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2021.12.01
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​​​​​​​​​​​​「祝福家庭子女修練会でのみ言葉」(後篇)

1984年7月10日
ベルベディア

 一九八四年六月二十日から七月十日まで、ベルベディアにおいて、先生の子女様たちと在米祝福家庭の二世たちの第一次二十一日修練会が行なわれ、その最終日七月十日に語られたものです。


 豊富な人生体験

 父母様は、アベルの地へ訪ねて来られるのです。アベルの地には、父母様が食べることができる準備をしておかなければなりません。国家の為の道、世界の為の道を修めなさいと言うのです。自分たちが持て成されされる道を修めなさいというのです。父母は自分の息子・娘を助けてやったと大騒ぎしますか? その社会と国は、その後孫の前に、父母より以上によく尽くせばいいというのです。すべて連帯責任を負うというのです。

 反対を受けた人の中では私が一番多いでしょう。今も反対を受けています。そうしながら復帰するというのです。人は反対されながら有名にならなければなりません。誉められて有名になった人は、そこで終わるというのです。今は悪の世界ですから、義者は反対を受けるようになっています。君たちもそのように理解して、そんな気概を持たなければなりません。学校に行って成績が落ちることは気にせずに、指導するという考えを持たなければなりません。

 先生が君たちのような年齢の時は、帽子を被って学校に通いました。公園のような所へ行って大衆ともよく接したのです。将来、多くの人々を指導する訓練です。たくさんの人に会って、たくさんの質問もしてみなければなりません。数多くの答えが返ってくれば、それが全部経験となりま野。大衆を指導できる能力というのは、すぐには生まれないというのです。たくさん経験しなければなりません。商売もよくできなければなりません。私には経験しなかったものは、ないのです。鉱山に入り、トンネルも掘りました。炭焼きもやったり、人間のする仕事はすべてと言っていいくらいやりました。だから寝る時間もなかったのです。遊びもよくやりました。山といっても、数十里内外のことは大抵明かるいというのです。春になると鳥の巣を観察しました。どの花園に鳥の巣が幾つあり、雛(ひな)はどのようにして孵(かえ)るかよく分かっています。また水があれば、そこにどんな魚が棲んでいるか、よく見分けることができます。性質上、そのまま通り過ぎるということはなかったのです。素裸で水浴びをし、隅々まで探って、魚を素手で取って焼いて食べたり、朝飯は食べないことがあっても、川では蟹を取って焼いて食べたり、そんな遊びをしたというのです。

 自分の為に祈らない

 今から君たちを訓練しようと思います。今日終わってから、十日間くらいは、ここで聖地祈祷をしなさい。七月二十日までに先生は監獄へ入らなければなりません。終着点へ来たというのです。君たちはここにいて精誠を尽くさなければなりません。先生は自分の為にはお祈りしないと言ったでしょう。私は既に天に任せたのです。しかし、君たちはお祈りをしなければなりません。分かりますか? 先生は何とお祈りするのか? 「神様、監獄へ入ることになっていますが、私は死んでもできません。」と祈るでしょうか? 監獄に行っても、そのように自分の為に祈るのではなく、世界の為に祈り、食口たちの為に祈らなくてはならないのです。

 今日の責任分担、よく分かりましたね。社会に出ると、社会の法を守らなければならないというのです。交通秩序、交通運行の責任分担をよく全うしなければなりまん。学校の決まりは、学校生活での責任分担を全うさせるものだというのです。皆さんには、熱心に勉強を教えてくれる先生が良い先生なの? ごまかして教えてくれる先生が良い先生のなの? (「熱心に教えてくれる先生。」)熱心に教えてくれる先生を好きな学生は一人もいないというのです。熱心にする先生がいい先生なのに、好きな学生はいないと言うのです。このように逆作用することによって、発展することができるというのです。

 若い人たちには必ず制裁が必要だというのです。由自は要(い)らないということが分かりますか? 大学も卒業せず、社会経験もない若い人たちは、そのままいけば国を憂えるようになるというのです。家へ帰っても、学校へ行っても、まだ世の中が分からないのですから、三十歳までに自己主張しないようにというのです。

 三十歳まで、私はお腹が空かない日がなかった。わざわざ、そのような生活をしたのです。服を全部、古物屋で買って、わざと匂いがする服を着ました。女性たちが追ってくるので、無関心に徹したのです。先生はだれとも話さないで生きて来ました。私が話したら、天下が回って行くと考えたので、話をやたらにしないというのです。自分の行く道が忙しい。準備するのが忙しいというのです。

 祝福を受けてここに住んでいる人たちは先生の庇護のもとに暮らしているが、文先生にお世話になるというのではなく、天地の前に、神様の前に、人類の前に負債を負って生きていることを知らなければなりません。その負債は、必ず死ぬ前には返さなければなりません。私の子供たちに、私の親類に返して行くというのです。そのように決意しなければなりません。分かりますか? 私はそのような考えをもって助けているというのです。それゆえに、世界が生きることができるし、世界がここから生まれ出ることができる鍵になるのです。先生は全部一人ずつ連れて来て教育しました。飛行機代を払ってあげ、食べさせながら君たち一人ずつを先生がこのようにしたのだから、君たちも助けを必要とする人たちを助けてあげなさいというのです。それができなければ、君たちの息子・娘たちを呼んでもそのようにさせなければなりません。君たちもそれを伝承しなければなりません。それができなかったら、その民族は滅びるというのです。

 夫婦は高きを目指して

 祝福家庭の息子・娘として生まれた人たちは責任分担がありますか、ありませんか?(「あります。」)責任分担はこのように重要だというのです。責任分担を成し終えてから、遊びをしなければなりません。そうでなかったら、全部が嫌になるのです。責任分担を持つ夫として、その夫人が、「うちの主人は、本当に私がどんなにみても立派だ!」と言って自分の夫を一番先に宣伝するような夫にならなければなりません。

 人の父親になることは、易しいことではありません。息子は、実は他人でしょう。父子の関係になっているが、何回みても他人は他人でしょう? 父の役は容易でない。また、妻の役目、夫の役目もたやすくないというのです。

 だから、君たちは大所帯を好まなければなりません。大家族のお金持の長男の嫁になってみると、安定するものだというのです。それほど経験を必要とする君たちは、舅・姑がいる所へお嫁に行くの? 舅・姑がいない所へお嫁に行くの? (「いる所へ行きます。」)

 舅から殴られることもあります。だが舅が死ぬ時、遺産を残すものだというのです。姑がそんなにこわくて殴られても、そこで文句もなく侍って、その姑が嫁を誉めるようになれば、その姑のすべての貴重な物、装身具などを引き継ぐというのです。それは、みんなそうなるものです。

 夫においても、性格が意地悪な夫は女を殴るというのです。女がたまに夫から殴られて、涙が溢れ出て、その涙がぽろぽろこぼれて胸に流れてきても、それでも、すぐに笑うことができる女は幸福な女だというのです。殴られても、我知らずに涙をぽろぽろこぼした後で、すぐ再び笑いながら生きる事ができるというのは、喜劇、悲劇が交叉する素晴らしい妻です。そうでしょう? そう考えるのです。殴られるにも理由があります。間違って口が曲がってしまうこともあれば、ある時はこづかれることもある。だけど、それが苦しくてどうして一生涯を生きてゆくことができますか? 直すのは、女性一人では直せないのです。男性が怖くて、直さざるをえなくなるのです。鬼や雷が落ちるように一度殴られれば、目から火が飛び出るような涙がこぼれても、再びそのような目に会うことはなくなるのです。親戚から見れば、毎日のように殴られても平気で暮らしている人を見るにつけ、「実に不思議だ。その味を知りあいので、一度殴って下さい。」と言うのです。それが必要です。一度殴って、夫が妻に済まなく思いつつ、女を愛する味というものは、殴られたことのない女には分からない。夫が涙をぽろぽろこぼしなから、「ああ、済まなかった。これからはそうしない。」と言いながら、お互いに開拓しなければなりません。それはどんなに見事なものでしょう。

 高きを目指して行くのです。希望のある限り、我々は何かを積み上げてゆくのです。希望の道を早く行こうとすれば、互いに励ましあい、もまれながら行かなければなりません。

 女性は嫁に行く時、夫を愛そうとして嫁ぐの? 愛されようとして嫁ぐの? (「愛そうと思って行くのです。」)この世の女性たちは「愛されるために嫁に行く。」と言うでしょう?でも、愛するといっても、愛を受けられなかったらどうしますか? 愛を受けないというのに愛そうとすれば殴られるということもあるでしょう。そんな時は、泣きながらでも愛そうとしなければなりません。泣きながら、死にながらもそうしなければなりません。死んでも愛そうとすれば、その次には夫が屈服することになるというのです。

 しかし、統一教会の女性たちはあまりにもいい御身分ですね。世間ならば、名の高い夫の下だと、女性は昼寝もできないというのに。この上もない精誠で仕え、お化粧を凝らして、ただ主人を待って夜更かしをするという、そのような侍り方も知らなくてはいけません。

 きょうは、蕩減、責任分担の話を始めて、ここまでやってきました。もうそろそろ結論を出しましょう。

 蕩減復帰歴史は、そのすべてが、子供の時から年老いて死ぬまで、霊界までが永遠に付いて回るのです。責任分担というものも永遠に付きまといます。霊界に行っても責任分担が残されています。霊界に行って、高い世界に昇れば昇るほど、次元が上がればそこに法があり、全部責任分担が付きまとっているのです。それを知らなければなりません。

 アダムとエバはその完成させるべき愛が、間違った責任分担に引っ掛かってしまったのです。責任分担は、すべての分野で目的が完成する時、経なければならない過程であるのです。いかなる時限的な過程を渡るときも、必ず責任分担はあります。それが存在しなくなれば、すべてが破壊されてしまうことを知らなければなりません。

 真理に立脚した立場から

 この救援摂理がどんなに大変なものか、皆さんには分かりません。そこで友達も助けることができない。助けてもらってもいけない。妻も助けることができず、父母も助けることができません。そこは父母の位置、アダムの位置です。分かりますか? その時は誰一人の師もなく、あるのはただ霊界の天使のみです。しかし、天使たちから助けを受けるようになっていても、それは堕落した天使圏なので、その天使圏からも救援を受けられません。逆に利用しようとするからです。誰も信じられない立場です。神様も正常に対応してくれません。試験を通過しなくては、神様も相対することができないようになっているのです。

 人間が神様を忘れてしまったのです。エデンの園の、自由に信じられる容易な環境でも神様を忘れてしまいました。神様にとつて、不信のサタン世界の中で、信じ得る息子を求めることは、考えることもできないことです。そうではないですか? ですから、神様が信じられる位置に出るまでは、いかなる試験もすべて通過しなければならないのです。先生が、今日のこの位置にまで出るためのその試験の話はしませんでした。皆、知らないでしょう。そのような話は後々に残したくもありません。

 エデンの園ではそのような話があってはいけないのです。本来の世界にでもあつてはいけない。それは自分の内で消化させ、後の世代の人たちには、良いことだけを話してあげたいというのが、先生というものなのです。悪いことは皆自分で処理し、先生の生涯でできる限り良いことのみを君たち後世代に残していこうと。なるべく監獄の話はしないでね、そのような話をすると、慟哭(どうこく)する人が本当に多いからです。そのような話をすれば、情緒的な面から感激して決心する人も多い。しかし、それは良くないのです。順理的(註・道理にかなった)な原則によってすべてを決心しなければなりません。衝動的な立場から決心するよりも、真理に立脚した立場からの決心でなくてはならないのです。自分がやりたくてやるのです。そうでしょう?真理に会えば心が動くようになっています。

 心は永遠の主人

 だから、自分に一番近い先生は誰かと言えば、実は自分の心なのですね。一番の友達よりも貴いものは自分の心です。その心に尋ねてごらんなさい。その心には神様がいらっしゃる。その心の声を聞くことができなければなりません。その位置に達しなければならないというのです。

 仏教では自省(じせい)という話があるでしょう。そしてまた、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と釈尊は言ったけれども、それは何かと言えば、自分に聞けば、それは神様に戻って行くということです。そうなれば、不可能なことはないということなのです。だから、心を明かるくしなければなりません。心が先生よりも優れたものだというのです。心は永遠に私の主人なのですね。だから、私心を持たないで、公的立場に立たなければなりません。

 私を中心として愛されたいと思ってはいけません。愛する立場に立つのが天の心なのだから、愛されるより愛しなさい。心はいつも「犠牲になりなさい。譲りなさい。」と言っています。与えても、また与えようとします。もし先生が今百億持っていれば、道に出て、すべての人たちに分けてあげるというのです。しかし、それでも世界人類すべての人に分け与えなければ、心は楽になりません。お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいという気持ちになるのです。果てがありません。

 そこで神様の心を知ることができます。神様の心も同じなのです。だから、神様の心はどんなに大きいか。どんなに深いことか。ですから、自分を自慢することができないというのです。いかに大きいことをしたとしても、心に聞いてみれば、「もっとしなければならない。」と言うのです。そう答えてくると言うんですね。この世ではいくらか仕事をすれば、認められることを願い、讃えられることを願うでしょう。だが、そうではありません。認められる日には、そこで終わってしまうというのです。そのような名誉栄達に愛着を持ては、第二段階への高い次元に上がるとき、障害になるというのです。なぜでしょうか? いつも讃えられていれば、そこは住み心地もいいでしょう。しかし、尊敬される第二段階の世界的道を行こうとしたら、そこは十字架の道だからです。困難な道であり、体が願う道ではないために、なかなか行かれないのです。

 先生は三十歳になっても飢えた生活をしました。おなかが空かない日はありませんでした。そのような暮らしをしたのです。それで、腹を空かした人には同情するのです。先生はむしろ空腹を求めました。そこは神霊的だというのです。腹が空いている時間は、神霊的な時間です。先生が空腹を求めたのは、自分の食事がないからというのではありませんよ。わざわざその道を行くというのです。自分の責任が果たせなかったら、匙(さじ)を取っても、ご飯を腹一杯食べられないということです。準備しなければなりません。すべての課題を成し遂げるためには、眠ることもできないというのです。他のことを考える余裕もありません。いくら疲れていても、我々は今昼寝もできません。

 昨日は二時間半ぐらい寝たでしょうか。お母様も疲れています。「少しお休みなさい。」と言われても、心はそうできません。年をとっても、仕事は若者よりももっと大きな舞台に拡がっており、仕事の量も多いのです。しかし、誰にも任せるということができません。先生が指示します。私が指示するのは、ただ指示するだけのことではありません。霊的な何かがあって、指示するのです。何の話か分かりますか?

 仕事をする過程では、心が私を通じて教えてくれます。一目で心が分かります。だから、一番近い先生が実は自分の心なのです。心を痛めたり、悲しませてはいけません。それは、先生を悲しくさせるのと同じことです。天地の主人を悲しませるのと同じことなのです。私の一生の主人である心を悲しくさせるのですから。

 良心と一つになった人格

 心が楽しくなるようにしなさい。先生の中学校時代には、掃除は皆私がしました。学校全部を私が愛したいと思って、全学生を代表して先生が掃除をしたものです。そのような時は、人に助けられるのが嫌なのです。一人でしたいと思うのです。そして、もっときれいにしようと思えば、人がした跡をまたやり直すことになります。そんなにしていると、友達が、「我々はこんなふうにしたのに、お前一人でやるものだから……。」と言って、結局、自然に一人でやることになってしまったのです。けれども、その時間が実に楽しい時間でした。この世的に見ればすべて淋しい、悲しいようだけれど、心と友達になれる時なのです。それをすべて終えてから、瞑想でもしてごらんなさい。深い祈りの所まで引っ張られて行き、人が知らない深い世界に入って行きます。そのような体験が必要です。

 君たち、劇場へ行っても、いい幕だけを見て、いい劇場だと言ってはいけません。幕が良くて何になりますか? 劇そのものが良くなくてはならないでしょう。その劇がいいかどうかの問題は、その劇を中心として、その人たちがいかに一つになっているかにかかっています。人間の深さがそこから現れて来るのです。

 だから、心が同化して、その版図を広げる生活をするか否かが問題です。女性たち、娘たちの心は浅いでしょう? 根がありません。心は天道を先祖から引いてきています。その心を中心として、私の心が「こうではないか。」と言えば、体はそのように直されて行きます。女性として夫に出会えば、女性の守る道理や、女性の顔・姿がこうでなくてはならない、態度はこうでなくてはならないといったことなども直されていくのです。良い夫に対してはこんなによくするのだけれど、悪い夫に対しては、父母の身になって諭(さと)し教えるような、そんな準備もしなければならないのです。

 良い夫をもらえると思っているのですか? 女性は嫁に行ってから、絶対、夫を嫌だと言ってはなりません。嫁に行くこと自体が、人の家に行くことなのです。人の家に行く限りは、その家で歓迎を受ける責任があるのですね。その家が私の心に合うかどうかと考えるのは間違っています。人の家がどうして合うのですか?

 だから、嫁(とつ)ぐ限りはその家に合わせていかなければなりません。舅の心に合わせなければならないし、姑の心に合わせなければならないのです。主人の兄弟に合わせて、その家に必要な者となって初めて、自分の居場所が定まるのです。

 舅・姑がいる居間にまで同席するためには、「お嫁さん、いらっしゃい。冷たい部屋にいないで、こちらにおいで。」と言われるように努力しなければならないのです。心と体が一つになった立場において、舅・姑の心と体に通ずるところまで経て行くようにすることは、容易なことではありません。彼らは七十、八十歳の生涯の中で、紆余曲折(うよきょくせつ)が多かったそのすべてを中心として、姑は自分の嫁時代を思い出しては、いつも比較することになっています。しかし、このようにしながら、舅・姑の苦労したもののすべてが自分を経て行くのです。何カ月間の期間にそのすべてを、いや、それ以上まで通過させようとしても、それをありがたいという環境を作りあげて、その位置を奪うのです。

 水がどんなに速い、と言っても自分より高い所へは流れません。それも、満たしてこそ流れ出れるのです。我々もそうです。心は原則に従って行こうとするのです。高い所から、低い所を見渡しては、四方に導き、我々の行く道を指導する。そうではありませんか? (そこには)偽りや不実がありません。

 しかし、体は食べたいものを食べようとするし、好きなままに動くでしょう? これをすべてコントロールしなければなりません。だから、良心と一つになった人格を構成しなければならないのです。神様が別にあるのではありません。自分の心に、神様に侍るごとくに仕えて行けば、神様も自然にそこにやって来るというのです。分かりますか? 貴い話ですね。先生以上に心に仕えれば、その心が先生を教えてくれます。だから、私の生涯の主人は誰かと言えば、それは心です。心が合った夫、心が好む夫に仕えるようになっています。

 良心作用の源

 しかし、そうだとしても、みんなの心は合わないでしょう? 極と極、これは合いません。とすれば、水平線の一本橋を渡るように、おしとやかに、つつましく出会わなければならないと言うのです。会う所はその中央で会わなければなりません。前後を振り返って、「私が中心だ、好きな位置で会えばいい。」と言えますか? こうして会うことは、どんなに難しいことか知れませんが、それは神様が喜ばれることです。

 それで、心の声を聞くことができるようになるのです。精誠を尽くして心で聞けば、全部答えが返ってきます。それでこそ大きい仕事が出来、偉大な指導者になれるのです。女性であっても、大きい仕事をすることができます。天と地を測る心をもって、無限に成長することができるというのです。

 しかし、体に乗ってしまい、そこで座り込んでしまったら、心は大きくならないのですね。そのため、宗教生活、修業生活が必要となります。しかし、時には体が心を慰めてあげるのもいいのですね。「心よ、侘(わび)しいでしょう?」と体が心にそう言ってあげなければならないのです。

 そうすれば啓示的になってきます。本当に不思議なことですが、先生もそのようなことがたくさんありました。どこかの道を通る時、一目で、「あっ、あのおばさんを助けてあげなければ。」と思いました。そんな時は、財布からお金を出して助けてあげるのです。また、道端で品物を売っているおばさんをなぜか助けてあげたくて、「いま家に何か不幸がありますか?」と聞いてみます。すると、やはり家で何かあったのだと言うのです。「自分の愛する一人息子が死にそうだ。」と言う。「その子は何歳ですか?」と聞けば、「七歳です。この品物を売らなければ、死んでしまう。」と言うので、それを買ってあげたのです。このおばさんが家に帰ってみると、風邪をひいていた自分の子供が、その時間に直ってしまったというのです。不思議なことが起こるのです。良い結果は必ず相対的な結果を引き起こすのです。そのようなことは、信仰生活の中では本当に多いのですね。

 心があるか、ないか。そのようなことを考えたことがありますか? 心が主人だと思わなければなりません。今からでもそのように考えなければなりません。問題があっても、他の人に聞いてみる必要もありません。瞑想すれば、どこへ行けばいいといった直感までが働きます。啓示的です。それは天が教えてくれるものです。心は天と連結されることになつています。だから、心は何ですか? 人間の一番尊い、天註の大主宰であられる方が臨まれる哨所(しょうしょ:註・歩哨が立って見張りする場所)ですね。電話機が電信電話局の哨所であるのと同じことです。番号さえ合わせれば全部が出てくるのと同様です。ですから、心を良く使わなければなりません。それが一番早く成功する道なのです。啓示も音声として聞けば、心が教えてくれます。

 ある時は、既に心が知っていて、心が命令し、自分の足がもう回っているというのです。そのような位置まで高めていくのです。会ってはいけない人に会おうとしたら、足が言うことを聞かなくなるといった、そのような事実も多いのですね。

 だから、心はいつも私を保護しようとしているけれど、みんなそれをあまりありがたからないのです。君たち、心があるでしょう? 心が作用すれば、良心作用が生じるのです。良心作用というのは、主体と対象により授受作用する、その真ん中にあります。良心作用が起こるのは神様がおられるからです。主体と対象が一つになる、そして、見えない電波の交流が広がるのです。これが磁場が広がる原則です。だから、心を尊重しなければなりません。

 皆はどんな人になるの? 「私がどんな偉い人になるか」などと考えるのではありません。心の嬉しい人になりなさい。その心があってこそ、悔い改めが可能なのです。それでこそ、決心ができるのです。心が偉大でなければ、決心することもできません。何か難しい問題が起これば、瞑想しながら深い心の谷を探して行く。そうすれば、すべて答えが与えられるというのです。

 心は誰もが侍ることができる玉座です。分かりましたか? 心をこのように決定すれば、誰もが侍ることができるのです。そうでしょう? 心にはそのような特権があります。偉人に侍って、尋ねてみると、その偉人はこのように答えるのです。答えはいっぺんに出て来ます。神様とイエス様に対してでも答えを求めることができるのです。だから、それらの方を通して答えを探し出すことができるというのです。

 心自体で答えを求めることができない時は、父母様が答えてくださるのです。そうではありませんか? もし君たちがお兄さんを尊敬しているなら、お兄さんは答えてくださるでしょう。誰かを通して答えを下さるのです。そこにおいて回答を求められない場合には、三人に尋ねて三人に答えを出させてみれば、その中から回答を自分が見出すことができるというのです。

 神様が臨在する心の位置

 それ故に、祈祷するときは、心が喜ぶ祈祷をしなさい。そうすれば酔うのです。ある時は、心が声を出して祈祷することを欲するような時があります。歌の祈祷をしたいと心が欲すれば、歌の祈祷をしてみましょう。詩韻は、「神様、ハーナーニーム」。歌も曲調に合わせて、そのように心に芽生えるがままの祈祷をするのです。そのように、心が感動してこそ、私が感動するのです。心を整えなければなりません。それ故に、心がしゃくりあげて泣くとき、心が悲しみを感じるときは、体は自然にむせび泣くと言うのです。これが重要な言葉です。心はいつも私に感激を与えてくれる。そのような考えをしてみなかったでしょう?

 心だけを高めてあげるのです。心は偉大なものだと、そのように高めてみると、その偉大な心が私に命令することに喜んで従って行くというのです。信仰生活はそのようにする道が一番近道です。眠っている時は起こして、起きる時はいっぺんに指示するというのです。「きょうは何かある。」と。「きょうは駄目なんです。」と思わずに、「おお! 何と偉大なことか!」と思わなければなりません。そのように心が澄んでいてこそ、神様が臨在するというのです。

 苦しい心を持てば駄目です。苦しい心に自己の利益をあてはめて考えれば、苦しくなるのです。心がどんなに苦しいか? 心は公的なのに、体の血が苦しく流れるから、苦しくなるでしょう? 自分のことだけ考えるから、苦しくなるのでしょう? 腹立たしさが残って……。

 しかし、心が嬉しいとき、体も喜んで音楽を奏でてくれるのです。ですから、例えば、復興会講演のような時が絶対必要なのです。心がそうしたくて、心が楽しむようなものが必要です。このような環境に入れば、すぐにその環境に完全に入り込んでしまうのです。説教や話をする場合もそうだというのです。それで説教のようなものは、題目を何カ月も前から決めることができないのです。「きょうは何の話をするのか?」と考えて、心が嬉しくなるような話をすれば、その日は必ず誰かがその話を必要としていたという、そのような恵みを受ける人がいるのです。

 だから、その心は父母に侍り、自分の兄弟の中で十人の兄弟に侍ったその場において、その人たちが喜ぶことのできる道をとらねばならないのが心なのです。分かりました? それは、家庭のすべての責任を私が背負って、難しい十字架を私が負って、父母の代わりの位置に立たなければならないということです。心はどこにあるのか? 本来の私の心はそこにあるというのです。

 例えば、その国民が三千万であれば、三千万の国民たちが全部喜ぶ、その国の中にいたいという心があるために、三千万のための心を持つことができる。そのような心を持って国に向かうとき、それが国王の心だというのです。分かりました? そうすれば、国王の権限が、国王の世界が私を訪ねて来るというのです。神様はどうされますか? 神様は、この天地を全部主宰する、そのような神様であるために、私の心もその神様の位置にいたがるというのでしょう?

 ですから、天地のためにこのような心を持って、万民のためにすることが神様の心であるから、その心の位置に私がいれば、神様の心の位置に私がいるようになるのです。そうすれば、そこには神様が必ず臨在されるようになっています。何の話か分かりましたか? 心はそのように偉大だということなのです。

 (一人の修練生を指して、)あなた、爪がとっても伸びているけれど、何歳? (「韓国の年で十九歳半です。」)先生は十五歳位にしか見なかったが、二十歳なの。それで爪を伸ばしたんだね。どうしても伸ばしたいんでしょう? そのような時は、心が「伸ばせ。」と言うのですね。しかし、すくすく伸びたものを一日、二日置いてから、「他の所を伸ばしなさい。」と言って、すっぱりと切ってしまうのですよ。心を伸ばしなさいということなのです。先生はそのような訓練もして来ました。

 だから(先生は)さっと座っても、人が知らないことを感じるのです。他の人たちは自然を見たとしても、何もそれほど感じることができません。しかし、先生は創造した神様の心の世界、それを考えるのです。そうすれば、心がそこに行くと言うのです。

 「神様はあれを造っておいて、どれほど喜ばれるだろうか?」それで、先生は万物を見てどのように嬉しいか? 酔ってしまうのです。一人で呟(つぶや)いているのです。神様をこのように愛する方法を知っているのです。分かりました? そのような感情的で、触感的な感じ方が敏感であるので、今日、善悪の世界を見分けて、原理の世界をわきまえるようになったのです。だからこそ、心というものは、これはいつも霊的世界だったのです。心が霊的に決然と判定を下すときは間違いがありません。天下が何と言おうと間違いありません。その経験を通して間違いないというのです。だから大胆なのです。

 心と体の責任分担

 さあ、心は何でしたか? (全員、「玉座の位置。」) 玉座の位置です。父母様よりも神様に近い所にいるのです。それで、父母様は心の代わりをするのでしょう? 御覧、私の心を。私の心に対して父母様は難しいことを知っているのです。父母の位置に立てば、いっぺんに分かります。「ああー、うちの兄弟たちは、私の心に対してこれを願っているだろう?……」と色々な願いを知るのですね。私のすべてのことも、「このように行かなければならないだろう?こう、このようにしなければならない。」と全部分かるのです。誰か、分からない? (皆、「いいえ、分かります。」)皆分かる。皆分かるというのです。このように、(心というものは)厳格なのです。

 「家庭が幸福になるためにはどうすれば良いだろう?」という心を定めれば、これこれこのようにと、どんなことでも全部分かるのです。できないこの体を打って、できるように調整して、革命をしなければなりません。心は堕落性と連結されているのです。下の方に人を引っ張って下げて行きますが、それはいつでもそれ以上の位置に上がって行こうと……。心はそういうものなのです。男子たち、分かりました? (「はい。」)だから、心を訓練しなければなりません。

 春夏秋冬をずっと考えてみて、今年は心が嬉しいことを見るとき、「私がそのように行けば事故がない。」そういうことを心が分かるというのです。難破する船にいる鼠(ねずみ)たちも、その船の難破を事前に感じて、船が港に入ると綱を伝って陸地に下ることを知っているのに、心が分からないはずがあるの? 心は分かるのです。だから、既に心が嬉しくなければ行かないでしょう? これは誰もが必要なことです。馬鹿正直に固執しては駄目なのです。心と体は一つになるものですから、心が主体であるように、主体に対応する体を一つにできるようにしなさい。

 では、夫が妻に対してこのようにして欲しいと願う心も、聞いてみれば、妻は皆知っているというのです。知らなければ嘘です! 皆分かるというのです。心は教育する必要がありません。皆、分かるでしょう! (「はい!」)

 先生は、(祝福した)二人に、「お互いに言いたいことがあるか」と思って、初めて尋ねましたが、心はもう皆分かっているのです。それを教えてあげなければならない。知らないふりをせずに教えてあげなさいというのです。そうすると、心が大きくなるのです。自分一人で窮屈な思いをしても、それは通じません。窮屈な思いをしてはいけないというのです。心は全幅的です。

 このように、心と体には責任分担が負わされているのです。途中で放棄すれば駄目なのです。忘れたら駄目なのです。責任分担がどんなに貴重なものか考えてごらんなさい。生きている間の時間全てに責任分担があるというのです。それで、良い所へ、良い所へと向かおうとするのです。分かりました? (「はい。」)

 “責任分担”という言葉が、どれほど貴重なものか! だから、そのままではいけません。必ず蕩減の道を行かなければなりません。私一人を犠牲にして、私一人が“為に生きる”しかないのです。そこに万事が思うようになっていくのです。どんなに複雑にもつれた金日成たちも解かれてくるのです。曲がりくねった道を誰が行こうとするの? 心は大道を行こうとして、格好良く行こうとするのです。その道のままについて行くのは難しいけれども、その道を行く足を、仕事を持続できる努力をしなければならないのですね。分かりました? 心と体の責任分担まで今話したのですから、忘れないようにしなさい。(「はい。」)

 晩餐前の韓鶴子夫人の祈祷

 「父の恨み多い曲折の路程の上に、この地上に真の父母を立てられ、その方を通して多くの祝福子女を許諾してくださいましたことに、真心から感謝申し上げます。又、きょうは、その人たちを通して生まれました二世たちの、初の第一回二十一日修練会を終えまして、きょう、この夕べは真の父母様をお迎えする中で、晩餐をするようになりました。この食卓の上に父よ! 親しく御一緒してくださいまして、その間、この人たちを教育するために、陰に陽に苦労したすべての人たちの心が父の御旨と一致いたしまして、美しい実を結ぶことができますように。そうして、将来の美しく、丈夫な統一家の柱となることができる、誇らしい息子・娘として抱いてくださいますことを合わせてお願い申し上げます。すべてのこと一切を、父が親しく主管してくださりながら、お導きくださいませ。父へ心より感謝申し上げながら、この夕べに真の御父母様の御名を通してお祈り致します。 アーメン」

 天国建設における重要な責任

 先生が霊界に行けば、大きな世界的な博物館に入るのですが、その時、君たちの名前が全部そこにあるようになれば、それが誇りです。その代わり、君たちには責任があるのです。君たちが父になり、将来後世の人たちが、特に君たちの後孫が見るとき、「私の父は第一回卒業生であったけれども、一体何になったのか?」と問うでしょう。これが一番問題です。父母がどのような父母になり、何を成した父母になったかということが問題なのです。君たちは二十代前後の若い少年少女たちなのですから、今から十年、三十五歳まで、それを標準として今、努力しなければなりません。

 御旨の中で誇れる道がどんな道かというと、神の国を建設することにおいて、重要な責任を果たすということなのです。天国建設において重要な責任とは何か? それは、経済問題でも、科学問題でもなくて、人を導いて、神の民に正しく育て、神の忠臣・烈女とする、そのような責任を全うすることです。それが何かというと、将来統一教会の指導者になるということです。それで、今後君たちのような多くの若者が専門分野を勉強するにしても、一生懸命しなければなりません。大学は勿論出なければならず、更に修士コースへ行かなければなりません。色々な専門分野を、自分の特技、素質に合うように選びなさい。そうした後、共通に神学を卒業しなければなりません。

 だから、専門修士学位を取得した後、神学大学で二年ないし三年学んで、卒業しなければなりません。そのようにしようとすれば、たとえば医学へ進んだ人は、八年間勉強してやっと医学者になりますが、そのような人も皆来て、神学を勉強しなければなりません。特に、三十六家庭を中心とした子女たちは、そのような過程を通らずには、第一回祝福子女修練会の参席者としての威信を立てることができないのです。

 それならば、将来統一教会がどのようになるかというと、世界を代表した一つの思想とか、あるいは、理想的な一つの内容を持って来たために、世界はどっちみち我々が行くこの道を行くようになります。共産主義もついて来る、民主主義もついてくるのです。そのような時代が遠くない将来に来るというのです。

 ここに参席した人は、将来どこへ行ったとしても、自己を紹介する場合に、先生が生きておられる時に、孝進君を中心として行なわれた第一次祝福家庭子女修練会の卒業生だというのです。参席者はいつもそれがついて回るのです。そのくらい、君たちは伝統を立てることにおいても模範にならなければなりません。それゆえに、家庭を持って生活するにしても、君たちのお母さん、お父さん以上に信仰生活の模範になって、すべての子女たちを育てるにおいても、徹頭徹尾このような思想を持って子女を育てなければなりません。先生が中心となって、この世的にみれば、つまりこの世の兄弟のようにみれば、君たちの父が二代で、君たちが三代です。一方、君たちの家庭を中心として見れば、君たちの父を中心として一代であり、その父とその次の息子と孫までが一つにならなければなりません。

 それで、先生と四代圏であるために、四代になって初めて三段階になるのです。三代階を作ろうとすれば、線を四本引かなければならないでしょう? この三段階を完成させるのです。そのために、四代まで完成させなければなりません。だから、私は今まで君たちのお父さんたちである三十六家庭に精誠を尽くして来たのです。これは、君たちのお母さん、お父さんたちがよく知っていることで、異議がないのです。先生を中心として神のために御旨をなすときも異議がないように、君たちの父母は、君たちに対しても同様の責任を果たさなければなりません。

 未来の世界の基盤作り

 今はどんなことをしなければならないかというと、君たちの父母、三十六家庭とか七十二家庭は、これは一つの歴史を代表した先祖と同じく、サタン世界を代表した、その世界から復帰された先祖たちにならなければなりません。復帰された先祖の中の先祖たちなのです。それで、この先祖が歩んで行った内容が伝統になるのです。

 そうして、今や父母様を中心として、どのくらい精誠を尽くして、忠誠を行なったかが問題になります。直接先生のためにすることよりも、外に出てどのくらい活動したかが問題なのです。社会へ影響を及ぼすような実績をどれくらいあげたかということが問題であるのです。そのため、あるいは君たちに対してはなおざりにしてきましたが、それはなおざりにしたのではなく、君たちのために今訓練をしているということなのです。そうして、世界を教育して、その世界教育を受けた人が君たちの囲いとなって保護をしてくれるのです。

 国家と国家が安息しようとすれば、世界的保護圏を持たなければなりません。世界的保護圏を持ってのみ、その一国家が安息できるのです。また、一つの民族が安息しようとすれば、その民族より大きい保護圏がなければなりません。大きあ保護圏を、民族以上の国家という保護圏を作っておいてのみ、一つの民族が安息できるのです。民族が安息しようとすれば、国家圏がなければならず、氏族が安息しようとすれば、民族的保護圏がなければなりません。このようになっているのです。

 それゆえに、一段階先立って、未来の世界の基盤を作るようにすることが、家庭のための基盤よりももっと重要なのです。そこに、カイン・アベルの問題を置いてみるときに、より大きい保護を受けるために、アベルを保護するためには、カインの保護圏が必要なのです。

 ところが、この保護圏がいつも怨讐になっているため、これをカインに教えてあげて、もとのようにして、そのすべてのものを、風土を造成することにおいて、これをまず選ばれた父母たちがしなければならないのです。先生は父母を中心としてこれを行ない、先生を保護できる三十六家庭保護圏を作ったために、先生の息子・娘がここから出ても、喧嘩せずに保護を受けるのです。分かりましたか? そのように、漸進的に次元を高めて、世界圏を作るようになれば、天と地が保護圏となって初めて世界が安息できるのです。

 では、先生は今何をしなければならないのでしょうか? 世界的保護圏を作らなければならないというのです。それゆえに、霊界と地上世界を連結させて、この霊界のすべての霊人体たちが地上の国々を保護できる基盤を作らずしては、地上に安息圏が生まれないというのです。

 それゆえに、このたび興進君が霊界に行くことによって、そのように連結させるのです。霊界と連結させて愛天日を作り、また愛勝日を作るという、これらすべてのことが、そのような意味の中で連結されるため、一段階大きい保護圏を作って、世界が安息できる霊界圏を作って行かなければなりません。

 霊界の保護圏というのは、地獄、すなわちこれは完全に讒訴圏であるために、地獄と地上世界がカイン・アベル圏になっているというのです。そうすると、地上世界がアベルであるならば、地獄を破壊してしまうのではなく、地獄を救ってあげる責任があるのですね。ところが、今まで救おうとしても救うことがてきなかったのです。

 しかし、世界的なこの摂理時代、世界的安息圏を立てるこのような時代において、天宙圏を中心として、これを保護できる基盤を作ることにおいて、このたび地上から興進君が行くことによって、天上世界は勿論のこと、本当に地獄世界まで道を開くのです。結婚できる道を開くのです。自分の主人が地獄に行ったら、妻は昔の地上心情圏を中心としてそれが連結されるのです。そのために、興進君が行かなければならないというのです。

 それで、天上世界では地獄と善なる世界が連結されて、保護する一つの統一圏が生まれてくるのです。それが地上と連結されると、地上のサタン世界も崩れ始めるというのですね。そのような地上世界が安息して、天宙的保護圏を成就しなければならないというのです。

 それと同じように、君たちが今まで過ごしてきた中で、よその家の子供たちのようにお母さん、お父さんの愛を受けることができなかったということが、なるほどと認められるのです。原理を知ってみるときに、カイン・アベル問題を中心として、君たちが安息できる一つの保護圏を父母が作ってあげることが、息子・娘を抱いて愛することよりも素晴らしいというのです。たとえどんなに父母の愛を受けたとしても、その息子・娘たちが保護圏を開拓することはできないというのです。開拓しても駄目なのです。父がカインの立場に立てば、息子・娘はアベルの立場に立ちますが、外的なサタン世界が侵犯してくることに対して、アベルのために、天の側のカイン的立場で防いであげるための努力をすることが、父母たちが外へ出て闘う役割なのです。

 共同の運命の下に

 では、君たちは寂しいけれど、誰と一つにならなければならないのですか? 兄弟同士が一つにならなければなりません。では、その兄弟というのは三十六家庭が皆同じ運命だというのです。全員が今まで苦労しても、苦しく難しいことを皆経てきました。それは困難なようになっているのです。そのようになればなるほど、君たちがここでお互いに門族を批評するのではなく、一つにならなければなりません。三十六家庭と七十二家庭、一二四家庭と四三〇家庭、これらは国家まで解放できる家庭的代表たちであるために、ここで一つにならなければなりません。それは共同の運命にあります。

 それで、檀紀四三〇〇年になれば、その年が四三〇家庭が祝福を受ける時なのです。四三〇家庭は大韓民国のすべての氏族を代表して入ってきたものです。親戚関係の母の里とか、父方の伯父・伯母とか、全部が連結されていくのです。分かりますか? 各系各姓が全部四三〇家庭に連結されるというのです。そこにはどんな人たちが入っているかといえば、全部が入っているのです。前科者も入っていて、入らない人がいないのです。芸者の息子も入って、ありとあらゆる種類の人が皆入ったのです。歴史的に見れば、本当に許すことができない罪を犯した、そんな人も入っているというのです。それは何かと言えば、大韓民国全国民が四三〇〇年の間生きてきながら、罪を犯して、天の前に立つことができないような人にもすべて道を開いて、全部に紐を付けて、かけ橋となるのです。

 そのようになることによって、大韓民国が少しでも天と連結され、生きる道が開かれるのです。そのような基盤が成就されたので、その次に七七七家庭が生まれるのです。これは国家的次元で越えて行くのですね。それで世界的な版図を経て、その次には一八〇〇双を祝福しました。十八数は六数の三倍、六数はサタン数ですが、サタン数を三倍した一八〇〇双ということです。これが何かと言うと、サタンのすべての家庭たちが反対した最後の公約なのです。

 一八〇〇双以降から今まで、アメリカにおける二〇七五家庭、韓国における六〇〇〇家庭、全部合わせて八〇〇〇家庭。これらの数は再出発を意味するのです。七数を越えて八数を越えたこのような数を中心として、世界すべての国、一二〇国家全部の因縁が結ばれ、数は全部満たされなくとも、血統がすべて連結されているというのです。こうして、世界的なすべての家庭を天の前に導いていくので、家庭が全部入ってきました。それで反対が始まったのです。
 アメリカが歓迎しますか? できなかったというのです。分かりますか? しかし、アメリカ自体でみれば、他人の話を聞いて、結婚した若い青年男女たちがいつどこにいますか? 全部フリーセックスを口にし、デートを学校で教え、父母が奨励する時局ですから、結婚は自分たちがするようになっているとしても、ある教会責任者か結婚させてくれるというようなことは夢にも思わないのです。夢には思えない社会において、このようなことを成したということが、アメリカ社会に混乱状態を起こすようになり、家庭破綻をもたらすような神学を見てきた家庭の父母たちにとっては希望を与えたのです。

 ですから、「うちの息子・娘もムーニーになるように祝福してください。」と言う風潮が遠からず起こるようになるというのです。そのようになれば、二十一日修練、四十日修練、一二〇日修練が何カ月間に一度に全部できるのです。六カ月コースだけするようになれば、完全に思想武装した人を作れるのです。そのようになれば、六カ月だけで結婚できる資格がすべてできるのです。その代わり、外へ出て闘わなければなりません。六カ月たけで結婚できる資格がすべてできるのです。その代わり、外へ出て闘わなければなりません。結婚して、外へ出て闘いなさい。結婚して、荷物を風呂敷に包んで出て行くことができるのです。そのようなことが可能なのですね。そうなれば、これは世界的です。それで、男たちはその時になって希望に胸を弾ませなければならないというのですね。

 神の人としての資格

 そうなる時には、すべてを備えて、知的な面やすべての信仰的経歴や、社会活動の経歴から見て最上となれる立場に立つようになるならば、その影響はいかに大きいでしょうか。それだから、君たちが専門分野の修士学位を持てば、自分一人で、どんな社会に行っても食べていくことができます。自分が自立して、生活対策を立てながら、将来において天の民を育てることができるようになろうとするならば、それは、自分の専門分野の教育を受けて、自己の生計を図るために努力する人よりも、二倍の努力をしなければなりません。

 では、価値的に見るとき、どちらが重要かといえば、二倍の努力をする方が良いでしょう?食口たちの世話にならずに、食口たちが生きることのできる基盤を、将来助けてあげられる基盤を磨くのです。私が今訓練されたその基盤を中心とすれば、将来の教会を中心とするその組織の活動に責任持った牧師たちが教会の世話になってはいけないのです。既に政治がどうであり、その国の経済問題がどうであり、その国の社会問題がどうであり、文化問題がどうだという評価ができるそのような水準に高まっているゆえに、その国の指導者が全部我々と一緒に議論をしなければなりません。そのような人にならなくては、神に代わりうる地上のすべての指導者になることができません。政治・経済・文化面を指導できてこそ、これが神の人としての資格者となるのです。分かりますか?

 だから、勉強を一生懸命しなければなりません。君たち全部がそのように考えなければなりません。頭にねじり鉢巻(はちまき)をして、博士コースであっても、理想があれば勉強しなさい! このような信仰の道を歩むのです。こうしておいて、各自自立をしなければなりません。医者をしたり、自分の専門分野をしながら全部、我々が出て行って教会を肩代わりできる責任者を作っておかなければなりません。分かりますか? それで、この同窓生たちは、全部我々の神学校出身者にしようと思います。

 だから、将来の指導者は、経済問題だけを取り扱う指導者が重要な人なのではありません。政治問題や社会科学問題でもありません。必ず、将来統一思想を完全に解決して、神の人として、新しい思想を中心として教えてあげて、教育できる指導者が中心となるということを知らなければなりません。将来このような人たちは、上院・下院制度が出来る時、上院要員になるのであり、それ以外のすべての人たちは下院の要員になるのです。下院で通過しても、上院でいくらでも否決できる権限があります。上院で通過した基準は、下院で否決できません。そのような時代を心情政治時代に入ったというのです。

 ですから、哲学を勉強できなければ、あるいは神学を勉強できないと駄目なのです。将来の哲学や神学を正確に見るのが統一思想であり、統一教会の神学なのです。膨大な内容です。これには、生活、家庭、社会、制度化等の根本問題がすべて入っています。それで、霊界の組織と同じような組織を、代わりに地上に編成して訓練して、その国に行って活動力を即時に発揮して、次元の高い指導者になるのです。千年先祖たち、万年先祖たちを全部我々がコーチして、神の懐(ふところ)で指導しなければなりません。その責任を持つには、ここで訓練を受けていかなければなりません。

 後代の歴史の旗手として

 ですから、時間がありません! 今、好きなように出て歩き廻ってはいけないというのです。先生もそうでした。先生も一日中歩き廻りながら、最後まで、家に帰って来るまで座りませんでした。そのような性格です。早朝に出て行って、座りもせず、昼御飯も持って歩きながら食べたりもしました。座って食べなかったというのです。そのように歩き廻ったのです。それは、知らないこと、学ぶことが多く、見ることが多かったからです。

 けれども、御旨を知ったり、御旨を伝えたりするときは、二十四時間座ってしなければならない。二十四時間、十九時間、十七時間以上もするのです。普通、七時間以上祈祷して、精誠を尽くしたのです。そのような努力をしました。先生は、原理内容をそのようにして捜したのです。しかし、君たちはそういう祈祷をする必要がありません。今や君たちはこのような膨大な内容賜りましたから、今からは実際活動として、先生が指示する以上努力すれば、先生が努力した代価として、創造における創造物としての祝福を受けるのです。神が創造理想を持って創造物を作られたその創造理想構想は易しいものではありません。大まかな計算でできたものではありません。具体的な内容を提示して、実際に顕現できる時までは、神のすべての構想的内容を投入して、力と精誠を投入したのです。そのように、君たちは先生が練習しておきました。すべての構想的内容が全部分かったのですから、実体は、実体的内容を現わせるよう活動すれば良いのです。

 だから、将来他人の世話を受けないためには、生活していくことにおいて全部が自立できなければなりません。昔と違うのです。イスラエル民族の十二支派のレビ族は、全部が十一条(註・十分の一献金)をもらって生活しましたが、それは今まで神が選んだ民族を聖別するための歴史だったからです。しかし、今や選ばれた民族が生活できる歴史とするためには、経済問題を解決できなければなりません。分かりました? ですから、ここに参席した君たちは特別責任が重いのです。

 だから、君たちのお父さん、お母さんが訓練を受けた以上に、色々な訓練を受けなけれはなりません。サタンはそうしなければ退かないからです。敵に勝つことは情報戦争です。情報に負けては駄目です。言論戦や思想戦において、三大戦争をしているのです。思想戦に負けてはいけないので、思想武装をしなければなりません。そのために君たちを前面に立てなければなりません。その道を行くのは仕方がないのです。君たちの父母が御旨のために命懸けの歩みを願ったように、君たちもその子孫もそのような伝統を立てねばなりません。そのために、君たちのお母さん、お父さんの父母たちの中には信じられなかった人がいたし、反対する親戚もいました。しかし、君たちはそうではありません。お母さん、お父さんを中心として三十六家庭が親戚です。三十六家庭が親戚でしょう? 他の人が親戚ではないのです。一つの枝と同じ立場で一つになって、協同して、ここで完全に一つにならなければなりません。

 特に三十六家庭、七十二家庭、一二〇家庭が完全に一つにならなければなりません。四三〇家庭は横的で、三十六家庭、七十二家庭、一二〇家庭は縦的です。縦的三段階です。このようにして三段階を立てておくのです。特に四三〇家庭は、四方を代表するのです。四方を代表した横的な代表、国家全体を総合して国家全体の中心として祖先を代表して、先祖が再臨して、その後孫が一つに束ねて立てたのと同じ立場が四三〇家庭です。そうであるために、三十六家庭が伝統を立てねばなりません。それで伝統を立てるために、三十六家庭、七十二家庭、一二〇家庭、四三〇家庭のお父さん、お母さんたちは皆忙しく、自分の子供たちを面倒見ることができなかったのです。国を救って、世界の蕩減路程を開拓するために、そのような時間がありませんでした。子供たちを放ってまで歩き廻らなければならないのに、どうして横的関係を結ぶことができたでしょうか。できなかったのです。

 今に至るまで、皆さんの父母、三十六家庭、七十二家庭、一二〇家庭はお互いに忙しく、今も一部過重な責任を負っています。それで、君たちを一つにしてあげることができません。そしてまた、君たちの父母ではどんなにしてもできないことがあります。だから、それは私が責任を持ちます。私が二世まで教育するのです。それで今回、(このようにして)教育したということを知らなければなりません。ですから、ここに名前がある人は、後代の歴史の旗手のような立場に立ちますから、批判を受ける皆さんになってはいけません。分かるでしょう。

 勉強も一生懸命しなさい! 今すぐに必要なものだけでなく、十年、二十年後を見なさい。世の中がどのようになるかを。また、今できるならば、九〇年度までに韓国語を勉強しなさい! その時になれば、間違いなく通訳を使いません。「私は分かりません。」と言っては駄目です。それで、一つの文化圏としてこれをつかまえるためには、一つの言語を探さなければ、一つの文化圏の本質的な文化編成が不可能です。だから、君たちが韓国語を知らなかったら、それは恥ずかしいことです。何のことか分かりましたか? (「はい。」)

 完全な一体化

 君たちは今まで一つになることができませんでした。しかし、君たちも分別のつく年頃になったから、ここで君たちが一つにならなければならないのです。私が血と汗を流して祝福し、私のもとで生まれた君たちです。それは、一つの決意した先祖のもとで生まれただけに、君たちの時代は順序が違います。完全に一つになることができるのです。また、そのような世界的な基盤をすべて築いてきたのです。これからどこへ行ったとしても、統一教会以上の基盤はないと見ています。

 それならば、人間が願うのは何ですか? 最大の成功を願い、最大の出世を願います。そこで、最大の出世というのは何かというと、神様の息子・娘になって、天国のお姫様・王女になることです。王子になることができるところを探して行くことです。その次には、王子の嫁となり、婿となることです。それ以上の恵みの道がどこにありましょうか? そのようなことがなければならないでしょう。

 太陽を見ても、過去の父母や、君たちの祖先たちが見たのとは違って、神様が創造して眺められていた心情で太陽を感じるようにしなければなりません。きょうの話のように、万物にもそのように感じなければならないし、自然に対するときも、そのように愛さなければなりません。種族が違うのです。種が違うから理想を持つのです。違うからサタン世界が迫害するのです。

 しかし、君たちが迫害を千年、万年受けるのではありません。どんなに受けても、千年までは行かないのです。私の主張は、迫害を経て千年、万年打たれることです。先生は、そのような思想がなかったならば、いつ流れて行ったか分からないでしょう。暴風波を独(ひと)りで責任を持って、戦ってきました。君たちは恐らく流されて行ったでしょう。私は天の人として、君たちの後孫たちが、祖先たちが間違っていたことを悔い改めるようになっているのであって、私が間違っていたと悔い改めるようになっているでしょうか?

 そうなったならば、そのような世界の前に君たちは総収拾して、統一の役軍として旗手にならなければなりません。二世たち、分かりましたか? そのために十字架を背負わなければならないのです。君たちは今二つの世界に住んているのですよ。世の中を見てみると、ムーニーよりももっと良い世界がアメリカにあるように思うでしょうが、来てみたら、それは流れて過ぎ去って行く世界です。それは、俳優と同じように、舞台に出て踊りの役を踊り終わって、帰る時は悲惨な所に行くのです。

 我々は今まで見学していたけれども、君たちをコントロールして、君たちの生死禍福を主管できる立場にいるのです。だから、違うのです。それゆえに、自負心を持ちなさい。迫害よ、来い! 困難よ、来い! 我々は一つにならなければなりません。

 こんな意味で、第一次修練会をする人たちは恵みがあります。第二次修練会がどんなに劇的だと言っても、一次の人たちには何も言えないのです。ですから、先生からこのような牌(はい)をそらったことは、将来宝物になるだけにありがたいけれども、先生から聞いたきょうのこの言葉を肝に銘じて、この次に博物館に行って見た時には、「先生がこのようなみ言葉を語ってくださったのだ!」と思い出すことでしょう。

 これを分かった我々としては、どのような苦難があろうとも、一つになれる決心を固めたごとく、先生の言葉を肝に命じなさい。君たちが牌の言葉を見るときに、それを訓示にして、君たちは献身することのできる真の夫婦にならなければなりません。

 これから、先生を中心とした伝統を立てるというのです。皆さんの父母たちは伝統を立てられなかったのです。先程も話しましたが、カイン・アベル問題から見るとき、君たちはカインの立場になり、先生の息子・娘たちはアベルの立場にあるから、完全に一つにならなければなりません。これが闘争的カイン・アベルではなく、順理的カイン・アベルの立場に立って、天が長子になり、君たちは次子の立場で順理基準に立つのです。(先生は今までは)外的なことを収拾できなかったので、収捨できないままに、子女を愛したらひっかかるのです。しかし、今時が来ました。先生は天の世界を、愛天日までみんな作っておいたのです。結果主管圏内と直接主管圏内において、真の父母様の愛を中心として連結された興進様まで霊界に送って、薫淑との地上の関係を結ぶことのできる基盤があるために、霊界と通じることのできる世界になりました。だから、神様との掛け橋が置かれるようになったというのです。

 そのような重要な期間において、今国家次元で、世界代表国家アメリカを中心として越えようとしているこの時代に、十日間、君たちの父母がいない中、君たちだけここにあって、完全に一つにならなければなりません。伝統を胸に秘めて、新しいこのような伝統を受け継いで行かなければならないということを知って、個人的行動をする時ではありません。

 君たちもここに同席して、父母たちの心情の流れを受け継いで、骨の髄に染み通った、そういう立場に立って、天地に自負心を持って決意しなさい! すべて、イースト・ガーデン、あるいはベルベディアで、一緒に過ごしながら、祈祷しながら……。今回は、このように過ごさなければならないのです。

 父母様の前に、昔のペテロと弟子たちのように、逃げて行った姿になるのではなく、「死の道を進んで、私が代わりに行きます!」と言う決意をする時間です。そのような決意を中心として、一つになる決意をしましょう!



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.12.01 19:50:34
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