝をしていました。このようにみてみると、二週間以内に国がまわるということは可能なのです。もしも、私が行なったのと同じ講義を、テレビを通じて全世界に流したとしたら、どのような反応が世界に現われるでしょう。世界が数週間でまわるというのは、現実的な問題となっているのです。だから「時」がどれほど近づいているかというのです。

 彼らは、ムーニーに対して、自分たちのつくったイメージしかもっていません。しかし、彼らがわかってみると、「このようにすごい大変なものを、ムーニーがもっているとは知らなかった」、「レバレンド・ムーンがそういう人であるとは、夢にも思わなかった」と言うでしょう。あなた方がここに来て、このように学んでいるという事実は、ハーバード大学の総長よりも、世界各国の大統領よりも、はるかに優れた立場に立っているとは思いませんか。

 あなた方は、ホーム・チャーチのことがわかりましたか。あなた方は自分のホーム・チャーチの地域に行き、一生懸命に働いて、アメリカの本当の指導者になるのです。自分の地域だけでは狭すぎる。ラウド・スピーカーのついたバスでアメリカを回りながら、人々を眠りから覚ましたいとは思いませんか。もし、自分の置かれている立場や世界の現状の意味がわかったならば、あなたは、「三六〇軒はあまりにも小さすぎます。私はアメリカ全体をホーム・チャーチにしたい。アメリカも小さすぎる。世界をホーム・チャーチにしたい」と言うでしょう。それは、より一層真実です。 こういうことを考えるとき、このような公式をあなた方は今まで知りませんでした。この時に対する、祝福を受けた人がいるとしましょう。その人々が万一、あなた方に反対したとするなら、彼らに何か悪いことが起こるのを見るでしょう。国が滅びたり、その環境すべてが滅びていくのを見るでしょう。だから、あなた方は、足をふらふらさせてはいけません。岩のように立って確信をもつのです。神がすでにあなた方の背後にいるからです。

  迫害は福の種を蒔くことである

 あなた方の究極的な目的地は、神の心情です。ホーム・チャーチは小学校です。国は中学校・高等学校として考えて、大学は世界として考えるのです。博士コースは霊界まで全部通じるのです。


 迫害を受けてひどい目にあうということは、福の種を蒔くことになるのです。何回も蒔くことによって、刈り入れることができるのです。私は刈り入れようとしているでしょうか。そんなに畑仕事をしなかったあなた方が、収穫を得ることができるようになっているのです。これは誰のためにするのでしょうか。統一教会のすることは神のためです。つまり、迫害されるのはなんのためかというと、福の種を蒔き、より多くの収穫を得るためのものです。だから、もっと多く蒔かなければなりません。やり甲斐がありますか。やってみますか。(はい)。どこへ行って蒔くのですか。(ホームチャーチ)。そこだけするのですか。(いいえ)。

 そうなると、あなた方が私のことを好きなように、あなた方のホーム・チャーチの人々も、あなた方を好きになるでしょう。そのホーム・チャーチにいたすべての人々は、あなた方の行くところに皆ついて行くのです。あなた方は氏族的先祖になるのです。それでスミスという姓であれば、二ュースミスになるのです。マクドナルドであればニューマクドナルドです。気に入りましたか。(はい)。

 すると、もうわかりました。今までは迫害が悪いと思っていたけれども、こういう原則を知ってみると、真なる愛のために、このように迫害にあうのは福である。ああしても福であり、こうしても福である。こういう簡単なことなのに知らなかった、ということなのです。わかったならば、今までより以上に、強く、速く走りましょう。すべての宗教者に新しく教えてあげて、導いてあげなければなりません。国の指導者層にも、世界の指導者層にも、すべての人々にです。
 私は旧約時代のすべての祭物の復活体であり、新約時代のイエス様の復活体であり、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体になった。このように考えていくならば、人々はあなた方の後をついてまわりながら、「ああ、私はあのようにしたい。私は幸福だ」と言うでしょう。死の道も行くでしょうし、迫害の道も行くのです。自分の幸福をかけて行くのです。

 眼鏡をかけた人は、眼鏡を取って世界を見てください。それが、あなた方が以前に考えていた世界です。もう一度眼鏡をかけてみてください。それが今、あなた方が考えている世界です。あなた方は幸福ですか、それとも幸福になろうとしているのですか。(幸福です)。さあ、それでは決意をもってやってみますか。(やります)。それでは誓いましょう。ありがとうございました。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.10.27 23:27:04
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