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奇  知  外  記

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2021.05.08
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カテゴリ:天の父母様聖会
神統一韓国のためのTHINK TANK 2022 出帆希望前進大会
日時 : 2021年5月9日午前9時30分
場所 : 清心平和ワールドセンターおよび全世界オンライン生中継
中継 : 韓国語、日本語、英語、スペイン語、フランス語、中国語






一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.05.08 23:32:57
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2021.05.06
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「蕩減が行く道」

 一九六七年六月四日(日)前本部教会


 この場は皆さんの立場では何にも分からないでしょうが、先生の立場から見れば優劣をつける場なのです。どんなに我々がこの場において、復帰摂理を成し、神のみ旨を成してさしあげるとしても、このみ旨が世の中に広がらなければ何の役にも立たないのです。

 先生は今まで反対される道を歩んで来ました。反対をされるのは反対されたのですが、それは世界的なものだったのです。しかしこれからは反対する人々に、反対するその内容をもって反対せよと言えるです。このように反対される立場で成した実績は、真のものとして天国の倉庫に積まれているのであって、これを取り出して万民に分けてあげるとき、それは万民が感謝の心で涙を流して受け取る、貴い礼物となるのです。


 蕩減復帰のみ旨

 皆さんは「蕩減復帰」という言葉を学びました。蕩減復帰ということは、小さな条件を通して大きなことを蕩減することです。例をあげれば、百人を許してあげるために、一人が代身にしてサタンに打たれる場にあっても不平不満をいわず、ただ神を思慕して心には天国を抱いてその場に当たる人がいるなら、その善なる一人の人間が打たれる代価として百人の罪が蕩減されるのです。

 蕩減の場に立つ人間は、周囲が追い詰めるなかにあっても天国を慕い、神を思慕して、死ぬも天、生きる天、生まれたのも天のため、生きるのも天のためという心を持たねばなりません。天から出発して天の過程を経て、天が終着点になるのです。こんな場を担って越えて行くことによって、百人の罪が許されるのです。即ち、人間百人の代表として一人を立て、彼が百人の代身に打たれて百人が打たれるこを許され、悪なる場から善の場へ帰ってゆくのが蕩減復帰だというのです。何の話か、分かりますか?

 それでは蕩減復帰歴史というものを、何によって知ることができるでしょうか? 神の摂理を見ても知ることができるのです。人類歴史は蕩減復帰歴史だったのです。ですから先生もここにいる真の人、四、五人のみを中心にしていけばいいのです。この言葉に異議がありますか?

 先生は今までこんな生活をしてきたのです。もしも先生が日本に行ったなら、地方では夜通し待って電話なり何なりして「自分がこの恩賜を千回万回お返ししますから、ただ手紙の一本でも下さい」と頼むのです。これは先生が願わないことですが、地方からこんな連絡が来るのです。これは本部でも知らない事実です。

 今度の期間はどんな期間か? 蕩減復帰の期間です。また今回の期間は伝道の期間でもあるのです。伝道の期間として出発する目的がどこにあるかといえば、先生が世界四〇か国を中心に、その三倍の一二〇以上の聖地を選んで決めておいたからです。これは地と因縁を結ぶべき関係にあるのです。先生は蕩減復帰のために三年間たくさんのことを考え、いろんな事をしてきたのです。

 人類歴史には、良い事と悪い事が反復しているのです。良い世界が成ってもこれが永続しないで、ある期間が過ぎると悪い時節があるのです。そして蕩減するときにおいても、必ず当てはまるのです。

 人間はある重要な事や、重大な問題が生じるなら、これをまえに誠精を尽くすのです。また自分がある目的を定めておいて、これを成すためにも誠精を尽くすのです。百日祈祷やら何かの祈祷だといって、誠精を尽くすのです。特に宗教を信じる信仰者たちは熱心に誠精を尽くすのです。それではなぜ誠精を尽くすのか? それは蕩減するためです。


 誠精と蕩減

 皆さんがこれからすべき重要事が、サタンに侵犯されてはいけません。あるいは選ばれた人が放棄されてはなりません。そのためには、その前に罪悪の要素を除くための蕩減を甘受する立場で、すべての悪の要素を蕩減しておかなければなりません。

 ですから誠精を尽くさなければなりません。誠精を尽くすにおいて、食べて眠て着ることを、そのまましていたら駄目なのです。誠精とは食べるものをみな食べ、眠りたいだけ眠って、着るものはみな着るそんな場においては、絶対にできることではないのです。ですからある重大事を前にしたら、必ず神と自分が談判する闘いをするのです。予め打たれるのです。神が打たれないなら、自分が率先してでも予め打たれるのです。打たれたらどうなるか? 神の相対になるのです。これが神がしてこられた、復帰摂理の法則です。

 こんな観点から見るとき、先生はこの期間を特別な期間と考え、できることなら聖地も一定の期間内に巡回しなければならないと考えるのです。それ以外のことは考えません。先生が工場に何度か立ち寄っても、そんな時にも心では我々が行く道のために、先生がすべきことが何であるかを考えるのです。その上外国の食口たちは我々の国に対して、大きな期待をかけているのです。ところが韓国人はこれを知らないのです。彼らは我々本部教会の食口たちを、想像できないほど高く考えているのです。彼らが想像できる最高の存在と考えているのです。

 彼らがどれほどまでに考えているかというと、先生は階段を雲に乗って上がったり下がったりするものと思っているのです。また先生がごはんを食べるときも、ハシでは食べないものと考えているかと思えば、トイレにも行かないと考えるのです。彼らがみ旨を知ると、最高の基準で韓国と先生を考えるのです。先生は彼らを見れば、顔がおもはゆいのです。どうしてこんな話をするのか、彼らの話を聞けば顔がおもはゆく、心がおもはゆいのです。どこに、世の中にこんな話がありますか? だから皆さんは彼ら以上に誠精を尽くさなければなりません。彼らは献金や礼物を捧げるときにも、何十回も祈祷して捧げるのです。

 我々食口たちは必ずこれを知らねばなりません。誠精を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対したら、その誠精を込めた礼物に審判されるという事実を、よくよく知らねばなりません。

 君王も自身の処身を誤ったら、即ち誠精を尽くす人間をいい加減に扱ったら滅んでしまうのです。またその君王に従う同僚たちも、その人間に反対したら天の逆族として追われるのです。ですから先生はそのように誠精を尽くす人に、やたらと接しないのです。それでこの期間に、暇のある限り聖地を回ろうと思います。

 その次には何をするのでしょうか? 過去に神様が先生に対してなされた、すべての事を振り返って反省するのです。自分がある事情に処しているとき、神が私を呼ばれて協助されたその恩賜を、彼らにも分けてあげようというのです。今日ここに集まっている数多くの食口たちが、育ってきた過程は千態万象です。出発から、これから天国の門に連結されるときまで、すべてが異なる道をゆくのです。

 このような人々を心情によって連結させるために、先生は今まで蕩減復帰の道を歩んできたのです。かように神が協助された心情の因縁を、彼らに連結させていって、彼らを神のまえに奉献しなければならない責任があるので、先生はこの期間に聖地を巡回しているのです。今回に特別に集会をしたのも、やはりこの趣旨からなのです。

 今先生は皆さんに対する時、昔の統一教会の食口という気分で対したくはないのです。どのようにしたら新しい気分で、皆さんに対することができるかを考えているのです。それで今回の集会の期間に、どうしたら皆さんと共に神が下された新しい使命と目的を中心に、新しい心情と新しこ義の法度を討議して、互いに一つになってゆく新しい心情を誘発させるかということが、今回に先生が考えたことの中で最も重要なことです。

 それで今回の期間に、皆さんが統一教会の草創期の時から入ってきて、神を信じて侍ってきて生活した全般的な状況を、全部発表しようというのです。であれば皆さんは信仰告白というか、証しを通して、今まで聞いたことのなかった多くの事由を聞くことができるのです。

 それらが何でしょうか? それはただ流れ去るものではありません。皆さんはこんな事由があったという、事実さえも知らないのです。しかし神様は復帰路程におきまして、きっとこのような事由を中心にして、蕩減復帰をさせるべき責任があるということです。実際その人は知らなくとも、神が公式的にこの責任を追求する立場で、彼らのまえにこんな事由を与えられたという事実を知らねばなりません。それゆえ皆さんはこれらの事由によって、蕩減歴史が発展していったという事実を知るのです。


 日本食口たちよりもさらに誠精を尽くせ

 先生が今最も心配することが何かというと、皆さんの心情が日本の食口たちの懇切な心情に後れをとってはならないということです。これが問題です。

 皆さんは寂しい場で喘ぐとしても神の心情を占め、あの世の天軍天使にも負けないという高い心情で、この国この民族を哀れみの心で治めなければなりません。これがあれこれと出入りするお客さんみたいに、習慣的に集会に参席して神のまえに恥ずかしい条件を残してはなりません。また韓国人のまえに日本人は民族的な怨讐です。ですから神の民として神のまえに忠誠をなして、み旨に対するその歩みが常に彼らよりも優れた基準を保ち、彼らよりもより勝ることを願うのが、先生の願望なのです。

 我々が彼らよりも劣る場にいることを見やるときの、先生の心情がどうでしょうか? 水が逆流するのと同じことです。皆さんの心的基準と、すべてのことを蕩減してゆく彼らの心的基準を比較して見るとき、ここに格段の差があることを先生は知るのです。それで皆さんが大学に行くことを制裁するという結論がでることを、皆さんは理解しなければなりません。何の話か、理解ができますか? 今日初めて来た人がいれば良く理解できないことです。しかし説明を聞くなら分かるのです。このように皆さんが新しい希望を日本の食口たちに与え、誇って見せてあげられる心的基準が成っているかが、先生の最も大きな心配なのです。だからといって日本人にサタンの業をやれというのではありません。それはなりません。

 天が見渡すとき、心情を尽くして誠精を込めるにおいて、韓国食口たちが日本の食口たちに負けていいでしょうか? また、じっと座って「負けてはならない。私は天国を成すのだ。私は神の息子・娘だからきっとやりとげる」と言うだけでいいでしょうか? 駄目です。絶対に駄目です。皆さん、やりとげる自信がありますか? ありませんか?(自信あります)自信があればやってみるのです。それで先生が今回の世界巡回を終えて帰ってきたら、神のまえに証しされるという自信のある人は、出迎えることを望みます。

 それでは蕩減復帰という名詞が、なぜ重要でしょうか? 我々統一教会では蕩減復帰という言葉をよく使います。この言葉が必要になった理由は、人間が堕落したからです。堕落によって我々は本然の道を行きたくても、思うままに行けなくなってしまったのです。神によって創られたので、神を捜し求めたくない人間がどこにいるでしょうか? この道は老若男女、古今東西を問わず、歴史上に去来したいかなる人間もすべてが慕って行きたかったのですが、思いのままに行くことができなかったのです。

 この道を行くときには、必ず条件を立てて行かねばなりません。蕩減の道を行くためには、条件という橋をかけて行くのです。


 蕩減条件を立てるにおいての中心-神様

 神を失った人間の所望は、神を失う前の本然の世界に戻ることです。これは誰もが望むことです。また本然の創造理想世界を与えるために人間を創られた神の所望も、やはり人間と相会うことなのです。このように人間と神が相会う場が永遠の本然の世界なのです。ですから神は人間を捜し求め、人間は神を捜し求めなければならないのです。即ち、神は人間を求めて下って来て、人間は神を求めて上がって行かなければらないのです。上がるには、そのままでは上がれません。ここには必ず、契約条件が成立しなければなりません。神が人間を求めるためにも、人間が神を求めるためにも、ここに必ず契約がなければならないのです。

 それでは契約は誰とするのか? また契約するときは何を必要とするのか? 契約するときは必ず条件を必要とすることを、皆さんは忘れてはなりません。

 人間は必ず復帰しなければなりません。堕落によって本然の世界から落ちてしまったので、蕩減復帰して本然の世界に帰らなければなりません。ところで帰るときは自分勝手に行くことはできません。皆さん自身が勝手に帰ることはできないのです。この道を行くには、必ず蕩減条件が必要なのです。それでは蕩減条件が何か? 契約を履行するときに必要なものです。ところで自分独りだけで「自分がここに一つの条件を立てたので、皆さんがここに千年の間いれば、すべてが天国に行く」とすればこれが蕩減条件として成立するでしょうか? しないのです。

 それではこの条件を立てるにおいて、根本中心が何であるか? 神様です。その次には人間を堕落させたサタンと、堕落していない人間です。堕落した人間は蕩減条件を立てることができません。堕落した人間は堕落条件を立てる資格がないので、絶対に条件を立てられないのです。神もおられサタンもいるので、堕落していない人間でなくては蕩減条件を立てることができないのです。これを皆さんははっきりと知らねばなりません。

 それでは人間が堕落することによって、どの程度まで落ちたのか? 高いといえば神の宝座から、地獄のどん底まで落ちてしまったのです。それゆえこの過程を再び復帰して上がらなければならないのです。復帰の道がどんなに遠く、復帰の峠がどんなに険しいかといえば、これは今日の人の世において、困難きわまる剣山峻嶺のようなものです。高いといえばヒマラヤの山が問題ではなく、深いといえば太平洋の海底が問題ではありません。我々が想像もできないほどに高い分水嶺があり、限り無く深いというのです。このように人間は堕落によって、誰もがあえて越えることもできず、入り込むこともできないほどに深いところに落ちてしまったのです。

 これを何によって推し量ることができるのか? 広大無辺なる全天宙を創造された神は人間祖先の堕落によって彼らを失ってしまったので、彼らを再び捜し求めなければ、彼らが本然の基準に戻ることができないのです。彼らが本然の基準へと戻ることがなければ、神の本来の心が発動されず、その本来の心の発動がなければ、神の本来の理想を成すことができないのです。ですから神は今まで本然の基準にまで上がってくる一人の人間を、捜し求めて来られたのです。

 この人間がどれほど歩んで来たのか? 今まで聖書上に現れた歴史を見渡してみるとき六千年という期間があったのです。しかし未だにこれを復帰させることができなかったのです。これはどれほど深く落ち込んだ人間でしょうか? 能力ある神様が六千年というものを捜し求めて来られても、未だにその一人を見出すことができないのです。

 それではなぜ捜し求めることができないのか? 能力がなくてそうだというのではありません。それでは今まで救援摂理歴史路程において、このように能力のある神様が、なぜ数多くの善なる人々を犠牲にして、神の為に忠誠を尽くした人々が蔑視と冷遇を受けて、悔しくも追われ追いつめられる場にあっても彼らをそのまま押し立て、また死の道であっても行くという心情で感謝した彼らに、なぜ同情されなかったのか? そのようにするしかなかった神の内的な事由が何であったのか? これは蕩減条件という問題が懸かっているからなのです。この条件はサタンも公認し、神からも公認を受けなければならないのです。また人間も、堕落しない人間から公認を受けなければ、この条件を越えることができないのす。


 蕩減の方法

 今日統一教会員たちは蕩減条件という言葉を学んでいます。皆さんは蕩減条件という言葉を漠然と使っているのですが、事実を分析して蕩減条件とは何をいい、またこれはどういうときに成立するかを知らねばなりません。皆さんがある蕩減条件を立てたとしても、これがきっと成立すると考えたら駄目です。こんな愚かな人間は蕩減条件を絶対に立てられません。こんな話を聞いたら大変でしょう? そのようでは復帰できないのです。蕩減条件は、神とサタンと人間との間に立てられるものです。

 それでは皆さんは蕩減条件を立てることができますか? できないの?(できません)できなければ救援を受けるの? 受けられないの?(受けられません)それではなにゆえに統一教会を信じるの? えらいことになりました。

​ それでは今日堕落した人間は、蕩減条件をどのように立てなければならないか? 蕩減条件を中心に接ぎ木しなければなりません。人間は堕落することによって息子の場を失って、神から遠い距離に落ちてしまったのです。僕の僕の場にも立てないのです。またサタンの支配下で億千万世、心を支えることができない惨めな人間になってしまったのです。こんな人間を神が蕩減復帰して来られたので、復帰歴史過程がどこまでも続いたのです。これは一、二時間でできることではありません。必ず天地創造の原理法度によって、再び逆に上がって来なければならないのです。​

 人間が堕落によってどの程度にまで落ちたのか? 神の僕にもなれない場まで落ちてしまったのです。本来、人間は何によって生まれたのか? 神によって生まれたのです。本来は赤子として生まれ、成長過程を経て完成すれば、神に侍る実体として神の体にならなければならないのです。

 それでは神は何ゆえに人を創ったのか? 相対的な関係を結ぶためです。愛は相対を必要とするので、この愛を成立させるためには、互いが相対的な位置に立たなければならないのです。このように愛を成すためには必ず相対的な基準を必要とするので、神はアダムとエバを神の体として創られたのです。

 それゆえ彼らが神の体となるときまで、父の愛を受けて育たなければならないのです。赤子のような過程を経た後に、息子の過程を経て、神と一体となった場まで行かねばなりません。そしてここにおいて、アダムとエバが一つとなった後に、夫婦となって子女を繁殖することによって、その子女もやはり神の息子・娘になるのです。アダムとエバから生まれた子女が神の息子・娘なのです。そうではないでしょうか? だから神は私たちの父であり、私たちは神の息子・娘であるというのです。

 もしも人間が堕落しないで完成したなら

 もしもアダムとエバが完成したらどのようになったでしょうか? 彼らが完成して祝福を受けることができる段階に入ったなら、即ち男・女として完全に成熟したなら、どのようになったでしょうか? 一つの愛を中心にして、満宇宙の母体的な結合を成すのです。これが成ることによって神と一体となり、この宇宙、天地創造圏内において神と人間が初めて一つの出発を始めるのです。その出発点が何か? 愛です、愛。本来、出発は愛から始まるべきなのです。それではその愛はどんな愛なのか? まさに神の愛なのです。

 このようになるべき人間が堕落したのです。本来はこの出発の原点が神の愛から出発して、人間のすべての生涯が出発し、ここに血族が生まれなければならなかったのです。ところがこの出発の時期を、サタンが強奪してしまったのです。

 今日の既成教会には、惜しむものが何もありません。彼らに善悪の実が何かと問うてみれば、これが指折り数えるような答えなのです。「それを私が知るものか、神がそうだというからそうであって。神が嘘の話されるか? 善悪の実は善悪の実でしょうが」こんな調子なのです。言葉ではいかにも簡単で良いでしょう? ところがどんなに意地悪な神様でも、善悪の実を造っておいて、取って食べて自分の息子・娘を滅ぼしてしまうような、そんな神様がどこにいるでしょうか? だから我々を見て邪教だ異端だというのです。

 しかし人間は善悪の実を取って食べて堕落したのです。この世界人類は元来、本然の血筋を通して生まれなければならないのに、不倫の愛によってサタン悪魔の血筋を通して繁殖してしまったのです。

 それでは皆さんは誰の血族でしょうか? サタンの血族です。世界でどんなに立派だと大きなことを言う人も、全部がサタンの血族なのです。サタンの血筋を受け継ぐサタンの雛たちなのです。雛が何でしょうか? 息子・娘です。

 皆さんは誰の息子・娘でしょうか? 堕落して誰の息子・娘になったのでしょうか? サタンの息子・娘です。皆さんにサタンの息子・娘だといえば、気分が悪いでしょう? ところでこの言葉を、本当に気分悪く考えてみたことがありますか?

 近頃、娘やおばさんたちが顔に白粉をつけたり何かを塗っていますが、何のために化粧しますか? サタンの雛がきれいになったと自慢するためですか? 笑い事ではありません。


 宗教人は蕩減のために体を打ってきた

 宗教を持って信仰生活をする人は、真の道を行かなければなりません。天の真の道を求めてゆくのです。人間の血筋の中に流れるサタンの血を無くして占領することができないので、宗教は真理を中心に「闘え、押し出せ、打て」と命令するのです。これに正面から闘ってゆくのが、宗教なのです。

 宗教を信じる人は、肉体を打とうとしてきたのです。野郎の肉塊、野郎の肉体を愛さねばならないでしょうか? それで血を抜け、断食をせよというのです。この肉体が怨讐です。この肉身は楽になることを、しきりと待ち焦がれるのです。

 下ることは易く、上がることは難しいのです。即ち堕落するのは易いということです。堕落は教育を受けなくてもよくやります。しかし神が数千年間、数多くの聖賢たちを動員して教育をさせてきても、この目的を達成できなかったのです。そうではありませんか? 皆さんも堕落しようとすれば、堕落の急行列車の一等席に乗る素質が濃厚なのです。なぜに? 堕落の大王たるサタンの血を受けているからです。この野郎の肉塊が・・・。これが事実でしょうか、違いますか? 真ですか嘘でしょうか? 先生が無駄なことを言っているのでしょうか? この肉の塊りどもが誤って食ったのです。この肉体を打ち叩いたといえる基準を、いつ残してゆくのですか? これを征服して天上世界のまえに主張し、歴史上の千々万聖徒のまえに誇り、後世の万民と全世界に向かってこの勝利を誇ることができる、天地が私を歓迎する勝利の息子・娘になっているか? 皆さんはこんな勝利の真の人生となりたくて身悶えてみたことがありますか? それが冠みたいなものを被って、コクリコクリして「あれかこれか?」とやっているのです。

 それでは自分の力だけで、ここから抜け出せるでしょうか? 自分の力だけでは抜け出せないのです。ですから神はここに非常対策を取らざるを得ないのです。サタンと結んだ血統の因縁、肉のすべての悪の条件をどのように追放するかを中心に、神は今まで闘争してきたのです。しかしこの事をそのままではできないのです。これを全知全能なる神の力で全部、張り飛ばしたらどんなに良いでしょう? しかしそうはできないのです。これは骨の中にもぐり込み、涙の源泉に入り込み、汗の源泉に入り込み、血の源泉に入り込まなければならない事なのです。愛の涙の谷間にもぐり込み、汗の谷間にもぐり込み、血の谷間にもぐり込まなければならない事なのです。付けているすべての仮面を脱がなければなりません。

 それで宗教人は、慟哭しなければなりません。涙を流さなければなりません。「悲しいかな、悲しいかな、悲しいかな! 何としてこの体は怨讐の血肉を受けたのか!」こんな自分が忠誠の道を行くために、天と因縁を結んでゆくと身悶えることを思うとき、胸が込み上げ、血がうごめく痛憤と怨痛に慟哭しなければなりません。このように慟哭する自分でなければ一刀両断にして、憤慨心を爆発させなければなりません。いっぺんに爆発してバラバラにしてしまうのです。皆さん自身が自分のすべての怨恨と感情を超越した場で、決死的に天を抱きしめて身悶えない限り、これを絶対に復帰できないのです。このようにあのように、痛々しくも恨み多い人生行路ですから、神の復帰摂理歴史が六千年もかかったのです。

 この肉体は良いものを無条件に食べようとする、下心を持っているのです。ところで肉体を分析して見れば、良いものが一つもないというのです。それで宗教は完全に否定するところから出発するのです。涙を流さねばなりません。涙を流すときは、アダムとエバが堕落した時に神の胸の内に結ばれた、骨髄の内に染みた神の悲しみの痕跡を全部、抜き取ってしまわねばなりません。恨を結ぶ怨讐の血筋を全部みな抜き取って、アボジの血肉を受け「アボジよ、私が来ました。今アボジのまえに孝道を尽くす真の本然の姿勢を得ましたので、今日からは安息して下さい。あなたの胸と骨髄の内に結ばれた恨を解いて差し上げます」としなければなりません。この地球上にこんな息子が現れなければ、神は解放されません。ですから、統一教会が出たのです。


 蕩減条件を立てる場は血の涙を流す場

 皆さんは汗は地の為、涙は人類の為、血は天の為に流さねばなりません。これがアボジの望む所願なのです。人類を抱いて涙を流すのです。涙を流すときは、そのままで流すのではありません。本然の心情と本然の園を失ったそのむごたらしい情景を見渡し、明日の希望のうちにそれが再び解放されるその道の前に、迫害と苦難と逆境が、泰山峻嶺のごとく立ちふさがるとしても、これを越えてゆくとして流すのです。

 それゆえ皆さんはこの道を開拓する立場において、血と汗と涙を流さねばなりません。涙を流し、汗を流しても終わりにならなければ、わが命が砕け散って神のまえに捧げても行かねばなりません。これが神の喜ばれる本来の姿として戻ってくる道なのです。神が喜ばれる体として生きてあげられなかった邪悪な種であるから、死ぬときは一個の童貞なりと残してゆくという心を持つ人間になってこそ、世界で神のまえに召命され、また神が記憶される人間になるということを知らねばなりません。イエス様もこんな立場で、この地上に来ては行ったのです。

 蕩減条件は自分自らが立てることができません。そこには神とサタンと真の人間がなければならないのです。ところがこの地球上には、未だに蕩減条件を立てることのできる真の人間が出ていないのです。ただ出るための、準備がされているだけです。神の蕩減歴史は段階を踏んで、一番下から始まってきたのです。

 それではここにおける中心使命が何でしょうか? サタンと因縁をもつ全世界に対して中心的な責任を負う人間は、どうしなければならないのか? 蕩減復帰をしなければなりません。これを成すにおいて、食べたいものを思うままに食べては駄目です。食べたいという代わりに、み旨をおいて慟哭する場に入らなければなりません。見たいものもそうです。死にたいくらい難しい場を、通過しなければなりません。この話が何の話かというとこの世の万事を全部失って、何にもない場に立つと同じ無価値な立場で、神が同情して下されば生き、そうでなければ死んでも感謝するという心で、こんな場を守ってゆかなければならないのです。そうでなければ復帰の因縁を結ぶことができなのです。蕩減条件を立てることができないのです。この場はそんな、遊び事で成る場ではありません。事情を通し、人情を通して成る場ではないのです。

 それでは人間は、どのような人間がいるのか? 神が愛することができる人間と、サタンが好む人間、この二つの種類の人間がいるのです。

 先生がすでに、蕩減条件は神とサタンの間で立てられると言いました。人間には神が極めて愛する人間と、サタンが極めて愛する人間の、二種類の人間がいるのです。ここに一人の人間を立てるのです。もしもサタンが好む人間がサタン世界を本質的に好まないで、変わらない天性を持つ人間がいたとします。この人間がサタン世界において忠誠を成したとしても、その忠誠は自分の目的の為ではなく、天下の為であったというのです。こんな人間はサタン側にいる人間であっても、天の側に戻ることができる可能性が高い人間なのです。神はこんな人間を、サタン世界から抜き取ってこられるのです。


 蕩減条件を生きて立てる人間と死んで立てる人間

 それでは神が愛されるということが、何でしょうか? 認定されるということです。そして神が極めて愛されることは、蕩減条件を立てる人間が現れることです。これをさらに説明すると、ここに朴なら朴、金なら金、ある人間がいるとして、神がこの人間をサタン世界から抜き取って愛される時までは、その人間が全部蕩減を受けなければならないのです。それで神とサタンとの間に、取り引がなるのです。

 神が「やあ、サタンよ、わたしが彼を愛してもいいか?」といえば「そうですね」となるのです。また、神が「わたしの為に忠誠を尽くし、夜も昼も万民の為に公的な生活をする人間だ。あるいは世界人類を救うために、解放させるために、復帰させるために働き、すべての幸福の要件を中心に、満天下を代表する人間だ。サタンよ、おまえもそれが分かるか?」といえば「そうですね。付き合ってみれば分かります」とこうなるのです。付き合ってみるとは、何の話でしょうか? 闘ってみるという意味です。

 そして「もしもおまえが調べてみて分かったら、どうするのか?」とすれば、「それなら認定しましょう」こんなやりかたで進展するのです。それで神が「よろしい! それでは調べてみよ。やってみよ」とすれば、その時からサタンが試験をするのです。今まで人類が受けてきたすべての試練、苦痛をその人間、即ち、代表格として苦労する人間に全部移し変えて、降り注ぐのです。そうなればその人間が、平安でいられるでしょうか? これが幸せに、平安に暮らせるでしょうかというのです。

 もしもサタンが「神様、その人間の手を切ってしまってもよいですか」といえば「そうさ、ではその手を切ってみよ」となるのです。皆さんは神の為に忠誠を尽くして、手まで切ることができるでしょうか? またその人間がたくさんの財産を誇っていることをサタンが試験して、すべての財産をすっかりはぎ取ってしまったというとき「アイゴ-神様、わたしは嫌です」としたら蕩減ができるでしょうか? 絶対にできないのです。もしもサタンがすっ裸にしようとして、さらには密室ではぎ取るのではなく、チョンロの十字路ではぎ取ろうとしたとき、「アイゴ-、それだけはできません。神様も事情は分かってくれるでしょう。それはあんまりです」と不平を言って拒否したら、蕩減ができないのです。チョンロの十字路が問題ではなく、それより何百倍も悲惨なニュ-ヨ-クのど真ん中ではぎ取られたとしても「はぎ取るなら取れ」とこれを越えなければなりません。

 その足がぶらぶらしているので、こいつの足を切ってしまえというとき、天に対して面倒だから切ってしまって下さいと、ぐずぐず言わずにさし出さなければなりません。首を切ろうとしても、よろしいとつき出すのです。それでサタンがこれを切ってしまったら、どうなりますか? 死ぬのです。死ぬのですよ。

 人間は死んで蕩減条件を立てる人もあり、生きて蕩減条件を立てる人もいるのです。歴史過程において数多くの先知先烈たちが去来しましたが、蕩減条件を立てるにおいて、死んで立てる人もあり、生きて立てる人もいるのです。忠誠が天上にまで染みて、反対したサタンまでも涙を流すなら、サタンは打たないのです。サタンも本来は天上の因縁をもってきたので、自分がしたことを悔いることを知るのす。それゆえサタンがわれ知らず涙を流す感情をもつなら、その人は生きて蕩減条件を立てる人間になるのです。

 生きて生前に、サタンをして自ら悔い改める感情を引き起こすことができなかった人間は、蕩減復帰路程において中心人物として登場することができないのです。分かるでしょうか? カインとアベルの祭壇においても、神は深く愛する息子を中心に、あのような摂理をされたのです。サタンはここに反旗を掲げたのです。


 蕩減にサタンの試みが付きまとう理由

 アベルは死んでも天の側だったのです。ですからアベルの血が訴えたのです。アベルは死んで蕩減したのです。神はある中心人物が死ぬなら、代身者を立てて来られました。このようにしてこそ、蕩減をしてカイン世界を押し分けられるからです。分かりますか? また神はアベルを通して立てた伝統によって一六〇〇年を下ってきて、神の為に、神を受け継ぐ世界が成ることを願われたのですが、サタンの血統を受け継ぐ人間ですから、そうはできなかったのです。このような人間に神が役事されるとき、即ち季節でいえば、春の季節を通して摂理された来られたのです。

 春の季節は一度しかありません。一つの時代がめぐるときには春の季節もあり、夏の季節、秋の季節、冬の季節もあるのです。人間も同じことです。神はこの四つの季節のうちで、春の季節のみを通して役事して来られるのです。これが神の責任なのです。それゆえ神は昔、アベルが誠精を込めたその心を中心にして、ハラハラするような心情で代を継いでノアにまで至ったのです。ところがノアのときの世はすでに堕落におぼれ、地上において天情の因縁を結ぶことができない世界だったのです。それでノアが、神のまえに出たのです。

 アベルが血をふりまいたその誠精を、この地上の人類が継承しなければならないのに、天情の因縁を結ぶことができなかったので、ノアは悪なるサタン世界を断念して初めて神のまえに出たのです。そして神のまえに誠精を尽くしたので、ノアは義人になることができたのです。この世の中、天地に生きている数多くの人間の中でノアだけが、ただ神の心情に従っていったのです。

 歴史的に見ればアベルの血筋を通してのみ蕩減の因縁が結ばれるので、ノアは神から召命される前にも多くの蕩減を受けてきたのです。それで神の命令を受けて、一二〇年にわたって条件物を立てるのに、サタンの攻撃があったのです。「こいつ、よくやるな。どれほど神を愛しているか見よう。おまえが一二〇年の間舟を造れるかどうか、見てみよう」とサタンが試験したのです。皆さん、考えてみて下さい。舟を川辺に造るならともかく、山中で造るのですから、これは根本的に間違っているではありませんか? これは反対される他はないことです。絶対に正常とは見なされないことです。またノアが舟を造りに行く時「今日は昼飯を食べて、ちょっと散歩しに登ろう」という考えで山に登ったでしょうか? 違います。めしなど食べてもどうでも、と舟を造りに山に登ったのです。

 一二〇年間、舟を造れと神が命令されたのですが、一二〇年のこの期間を短縮しなければ、という心情で夜も昼も全心全力を尽くしたノアであったのです。このように天性の節義を立てたのです。

 そうしてどうなったでしょうか? まず理論からして、抽象的にならざるを得ないのです。水は川や海に集まるのです。山のてっぺんに水があるでしょうか? だから悪口を言われる他はなかったのです。皆さん、考えてみて下さい。村の女たちが悪口を言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 私がそれを見ても、面と向かって悪口を言ったでしょう。皆さんならどうでしょうか? 反対する人々が、どんなに多かったでしょうか? このような場合では、反対する人間が普通です。そうですか、そうじゃありませんか? 事情を知らないのですから、ノアじいさんに反対する以外に別の道理があるでしょうか?


 サタンが愛する人物を抜き出して復帰の人物に仕立てる神

 もしもひどく反対する人間がいて「私はあのノアじいさんを一二〇年の間、働く場所まで追い詰め、しつこく反対する」としたならどうでしょうか? 神はその人間を祝福するのです。「もしもおまえが反対してノアじいさん倒れたら、おまえをノアの代わりに立ててやろう」神はそうされるのです。蕩減復帰はこのようにするのです。これが重要です。ノアが一二〇年の間、神のまえに忠誠をなしたその忠誠よりも、一三〇年、一五〇年、それ以上かかったとしても、ノアに反対してきっとへし折ってやるという人間がいたら、ノアが失敗して倒れる日には、神はその人間を抜いてノアの代身としてその場に立てられるのです。そのようなこともあるのです。このようにして神はサタンが最も愛する人間を奪ってくるのです。

 ですから先生は、既成教会の牧師で統一教会に最後まで反対する牧師たちを訪ねてみるのです。神を統一教会文先生や統一教会食口たちよりも、さらに愛する人々を・・・。

 こんな意味で統一教会の人々を全部一つ所に括りつけても、また統一教会の食口を探して世界をめぐる人間がいるなら、そこまでも残忍非道に統一教会の食口を粛清したとしても、自分がやった事が正当なことであると同時に天の為であり、また当然やるべき事であると考えてのそのそ歩き回る人間がいるなら、神はその人間を抜いて統一教会に蕩減復帰させるのです。これが凄いでしょう? これからそうなるかならないか、見ててごらんなさい。

 その目的基準が国と民族の為、世界人類の為というところにあるのです。そんなとき、神はサタンが最も愛する人間を抜き取って、神が最も愛する場に立てられたのです。例を挙げればアブラハム、モ-セ、使徒パウロのよな人々は全部がサタン側の代表者であったのですが、神が抜きだした人々です。むしろ彼らは初めは反対したのですが、彼らの心情と所願から見るとき、未来にはきっと神と出会うことができる人々ですから、神はその人々を抜きだしたのです。神は彼らを蕩減の祭物にされたのです。

 怨讐に仇を返すことのうちで、これ以上の方法がないというのです。言い換えれば、怨讐が最も愛する子供を抜きだして、天の側にしてしまうなら、これ以上の復讐がないというのです。再びサタンが復讐をしようとしても、自分の息子を殺すことができない原則があるので、復讐することができないのです。そのようになればこの世も解放され、悪の世が無くなってゆくのです。(ex.交差交代祝福?)

 それでは神はなぜ、こんな戦法を使うのかを知らねばなりません。サタン世界を完全に解放させようとしても、子供が父母に怨讐の仇を返すことはできないのです。また、父母が子供に怨讐の仇を返すこともできません。これを返すには人間が復帰されなければなりません。サタンの子供を奪って忠臣にするとき、サタンが仇を返す場において仇を返すことができなければ、今まで築いてきたすべての土台を捨てて後退しなければならないのです。これはとても深刻なことです。ですからサタンはノアに、どこの誰を立ててでも反対させたのです。

 このようにサタンは策謀をめぐらしたのですが、神側からノアが登場したのですから、サタンがおちおち寝ていられるでしょうか? 呪咀にもえて死ぬほどでした。これがどこでも殴り殺したい思いが、日に一二度以上も迫ったのです。それで一二〇年の間、こんな歴史を経ていったのです。しかしながらノアじいさんは環境がひどければひどいほど、神をだき抱えてきました。その反面サタンは天の側の息子・娘たちを引きずって祭物にしようとしたのです。妻を動員し、息子を動員して反対させたのです。このように天の側とサタンの側が、互いに奪いあう闘いをしたのです。それで結局ノアも、ハムのために駄目になってしまいました。復帰摂理はいつも息子が問題なのです。

 終わりまでがまんして耐えたなら

 ノアじいさんはひっ迫がはなはだしく難しい環境の中でも、渾身の力を込めて頑張ったのでこの環境にうち克つことができたのです。神の法度のまえに子女の忠孝の道理を尽くすのみ、という謙遜な心をもっていったのです。神のまえに出ればでるほど環境が非情であることを感じ、悲しみにおそわれたのですが、そんな時ほどノアじいさんは神様に恐れ多いという心で悔い改めの涙を流したので、彼が行く道を妨げる者がなかったのです。何の話か、分かりますか? このようにして一二〇年の間を過ごしたノアを、一度考えてみて下さい。ノア一人をおいて、サタン世界はあらゆる方法を使って打ち、反対するだけ反対したのですが、神が中心として立てたその基準において、ノアは忠孝の道に外れることがなかったのです。この基準は天宙の絶対的な中心として立てられ、宇宙の正義の人間として立てられ、真の勝利者として立てられたものなのです。それで神はこの基準に反対となるすべての怨讐の要素を精算しようとされたのです。

 このように終わりまで打たれたゆけば、凄い事が起こるのです。皆さんはどれくらい打たれたでしょうか? 我々統一教会員たち、きょろきょろしている目をじっと見つめれば自分の心が重苦しくなるでしょう。

 アブラハムもノアと同じです。偶像商の息子アブラハムは、サタンが最も愛する人間でした。しかし神は賢く愛すべき息子を奪ってきたのです。アブラハムが希望とした世界はその父の考えとは異なったのです。怨讐の息子ではあっても、考えることがその父とは異なったのです。アブラハムは自分の家庭だけではなく、未来のイスラエルを案じる心を持っていたのです。こんなアブラハムを神が奪っていったので、どうなったでしょうか?

 育つ時には彼の環境と親戚が内側であったのですが、そのすべてのものが怨讐になってしまったのです。その上、自分の国と宗族を離脱し、自分の父母に反対していったアブラハムが、行く家がどこにあり、親戚がどこにあり、国と世界がどこにあったかというのです。まさに独り残ったのです。ですからアブラハムは行く所ことごとく、試練と辛酸をなめたのです。エジプトに行ったときはパロ王が彼の妻を奪おうとし、どこに行っても追われるジプシ-暮らしをしたのです。

 しかしこのように追われる行路においてもアブラハムは、自身の父母と親戚から愛を受けて安楽に暮らすことよりも、イスラエル民族が自分を呼び、勝利が自分を呼び、幸福の基が自分を求めていることをより切実に感じていたので、ジプシ-の行路においても天の星を見上げてただ神のまえに望むことは、所望の天国へと駆けて行くということだけだったのです。

 それゆえ神はアブラハムに祝福を与えられたのです。彼のまえに迫る辛い苦痛と難しい環境は、他の人なら自分を呼び出した神に背いて自分の立場を嘆くのですが、アブラハムはそんな場にも神と共に深い因縁を結ぶことができる心情で神に侍ったので、彼の前途には幸福の門が開けていったのです。

 この時は自身の民族から試練を受ける期間ではありません。宗族から試練を受ける期間ではありません。民族的な試練を受けるべき時代を越えて他の民族が打つ時代なのです。ノア時代までは自分の親族、自分の宗族が打ったのですが、アブラハム時代になっては異邦の民族にまで及ぶのです。復帰歴史はこのようにしてだんだんその領域を広げてゆくのです。三つ以上の異邦の民族に追われるようになるのです。

 このようにしてアブラハムの後孫であるモ-セの時に至っては、民族的な蕩減をするのです。この時からはイスラエル民族をおいて宗族的な蕩減と民族的な蕩減をするのです。それでモ-セが行く道には数多くの民族が反旗を掲げて讒訴して、行く道を塞ぐのです。もしもイスラエル民族が、モ-セが導いて行く道を感謝と考えて彼に協助したなら、彼らは明るい天地を迎えたのですが、不平不満を口にして感謝する心を持たなかったので、神は怨讐を打つ前にイスラエル民族をまず打つ他はなかったという事実を、皆さんはよくよく知らねばなりません。それで結局モ-セ一派は、荒野でタカのえじきになってしまったのです。

 しかし彼らに再度近づく民族的な試練を有難く受け、カナン七族が統治する怨讐の槍先も感謝で受け、天のみ旨と共に生死を共にするというその歩みのまえに勝利の結果をもたらしたということを知らねばなりません。このような立場で、民族的な蕩減をなすことができたのです。これは決して簡単にできたことではありません。


 蕩減の道をそのまま行けなかったイスラエル民族

 神はノア、アブラハム、モ-セと同じような人々を中心にして、その時代ごとに蕩減的な使命を連結させて基盤を築いてきたのです。こうして宗族時代、民族時代、選民時代を経てだんだんその範囲を広げていって、イエス様の時まで来たのです。かようにその版図がだんだん広がるならば国家時代を越え、世界時代を迎えるられるのです。そうではないでしょうか?

 こうしてイスラエルが民族編成を成して一つの法治国家、主権国家を中心にして神の勢力を引き上げなければなりません。それでその国家の勢力がすべての怨讐国家を凌駕するようになれば、これを中心にすべての怨讐世界を精算してしまうというのが、神の作戦なのです。

 ここまで神の勢力を引き上げるには、どのようにしなければならないか? イスラエル民族自体が試練を経て、カナンを復帰しなければなりません。彼らはカナンの福地が乳と蜜の流れる幸福の園であり、艱難のない世界、神が自分たちの願いを成して下さる世界だと考えていたのですが、蕩減復帰の原則から見れば、絶対にそうではないというのです。イスラエルの国の創建理念を全世界に植えつけるためには、イスラエルの国がその世界から、まず打たれなければならないのです。

 先生は近頃、こんなことを考えるのです。イスラエルが二千年前に打たれるべきを打たれなかったので、この時代になって再び打たれなければならない立場におかれているということです。だから正しく打たれて昔の全ての失敗を悔い改めて、神の前に出るなら許しを受ける道が開かれるということです。

 彼らの血のにじむ努力を通して一つの主権国家を立て、神に侍った当時の国力が弱かったので、どこからでも侵略されたのです。しかし彼らが神を中心に団結して夜も昼も一片丹心、国家と世界と神の為に、神のみ旨のまえに忠誠をなす世界的な基盤を代身すると身悶えて民族的な基盤を築いたなら、世界を支配することができる民族になったのです。また、地上のすべての人類を救援するメシアに侍って、万王の王が治める主権国家を成して世界を支配できたにもかかわらず、イスラエル民族はその責任を果たさなかったのです。蕩減の路程を行くべきが、そうはしなかったのです。

 彼らは蕩減をなすために世界的な試練と、世界的な圧迫を有難く受けねばならないかったのです。そんな姿勢をとるべきだったのです。彼らがそんな姿勢をとった上でイエス様を来られたら、イエス様は何をされたのか? イスラエルが民族的な姿勢だけ得たなら、これを基盤にしてイエス様は総力を傾けたのです。そしてロ-マの圧政から脱するためにイスラエル民族を団結させ、ロ-マに反旗を掲げるのです。これを契機としてロ-マから圧政を受けたすべての連邦国家がここに同調するのであり、そのようになればロ-マはここに完全に巻き込まれてゆくのです。

 しかしイスラエル民族はその時であることを知らず、自分たちにそんな使命があるという事実を知らなかったのです。ではメシアとして来たイエス様が、この地上で何をしなけばならなかったのか? イスラエル民族自体が蕩減すべきことを代身して、蕩減する立場に立たねばならなかったのです。イスラエル民族が世界人類から迫害される場で、勝利の要件をつくるべきが、そんな場に立てなかったのです。

 もしもイスラエル民族がイエス様と共に、世界的に迫害を受ける場に立ったなら、神がその民族を通して世界のまえに勝利の基準を立てたのです。しかしその責任を果せず、むしろイエス様を死の道へと追いやったのでした。どれほど怨痛であり、憤ろしいことでしょうか?

 それではイエス様は、こんな迫害の途上において何をすべきかというなら、民族を中心に世界的な蕩減路程を越えて行かねばならなかったのです。これがイエスの使命であったにもかかわらず、イエスは民族に追われ、むしろ自分個人が越えるべき峠を越えることができず、歴史的な責任を受け継ぐことのできる基盤でさえ造成することができなかったのです。だから天と地がどれほど身悶えて悲しんだかを、皆さんが知らねばなりません。


 蕩減の道には近道とえり分ける道がない

 イエスは元来、死んではいけないのです。生きて霊と肉を合わせて一つの家庭、社会、宗族を中心に、民族と世界を代表して蕩減してゆかねばならなかったのです。そんなイエス様が追われて死ぬことによって、霊的救援の基台のみを造ることになったのですから、イエス様の事情がどれほど悔しく、憤り痛むかを知らねばなりません。

 ですからイエス様は、再び来なければならないのです。来られるときは蕩減復帰原則によってイスラエルの選民圏を求めるのであって即ち、キリスト教の中のキリスト教を求めて来るというのです。

 それではキリスト教はどのようにしなければならないか? キリスト教全体が来られるメシアを歓迎して、サタン側の共産主義を難なく突破して、彼らを愛によって自然屈伏させなければなりません。こんな段階をどのように越えるべきかということが、現代における苦悶であり、来られる主が越えるべき最大の苦悶であるにもかかわらず、今日キリスト教信者たちはこのようなことを夢にも見ないでいるのです。まかり間違えばイスラエル民族と同じく、来るメシアを追い詰めて再び捕らえて殺してしまえばいいというのです。

 今日統一教会が、福があってか災いがあってか分かりませんが、世界の数多くの宗教とキリスト教から試練と迫害を受け、艱難と苦痛を受けてきているのです。これが良いことですか、悪いことですか? 良いことです。しかしもしも既成教会が統一教会と一つになって、大韓民国が統一教会と一つになったら、韓国の現実がこうはならなかったのです。共産党問題はすでに先生が解決していたのです。

 しかしこの民族が背反する場に立ち、既成教会が背反する場に立ったのです。迫害する場に立ったのです。あらゆる謀略を尽くして統一教会を迫害し、先生を殺そうとしたのです。しかし先生はこれに引っ掛かりません。千辛万苦終わりを求める天のみ旨のまえに、先生が楽になりたい心をもつなら彼らにやられてしまうのですが、千べん万べん死を覚悟して蕩減路程を行ったので、彼らに引っ掛からなかったのです。ただ一つやるべきことが何でしょうか? それは伝統を立てる道に従うにおいて、どのようにすれば彼らが讒訴する条件に掛からないかという問題です。また一つは、どのようにして蕩減の峠を越えるかということでした。

 皆さんはこんな先生の世界を知らねばなりません。先生の生活の中には旅人のような行路がたくさんあったのです。暗闇が迫る夕日を受けて道を急ぐ旅人のような道を、たくさん歩んだのです。背のうを背負って「愛する妻子を残して自分は行かねばなりません。行かざるを得ないのです」と祈祷した時を、先生は今も忘れることができません。うまくゆけば忠誠の道であり、間違えば怨讐となる他はない岐路において、神を迎える時まで私は妻子を愛することをしません、と祈祷したのです。七年の大艱難の峠を越える時までは愛することをしない、という覚悟で後にしたのです。目の前が真っ暗になり、どんな障壁が立ちふさがったとしても、民族を求めて行く道はこれ以上の道がないという覚悟で出たのです。世界を生かすためには、血の結ぶ路程を行かねばならないのです。こんな覚悟がなければ、真の世界を成すことが出来ないのです。

 こんな場にあっても自身の妻子、自身の家の者を抱いて涙を流せず、訪ねなければならない未来の大きな世界を抱いて、涙しなければならないのです。背のうを一つ背負って道を行く旅人の行路には近道がなく、えり分ける道がないのです。血と汗を流して求めなければならない困苦なる道なのです。旅人の行路を歩む、天の道を求めて行く青年の姿は、追われに追われる一匹の羊と同じです。求めるその道において流す涙は、私の涙ではなく私を通して流す神の涙なのです。


 蕩減路程において必要なこと

 先生は監獄に入って髪の毛を剃られるとき、神のまえに祈祷したのです。私が願って頭を剃られるのではなく、怨讐の手に引かれ強制されて頭を剃るのですと・・・。その時、先生の目がどんなに輝いたか知れません。剃り落とされる髪の毛を見ながら、自分が願った幸福を捨て、その上怨讐のまえに頭を剃られることは悲しいことです。復帰の事由を連ねてゆく路程において、そのすべての逆境が恨み多いことです。しかし、過ぎる時は恨みがましくとも、過ぎてみればこれをすべて神が私を記憶して下さるので、それにうち克つことができたのです。幾日も拷問を受け、鞭打たれて倒れるその場であっても同じです。私が鞭打たれるのは自分のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、自分が流す涙は、この民族の痛みを代身する蕩減の涙であったのです。

 私はすべての行路において神をだき抱えて身悶え、神の同情を受けるときまでこの蕩減路程の道を行かねばなりませんでした。私独りで、この道を越えてきたのです。

 イエス様もそうだったのです。民族を代身して蕩減復帰の道を行ったその歩みのまえに落ちる涙は、イエス様自身の死の道を案じて流す涙ではなかったのです。民族の死の道を案じる涙であったのです。自身に従った人々が背反して、天上において受けねばならない最後の審判を案じる涙だったのです。

 先生がエルサレムを訪問した時に見たのですが、イエス様がゴルゴダ山頂まで登る途中で倒れた所に立て札が立っているのです。十二回も倒れたその所を見やり「こんな蕩減の道を行かれたのだな」と思ったのです。その場で先生は「暗黒のような二千年前に新しい天的な使命を背負って、砂漠と荒野のようなこのど真ん中を訪ねたイエス様の事情がどれほど切なかったでしょうか? しかし大きく裕福な多くの民族をみな除いて、このように見る影もなく、やせ細ったイスラエル民族を訪ねてこられたことは、民族復帰の恨を一日も早く解こうとされたアボジの事情があったが故であるということを知りました」と祈祷したのです。

 その所を訪問する人は誰もが、イエス様が抱いた事由を深くお慰めしてさしあげる祈祷をしなければならないのです。それでこそ、その場においてサタンは気をもみ、神様は慰められるのです。それでサタンは悲しんで泣き、神は嬉しくて泣くのでなければならないのです。

 アダムが堕落することによって神が慟哭され、サタンもアダムも涙を流したのです。サタンは神に背信して追われて涙を流し、アダムもやはり堕落によって涙を流したのです。それでイエス様も涙を流され、サタンも涙を流し、アダムも涙を流したのです。ですから復帰の峠道では、神とサタンに涙を流させなくては復帰ができないのです。自分自身も涙を流さなければなりません。自分の涙が神を泣かせ、サタンまでも泣かすことができる涙でなければ、これを復帰させることができないのです。これが蕩減路程で必要とする条件物であることを知らねばなりません。

 今日皆さんは世界の大きな問題をかけて、天的な使命を背負ってゆくこの先生が行く道がどれほど寂しこであったかということを知らねばなりません。先生が同情を受けるためにそうだというのではありません。先生は寂しい人間です。多くの人が先生に従うのでそうは見えないかも知れませんが、実は寂しい人間です。誰にも同情を受けることのない寂しい人間なのです。

 アダムとエバが誰にも同情をされなかったように先生も誰にも同情されない人間です。サタンにも同情されることなく、神のまえにも同情を求めることがありません。同情を求めるなら自分自身の知恵に同情を求め、涙と血の汗と誠精がこもる場において身悶える自身に同情を求める他はありません。このように恨多こを行く先生であることを皆さんが知らねばなりません。今日も明日もそうでなければならず、またこの民族を越え、世界復帰路程においても、この道を行くということを知らねばなりません。


 真情から皆さんに神を愛する心があるか

 先生が外国に行くというので、ある食口がどうかしたら今回が先生に会う最後になるかも知れない、と涙を流すのを見ました。先生は再び帰って来るのです。しかしこの民族が誤って行くなら、戻る道がないのです。この民族が神のまえに背反者の烙印を押されるなら、この民族は間違いなく戻って来ることができないのです。先生はどんなに反対され、迫害されて悔しい場に立ったとしても戻る道があるのですが、この民族は戻る道がないのです。ですから先生は、皆さんが私のために泣くのではなく、民族のために泣くことを望むのです。

 師を慕う心からこの師に再び会えないのではないかと、心配してそんなことを言うのを見れば心が痛むのですが、神の為という心が先立たなければなりません。真に皆さんに神を愛する心がありますか? 自分一身の幸福のために、自身のみ旨を立てようと身悶える人がいるなら、皆さんはそんな人間に同情してはなりません。そんな人間は絶対に蕩減復帰の条件を立てる人物として、同情できないのです。自分がうまくやったとしても、他人が誤ったことを代身して打たれ、民族が誤れば民族を代身して打たれるのです。自分がそんな惨めな場に立つのは、世界人類の恨を解くためにそうだというのです。

 こんな環境を未だに求めてみなかったのです。それで今年、一日の試練を再び私のまえにやってくれることを、手を広げて訴えるのです。これは蕩減の条件を立ててゆく人々が今まで使命を果たしていないからです。

 すべての力を尽くして闘ったとき、その心が疲れたとしても、その背後には神を案じる心があるので「何とまあ! もう一度神の為に闘おう」と誓って行かねばばなりません。これが復帰路程に責任を負う人々が行くべき行路です。蕩減条件を立ててゆくにおいて、こんな道を行くべきことを皆さんは知らねばなりません。

 こんな観点から見るとき、皆さんは真に統一教会を愛しているでしょうか? 真に皆さんが統一教会を愛したなら、この民族と国を愛さなければなりません。真にこの世界を愛しますか? これが漠然と垣根だけ見て、愛するという言葉はいくらでも言えるのです。だからそうであっては、主人になることはできません。

 その垣根の内で彼らを収拾してあげ、彼らを解き放つという心を持って民族と世界を愛してみましたか? 真なる条件を立て、神も肯定される場において蕩減してゆくという心で、自分一身において蕩減の条件を残すと身悶えてみたかというのです。そのためには蕩減条件を立てて堕落の因縁を脱する完全な人間が、さっと出て来なければなりません。こんな原則があるので、先生は皆さんを押し出さざるを得ないのです。

 神が気をもみ、サタンも気をもむそんな立場において、そこで神の心情と因縁を結ぶのです。それでこそ堕落の因縁を脱ぎ捨て、天と地が一致するのです。そんな立場で神の心情を相続し、サタンの攻撃を受けて闘って勝つ自分にならなければなりません。蕩減の行路に勝利の立て札を立てて戻る皆さんになってこそ、それが決定的な路程になるのです。 もしも皆さんが神から、間違いなくこんな行路を経てきたかと質問されたら、何と答えるのでしょうか?

 恨多い歴史の路程を誰が行くのか? 国の為のこの道は統一の役軍が行き、人類の為のこの道は三千万民族と大韓民国が行かねばなりません。最後の試練の行路を越えるための復帰の道を行かねばならないのが、世界を統一する勇士たちの路程なのです。この道を行くには、そのままで行くことができません。神の為に行く道は条件を立てて行くのです。神がそんな道を行き、師がそんな道を行ったので、皆さんはどうするのですか? 絶対的な原理を求めて、未来の人類を解放させる勝利者の姿にならなければ、復帰の使命を完遂することができないのです。

 蕩減の道には至極なる慕わしさが必要

 今日まで神は皆さん一人を捜し求めて来られたのであって、皆さんは家庭と子女が越えてゆける道を築いたでしょうか? 子女が自分を通して神を求めてゆける道を蕩減しておかなければ、子女から追い出されるのです。皆さんは家庭を越え、親族全体が神に侍って生きるように蕩減条件を立てなければなりません。さらには家庭、宗族を越えて神がこの民族に訪れて来られるように蕩減条件を立てておかなければなりません。ですから祝福家庭の責任が重いのです。

 神が大韓民国を愛するなら、それは大韓民国だけのためではないのです。世界を愛するので、大韓民国を愛するのです。大韓民国を生かすことによって、世界を生かすためなのです。我々が荷を負ってゆくのも、我々だけが福を受け、愛を受けるための目的でゆくのではありません。我々が代身して十字架を負い、多くの群れが愛を受けられる場に立て、その愛が未来にまで及ぶようにしなければなりません。これが蕩減の道に責任を負う人々の使命なのです。

 天的な基準から見るとき、自身の心がどこに留まっているかを、自ら反省してみなければなりません。皆さんの中に「私はこんな環境、こんな事由、こんな事情があるので、神が公認される条件になるだろう」として安心する人がいるかも知れませんが、それは絶対にそうではないのです。

 皆さんは蕩減条件だけあればいいと思うかも知れませんが、そうではありません。自身の父母や妻子を見やるときに涙を流して慕い、恨が結ばれるほどに慕う心がなければなりません。皆さんは自身の宗族に向かって、恨が結ばれるほど慕ってみましたか? 蕩減の道を行くとき、慕わしい心が先に立たなければなりません。自分の存在意識を越えるほどに慕うのです。慕わしさが先に立って死線も跳び越えることができなければなりません。 教会を愛し、民族を愛すべき皆さんに、慕わしい心がなければなりません。先生がなぜこのような深刻な話をするかといえば、皆さんがこの時点において、新しい覚醒をすることを望むからです。蕩減路程は血と汗と涙で編んでゆくものです。過ぎ行くある旅人たちのために、川辺に放り込むそんな話ではありません。涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に流し、父母の心情、僕の体を通してこのような理念を求めるのです。こんな事由をもって、民族復帰と世界復帰の先鋒に立つということが、我々の思想なのです。

 今日なぜこんな話をするかといえば、皆さんが生きてゆくにおいて、最後の一刻を耐えて越えるなら、すべてを一ぺんに跳び越えることができるのですが、一瞬間を耐えることができなければその場に倒れてしまうからです。そうなれば恨が結ばれる場に立つ他はないのです。

 先生がこんな話をすれば、先生は苦労せよという話以外はしないという人がいるかも知れません。しかし蕩減法則を中心に分析をしてみるとき、蕩減の道を結論づける起点がどこか? その場は世界的な場なのです。ユダヤ民族のように、この道を歩むのが嫌な民族は滅びるのです。蕩減の道を避けて行く民族と国家は滅びるのです。人類も同じです。行く道がこの道の他にはないので、行かざるを得ないのです。それで四千年の血のにじむ歴史路程が受け継がれてきたのです。こんな歴史の峠道がなかったら、どうなったでしょうか?

 蕩減をするためには、どうせ打たれなければならないのです。しかし民族のまえに追われる悲しみよりも、自分自身から起こる悲しみがさらに重苦しいという事実を、その当時のイスラエル民族は知らなかったのです。それゆえ皆さんも外部から迫害されることよりも、内部から天をないがしろにして、天のまえに無感覚な状態になるのが恐ろしいことです。怨讐が誰か? 民族ならぬ皆さん自身が怨讐となる可能性が多いということを、よくよく知らねばなりませんん。それでイエス様も、自分の家の食口が怨讐だと語られたのです。

 復帰の隊列は、だんだん熾烈な闘いの舞台に展開されてゆくのです。行くべき歩みが遠くにあるのに、行くべき歩みを縛りつけて環境を逃避しようとする人間が誰か? まず入る人間です。内にいる人間だということです。

 個人は滅んでも民族が滅んでは駄目です。民族が滅んでも世界が滅んでは駄目です。世界が滅んでも神の復帰のみ旨が滅んだら駄目なのです。多くの歴史路程において、蕩減路程を歩んだ我々の先祖は死の道にも逆境を耐え、神の為に身悶えたのです。我々はこのような過程を甦らせ、自分のこの手がどこへつき、自分の体がどこへ行って倒れるか今一度悟り、倒れたら再び起きて勝利の蕩減条件を立て、勇士という立て札を掲げ、休む間もなく駆けなければなりません。これが統一勇士の使命です。にもかかわらず今が昼だか夜だが分からない人間であっては滅ぶのです。皆さんはこれを、確実に知らねばなりません。


 統一教会の責任

 蕩減して行く道は条件を提示しなくては行くことができません。世界的に見ても歴史的に見ても、この民族を神のまえに表すことのできる道を開くためには、蕩減の条件を立てずしてはできないのです。民族の解放を所望とする者であれば自分の親戚と宗族を抱え、友を抱え、国を愛する道、国を救う道がいかなることかを見せてあげるのです。涙と血の汗を流しても、彼らに見せなければなりません。これが神が教える教訓なのです。皆さんが泣いたからとて、できることではありません。

 これは数日の間でできることではありません。少なくともざっと三年は見なければなりません。三年以上、準備しなけばならないのです。それで三年間は耐えよ、三年間は死ぬほど苦労せよというのです。天国を成そうという人々が、神の息子になろうという人々が三年を耐えられないでしょうか? 三〇年でも意に介さずに行かねばなりません。

 今日先生が皆さんに話す「蕩減が行く道」には、条件が必要であるというのです。蕩減条件は神とサタンと、また堕落の因縁を受けていない即ち、蕩減復帰した人間がなくては完結することができないというのです。

 それではどうすれば、そんな場とそんな時を迎えることができるのか? 皆さんには資格がないのです。神が愛することができる条件を立てて、サタンが讒訴する条件から勝利したという土台を残すまでは、そのような資格がないのです。そのために責任を負うという人間が、統一教会の先生なのです。その次には個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のための蕩減条件を立てるのです。これを私が責任をもって行くというのです。

 このようになれば個人圏内において、体と心が解放されるのであり、家庭圏内では食口が解放され、宗族圏内では各家庭が解放され、民族圏内では各宗族が解放され、国家圏内では数多くの民族が解放され、世界圏内では数多くの国家が解放されるのです。分かりますか? このようにして六千年の縦的な歴史を、横的に蕩減しなければなりません。

 個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、国家復帰、世界復帰の道を準備して、一つの基準となる中心が来ることによって恨の行路であった個人復帰、家庭復帰、宗族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰のために開拓して行かなければなりません。この使命を背負って行こうというのが統一教会の責任であり、統一教会を指導する先生の責任なのです。ですから先生は今日もこの道を行っているのです。

 世界が韓国民族のために涙を流した、それ以上の愛の心で世界人類を代身して涙を流す自分にならなければ偽ものです。顔かたちも違い、風習も違い、思想も違うアメリカ人のために、彼らが韓国のために涙を流したそれ以上の涙を流すことのできる心を抱いていなければ、偽ものだというのです。民族と社会と歴史の背景が違っても、国境を超越した同族の心情で涙を流して祝福する心がなければ、この世界を復帰することはできません。

 神は自分の民族よりも世界を、より愛することを望んでおられるのです。それで先生はこの心をどのように誘発させるかということに対して、苦悶しているのです。皆さんが恩恵を受けて伝道できないで見悶えるその時よりも、環境が自由になるこの時に、民族を救うことができずに身悶えるその心が、より貴いということを知らねばなりません。


 韓民族の使命

 皆さんは自ら蕩減条件を立てることができないので、先生の背に乗って行かねばなりません。先生の背に乗って行け、私が深い川に架かる橋になってあげるので、乗って行けというのです。肩を踏んで、頭まで踏んで行けというのです。サタンの讒訴条件を逃れることができる道を築いてあげるというのです。ところがこれも嫌なのですか? それさえも嫌だというなら滅びるだけです。滅びなければなりません。そんな人間は落伍者になる他はありません。

 幸福になれる時代、六千年の縦的な恨を横的な基準において蕩減することができる幸いなる時代を迎えても、その時代をすべて逸してしまうのです。七年行路が悲しければ、この民族が傾いてしまうのです。これが分かるでしょうか? 言葉だけではありません。七年、七年ということが言葉だけではないというのです。悲しみの涙が先にたつこの年を見送り、今は祭物的な蕩減条件を示しておくべき運命におかれていることを、皆さんは知らねばなりません。

 それでは今から皆さんはどうすべきか? もしも皆さんたちに素晴らしい人間、神様から福を授かる人間になりたいかと問うてみれば、すべてがその通りですと答えるのです。みんな欲心は大きいのですが、欲心の通りになれないのです。福を受けるためには、その三倍以上の苦労の基準を立てなければ、授かる福を持て余すのです。その福に値しないということです。そして天と地が苦労する三倍以上の苦労をした基準の上に受ける福でなければ、その福を伝統として後孫のまえに残しておくことができないのです。ですから三倍以上の基準を用意しなければ、天に従って行くことができません。

 先生は近頃、統一教会員たちに先生が福を与えれば、受けることができる人間が果たしてどの程度いるかを案じているのです。また、み旨のために苦労する人間が誰かを考えるのですが、それは福を受ける人間であり、み旨のために苦労する人間だからです。こうして蕩減の条件を立てた人間は、神から公認されるのです。

 先生は皆さんをどんな人間につくりたいでしょうか? 民族の隊列のまえに蕩減条件を立て、数千万代の後孫たちと、あるいは先祖たちが皆さんに頭を下げることができる民族的な勝利者としてつくりたいのが、先生の願いなのです。それで今年からは外国に宣教師をたくさん送ろうとしています。そうせざるを得ない天的な因縁があるからです。

 「蕩減が行く道」そこには条件が必要です。神が韓国の民を信じて訪れて来られたので皆さんは信じ訪れるそのみ旨を、世界に連結させることができる一つの連結体を造らねばなりません。どの民族よりも韓国人が世界に多く行って、天の旗を立てるべき責任があるのです。どの民族よりも涙を流してこそ、韓国に下された福をそのまま保って、他の民族にまで福を分けてあげられるのです。分かりますか?

 それでは行くにはどう行くのか? 条件をもって行かなければなりません。チュイポンジュンさんも日本に行って、日本人を韓国人よりもより愛したのです。そうでなければ滅ぶのです。これから祝福を受けた人が外国に宣教に行くとき、そこで自分の妻や子供に会いたくて涙を流したら、讒訴条件に引っ掛かるのです。自分の子供を考える前に、まずそこにいる人々を、自分の子供よりもさらに愛さねばならないのです。そうではな、自分の妻や子供が慕わしくしきりに手紙を出したら、家にいる妻や子供に良くないのです。自分の責任を果たして帰らなければならないのです。その国で怨讐が攻撃する非情事態を迎えたなら、その敵を追い払うために戦う大将のように、その戦いをすべて終えた後にこそ、帰って来るのです。

 それゆえ皆さんは、今がいかなる時点であるかを正確に知って「蕩減が行く道」に条件を立てるにおいて、自分は何をすべきかを、再度分析して見なければなりません。分かりましたか?(はい)

 今回、世界巡回に出発するのに、皆さんにこんな深刻な話はしたくはないのですが、仕方がないので話すのです。先生は今、こんな深刻な道を行っているからです。だからといって皆さんが心だけが先にたって、飛んで行きたい心が起こることを望んでいるのではありません。

 でも先生が皆さんを愛している様子でしょうか? 皆さんは先生が愛するほうが良いでしょうか、愛さないほうが良いでしょうか?(愛するほうが良いです)


 復帰の道は求める道、原理の道は踏む道

 先生と皆さんは死の恨があっても、同じ道を行かねばなりません。道を行って出会う人々も、すべて因縁があって出会うのです。それゆえ先生と皆さんは因縁を通して、神を喜ばせてあげるその一日を迎えなければなりません。未だ皆さんには行くべき道が残っているのです。

 今回で七年路程が終われば、再び第二次七年路程を越えなければなりません。七年路程において蕩減すべき基準を中心に条件を立てなければ、第二次七年路程を立てて再び行くのです。何の話か、分かりますか?(はい)ですから前に先生が話したように、皆さんは自身の食口であれ最も愛する父母であれ、一人が十二人を誠精を込めて因縁を結び、彼らのまえにアベルの立場に立たなければなりません。そうでなければならないのです。言い換えれば、蕩減の道で条件を立てる人間になるということです。しかしこの条件は、皆さん自らが立てることはできません。先生の後に従わなければなりません。即ち、先生が行く道が皆さんの行く道なのです。

 先生が食口たちを愛するためにある基準で身悶えるのは、皆さんが行くべき道を見せたあげることなのです。信仰の路程におきましては、御言によって死亡の世界から復活してゆかねばなりません。その場においては死んでいるからです。死んだ子供が蘇生する時のような、喜びを感じなければなりません。ここに神の価値があり、神の愛があり、自分の価値よりもさらに大きな価値があり、自分の喜びよりもさらに大きな喜びがあるのです。だから皆さんは悲しみを忘れて、その場を見渡して喜ぶことができなければなりません。 皆さんは一つの命が貴いということを、感じなければなりません。「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか(マタイ一六:二六)」というイエス様の御言をその通りに感じて、体験することができる人間になってこそ、宇宙を主管できる資格者になるということを確実に知らねばなりません。よく分かりましたか?(はい)

 皆さんは条件を立てる資格者になっているでしょうか? 本当に資格者になっていますか?(なっていません)いつ皆さんがサタンから賛辞を受けるほど神を愛し、いつ皆さんがサタンを感動させる事をやってみましたか? 皆さんがそうでないので、神が人類を愛して蕩減の道を開拓されて、その本然の世界に戻るまで従ってくるように教えるのです。これが統一教会の原理なのです。

 復帰の道は求める道です。原理の道は踏んで行く道です。先生がこの蕩減復帰の道を行くとき、先生の一生は捜し求める路程だったのです。だから皆さんは先生がすでに求めておいた道に従って行くだけでいいのです。ところがこれもできないのですか? ついて来ることができないのですか? 蕩減条件は神とサタンと、堕落圏を脱した基準を立てた人がいなければ、立てることができないのです。


 蕩減がなる場

 それでは皆さん自身が神とサタンの前に蕩減条件を立てられないので、どうしなければならないか? 先生に頼らなければなりません。こうして解放を迎えられる条件を立てて越えなければなりません。一方は上がってゆき、一方は下がるのです。即ちサタンの世は下ってゆき、天の世界は上がってゆくのです。であれば入れ替わらなければなりません。ですから皆さんは下がって行くのです。それで下って行ってできるだけ上がる運勢に乗って、上がって来るのです。蕩減は平安な場、自分が願う場においては成らないのです。分かりますか?

 それでは天国はどこから始まるのか? それはイエス様が生まれた飼葉桶から始まるのではありません。イエス様が十字架を背負って行った、あのゴルゴダの山頂から始まるのです。生死の岐路において、生死を決定づける場、死亡と復活が、生命と死亡が行き交う場において始まるのです。蕩減はこんな場で起こることなのです。ところで何をもって蕩減をするのか? 愛をもってするのです。

 統一教会の食口たちには先生が主人です。それゆえこの世のすべてのものをみな捨てても先生に服従するという心があってこそです。であれば神が愛を通して、我々の蕩減条件を率いて行かれるのです。天と地が公認し、サタンが公認する場、神が喜びに涙ぐみ、サタンが悲しみの涙を流し、皆さんが喜んで讃える場になってこそ、そこに蕩減条件が立って勝利圏を成すことができるのです。

 それでは統一教会においては、何を提示するのか? 皆さんの心情的な条件を誘発させるのです。ですから統一教会は最後の道であるというのです。真理を誘発させることが目的ではありません。勿論真理も誘発させ、その真理を通して人格革命を起こすのですが、そこには心情を誘発させる主目的があるのです。

 カインはアベルに従わねばなりません。アベルが指示する道に従順に従わねばなりません。ですから皆さんは先生をアベル的な基準で侍り、アベルを慕う心情で先生に従って来なければなりません。この道が最後の道ですから、死線をも越えなければなりません。未だ人類歴史路程において、この道を提示したのは統一教会だけです。分かるでしょうか? このような心情を中心に、皆さんが条件を立てて越えるなら、最後の峠道を越えることができるのです。だから統一教会が終わりの教会だということを、皆さんが知らねばなりません。

 心情の所願が解かれて初めて神が安息されるのであり、サタンがこの地上から永遠に追放されるのであり、我々自身も安息するのです。

 終わりの日にこのような条件を立てることができる道は、ただ一つしかないのですが、それがまさに統一教会であるということを知らねばなりません。分かりますか? そうですか、そうではありませんか?(そうです)これが実際に感じられますか?(はい)


 蕩減条件は独りで立てなければならない

 蕩減条件を立てるには、二人が立てることはできません。夫がいても夫を横に立てることができません。愛する父母や妻も連れて行くことができません。前後関係は許されても左右関係は許されないのです。分かりますか?(はい)二人が立てば復帰ができないのです。心情の世界においては、二人が立つことができません。二人の中の一人が、主体にならなければならないからです。

 夫が主体の立場に立つためには、父母のまえに絶対服従しなければなりません。また妻は夫に侍るに、神のように侍らなければなりません。なぜそうでなければならないのか? 蕩減復帰しなければならないからです。男が行く道に絶対に服従して従えば、前後関係が成立するのです。それゆえ皆さんは先生に従わねばなりません。そうでしょう?(はい)従うときは、泣いたりわめいたりして従うのではありません。良しとして従うのです。

 皆さんは先生がどこに行っても、先生を忘れようにも忘れることができないのです。先生が外国に行って長くなればいいでしょうか、早く帰って来ればいいでしょうか?(早く帰ればいいです)

 先生が今まで皆さんに強調したことが何でしょうか? 先生は皆さんがお金を集めて楽に暮らすことを願いません。「伝統を立てよ」というのです。どんな伝統ですか? 蕩減路程において、蕩減条件を立てる伝統を立てよというのです。また、これからもこのような伝統を立てなければなりません。これを立てておかなければ皆さんは、他のところに流れてしまうのです。

 皆さんが現在どんな立場にいるかということを確実に知って、先生が出発した後にさらに多くの祈祷と誠精を尽くさねばなりません。それで過ぎし日には漠然と生きていた生活を、今からは具体的に生きなければなりません。先生を愛するように自分の父母を愛し、先生を愛するように昔の信仰の同志を愛し、先生を愛するようにこの民族を愛さなければなりません。

 麹のような作用をする皆さんになって、世界のまえに出てゆくなら世界が天国になるのです。分かりますか?(はい)そのように知って、皆さんがそんな人間になるために努力してくれることを願います。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.05.06 22:10:38
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2021.05.05
カテゴリ:天一国摂理史
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​文鮮明先生御言選集 20070505 - 「双合十勝日」三周年記念式典の御言

『「双合十勝日」三周年記念式典の御言』

天一国七(二〇〇七)年五月五日、韓国・天正宮博物館


 時が変わる節目の時

 訓読の前に、先生が言うとおりに言ってみてください。

 きょうから。(「きょうから……。」)天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が。(「天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が……。」)摂理上の先頭に立って指導する。(「摂理上の先頭に立って指導する。」)

 変わります。時が変わるのです。それを理解して、きょうが(「双合十勝日」)三周年なので……。きょうは、いろいろあって複雑でしょう? 五日目を越えていく時です。

 訓母様が来ていましたね。なぜ現れなかったのですか? (郭錠煥会長「来られましたが……。」)(「双合十勝日」の説明と訓読)

 (2007年)三月十七日[「キング・ガーデン」奉献式および環太平洋摂理新出発大会、ハワイ、コナ]、四月十七日、五月十七日、三か月です。本格的な出発です。韓国から、日本と米国と太平洋圏を超えるのです。最後の闘いです。

 先ほど始める前に、わたしが何と言いましたか? (「きょうから、天地創造の主人であられるわたしたちのお父様が、摂理上の先頭に立って指導する。」)摂理歴史時代において、初めて神様が先頭に立つのです。

 宗教を通して、思想を通してではありません。直接先生を通して先頭に立つのです。先生が十六歳(数え年)で新しく出発したのも、人間始祖が十六歳で堕落したからです。

 ですから、先生の体を中心としてサタンと闘い、分別するのです。先生が勝ち、内的な基準を中心として生き残ったので、外的なサタン世界が除去されます。蕩減です。

 天一国に入って、一年、二年、三年、四年、五年、六年……。これが逆さまにこのようになり、ここから四、五、六、七となって再び出発するのです。

 八です。これが中心になります。いつも一次から三次に超えていくのです。失ってしまったものを求めて戻ってきて、すべてを経ました。

 そのような意味で、「双合十勝数」というものは全体が入っています。ですから、十になった後は十一です。今までは、十の次の十一に神様がいませんでした。神様が出発しなければならないのですが、サタン世界より優れていなければならず、十より優れていなければ、新しいものはありえません。サタンが十を支配したので、新しく二十へつなぐ十一、また二十を超えて三十に続くことができる二十一、このように前に続く基盤を先生が築いてきたのです。(訓読が行われる)

 数えるときも、一、二、三、四、五、この五つです。これは、サタンが支配しています。三を通して全体を支配しているのです。一、二、三、四、五、これをすべてサタンが支配しているのです。ですから、取り戻さなければなりません。


 「双合十勝日」三周年

 きょうが満三年目です。「双合十勝日」の三年目です。三年が完成数なので、この摂理全体を天に委ねるのです。今まで、自分の不足なものは、サタン世界の助けを受けることはできないので、すべて真の父母に頼ってきましたが、今はもうそのような時が過ぎていきました。

 霊肉を中心として見てみたとき、真の父母が実体基準の体になっていますが、内的な天も父母なので、そこには影がありません。明るくなっているのは、内的な光が体を通して現れたものなので、サタンはここにいません。それを知らなければならないのです。

 この全体の摂理史を皆さんが考えれば、先生が本当に苦労したということを知ることができます。先生に対して「苦労した。」と言うことさえ大変です。自分たちは、個人時代も超えることができないのです。

 家庭時代、氏族時代、八段階の世界を超えていけません。それは、先生が超えていくのです。先生が十六歳を中心として、国のすべての希望も、家庭の希望も、兄弟の希望もなく、父母も信じることができない中で、独り闘ってきたのです。

 そのような位置に立って祈祷したのが、今、皆さんに伝えた「栄光の王冠」です。その時の祈祷です。わたしだけ残ったのです。一人しかいません。そのような責任を中心として、すべてのことが先生に懸かっています。死ぬか生きるかという問題が懸かっているのです。

 そのようなことを理解して、一次、二次、三次、個人時代、家庭時代、氏族時代、祝福家庭が経てきながら……。その祝福家庭が経てきた困難は、個人より家庭がもっと大きく、五段階までは、サタンの戦力がすべて集まってくるのです。

 サタンの全権と天の全権です。天の全権は行使しませんが、真の父母の全権をサタンに浴びせるので、サタンは五を超えて六までも思いどおりに処理しようとするのですが、それは譲歩しません。

 七年間で七千年を代表し、摂理史に必要なすべてのものを超えて、今、この(天一国)七年の一月からなされたすべての諸事実は、この世界、歴史の全体を代身してすべての季節を経るのです。

 四季、四時代、旧約時代、新約時代、成約時代、心情圏時代を超えていくのと同じであるということです。それを代表して超えていくのです。一心、一念、一核です。家庭が分かれることはできません。一つです。

 口と目、鼻が分かれることはできません。堕落していない心と体の考えによって作動するようになっているのであって、目自体、口自体では作動できません。今は目が二つです。口も二つですべて二つです。

 ところが、天の目が見えません。サタンの目で見ています。青盲(目はあいているが視力の全くない人)になっているでしょう? これが原理を通して……。

 「原理」もそうです。今から、(わたしたちの生活自体が)御旨の道になります。『原理解説』、『原理講論』の時代、そして今は実体の時代です。今からは祝福の完成です。

 そのようになっていくのです。それを知らなければなりません。皆さんが持っているこの本、平和のメッセージが最後の内容です。これをすべて覚えなければなりません。

 この先生のみ言の中の結論は一ページにもなりません。二分の一ページにもなりません。み言がそのようになっているでしょう? 百六十二ページ、百六十三ページです。

 何ですか? 結論が、どこですか? 何ページですか? これは別のものでしょう? 最初のものには、巨文島の話が出てきます。完成の日です。絶対性を中心として終わるのです。(「プリントされた本では百八十九ページです。」)

 ここに出ていますね。「平和メッセージ完成の日、二〇〇六年十一月十五日、巨文島にて」とあります。


 先生の時代は過ぎていく

 天正宮博物館においては、「二〇〇七年一月八日午前四時四十二分、完成完結」を宣布しました。

 これは先生です。すべての精誠を尽くして、やり終えたことを報告したものであるということを知らなければなりません。今からは、先生の時代が過ぎていくのです。

 自分たちがしなければなりません。先生に対して支援を願う、それは違います。​天の父母​を中心として実体の父母が一つになり、神様を中心として先頭に立てながら、皆さんがしなければならないのです。

 今までのような、神様が地上のわたしと共にあり、完成できていないわたしを押してくれる時代とは違うのです。神様が、前に立たなければなりません。

 ですから、きょう、皆さんが出発する前に、(「双合十勝日」)三年目の記念日なのでこれを宣布したのです。摂理歴史、摂理世界の先頭に、神様が立たなければならないのです。今から先生は、後ろに戻らなければなりません。称賛することがあれば、文総裁を称賛するのではありません。

 今までレバレンド・ムーンが反対されてきた代表的な言葉が何ですか? 真の父母です。この真の父母を取り戻すために、救世主、メシヤ、再臨主、真の父母、復帰の過程には、このようなたくさんのこぶがぶらさがっていました。それを取ってしまわなければなりません。

 皆さんが真の父母と連結され、神様と、天地父母と連結されようとすれば、神様を足場にするのではなく、真の父母を足場にしなければ、天地父母、神様を連結させることはできません。真の父母が許諾しない皆さんは、天国でも何でも、存在価値がないのです。サタンよりももっと悪い、創造前の土の塊にも劣る位置に落ちるのです。

 再創造の歴史は、言葉だけで終わるのではありません。皆さんが言葉だけであれば、春なら春の風が吹き、夏なら夏の風、秋なら秋の風、冬なら冬の風、春夏秋冬の風が吹く、一年、二年、数十年の歴史が皆さんと何の関係があるのかということです。自分が誇ることができる期間になっていません。

 逆さまに下がっていきます。上がっていくのではありません。引っ繰り返って、上がっていかなければなりません。み言の訓読は、すべて終わりましたか? (「少し残っています。」)それでは読んでください。

 ですから、皆さんは、この日を守らなければなりません。毎年一月八日午前です。一月八日です。新出発する日です。四時四十二分です。サタン数を超えて、完成完結を宣布した記念日です。

 四時四十二分に起きて精誠を尽くさなければなりません。訓読会に参席するためには、精誠を尽くさなければなりません。先生は、十二時を過ぎれば、昔とは違う生活をしています。

 昔は、十二時、一時、二時に寝ましたが、十二時になる二時間前、三時間前、九時、十時になって寝れば、翌日は、必ず一時、二時前には起きるのです。

 きょうもそうです。そうしてすべて準備するのです。歴史時代のすべてのことを、再び行かなければならない道があるのです。


 『天聖経』と「平和のメッセージ」について

 ですから、『天聖経』やこの本(平和のメッセージ)は、皆さんのすべてと自分のすべての先祖を渡しても取り替えることができない本であるということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか?

 先祖も億千万金を出し、神様も億千万金を出して、この本と取り替えてもらわなければなりません。神様も解放されていません。真の父母自身が道を開いておいたので、真の父母がすべて解決しなければならないのです。

 今、先生は、神様が命令していない、以前に完成できなかったその道をすべて超えました。何のことか分かりますか? 「原理」にもなく、復帰の再創造理念の中にもないことまで、やってきたのです。それは根を抜くためです。

 題目が、「神様の理想家庭と平和理想世界王国」ですが、「平和理想世界」は取ってしまってもよいのです。「神様の理想家庭と王国」です。理想家庭の中には、神様のすべてがありました。

 理想家庭、理想氏族、理想民族、理想国家、理想世界、理想天宙、理想天上天国、神様の時代まで、そこにおいては神様と一体となって、神様との一体圏を成さなければなりません。八段階です。

 まず個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代の五段階を超えなければなりませんが、五段階を超えれば、この世界には行く所がありません。このようには連結されません。

 ですから、わたしが再び出発してここに合わせなければならないのです。合わせようとするのですが、サタンがこの中に詰まっているので、合わせることができません。これをすべて除去しなければならないのです。

 神様が除去することは、できないではないですか? 偽りの父母が生じたので、真の父母が千万の受難があっても、それをすべて除去しなければなりません。死ぬことが問題ではなく、これをなくすことが問題なのです。

 皆さんが、今まで暮らしていた、その習慣のままではいけません。今まで統一教会を信じていたそのままの姿ではいけないのです。

 アダムとエバが祝福を受ける前夜祭に現れるとき、あるべきものは何であったでしょうか? 水平を中心として、初めて横的な世界の上に縦的な出発が始まるのです。この横的世界は、すべてのものを立てていては、この縦的世界と横的世界の中心が生じません。

 中心がいくら大きくても……。中心というものは、ここで立てることはできません。ここで二つをぴたっと合わせて広げ、ゆがんだ所を広げた所で中心が立つのです。その四方を中心として、この中心の縦の長さに該当する型が四方にできれば、その分、高くなるのです。これが押してなくなれば、これが生じます。

 皆さんが断食するのは、そういうことです。世の中で願う心と体の欲望をすべて否定してなくしてしまえば、その分、上がっていきます。無視した分、上がっていくのです。

 中心はこの二倍ではありません。この二つに折った半分の所に上がっていくのです。合わせれば、中に縦的な基準がぴたっと一点で出てきます。中心点として、ぴたっと一点が出てくるのです。

 ですから、天は、二倍以上努力してこそ残るということです。そのようにして中心が出てきます。そうではないですか? 二倍にするよりも……。二倍にしても、ここから芽は出てきません。それよりも優っていなければならないので、二倍以上、三倍です。三倍であってこそ、折って入っていき、同じ位置に立つのです。そうでしょう? 三倍になってこそ、出てくるのです。


 「初不得三」

 「初不得三」ですが、「初」と「不得」は駄目です。「三」が中央に留まって出発しなければなりません。言ってみてください、「初不得三」。(「初不得三。」)

 わたしたちは、サタンに勝ってこそ、新しい出発ができます。「初不得三」です。ですから、これを中央で半分に折っておけば、この位置を中心として、この中の値がこれと同じにならなければなりません。二つが合わさって代表……。ここでは、一人で行くのではありません。相対理想です。一つ、二つ、三つ。そうでしょう?

 二つが一つになっていないので、三つが一つになりません。二つが一つになり、折って挟み、一つを立てようと犠牲になってこそ……。二倍以上、三倍以上しなければなりません。これは、主人が来てしてくれます。宗教であれば、教団の責任者たちが責任を果たさなければなりません。

 教団の責任者たちが、その権威を中心として……。これは、世界の中心ですが、教会の中心はこれしかありません。そこで、神様が自分と共にあると言い、神様のみ旨がどうだと言いますが、どうやってそこから出発するのですか? 出発できないので、そこで動けば動くほど、だんだん、だんだん落ちていくのです。

 それで、すべての主義が世界主義を主張するその時は、共産主義も滅び、キリスト教主義も滅びます。それがすべてなくなり、残るべきものは、キリスト教や共産主義が求めようとしていた世界主義が残るのです。それは、神様を中心としてアダムとエバ、本然の理想的な基準である最初と二番目と三番目が残ります。三番目が真ん中になっています。そうでしょう? そうではないですか?

 このようにこの二つを折れば、中央がどこかというと、この縦的なものは、二つが合わさった中心に立つので、半分にしかならない所です。その二つの生命体を中心として、その根源がすべてそこにぶらさがっています。

 ですから、絶対に一つにならなければなりません。分かれた存在はありません。絶対信仰という観、絶対服従という観、そこに横的に延長した……。折る前のその延長が役に立ちますか? そうでしょう?

 右側と左側の二つが合わさり、その中に、三を挟んで入れなければなりません。右側と左側の代表なので、そこから根になり、幹になり、新芽が出てこなければなりません。新芽というものは、統一された縦的基準の中心です。

 自分個人主義ではありません。天宙主義まで拡大するのです。人間が暮らしている今の生活環境では、いくら理想が発動してもそこには届きません。その最高の中心、最高の高い所に神様がいるというのですから、そこは安全地帯でしょう。自分のあらゆる精誠を尽くして、それがそこに届けば、神様がそこから下りてくるのです。

 それでは、ここに備えたすべてのものは自分のものではありません。中心のためのものです。中心のために存在するものであって、それが自分のものだという女性や男性たちは、どろぼうです。

 地にあったものを、わたしが天に上げ、神様の所有権内に広げなければなりません。広げれば、下りてくるのです。ここから下りてくるので、サタン世界はなくなります。このように回っていくのです。それで、サタン世界はなくなります。存在することができません。

 ですから、百八十度の基準から上がっていき下りてこようとするときは、サタン世界はありえません。回れば回るほど、すべて風が押してくれ、作動するのです。それで、反対がありません。解放釈放時代が来るのです。

 運動の法則がそのようになっています。じっと見てみれば、運動がそのようになっているのです。それを、度数を合わせて解いていくのです。双合十勝というものが、神様の日になります。

 数に対して、一、二、三、四、五、六、七、八、九まではサタンが支配しました。それで十分の一献金です。十分の一献金というものは、神様にささげるのです。そうすることによって、人間の体はサタンのものになりましたが、神様が人間のしっぽにくっついて離れずにいることができるのです。

 しっぽが生きて、体まで生かそうとすれば、天が霊界に入っていって補充して連結させてあげなければなりませんが、そのしっぽがありません。父母がしっぽになりますか?

 ですから、上がっていってから下りてくるとき、頭がしっぽになり、しっぽが頭になって戻ってこなければなりません。そのようになるではないですか? それで回るのです。回る原則があるので、逆さまの形になっても、それは立て直すための不可避な結論です。


 所有権について

 それで、皆さんが生まれるとき、自分の主人がいますか? 父母も自分の父母ではありません。父母自体も自分の父母ではないのです。自分という存在が、母親の卵子と父親の精子が一つになる場に自分がいましたか? 自分の所有権がどこにあるのかということです。すべて母親と父親の所有権でしょう。

 ですから、父母を信じることができなければなりません。この原則を知れば、孝子にならなければなりません。聖人でも何でも、道人の道というものは必要ありません。宗教でも何でも、必要ありません。父母がいて、そこで母親が認め、父親が認めてこそ自分のものになり、自分の体のように考えてくれてこそ、自分の所有権が生じるのです。

 父母はそうです。皆さんはそうではないでしょう? 父はわたしの父であり、母は永遠のわたしの根本であると考えていますか?

 めちゃくちゃになりました。堕落世界では、母が死ねばよいと考え、父が死ねばよいと考え、兄が死ねばよいと考えているでしょう? それは、すべて自分のために……。地が土でわたしを立ててくれたのに、これ(地)を否定すれば、自分はなくなるのです。

 それは、「地獄に行ってはいけない。」と言っても、地獄に行きます。簡単なことです。それは難しいことではありません。哲学や宗教は必要ないのです。それを知らなければなりません。

 皆さん、先生がしたことは、皆さんも自分の生涯ですべてしなければなりません。祝福結婚式をしなければならないでしょう? 天の国の国民証を受けなければなりません。何でもよいのではないというのです。

 先生が死の峠道を歩んできたことが、すべて骨になっていて、手が、骨が……。骨をかたどって体が生じるのです。この地上の堕落した人間たちは、骨がありません。骨があるとしても、臨時のものであり、しばらくの間あるだけで、サタンが喜ぶものです。

 アダムでいえば、一代に連結できる、ふにゃふにゃした骨があったかもしれませんが、それはあってもなくても同じです。十年の歳月で見れば、なかったのと同じです。かえって妨害になるのです。自分の所有権があってはいけません。

 自分の夫と妻が、今から神様が勝利した天国を中心として認定されなければなりません。その天国は、堕落する前の神様の創造理想世界での一つの天上天下であり、天上天国です。それが地に下りてこなければならないというのです。

 地上世界と天上世界は、別々ではなく一つの世界です。天国だけがあり、神様を中心としてわたしの父であり、息子、娘にならなければなりません。「神様の家庭がわたしの家庭である。」と言うことができ、共に暮らすことができる立場にならなければならないのです。

 この天正宮博物館が皆さんの家ですか? 三日なら三日、一週間なら一週間に一度ずつここに来て眠りたい、そうでなければなりません。眠らなければならないのです。ここに連結した地、北漢江の川を中心としてこの川、京畿道、江原道の境界線を引いている、この二つの世界をだれも思いどおりに入ってくることができません。今すべて入ってきているのです。

 ここに、統一教会に反対した人がいます。訓母様を苦労させ、引っかいて血肉をはがし、自分が裕福に暮らそうとした人です。どうなるか、黙って見ていなさい。

 最初はうまくいくように見えますが、だんだん、だんだん風に飛ばされてしまうのです。吹きつける暴風雨は、それをほうっておきません。いくら砂漠の丘があっても、風が吹けば平地になるのです。ぴたっとそのようになります。

 ここに上がっていくのですが、自分の土地があっても、自分がその主人ですか? 神様のものなのですから、神様にお返ししていないものがあれば、墓でも何でも、自分の先祖たちが来て、すべて入れ替えなければなりません。

 それで、ここに新しい花や木を植えるのです。クロフネツツジですか? (「つつじ浄火祭です。」)浄火祭ですか? 浄火祭とは何ですか?

 祝賀するのです。祝賀というものは、神様を抜かしてだれを見て祝賀するのですか? わたし、文総裁は、どれほど苦労した体かということです。サタンに打たれた跡が多いのです。

 その跡は、うれしいものではありません。わたしは苦労しますが、皆さんの苦労をすべて超えさせてあげるのです。ですから、わたしが飢え、わたしが困難でも、皆さんがみ旨を知り、生死の境を意に介さずに行こうとする人には、自分の服を脱いで与え、皮を脱いで与え、肉を脱いで与え、骨を与えてあげるのです。父母がそうです。父母の心情がそうなのです。

 ところが、皆さんが死ぬまで先生を利用し、先生の世話になり、先生を苦しめて死ねば、どうなるでしょうか? では、先生を愛していますか? (「はい。」)どのように愛するのですか?

 自分は、山が溶けて砂の海になり、砂の海が緑地帯になり、花が咲き、オアシスのような泉になって草木が育ち、そこで畑仕事をして神様をお迎えしようと考えなければならないのが、堕落によって地獄に行っている人たちの立場です。

 わたしは、それをそっくりそのままつかんで水平にし、ちょうど半分のここに立たなければなりません。自分中心に、これもわたしのものであり、これもわたしのものだと、永遠にそのようになれば、上がっていくことができません。

 天国がないのです。そうではないですか? 地で億万年暮らしたいと思うでしょう? 霊界に行きたいという思いがありますか? 中心がなければ、中心にいることはできません。中心になるためには、四方、東西南北を中心とすれば、東西南北にすべて与えなければなりません。

 それで、先生は、韓国人として韓国のために生きたのではなく、世界の人のために生きました。どこかの島国に行けば……。島の中で、いちばん大きな島はどの島ですか? (「世界で、ですか?」)そうです。(「オーストラリアがいちばん大きいです。」)オーストラリアは大陸でしょう。(「はい。」)

 島国に旗を挿さなければなりません。ですから今、韓国の地にある四千三百の島を、わたしに任せなさいということです。先生がそのように懇切に願っても、黄善祚氏は、「先生だから言うのだろう。」と、すべて忘れてしまうでしょう? やらなければ、先生が大統領を立ててしまわなければなりません。

 皆さんが先頭に立たなければ、わたしが先頭に立たなければなりません。わたしが先頭に立つことはできないのです。十二か国の大統領を立ててこそ、先頭に立つことができます。十二支派長ではないですか? そうではないですか?

 二千年前、イエス様もその十倍、百二十か国の上に立たなければなりませんでした。ローマを消化すればよいのです。ですから、環境を創造した神様がイエス様を送りましたが、イエス様が行くべき環境においては、そこに主体と対象の組織を編成し、人生と国の形態を成すのは、イエス様自身がしなければなりません。

 皆さんに、すべてただでしてあげたのですが、これをもってこれを成していける部屋もありません。公的な部屋がないではないですか。すべて公的な所有です。ですから、ここにすべての財産をはたいて入れなければならないのです。

 先生が、ここに修理できるお金を用意しなければなりません。また、ほかの宮殿を建てて拡大するために、この宮殿で食べさせることができず、着せることができず、覆うことができずにいるのです。ないからです。自分たちが平安に暮らして、ここに来て、「自分の宮殿である。」と言うことができますか? これが自分の宮殿ですか? それをしなければなりません。

 訓母様、来ていませんか? 訓母!

 きょう五時に訓母様がよく来ました。きちんと知っているからです。日本に行って、責任を果たしなさいと忠告するのです。十七日まで、負債を負ったまま超えてはいけません。負債を負えば、その負債を返して超えていかなければならないのです。

 それで、そこにいる人たちを、どこかに移動できる条件を立て、時になれば移動してしまわなければなりません。今のままでは、日本の国の人は、生きていけません。流れていって、すべてなくなってしまうのです。ですから、深刻なのです。

 さあ、わたしがする話ではありません。結論を下しましょう。(「結論を、最後に奉読いたします。」)最後をよく聞いてください。(訓読)


 わたしはない

 これが一つです。この中にわたしが入っていかなければならないのです。わたしはありません。わたしはないのです。こうして、これが一つの年輪になってこうなります。年輪になるのです。何千年たっても一つの木です。先生と共に同じ年輪にならなければなりません。年輪になっていないでしょう?

 自分たちの所有権はありません。先生の年輪の前から離れれば、離れたものはいつでも破壊されるようになっています。皆さんの一族が引っかかります。

 文氏なら文氏自体が、全体の年輪の中に入っていくことができなくなれば、残された年輪となって、行く道の前に千年万年怨讐です。サタンの振る舞いをするのです。清くなければなりません。

 先生のような年輪……。この年輪が神様の年輪ではないですか? そうではないですか? 心と体が一つになり、それが神様を中心とする年輪にならなければならないのですが、体自体が、自分のもう一つの所有権を中心として天を否定する立場に立つようになれば、これはなくなるのです。

 今からは、救援摂理がないので、残りません。なくなるのです。だれが救ってくれますか? 皆、知っているでしょう? 天国に行ける図面をすべて与えました。これを持っていれば、だれか反対すると思いますか? これを一枚(一ページ)でもつかんで離さなければ、天国に上がっていくのです。

 この本自体が完全な本です。ですから、この本が天上に上がっていくとき、皆さんがつかんだページが破れてはいけないので、皆さんも一緒に引っ張られて上がっていくのです。

 そうなれば、霊界に行った先祖たちはどのようになるでしょうか? ほかの世界に行き、島国のような所に連れて行って、再び教育しなければなりません。それは、先生が行ってするとき、一対一です。条件的な蕩減時代ではありません。春夏秋冬、四季の結実までも、実ができていれば、実に該当するものまでもすべて蕩減されなければなりません。

 エデンの園の土の中に、すべて埋められて戻っていくでしょう? 死んだ人類を燃やして、その灰のようなもので再びつくることはできません。そうではないですか? 本然の土になりません。それ自体が神様の墓になるのです。神様がそれに見向きもせず、それを避けて遠回りするのです。

 優れていると自分を誇っていたことそれ自体が、自分の先祖たちまでなくしてしまうのです。先祖までなくなります。ですから、父母を失ってしまうのです。天地父母と個人的にどのような関係であり、家庭的にどのような関係であり、天地とどのような関係があるのですか?

 わたしは関係がないでしょう。生きていくのに、日月星辰も空気もすべて「関係ない。」と言い、太陽が「関係ない。」と言えば……。関係のあるいちばん重要なものを知らず、一人ですべてなくしてしまいながら、ありがたさを知らずに生きているでしょう? 地に対してありがたいと思い、空気に対してありがたいと思い、太陽に対してありがたいと思いますか?

 未開人たちのほうが、むしろりっぱなのです。文明人たちは、夢にもそのようなことは思いません。未開人たちは、それでも自分よりも大きなものの前に頭を下げようとするのです。それが迷信(自然崇拝)です。迷信の王の峠を越えてこそ、善の人が生まれるのです。

 そうでなければ人の根本がなくなります。そのようなことを深刻に考えれば、どうして独りで暮らせますか? 人里離れて独りで暮らし、働きもせずに暮らせるのですか? ほかのものは、虫のように動いて働いています。太陽もそうであり、日月星辰、すべてのものが万宇宙の存在を生かすために存在し、働き、消耗して犠牲になり、努力して子女を生むのです。なくならないために子女を生むのです。

 最近は、女性たちが子供を嫌うでしょう? 夫も嫌い、女性だけがいなければならないと思っています。女性だけで一人で暮らしてみなさい。

 あとで影もなくなります。故郷もなく、父母もなく、独りで自殺して死んだ後、復活して生き返ると思いますか? 自分で自分を殺した者を、だれが生かしてくれますか? 生かすことができる時代の恵沢を真の父母が与えたのに、また自殺したいというのですか?

 父母に連帯責任があるのです。生かすことができなければ、皆さんの息子、娘、皆さんの子孫が地獄に行くのです。ですから、善の子女の服に着替えさせるまでは、境界線を越えることができません。

 礼服がなければ、人が行き来する村の祝宴の場に入っていって食べ物にあずかることはできても、本当の新郎を迎える場には入れません。そのような主人のいる場に入っていくためには、主人の祝宴を手伝ったという何かの内容がなければ、その場にいることはできないのです。恵んでもらってばかりいる人が、主人の位置に立つことができますか? 追い出されるのです。

 天正宮博物館の主人はだれですか? 神様ですか、先生ですか? 皆さんですか? 皆さんが父母の名によって、真の父母の名によって一つになっていると、この周辺に来て……。

 とんでもないことでしょう。世の中の人が、いくら見物したいと思っても、ここに来ることはできません。許諾しません。「十年、百年、この境界線に入ってくることはできない。」と言えば、ここに訪ねてくる人が何人くらいになるでしょうか? 皆さんは、サタンの四親等、サタンの十親等、サタンの百親等、何と言いますか? 影のような人が入ってくることはできません。

 それを知らなければなりません。深刻に考えずに、ただ群れの中で押されていきながら食べる物を恵んでもらう、そのような不規則(無秩序)な民はありえないのです。それをすべて目覚めさせるために……。

 峠を越えようとすれば、自分が越えなければなりません。だれも越えさせてくれません。最近は飛行機があり、ヘリコプターがあるので、ありがたいのです。統一教会員たちは、ヘリコプターに乗って、飛行機に乗って行き来しましたか? 先生がそのようにしているので、皆さんにもそのような時が来ます。サタン世界が黙っていますか? 過った人は、かみつかれてのびてしまうでしょう。

 ですから、皆さんの先祖が、過去において皆サタン側に入っているので、早く先祖たちを救ってあげるようにということです。

 アダムとエバを最後に創ったでしょう? 今は、皆さんを祝福して先に創ったので、父母の代身、先祖の代身にならなければなりません。

 そうでなければ、先祖たちが逆さまに引っ張っていくのです。また、親戚が怨讐になります。ですから、親戚を祝福するのです。族長たちをすべて祝福したでしょう? すべてしました。先生がそのようなことを無責任に流してしまったりしません。

 今、カインの王たちを皆呼んで参席させています。何が何でも、自分の国の王は、手紙ででもアベルUNの加入書を書かせるのです。書かなければ追い出されます。神様の怨讐であるサタン世界の何倍もの城が、包囲してしまうのです。それは、越えることができません。

 女性が女性を好み、男性が男性を好んで友達になり、そこで……。それは、島国に追放してしまわなければなりません。本来は、男性と女性が一つになって子女を生まなければならないのに、男性は男性同士で暮らし、女性は女性同士で暮らし、互いに自分たちが一番だと言って争うので、最後には皆死んで、なくなるのです。

 今、女性時代が来たと言うでしょう? 女性時代を誇ったからといって、生きることができるのですか? だれが女性時代をつくってくれたのですか? 神様です。天のお父様です。お父様なのです。

 それでは、その時代になって青春を迎えても、赤ん坊を生めなかったおばあさんになれば、どれほど恨が大きいでしょうか? 尽くした精誠がすべて流れていく精誠になるのです。

 歴史時代の新しい時代において、新天新地で精誠を尽くす清い男女が、新しい夫婦の立場で赤ん坊を生むことができていないので、分身をつくりなさいということです。母の分身、父の分身です。接ぎ木してあげるのではないですか? 接ぎ木してあげて代身者になりなさいということです。接ぎ木するということは恐ろしい話です。そのようなことをよく知らなければなりません。


 きょうから神様が先頭に立つ

 きょうから摂理上において、だれが先頭に立つのですか? (「神様です。」)先生が独り祈祷してきたのです。「このような日になります。」と祈祷してきたのです。

 ですから、そのような特別な日なので、先生自身も、時間がなくて精誠を尽くせなければそれを悔い改め、そこに条件を立ててこなければなりません。「このようなことで代身します。」と、そのようにしてこそ引っかかりません。そのようにしなければ波風が立つのです。

 ですから、九十になろうとどうなろうと、座って……。座っていれば足が痛むのです。二時間より三時間はもっと腫れます。立っていても腫れるのです。どうしますか? 横になって暮らさなければなりません。横になって暮らしてもそうです。横になっても、腫れたものがよくなりません。ですから、地上で生きられる時間が長くありません。自分の体の重さがだんだんとどのように変わっていくのかを知ることで、(地上に)いる日があまりないということが分かるのです。

 それで、あの国に行って第二次的な責任が残っているので、その責任を果たすために今準備するのです。

 このような怨讐がいたのに、あの国ではどのようにするつもりですか? 天の直系の息子、娘を刃物で切って殺すのを現場で見た神様が、赦すことができたのかということです。

 「あいつを殺しなさい。あいつの刃物を奪いなさい。」、このようにできなかった天の事情……。神様がそれに手を出すことができなかったので、再臨主が、息子という人が何十倍の鍛錬を受けました。

 そのような怨讐は、先生が喜ばない人であり、夢に見るのも嫌う人であるにもかかわらず、天上に行くときにそのような人を連れて行くのですか? 新しい保留地域があるということを知らなければなりません。

 今は一つの体制なので、地獄と天国が合わさって完全に入れ替わるのです。夏が夏にならなければならないのであって、秋になってよいのですか? そうではないですか?

 皆さん、それを知らなければなりません。あの国に行っても、先生についていくことができません。地で先生が「来なさい、来なさい。」と言っても、来ることができなかったのですから、先生が訪ねていくこともありませんが、訪ねていっても収拾しません。知らないふりをします。それが人情の常です。人が互いに持っている情なのです。

 ですから、先生は、だれの名前も記憶しないようにしようと思っています。姉の名前までもすべて忘れてしまおうと思うのです。もうろくすることを何と言いますか? (「痴呆です。」)侵害ですか、痴呆ですか? (「痴呆です。」)(韓国語で「侵害」と「痴呆」は同じ発音になる)「痴呆」はどのような意味ですか?

 「侵害」です。「害なので沈んだ」という話です。役に立たないということです。かえって妨害です。長生きしようとすれば、朴パク正敏さんのように痴呆にかからない自信がありますか? 今、九十四歳だそうですね。わたしは九十二歳だと思っていたのですが、二歳上の九十四歳だそうです。

 きょうが何の日ですか? 「双合十勝日」ですが、朴正敏さんが出てきて、一曲歌でも歌って、全員で一度万歳をしましょう。

 神様が代表としてこの地上に責任を持つときは、一晩で天下をすべて引っ繰り返し、わたしが願うとおりにするのです。朝になれば夜が来ます。朝に、「ああ、わたしは朝に目が覚めたが、夜が必要だ。」と考えても、夜になりますか?

 まっすぐに立ってみてください。このように体が曲がっています。それが習慣になっているからです。きょう、暗唱したいものをすべて暗唱してみてください。わたしがちょっと聞いてあげます。歌も歌い、暗唱したいものをすべて話してみてください。(朴正敏 勧 士の歌)話したいことを話してみてください。きょうは何ですか? (朴正敏勧士の証し)

 女性たちは、一年に一度ずつ精誠を尽くして朴正敏さんに食事を接待し、喜ばせてあげることが、自分たちが天国に行く一番の近道であると考えるのがよいのです。「あのおばあさんは、遠からず死ぬので関係ない。」と考えてはいけません。

 また、その次に、姜賢實さん。(「はい。」)一度、愚痴を話してみてください。「愚痴」というのは、「お釈迦様の経文だ。」と考えていましたが、自分の嘆かわしい愚痴を話してみてください。(姜賢實会長の証し)(史吉子会長の証し)

 演説文は、すべて終わりましたか、終わっていませんか? (「はい、少し残っています。」)終えましょう。これが必要です。中間に入れておいたものは、すべて必要なのです。きょうは記念する日なので、このような話をすべて聞いて、ふろしきをすべて解き、真っ黒なものを洗わなければなりません。

 自分自身が知っているので、良いものは残しておき、良くないものはすべてほうり投げるのです。毎日のように見物しなければなりません。天国に行けることがどれほど美しく、どれほど巧みで、どれほど不思議で、どれほど貴いかという事実を知らなければなりません。さあ! (訓読)(郭錠煥会長の祈祷)

 きょうたくさんのことを聞き、たくさんのことを感じ、たくさんのことを考え、そのことが皆さんの実として実るように努力さえすればよいのです。結実した世界は永遠です。(「億万歳」三唱)

 今から四回目を迎えるときは、健康で恥ずかしくない皆さんになることを決心するように願います。分かりますか? (「はい。」)


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Last updated  2021.05.05 21:51:07
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「本郷を探して」

一九六七年五月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』


 故郷は、自分がいた所、離れれば懐かしい所、行きたい所、住みたい所です。

◆本郷を懐かしんできた人間

 今日、この世の中には多くの人が住んでいますが、すべての人に、真の故郷、真の本郷があるかと尋ねてみれば、「ある」と答えられる人はいません。「ここは私たちの先祖のころから願った所であり、世界万民が懐かしがり、来たいし住みたい所であり、千秋万代の子孫がここを離れては生きられない」と言える所、そのような本郷がどこにあるのかというのです。

 昔イエス様はユダヤの国に生まれましたが、本当の意味において、ユダヤの国はイエス様の本郷にはなれませんでした。ユダヤの国がイエス様の真の本郷になったとすれば、そこを永遠に懐かしがり、そこに住みたかったはずですが、イエス様はその地をあとにして四方八方へ放浪しなければなりませんでした。

 では本郷に行って、何をするのでしょうか。本郷に行って、闘おうというのではありません。本郷に行って、客のようにしようというのではありません。愛を中心として生きようというのです。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛、親戚たちの愛を中心として生きようというのです。

 私たちは故郷を訪ねていき、その親戚たちが好む自然とともに、愛の原則を伝授しなければならない使命をもっています。人が強い愛の力をもとうとすれば、故郷と因縁をもたなければなりません。ですから、故郷は懐かしい所です。故郷を懐かしむことのできる圏内で生きている人は自信に満ちています。

 もし、その故郷が万民が懐かしがることができ、喜びに満ちあふれる本郷であれば、私たちは他の所を探そうと努力しなくても、そこで家庭を中心として父母の愛と兄弟の愛を楽しみながら、その愛の中に浸って生きる生活をするでしょう。

 今まで歴史が流れいく間、数多くの人々が生まれては死にました。その中には数多くの預言者もいて、また預言者を代表する聖賢もいました。ところで、その中に「万民が永遠にとどまることのできる本郷の地はここだ」と宣布した人がいたでしょうか。あらゆる聖賢が過ぎ去り、その聖賢が生まれた故郷も忘れられてしまいました。

 さらにさかのぼり、人類始祖のアダムとエバに「あなた方には真の本郷があるか」と尋ねれば、彼らもやはり「本郷をもつことができなかった」と言うでしょう。本郷というのは、幸福を謳歌し、父母の愛に浸り、天地万物を主管しながら、天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所なのです。

 人類始祖が本郷を見ることはできなかったので、その子孫も分からないのです。それゆえに、人間世界は堕落した世界であり、悪の世界なのです。

◆本郷とはどのような所か

 本然の地とはどのような所なのでしょうか。悪がとどまる所ではなく、悪から完全に切り離され、あふれる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を謳歌して生きる、永遠の統一世界なのです。ところがそのような所で生活した人がいたでしょうか。一人もいませんでした。歴史上で数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、その世界はこの地上に立てられませんでした。その世界がどのような世界であるのかを話した人はたくさんいましたが、自ら実践してその世界を築いた人はいませんでした。

 孔子も同じであり、イエス様も同じです。イエス様も本郷の地を創建するために来られましたが、本郷を創建できずに逝かれたのです。「天国はあなたの心の内にある」と語られましたが、イエス様も天国を直接見ることはできませんでした。したがって、すべての人は本郷を探すために行くのです

 では、その世界はどのような世界なのでしょうか。互いに憎み合いながら、人がうまくいけば腹痛く、人がうれしがれば死にそうだという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことであり、一人が喜ぶのは全体に代わって喜ぶことであるので、一人が喜ぶことは全体が喜ぶことであり、一人が喜べば全体がついて喜ぶ世界です。それが本郷です。

 修道の道を行く人々、あるいは信仰生活をする人々が、環境の難しさを顧みず、迫害の矢を受けながらも探そうと内的に外的に決心して確かめていく目的は、より良い所を探していこうということです。

◆良心はなぜ絶えず命令するのか

 世界の各民族ごとに文化背景が違い、社会制度が違い、生活習慣が違うので、本郷の世界を構想する方向もみな違います。古今東西の文化圏をつくり出してきた観点でも、同じ環境圏内に住む人々の指向する方向がそれぞれ違うので、その願う本郷、目的地もやはり違うのです。しかしながら、すべての人間がもっと良い所を探しているということには違いありません。

 私たちが生活で体験せざるを得ないことは、一日二十四時間を過ごす中で、個人生活でも社会生活でも、生活においてぶつかるすべてのことに心がいちいち干渉するということです。そのようにしてはならない、そちらへ行ってはならない、こちらに行かなければならない、その人を寝かせてはいけない、その人を起こさなければならないというふうに、良心はいちいち干渉するのです。

 その良心に「何のためにそのように干渉するのか」と尋ねれば、その良心の返答は簡単でしょう。「私がより良くなるために、より良い私がより良い環境で暮らせるように、昼も夜もなく命令するのだ」と答えるでしょう。

 では、良心はどの程度良いことを願って命令するのでしょうか。自分が一銭もない貧しい旅人のような身の上にあるからといって、自分が直面している衣食住の問題を解決することだけで満足することはできないのです。たとえその場では満足だとしても、それが一週間は続かないのです。その場では喜び、「良かった」と言うかもしれませんが、自分の人生全体において見るとき、良心は決してそこで「休め」とは言わないのです。「それが内外に永遠に安息できる所だ」と言わず、行け、また行けと命令するのです。

◆欲の深い神様

 宇宙の中で欲が最も深い方は誰でしょうか。神様です。園に行ってじっと見れば、小さな虫がいて、鳥たちがさえずり、土のにおいが漂いますが、自然に潜んでいる神秘が本当に美しいということを感じて「神様は欲が深くて、たくさん創造なさったんだなあ」と考えることができます。芝生のような所に行ってじっと眺めれば、小さい虫が行ったり来たりする通路があります。平べったい虫、真ん丸い虫、とがっている虫など、あらゆる虫が行ったり来たりします。

 ところがそのようなことも知らずに、私たちが「ふかふかして良い」と言って芝生に腰を下ろせば、そこで行ったり来たりするお兄さん虫、お嬢さん虫が哀れにも「ああ! 死にそうだ」と言って、生かしてくれと叫ぶでしょう。

 虫たちも人間と同じく、呼吸器官、消化器官などよく見えませんが、人間が備えている調和したすべての器官を備えています。その世界は単純だと考えるかもしれませんが、決して単純ではありません。今後、先生は世界的な研究者を立てて、そのような世界を探求させようと思います。

 神様に欲がなければ、そのようなものをお造りにはならなかったのです。この世を造られた神様は、欲が無限に深いのです。そのような神様が、イエス様をこの地にお送りになったので、イエス様も欲が無限に深かったのです。それでイエス様はこの世界に無限に与えようとされました。神様は欲が深い方なので、胸に抱いていた欲をすべて満たす場合には「仲むつまじくしなさい」と言ってひとしきり楽しまれるでしょう。

 宇宙の多くの惑星の中で太陽系を見れば、多くの惑星によって成されていますが、その多くの惑星は、自分勝手に動くのではありません。太陽を中心として、ある惑星は一年に何周、またある惑星は十年に何周、百年、千年に何周かずつぐるぐる回っているのに、互いにぶつからず、また、自分の位置を離れてどこかへ行ったりもしません。

 そのようなことに比べれば、この地球に生きている人々の暮らしは、子供たちのままごと遊びのようなものです。ほこりほどにもならない極めて小さなものです。そのような地球にしがみついて生きている人々の姿を想像してみると、おもしろいのです。

◆大きな心をもった人間は貴い存在

 全天下の万物にはそのような素質と欲がありません。宇宙万象の中で永遠に生きる人間だけがそのような欲をもっています。そのような人間の心を広げておけば、全宇宙まで詰め込んでもいっぱいにならないでしょう。そこに最も欲の深い神様までもそっと迎えて、楽に横たえてさしあげることのできる雅量をもっているのが人間の心なのです。人間にはこのような貴い心があるので、万物の霊長だというのです。もし人間にそのような心がなければ、人間は悲惨です。

 人間はこのような心をもっているために貴い存在なのです。では、この心は何を命令するのでしょうか。悪の立場では、死ぬようなことがあっても「入るな」と命令します。悪は必ず滅びるようになっていて、善はいくら迫害を受けても滅びずに勝利するようになっています。

 歴史上に現れたすべての聖人賢哲は、善なる立場で、世間的に見れば滅びる道を行きました。しかしながら、一時代を導いていく時代的運勢と世界的運勢は天運の行く道を防げることはできないので、天運圏内で働く人は、世界的な運勢や時代的な運勢を飛び越えることができるのです。世界を心のままに動かすことのできる世界的な運勢も、天地を創造した神様の目標圏内で動くのです。

◆人間の欲望の末

 世界を見れば、台風が吹く所、津波が起きて大騒ぎする所、雨が降る所、雪が降る所など、ありとあらゆることが起きる所があるはずです。しかし、そのような現象は地球の大気圏内で起こる現象です。

 ところが、このような小さな地球星を越えて巨大な宇宙を眺めれば、宇宙にはどのような現象が起こっているのでしょうか。私たちが想像もできないことが、絶対的で奥妙な調和の中で千態万状に起こっているはずです。

 それゆえ、私たちの心はより良いことを願うのです。心が願うものはどれほどのものかといえば、神様を占領したとしても足りず、「もっとしろ、もっとしろ」と言うでしょう。神様まで占領しても安息しないというのです。

 そうであるなら、心は何を探さなければならず、何を中心として初めて永遠の安定圏に浸って安息することができるのでしょうか。怨讐を征服しても安息することができず、イエス様を占領しても安息することができず、宇宙を創造なさった神様を占領しても安息することはできません。そうかといって、心が目的なく動くのではありません。

 どのようなものでも目的なく作用するということはありません。ある分子が動くにも目的なしでは動きません。自分に損となる作用は絶対しないというのです。互いにプラスとなるように動くことが天地の法度なのです。

 お一人でいらっしゃる神様、その神様の愛をそっくり占領して、自分のすべきことを差し置いて、歴史の恨を解いて安息するときには、神様も踊るでしょうし、世の中もすべて踊るでしょう。心はそのような一日を夢見るのです。

 修道の道を行く究極的な目的も天国に行くことではなく、神様を知ることでもありません。神様の愛を占領することなのです。

 この上なく良く、この上なく高い永遠の世界へ行こうとするのが人間の本能なのです。その本能は、神様に似てそのようになっているのです。天主の欲望があり、人間はその天主の息子、娘として造られたがゆえに、人間の本能はその基準に似たのです。

 それゆえ、人間の心は永遠に神様と一つとなり、真の人の生活基準に接することを願い、真の心で生活できることを願うのです。そうして、真の心の中心が立つようになれば、真の愛に永遠に接ぎ木されようとするのが人間の欲望なのです。

◆神様と人間は父と子

 今まで世界的に多くの宗教がありましたが、その宗教は何を教えなければならないのでしょうか。どのような宗教でも、まず第一に神様について教えなければなりません。神様について教えない宗教は宗教ではありません。神様について教えるにも、漠然と教える宗教は不確実な宗教です。

 では、どのように教える宗教が真の宗教なのでしょうか。神様がいらっしゃるならばどのような方であり、神様の人格はどうか、また、神様の愛はどうかということについて教える宗教が真の宗教です。世界的な宗教の中でこのような内的な深い事情をもって現れた宗教があるならば、それはまさしくキリスト教です。

 では、キリスト教では神様をどのように教えてきましたか。父だと教えてきたのです。それで「父なる神」と呼ぶのです。地上の人間たちは、その父と同格の立場に来られる主を新郎として迎えなければなりません。そして、その新郎に侍る新婦は、神様を信じる聖徒です。このように、キリスト教はすべての家庭の中心となる基準を宣布しておきました。

 多くの宗教の教祖たちが探している所は、心が永遠にとどまることのできる所です。もし、彼らの宗教にも真理があるならば、その真理は神様を確実に教え、また神様と人間との関係を確実に教え得るものでなければなりません。また、教えるときにも、愛を中心として教えなければそれは流言飛語にすぎないのです。教える教理などの差によって、宗教の分裂が生じます。

 数多くの宗教の中でキリスト教が中心であり、イエス様はこの地に来られて、「私は神様のひとり子である、人間の世の中に神様の息子として生まれた者は私しかいない」と宣布しました。父の息子として生まれたということは、父の骨髄を受け、父の血肉を受けて生まれたということです。それは、父なる神様の血が動じ、肉が絡み合い、骨がぶつかり合って生まれたということなのです。

 親子の間柄は、子が悲しめば親はより一層悲しみ、子が喜べば親はより一層喜ぶ間柄です。そのような親子の因縁は、世の中のどのような公式や法度でも切ることができず、どのような権勢や名誉でも否定することができません。自分の父であるので、誰かが現れて刀を胸に突きつけて、お前の父ではないと答えろと脅迫したとしても、たとえその場を免れるために言葉では父を否定するかもしれませんが、内心では「私の父だ。私はその子供だ」と、より一層念を押すでしょう。このようなことは誰にも否定することはできません。宇宙を革新し、宇宙を革命し、宇宙を破綻させることのできる頭脳をもった者だとしても、これを否定することはできません。父子の因縁を否定することのできる根拠はどこにも存在しないのです。

 このような観点から、イエス様がこの地上で神様を「父」と呼んだということは、万代を治めることのできる特権的な中心的使命をもって来られたという事実を、万有の前に闡明にすることだったのです。

◆キリスト教の目的

 私たちが神様を探していく過程では、新郎新婦の立場でした。それゆえ、キリスト教は新婦の宗教なのです。他の宗教にはない、父の骨身に深く深くしっかりと込められている愛の因縁を人間の世の中に紹介すべき新郎新婦の宗教です。多くの宗教が真理として自由な、また観念的な理想を論じましたが、愛が直接的に生活の舞台に絡んで、愛によって覆す争いの歴史を経ていく宗教はキリスト教だけです。

 イエス様が新婦を探していく過程では新郎ですが、婚宴が終わったのちには兄弟となります。男性には兄となり、女性には兄さんとなるのです。「お兄さん」「弟(妹)」と呼ぶときには、既に主従関係が成立しています。横的な立場で訪ねてきて、主従関係を確立するのです。

 立体的な世界だけで妄想する宗教は、理想的な宗教ではありません。立体的な世界の内容をもって、横的、平面的な世界の実像を土台とする一つの宗教でなければ、理想的な宗教にはなれません。なぜなら、人は心と体から成っているので、心は立体的な世界と関係をもち、体は平面的な世界と関係をもち、二つの世界に理想的な根拠を備えなければならないからです。それが愛の世界です。それでイエス様に会ったのちには、兄弟関係として立つようになります。

 新郎新婦の関係というのはいつも危険なものです。夫婦はいつでも離婚が成立する可能性があります。しかしながら、兄弟や兄妹関係は切ることができません。いくら切ろうとしても、血統がつながっているために切ることができない関係なのです。それゆえ、兄弟や兄妹関係がより良いのです。

 今までキリスト教が探してきたものとは何でしょうか。それは神様を知ることであり、神様が送られた新郎に侍ることであり、その新郎を迎える新婦を準備することです。また、その子女を探すことであり、彼らと共に楽しむことができる宗族を準備することであり、その氏族とともに世界を復帰できる民族を編成し、彼らと共に一つの世界国家を編成することです。

 数多くの宗教がもっとたくさん伝道をしようとする目的もそこにあります。修道を中心として世界の人を呼び集めようというのです。それで世界のあらゆる宗教は、伝道を通して選民をつくり、その次には世界を一つの故郷として、世界の人を親戚として神様の民にしようというのです。

 万民はその生きていく環境が違うだけであって、人間という点では白人でも黒人でも同じです。ですから、何としてでも世界人類が一人の父によって生まれた一兄弟という心情がにじみ出るようにしなければなりません。そうでなければ世界の人々の統一は不可能であり、万代の糾合は不可能です。

 世の中の青年男女をよく見ると、ある人を愛したとしても、その人よりもっと良い人が現れれば心が変わって、その人を愛するというのです。また内外の条件が備わった、天下のすべてが尊重できる相手が現れるようになれば、自分が今まで好きだった人よりもその人を好きになりたいのです。人の欲がそうなのです。おそらく、世の中の夫たちは自分の妻がイエス様を信じることも気にくわないでしょう。それは、自分の妻が夫よりもイエス様をもっと愛するからです。

 新郎がもっと良いのか、息子、娘がもっと良いのかというとき、新郎よりは息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れることはできますが、息子、娘とは別れることができません。家系図で掘り起こしたとしても、血筋を受け継いだがゆえに別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れることができますが、息子、娘は時間がたてばたつほどもっと慕わしく会いたくなります。このような事実は、子女のいる人ならば誰でもよく分かるはずです。サタン世界に生きる親たちも、それだけは否定できないはずです。

 ですから、私たちは新郎の愛を踏み越えることによって父の愛、神様の愛を探していくのです。イエス様が地上に来られたのは、万民がイエス様の愛を通して神様の愛を受けるようになるためです。それゆえ、ローマ人への手紙第八章三十九節でパウロは、「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」と言っています。イエス・キリストの中にある神様の愛を誰も切ることはできません。したがって、最後の目的は神様の愛を受けることです。

◆宇宙万象が作用する目的

 主体と対象が互いに相対基準を成して、良く授け良く受ければ力が生じるようになります。力が生じるようになれば、互いに一つとなり、一つとなれば繁殖するようになります。主体一人では絶対に作用できません。誰かを好きになるのと同様に、互いの力が作用します。誰かを好きになるということは、その人と自分の心がぴったり合ったということです。好きになれば、理由なしに心が行ったり来たりします。その心がどれほど強いのかといえば、「この人でなければ私は死ぬ」というように死を超越して体を引っ張っていきます。それは世の中でいう運命というものが、そのように作用するからです。

 善なる人は善なる人、悪なる人は悪なる人を好みます。世の中のすべてがそうなのです。例えば、運動競技をするときに、走るのが上手な人は走るのが上手な人だけで集まって競走をし、相撲では、上手な人だけが土俵に集まって相撲をします。これと同じように、私たちの心もそのままいい加減に動くのではありません。必ず主体と対象が互いにある作用をするのです。

 そして、その作用は損をするためにするのではありません。商売をするのも損をするためにする人はいません。同じように、私たちの心も損をするために動くのではありません。あらゆる存在が損をしないで何か利益を残そうとするのは、すべて神様の摂理的な作用なのです。

 どこの誰がどのようなことをしても、損をするためにしていることは一つもありません。子供たちの行動も、よく見ればそうなのです。また動物もそうです。

 では、このように作用する根本目的は何でしょうか。補うためです。作用するということは、すべての利益を生むためであり、絶対に損をするのではありません。

 すべては平等です。それで根本は平和と和睦、忠、和なのです。「平等は水平だ」と言えますが、水平はそのままでは成されません。上下関係、高低関係にあるものが、ある作用を経てこそ水平になります。高低があるので、必ず高い所で受け、低い所に補う作用を経てこそ水平になります。

 では、人間について見るとき、水平になっているでしょうか。なってはいません。人間は低い所にいます。それゆえ、高い所から受けて、水平を成すのです。ですから、人間は高次的な理念を探し出さなければならず、高次的な精神の慰安所をもたなければなりません。

 水平はそのままでできるものではありません。他の所から力の補給を受けなければなりません。自分自体の内で補給を受けられないので、補給をしてくれる所がなければならないのです。その補給をしてくれる所は高い所です。高いながらも悪い所でなく良い所です。そこは万民が理想とする所です。では、その理想とは何でしょうか。よく食べることでもなく、よく寝ることでもなく、真の愛なのです。

◆人間の理想は愛によってなされる

 今まで人間は歴史過程で本然の心を中心として、本然の心が懐かしむ人を中心として、ただの一日も休んだことがありませんでした。それで「人生は苦海だ」と言うのです。

 このようなことを知るときに、人間は一つの基準を探し出さなければなりません。それゆえに愛そうというのです。愛するには二人だけでいるのは良くありません。父と息子、娘だけいてはなりません。人が互いに愛そうとすれば、人も集まらなければならず、踊りと歌も必要です。「愛するという言葉だけを言えばいいのに、何の歌が必要なのだろうか」と言うかもしれませんが、感情を込めて愛を表現するためには、歌も必要なのです。また「静かに立っていれば良いのに、なぜ踊らなければならないか」と言うかもしれませんが、踊りも必要です。

 人がいいものにうっとりして、愛する心で歌えばどうなるでしょう。一度歌ってみれば、ただ骨の中からとろとろし、細胞がかたかたとし、目がちらちらし、涙まで出てくる、動揺が起こるようになります。では、そのようなことがなぜ必要なのでしょうか。その場で天地の調和が起こるべきだからです。そのためには、神様と私、父と子、二人だけでいてはならず、付帯条件がたくさん必要です。

 父がいれば母がいなければならず、男性がいれば女性がいなければなりません。もし女性だけの世の中ならば、女性たちは女性だけで何度も会うのを嫌がるでしょう。また、男性同士で暮らすようになれば、男性たちもやはりそのようになるでしょう。それゆえ、父がいれば母がいなければならず、父母がいれば子がいなければならず、その次には兄弟姉妹がいなければなりません。

 では、「私」は誰のためにいなければならないのでしょうか。私は、正に私自身のためにいるのです。父と母も私のためにいるのです、兄弟姉妹も私のためにいるのです。皆がみな私のためにいるのです。

 人間は欲が深いです。神様の愛をふろしき包みごと受けて、誰にも与えず一人でもとうとする人々ですが、「父のために生まれ、先生のために生まれた」と言えば気分が悪くなります。何千年間、私たちの先祖が生まれては逝きましたが、すべてが私一人のために生まれて逝ったのです。ですから、私がどれほど重要なのかというのです。それでイエス様は「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と語られました。

◆本郷の地を探していこうとするなら

 神様は誰のための神様なのでしょうか。「神様のための神様ではなく、私のための神様だ」と言いたいのが人間の欲です。

 道義の条件を見いだそうと前後関係を議論して審問する世界は、不安な世界です。愛を中心として前後関係が完全に一つとなって授け受けすることのできる立場に立ち、自分の周囲を見回せば、私以外には誰もいないように見えますが、いつも主体がいるということを肝に銘じなければなりません。

 それでは、全世界にいる数多くの人々は何を探していくのでしょうか。本郷の地を探していくのです。そのためには祭物を捧げなければなりません。昔、カインとアベルが神様の前に祭物を捧げたのも本郷を探すためでした。ノアが百二十年間箱舟を造ったのも本郷を探すためでした。本郷を探していく道に箱舟という条件物が必要だったのです。本郷を探していく道を短縮させることならば、何でもしなければならなかったのです。アブラハムも同じでした。人間が行くべき究極の目的地である本郷の地を探していくためには、自らの故郷の山河も祖国領土も捨てなければなりません。本郷は二つになり得ないので、自分が望む理想世界も捨てなければなりません。

 万民が共に安息できる本郷の天地に向かっていくためには、自分のすべての個性も、自分のすべての夢も捨てなければなりません。自分の夢を中心として継代を立てていこうとすれば、本郷を探すことは不可能です。それゆえ、すべてを捨ててしまって一片丹心で本郷の地を探していかなけばなりません。より一層、真の場所を探していこうという、その一念で食べて、寝て、喜怒哀楽を感じる生活をしなければなりません。

 そのためにアブラハムは、自分の故郷であるカルデヤのウルを捨て、モーセもやはり自分の民族の本郷の地カナンの福地を目指すために、万民がとどまることのできる本郷の土台を準備するために、豪華絢爛なパロの宮中と王子の座をすべて捨てて荒野生活をしました。そして、イスラエル民族が四十年間荒野でさまよったのも、彼らの故郷、本郷の地を探し出すためであり、今まで数千年間、国なき世界をさまよってきたのも、やはり希望の本郷の地を探し出すためでした。

 世界に散在している数多くの民族が移動したり、革命を起こして歴史が変遷してきたのも、やはり本郷の地を探し出すためであり、本郷の世界に行くためでした。このように、その道は世界人類が行くべき共同運命の道であるので互いに区別することなく、みなその運命の道を行くようになるのです。その道には神様が共にいらっしゃいます。その神様を中心として修道の道に責任を負っていく指導者たちと修道の道に従っていく人々が、そのような責任を負わなければなりません。彼らには本郷の地を世界的に準備しなければならない使命があります。それゆえ、信仰者として世の中を導くことができない人々は、人間世界の人倫的な宗教人にしかなりません。

 人は、心と体が一つになってこそ一つの人格を完成することができます。その人格は、体それ自体だけでは現れることができません。人格が現れるためには、心を通して体が反応しなければなりません。したがって、人格は心と体を通して平面的な環境での人間関係を中心として、社会性を通して現れるようになります。

 宗教は内的な分野、すなわち観念の世界に対して教えていますが、それを実践できる社会的な実践場が必要です。今までの宗教は、霊的な面、すなわち来世だけを追求してきましたが、人は来世に行く以前に現実で生きています。現実世界を通して来世に入っていくようになっています。

 ところが、今まで宗教は内的世界を通して外的世界、現実を描き出してきました。なぜそうなのかと言えば、外的世界ができていないからです。外的世界は、既にサタンによって占領されたので、逆に内的世界をまず準備して外的世界を追求してきたのです。

◆信仰者の責任

 本郷の地を探し出すには、一人では行けません。必ず歴史的な因縁を経なければなりません。それゆえ、私たち人間は歴史的な因縁をもっていくのです。きょうがあるのは、あすを準備するためであり、きのうを輝かせるためです。したがって、過去の事実を否定する立場に立つのではなく、過去の事実を認める立場に立たなければなりません。

 歴史路程で過去を真に認めることができるものは何でしょうか。これを探ってみると、真の道を探すようになり、真の道を探ってみると、真の宗教を探すようになっているのです。そして、真の宗教の基盤の上で本郷を紹介するためには、決して愛を除いてはいけません。こういう観点から見れば、キリスト教はとても重要な位置に立っています。

 キリスト教の使命とは何でしょうか。信じている人を生命視して、互いに愛して生き、愛によって和し、愛を伝えることです。また、その愛はすべての生命の源泉です。では、キリスト教を信じる人々はどのような立場に立つべきでしょうか。愛の本郷を探していくところに影響を与える立場に立たなければなりません。

 そのような立場に立って信仰生活をしなければなりません。こういうことを見れば、愛によってのみ和平がなされ、愛によってのみすべての人が平等になるのです。それには愛がなくてはなりません。

 愛には、どのような愛があるのでしょうか。内的愛と外的愛、すなわち精神のための愛と物質のための愛があります。人も内的な人と外的な人に区分できます。これは五色人種の誰でもみな同じです。

 それでは、私たちが愛するには、どの程度愛さなければならないのでしょうか。神様が万民を兄弟のように愛し、万民を子女のように愛するのと同じように、私たちもその父のような立場に立たなければなりません。

 父母の心情をもつためには、父母の心情がどのようなものなのかを知らなければならず、父母の心情を探すためには、本郷の地へ行かなければなりません。他の所では見いだせません。今日この地に住む多くの人々は、結局本郷に行き、父母の心情を見いださなければならないのです。いくら修道を追求し、世の中のことに熟練し、精通していても、父母の心情に通じなければ子になることができません。

 人は父母の愛によって生まれます。私たちは父母の愛を通して生まれるには生まれましたが、偽りの父母の愛を通して生まれました。これは、本郷の原則を中心とした正常的な父母の愛を通して生まれなかったということです。本郷の地に入り、安息したのち、父母の愛を中心として生まれなければなりませんでしたが、そうはできませんでした。それで、私たちは父母の愛を探すために本郷へ行かなければなりません。このように、父母の愛を探すために本郷を探していかなければならない人生だというのです。

◆復活し重生してこそ本郷の息子、娘になる

 では、堕落によって愛はどこまで落ちてしまったのでしょうか。父母の愛から徐々に落ちていき、子女の愛、兄弟の愛、知人の愛、友人の愛を経て、僕の愛、僕の僕の愛にまで落ちていったのです。それゆえ、父母の愛を探して本郷の道を行くには、再び逆に探して上がらなければなりません。ですから、修道生活を通して神様を中心とし、僕の僕の位置まで入っていかなければならないのです。

 僕には主人がいますが、僕の僕には主人がいません。私たちはそういう僕の僕の位置から僕の過程を経たのちに、養子の位置まで探して上がらなければならないのです。そのような養子の位置まで上がり、直系の子女から接ぎ木されなければなりません。

 また、愛を中心として見るとき、僕の僕の愛から僕の愛、養子の愛、直系の子女の愛を経て、夫婦の愛、父母の愛にまで上がらなければなりません。そうして次に、父母の愛を通して子として復活しなければなりません。これがキリスト教でいう重生です。

 父母の心情に通じるにはどのようにしなければならないでしょうか。人の生命は必ず父母の愛を経て生まれるので、父母の愛を受けたという基準があってこそ、父母の心情に通じることができます。ところが、真の愛の主人公は神様なので、神様を中心とした真の父母の心情、真の父母の愛の過程を経ずには重生することもできず、復活することもできません。

 愛を中心として見れば、大慨、私たちは相対の愛だけを恋しがっています。しかし、それだけではいけません。それを越えて、父母の心情を中心として復活し重生されてこそ、ここに初めて本郷の地を占有することができるのです。単純に父母の愛を受けるだけではいけません。その父母の愛を中心として再び生まれてこそ、本郷の息子、娘になれるのです。

 では、再び生まれるには誰がいなければならないのでしょうか。父母がいなければなりません。私たちの生命を救うには、お母さんの胎中で十カ月を経るのと同じ立場を経なければなりません。そうして、胎児がお母さんのあらゆる栄養素を受けて育つように、皆さんも育たなければならないのです。

 単純に父母に会い、父母の愛を受けて再び生まれるのではありません。堕落した世界から捜し出された人々なので、父母が堕落したのと同じ峠を越えなければならないのです。そのようにしなければ、本郷の地に永遠に入っていくことはできません。ここで一度ひっくり返し、もう一度お母さんの胎中に入って出てくる重生の過程が起こらなければならないのです。そうして天真爛漫な子供のような立場から育たなければなりません。再び生まれるには、お母さんの胎中に入っていく立場に立つ前に、父の骨髄に入っていく立場に立たなければなりません。

 いくら自分が本郷を探していく人であっても、完成級に至れば、相対と会わなければなりません。しかし、完成級まで行くにはまだ距離があるのです。堕落したがゆえに、蘇生級以下から出発するのであり、完成級から出発したのではありません。したがって、どんなによく信じ、信仰生活を良くする人であっても、蘇生級から上に上がっていかなければならないのです。

 では、どのようにして完成級までつながるかということが問題です。世間一般の人生は、倒れてもまた立ち上がって行くことができますが、私たちが行く道は、一度倒れれば再び立ち上がって行くことはできません。いくらよく信じて、いくらうまくやると大口をたたく人でも、完成の峠を越えなければなりません。そうでなくては、本郷の地で落ち着いて暮らすことはできないのです。その本郷の地に入っていくには、父母の心情を基盤として生命体が復活しなければなりません。そのためには、父母の心情が中心になるべきであって、自分が中心となってはいけません。

 どの道、私たちは、本郷の地を探していかなければならないのです。真の本郷を探すために、堕落した人間はどのようにすべきでしょうか。アダムとエバが堕落する前の立場にまで上がらなければなりません。しかし、まだ人間は堕落前の立場に完全に復帰できていないのです。

 本来人間が堕落しなかったなら、三段階の成長過程を経て完成し、そこで生きていたのですが、堕落によってそのようにできなかったのです。

◆キリスト教の接ぎ木する真理は本当の真理

 キリスト教では、「終わりの日になれば主が来られる」と言います。主が来られるならば、男性として来なければなりません。今まですべての人々が生まれるには生まれましたが、誤って生まれました。種が違ったのです。それゆえ、自分のすべてを否定して新しく接ぎ木されなければなりません。種類が似ているために、接ぎ木をすることができるのです。このようなことを見るとき、キリスト教の接ぎ木する真理が本当の真理なのです。

 接ぎ木するには、今までのすべてをばっさり切り捨てて、新しい芽をもってきて接ぎ木しなければなりません。したがって、新しい思想と新しい生命力と新しい氏族を接ぎ木して、自らの生命全体をも維持する中心としなければならないのです。それゆえに、今までキリスト教は「ため」に与える宗教として、そのような役割をしなければならなかったのです。

​ では、人間個人はどのようにすべきなのでしょうか。新郎として来られる主は人間の父です。そして新婦は母です。天は男性を象徴し、地は女性を象徴するので、地上に女性が出てこなければなりません。​

 ですから、心情を中心として主の内に掘り下げて、生活感情も主と同じであり、死ぬのも生きるのも主と共にし、喜ぶことも主と共に喜ぶことのできる絆を結ばなければなりません。そうして、父、すなわち主の内にいる息子のような立場に立たなければなりません。それで、新郎として来られた主が新婦を迎えて夫婦となれば、その新婦、すなわちお母さんを通して再び生まれるのと同じ立場に立たなければならないのです。お母さんを通るその期間が正に、女性を象徴する地を中心として苦労する期間なのです。そのお母さんを通して、自分の復活と同時に先祖を復活させ、民族と国家までも復活させなければなりません。

 このような兄弟が集まって親戚になり、このような親戚が集まって宗族になり、このような宗族が集まって民族、国家、世界になります。それによって、世界が神様の愛を中心として一つの根から生まれた世界の形態を備えます。それでこそ初めて、世界が神様を中心として一つの世界となるのであり、神様を主にした地、すなわち地上天国が実現するのです。ここが正に、私たちが永遠に暮らすことのできる本郷です。

◆すべてが自分のためにあるという自覚をすべし

 今日「私」という存在は、何をするためにいるのでしょうか。この堕落した世界のあらゆる事情を踏み越えて、個人的な復活とともに家庭的な復活、民族的な復活、国家的な復活、世界的な復活を成し遂げた立場で、神様に自由に侍るために私たちは生まれたのです。それゆえ、真の父母が来られるのも自分のためであり、真の父母の愛がなされたのも、真の父母の愛を中心とした兄弟と親戚が生じたのも、すべて自分のためです。

 それゆえ「私」という存在は宇宙的な自我であるので、万有の全体は自分一人の完成のために歴史とともに動員され、被造万物全体も自分一人の完成のために存在し、動いているのです。

 自分一人を完成させ、自分一人のために与え、自分一人の志のためにすべてが存在しているという事実を考えるときに、人の本心がどれほど大きいのかということを知ることができます。この石も、この山にある草も木もすべて自分のために存在し、数多くの民族が互いの観念が違い、文化の背景が違ったとしても、すべてが自分の理想を完成するために動いているというのです。自分一人を中心として宇宙が回っていくというのです。そのような自分自身の価値を感じることができる場は、いつも神様に感謝できる場です。

 すべての存在の始めから終わりまで、すべてが自分一人のために存在するのです。愛を中心として見るときにも、すべてがそのようにつながっています。自分が他人のために彼らを愛するのではなく、自分のために彼らを愛するのです。各自がそのような心をもって神様のために行ってこそ、神様を中心として全宇宙が一つになれるのです。また、この基準を越え、自分はどのような人なのか、自分は神様の息子、娘であるけれど、どのようにすることが神様のみ旨なのかを自分自身に尋ね、調べなければなりません。

 そうして、これと同じ立場で、父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、宗族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心が実感的に感じられる場で祈祷をするようになれば、その祈祷は世界のための祈祷になるのです。

◆神様の王子と王女になって暮らす所が本郷

 涙ぐましい真の愛の前に、世界が引っ張られてきました。このような愛を中心として世界が一体となる基準に入っていくことができる人は、完全な本郷の地を占有することができる人です。しかし、このような人になっていなければ、本郷の地に行くことができないだけでなく、本郷の地を探したとしても入っていくこともできません。それゆえ、神様の愛を中心として一体化した人は、その愛の圏内で永遠無窮に万宇宙を支配できる能動的な主体となり、天の王女となり、天の王子となるのです。

 神様は復帰路程を通して人間を探してきていらっしゃいます。その神様は万人の主人であり、万有の主体であられます。合わせて万国の主体であられます。そのような神様の息子、娘、すなわち天国の王子は誰で、天国の王女は誰なのでしょうか。王子は主であり、王女は主の新婦です。私たちはその主と新婦を中心として、再び生まれるのです。そのようになれば、主と主の新婦は人類の先祖になり、父母になるのです。私たちがその方の愛を通して再び生まれれば、父母の立場を相続でき、第二の王子と王女の立場に立つようになります。

 万民はすべて神様の息子、娘にならなければなりません。それゆえ、人間の欲望は神様を父として侍ろうということです。世界を征服し、宇宙を征服した人だといっても、神様の愛を懐かしむのです。これは愚か者でも優れた者でもみな同じです。このように、すべての人間の本心が神様の愛を懐かしむように作用するのは、そうし得る可能性が一〇〇パーセントあるからです。

 これと同様に、人間の心が神様の愛を中心として本然の姿勢を備えようという欲望をもっているのは、本来それができる立場にあったからなのです。したがって、神様の愛を中心として私たちが天国の王子と王女の位置を占有することができるのです。また、天国のすべての所有と天国のすべての運命が私たちのものとなって、父のものが私のものになるのです。父の事情も自分の事情です。

 そのようになれば、天下にないものはないため、そこにおいて初めて幸福であり得るのです。そこには自分が必要とするすべてのもの、すなわち愛があり、愛のほかにすべての付帯要件まで全部備えているのです。そこが初めて私たち人間が安息できる場であり、私たちの本郷なのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.05.05 17:08:04
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2021.05.04
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「全盛時代」

一九六七年五月二一日 前本部教会


 全盛時代、これは良い言葉です。人々は誰でも全盛時代という言葉が好きです。

 それでは人々がすべて好むこの全盛時代という言葉は、全被造万物を創られたお方がおられるなら、そのお方は好まれるでしょうか、嫌われるでしょうか? 劣った人も好み、優れた人も好み、人間という人間がみな好きなのですから、人間を創られたお方がおられるなら、そのお方も間違いなく好まれるのです。


 誰もが望む全盛時代

 全盛時代とはどんな時代をいうのでしょうか? 文字どおり見れば完全の「全」の字に盛んの「盛」の字ですから「完全に盛んな時」をいうのです。ですからすべてのことを成して繁盛して、これが社会化して、国家化して、世界化する時が全盛時代なのです。

 本来、地上において人間が迎えるべき喜びがあるとすれば、それはどのような喜びでしょうか? 簡単に考えれば、全盛時代を迎えて感じる喜びなのです。人間を創造された神様は、人間たちに全盛時代をもたらしたかったのです。そして神ご自身も、人間と共に喜ぶことができる最高の全盛時代を、間違いなく望んでおられたのです。

 気高いお方ほど喜びの日を迎えるなら、ごく低い場の人間、末端の人間、そして貧民窟で暮らす人間にまでも、共に喜ぶことを願うのです。またどんなに悪なる独裁者であっても、自分に喜びがあればその国の全体が喜ぶと同時に、怨讐たちまでも共に喜んでくれたら、という心を持っているのです。

 昨日まで怨讐を無慈悲に悲惨に虐殺した君主であっても、勝利の日を迎えたときにはその国家の民は勿論、その主権と対立して戦った怨讐国家の民までも喜んでくれたらと思うのです。どんなに悪逆な独裁者でも、これを望まずにはいられないのです。

 もしも事実がそうであったら、その君主は勝利の中の大勝利をしたのです。すべてが喜ぶことができる環境を造ったなら、それによって歴史を動かし、世界を創造してゆく勝利者だといえるのです。

 しかしながら歴史的に見るとき、一方が興れば他の側は傾くという事が起こってきたのです。国家対国家を見ても、常に互いにぶつかって発展してきたのです。小さなところから大きなところへ、国家から世界へと発展してきたのです。

 こうして勝利して全盛時代を迎える側になるか、でなければ反対に敗北して悲しむ側になったのです。こんな時に勝利した側の反対の側に立つ悲しみの側が、常に勝利した側を歓迎して仰ぎ見て従ったことは歴史になかったのです。

 ここにおいて我々は人間が描く最高の喜びや全盛時代を迎え、その栄光を讃えることはどこまでも限界的であって、国境を越えて世界的なことにはならないという事実を、糾明することができるのです。歴史はこのように発展してきたのです。

 韓国のことわざに、いとこが田を買えば腹が痛む、という言葉があります。いとこは父を中心に見ればとても近い兄弟であり、お祖父さんを中心にしても一つの根です。なのにわずか三代以内の兄弟同士が、ある人が少し良くなると口を歪めるのです。これが堕落した人間の本質であり、本性なのです。

 ところがどんな主権者も、自分に栄光があれば怨讐国家までも、共に喜ぶことを願うのです。ここにおいて我々は主権国家の主権者が願う所願基準と、一対一の生活環境で現れる個人の所願基準が互いに相応しないことを知るのです。主権者は怨讐までも彼の喜びを讃えてくれることを望むのです。それゆえ兄弟が良くなれば喜ばなければならないのに、嫌うのです。これは変でしょう。こんな観点から見るとき、一国に責任を負う主権者の事情と、個人の事情は異なるということを皆さんは知らねばなりません。


 国運と天運

 それでは一国を代身して国家の運勢を率いてゆく責任者の立場に立つ人間は、どうして自分個人の立場と事情が、他の立場で所望をおかなければならないのか? それは自分の思いでするのではなく、そうしなければ歴史的な方向に背駆するからです。今までの歴史を見るとき、こんな環境を多く得て一時は大きな栄光を享受したとしても、その栄光が長く続かなかったという事実を知るのです。

 皆さんは個人がゆく基準と、歴史を代表して国家がゆく基準が異なることを、念頭におかなければなりません。

 一国を治めて責任を負って率いてゆく人間は、一個人としての責任を背負う人間ではないのです。このように国家の運がかかっているのです。人間には年齢があり、人間の生理に合った生活形式があるように、国家にも年齢があるのです。国家は社会に貢献できる生理的な基準を持たなければなりません。大きいというだけで、個人と同じなのです。

 しかしながら国家と個人が、異なる点は何でしょうか? 個人は国家に従えばいいのですが、国家は個人に従ったら駄目なのです。

 個人の感情や私的な命令は、常に些少な分野において、互いに衝突する立場なのです。しかしながら国家を指導する主権者の立場で望む所望というものは、個人のそれとは異なる一面を追求してゆくものなのです。これを見るとき、個人の立場と異なる国家の立場が何でしょうか? 国家は天運に従うということです。

 一つの国家が形成されて発展するのは、その国家だけのために発展することではないのです。世界を編成するための責任を背負って発展するのです。ですから国家は世界編成の理念に向かって一つの所望を持ち、また国家は現実的な立場を超越しなければならないのです。このようなことを見るとき、我々は国運以上の天運があるということを知らねばなりません。

 それでは天運はどのように動いてゆくのか? もしも今日、全盛国家を成して栄光と享楽を享受する国家と民族を率いる君主がいるなら、その君主のみ旨に天運が従うでしょうか? 違います。主権者や独裁者がどんなに権威を誇ったとしても、これもやはり国運は治めることができても、天運は治めることができないのです。天運を従えなければなりません。

 天運が行く道は怨讐までも抱き込んでゆく道です。それゆえ主権者たちが自分の喜びを怨讐国家の人々までが賞賛してくれるよう望むのは、天運の連結を望んでいるからであることを、念頭におかなければなりません。


 内的全盛時代と外的全盛時代が相応して

 また一つ面白いことは、全盛時代には外的全盛時代と内的全盛時代がなければならないということです。人間には体と心があります。体があると同時に心があるとして、体と心が一つでしょうか? 一つのように見えるのですが、一つではないのです。

 例を挙げて、金某という人間をおいて言えば、金某は体があり、心があります。漠然と見れば金某の四肢五体が即、金某のごとく見えるのですが、そうではありません。また彼の心が、体の中にあるようでもあり、そうではないようでもあるのです。金某がその村で欲張りで、皆が嫌っている人間だとします。それでこんな金某に「あなたはそんな人ですか?」と言えば、彼の心はそれに同意しないのです。どんなに悪なる殺人強盗でも、彼の心は殺人強盗のたぐいに同参しないとするのです。ですから心で苦痛を感じるのです。苦痛を感じるということは、そのたぐいに同参しないということです。

 金某なら金某、朴某なら朴某という人間をおいて見るとき、体と心が異なるということを知るのです。体が良いということと、心が良いということが異なるのです。即ち、体の全盛時代と心の全盛時代が相応しなければならないのに、相反しているのです。これは皆さんに良心があってよく良く知ることです。体の全盛時代と心の全盛時代が異なるというのです。

 堕落が何でしょうか? 心と体が元の場にいないということです。絶対的な神様が人間を創造され、理想とした通りの実体を得て、満宇宙のまえに堂々と現れることができる本然の人間がいるとしたら、その人間は心と体が立つ場を得た人間なのです。そんな人間がいたなら、すべての環境がその人間の拍子に合わせて動くのです。このような場を得ていないことが堕落なのです。

 ですから心は東側に行こうとし、体は西側に行こうとするのです。変でしょう? 心が指向することと、体が指向することが異なるというのです。こんなことを見るとき、人間が堕落したということを、否定できないのです。

 人間は神の絶対目的によって、自分も知らずにに生まれたのです。それゆえ人間にはその目的に符合して一致する生理的な現象が作用して現れるべきなのに、人間は心と体の場と方向が異なっていることを否定できないのです。

 ’私’は’私’ですが、心も私であり体も私のようですが、実際に体が自分の体であり心が自分の心かというとき、自身もこれが分からないのです。元来は体と心が一つになって、離そうにも離すことができず、神も分けようにも分けることができない絶対的な基準で、自身の目的を成就してゆかなければならないのです。

 心が処している場と体が処している場が異なる人間に、人生の最高理想的な全盛時代が来るでしょうか? 絶対に来ないと結論を下してもかまわないのです。どんなにユ-トピア的な理念を追求して、またこれを実現しようと身悶えたとしても、心と体が処している場が異なる立場であっては、絶対に不可能なのです。

 鼻がつぶれた人であっても、全盛時代を求めないかというと、そうではないのです。鼻がつぶれた人も、やはり全盛時代を求めるのです。不具者でも同じなのです。不具者であることまで賞賛されるように、他の人間よりもさらに全盛時代を求めるのです。しかし人間の心と体が分立した立場で、全盛時代を迎えるということは不可能なのです。

 それではどうすべきか? 全盛時代を迎えるには体を打って心を解くか、心を打って体を解くか、二つの中の一つを取らねばなりません。ところで体を打って心を育てることはできますが、心を打って体を育てることはできません。これは皆さんが良心生活をして良く知るところです。体に少しでも偏れば、心は拒否するのです。これは誰がそうしようとしても駄目なのです。常にこの胸の内では二つの世界が闘っているのです。二つの世界が闘っているこの胸から、三八度線を取り除いて平安をもたらし、天地に誇ることができる太平の王国を成さなければ世界統一は不可能のみならず、天国建設はさらに不可能です。ですからイエスは「天国は自分の心にある」とされたのです。それではこの心にある天国を、どのようにして現実に成すのか。体を通して顕現させなければなりません。理想は必ず体を通して実践して実現させなければなりません。社会化され、大衆化され、普遍妥当化されなければなりません。であれば、理想としての価値があるというのです。


 真の人間の役割

 それでは、皆さんは今どこへ行っているのか? 人間は誰でも二つの分かれ道に立つのです。優れた人間でも劣った人間でも、不具者や世の中の人間という人間はみな、二つの分かれ道にいるのです。過去の聖人・賢哲もそうであり、イエスもそうだったのです。今日その何かを誇っている人々も同じことです。

 それではこの二つの分かれ道を、どのように解決してゆくのか? 個人から世界に至るまで、すべて二つに分かれに分かれているので、これをどのように統一するかという問題が、外的な戦いを通して世界を収拾することよりも、より大きな問題であるということを皆さんは知らねばなりません。

 このような観点から見るとき、肉的な全盛時代と霊的な全盛時代、肉体的な全盛時代と精神的な全盛時代が完全に一つにさえなれば、太平王国が成らないはずがないのです。そのようになればここに生きる人間や、生まれた人間、国家形態、自然世界、実際に現れる現象等の全部が一つになるのです。

 ところが今、人間たちはすべて心と体の二つの分かれ道で、葛藤しているのです。今日唯物論者たちは、心も環境に従って変わると主張しているのです。心が常に主体性をもって環境を主管すべきなのに、今日の人間たちはそうはなっていないのです。

 体の全盛時代と心の全盛時代が、一致しなければなりません。そのようになっているでしょうか? 可能性があるでしょうか? 今のままでは不可能なので、我々がでてきたのです。

 歴史上の戦いは氏族時代から宗族時代を経て、民主時代へと発展して来るにおいて、ある経済的な問題が動機となって戦ったのではありません。その戦いが起こる前に体と心の戦いが、まずあったということを知らねばなりません。環境的な戦いの平定は一時的にはなるのですが、体と心の平定を求めるための戦いは、歴史と共に進行しているということを知らねばなりません。

 昔の孔子もそうであり、イエスも、釈迦もそうであったのであり、この時代にどんな道人が現れたとしても、この体と心の闘いは続いているのです。闘いの方法と様相は、常に体と心の闘いなのです。今まで人間は、新しい第三の環境へと越えてみなかったのです。ここにおいて、人生とは何かという問題が生じるのです。それでパウロのような人は「ああ、わたしは何と哀れな人間であろうか」と嘆息したのです。

 この闘いの歴史は未だに終わっていないのです。今日共産主義がいう理想的な共産世界が成ったとしても、やはり体と心の闘いは続くのです。

 それでは根本的な問題が何でしょうか? 外的な環境を平定することは間接的な問題であり、直接的に平定させるべきものが、自我を中心とする体と心の闘いです。これをどのように解決するかが根本的な問題なのです。この体と心の闘いが内的な闘いであり、動機であり、世の中の闘いは外的な戦いであり、結果なのです。ところで世の人々は外的な戦いの他は知らないのです。ですからこの結果を土台としてこの世を収拾してゆくのです。 天地を創造された神が、創造理想的な人間を創るために計画された世界があったなら、その世界は体と心の全盛時代が一致化した世界であるのです。それでは体と心の全盛時代を、いつの時に一致化させるのでしょうか? この体と心の全盛の時期は歴史時代、終末時代、あるいは終わりの日のある一時になって一致化されるのか? そのためには偽の人間をもっては駄目なのです。真の人間がいなければなりません。

 それでは、何が本物か? 真とは変わらないことです。真は変るものであってはなりません。歴史を通して変わらない最高の理想的な人格者が現れて、全盛時代を成したなら、その全盛時代は絶対に変わっては駄目です。外的な環境の差異はあったとしても、内的な差異はあってはなりません。即ち、環境は高い低いの差はあっても、心の差はないというのです。労働者の心も国王の心も、同様であるのと同じです。階級的な差異はあっても、人間の本心を中心として動く立場において、差異があってはなりません。こんな観点から神がいるのかいないのか分からない人々も、時代の要求を知るようになるのです。


 天運による全盛時代を迎えなければ

 人間世界を収拾して世界万民が一つとなり、最高の全盛時代を成そうとするために、今日次第に一つの世界を追求してゆく現時代の要求として現れているのです。しかしこんな要求が現れるほど、世界の統一が易くなることばかりではないのです。

 民主主義や共産主義が抱いているようになるでしょうか? ならないのです。ならないということを、知らねばなりません。絶対になりません。ならないというのです。強制的な統一であっては一つの世界が構成されることはなく、永遠なる世界を成すことができないということです。

 統一される一つの形態が現れるなら、ここに背駆するまた一つの形態が現れるのです。弁証法を例に挙げてみれば、弁証法においては正反合の理論によって、互いに反対して闘争することによって統一が成るというのです。しかし反対ということは、すでに概念が異なるということです。反対ということは、二つの概念があるときに可能なのです。この二つの概念は、闘争はしても統一はされないのです。相反するものなのです。プラス同士は互いに押してゆくでしょう。離別しようとするのです。互いに分かれようとするのです。これを外的な弾圧を強化することによって、制度化させて率いてゆくものが共産主義です。彼らは自分たちの最高の権限以上に上がっても、限界線を認識することができないでいるのです。その世界は不安な世界なのです。

 人間世界には人倫と天倫があり、国運と世界運があるのです。国運を中心として世界運を動かそうとすれば滅びるのです。ここから分かれ始めるのです。アメリカが滅びないようにするにはどうしなければならないか? アメリカが滅びないようにするには、弱小民族を救援しなければなりません。救援するときには彼らの財産の中で、最も深くしまい込んだ金でもはたいて、救わなければなりません。そうすればアメリカは滅びないのです。先生が何の話をしているのか、ずっと見ていれば分かるようになるのです。

 先生も全盛時代が好きです。先生も全盛時代を好きなのです。皆さんも好きでしょう?皆さんが先生よりもさらに好きなら、この全盛時代を皆さんに譲歩するのです。ところが先生よりも好きさが足りないので、先生が持っていなければならないのです。

 歴史上に全盛時代を好きだった素晴らしい人よりも、神が全盛時代をさらに好きだったので、全盛時代の主人は神様なのです。僕であっても、どうせならその村で有名な金持ちの僕になりたいのが、人間の心なのです。どうせ僕になるなら、一番の金持ちの僕になりたくないでしょうか? またその村に金持ちが二人いたとして、一人は善良で一人は悪だというとき、皆さんがもし僕ならどちらの家の僕になりたいですか? 問うまでもありません。人間は誰でもより大きなものを好み、より高いものを好み、より価値あるものを好むのです。

 人間がそうなら神はどうでしょうか? 神が一番ビリが好きなお方でしょうか? 神は世界を統一して世界最高の全盛時代を迎え、全宇宙が全部一つになって、人間が喜ぶことを願われるのです。ところで喜ぶときに一つ注意することがあります。我々人間だけが良いというのではなく、神に仕えて共に喜ぶのでなければならないのです。

 韓国に良い便りがあれば、韓国に世界的に誇れる良い内容があったなら、新聞記者たちがやって来て世界的に報道するのです。関心がある限り、誰でも共に喜ぼうと宣伝するのです。これと同じように、世界が一つになって全盛時代を迎えたなら、人間だけが喜ぶのではなく、神様まで案内して共に喜ぶのでなければなりません。これが良いことですか、悪いことですか?

 大統領の訓示を直接聞くことが良いですか? 代理の訓示を聞くことが良いですか? すべてが代理の訓示を嫌がるのです。このようなことを見れば、世界のすべての国家が一つになって、歴史にない絢爛たる全盛時代を迎える時に、宇宙の中心である神がおられることを知ったなら誰もが、神様ようこそお出で下さいました、となるのです。もしもその時に、神様お出で下さいますな、という人間がいたら、彼は泥棒野郎です。なぜ? 世界を統一して全盛時代を成す時に、国家の運によっては出来ないからです。天運を通してでなければならないのです。

 それではこの天運を、誰が動かすのか? 神が動かされるのです。神が動かす天運に乗って全盛時代を迎えたなら、その動かれた神を中心に仕えて良しとしてこそ、秩序が整うのです。

 宗教の教え

 こんな観点から一つの全盛時代を迎えるなら、体と心の障壁を取り除かなければなりません。これを取り崩そうと主張するものが何でしょうか? 一般の歴史観を主として人類道徳を教えることは、社会制度に一致はするのですが、一国家の主権を主とした教育方法に過ぎません。

 それだけではいけないのです。国家を超越して、民族を超越して、世界を超越して天宙と一致することができる何かを教えてくれるものが、人間の世に出なければなりません。歴史過程に現れなければなりません。これがまさに現代の地上人たち、青年男女が嫌う宗教なのです。宗教の宗の字が、何の宗の字ですか? 屋根の棟を意味する宗の字です。棟はどこを言うのですか? 一番高い所を言うのです。ですから宗教の教えは教えの中でも最高の教えなのです。

 それでは宗教を嫌う人々は、どんな人々でしょうか? 落第生たちです。こんな人間が何かというと、動物のように食べて飲んで、命を軽視する動物よりも劣った人間です。

 宗教は二つの世界の間を、狭めるための闘いをつづけて来ているのです。それではこれを誰がするのか? 人間がするのですが、その頂きでは常に神が指揮を取っておられるのです。

 ですから人間たちの頂きにおられる神のまえに、お使いのような役割をする預言者が出なければなりません。見えざる神と見える人間の間に、中間の橋を架けて、その連絡を担う人間がいなければなりませが、この人間がまさに預言者なのです。それで歴史上に預言者がたくさん現れたのです。

 それでは宗教は何を教えてくれるのか? 体が願う通りに食べ、楽しみ、踊りをおどれと教えますか? 先生もお金があればソウルぐらいの広場を買って、三千里半島の青年男女を全部集めて、一しきりツイスト踊りをおどってみたら良いでしょうよ。それも指がみな抜けるほど踊ってみたら良いでしょう。そうしたら二度と踊ろうとは言わなくなるのです。酒を飲むにも限度があるのです。自分の酒量の見当がつかずに飲みつづけたら、腹が痛くなって死ぬのです。胃が抜けて死ぬのです。

 このように肉的な全盛時代には限界があるのです。国家が滅びることを防ぐためには、早く目覚めなければなりません。踊って遊びたいのを防ぐ方法が、あるにはあるのです。三年も強制して踊りをおどらせたら、嫌気がさして踊らなくなるのです。こんな作戦があります。

 善は永遠、悪は瞬間と歩調を合わせる

 すべての事には始まりがあり、終わりがあるのです。良い事にも悪い事にも、始まりがあり、いつかは終わりが来るのです。良い事は歴史が長いので終わりが遅いのですが、悪い事ほど終わりが早く来るのです。善なるものは永遠と歩調を合わせるのであり、悪なるものは瞬間と歩調を合わせるのです。滅びる行楽は一時に酔い、興る行楽は永遠に酔うのです。永遠に酔うことができる行楽の土台は、体ではなく心なのです。

 ですから宗教は心の友、心の主、心の師、心の大王、心の国、心の人、心の世界を慕って、そのような理念を標榜してきたのです。

 宗教が良いものですか、悪いものですか?(良いものです)答えは良いのです。どれくらい良いですか? もの凄く良いですか? 宗教は人生においてとても重要なものです。宗教を通して「あ! 良??

​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​行けて良かった!」と感じる人は、人生行路において成功した人です。

 イエス様はどのような能力を持っておられたのか? あ、イエス様は神の息子だから、マラソン大会に出ても一等になり、すべての方面でいつも世界チャンピオンなのだ、と言えば当たっているでしょうか? チャンピオンはチャンピオンでも、何のチャンピオンですか? 心の世界のチャンピオンです。今までの人類歴史において、分かれに分かれてきた心というものを収拾するにおいて、誰もついて来れないチャンピオンなのです。分かれた心々を収拾する方法がどれほど緻密で権威があり、能動的であるか、サタンまでもその圏内に入れば生きられないで飛び出すほどの、チャンピオンなのです。

 このような歴史的な求道のチャンピオンが、人間世界と宗教世界を管轄しなければならないのです。ですからこれから宗教を全面的に反対していったら、世界が一つになることができず、世界を一つの理想的な国家として造ることもできないのです。

 世界の三分の二が宗教圏内に入っているのです。今日共産主義者たちが世界をすべて赤化しようとしているのですが、絶対にできないのです。人間から心を抜き取ることはできません。共産主義者たちは資本論や弁証法を通して、心を抜き取るとするかも知れませんが、人間が持っている心というものは、絶対にそのようにはできないのです。

 イエス様はどのようなチャンピオンでしょうか?(心のチャンピオンです)イエス様は孔子、釈迦、マホメット、ソクラテスのような、どんな聖賢や哲学者もできないことを収拾するのであり、誰も持っていない方法と法度を持つチャンピオンなのです。そして彼がすることは天運と拍子がぴったりと合っているのです。その時代圏内においてのみ合っているのではなく、時代を越えて合っているのです。

 応援をするときには、どうせならチャンピオンを応援したいものです。三回戦まで競技して、四回戦からは勝勢の人を応援したいものです。初めから負ける人を応援するというのは気分の悪いことです。

 同じように皆さんが負けている時、先生はとても気分が悪いのです。一度目は負けても二度目には神が保護されて勝つのです。自分でも分からずに相手を倒しているのです。しかし三度目は、自分独りで戦わなければなりません。ですから初めから勝つ人を後援したいのであって、戦って負ける人間を後援したくはないのです。ところで歴史上にない、そんなチャンピオンに出会ったらどんなに栄光でしょうか? ですからそのお方の戦いの場に行って、戦う時にそこに同調して、身悶えて共に戦うのでなければなりません。

 それでキリスト教は、今まで凄い戦いをして来たのです。人の見せ物になって戦うのではなく、首を出して戦ったのです。戦いの中でも最も無慈悲な戦いをして来たのです。それで宗教歴史の中で、キリスト教史には殉教者が多かったのです。血を流して戦ってきたのです。この戦いは世界を征服するまで継続した、熾烈な戦いです。この戦いは刃と槍をもって戦う戦いではありません。他の戦いとはちょっと違うのです。

 それゆえキリスト教は世界を統一するための、ある絶対的な主体を立てて、その主体の前に絶対的に順応して一つになれというのです。即ち一つの完全な主体の前に、完全な対象体になれというのです。今までキリスト教においては、これを主張してきたのです。


 誠精と恩恵

 これまで堕落した人間の心と体が闘ってきたのでが、その比率が互いに似たり寄ったりだったのです。その比率が十対八程度でした。体が対している環境は世界全体と接しているのですが、心が接すべき道はただ一つしかないのです。堕落した世界に接する人間の体は、時々刻々として環境に占領されてゆくのですが、心は一つの道に従ってきたのです。ですから現実世界は、現れた結果を締め括ってきたものなのです。

 悪い事をしようとするとき、心に恐怖がくるのです。それでもその事を行ったなら、今まで積んできたものが崩れてしまうのです。これを見るとき心は肉身の行動を最初から、序盤から干渉するのですが、中盤になると肉身に支配されるのです。ですから外的な比率ら見れば十対八程度ですが、環境のゆえに心が体に常に押しだされてきたのです。

 ​​それでは神は宗教を立てて、何をなさろうとされるのか? 外的な環境に対備できる恩賜を与えようとされるのです。​与えるには、そのまま与えるのではありません。誠精を尽くしてこそ、与えられるのです。​その国の国運を左右する君主が誠精を尽くす以上の、誠精を尽くせというのです。命を懸けて誠精を尽くさねばならないというのです。​​

 誠精を尽くせばどうなるのか? 神の恩恵が来るのです。祈祷生活をしてみた人は分かるのです。祈祷生活をすれば、大きく偉大な力が来るのです。それで祈祷する人の目は、その力によって肉界のみならず、霊界までも透視するのです。

 神は超自然的な実体の理念圏を人間に因縁づけるために、宗教的な基盤を中心に摂理されてきたのです。人間の本質的な感情を刺激させて、このような圏内に行くようにする欲求を起こさせるのです。こうして人間を超現実的な善に連結させようとされるのです。このようなことをしてきたものが、宗教なのです。

 ですから信仰者たちは、首を切られて殉教しても良いとして信仰の道を行くのです。現実的な感情を超越する、超現実的な感情を実質的に広範囲に感じるので、彼らは死線を越えてもこの道を行くのです。それでこの道を行く人々は千万の力を八千万の力に増大させなければなりません。ここに神に侍って力を増大させ、体を打てというのです。

 闘うときには力が勝敗を決定します。宗教はこの世の体の欲望と、社会欲求によるすべてのものを塞ぐのです。ですから現実的な全体を否定してゆく宗教であってこそ、純粋な宗教であり、理想的な宗教だとすることができるのです。

 宗教は否定するものです。ですから全部捨てなければなりません。食べることも捨て、眠ることも捨て、好きなものをすべて捨てよというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てよというのです。寝食を捨て、好きなことをみな捨てよというのです。人間は本来、食べて眠らなければならないものです。そして良くならなければなりません。ところがこのすべてのものが、肉身を通して死亡の行路となったので、これを追放せよというのです。体に爆弾を爆発させるのです。原子爆弾を爆発させるのです。獄殺撲殺して、全部占領せよというのです。

 体は高くされることを好み、平安なる場を好むのです。またゴツゴツしたものを嫌い、ふっくらして、すべすべして、ふわふわしたものを好むのです。我々はこの体が好きなものを良しとしてはならないのです。

 だから我々はパンパンなもの、ゴツゴツしたもの、コチコチなもの等、体が好むものと反対のものを良しとしなければならないのです。体は高くされることを好み、他人の金を盗んでも食べたら良いというのです。人が何だか良い暮らしをしたらいいでしょうか。だからこのような本性を全部捨てなければならないのです。高くされることを好む体を低くし、温柔謙遜になれ、犠牲奉仕せよというのです。


 真の信仰者になろうとするには

 この体と心のうちの一つを、処断しなければなりません。二つともそのままなら、滅びるのです。それで一つを処断しなければなりません。ところで心がまず生まれましたか、体がまず生まれましたか? 生命は体から生じるのではありません。生命の根は体によるものではありません。生命の本当の正しい根は心です。ですから生命の主体たる心が問題なのです。生命の根のなかでも、さらにもっと深い根が心にあるのです。生命の根が二つあるのですが、本当の元になる根は心にあるのです。この二つの根をみな抜き出してしまえば死んでしまうので、神様は少し浅い体の根を抜こうとされるのです。

 それで純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト教徒たちが、独身生活を多くするでしょう。社会と万民のために、犠牲と奉仕をせよというのです。キリスト教では「汚い出しゃばりにならず、もっとも下のきれいなものになれ」「柱の中でも表門の柱にならず、垣の柱になれ」と教えているのです。

 聖書の教えは全部、体が願うことと反対なのです。堕落した体と心を共にそのままにしおいては駄目なのです。それゆえ体が好むものの、反対の側に追いやるのです。であれば体が願うものが除去されるからです。

 純粋で最も高次的な宗教とは、どのような宗教か? 体が願う側と、反対の側に最もよく追いやる宗教です。すべてのことを気にする宗教は、最も下の宗教です。統一教会はよく追いやるのですか、追わないのですか? 追いやるでしょう? 先生は追いやらないと考えるでしょうか? 神様がよくやるよ、本当によくやるとされる基準まで行かねばなりません。こんな自信がありますか?

 ヨハネの福音書、三章一六節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるでしょう? 信じるというのですが、信じる道が易こでしょうか? 世の中と反対になり、相突する道でしょうか? 歓迎される道であるなら偽ものです。反対される道が本ものです。皆さんは偽ものになりたいですか、本ものになりたいですか? 問うてみるまでもなく、すべてが本ものになりたいと言うのです。問うなり本ものになりたいと言うのです。しかし本ものになる道が、けっして易しこではありません。

 本ものと偽ものは何によって区別されるか? 溶鉱炉で区別されるのです。金と鉄を区別するためには、溶鉱炉に放り込まなければなりません。こうして熱してみなければなりません。金は打っても叩いても、熱してもそのままです。ですが鉄は熱すれば熱するほど蒸発するのです。

 同じように皆さんも溶鉱炉に入れなければなりません。それで自身の本質を区別しなければなりません。サタンの巣窟になっている体をそのままにしておいては駄目なのです。溶鉱炉は自分が存在しようとして望む欲求を満たす環境を提供するものではなく、反対的な環境を提供するのです。このような溶鉱炉がまさに宗教なのです。真の宗教がまさに溶鉱炉なのです。ここに入れて痕跡もなく溶かして捨てるものは捨て、そこに純金のように残ったものを取るのです。皆さんは本性と姿形が、変わらない人間にならなければなりません。どんな環境にも、変わることのない姿として残っていなければなりません。

 それでは真の宗教人が行くべき道が何でしょうか? 死亡の谷間、即ち体を死なせる道を行くのです。それでイエスは、死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬと言われたのです。自身の体を死なせる人間は心が生きるのであり、自身の体を生かそうとする人間は、心が死ぬというのです。相反するのです。人間は心と体の二つのうちの一つを、処断すべき悲運に処しているのですが、我々は体を処断しなければなりません。


 国運を超越できなかった今までの宗教

 死ぬときにも段階があるのです。体を死なせるにも順序があるのです。いっぺんに首を切って殺せばいいのですが、それでは駄目なのです。なぜならば父母の血を受け、幼いときから少しづつ少しづつ育って今の自分になったのですから、いっぺんに死んだら蕩減にならないのです。イエス様も四〇日断食をして、少しづつ少しづつ血をぬいて、骨と肉を干す期間を送ったのでした。体を死なせるために宗教は断食を主張し、苦行を主張するのです。彼らが愚かでそうするのでしょうか? そうではありません。天運がそんな道へと下ってくるので、行かないわけにはいかないのです。

 人々は豪華絢爛なるものを好みます。そして美味しいものを好み、きれいで美しいものを好みます。目は笑って踊るもの、花園のように美しいものを好むのです。しかし宗教人たちは、そのようには教わらないのです。目には死亡の陰鬱な谷間を見やり、涙を流せ、耳に心地好い笛の音を聞くのではなく、世の誰もが聞くのを嫌がる音を聞け、世の最も惨めな音を聞け。そして食べるものは最も貧しいものを食べるのであって、それも貰って食べろと教えるのです。貰い食いをするにも、善良なおじいさんがくれるごはんではなく、その国の奸臣となって、どうしようもなく逃げ出した人から貰って食べろというのです。そんな人間の前に行って、一杯のごはんを乞えばどうなるでしょうか? アイゴ-、よくお出でなさいました、部屋にお上がり下さいと言うでしょうか? この野郎うるせえ、と鼻血が出るほど殴られるのです。そんな場で貰い食いをするというのです。ここから基盤を築いて、上がって来なければなりません。真の最高の宗教は、こうでなければならないというのです。

 こんな観点から宗教が、世界福地化運動を提唱しなければならない現時点であるにもっかわらず、このような運動をする宗教団体が出てこないので、先生がそんな宗教を立てようとしてきたのです。

 宗教は今までどのような宗教団体も、終わりを中心に社会福地化運動をしたのですが、国家を越える世界主権と世界統治権を持っては、一度もこんな運動をしてみなかったのです。どのような宗教の全盛時代であっても、教団を主とした全盛時期であって、教団と国と世界の為に、教運と国運と天運が三位一体となった運勢圏内において、全盛時代を迎えてはみなかったのです。どんなに教会が全盛時代を迎えたとしても、国運を超越することができなかったのです。

 キリスト教会は一時ロ-マ法王庁を中心に一三世紀から一六世紀にかけて、ヨ-ロッパ一帯で全盛時代を成したのです。しかし彼らが神のみ旨受け、天地が要求する基準において全盛時代を迎えることができず、そのようになる方向を得られなかったので、永遠なる全盛時代へと連結することができなかったのです。

 永遠なる全盛時代を迎えようとするには

 体と心の全盛時代を同時に成さなければならないのですが、これが到底不可能なので、神は二つのうちの体を打って、心の全盛時代を成そうという作戦をされるのです。

 人間を中心に見るとき、一人の人間の歴史を発展させたものが世界史です。このうちで内的な面に責任を負ってきたものが宗教であり、外的な面に責任を負うものが社会制度と科学です。今日二〇世紀に生きる人々は、こんな歴史の中で歩んできたのです。

 体を打って克服できなければ、心の全盛時代は来ないのです。歴史は神が理想とされたことと、反対に動いてきたのです。外的な世は体を主とする世であり、悪が主管する世の中だからです。

 歴史の発展史を探って見れば、大陸文明時代から島嶼文明を経て、半島文明時代へと越えていって、再び島嶼文明時代を経て大陸文明時代に帰っていって、各々全盛時代を成したことを知るのです。そのようにして結局は滅びるということを繰り返してきたのです。それでは神も全盛時代を願い、人間たちも全盛時代を願ったのになぜ滅んでしまうのか?それは内・外が一致して、内的基準を中心にした全盛時代を成したのではなく、外的な体を中心とした全盛時代を成したからです。

 それではなぜ神は、外的な全盛時代を許されたのか? 神の救援摂理は世界統一化運動です。それゆえ各民族を一つの文化圏内に吸収して、一つの文化世界を創造しなければならないのです。ですから歴史発展過程の段階を経てきて、特殊な民族のまえに全盛期を許されたのです。この民族に他の民族までも連結させる思想的な基盤があれば、他の民族までも吸収させてきたのです。しかしながらそんな基盤がないときには、その時までの全盛時代を滅ぼして、新しこ主というか、新しい理念を中心に、新しい全盛時代を迎えさせたのです。

 外的には一つの世界文化圏を形成していって、内的には人間の心を中心に体を完全に占領するなら、一時に世界を占領することができる基準が立つのです。

 内的な問題は簡単に解決できることではありません。内的な問題を解決するときには、歴史的な発展過程が必要です。

 内的基準が完成して、外的基準を征服する瞬間に解決されることなのです。我々が歴史過程を経てくる間に、神様は外的文化世界と共に内的な世界を準備して来られたのです。ですからある一時に内的基準のみが完結されれば、瞬く間に外的社会を吸収することができるのです。結局、外的世界を今日のように発展させて来たことも、終わりの日になって神の復帰摂理を助けるための方法に過ぎないのです。

 ところでこの内的全盛時代と外的全盛時代の間には、常に衝突が起こるのです。心は体を打とうとし、体は心を打とうとするのです。外的文化は常に内的宗教に反対して来るのです。皆さんはこれを知らねばなりません。ある一時に全盛時代が来れば、その時には歩調を合わせなければならないのです。ある主義から主権が現れて、全盛時代を迎えて行楽を享受すれば、この時代の大多数の人々は自分の一族や、自分のクラブを主にして、全体を全部束ねてしまうのです。こんな主義主権国家は早く滅ぶのです。しかしながら自分個人を主とするのではなく、自分のクラブや自分の宗族を主とするのではなく、天運と共に神の理念と一致化できる主義主権国家が全盛時代を迎えたなら、歴史と時代を中心に世界の歴史を支配することができるのです。このような民族としてイスラエル民族が立てられたのですが、その責任を果たさなかったのです。そのような場を掴むことができなかったのです。

 イエス様が来られることによって、イエス即ち完全な人間を中心に完全な地と、完全な主権が三位一体となって、天運と一致する基準を立てて新しい文化世界を成し、新しい理想世界を建設しなければならないのです。しかしこれができなかったので、再びキリスト教を中心に今まで役事されてきたのです。


 誰が歴史を率いて行くのか

 天運に近い理念を中心に長い歴史を経てきた教団は、自身の教団の為めではなく、宗族の為のものでもなく、民族の為のものでもなく、国家の為のものでもなく、世界の為に、天と地の為の教団にならなければなりません。終わりの日に世界万民の為の聖徒が多ければ多いほど、その宗教の理念は長く残るのです。しかしながら一つの教派、一人の君主、一つの民族を中心とする宗教は、ある一時代に一時的な面目を保って全盛時代を迎えたとしても、たやすく消えてしまうのです。

 国家的に発展した宗教も同じです。歴史上に数多くの国家が全盛時代を持ってきたのですが、その国家は天運と因縁を結ぶことができずに、国運の因縁をもって全盛時代を迎えたので滅んでしまったのです。

 その国が傾き始めたら、その国の内的基準を継承する第二の存在が現れるのです。ですからどの時代にも全盛時代が傾いてゆくときから、新しい宗教が発生するのです。それでその宗教は死線圏において、その国の主権者のまえに常に迫害されて追われても、そんな場で発展してくるのです。

 心と体が常に争うように、外的な全盛圏内において、内的な第二段階の全盛時代を迎えようという人は死線圏内から準備してくるのです。ですから神は内的な第二の出発者として、準備してゆく人々を常に打たれるのです。それで彼らはその社会から追われ、追い立てられるのです。

 それでは歴史は、誰が率いて行くのか? 追われ追い立てられる人々が歴史を創造してゆくのです。歴史はそんな段階を経て発展してゆくのです。今日我々がここにおいて一つ肝に銘じなければならないことは、全盛時代を迎えようという民族は世界平和主義を押し立てて行くということです。であれば自分の民族を主として行くのではなく、世界万民の為に、世界平等化運動に貢献しようとして行かなければなりません。こんな民族は絶対に滅びないのです。

 こんな思想をもって今日まで歴史を発展させるのに貢献したのが、まさにキリスト教なのです。世界万民の平等化運動、世界万民の兄弟運動、世界万民の大家族運動、等の理念を中心にしてきたので、歴史時代に攻勢を受けたのです。

 これがカインとアベルの闘いなのです。長子がいつも次子を打つのです。しかしながら打つときには常に滅びるのです。打てば打つほど早く滅んで、相対側に吸収されてしまうのです。こうして第二の段階へと連結させてゆくのです。ですから戦いが起こってきたのです。全盛時代に戦いが起これば起こるほど、天運のみ旨を相続することができる時代的な指導者たちが準備されたのです。しかしながら彼らは全部その時代の主権者たちから追われ迫害されたのです。今までキリスト教がこのような道を歩んで来ました。アベルが殺されたように、神の復帰摂理歴史で召命を受けた指導者たちは殺され、血を流してきたのです。

 ですから外的な全盛時代になれば、内的な全盛時代へ出発しなければならないのです。そのようにして外的な全盛時代が傾いたら、これを肥料にして内的な全盛時代が発展することができるのです。即ち、外的な全盛時代の滅びが、内的な全盛時代の発展の要因になるのです。腐敗した環境が、新しい理念を中心に一致団結するようにするのです。即ち低気圧と高気圧の大きな差異によって台風が起こるように、新しい理念が世界史的な出発の動機になって、新しい歴史的な革命が起こってくるのです。

 釈迦のような貴族も、その時代の内的な全盛時代を準備する人だったのです。その時も外的な全盛時代だったのですが、社会環境は腐敗していたのです。このような環境の中でも準備する人々は、その環境以上に上がることができる内的な全盛時代を迎えていったのです。


 神が外的な全盛時代を打たれる理由

 神は内的な全盛時代を出発することができる土台を造らなければ、絶対に外的な全盛時代を与えられないのです。与えたら滅びるのです。これを知らねばなりません。外的な全盛時代を打つことは、内的な全盛時代を与えるためなのです。ですからどの時代にも、内的な全盛時代の指導者たちは環境的に迫害され追われたのです。釈迦も、孔子も、マホメットもそうであり、イエス様もそうだったのです。これは皆さんが歴史を探って見れば分かることです。

 それではなぜそうなのか? 外的な迫害に比例して、内的に強固な根を持つがためなのです。神がごらんになるとき、肉身の基準よりも心の基準が高いように、外的な基準よりも内的な基準が高いゆえに、肉的な外的基準を打って内的基準に吸収させようとなさるのです。歴史上のすべての民族はこのような過程を経て来たのです。

 それではキリスト教をおいて見るとき、キリスト教はいつまで追われるのか? いつまでも外的な全盛時代だけがあるのではありません。神様はその時代を通して内的な全盛時代を成してこられるのです。キリスト教は今まで世界的な全盛期を迎えてみないのです。勿論自身の教派を中心に、国家的、宗族的、家庭的には全盛となることができても、キリスト教理念を中心に天運と共に、世界を標準とする全盛時代は、未だに迎えてみなかったのです。この全盛期が来ると約束される日が、終わりの日なのです。

 こんな原則をおいて見るとき、キリスト教が全盛時代を迎えようとするにはこの時代がどのようにならねばならないか? 世紀末的な腐敗の時代が到来しなければなりません。 それでは腐敗する動機が何であるか? 第一は天を知らないことであり、第二は地を知らないことです。天と地を知らないこと、即ち神と人を知らないことが腐敗の原因なのです。ここから腐敗が起こるのです。

 堕落が何であるか? 天を見忘れ、地を見忘れ、神を見忘れ、人を見忘れたことです。堕落は天と地を見忘れ、人を見忘れ、神を見忘れ、人間を主とした愛をなしたところから起こったのです。ですからいかなる社会も、淫乱がはびこる社会は滅びるのです。

 アメリカが今、民主社会で先進国家だと誇っているのですが、この国家の未来に責任を担う青年たちがどのようになっているか? アメリカの将来に責任を負う青年たちが、享楽主義に流れる悲運にみまわれて没落しているのです。それは彼らが神を知らず、人間が何であるかを知らず、天が何であるかを知らず、地が何であるかを知らないからです。自分を中心とする愛によって落ちていっているのです。そうであれば滅びるのです。

 私がアメリカに行ったとき、青年たちが享楽主義に流れるのを見て、遠からずこの国は滅びると思ったのです。彼らがそのままそうであれば、滅びるのです。我々の理念が必要であることを知らねばなりません。アメリカが滅びないためにはどうすべきか? まず初めに天を正しく知り、地を正しく知り、神と人を正しく知らねばなりません。これだけを正しく知ればいいのです。神を知る人間は悪を行うにも行うことができず、人を真に知る人間はそんな道を行くことができず、天地の道理を知る人間は天宙の法度に外れたことをする道理がないのです。

 このようなすべてのことを知って、人間の愛ではない超自然的な神の愛を中心に、幸福を歌うことのできる時代が来るまでは、太平の天国は成されるないのです。

 今日全世界に広がっているキリスト教が、世紀末的な現段階において、世界のまえにどのような立場におかれているのか? 歓迎される立場にあるのです。これは神を中心に今までの文明を発展させて、外的基準を消化することができる枠が形成されたからです。それゆえ民主世界を主として宗教の教派が成され、自然的な環境を経て宗教が歓迎される圏内へと入って来たのです。

 しかし民主社会から歓迎されるこの段階において、安息しては駄目です。ここからさらに一歩出なければなりません。キリスト教は現在の全盛時代に満足しては駄目です。心的基準、即ち内的基準を世界的な立場で決定づけねばなりません。こうして外的なものを完全に消化させて、一〇〇%率いて行けなければならないのです。こんな内的基盤を喪失してしまえば、キリスト教は世と共に流れ去ってしまうのです。

 このような立場から見るとき、キリスト教を始めとする今日の宗教は非常時に処しているのであり、危機に処している事実を否定できないのです。

 こんな危機から脱する秘訣が何か? この社会から一〇〇%歓迎される場ではなく、迫害される立場から新しい何かを得て、新しい世界の創建のためにでて行く新しい運動が起こらなければなりません。こんな運動がなければならないのです。もしもキリスト教が世俗化したなら、このキリスト教は外的な世界に引かれて入ってしまうのです。


 迫害されても内的全盛期を成すという覚悟

 来られる主がこの世界に天国を建設なさるお方であるとして、今日世界のキリスト教が主を迎えられる環境を造ることができなかったら、新しい宗教を中心として第三次の革命を成すのです。今までの社会制度や教派的な制度と形式を根本的に革新して、社会的なすべてのものを教会的な立場に率いてゆかねばなりません。こんな観点から、統一教会の使命はとても重要なのです。

 この国が解放を迎えて先生がこの道を出発するに当たって、三千万は老若男女を問わず解放が来たと手を挙げて喜んだのです。しかし先生は歴史がこのように動いてゆくので、統一教会の運命をどのように開拓してゆくかを考え、静かにしていたのです。日本が全盛時代を享受するとき、韓国は悲惨でした。

 キリスト教徒たちが新しい世界的な、内的全盛時期を出発させるための基盤を築いている時、外的全盛時代にあった日本独裁者たちは、彼らの首を切ったのです。しかしこのような環境に屈することなくこれを克服してきたキリスト教は、解放のラッパの音と共に第二次の出発をして、この民族のまえに訪れる国運を世界運勢へと連結させたのです。

 こんな出発をしたのに、キリスト教はどのようになったのか? 社会の中に吸い込まれたのです。アメリカの風潮と思潮に吸い込まれてしまったのです。資本主義の影に全部が埋もれてしまったのです。それで個人を主とした教派と教権主義、個人を主とした教会へといって、みな滅んだのです。社会と共に滅んでしまったのです。

 こんな状況で、私は考えたのです。このような教派のまえに、歓迎される自分になるのか? この国と民族のまえに歓迎される統一教会を創るのか? 統一教会が歴史のまえに立つためには、教派のまえに反対されなければなりません。民族のまえに反対されなければなりません。試練の途上で揉まれなければなりません。彼らのまえに歓迎されたなら、新しいものを創建することができず、第二の新しい世界へと出発をすることができないので、私は統一教会が追われに追われ、迫害される事実を悪いとは考えないのです。

 イエス様はその時は追われに追われたのですが、そのなかで時代を克服することができる内的な基盤を造っておいたので、この基盤を通して新しい世界を創建してゆくことができたのです。同じように、統一教会が今は迫害され難しい環境の中にあるのですが、これに屈することなく、打たれても絢爛たる内的な全盛期を成さねばなりません。神の心情を握り、神の内的な愛を中心に、世界史的なすべての苦喪を克服できなければなりません。 押し寄せる風波と、迫りくる試練と嘆息と絶望を克服するとき、我々は成功を約束し、勝利を誓い、いかなる艱難も防ぐことができると私は確信するのです。

 こんな立場から見るとき、追われに追われる場であっても希望を抱き、手錠を掛けられる獄中の身になっても希望を抱いて、明日を望み見て勝利の姿が羨ましくはない場で、神のまえに訴え出て行かねばならないのです。

 周囲の環境を考えて見て下さい。試練を通して環境に同化されるのか、環境を同化させるのかを考えて見なさいというのです。先生は二一年間、闘争歴史を経て来たのであり、皆さんは七年路程を終わろうとしています。こんな場面で過ぎた日を回顧してみるとき、悲しいこともあった一面、痛快で懐かしく嬉しいこともたくさんあったのです。


 希望に溢れるべき統一教会

 我々の財産は今までに捜し求めた教員たちであり、今までに試練を克服してきた多くの事由です。この財産が世界に広がり、多くの人々の胸に新たに植えられるとき、死んでいた生命が復活するその日が来ることを確信するのです。

 ですから先生が常に皆さんに、伝統を尊重せよと語ったのです。この伝統は外的全盛時代に拍子を合わせるのではなく、内的全盛時代を中心に、新しい歴史を創造して、新しい社会を再結成するということです。

 イエス様がゲッセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい(マタイ二六:三九)」と祈祷されました。

 自分のみ旨と父のみ旨が違うなら、自分のみ旨は社会と接して足をおくものであり、アボジのみ旨は天倫と接しているのです。

 このように社会に足をおくのと、天倫と接する二つの道があるのですが、どちらの道に従って行くのか? 天倫に接する道へと行かねばなりません。腐敗した社会環境において歓迎されることよりも、第二の新しい復興と新しい出発を望み見て、内的全盛期を誓って天倫と繋がってゆくべきことを知る我々は、このような闘いをしてゆくのです。このような道を行くにおいて、環境が提示する問題が大きければ大きいほど、その内容が大きければ大きいほど、ここに比例して迫害が多くなるのです。

 我々はこの迫害のまえに自ら後退し、挫折してしまう弱者になってはなりません。そうなれば歴史上に背反者となり、天宙の相続を受けられないのです。歴史を主導できないのです。また教派を収拾して、新しい歴史時代を成すことができなのです。こんな時点において対外的に、または世界情勢から見るとき、我々統一教会とキリスト教がまさにそんな立場にあるのです。こんな立場にある我々が外的な全盛時代において、内的な全盛時代の基準を立ててきたといえるのです。

 皆さん個人における全盛時代はどのような時か? 今まで社会を中心に生きてきた時が皆さんの全盛時代です。統一教会に入って来る前の時代が、皆さんの全盛時代です。皆さんがそこでの行楽を追求し、そこに人生の勝利を追求して行っていたのです。

 皆さんがいつ、統一教会に入ろうと考えたのですか? しかし統一教会に入ったその日から、自身の社会的な基盤が一時に消え失せたのです。この社会的な環境が高く大きければ、その大きさに比例して受けるべき試練と苦痛もさらに増すのです。しかし我々は行く道がどんなに難しく、どんなに苦痛に満ちていても克服しなければならないのです。これを克服できなければ、皆さんは歴史と共に、時代と共に滅んでしまうのです。

 今日、七年路程を行く皆さんはどんな立場にいるのですか? 社会環境を打開して、前進しようと駆り立てる希望が胸に染みるべきであるにもかかわらず、昔を慕っているのではありませんか? イスラエル民族が荒野で苦労をして、昔は肉のス-プも食べたのにこれが何だ、四〇年間ウズラとマナばかり食べなければならないとは、とエジプト宮中での生活を慕ってモ-セを恨んだように、過ぎし日を慕っているのではありませか? 堕落した人間を救援することが皆さんの使命であり、本分であるにもかかわらず、それなのに昔は良かったと言っているのではありませんか?

 世界的な外的全盛時代は滅びなければなりません。真が現れ、真の基準が立ったなら、これは滅びなければなりません。これが道理であり、天理なのです。滅びなければ滅びるようにしなければなりません。ですから真を知る人々はその外的な環境を見忘れて行かねばならないのです。

 捨ててゆくのですからすべてのことを忘れて、絶対的な心を中心に内的基準を再び立てて、第二の自分を主管して、第二の自分を支配することができる第二の人格を創造しなければなりません。ところがこれを忘れ去って、昔を回想して慕う人々は滅びるのです。第二の内的基準を立てることが生きる道です。我々はこのような岐路にあることを、確実に知らなければなりません。いつかは、統一教会の全盛時代が来るのです。

 アメリカが現在は世界の国家のまえに全盛時代を誇っています。しかしこんなアメリカが滅びることなく生きるためには、天運と歩調を合わせなければなりません。そのようにするにはアメリカの為とするアメリカになっては駄目です。世界の弱小国家、哀れな国家の為とするアメリカにならなければなりません。アメリカが彼らの国民を動員して、世界の生きられない民族を自分たちの兄弟のように対して、生きられるようにする運動をしなければなりません。そうであればアメリカは滅びないのです。でなければ滅んでしまうのです。

 必ず統一教会の全盛時代が来るのであって

 それでは統一教会の全盛時代は、いつの時になるのか? 統一教会の全盛時代が来るのですが、その時がいつの時か? 全盛時代が我々の前に近づいているのです。遠からぬ将来に統一教会の全盛時代が来るのです。その全盛の時が来れば世界が動くのです。世界が動くその時が来れば、統一教会がどのように動いてゆくのか? 先生はこれに対して案じているのです。

 韓国は韓国としての全盛時代が来るのです。その時が来たら韓国を動かすことができる統一信徒にならねばなりません。世界的な内的全盛時代に責任を負う統一信徒になるかということが問題です。韓国統一教会を主とする全盛時代が来たなら、韓民族は世界のすべての民族が内的な全盛時代を迎えられる基準をつくる民族にならねばなりません。言い換えれば、全世界において最も哀れな民族を救うために、いかなる民族もできないことを先頭に立ってやるということです。

 それでは韓国において今まで、統一教会に忠誠をなした人々ではない他の人々を通して新世界を建設するのか? 違います。必ず統一教会に忠誠をなす人間を最前線に押し立てて、世界の為に苦労させるのです。

 もしも韓国民族がこの責任を果たさなければ、この使命を果たすことができる統一教会理念を持った第二の民族が出なければなりません。日本でもよく、アメリカでもよく、ドイツでもよいのです。そんな理はないのですが、共産主義であってもこんな理念を持って出るならいいのです。であれば彼らは世界的な立場でこの理念を自身の理念のように形成して、栄華を享受するときが来るようになるのです。何の話か、分かりますか?

 ですからこの国が我々のみ旨のまえに近づいて来て、環境が我々のまえに福を持ってきても喜ぶなというのです。明日に行く道があるのですから、明日の希望を確かめ、明日に越えるべきその峠を越えるための準備をしなければなりません。試練を越えるための鍛練の期間が必要なのです。

 今我々が闘っている闘いは、これから世界の舞台で闘うための準備に過ぎません。ですからその日のために目標を定め、その時を迎えるために三千里半島この民族のために闘うことよりも、民族を超越して力強く堂々と世界に向かって行く意気揚々たる青年男女が多くなければ、世界を指導する統一教会とはならないのです。このような民族が統一教会と一つになれば、世界的な主導権を掌握するということを知らねばなりません。何の話か、分かりますか?

 それでは皆さんはどのような立場に立つべきか? また先生は皆さんがどのような立場に立つことを期待しているでしょうか? 統一教会員は行楽と満足を追求するそんな人間になってはなりません。世界の舞台に向かってあらゆる試練と苦痛を押し切って、新しい世界の創建のためにもの凄い風雪を独り受けとめ、責任を負ってゆくことができる人間にならねばなりません。

 であれば統一教会の運勢は世界的な運勢と供に、世界を指導し支配することができるのです。もしもそうでなければ、口にも言えません。先生はこれが心配です。家庭生活もやはり同じことです。家庭の満足ばかり追求しては駄目です。今日の栄光の中に陶酔していては、明日に越えるべき峠を越えることができません。内的にさらに誓い、決意して、内外のすべてのものを整備して総進撃すべきときが残っているので、今日この場に我々は安息することができないのです。心を許せないという事実をはっきり知らねばなりません。 こうして今日までの全歴史時代を総合した世界史的な全盛時代である二〇世紀の全盛時代を守ることができる、内的全盛時代の権限を持たねばなりません。そのようになる個人があれば彼は世界的な統一王国の代表者になるのであり、そんな団体があれば世界を指導する団体になるのであり、そんな民族と国家があれば世界の数多くの民族と国家を治める民族や国家になるのです。こんな思想を持つ民族や国家があったなら、新しい理想世界を建設するときに主導的な責任を任さざるを得ないという事実を、歴史的な観点から推し量っても知ることができるのです。

 ですから統一教会員たちはアフリカの暗黒の地に絢爛とひるがえる勝利のみ旗を立て、神のまえに凱歌を挙げなければなりません。アフリカのみならず、韓国、アジア等の惨めな民族が生きるところに最後の勝利を決定づけ、神のまえに賛美を捧げることができる基準を立てようと見悶える民族になるなら、間違いなくその民族を通して世界は統一されるのです。我々の理念はそのようにしても余りある、充分な内容を持っているのです。こんな責任を担う青年男女になれというのです。


 神の思想と伝統を相続して実践すれば

 先生は遠からず外国に行くのです。先生が考えることは民族的なことではありません。統一教会が今までの数年間、千辛万苦、苦労の道を意に介せずに歩んで来たので、この民族のまえに我々の姿を現すようになったのです。我々のこんな強力な力を国家にも知らしめたのです。我々が内的な基準を中心に活動してきた内容を、自他共に認めることができる社会的な環境ができたのです。

 しかし我々はここで満足してはならないのです。我々の行く道が、ここで終わるのではありません。我々は我々を歓迎する人々と共に額を合わせ、笑いあう場を求めるために出発したのではありません。我々は神が安息できる土台を造るために出会ったということを常に肝に命じるのです。世界的な大戦争の場において勝利する、その日のために出会ったということを、肝に銘じなければなりません。

 我々は銃剣をもって戦うのではありません。血と汗と涙で闘うのです。今まで神がされた作戦、即ち伝統と思想を相続して実践するのです。それでこれが結実したといことを万存在のまえに見せてあげ、万民と万存在物がその勝利の権限のまえに頭を下げて入り、すべてのもの相続して神の愛の圏内に安らぐことができるようにしなければなりません。そのような日が我々が希望とする天国が建設される日であり、万民が平等な世界を迎えて、安息することができる地上天国の理念が確定する日であることを、はっきりと知らねばなりません。

 我々はその所に向かって行かねばなりません。この若者たち、行くのですか、行かないのですか?(行きます)誰かが銃剣を抜いて危険であっても行くのです。その日を早めなければなりません。我々はその日のために生まれ、その日のために闘い、その日のためにこれからも行くのです。自分が今日行くのも、その日により一歩近づくためであり、自分が闘うのも、その日の勝利のために標的を立てるがためなのです。

 先生が四〇か国を回って見て感じたことが何かというと、アメリカの人々がどうして今世界の経済圏を全部掌握しているかということです。彼らは技術分野が他の国よりも優秀なのです。本来、産業革命はイギリスを中心に起こったのですが、アメリカがどうしてこんなに早く経済発展を成したのか?

 アメリカの人種は合わさった人種です。数多くの人種が総合されたということです。ところでここには大体どのような人々が集まったのか? 以前に暮らした国と民族のまえに歓迎された人々が集まったのではないのです。すべて反対された人々が集まったのです。国が反対し、民族が反対する人々は、頭が良い人間なのです。こんな人々は自分の国だけを中心に生きるのではなく、世界的に生きようという考えを持っているのです。それほど図体が大きく、抱負が大きいというのです。ふう変わりなことを考える人間です。ですからその国の主権国家のまえに背反されるのです。

 それで彼らはピュ-リタニズムを中心に、自由信仰を訴えて糾合したのです。そうして思想的な基準が同じ、生活的な基準が同じであったのです。ここに強力で荒々しい性格まで合わさって図体がでかいのですから、その前に小さなことはすべて消しとんだのです。こうして彼らはその基盤を広げていったのです。

 それ以前には本国で追われ、追い詰められた人々ですから社会的な基盤がないのです。ですからアメリカに行ってある程度の基盤を得て、本国に帰って彼らの宗族の前に歓迎を受けようとしたのです。このような人々が集まって、経済的な基盤を立ていって発展したのがアメリカです。


 世界主義を中心にして行け

 今日の世界を見るとき、西洋人、東洋人、黒人、白人、全部が思想的に異なるのです。思想が同じなら目的観が同じであり、心情的に一つになるのです。また神の心情を中心にすれば、生活感情が全く同じなのです。思想が同じ、目的が同じなら、分かれようにも分かれることができません。であれば統一が成るのです。分かれるということは、反対があるからです。

 それで先生はこれから国際結婚をたくさんやろうと思います。世の中で最も惨めに追われ、追い立てられる人々が混血児たちです。これから世界的に追われ、追い立てられる人々が集まって暮らせる国を造ってあげなければなりません。混血人国家を造るのです。その人々を中心に、アジア一帯でやることが多いのです。

 先生は二一年間、韓国民族から追い立てられて闘って、青春時代を送ったのです。先生はだからといって何かに、誰かに頼ることはありません。踊りを踊っても誰にも負けません。私が遊ぶなら誰よりもよく遊ぶのです。ところが一度も遊んでもみないで、惨めなみっともないざまになって、この世的に考えれば憤るときもあるのです。

 しかしながら、天的に見れば見事なのです。憤りよりも見事という考えが大きいので、この事をしてきたのです。今は統一教会食口たちを引っくり返すのです。大学を出た人たちが問題です。大学になぜ入るのですか? 食うために行くのですか? そんな人間なら統一教会にいる資格はありません。大学に行くのも、民族と世界の為に行くのでなければなりません。

 先生が今回アメリカに行ってくれば、一二か国に宣教師を送り出すのです。金がなければ財産をみな売っても行けというのです。先生はこの道を歩んできて、財産だけ売るのではありません。自分独りが良く生きるために、そうするのではありません。この民族を良く生かすために、世界を良く生かし、神を喜ばせてあげるためなのです。このように行くのが、公的な路程を行くことです。これが公法です。ですからそうではないすべてのものは、公法に対する反逆です。

 ところが韓国には皆さんを送り出す所がありません。なぜなら韓国では歓迎されるからです。先生は今まで反対されてやってきたので、皆さんが行って歓迎されるのですから気分が悪いです。本当にそうだというのではなく、ちょっと気分が悪いです。(笑い)

 なぜ? 先生が気分悪くなれば、世の中の人々が喜ぶのではありませんか? 悪口を言われる統一教会の先生が気分良ければ、世の中の人々はどんなに気分が悪いでしょうか?そうかどうか、ちょっと気分を悪くしてみるのです。(笑い)

 今は第二の出戦をすべき時です。我々はアジア大陸に派兵された軍隊です。以前に先生がアジアの南方の国々を巡訪して、とても大変なのが暑さでした。暑い所での宣教が一番大変なのです。インドのカルカッタに約一週間いたのですが、温度が四一度まで上がるのです。それで扇風機をつけて眠ったのです。扇風機をつけて眠ると病気になるというのですが、病は何の病でしょう。扇風機の下で昼寝でもすれば気分が良いのです。それで先生は、や! ここで伝道するのは本当に骨が折れる、と考えたのです。皆さんの中でそこに行く人がいるでしょうか?

 エジプトではホテルから出て、ちょっと歩いても汗が出るのです。時間がないので駆けようとすると、そこの人たちが止めるのです。駆けたら大変だというのです。そうでなくても熱射病になったり何かの病いになったり大変なのに、駆け出したらえらいことだというのです。その人たちがみな経験して知っているのですから、駆けられるでしょうか?

 アジアのどこに人口が多いかと考えてみると、極東地方より熱帯地方が多いのです。中国でも全人口の半分が暑い地方で暮らしています。比率から見れば、北側よりも南側に人が多いのです。

 一時先生は我々統一教会員たちの墓を全部、南方に造ろうと考えたのです。先生の考えが良い考えですか、悪い考えでしょうか? まるきり無駄ばなしをしているようで。聞いたことのないことですから。良い考えですか、悪い考えですか?(良い考えです)神はどのように考えられるでしょうか? 先生よりもさらにそう考えるのです。南方のどこか大きな島に統一教会員たちを飛行機で移動させて、そこで暮らさせたいのです。

 先生がアメリカに初めて行った時、アメリカ人たちは先生が彼らの生活様式にほどなく同化するか、させようという感じだったのです。先生が「主義」と言えば世界主義者であり、アメリカを同化させるのであって、アメリカに同化はしないのです。先生がこのように言うのをみて彼らは笑ったのですが、先生はそんなすべてを無視したのです。そうしているとその時から、彼らは先生のまえに屈伏してきたのです。


 心情はどこでも通じる

 人間はみな同じです。心情的なものは同じなのです。先生が涙を流せば、彼らは私よりも涙を流して泣くのです。そして韓国の統一教会食口たちが先生を好きなことより、さらに好きになるのです。先生が韓国で地方を巡回するときに、統一教会の女性たちが先生を抱いてキスする人はいませんでした。ところがアメリカの若い人はいきなり抱きついてキスするのです。それで先生はそれはいけないと言ったのです。それは西洋風俗であって、けっして天の法度ではないので、絶対に駄目という限界をおいて、しないと誓わせたのです。先生にはアメリカ式挨拶は通じないことを植えつけたのです。このように過ごしても先生が出発する時、見送りに来て飛行場に出ると表情が変わるのです。

 先生が飛行機に乗る前に韓国の食口たちの顔を見ると、だんだん沈鬱になってゆくのです。そうしていたのが、先生が飛行機に乗ると涙をちょろりと流すのです。ある人は先生が飛行機に乗ろうと皆に挨拶する時まで涙を流していたのが、先生が行くのが見えなければまた見えないと泣くのです。ところがアメリカの人たちは泣けば恥ずかしいので、泣かないのです。父子の間に恥ずかしいということはないのです。

 先の世界巡回の時に七番目の国に到着すると、一人のおばさんが髪をといて来て、先生に誰よりもまず初めにキスをすれば歴史に残ると、霊界から教えられたといってキスを求めてくるのです。それで先生を愛するかと問うてみると、愛するというのです。それで、先生のどこを愛するのか? 指を愛するのか、全体を愛するのかというと、全体を愛するというのです。私が最も愛するところも愛するかというと、それも愛するというのです。それで私が頬を最も愛しているので、女性が私の頬に触れることは最も嫌うと言ったのです。私を愛するなら、愛する人の好む通りにすべきではないかと、拒絶したのです。このようなことを西洋の夫たちは理解するのです。これが韓国と違うころです。夫人が東洋の先生とキスしたくて後を追うときにも、そんな夫人を理解するのです。生活感情が東洋と、このように違うのです。

 それでは心情の基準が何か。南方の国、またはどんな国であっても皆さんが心情だけを持っていればいいのです。高いところに上がれば、低いところへと下ってゆくのです。皆さんは水道水が流れる原理を知っています。高い所の水は低い所へ流れてきれいになるのです。高い所と低い所が連結されさえすれば、水は流れてきて一杯に満ちるのです。

 ですから皆さんは心情のパイプだけを、神と連結させておくのです。心情のパイプだけ神と連結させておけば、行くなといっても行き、越えるなといっても越えるのです。ですから心情を継承させなければならないという結論になるのです。

 心情のみをそのまま伝えてやれば、やるなと行っても最も良い家までも与えるようになるのです。最も良い家を持っていても、私が必要だからいえば提供するのです。これは心情的な基準があるからです。

 このようなことを見るとき、心情が熱帯地方の四〇度を越える温度よりも低いのか高いのか? 心情は神の愛する人間であるほど高いのです。熱帯地方に神が最も愛する人間がいて、韓国の人間以上に先生の御言に酔う人間が発見される日には、四〇度、五〇度を越える所であっても話をするのです。こんな人間がいないので、暑さを感じるのです。

 心情的な度数が高くて四〇度、四五度までも越えるほど神を愛する人間は、一〇〇%合格することができるそんな場にゆくのです。そのようになれば暑いことも、ごはんを食べることも、寒いことをすべて忘れてしまうのです。

 統一教会では、信仰の熱度が強い人が先に立つのです。男性が熱度が強いですか? 女性が熱度が強いですか? 女性が熱度では強いのです。それで女性たちを宣教者として派遣しようというのです。もしもインドに送るならサタン世界に女性だけを送り出せないので、信仰的に良く訓練されたインド人と結婚させて送るのです。世界人であれば誰もがアメリカに入れます。それでこれからインドに宣教に送る女性たちを、アメリカ統一教会のインド人と結婚させて、インドに帰国させるのです。人間として生まれて自分のことだけに生きるよりも、自分の国の為に、アジアの為に、世界の為に生きることが、広々と価値あることです。神様も喜ばれることをしなさいというのです。


 永遠なる全盛時代のために誠精を尽くせ

 先生は韓国を愛しています。皆さんはどうでしょうか? 先生が韓国を愛するように、皆さんも韓国を愛するのです。それでは先生が韓国を愛するなら良いでしょうか? 皆さんがさらに愛するなら良いでしょうか? 神を愛するときも、独りで愛することよりも、いろんな人が愛するならさらに良いのです。同じように皆さんが韓国をさらに愛さなければなりません。

 皆さんは世界を愛しますか? 世界を愛するなら、愛する条件が何であるかと問えば、どのように答えるのでしょうか? 言葉でだけ愛するのですか? 条件のみならず、事実として表わすことができなければなりません。他の国の人々ができない事までも、しなければならないのです。

 アメリカの主人は物質的に、霊的に、肉的に、誰よりもよりアメリカを愛する人です。韓国において大統領になれる候補者は誰か? 韓国を誰よりもより愛する人でなければなりません。

 アメリカの主人が誰か? 神様なのです。なぜならば、アメリカの地に人が定着する前から、アメリカの地を愛されたお方が神様であるからです。韓国の主人が誰か? 韓国の地に倍達民族を立てられる前から、韓国の地を愛してこられた神様なのです。最も難しいときも変わることなく愛してこられた神様なのです。それゆえ神様が主人なのです。ですから皆さんが神の変わらざる息子・娘であるなら、アメリカの地もわが地であり、韓国の地もわが地であり、世界の地もわが地であるいうことができるのです。愛を中心に見ればそうだというのです。

 皆さん、世界を愛しますか? 世界を愛するなら条件を立てなければなりません。世界の為に涙を流すことができる母がいるなら、その息子は世界を治めることができる人間になるということを知らねばなりません。考えないものが因縁となることはなく、因縁とならないものが成就することはありません。ですから誠精を込める人が、歓迎を受けるのです。世の中の万事が、みなこのようになっているのです。それゆえ統一教会員は世界を愛さなければなりません。先生よりも、世界をより愛さなければならないのです。このようにして我々は、全盛時代を迎えなければなりません。

 今までの仏教や儒教は勿論、すべての宗教は神の摂理によって立てられたものです。しかし未だに求道の基準において、全盛時代を迎えることができないのです。ある一時に宗教が一国の主権を中心に、天下に号令をかける時代を迎えては見なかったのです。求道の全盛時代を迎えるためには、時代的な全盛時代のまえに、ある方法によって闘争をして、これを克服することができる思想的な基準を立てておくかということが問題なのです。

 それゆえこれから新しい時代を創建することができる内的な全盛の基盤を造り、この基盤の上に新しい歴史を出発させる基準を立てなければなりません。こうして内的な全盛時代を成す世界を創建しなければなりません。このような時代を成しておかない限り、平和の王国は絶対に到来しないのです。

 我々はこんな世界を望み見て、こんな世界を成すことができる理念を中心にしてゆくので、内的な全盛の基盤の上に外的な全盛基準を一体化させ、神と一体化させなければなりません。こうして万国の勝利、万天下の勝利、最後の勝利の終着点において、神のまえに勝利をお返しして、神を永遠にアボジとして侍ることができる場にまで行ってこそ、初めて解怨成就が成されるのです。そのようになれば、今までの歴史上の数多くの全盛時代は興亡の路程を経てきたのですが、その時からは永遠なる全盛時代、即ち、永遠なる太平王国、地上天国、千年王国が建設されるということを、皆さんは確実に知らなければなりません。

 我々統一教会員はこの世界に向かって出発したのであり、この世界を創建するために今も闘っているということを、確実に知らなければなりません。

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一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.05.04 08:57:16
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2021.05.03
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「み旨の行く道」

 1967年5月14日(日)前本部教会


 この世の中で目的(み旨)もなく生きている人間はありません。人々は社会生活をするにおきましても、自分なりのみ旨を中心にして生きているのです。今世界に広がっている人類は、自分の事業に対するみ旨、学問に対するみ旨、あるいは自分の専門分野に対するみ旨を立てて、その目標に向かって歩んでいるのです。


 善が要求すること

 それではこのみ旨は何を中心として成すのでしょうか? 勿論人間を中心にして成されるので、その心を中心として成されるのです。ここにおける心は、常に失敗することを願わず、うまくゆくことを願っているのです。それが平面的であれ立体的であれ、時代的であれ歴史的であれ、さらに良くなることを願っているのです。ですからみ旨が指向する最高の目標は、万民が良いという基準に至ることです。

 人間の良心は言うまでもなく、常に善に従っているのです。この善は人間をして、より大きな何かを成すようにさせる要因になるのです。自分の研究分野や、あるいは他のいかなる分野を問わず、善に立脚してみ旨を立てなければならないのです。

 それでは善自体を見渡してみる時、善はどんな内容を持っているのでしょうか? 善は非動的か主動的かを分析してみれば、善自体は非動的であることを願わないのです。常に主動性を願っているのです。ですからある社会、ある団体の条件が大きければ大きいほどこれを中心として、その社会や団体を動かし、善なる基準圏内に隷属化させようとするのです。

 人々はなぜ、真の善を願うのか? 善自体が非動的ではなく主動的であって、我々の生活に不義と損害をもたらすのではなく、常に利益を得させようとするからです。

 ですから良心を持つ人間は、善に立脚した自身の主動性を持つことが肝要なのです。他人から支配されることを嫌う原因もここにあります。また良心にのっとって願う善の基準も、限界的なものを願ってはいないのです。それゆえ韓国の人間であっても、韓国的な人間だけを願ってはいないのです。自分が韓国人であっても、世界的な人間になることを願っているのです。より高い何かがあるとすれば、そのような存在になることを善は要求するのです。

 ですから人間は真の、良心的な生活をしなければなりません。真の良心を持つ人々は、自身の主動性というか、自分自身を中心とする最高の理念を堅持しなければなりません。良心的な人間であるほど、自身の絶対的な主動性を要求するのであり、絶対的な最高のものを願うのです。

 み旨が指向してゆく時、何が連結されるのか? ここには必然的に理想、あるいは理念が連結されるのです。ですからみ旨は理想の世界に向かって行くのです。それではこの理想とは何か? これは万民のある思考圏内に生じるものではなく、あるいは時代圏内で目的を立てて行くことではないのです。それは時代性と歴史性を超越して、地域的な限界を越えた基準で捜し求めて行くのです。

 ですから心はある相対的な理想圏を要求するのです。この基準が無限であれば、無限なる環境圏を要求するようになるので、この無限なる相対的な理想圏を要求する心の主体性もやはり無限であり、それゆえ無限に至高なることを要求するのです。人間はこのような心を持っているゆえ、高貴なものという結論が出るのです。

 み旨が行く道は、理想を目指して行く道です。歴史過程を経てきた数多くの人々は自分が及ばずに生きてきましたが、み旨はより高い善を、より価値あるものを追求してきたのです。より高い理想を求めてきたのです。

 歴史の流れに従って、時代が入れ替わるに従って、あるいは国家の主権が入れ替わるに従って、その環境がさまざまに変遷して来たとしても、み旨は常に一つの理想世界に向かっているので、刺激となり力となってきたという事実を、皆さんは知らねばなりません。それゆえ世の中が漸次、理想世界に近づけば近づくほど、万民が願うみ旨、その理想は一つの目標に向かって行かざるを得ないという結論が出るのです。こんな観点から現在の世界情勢を見てみれば、一つの理想世界に向かって行っているということを知るのです。


 み旨が行く道

 今、世界では民主世界と共産世界が闘っています。民主と共産のみ旨が今、先になり後になりして人類歴史と共にもつれ合っています。

 それではこれがどうなるのか? み旨は二つはありません。絶対的なみ旨、最高の理想的み旨、それでこそ神の理念と通じるみ旨は、二つはないのです。それゆえ民主と共産のみ旨はいずれ一つにならねばなりません。今日民主主義は民主主義として、共産主義は共産主義として、理想が何であり理念が何であると叫んでいるのですが、現実は一つの帰結点を成すみ旨の方向を捜し求めて心を砕いているのを、我々は否定する道がありません。今世界は歴史過程を経て20世紀の現代文明を迎えて、初めて一つの理想圏内に帰一する段階に入っていることを、我々は感じるのです。

 それでは過去の我々の先祖たちの良心は、善ではなかったのでしょうか? そうではありません。現在より善でした。それでは先祖たちが描いた理念が、現世よりも劣っていたのか? 決して劣っていません。それではその当時、全部が一つになる理念を主張して行かねばならないのに、なぜ出来なかったのか? み旨が行く時には道があるからです。み旨は出発と同時に一ぺんに成るものではありません。その目的地まで行く時は必ず経なければならない過程があるのです。

 今日宗教的な立場で見れば、人間始祖が堕落したことは否定する道理がないのです。それでは堕落とは何か? み旨の方向性を失ったこと、即ちみ旨が向かう本来の方向を失ったことです。行くべき道をさしおいて、行ってはならなこに行ったことです。言い換えればみ旨と一致する方向を捨てて、み旨と反対の方向に行ったことが堕落なのです。それゆえ人類歴史が、人類始祖の堕落と共に出発したことを認める他はないのです。ですから人類は必ずその方向に入って、一つの理念的な世界に向かって行かねばならないのです。それでは今まで歴史過程に来ては行った数多くの先知先烈、あるいは数多くの道主たちは何をしたのか? 彼らはそれぞれの主張を立てて、絡み合ったみ旨の方向を一つの方向に帰結させようとしたのです。絡み合ったみ旨の方向を、ある思想的な一つの目標を立てて、その方向を帰結させようとしたのです。

 また彼らは、一つの絶対的な理想世界に向かって行く道を捜し求めた人々でした。それではその道をどの角度で合致させるか、平行線上で合致させるのか? 直線上において合致させるのか? ある主義、主張やある宗教が行く道には、一段階ごとに合致させれば残る距離までの試練が残るようになるのです。ある角度で出発して、ある程度下れば、歴史過程に起こる因縁が、終わりの日まではその使命を知るようになるのです。ですから試練の角度はそれなりに少なくなるのです。

 こんな観点で良心を中心にして、より高次的な目標点に向かって行くために現れたものが何でしょうか? 勿論、哲学もそうですが哲学よりも宗教がそのようなことをさらに深く取り扱ってきたのです。ですからこれまでの人類歴史を概観して見る時、文化は宗教的な基盤を通して発展してきたのです。即ち、文化が発展することは、長い歴史過程を経て来て、宗教的な基盤を通して、その時代圏内の文化圏を一つの方向点に収拾してきたからです。これはなぜそうなるのでしょう? み旨が指向する一つの目的点に帰結せしめるためにそうなるのです。


 み旨が指向する目的

 み旨を指向するにおいて重大なる使命をなすものが宗教です。このような宗教の歴史が深ければ深いほど、現実の文化世界を凌駕する深く新しい内容が生まれるのです。それでその宗教的な内容を通したみ旨の基準、あるいは理念的な基準は、必ず全人類が指向するみ旨の目的と結びつくことが出来るのです。それでは今日、民主主義は何を中心としているのでしょうか? キリスト教思想です。しかし共産主義はこれと反対の思想を持っているのです。

 み旨の行く道を探ってみれば、み旨は本質を外れることがないのです。み旨は総合的な最善の基準を通して連結されることですから、み旨が帰結点を成すには短日時の過程をもってしてはダメなのです。またその因縁を結ぶためには人類歴史と共に、その文化歴史と共に関係を持ってこそ成るのです。こんな観点から悠久の歴史的な理念をもって、現実において重要な責任と使命をなして、み旨を発展させた宗教はキリスト教であります。

 ところで共産主義はどこへ行くのでしょうか? 今から50年前の1917年にソ連を中心にいきなり現れたのです。それではこの共産主義が歴史的なみ旨と、今までの時代的な全てのみ旨を全部、一つに括りつけられるでしょうか? そうはできないのです。

 皆さんの良心が、真ごころからの、良心らしい良心に頭を下げる高度な基準が唯物的であるか、唯心的であるかという時、これは言うまでもなく唯心的なことなのです。お金が沢山ある人間であるからと、彼を人格者とは呼ばないのです。人格者としの良心の基盤の上に、より大きな何かを持っていなければなりません。

 ですから現実におきまして、宗教的な歴史を中心にして、新しい形態を持たなければなりません。そして頂点をきわめる因縁をもつ思想体系を得ていなければなりません。世界人類の方向を決定するものでなければなりません。このようなことを見る時、共産主義はみ旨と正反対の道を行っているということが分かるのです。

 み旨の目的は理想を求めることです。理想は何を通して成されるか? 三度のめしを腹いっぱい食べて、理想は成らないのです。それではみ旨が指向する目的は何か? めしを食べて満腹になることではありません。またどんなに酒が好きな人でも、酒が目的になることはありません。ではそれよりさらに問題になることが、何でしょう? 愛です。この愛は一時的な愛ではなく、端った金で買える安物の愛ではありません。本質的な愛です。この本質的な愛を分析してみれば、愛には革命がないということが分かります。父母が子を愛することは、真の愛にあたります。ですから人間始祖の時から、人がわが子を愛する心と、数千年後の後孫である我々が子を愛する心は全く同じなのです。また数千年後の我々の後孫が、子を愛する心も同じことです。愛には発展もなく、終わりもありません。革命の要件を必要としない純粋なものが、愛なのです。

 それでは神の愛とは、どのようなものでしょうか? 神がある存在を絶対的な基準の場に立てておいて、その存在性を認定して彼を愛したなら、その愛はそれ以上の革命を必要としない愛なのです。


 み旨を成すためには

 革命はどこから出発するのか? 欲望から出発するのです。悪いことがあればこれを捨て、良いという内容を全体の前に適用するのです。これを社会に適用させて社会に革命を引き起こし、宗教に適用させて宗教界に革命を引き起こし、また他の全ての分野に適用させて、その分野に革命が起こるようにしなればなりません。

 み旨が指向することは理念であります。しかし理念はそれ自体では、み旨を成すことが出来ません。み旨は愛の問題を通して解決しなければならないからです。即ち、み旨を成すためには、物質をもってしてはダメだからです。

 こんな観点から、キリスト教が最も重要視するものが愛なのです。それではこの愛を成す方法が何でしょう? それは新郎・新婦を立てることです。悠久の歴史過程を経て、愛の内容を中心に現れたのがキリスト教です。ですからキリスト教は世界的な宗教になったのです。

 それでは今、キリスト教が成すべきことが何でしょうか? 理念を成就するためには必ず世界的な宗教にならねばならず、世界的な宗教になるためには愛の問題を通して来なければならないのです。この時の愛は妥当性がなければなりません。この愛がアベルにだけ当てはまり、カインには該当しないとか、大韓民国の人々には当てはまり、アメリカ人には該当しないというのではダメです。

 今までの革命を経て来た歴史もここには係わりなく、一瞬間に統合され、適応されなければなりません。キリスト教にこのような愛があれば、キリスト教を中心にして世界の国家を統合することが出来、理想世界を造ることが出来るのです。ところがこの愛が欠けているなら、キリスト教に新しい革命を引き起こさなければなりません。

 今までのキリスト教を見渡せば見渡すほど、真っ暗です。現時点における環境を探って見れば、現在の時点まで連結されている内容が不分明だったことが分かるのです。形態はあるのですが、内容としては表に出すことができません。

 普通、木に登るのは下りるより力がいります。しかし本当に高い木に登る時にはどうにかこうにか登るのですが、下りる時はなお難しいのです。またどうにか下りたとしても、再び登るとなると登れない場合が多いのです。しかし下りたら必ず登らなければなりません。愛も「ああ ! わたしはあなたを愛する」と言ってずっと登っていられますか? そうはならないのです。愛は登ったり下ったり、与えたり受けたりしなければなりません。ですから愛は独りですることができません。愛する父子の間の関係は、地球の端から端まで離れてもその距離を越え、互いに求めて抱きあい愛するのです。何が原因でそうなるのでしょう? それは愛のためです。

 神は絶対的な存在であり、我々はきわめて惨めな存在です。ところで惨めな我々がどのようにして神と愛し合うのでしょうか? 絶対的な存在が、惨めな場まで来ることはないのです。それでキリスト教が、その基準まで連結させる使命を帯び、現時点までどうにか下りてきて、世界性を帯びているのです。ではこれをどうするのでしょうか? これを普遍化させて、万民が真であると認める公的な愛の法度に、適応させなければなりません。であれば現時点から、現時代の歴史過程をとび越えなければなりません。


 愛の主義が現れなければならない現時点

 それではこれからキリスト教が果たすべき使命が何か? 歴史過程の総合的な理念と共に、思想的な目的を成すための宗教的使命を果たさねばなりません。それで今まで下って来た歴史的な因縁に従って上ってきたのが、再び下らなければなりません。下る時は6千年かかったのですが、上がる時は6千年かかってはダメです。なぜ? 人生は短いからです。人間はどんなに長く生きても100年しか生きられません。ところが6千年の人類歴史を全部たどって上がってくれば6千年かかり、また下る時も6千年かかるのです。

 それでこれを短縮しなければならないのですが、それが出来る内容が何か? それは真理自体よりも、真理を中心とした人間です。その人間は時間を超越しているのです。10年前に死んだ子も、時間を超越して愛している心と同じです。

 また、歴史性を超越して往来できる一つの絶対的な要因が何か? 真理よりも人間なのです。イエス様は弟子たちに真理を教えたのですが、その真理は愛を教える一つの方便に過ぎなかったのです。それゆえ愛を完全に成す活動が出来ませんでした。ですから行動的な結果を通して愛の内容を明かすことができず、保留してきたのが今日までのキリスト教の歴史なのです。

 それゆえ現時点で新しいみ旨を指向する無数の理念を統合・完結して、人類に幸福をもたらす一つの主義が現れなければなりません。この主義とは何の主義か? 具体的な歴史を通して、時代に通じる愛主義です。神はこんな主義を願っておられるので愛する子、即ち息子を送り、新郎の装束を着せ、彼のみ旨に従う万民を新婦として立てるために摂理されて来られたのです。ですから歴史は流れ過ぎても、その心情の因縁は常に平面的です。従って縦的な歴史を経て来ましたが、神はその社会の平面的な、現実的な舞台において摂理されましたので、キリスト教は生活的な宗教となり、社会的な宗教にならなければならないのです。このように見る時、統一教会は何をする教会か?

 人間始祖のアダムとエバが堕落したのですが、彼らは神の愛を受けて堕落したのか、愛を受けないで堕落したのか? ここにおいて、神は人類のアボジですからアダムとエバを愛しておられたのに、なぜ彼らは神の愛を受けないうちに堕落したのかという疑問が生じるのです。神がアダムとエバを愛する時は、特別な経路を通して、特別な愛しかたをせざるを得ないのです。これはいい加減に愛するということではありません。息子が100人いたとしても、100人の中で父の遺業を相続する息子は未だ一人しかいません。

 このような観点から見る時、、この堕落した世界で愛の体系を持つためには、神を中心とする選民思想を持たねばならないのです。「お前たちは傍系の一族だが、我々は直系の一族だ」と言える民族が出て来なければなりません。愛も同じことです。先生も皆さんをいっぺんにみな愛さなければなりません。ですから真っすぐ直行しなければならず、そのためには自身の全ての財産と生命までも捧げなければなりません。即ち理念と愛、その一つしかない人間のために、生死を越える人間にならねばなりません。それでは堕落圏内の人間の中で、誰が愛の相続者になるのでしょう? 我々の人類始祖アダムの、堕落前の立場の人間です。選民とか何とか言うのは、愛を誤ったがゆえに現れたことなのです。

 神の愛を求めるためには

 こんな観点から見る時、愛の天理を教えるために神のみ旨を達成することができる人間が、堕落圏内から必ず現れるのです。それゆえイスラエル民族を通して選民思想が現れなければなりません。

 イスラエルとは勝利したという意味です。何に勝利したのでしょうか? 何かの運動競技でしたのでしょうか? でなければ新婦を愛することで勝利したのでしょうか? 違います。神の愛を求めるにおいて、第一番に勝利したのです。

 それでは神の愛を求めるために、どうしなければならないか? 世の中の人間に従っていてはダメです。必ず世の中の人々と、反対の道を行かねばなりません。サタンと反対の道を行かねばならないのです。それでノアもアブラハムもヤコブも、自分の居場所を離れて荷物をまとめたのです。

 み旨の道を行くためには、神のみ旨を誰よりもより強く思慕しなければなりません。従って今日、我々は世の中自体を否定して、世の中を打つのです。言い換えれば、宗教は現世を否定し、哲学を克服しなければならないのです。

 それでは極めて過激に現世を否定する群れが、どんな群れでしょうか? 殉教の歴史を持つクリスチャンたちです。彼らは神のみ旨を成すために、社会の病弊を除くために、殉教しても社会を否定して、叫んだ群れです。このキリスト教は現世を完全に否定しましたので、社会から追われたのです。社会を電撃的に否定しましたので、社会から過激に迫害され、追われたのです。現世を否定したら、必ず社会から迫害を受けるのです。それでキリスト教は追われ追われて、迫害されてきたのです。

 ところでなぜ迫害した人々は滅んで、迫害された人間は滅びないのでしょうか? 迫害された人々にはみ旨の方向と連結され、そのみ旨と通じる理想があり、天を愛し地を愛し未来の理念を愛する心が宿っていたからです。即ち彼らは天運と拍子を合わせることができる因縁を結んでいましたから、世の中の人々が滅んでも彼らは滅びずに残ったのです。 ですから愛の神を中心とする宗教的な理念によって、民主世界と共産世界を統一することができる心情の天理が明らかになる日には、世界は自動的に統一がなるのです。軍事的な会談や平和的な会談を通しては、統一は出来ません。

 この地球上には30億に近い人類がいます。そしてその中で20億に近い人類が、宗教的文化圏内で暮らしています。ですから世界人類の3分の2が、宗教文化圏内で暮らしていることになります。このような宗教圏に共産主義が深く食いこんでゆけるでしょうか?そうは出来ないのです。

 ゆえに新宗教主義が現れなければなりません。それでここに統一教会員は、新しい主義と思想を持って、世界的な王者として現れなければなりません。全人類が宗教を持ったなら、共産主義は草のように蹴散らされるのです。ではその次に、綴られた歴史と残された歴史を総合して、解決づけなければなりません。

 それではいかなる人間が、主人になるのでしょうか? うわべだけ見れば強盗のように強奪してゆく人間が主人のようですが、違います。本来の主人はいかなる人間か? 誰よりも人を愛する人間が主人なのです。犬も愛する人に従います。愛の心がない人間は、主人になることはできません。


 人類歴史の総結論

 共産党は武力政治、強圧政治によって人類を死に追い込むのです。彼らは何をするにも昼やらないで夜やるのです。彼らの工作は全部、夜中に起こります。昼やることはないでしょう。夜は陰です。陰は滅びるのです。ですから共産党は滅びなければなりません。

 こんな観点から、み旨の目的から見て、これから世界が留まることができる内容の母体は何か? 物質ではありません。歴史と共に血を流し、歴史と共に涙を流し、歴史と共に呻吟して、歴史と共に解怨の一日を願ってきた歴史的な、愛なのです。それゆえこの歴史的な愛を実体化した、一人の指導者が現れなければなりません。その指導者が誰か? キリスト教的に言えば、メシヤなのです。

 このような内容を中心に見る時、人類は新婦としての準備をした後に、新郎として来られるメシヤを迎え、神のみ旨の通りに生きなければならないのです。知性人だと自認している人々は宗教は必要ないとしていますが、そうではありません。

 それでは統一教会においては、何をしようというのでしょう? この時点で神の愛を感じなさいというのです。神の愛を感じるなら、どの程度に感じなければならないか? 歴史過程における全人間は望めません。その愛の力をもってしてはダメなのです。イエス様が主張された2千年前の愛のように、漠然とした愛ではダメなのです。より貴い愛、価値ある愛、実体的な愛、実証的な愛でなければなりません。それは何よりも強く、現実的な生活観念を持って、誰よりも神の愛を強烈に感じるという、姿勢を持たねばなりません。愛を強く感じるには、どうしなければならないか? まず、愛の道がどのようにして付けられたかを、知らねばなりません。父母が子を愛することは、何によって教えられたのでしょう? 夫婦が互いに愛することは、言葉ではダメなのです。子供が父母の愛を感じる時も、子供を愛してきた父母の行路を、反対にたどることによって初めて「あ! うちの父母はこんなお方だったんだなあ 」となるのです。

 それで逆にたどってきて、その愛を思い起こして見るのです。神を中心にして出発した愛は、どんなに理想的だったでしょうか? 人間が堕落しなかったなら、その愛は素晴らしく素敵な愛として出発したのです。神の心情は、この素晴らしい愛を中心として、自由天地の中で春の日に酔って生きる、夢を見る心情だったのです。しかしこのような神の心情は、出しぬけのつむじ風に出会って突然、氷のように凍ったのです。とり肌の立つ神の心、熱い火のようなその心に氷のかたまりが降り注いで、神は爆発的な悲しみに打たれたのです。ですから我々は、この愛を捜し求めなければなりません。今まで愛を捜し求めるための回復運動をしてきたのが、人類歴史だったのです。

 人類歴史の総結論が何か? 簡単であります。神を中心とした本然の愛を、再び捜し求めるための運動なのです。これを捜し求めるために今まで、時代的に方法と手段と形態と概念を互いに異にして、人類歴史は流れて来たのですが、その目的は一つなのです


 神の愛

 今日、私を中心にして見る時、神の愛が私と何の関係があるのか? 実質的には何の関係もありません。関係があるなら、どれくらいなければならないか? イエス様とイスラエル民族との関係よりもより深い、それ以上の関係があるという刺激を感じなければなりません。そうでなければイエス様の愛は感じられないのです。言い換えれば、イエス様に従った弟子たちよりも、イエス様をより愛するという心を持たなかったらダメだというのです。

 統一教会はこのようなことを、歴史的に解明しなければなりません。即ち、どのように愛が発展してきたかを、歴史的に解明しなければならないのです。こうして歴史的に解明され、証しされた事実を通して、今日この時点の我が個体を中心として、歴史がこのようであるから私はこうでなければならず、歴史がこのようであるから社会的に、私にこんな価値があるという基準を、生活において立てなければなりません。こんな生活自体が、神を愛することであり、イエス様を愛する立場に立つという基準を得ることなのです。こんな内容を誰もが知るようになったなら、世界は自動的に統一されるのです。

 ここには何かの手段と方法が、必要ないのです。家庭でも愛する妻がごはんを作ってくれれば美味しいのです。またお母さんがごはんを作ってくれても美味しいというのです。子供を持つお母さんは、その子が便をして体にこすり付けてどんなに汚しても、憎くはないのです。むしろ可愛くて愛らしいというのです。そうじゃないですか?

 神の愛は、歴史過程によく現れているのです。ある民族を中心に見る時、熾烈な戦いに敗れ、追われる群れが命を失うそんな立場であっても、その国の主権を再び立て、新しい出発をしようとするのは、その背後に人間に対する神の愛が宿っているからです。数多くの民族が興り滅ぶその歴史の背後にも、時代ごとに変遷してきたキリスト教の歴史過程においても、今日世界的な文化が交流し、ぶつかる過程においても、必ず神の愛は宿っているのです。大韓民国の社会がどんなに腐敗しているとしても、ここには我々が知らないうちに、神の愛が宿っているのです。

 これを見る時、腐敗した大韓民国にも世界に貢献できる要因があるのですが、それが神の愛なのです。従って皆さんは腐敗した世界の途上においても、神の愛が何千万倍も宿っていることを知らねばなりません。そしてこの神の愛は、この世の中を救うためであることを、実感的に感じなければなりません。

 それゆえキリスト教は悪の世界から離れず、愛を叫んでゆかなければならないのです。しかしキリスト教はそんな内容を展開する宗教になることができず、それで終着点がないのです。このような社会を救えず、社会を指導する力量を失う宗教に傾いていっているのです。

 これはある体制を持つ形態や、ある基盤によって出来ることではありません。骨髄から溢れ出る良心の本然の姿勢にわれ知らず包囲され、包囲するその力が、天運と方向を合わせ、この方向が歴史性に通じる感情を求めれば、ここに人間改造、人間再創造が起こるのです。

 ですから人間は回生しても、手段と方法を通して回生したら絶対にダメなのです。良心的な人間であればあるほど、絶対的な真理を通して自分が回生することを望むのです。しかしそれ以上に心に深く望んでいることは、真の愛を通して回生することです。なぜそうなのでしょうか? 人間は死ぬ時も愛する人の胸の中で死にたく、愛する環境の中で死にたいのです。金銀財宝を積み上げて喜ぶ場ではなく、愛する心を通して信頼されるそんな場で、天的な因縁を結ぶのです。


 愛はすべてが好むもの

 今日我々が宗教を持つという意味は、宗教を持って社会の為に革新運動をしなければならないという意味です。内的にそのようにできる爆発的な心情を持たない宗教は、その使命を果たすことができません。宗教はあくまで言葉ではなく新しい環境を提示してきました。どんなに悪いところに行ってしまった民族であっても、その民族に真の愛の爆弾を投ずれば、彼らは必ず溶かされて同化するのです。皆さんの心もそうなのです。

 先生は田舎で育ったので知っているのですが、首に綱をつけた子牛が鼻に鼻輪を嵌める前には、引いて行くのにとても力がいるのです。ところが子牛をつかまえて竹串を作って鼻に嵌め、手綱を引けば子牛は鼻から血をどくどく流して引かれるのです。その時から力を入れて引っ張らなくても子牛は引かれて行くのです。しかし鼻輪を付けた子牛でも、愛してやらない人間が引っ張る時には、うまく従わないのです。その子牛を愛している人間だけが、易々と引いて行けるのです。

 これから世界を全て消化させるものが、何でしょうか? 共産主義でもなく、民主主義でもありません。それは愛です。愛も父母が自分の子を愛する愛だけではダメです。他人の家の子が死ぬのは胸が痛まない、こんな愛ではダメです。また一人の男と女が愛しあう時にも、二人だけが幸せならば良いという愛は、世界の人間とは何の関係もありません。それではどんな人間が必要なのか? 絶対的な世界において公平と平等に生きる人間が必要なのです。

 世の中の人々の願いは何でしょう? お金をたくさん稼ぐことですか? それで人々はお金を稼ぐために故郷を離れてもやがて「アイグ-もう一度、故郷に帰りたい」と考えるのです。何で故郷に帰りたいのでしょうか? 故郷の山河が恋しいからです。愛する父母の懐に抱かれたいからです。それでごはんを見れば我れ知らず涙が出るのです。また故郷を想えばわけもなく胸がさわぎ、春の山を見るように心がうきうきしてくるのです。これはなぜ、そうなるのでしょうか? 父母、兄弟がいる故郷に愛の因縁を求めて行きたいからです。即ち、父母の愛、兄弟の情が慕わしいからです。

 皆さん、家庭とう言葉をじっと考えてみるのです。この「家庭」の「庭」という字は何の「庭」の字ですか? ニワの庭でしょう。庭には色とりどりのきれいな花がたくさん咲いていて、家庭にも兄弟がいて父母がいるのです。それではこの花々が互いに良いという庭になるのか、互いに嫌だという庭になるのか? 家庭は互いに喜び、愉んで歌をうたい踊りをおどるところになっていなければなりません。ところが互いに争って闘ったら、その庭はどうなるでしょうか? 荒れ地になってしまいます。全部が滅ぶのです。

 お金が欲しくて、親父の何文も入っていない巾着の金まで奪って自分の財布にしまう息子がいたなら、彼はひどい息子です。それではいけません。このように物質は限られています。限界線を越えることが出来ません。しかし愛の包みは、ほどけば無限大です。

 ですから愛を中心にして見る時、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、氏族の愛、民族の愛世界の愛、天宙の愛の、縦的な基準がみな異なるのです。ここで異なることは、誰もみな良いというのです。

 植物もよい音楽を聞けばよく育つのですが、悪い音楽を聞けば絶対に育たないのです。皆さんが一度、実験をしてみなさい。従って争い合うひどい声を聞けば、皆さんもよく育たない植物と同じようになってしまうのです。しかし愛が宿るパンソリを聞いて育てば、素晴らしくなるのです。この素晴らしく生きることができる何かを持っている心が、愛なのです。


 み旨が行く道は愛が行く道

 思春期がなぜ素晴らしいか、分かりますか? 素晴らしくなるから素晴らしいのです。思春期の時には何だか味もなく、勉強も知らないと投げ出して、いつも心が騒いでいて、自分が人工衛星のように飛んで行くのではないかと心配するほどです。このようになったら、どんなに素晴らしいでしょうか?

 人間の最高の目的は何でしょう? 所願が何でしょう? 人間は地のために、全部が大地を抱きしめて地上で生きたいとするのですが、結局はどこに行くの? お墓に行くのです。それで人間は愛が宿るお母さんの懐を恋しがるのであり、愛する兄弟の懐を恋しがるのであり、愛する妻の懐を恋しがるのです。そのどれも愛なくしてはなりません。ですから最高の真理は、愛を中心として行くことです。ここにおいてキリスト教が、世界的な宗教にならざるを得ないことが証明されるのです。こんな内容は、仏教にはありません。儒教にもありません。

 イエス様は新郎・新婦に対する御言もされ、また兄弟に対する御言も話されました。即ち宇宙の頂点は、世界人類がみな兄弟ということです。ですから人類は愛の俵の中で絡み合って、自分のための愛ではなく、他の為の愛を求めなければなりません。また家庭よりも宗族の為に、宗族よりも民族の為に、民族よりも国家の為に、国家よりも世界の為の愛を求めて行かなければなりません。これがみ旨の道であり、愛の行く道なのです。

 忠臣は国の為に、自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、宗族を無視して行かねばなりません。これが忠臣の道理です。また孝子は自分一身を無視し、自分の妻子を無視し、父母のみ旨に従って行かねばなりません。ですからみ旨の行く道は、愛が行く道です。自分個人よりも大きなことをまず愛する道が、み旨の行く道であり、愛の行く道です。

 こんな観点から天地を推し量って見れば、イエス様は万民のメシヤにならねばなりません。イエス様は十字架で怨讐の槍に突かれ、嘲弄とあざ笑いの中で、無念にも惨めに死んでゆく最後の場においても「父よ、彼らをおゆるしください(ルカ23:34)」と祈祷されました。

 それゆえ我々はイエス様の愛以上の愛を持たねばならず、自分に因縁のある人間だけを愛するのではなく、怨讐までも愛することができなければなりません。また我々は光明だけを求めるのではなく、漆黒のような暗黒も良しとする雅量と肝を持たねばなりません。そうすればその背後に、悪の勢力を払いのける神の愛が宿るのです。

 であればキリスト教を中心とする、世界的な文化世界を創造することが出来るのです。ところでこんな事実は、外的に現れることはないのです。この内容を解明することがまさに統一教会の願いであり、信仰なのです。

 ですから皆さんは自分よりも家庭を、家庭よりも宗族を、宗族よりも民族を、民族よりも国家を、国家よりも世界を、世界よりも天地をより愛するという心を持たねばなりません。さらには天地よりも神を、より愛するという心を持たねばなりません。このような心を神は願っておられるのです。

 神は欲心が多いのです。神は6千年前に、人間の前に愛の基準を立て、神のみを愛せよとされたのです。これは天理ですから、独裁ではありません。イエス様もやはり、誰よりもわたしを愛さなければ、わたしにふさわしくない。わたしの弟子とは言えないと語られたのです。天理がありますから、愛の基準もあるのです。このような過程を経てくれば、天地の運勢も歴史の過程において歴史を動かすことが出来るので、神は人間にあらかじめ祈祷するようにし、苦労をかけられないのです。それで仕方なく人間に何千年もの間、耐えて見せられたのです。

 ですから神は恵みを受けることを願う人々に、死んでまた死んでゆけとされ、天地のみ旨を守ってこられ、育ててこられたのです。良くですか? 悪くでしょうか? 良かったのです。


 み旨の行く道は理想の道

 統一教会の先生は神を、私の神としたいのです。他の人の神にしておきたくはないのです。こんな欲心は罪ではありません。善なのです。先生が神を私の神として皆さんを愛すれば、皆さんも喜ばねばなりません。ところが先生が愛そうとする韓国が、先生に最も反対するのです。気が滅入ることです。

 み旨が行く道は理想の道です。理想は必ず愛を中心にして座を占めねばなりません。そうすればここに永遠なる安息の基台が生じるのです。しかし未だいずれの環境においても永遠に安息することができる安定圏が造成されていないのです。ですから宗教人は、可能性がある立場で、そこに向かって行かねばなりません。ところが可能性のある立場で、行こうと考える宗教人がいないのです。統一教会は可能性があると考え、可能性を感じて行かねばなりません。皆さんはこれを感じて行きますか? 感じなかったら皆さんは、また荷物をまとめてこれを捜し求めなければなりません。先生もやはりそうなら、また再び荷物をもとめて捜しに行くのです。

 神のみを愛せ。主のみを愛しなさい、という言葉は人間の前に愛の動機となると同時に結実になるのです。それでキリスト教が2千年という長い歴史過程において犠牲になってきましたが、今まで残ったのです。

 皆さん、終わりの日が近づいています。いよいよ最後の決勝点が近づいています。ゴ-ルインしなければならない時です。ですから最後の1歩を残しておいて「私が駆けたようにみな駆けてる」と駆けて来る人々に「あなたたちは今駆けているが、私はこんなに駆けて来た」と見物していてはダメです。その人間がどんなに千里の道を駆けて来たとしても残った一歩のために、万里の道を行くということ知らねばなりません。

 終わりの日になってキリスト教が世界を主管できる、ゴ-ルインする最後の決勝点に到達するにもかかわらず、彼らは休んでいるのです。即ち、キリスト教は万宇宙の前に誇ることができる勝利の権限を持っているのに、彼らは決勝点で休んでいるのです。休んでいて「アイゴ-、ここがどこだ! 駆けている時は分からなかったがここに何があるんだ」と目的を見失ったまま、他の事をしているという事実を悟るようになるのです。しかし統一教会は、現在のキリスト教とは違います。同じであってはいけないのです。

 それでは現下のみ旨の行く道が、どんな道なのか? 善の道です。それでは善とはいかなることか? 欲心を満たすことか? 他人の財布のものを持ってくるのが善ですか? 違います。善は与えることです。愛の心で飽和状態になることです。しかし愛はこの飽和性を越えるのです。飽和状態ではそれ以上は上がれないのですが、愛はその基準を、その飽和性を突破して越えて行くのです。我々統一教会員は愛によってこの活動範囲を越え、神の懐までこれを連結させ、因縁を結んで神を喜ばせなければならないのです。

 本然の愛を求めて行かねばならない人生

 数十億の人類は生まれる時も愛を中心にして生まれ、死ぬ時も愛を中心にして死ぬのです。即ち愛の中で生まれ、愛を中心に生き、愛の中で死ぬのが人間というものです。このように人間は変わることのない愛に依存して生き、変わらない愛がとどまる所に安息するのです。ですからそんな愛がとどまる所なら、岩間であっても大手を広げ、いびきをかいて安心して昼寝ができるのです。

 皆さんは父母の愛によって生まれたのでしょう? 真の愛によって生まれたら、真の世界で愛を抱いて生きなければなりません。これが理想的な人生です。ところが人間は誤った愛の一致点を通して生まれたので、誤った愛の圏内で生き、誤った中で死んでゆくのです。ですから人間は本然の愛を、追い求めて行かねばなりません。

 キリスト教で言うところの、復活をしなければなりません。本然の愛の中で生まれず、本然の愛の中で生きず、本善の愛の中で死ぬことが出来ないので、再び生まれ、再び生きて死ぬことができる道を開拓しなければなりません。我々の人生は、本然の愛を追い求めなければならないのです。

 本来の愛の道が何でしょうか? 理想が宿る道です。それではその理想とは何か? 神が本来、人間を創造された時の創造理想です。愛は最高に不可思議なものです。

 人間は神を占領しても安心できないのです。男はみな盗賊です。先生も男ですからこれを否定できません。神を占領しようとしてこれで良いと、満足できないのです。人間の欲心は、どこまで占領したいのでしょうか? 神の心の包み、心情の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願っているのです。永遠のこの愛を完全に占領したら、人間の欲心もその時にやむのです。人間は神の愛を占領するための、競技に出場する勇士です。

 今まで大韓民国で先生は悪口を言われ、いろんな噂を聞きました。しかしその噂を世の中の人々が問題視すれば、神を占領する条件を立てることになりますから、それは悪いことではないのです。それで先生は難しこも耐え、我慢して、統一教会を率いているのです。言い換えれば、サタンを始めとする悪の世界のひどい迫害と、苦しみを堂々と克服する人間にならねばならないのです。

 この世的に見れば無価値なおばさんが、統一教会に入ってくれば他人の為に祈祷してあげるのです。彼らの心の中には愛によって他人を許し、愛を望み、その愛の前に永遠に宿りたいという心があるのです。ところがその愛を盗もうという人間がいたら、その人間は愛の盗人です。それでは神はそれを嫌われるでしょうか? 神もそれを良しとされるのです。愛の盗賊の中での大盗賊が、まさに神様なのです。

 ある人間が「ああ ! 苦労される神様」と神を抱え「私を愛して下さい」と言ったら、彼は間もなく愛を失ってしまうのです。失ってしまったものは、永遠に自分のものではありません。人間は元来、神の愛の中で生き、神の愛の中で死ぬべきなのです。今まで先生がどんなに辛くても耐え、この道で闘ってきたのは、この道で死なねばならぬことを知っているからです。

 我々がどんなに外的に、もらい食いをして乞食になったとしても、滅びはしません。神の怨讐を打つための作戦ですから、幾日か御飯をもらって食べてもそれが罪でしょうか?それよりもより大きな事をしようとしているのです。このような事を、皆さんは知らねばなりません。先生がプサンに避難する前、埠頭で労働して事業して金を稼いだのですが、他の人々が金を稼ぐのと目的が違うのです。先生は出来ない事がありません。塩田で塩を積み上げることも良くやったのです。やってみない事がないのです。野良仕事もやってみました。皆さんもこんな事をやってみなければなりません。

 先生は金が一文もない人間ですが、天下の誰も羨んでみたことがありません。アメリカの大統領も羨ましくはありません。(中略)

 先生は難しい時は、絶対に祈祷しません。死ぬような事が起こったら、アボジに生かして下さいと言い、良い時はさよならというようなことは、しないのです。


 統一教会が立てる愛の基準

 皆さんは服を着て自慢し、笑って暮らしていますが、その全てが臨時に借りて着て、臨時に暮らしているのです。言い換えれば皆さんの暮らしは、旅人の歩みのようなものであり、皆さんが暮らしている家も、旅館やホテルのようなものに過ぎないのです。我々には無限大の価値があります。それは自分を呼ぶ声も聞こえず、知ることも出来ないのでどんなに哀れなことでしょうか?

 人間は愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死んでゆくべきなのです。その愛とは何か? 金をやれば出入りする愛ではありません。存在の起源をふるわせる愛であり、存在の事由を主管する愛であり、存在の結実を現実化する愛なのです。この愛は生まれ出た時から死ぬ時までの絶対的な愛です。それで人間は世界を統一したいのであり、玉座に座って万民の前に誇り、同時に愛する人と共に暮らしたいのです。ここまでが人間的な欲望です。

 しかし統一教会の欲望は、一段階あがるのです。統一教会の欲望は二人だけの愛ではなく、二人の人間を合わせ、その中で神に侍り、神主義を成して30億人類を集めようというのです。こうして本然の世界を求め立て、神を中心に人類を結びつけ、全て愛するというのです。統一教会が立てようという愛が、こんな愛なのです。分かりますか?

 イエス様もそうですから、キリスト教を中心にして世界を復帰してきたのです。従って今は、世界がキリスト教圏内にあって、イエス様の愛を是認しているのです。キリスト教の2千年の全てが今、終わりの日に到るまでに人間を復活させて、その中において神に侍り、神に人間をまとめて結びつけ、愛の園を成そうというのです。これが地上天国でありキリスト教の第一の理想です。

 それでは自身の血統的な縦的関係を無視して、横的な関係をより重要視しする愛の感情をどのように爆発させるか? 今まで人間は縦的な愛の道に従って来ました。しかし我々が指導してきたこの縦的な愛の道を、世界の道にまで発展させなければダメです。ですから世の中が大騒ぎするのです。従ってこんな縦的な愛、自身の血統的な愛を分離させておいて、この愛を尊重視する新しい愛の包みを解かねばならないのです。言い換えれば、自身の妻より、息子娘よりも、より世界人類を愛さねばならないのです。

 神の立場から見る時、全人類は公平です。自分が愛する息子娘と世界人類は、神の前にはみな公平なのです。それゆえ自分が成すべき責任と使命を背負い、より尊くより価値ある存在に従って愛することを願う人間が、神側の人間なのです。ですからこんな愛を発展させるためには、自分の親戚、宗族、民族を超越して、世界を愛さなければなりません。イエス様は民族を越えて、世界を愛された人です。ですからイエス様は世界の主人になるのであり、人類はイエス様を中心にして、この世界を復帰しなければなりません。


 み旨の道は愛の道であり、善の道

 み旨の行く道は理想の道です。しかしこのみ旨の道は、苦労の道なのです。創造主である神の理想は何ですか? それは人間が愛の中で生まれ、愛の中で暮らし、愛の中で死ぬことです。ここにおいて、このような命の道を行く人間は永遠にその愛と共に、この道の主人になり、そうでない人間は流されて行くのです。ですから人類はこのような愛を持たねばなりません。

 それでは統一教会員はどうか? 愛の中で再び生き、愛の中で死ぬのです。自分の家庭の愛ではなく、天と地の愛を抱えて生きて死ぬというのです。

 本来、人間始祖アダムとエバの所望は、天と地を一つにすることだったのです。彼らはそのために生まれたのです。今日の人類もこんな愛の因縁の中で生まれ、その愛を実践するために生きなければならないのに、人間はこれを知るよしもないのです。

 それで神は第二のアダムとして、イエスを送られ、愛の因縁を相続させ、この愛を実践させるようにされたのです。そのための足場として、イスラエル民族を立てておかれたのです。しかしイスラエル民族がイエス様を不信することによって、この愛の本質を失ってしまったので、神は活動舞台を再び霊界に移されたのです。こうして再び世界的に、この愛を展開させるためにイエスが来られるのであって、その日がまさに再臨の日なのです。即ち、神が願う愛によって一つの世界を成すために、イエスは再臨されるというのです。 それではこの愛が、どこに行くのでしょう? 愛が行く道は善が行く道であり、み旨が行く道なのです。それゆえ皆さんは自身を犠牲にしたとしても、家庭をみ旨の前に立てることができる愛を持たねばなりません。大きなもののために、小さなものを犠牲にしなければならないのです。自分個人の縦的な愛を犠牲にしたとしても、世界的な愛を発展させる人間にならねばなりません。こんな人間が地球上に生じ始めたら、この時から地上天国という理想世界が成就し始めるのです。分かるの?

 ここに初めて来た人は統一教会をよく知らないでしょう? 統一教会は大韓民国が嫌っている教会です。ところで誰が分かって言っているのでしょうか? 統一教会が悪いといって、そのように言う理由がありますか? 初めて統一教会に来た人々は「アイグ-、これはえらいことだ、統一教会の文先生がえらいことだ」と言うのです。しかし統一教会がどんな教会か知らないで、悪口を言うのです。その人々は今まで、自分の家庭のために国の禄を食んで、国を利用して大風呂敷を広げて座っている連中です。

 孝忠ではなくて忠孝です。そうでしょう? 孝誠を尽くして仕えなければならない父母を捨てて、忠臣の道を行くのが天理です。それゆえみ旨が行く道においては、より大きな価値のために、より小さな価値を吸収して犠牲にするのです。そうすれば統一が成るのです。統一がいいですか? 悪いですか?(いいです)ところでなぜ、既成教会の人々は統一教会を憎むのですか? 頭は統一で下は教会なので、従兄弟ですから・・・。

 皆さん! 宣伝できますか? 皆さんは宣伝することを知らないでしょうが。宣伝を知らないでしょう? それで反対の風がここに吹き寄せて、同じように絡みつけば統一されるのです。分かりますか?(ハイ)

 統一はどのようにするのか? み旨に従ってやるのです。韓国人よりもアメリカ人をより愛そうとすれば恨めしいですか? 恨めしくないですか? 恨めしいでしょうが、韓国人を犠牲にしても、西洋の人々を生かさなければなりません。そしておばさんたちの髪の毛を切ってカツラを作って売ったとしても、外国人たちを助けてやるのです。どうを、恨めしい? なぜ黙っていますか? 皆さんはどこまで入って行かなければならないの?

死ぬような最高のどん底まで、入って行かなければなりません。えらいことでしょう? でなければ世界主義者ではありません。

 統一教会は世界主義者になる道を教えているのです。ちょっと前に日本の娘さんが来ましたが、その娘さんは韓国の人々を信じて、お金も本部教会に任せておいたのです。韓国にいる従姉妹の家にも行かないで、ハンドバック一つ持って韓国の統一教会を訪ねて来たのです。統一教会の文先生が何の能力がありますか? ところが先生が食事していると、まるで自分の家の奥の間に座った嫁が、孫をつれて還暦祝いをした人のようにゆったりして、どっさり食べるのです。誰がそうしなさいと教えたのか、先生にも分かりません。

 皆さんは怨讐の中の怨讐を殺してやりたいと思っても、愛して原理をしきりに入れてやらなければなりません。今日、我々が抱いて行くことは、こんな原則です。ですから統一教会の人々は、世の中の人々とはタネが違うのです。それで悪口をたくさん言われるのです。しかし先生は他人に後ろ指を差されても、黙々と涙を流して、世の中にみ旨を知らしめようと全力を注いでいるのです。


 涙は人類の為に、汗は地の為に、血は天の為に

 今、先生は韓国を離れ、外国に行こうとしています。外国の人々を生かすために、統一教会の人々の鼻に縄をつけて引っ張って行くのです。こうして万民が生きれば、先生は死んでもかまいません。これが罪ですか? 善ですか? (善です)それでは皆さんの鼻に縄をつけて引っ張って行きます。先生は今まで、神の前に抗議したことはありません。このようにして皆さんを率いてきたのです。途中、監獄にもしきりに出入りしました。今は監獄について知らないことがない博士です。監獄でひどい鞭にも打たれました。ですからもしも誰かを打つなら、無慈悲に打つ人間です。道に外れた人間ぐらい処理するのは問題ありません。音もなくズバリとやるのです。

 先生は何事もやると決心すれば、3年以内にやるのです。皆さんが先生にこっそり、しこりになったものを解こうとひと芝居やろうとしても、先生はすでにそんなことは皆なやったのです。このように言うと皆さん、気分はいいですか? 悪いですか?(いいです)なぜいいの? 皆さんは先生を、どんな立場でいいと言うのですか? 同じ韓国の人間としての立場でいいと言うのですか? でなければ神の立場でいいと言うのですか?(両方です)(笑い)皆さんは先生は悪いと思うのでしょう? 慇懃に神の手先だと、だから悪いというのです。

 世界的な闘いをするにおきまして、今までは統一教会の負けです。前半戦は統一教会が負けていました。しかし第2次戦である後半戦に入ったら勝利するのです。勝利の基準がこちらに傾いているのです。それで多くの人間が必要なのです。(中略)

 先生は韓国でだけ活動するのではありません。アメリカ、ドイツ、日本でも活動しなければなりません。いつかはそこの人々を全て復帰するという、腹を持っているのです。飛び回る蜜蜂が蜜の味を一度味わえば、蜜の板にしっかりひっついているのです。どんなに離そうとしても離れません。鳥の羽ではらっても離れません。同じように甘い神様の愛の味を一度知れば、自分の国も神のみ旨の前に捧げるのです。決死的に復帰させようと努力するのです。世界を引受け、人類を引受け、国家を引受けるにおいて、最も重要なものが何でしょうか? それは神の愛です。めしに飢えて生きても、愛があればいいのです。

 皆さん、鼻に縄を通されていいでしょうか? とんでもない? イエスもそんな道を行ったのです。先生もやはりそんな道を行きながら、多くの試練を受けました。皆さんはこれを知らねばなりません。(中略)

 ここにいる人の中には、既成教会に通っていた人もいるのです。彼らは初めは統一教会が中身があるのかないのか、いろいろ叩いてみるのです。良く熟しているか熟していないか、叩いてみるのです。叩いてみて、とても良く熟していたのです。

 その人々が統一教会の味を知ってみれば、春の園のような統一教会の味をみてみれば、子供からおばあさんまで列をなして手を振り、入ってくるのです。心の世界はこのよになっているのです。

 統一教会に入って来れば誰が知らせるのですか? 神が知らせるのです。先生は神の作戦法によってやらせます。自分個人のために生きたらダメです。この民族を生かさねばなりません。従って涙は人類の為に、汗は地に為に、血は天の為に流さねばなりません。

 「自分は今まで知らなかったが、この味を知って余りに余りに素晴らしい、胸がつまるようだ!」というほど、神の愛を感じなければなりません。

 教会の組織にしばしばなじめなくて、教会と通じなくなって離れた人が多くいます。どんな激しい風が吹いてきても、これを制する人間にならなければなりません。そうでない人間は、統一教会員ではありません。


 み旨の行く道に向かって誠精を尽くせ

 先生は今、外国に行かなければなりませんが、離れて皆さんに福をこうて行くのでしょうか、悪口を言って行くのですか? でなけれが情を残して行くのでしょうか、放って行くのでしょうか?(情を残して行くでしょう)先生は情を離れて行かねばなりません。考えてみて下さい。情を残して行ったら、アメリカの人々が喜ぶでしょうか? 嫁に行く娘はまわりをきれいにして行くのであって、ボロボロにして嫁に行くでしょうか? それがいいでしょうか? そのようにする人がいますか? 愛はみな同じなのです。ですから先生は、韓国への情を離れて行かねばなりません。

 ついてくるものを離すには、どうしなければなりませんか? ついて来る子供がいたらゲンコツをくれてやらねばなりません。ゲンコツでダメなら刃ででも離さなければなりません。ですから離すのは離すのですが、どうやって離す? これを先生はいつも考えているのです。皆さんもこれを考えなければなりません。先生は一回りまわって、今まであった全ての事由を全部、忘れてしまうのです。新しく再出発する心を持ちたいのです。分かりますか? 今まで先生は韓国の人間を愛してきました。しかし今は、彼らから離れて行かなければなりません。従って皆さんは誠精を尽くして、一つにならねばなりません。

 皆さんは誠精を込めた包みをくるんで、先生の前に来て「これが全てです。よろしくお願いします」としなければなりません。皆さんは特別に、ありったけの誠精を込めて祈祷しなければなりません。分かりますか?(ハイ)それでは誠精をどのように込めるのか?善は誠精についてくるので、7年路程を許されたアボジが何の条件もなしに7年の誠精を込められたので、皆さんはそれ以上の誠精を込めて、夜昼なく真っしぐらに駆けねばなりません。分かりますか? こんな誠精を込めるに、休む時がありません。

 先生は1965年、韓国の聖地の土を世界120か所に分けて与えました。こんな過程で世界の地を連結させようと、日本に行きました。ところで日本で、先生に逢いたくて夢中になった人間が来ました。事実、先生は狂ったといえば狂っているのです。ところで何に狂っているかが問題です。神の国を創るのに狂っているのです。

 それでは今、どうすべきか? 地上を連結させる立場になれば、その次に人間を連結させるのです。人間の中の真の人間、誠精を込めた人間です。先生は誠精を込めた人々の心と、統一教会の人々の心を互いに一致する方向に連結させようとしているのです。そのために先生は自ら、皆さんのお使いをすることまで躊躇しません。それゆえ彼らの誠精を中心に、そんな祈祷をしなければなりません。皆さん、祝福が何であるか知ってますか? 先生は祝福をしなければなりません。実権主義者たちの享楽的な関係は、人生を敗北させる決定的な状態に至っています。ところで女性たちはこのようなことを知りません。

 先生が日本に行く時、一等の飛行機に乗って行かなければならないと、日本の人々は家を売っても一等の切符を買って、パッと飛べるようにしたのです。そのようにやったのです。我々統一教会は、普通の人間が理解できないことをやるのです。今先生は世界を巡回して回って、7年の峠を完全に終結させて越えなければなりません。分かりますか?

 それゆえ皆さんはみ旨の行く道のために、誠精を込めなければなりません。言い換えれば犠牲を覚悟して、涙と血と汗を流す覚悟をしなければなりません。物心両面から世界の為に、全てのものを捧げなければなりません。


 世界を復帰することが出来る秘法

 神がアメリカを祝福されたのは、誰のためでしょうか? 皆さんはアメリカを愛された神の心と一致する心で、誠精を尽くさねばなりません。これが今日、皆さんに許諾されたことです。分かりますか?(ハイ)そのようにしたい人、手を挙げて。皆さんがこのように力強く手を挙げれば、先生は出て行けます。何の話か分かりますか? 先生が行く道の前に、皆さんが誠精を込めてくれれば、先生はしっかりと報います。他の人々はみな先生を悪く言いますが気にせず、追われることがあってもみ旨の為に誠精を込める人間は、びくともしないのです。先生は後ろ暗い人間の前では威厳を保つのですが、誠精を込める人間の前では気後れがするのです。ならば神様をがっちり結びつける秘法は何でしょうか? 鞭うたれ追われても、戻ってきてその鞭を忘れて再び訪ね、そうするより他に仕方がない事情があったと、アボジに許しを求めるのです。それでむしろアボジを慰める人間にならねばなりません。そんな人間がいたなら、ならず者のようなアボジであったとしても、心が溶かされるのです。こんな人間が「アボジここにお出で下さい」と言えば「どうりや わが息子よ!」とされるのです。こんな人間には神もとりこになるのです。そんな人間が神をがっちり縛りつければ、神は「がっちり縛られても良い、もっと縛ったくれ」とされるのです。これが世界を復帰する秘法です。

 先生が皆さんにお願いしたいことは、み旨に従って行く道においては、自分のために祈祷することより、世界に広がっている日本、アメリカ、ドイツ等、外国の食口たちの為に祈祷して、誠精を込めることです。全世界人類の為に祈祷して、誠精を込める皆さんにならねばなりません。分かりましたか?





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2021.05.03 18:14:00
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​「記憶せよ侍義時代」

1967年2月15日(水)前本部教会


 統一教会は再販です。我々は初版ではなく、再版です。壊れたものはきれいに濯いで、再び造るには、自分の全てのものを捨てなければなりません。この時、自身の考えが少しでも残っていたら、元来の位置に復帰できないのです。


​ 統一教会は再版​

 長子であり、初版であるサタン側は滅びましたが、次子であり、再版である天の側は滅びることなく勝利しました。我々の教会は初版に属しますか、再版に属していますか? 初版はすでにサタンが、みな占領してしまいました。初版に属している人間が多いのですが、全部壊されてしまいました。初版の使命を相続した人々が、再版に属する人々です。今日皆さんは統一教会に入って、7年路程の恵沢圏内に入っております。これは皆さんの先輩たちが苦労し、迫害を受けても、サタン世界とに闘いに勝利した結果に起因するものです。

 統一教会の若い女性たちはお嫁に行く時、初版に行くの、再版に行くの? そこのキムトンウオンさんどうですか?(キムシに向かって)「トンウオンシはその時、婿に行くのが良いですか、嫌ですか?」嫌だと言わないことをみると、良いという様子ですが? もしも嫌だというなら、悔い改めなければなりません。悔い改めるなら、どのように悔い改めるのか?「私は再びは婿には行きません」と悔い改めなければなりません。これが最も早く許しを受ける方法です。

 我々は悪口を言われるにも一番に言われ、鞭打たれるにも、一番に打たれなければなりません。殴られたら蕩減になります。しかし蕩減条件として、同一人物が同じ事を二回はやれないということを、知らねばなりません。アブラハムが3祭物を捧げることの失敗を精算するために、10倍以上の苦労の路程を経ていった事実は、どうにも否定できないのです。復帰路程において、蕩減条件を立てる人間は、ただ一度だけしか立てられないのです。重要な蕩減の使命を任されるために立てられた人間が失敗したら、その人間は再び立てることが出来ないのです。

 であるなら一度しかない蕩減時代が過ぎ去る前に、蕩減条件を提示できなかったらどうなるのでしょうか? もしも責任を担えない時には、生きてきた功績が吹っ飛ぶのです。今まで積んできた功績が、そっくり吹っ飛んでしまうのです。ですから死を覚悟して、必死に神のために闘わなければなりません。ヤコブがヤボク河で、天使と夜を徹して闘った時にも、死を押し切って闘ったので、勝利できたのでした。この急がれる人類の大事ですので「今夜は過ぎてしまいましたので、明日の晩に再びやります」とは出来ないのです。そのようにやったなら、何千年の歳月が過ぎた後にか、そんな時を再び迎えるようになるのです。


 緊迫した重要なる7年路程

 復帰の歴史は6千年の間流れてきましたので、一人の人間が6千年を蕩減して条件を立てるためには、少なくとも60年の間、み旨を抱いて行かねばならないのす。一生において6年ではなく、何と60年の間、煩悶しつつ蕩減条件を立てなければならないのです。ところがこのような期間に立てなかったら、120年の間に再び立てなければならないのです。ヤコブやモ-セは、イエス様のために蕩減路程(4千年)を行きますので、40数の蕩減路程を行ったのです。

 でありますから、一度時を逃したらダメだということを考えると、7年路程がどんなに緊迫して、重要であるかということが分かるのです。我々が7年の初めの戦いに挑戦して神に誓い、民族的な蕩減のために自分自身を祭壇の上に捧げ、祭物としなければなりません。皆さんは先生が、皆さんを祭物として民族的祭事を捧げようとする、一度しかないこの7年路程であることを知らねばなりません。

 皆さんが嫁に行き、妻を娶りしてこんな戦いの場に行ったなら、支障が多いのです。ですからできるなら7年路程を終ってから、嫁に行き娶るのが良いのです。今まで嫁ぎ娶った人たちは全て良くありません。それでは嫁ぎ娶った人は多いのですが、そんな人たちはどうなったでしょうか? 今まで嫁ぎ娶った人は、歴史的な蕩減の祭物になったのです。ですから今、若い女性たちは7年路程を全て終えなければなりません。神のみ旨の通り、韓国が歓迎することができる時代になれば、皆さんは一等婿ガネに出会えるのです。

 これまで先生は民族復帰の使命を完遂するために、7年路程を来ました。思想的な基準を中心に見れば、先生の内的な基準がアベル的な立場であり、外的な基準がカイン的な立場なのです。すなわちカインアベル的な基準と中心として見る時、内的な基準は思想的な基準だということです。先生は思想的な面におきまして、この国の全ての権力者や、ある団体を凌駕することのできる基準、すなわち天的な基準に立っています。このようにして3千万民族が一つになって、世界的な復帰路程を出発するなら、第二の初版ではなく、再版になるのです。

 初版において勝利の権限を持った人たちと、再版において勝利の権限を持った人たちの中で、どっちが偉大でしょうか? 初版で勝利の権限を持った人たちです。初版で勝利した人たちは、再版も思いのままに決定することができるのであり、彼らが行きたければ行き、でなければ行かないのです。初版に合格しなかった人間は行きたくても行けないのですが、合格した人は再版三版にも行けるのです。これは1次戦、2次戦、3次戦と延長させて来た復帰摂理であったからです。ですから第1次に勝利すれば、第2次に出ることができ、第2次に勝利すれば、第3次に行くことができるのです。もしも第1次の戦いで国家的な基準の勝利をなしたら、国家的な勝利の栄光を占めることができるので、全国に行っても、国家的な基準の重要な責任を負うことができるようになるのです。しかしながら世界的な責任を再び延長できないと、世界的な責任をなす立場にはなれないのです。

 このように考える時、統一教会の幹部たちは、よくよく知らねばなりません。今まで36家庭が韓国を主として、初版の戦いにおいて責任を担ったとしても、またさらに世界舞台へ出戦しなければなりません。36家庭は出戦の責任者たちです。ところが出戦をしない時には、神は行かないと叱ることもされず、責任追求もされないのです。その代わり、世界的な出動によって勝利の結果を招いたその場には、同参することができないのです。しかし「私はここで留まることはありません。先生に従って、再版終版までついて行きます」という人間は、どうせ苦労しなければなりません。苦労をする時、先生を代身して責任を負い苦労したならば、先生と同じ立場に立つようになるのです。ですから皆さんが7年路程の初版の戦いに加担して、真なる者として神のまえに責任を担い、涙を流し、血と汗を流したことがどんなに貴重なことかを、知らねばなりません。


 世界に拡散する統一教会の理念

 み言がいつから表れましたか? 先生が16歳の時から表れました。算式や数学問題を解く公式を話そうというのではありません。女で言えば何かおしゃれをしょうと、そんなおしゃれを覚えなさいというのではありません。男なら世の中で今まで生きて来た自分の居所の中で、覚えている道を求めて行くというのではないのです。皆さんはこの闘いに責任を負う者としての矜持を持って、この責任を中心として記憶しなければなりません。

 皆さんが生まれたこの世には、4大聖人、すなわちイエス、孔子、釈迦、ソクラテスがおります。このような聖人を追慕すれば、その聖人が生まれた背後の環境と生活が慕わしくなり、であれば聖人がどんな国に生まれたのかということが、問題になるのです。

 先生はイエスが生まれたイスラエルの国に行ってきました。ベツレヘムにも行って見、エルサレムにも行って見ましたが、そこは乳と蜜が流れるカナンの福地とは見えませんでした。半砂漠地帯に、畑が少しばかりあるだけでした。そこにはロバとラクダが多く目にとまりました。そしてオリ-ブの木が沢山ありました。これは気候が熱帯性だからで、良い地ではないように感じました。

 今日このイスラエルを、全世界に広がっているキリスト教徒が巡礼することが、一生最大の幸福と感じているのは、なぜでしょうか? これは、イエス様が生まれた所だからです。孔子が偉大だということは、孔子の思想を中心として国が興り、中国文化が創造されたからです。

 釈迦もやはり同じことです。王室の王子として生まれましたが、自ら苦行を通して悟りを開きました。こうしてあらゆる苦しむ人々に、生きる道を開拓してあげたので、苦しみを受ける全ての人々は彼を追慕すると同時に、彼が生まれた国まで慕うのです。ですからインドは、忘れてはならない国になるのです。

 それでは聖人を待つ我々は、何を考えなければならないでしょうか? その立場を考えなければなりません。その立場を考えたなら、その立場を成すまでの由縁となった環境を考えていって、であれば聖人が生まれたその国を、考えなければならないのです。ですから世界的な聖人が生まれた国は、疲弊し荒廃していたとしても、その地を尋ねる人々は依然として絶えないのです。皆さんはこのことを否定できません。

 歴史上のある一時代の、一国の主権者、すなわち自身の国の文化と権勢を誇った主権者は、歴史に1ペ-ジを残したまま消えていったのです。しかし年輪を経て、思想的な基盤を築き、世界的な文化を成した、人格的な素養を持ったそのような聖人がいたとしたならば、その聖人が生まれたインドならインド、イスラエルならイスラエル、あるいはギリシャならギリシャ、このような国を慕わざるを得ないのです。その国はたとえ滅んでも、その国にその聖人が残した痕跡をたどってみたく、その聖人が生きた当時の姿を想起して、その時代の文化と生活の感情に触れてみたいというのが、我々人間なのです

 統一教会の理念は、神の復帰摂理の中で、おそらく一度しか生じないのです。また今は対外的な関係から見る時、空前絶後の歴史的な時なのです。これはどれほど驚くべき事実でしょうか? 今日の韓民族の実情は、あまりにも悲惨です。口にも言えない重大なる責任を任された民族なので、世界のいろんな民族から同情される他はない立場なのです。しかしこのような環境の中にあっても、新しい世界を立ててゆく文化的な基台と、思想的な要所が、統一教会の動きによって世界に現れるようになるのです。我々がこのために専念すれば、今日我々が直面しているこの不幸なる立場が、歴史的な幸福のために闘っている立場だということを、否定する道理がないのです。

 それでは皆さんは、統一教会が持っている理念を、イエス様が立てた基準以上のものと考えていますか、釈迦が立てた基準以上のものと考えていますか? あるいはソクラテスや孔子が立てた基準以上のものと考えていますか? 皆さんが、彼らが立てた基準以上の基準を立てたなら、彼らよりもさらに高く、貴い価値の場に立つのです。皆さん、こんなことを考えてみましたか? 皆さんが見るに、先生は何事もなく捜し求めたように見えるかも知れませんが、今日この地上に立って、歴史を振り返って見る時、統一教会が提唱している理念が最高だというのです。統一教会理念を中心として、世界が一つになることは間違いのないことです。


 この民族の歴史的背景

 神の復帰摂理の終着点にならなければならない立場に、皆さんは立っているのです。ですから皆さんが立っているこの立場が、どれほど大変な立場か、ここに立っている皆さん各自の個体がどれほど貴重な、尊貴な存在であるかを、皆さんは考えてみなければなりません。

 先生がエルサレムに行った時、博物館に入って、イエス様が当時使っておられた何か遺物がないか、聞いてみたのですが、何もありませんでした。もしもイエス様が使っていた遺物、すなわちハシの一本でも残っていたら今、韓国のお金を全部やっても買うことができません。これは民族全部をやっても買うことができない、無限なる価値があるというのです。もしもイエス様が身につけておられた衣服が残っていたら、その衣服は無限の価値があるのです。文化世界における最高の価値として、代表となる価値なのです。これは歴史が過ぎて、それによって及ぼした影響を見てみる時にうなずけるのです。しかしイエス様当時に生きていた人々は、そんな価値があることを未だ知らないのです。その当時の人々は、イエス様と寝食を共にし、行動を同じくし、彼と共に修養する立場にあったのですが、彼らはそんな価値があることを知らなかったのです。これが全ての後孫のまえに、恥じとなったという事実を、我々は感じなければなりません。

 ですから時が過ぎて後に、その価値を感じるよりも、歴史を率いてきた実績を見て、その人格を尊重することよりも、その当時に価値を知ることができる素質と、そのようにすることができる性質を持たなければなりません。そのお方は、世界と取り替えることもできず、世界にある何物とも比較することができない、価値ある存在であると高くあげる人間がいたとしたら、その人間によって主様に侍ることができ、そのお方のものを相続することができる資格者となるのです。これを皆さんは、覚えておいて下さい。

 皆さん、過ぎ去った昔の自分自身を振り返ってみて下さい。先生や皆さん全てが、今まで惨めな道をきました。この三千里山川の歴史的背景を見やり、我々民族は惨めな民族でした。歴史以来、他民族から圧政を受け、蔑まれ、彼らから追われつづけてきた民族でした。このような歴史的な背景を推し量ってみる時、この地は歴史的な事由と、歴史的な怨恨が結ばれている地であり、この民族は歴史的な悲しみを留めている民族なのです。

 皆さんは、故郷の山川を慕うでしょう? ところで惨めで、歴史的な悲しみが宿っている故郷の山川であることを、皆さんは考えてみましたか? そこには忠臣、烈士たちの惨めに流された血と涙の痕跡が残っていますので、彼らの悲しみを解怨成就しようという心を持ってみましたか? そんな心を持って涙を流し、彼らを慰めようというのす。

 この民族は国運が悲運におかれているので、涙を流す他にはない事由があったのです。この民族を通して、全人類を復帰されようという神のみ旨がありますので、三千万倍達民族は、神の摂理のまえに忠誠を尽くす奉仕者となり、捧献者とならなければなりません。しかし今までは、そんな人間がいなかったのです。悠久なる歴史を見通してみる時、これが我々の先祖たちの恨となり、直接的には復帰摂理を主管される神のまえに、悲しみを残すこの山川、この民族になったということを、皆さんは知らねばなりません。


 人々が聖人と共に遺物遺跡を追慕する理由

 神は数多くの民族を選んでおいて、この国この民族を捜し求めて来られた事実に、三千万民族は感謝し、称賛しなければならないのに、そのようにはなっていないのです。倍達民族の後孫として生まれた皆さんが、民族を代身して、この民族の全ての失敗に責任を負うという、こんな考えを少しでも持ってみたかというのです。

 この八道山川を中心として、神がある郡、面、里の民家なり商家なり、ある家を尋ねて来られる時、その背後に結ばれた事由とうものは、先生が語るにも簡単な事由ではないのです。

 決定という錨を降ろしておいて、摂理を出発されるならここに歴史的な曲折が染みているのであり、歴史的な事由が宿っているという事実を知らねばなりません。これを知らない人間は歴史を相続することができず、これに責任をもって記憶しない人間は、神のまえに公的な責任を担うことができないということは、歴史的な事実なのです。

 どうして偉人や聖人を、後孫たちは追慕しなければならにのでしょうか? 彼らの心のうちには、歴史的な全ての事由がしっかりと結びつけられているのであり、善の事由と曲折がそのうちに絡みついているのです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基台を通して誠精を尽くさねばなりません。でなかったなら、目的に向かう道と関係を結べないのです。たとえ堕落の後孫であったとしても、人心は天心に通じ、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が行った道を追求するのです。ですからこれは本然の価値を追求することであり、自然的なことなのです。

 このような観点から見る時、統一教会員がこのみ旨をいかに念願として、現在おかれている立場においてこのみ旨を中心として、どんなにか苦労したか? 内的な体恤をして、自分が成さなかったらダメだと自ら自覚する者がいるか? このようなことを考える時、そうはなっていないというのです。

 ソウルは先生が学窓の時代から、涙を沢山流した所です。そして先生は三千里八道山川の名勝地を尋ね歩き、涙を流しました。各道の四方八方をめぐり、車に乗って道路を走る度に、神の苦しい胸のうちを少しでも早く解いてあげるために走る車を急がせ、涙がにじむ信念を持って、困難の中にある食口たちを尋ねるに汲々としているのです。全国の村むらから迫害される息子娘、迫害される隊員たちを残しておいて涙を流し、背を向ける歴史的な事由が宿るそんな村むらなのです。


 統一教会青年男女が流した血と汗の価値

 7年路程において統一教会の青年男女、すなわち歳の若い20代、10代の青少年たちが涙の決意をなし、家では追い出され兄弟たちには追われても孤独な伝道の行路に出て、歓迎されざる村に入り、他人が考えもつかない惨めな場で、み旨という名をかかげて身悶えたそんな村むらを、皆さんはどれほど考えたことがありますか?

 7年路程の間、三千里半島津々浦々に、統一教会の青年男女が尋ね求め、彼らは悲壮な心と涙のにじむ心情をもって、結ばれた神の歴史的な恨と、時代的な恨を解いてあげるために「私は歴史を代身し、この時代の蕩減の役軍として来ました」と考え、怨讐視する彼らのために夜を徹して祈祷していったのです。飢えたお腹をぐっと握り、アボジを呼んだその祈祷の声が、今も残っているという事実を考えてみたことがありますか?

 皆さんが今、安穏に生きているその村の環境のうちには、我々の先祖たちが涙で祈ったその声が、今だに残っているのです。彼らは消えて行ってしまいましたが、差し迫った場で神にすがって訴え、祈祷した内的な心情の祈りは、神の胸のおくに残っているという事実を、憶えておかなければなりません。

 我々に反対し、恨をうえつけた怨讐を屈伏させて神に勝利をもたらし、また我々の恨を解くことができるその一日がいつ来るかと、その一日が来るのを千万べん祈祷して身悶えた事実を、皆さんは考えてみなければというのです。

 このような観点から三千里半島を見やる時、昔我々の先祖たちが錦繍江山(美しい山河韓国の別称)と誇ったその名の因縁が、ここから結ばれたということを、皆さんは考えてみましたか? 神の息子娘が誠精を尽くし、涙を流し、血と汗を流し、自身の命をかけて談判して訴えたものが、正に錦繍江山なのです。

 過去に我々の先祖たちが知るべくもない立場で、この国を称賛し、この民族を称賛したか知れません。しかし知ってみれば倍達民族、大韓の息子娘が暮らしているこの三千里半島こそが実に、我々の先祖たちが流した涙と、誠精をこめた血と汗が染み込んでいるのです。天的な心情の基盤と価値が残っているという事実を、皆さんは記憶しておかなければなりません。

 誠精を込めた祭物のような立場で、祭壇の前に立たなければならない皆さんであるにもかかわらず、そのような祭壇の前に立てる資格者となっていますか?

 もしもイエス様が今この地に来るなら、その昔のイスラエル民族とユダヤ教ではなく、現在の統一教会のような環境の中に来られたら、我々を抱きかかえて慟哭されるのです。そしてこの三千里半島を見やり、この民族の内面に染み込んでいる事由を見れば、この民族を抱きかかえて身悶えし、慟哭されるのです。皆さんはこのようなイエス様の立場を考えてみましたか?

 このように行き違った事由が、三千里半島のために主体として立つ統一の青年男女の血と汗を通して成されるという事実を、皆さんは忘れてはなりません。

 この民族の因縁を掘り返して見れば、そこには血が煮えたぎる数多くの青年男女の涙が入り混じり、歴史的な恨を踏み越えてゆくと慟哭する先祖たちの涙の跡が入り混じっているのです。さらには復帰摂理の歴史的路程を来られた神の涙が染みこみ、皆さんが見上げている師の涙が混じっているというのです。皆さんはこの驚くべき事実の前に頭を下げ、真に姿勢を正し、自ら行動を自制して神の法度を守ってゆくために身悶えるという事実がありますか? これを憶えておくことを、皆さんは今一度考えてみなければなりません。

 新しい決意をなして行かねばならない我々

 皆さんは歴史的に入り混じっている事由の前に出て行くに、あまりにみすぼらしく、あまりに未熟で、あまりに及ばざる自身であることを悟っているかというのです。いま皆さんが自然を眺め、あるいは名山を眺める時、真に愛することができる心をいま一度考察してみなければなりません。皆さんは誠精を尽くし、心を尽くし、み旨を尽くし、鍬の柄を握って地を掘ってみなければなりません。皆さんがこんな心情で、地上にある全ての万物を従えて、主人のすることを成したと誇ることができる資格を得ましたか? これを論じてみなければならないというのです。

 自分の食口たちを守り導く時にも、皆さんは歴史的な責任を負ったイエス様を代身した立場に立って、強固なる心情をもって身悶え、縛りつけられた事由を伝えなければなりません。そしてそれらと共に天的な勝利を得てゆくという、誓いと決意のもとに導けなかったことを、悔い改めなければなりません。

 統一の役軍である皆さんは、知ってみれば驚くべき因縁のなかに引き込まれているのです。これは皆さんが、み旨に従っている過程では分かりません。しかしみ旨からいったん落ちてみれば分かるのです。その立場がどれほど貴く、福なる立場かということが、落ちてみれば分かるのです。しかし落ちてから知ったのでは、何の役にも立ちません。過ぎてから知ったのではダメなのです。そのみ旨のまえに立つ時に知る者が、賢い者であり、そんな人間は指導者となり、責任者となるのです。

 地方教会で責任を持ている皆さんたち、地方で神のまえに忠誠を尽くすと誓った皆さんたち、皆さんは過去に実体でこのように生きてきましたか? そうではなかったのです。それゆえ新しい面において歴史を代表し、時代を代表することができる、天が要求する本意に立脚して、その事由に責任を負って身悶えてゆくという、新しい覚悟をしなければならないのです。これを皆さんは、知らねばなりません。

 ですから河を渡る時も、昔のようにぼんやり眺めて渡る、そんな皆さんであってはダメです。お金を稼ぐことも、今までの金某なら金某の一生を歩んでいてはダメだというのです。峠を越える時も、今までその峠を越えてきた金某として越えたらダメなのです。ごはんを食べる時も同じで、道を歩く時も同じです。寝ても覚めても、悔しい時、嬉しい時、悲しい時、全ての行動全体をこんな観点から、再検討しなければなりません。いつ皆さんが時代的な責任者としてこんな歴史的な因縁を考えてみたか、もう一度想起して正しい関係のもとに、正しい姿勢を取らなければなりません。天的な蕩減歴史をなすという新しい決意をもって、三千里半島全域に向かって行かなければなりません。皆さんがこのような立場にいるということを知って、再びいま一度新しい決意をしなければなりません。


 後孫のまえに何を残してゆくのか

 今皆さんが責任を持つ地域や村に行く時、昔と同じ心で行ってはなりません。この国その地方のために皆さんが誠精を尽くし、忠誠を尽くしたその基盤を、これから皆さんの後孫たちが尋ねる時、彼らはその地を記憶すべき地だと考えるでしょう。ですから皆さんの後孫がその地を尋ねることができるように、歴史的な涙の跡を残してゆくと命をかけ、転換してゆく皆さんにならなければなりません。

 このようにして皆さんの後孫たちが、その地を尋ねてくる時「我々の先祖たちが、過去にこのようにやった」と語ることができるようにしなければなりません。先祖として、後孫たちが追従できるような一つの基準を立てておくと、忠誠を尽くす皆さんにならねばなりません。皆さんは一時に来て行く人間だと、考えないで下さい。生死をかけ、勝敗を決定づけなければならない責任を負った、天の勇士だと考えなければなりません。そのような姿をもって、自身が責任を持つ任地に入るのです。

 皆さんが行くべきその村を、もう一度考えてみて下さい。それではその村は自分が知っているそんな村ではなく、今まで日常的に接してきた村ではなく、事由と曲折が染み込んだ村であることを感じるのです。それでその村に対する、皆さんの態度が変わるのです。そうして後代の皆さんの後孫が、その歴史的な偉業を相続して、さらに偉大なる立場に立ったならば、その歴史的な因縁が発展したと言えるのであって、そうでなかったら負けなのです。

 今まで生きてきた全ての環境を一新して、歴史的な責任を負った者として新しこに行かなければならない時が来たということを、肝に銘じなければなりません。明日、本部教会を離れて車に乗って地方に入るとき、皆さんは何を持って行くのですか? 深刻だというのです。そのまま来て行く皆さんであってはなりません。

 この狭い空間に人が多くて大変だと、逃げ出したい人がいたらこの場を早く去って下さい。狭い場所に沢山の人が座っていますから無理かも知れません。しかし我々だけが思っているのではなく、神はとうに知っておられます。こんな姿を見て、世の中の人は笑うかも知れませんが、先生はそうは考えません。先生は神に「我々の教会を造って下さい」という祈祷はしないのです。こんな場にいることを、むしろ栄光だと思っているのです。昨夜もその門の後ろに押し出されて、野外講話になりました。これを哀れと思わずに、これを見やる神の切ない心情をお慰めするために「一時はこのようなことがあるのも、良いことではありませんか?」と祈祷する心を持って、参席する人間になって下さい。

 このような人間がいれば、これから世の中を蕩減復帰することができるのです。このような環境は、悲惨な境遇にある我々の民族のみが持つことのできる真実の財産であり、蕩減復帰することができる材料となるのです。


 新たに認識しなければならない時

 これはアメリカでは、夢にも考えられないことなのです。集会に対する規定というものがあって、規定人員以下は許されているのですが、規定より一人でも多くなったら法にひっかかるのです。規定人員より多く集まるということは、夢にも考えられないのです。

 しかし韓国ではそうではありません。アメリカでは夢にも考えられないことも、やる他はないのです。

 こんな環境が不幸の要因ではなく、むしろこれによって神のうちなる事情に深く入ることができ、我々の教会を造ってやりたい神の心情的基準を、我々に連結させることのできる恵沢と恩賜の条件になるのです。ですからどれほど有難いことですか? 皆さんはこんな立場で、考えてみなければなりません。

 今、本部教会に出入りすることも、これまでのように習慣的に来るのではダメです。行事があるので来て、日曜日なので来るというのではダメです。行き来することは誰でもすることです。誰でもすることをする人間を、神は欲してはおられません。統一教会のやることは、誰でもやることではありません。特定の人間のみができることです。

 特定の人間は、内的な要件が違い、外的な要件も違います。彼が持つ価値も違い、彼自身が持っている思想的基準も違います。思想的基準が違うほどに精神的基準も違うのであり、精神的基準が違うので、行動基準も違うのです。

 本部教会の門を開き、数多くの人々が出入りするのですが、この門を開いて入って来る時、震える手で門を開き「アボジ、慕わしかった本部教会を尋ねて来ました」と慟哭する食口に出会っていません。先生はこんな人間に会ってみたいと、ひどく苦待しているのですが、いまだに出会っていません。本部教会のみすぼらしい姿を見る時「わが胸に釘を打つなら打って、こんな姿を見なくてすみます。天の誠精がこもる基台が、どうしてこのようにみすぼらしいのですか? われ一代でこのみすぼらしさを、雄壮なものに変えてさし上げます」と忠誠を誓う息子娘にならねばなりません。

 今は皆さんが、7年路程の最後の峠を越えている最中です。先生の歳が47を過ぎ、48歳になる時です。この時に統一教会員たる皆さんたちは、これまでの考えをふり捨てていま一度、新しい考えを持たねばなりません。すなわち、本部教会に対しても新たに認識して、師に対しても新たに認識しなくてはなりません。地区長に対しても新たな認識を持たねばならず、地域長に対しても新たな認識を持たなければなりません。勤士に対しても新たな認識を持たねばならず、食口に対しても習慣的な観念を捨てて、新たな認識を持たねばなりません。

 皆さんがこれまで記憶して知っていたものが、神の願う基準に達していなかったなら、100%この基準に達するように、自身の考えを整備しなければなりません。こうして神が願うその基準に完全に達してこそ成るのです。そのようにすることのできる若い統一教会の食口たちとなることを、神はどれほど苦待しておられることでしょうか? 皆さんが神が願っておられる基準に達していると考えるなら、これは間違った考えです。その基準に達するということは、どれほど難しいことかを皆さんはいま一度考えなくてはなりません。とはいっても皆さん、落胆してはダメです。


 原則的な祈祷

 春になれば、皆さんの家の軒先に江南から来た燕が入って、巣を造るのを見るのです。そうして暫くして卵を産んで、約40日もすれば雛になるのです。その巣で育つ時には、狭い所で苦労するのですが、いったん成熟した時には天下を自在に飛びまわることができるのです。どんな渡り鳥よりも遠くに飛んで、いっぺんに江南まで飛んでゆくことができる素晴らしい燕になるのです。

 皆さんも同じことです。ここで辛い訓練を受けることは、これから近づく試練の実戦場において、敗者の悲しみを味あわないためなのです。ここで二重三重の試練を経て、新しい信念によって武装しなければなりません。燕のように、新しい天国に向かって飛んで行く皆さんになれば、今この基盤がどれほど恵まれた巣であるかということを、皆さんははっきりと分かるようになるのです。ですからここで食べることは、一生の何物よりも貴いことであり、ここで寝たり着たりすることは、何物よりも貴いことなのです。

 新しい時代には、新しい真理を受けなければなりません。地方にいる食口の皆さん、祈祷する時は、常に原則的な祈祷をしなければなりません。「神様、私がここのある地域のある所で、今晩祈祷します」というのではダメだというのす。神が祈祷を聞かれる時は、自分の所属をはっきりさせなくてはなりません。本部教会の南方なら南方、正南方なら正南方で、本部教会に対する方向を定め、何地区の何地域のどこそこにいる誰それであるとはっきりさせなくてはいけません。なぜそのようにしなければならないかと言うと、歴史的な伝統を尊重する意味においてそうだと言うのです。

 そのようにして、自分が現在率いている食口たち、すなわち自分を中心として横的に因縁を持っている食口たちのために、祈祷しなければなりません。「私には彼らに光を与え彼らのためにしなければならない責任があります。この責任を果たすための力が私には不足ですので、力を与えて下さい」このような祈祷は、通じるというのです。

 重要な祈祷、重要な解決のための祈祷であるほど、本部教会で誠精を尽くしたと同じ心情でなさねばなりません。祈祷する方法が、こうでなければなりません。本部教会がたどって来たこれまでの歴史的な因縁、歴史的な背後を探って、涙ぐむ心情の親友にならねばなりません。ここに神が共におられるのです。神のみ旨を中心として、本部教会で祈祷する人間がいれば、その人よりもさらに忠誠を尽くす立場で祈祷するという心を持たねばなりません。「本部教会でなしていることを、ここでもやります」と祈祷しなければなりません。ところが、そのように祈祷していないのです。祈祷していることを見れば、やっていることもまたそうなのです。


 主流に属する我々の責任

 統一教会の教員は、任地に向かって駆けなければなりません。自分がある一地方の責任を持って活動する時、良い事があったなら「アボジ、感謝します」としなければなりません。良い事がある時、自分がいいとその場で喜ばないで下さい。「神様、この事を喜んで下さい。本部であったこの事を喜んで下さい」このように祈祷した次に、自分が属している地区長や、地域長に報告した後で、自分が喜ばなければなりません。

 このような心で生活する人間が行く所には、道を塞ぐ法がないのです。統一の運勢が発展的な運勢だとして、その運勢が残っている限り、その人間が行く路程は、絶対に塞がれる法がないのです。塞がれたことが、かえって善にとって有益であるとしても、悪としてその人を縛りつける結果とはならないのです。

 皆さんはどこに属しているのでしょうか? 神の側に属していなければなりません。ところで神の側の中でも主流がありますが、統一教会の皆さんは主流に所属しているということに対して、自負心を持たねばなりません。

 主流に属する皆さんは、一本の木のように春になれば葉が芽生えなければなりません。夏になれば葉がおい茂り、花が咲き、秋になれば実を結ばなければなりません。その木が持っている影響を程よく受け、共に育たなければなりません。葉が育てば枝も育ち、幹も育ち、根も大きくなるのです。同じ立場で育つのです。これが木が持っている本質です。すなわち統一教会が発展するに従って、皆さんも発展しなければなりません。

 国家的な基盤を通して発展するか、部落的な基盤を通して発展するかは、範囲は小さくなりますがその形態は同じでなければなりません。そうではない所では事故が起こりますので、自ら不足なる立場であることを、悟らなければなりません。

 皆さんがこれを悟ためには、四方が決定されていなければなりません。すなわち、地区の東方区か西方区か、席も以北か以南か、決定していなければなりません。位置は上下と前後、左右の関係が決定された後に明示されるのです。皆さんが面している位置も、やはり同じです。皆さんは四方の度数に立脚して、価値を立て、位置を決定づけておかなければなりません。そうすれば現在の状況に符合し、正しい姿勢をとることができますが、そうでなかったら否定的姿勢となってしまいます。そうなったらいずれ歴史の流れに押し流されてしまう他はないのです。統一教会は世の中が発展するその軌道に従っては、発展しないということを知らねばなりません。

 今回帰って行く皆さんは、どのようにすれば神のためになるかを、よくよく憶えておかなければなりません。皆さんは神をよくよく記憶し、復帰摂理の路程をよくよく記憶し、自らをよくよく記憶し、地区長、地域長をよくよく記憶し、統一教会精神を持てば発展するということをよくよく記憶し、上下関係において自らどんな姿勢を持つかということをよくよく記憶しなければなりません。

 繁殖の原則

 上があれば下があるのであり、前があれば後ろがあるのです。下上があってはなりません。皆さんをじっと見ていると、自分から下を考えているのですが、これが下上です。自分から考えますと下となるのです。しかし上がまずあるのですから、まず上を尊重しなければなりません。たがいに好んで合わさった二つよりも、上をより良しとする方が、早く発展するのです。

 ですから聖書にも、二人が地において心を合わせ、祈祷したなら何事も成就される、とあるのです。神と人間においては、神は上になり、人間は下になるのす。

 上下の縦的な関係においては、繁殖はされません。繁殖をするためには分立作用をしなければなりません。そして横線上になければなりません。横線上にあれば、繁殖は自動的に起こってくるのです。

 地域長と区域長の関係のように、縦的な関係においては繁殖はなされないのです。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心として、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こるのです。これが創造の原則です。

 我々はなぜ、伝道をするのか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係では起きないのです。横的な立場に立って、一つになって、互いに授け受けてこそ成るのです。従って皆さんは教会長を中心として、教会員と横的な立場で一つにならなければなりません。そうすれば全ての面で発展するのです。地域長を中心として教会長たちが一つになろうとすることは、このようにして全ての面で発展させるためであり、地区長を中心として地域長たちが一つになることも、さらに発展させるためです。発展、すなわち繁殖させようということです。皆さんが忠誠を誓う時、ここにおいて数十倍の繁殖が起こるのです。

 時が大きいとか小さいとかはないのです。人間の心が大きい、小さいがあるので、各地方に離れていって活動する個人であっても、本部での全組織を中心として横的な基準に立たねばなりません。体内で感じる全ての感覚が、神経を通して細胞まで一時に及ぶのと同じように、全ての食口たちも本部組織に対して、同感することのできる立場でなければなりません。そうしてこそ天上的な生命を持つのです。ですから皆さんが本部を慕うのは、当然の位置なのです。

 しかしながら神経系を通して伝達するような、縦的な基準においてのみ関係を結んでいるなら、一時的には感じるかも知れませんが、継続して感じることはできないのです。我々の体の骨の組織を見てみる時、これは秩序だって縦横に連結されているのです。


 「記憶せよ、いま一度記憶せよ」

 近々本部から行ってしまう皆さんが、心に抱いて行かなければならないことが何か?

これは「記憶せよ、いま一度記憶せよ」ということです。皆さんが習慣的な感情をどれだけ超越しているかに従って、皆さんの人格が決定づけられるということを、はっきりと知らねばなりません。

 ですから本部教会に対する時において、食口に対して、地域に対して、各個人に対する時において、これまでに皆さんが取ってきた立場をもう一度、革新しなければならないのです。新しい立場で認識しない前には、発展しないのです。新しい創造力が発生しないのです。創造原理がそのようになっているのです。

 4段階倍加運動、これは今年我々が立てた4大目標の一つなのです。これを超過達成するために、理想を大きく持つことは問題とはなりません。しかし悔い改めを避けてゆく姿勢をとったなら、昨年が難しいなら今年はさらに不可能となるのです。ですからどえらい目標を前に置く皆さんは、これをさらに記憶しなければなりません。神の心情と、神の所願を悟らなければなりません。

 このようにして心情的な内的基台を造成して、4段階倍加運動、あるいは経済復帰するための活動を完遂して、この全てのことを成就しなければなりません。このような問題を見渡してみる時、皆さんがこれまでのように観念的な、地区長を通しての認識を持ってはダメです。徹頭徹尾、記憶された認識が、皆さんの四肢五体を動かして爆発させることができる、行動の源泉にならなければなりません。この爆発力が、昨年よりも小さかったなら、7年路程におきまして落伍者となるのです。

 ですから皆さんは再びいま一度、記憶しなければなりません。これまでの皆さんが知っていた地区長をもう一度、記憶しなければならず、地域長をもう一度記憶しなければなりません。皆さんは疲れるそんな場で、もう一度記憶しなければなりません。皆さんの心情が疲れる原因は、神にあるのではなく、皆さん自身にその原因があるのです。神が勝利された人間が行く道を、塞ぐ法はありません。忠誠を尽くす人間を、神は勝利の道へと導かれるのです。ですから皆さんが誠精を尽くしたなら、失望して疲れはてて落ちてしまうことはないのです。

 皆さんがみ旨の道で疲れるのは、神を中心として考えるのではなく、自分を中心にして考えているからです。自身から考えて滅びてしまうことは、正に堕落した後孫であることを自証しているのです。自分から出発したことが、神から出発したことと同じになってしまったなら、復帰は自動的にできるでしょうか?

 今まで積み上げられた罪悪の歴史を蕩減するという、このどえらいみ言を皆さんは聞いたのですから、蕩減復帰のための最前線に立って、神を抱えて身悶えてみたかというのです。皆さんは道なら道に責任を持つ地区長、郡なら郡に責任を持つ地域長、面なら面に責任を持つ教会長を中心として、真情から蕩減復帰のための最前線に立って、サタンとぶつかってみなさいというのです。


 困難にぶつかる時、想起すべきこと

 皆さんはこれまでの過ぎた歴史を振り返って見て、現在を見やり、未来に向かって行かなければなりません。過去から現在まで、認識し記憶していることを刷新して、新しい記憶と認識が、皆さんの心を捉えるようにしなければなりません。このような決意と信念を持つ皆さんにならなければ、初期の目的は達成できないということを、はっきりと知らねばなりません。

 そうするためには皆さんは、何を想起しなければなりませんか? 皆さんが初期の目的を達成するために、困難が伴はざるを得ないのです。当然、困難がなければなりません。 皆さんはこんな困難にぶつかるごとに、ノア爺さんが120年の間、周囲の人々の非難と嘲笑を受けながらも、手斧を握り、木を切り倒し、箱舟を造った姿を思い起こさなければなりません。また、アブラハム、イサク、ヤコブの3代に渡って天的な因縁を回復し、神が捜し求められた目的を達成するための大変な労苦を、皆さんは忘れてはならぬというのです。イスラエル民族のために、ノアが歩んだ120年がどんなに難しい期間だったでしょうか?

 これまでのイスラエル民族が神のみ旨のまえに立てず、数多くの民族に虐待され、世界的に追われる民族になったことは、イエスに侍らなかったという愚を犯したからです。しかしイエスはゲッセマネの園のおいて、血のにじむ祈祷をなし、十字架を背負いてゴルゴダの丘を登っても、自分一身が引き裂かれて滅ぶことは気にもしなかったのです。むしろ神と共に決意し、誓ったのです。こんな鉄石のごとき内的決意があったということを、皆さんは思い起こさなければなりません。

 いつか皆さんが、ゲッセマネの園で祈祷されたイエスのように「わがアボジよ!」と泣いて祈祷してみたことがありますか? 非難、嘲笑、嘲弄と鞭打ちにも屈せず、死を覚悟して十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かって行ったイエスの立場に立ってみましたか? また我々の先祖たちの全ての過去の因縁を、再び回想して見ましたか? この歴史的な事由が、今日皆さんのまえに再び再現して、皆さんによって蕩減されねばならないことが、復帰摂理の原則なのです。ですからこの時代に皆さんを、こんな条件の前に立たせるのであると、考えなければなりません。こうしてノア、アブラハム、モ-セのように、神の悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの悲しみと切なさを推し量り、歴史的な先祖たちの心情を推し量ることができる自身になると、身悶えて自身に鞭打つ皆さんにならなければなりません。

 皆さんが涙を流す時、値打ちのない涙になってはなりません。大道商人の一声で駆け出して行くようではいけません。一人の人の言葉に、自分の命の道を無にする安っぽい人間になってはなりません。台風が来ても、皆さんは怯まずに立つことができ、怨讐が襲っても、その怨讐を打ち破ることができ武器となると、誓わなければなりません。このように誓う皆さんになればよし、襲い来る台風と、入り乱れた環境の中で、自ら崩れてゆく人間になってはならないというのです。


 神と先祖たちの立場で考えてみれば

 皆さんは歴史的な路程で、イエスがゲッセマネの園で血のにじむ祈祷をなし、ゴルゴダに向かって行った心情を、生活の中でどれほど体恤してみましたか? ノアが120年間耐えてきたその路程を、皆さんはどれほど行ってみましたか? モ-セが自身の栄光を投げ捨て、祖国であるイスラエルに対する愛国精神に燃えて、死を意に介せず、神のみ旨だけに向かって行ったその路程を、どれほど行ってみましたか?  皆さんたちは歴史を辿ってさか上り、彼らを慰めることができる各自とならなければなりません。全ての先祖たちをそんな立場で、慰めなければならない皆さんであることを、はっきりと知ったなら、疲れようにも疲れることができないのです。

 このように先祖たちを見やる時にも、皆さんは疲れることがないのです。そうであってこそ、過ぎし日の先祖たちの失敗を、復帰することができる一つの条件も、立てることができるのです。先祖たちがやっておいたことだけを、もってしてはダメなのです。にもかかわらず皆さんは、神を中心として考えないで、自分個人を中心に考えているのです。皆さんが何にもなくて惨めで、どんなに苦しいことがあったとしても、神が息子娘を失った時の悲しみの心情と、失った息子娘を捜し求めて6千年の間、歩みこられた哀しい歩みに比べることができるでしょうか?

 神は歴史路程において、悲しみと、呪咀と、凄惨なる環境にぶつかってこられても、ただの一日でも我々を不忠者とは考えられず、むしろ我々を救われようと摂理されて来られたのです。新しい所望の天国を夢見て、救援摂理をされて来られた神であったことを考えます時、皆さんはこのような神の心情に立脚して考え、神のされることに同参しなければなりません。そのようにすれば、歴史的な先祖となるのです。皆さんがこのようなことを考え、実地に感じたなら、落胆して疲れる理由がないのです。こんな話を聞いても、確実に認識できなかったら祈祷しなさい、祈祷。復帰原理を中心として、祈祷しなさいというのです。

 神がアダムとエバを創造される時、どんなにか多くの誠精を込めて創造されたでしょうか? これも知らずに、アダムとエバは堕落したのです。アダムとエバが堕落した時、神はどんなにか、悲しかったでしょうか? アダムとエバが堕落して、神はカインとアベルを中心に蕩減復帰されようとされました。ところがこれが壊された時、神の心情はどんなにか悲しかったでしょうか? 皆さんがもしも、そんな立場に立ったなら、どうなってしまうでしょうか? 皆さんはそうであってはなりません。

 皆さんはノアを中心に、ノアの立場で祈祷してみなければなりません。アブラハムならばアブラハム、モ-セならモ-セの立場で祈祷してみなければなりません。洗礼ヨハネなら洗礼ヨハネの立場で、祈祷してみなければなりません。イエスを分からなければならなのに分からなかった、惨めにも哀れな洗礼ヨハネの立場になって祈祷してみなさいというのです。また、3年公生涯路程を喘ぎながら行かれたイエスの立場で、祈祷してみなければなりません。背反した民族を全て収拾して、神の祭壇を造りあげ、勝利の結果を神にお返ししなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷してみなさいというのであり、イスラエル民族のみならず、堕落した数多くの世界の人類を復帰しなければならない責任を負われたイエスの立場で、祈祷しなければなりません。また、これまでの皆さんの先生を中心として、先生の立場に立って、祈祷してみなければなりません。


 経済復帰を強調してきた理由

 それでは皆さんは何を考え、どんな祈祷をしなければならないのでしょうか? 皆さんの小さな村、郡、面、道を考え、祈祷することだけではダメです。現在、韓国を中心として動いている時でも、複雑な事由が多いのですが、これが問題ではありません。これよりもさらにどえらい世界的な問題が絡みあっているので、皆さんはこれを案じ、祈祷していかなければならない立場にあるのです。ですから国内で起こる苦しみの種は、苦しみの種にすることができないのです。ところで皆さんは、疲れることがありますか? 血がたぎる20代の青年男女がですよ。それで統一教会には、若い人たちが多いのです。

 もしもこのような環境で、皆さんに刃を突きつける時には、讒訴する群れとなってはなりません。最後の白兵戦で、銃剣を取って血戦をする人間にならなければならないのに、そんな場で自分のことばかり愛して苦しむ人間になってはダメです。

 皆さんの地区長、地域長たちが持ってみなかった歓迎の一時、さらにはそれぞれの地域に行って冷たくされ、歓迎されなかった先祖たちを代身して、皆さんが歓迎される時には感謝しなければなりません。彼らが夢の中にでも出てきたなら、皆さんは彼らに「私は受けませんから、あなたがお受け下さい」という内的な心情的基準を持って愛さなければならないので、そうではなかった時には、自分も知らぬうちに引っ張られてしまうのです。ですからこのような場に出て行く時には、断髪をして行かなければなりません。断髪をして、腰帯をぐっと締めて行かなければなりません。そんな時皆さんは、自分が目の前に現れたのを見て、笑ってしまう可能性が高いのです。消化できる観点で対し、その度に神を抱きかかえて祈祷しなければなりません。皆さんはアブラハムが持ってみなかった理想と、ノアが解くことができなかった恨、我々の先祖たちが持ってみなかった環境を、神を経て歴代の先祖たちのまえに返してあげなければならないのです。私は僕の僕ですから、歓迎を受けるに不足です、という態度で対しなければなりません。そうならば心情的な基準で落伍しても、サタンに絶対に引っ張られることはないのです。そうではない時には、十中、八九は引っ張られてしまうのです。

 経済復帰を強調してきたこの時は、なおさらそうなのです。今まで生活してきた全ての背後をみて見る時、皆さんが疲れてしまったら何の役にたつでしょう。地域長たちが過去には千ウオンを求めるのも、天の星を取るように難しかったのですが、今は万ウオンも取るに足らぬと考え、10万ウオンもさほどとは思っていないのです。先生が今までの記憶を通して、経済復帰を強調してきたのは、これが皆さんの生命の基台となり、神の足場となり、心情をかき立てる助けになるためであったのです。ところがむしろ、心情を売ってしまう材料に利用されてしまうことを考え、もどかしいことこの上ではありません。こんな問題ならぬ問題を考えます時、心情的な内的基台の造成を再度、強調せざるを得ないということを、皆さんはよくよく知らねばなりません。


 我々の安息の場所

 神を代身し、民族のためにゆく皆さんが、反共講義をすることは、若干の人のためにするのではないのです。復帰途上において共産主義は、必ず打ち破らなければならないサタンの勢力だからです。神は勝利した民族を立てようと骨折っておられるので、民族全体が歓迎するその日が来る前には、皆さんは歓迎されないという心を持っていなくてはなりません。民族が歓迎する時、皆さんが前に立つことよりも、先祖として行った全ての義人たちを前に立て、神が喜んでおられるという、謙遜な心を持たなければなりません。

 今、皆さんは歓迎されるそんな場に立ってはダメです。これは過程的な現象です。あくまで皆さんには、越えなければならない峠が多く残っているのであり、駆けなければならなこが多く残っているのです。その道を行くときに妨害となる要件があっても、これをきっと越えてゆくという皆さんにならなかったらダメだということを、記憶しておかなければなりません。でなかったら今まで積んできた伝統を、すっかり売り払ってしまうのです。7年路程の闘いにおいて立てた功労の中の一番が、正に伝統なのです。ところがこれを売り払ってしまうのです。

 先生は今まで、ジャンパ-を着てやっていました。ボロを着ていても恥じることなく、誇る立場で着ていたのです。でも事がある時には、環境的な要件を持たなければならず、対外的な威信も立てなければなりませんので、今は洋服を着ているのです。これは神に対するためであり、神の威信を立てるためなのです。ところで家庭に帰ってからは、昔の姿でいるのです。皆さんは先生がそんな姿でいることを、淋しがったり嫌ったりしてはいけません。これを嫌う人間はサタンです。

 工場が発展するのは、工場長の努力があったからです。その人が市内に出かける時にはきれいな衣服に着替えて行くのです。工場に帰れば再び服を着替えなければなりません。ところで再び帰っても、着ていた新品の服を脱いで作業服に着替えるのを嫌ったら、彼は工場長になることができません。すなわち再び帰って、その油が染み込んだ服を着るのを嫌って、機械に触るのを嫌ったら、彼は自分が築いた基台を喪失してしまうのです。皆さんもそんな位置にいるのが楽でしょう。ところで皆さんが惨めな環境にあって、涙を流して流浪の孤客となっている時、同じ道を歩んでおられる神であられることを、知らねばなりません。

 先生は工場に行く時、できれば洋服を着ては行きません。先生が心から決心した責任がありますから、同じことができないのが、恨なのです。

 皆さんを育てた安息の場がどこですか? 歓迎される場が、安息の場ではありません。天国や宮廷のように万民が仰ぎ見る場が、安息の基台たる休み所ではないのです。そんな場を投げうって十字架を背負い、闘って勝利した場において神の慰めを受けることができる所が、安息の場なのです。神が与えられる慰めを大きなものと見て、世の中で送られる慰めを好んだなら、国に売ってしまうことを、皆さんは再びいま一度考えなければなりません。

 経済復帰のために誠精を尽くせ

 今年は経済的な基盤を確立するために、動かなければなりません。皆さんが事業をやっていますから、既成教徒たちは「統一教会の若者は商売している。非宗教団体だ」と言っていますが、気にしてはいけません。我々が経済復帰するにおいては、豪華絢爛たる場ですることを、先生は願いません。歓迎を受ける場ですることは、さらに願っていません。行くなと言っても行かなければなりません。

 民族が全部歓迎したならば、今まで復帰摂理をやってはいません。私は3千万民族が、お互いの為に生きる、そんな統一の民族を成したら良いというのです。皆さんが良い場でこれを収めたなら、これは小さな蕩減になるのです。難しい場であっても、これを糾合して収めたなら、より貴いものになるのです。先生はこのように考えます。

 皆さんは苦しみ多くとも、この一つの物を売るために尽くす誠精は、どんな商人よりもより真摯でなければなりません。他の商人たちより何倍かの心情的な基準を持ったなら、値の張る物でも、頷いて買うのです。こんな消費者の数が、今年になってどれくらいになりましたか? そうするには皆さんは、自分の責任分野に入って、万事について祈祷して誠精を尽くさねばなりません。であればみ旨は成るのです。

 地域長たちが集まった時に、地区長が大声をだせば気分が悪いです。気分悪いという看板を、神様から受けましたか? しかし気分が悪くなるそんな場が、滅びの場ではなく、うまく克服したなら、皆さんが勝利できる基盤を築けるのです。こうして皆さんが帰ってくれば、そのままではなくてそんな前後、左右を知り、神を中心としてこれまでの自分自身を反省し、再び今一度、新しい立場で動いて下さることを願います。分かりますか?


 天の人間になるには

 皆さん、侍義時代が何ですか?(侍る生活をする時代です)皆さん、今は示威時代ですか、侍義時代ですか? ところで近頃、示威する人間は多いのです。ですから侍義なのか示威なのか、はっきりして下さい。

 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活におきまして、正確な中心を決めてゆかなければなりません。神に侍る時には、法度があるのです。この法度を破る時には、神は非常に怒れるお方なのです。子を愛する父母が、子供の一言で胸に釘を打ち込まれたり、抜き取られたりするのと同じように、神も人間を愛しておられるので、憤ることの多いお方なのです。ですからちょっとしくじると、神から怒りを受けるのです。ですから常に、先生も先生なりに、神を喜ばせてあげようとするのです。衣服を着る時も、きちんと着なければなりません。先生も衣服をきちんと着ている人を見れば、気分がとても良いのです。それで先生もそうしなければならないと思い、洋服を着て来たのです。そうでなければ、ジャンパ-を着て来るのです。

 面で称賛を受けようとして生活する人間は、うまくやる時は称賛されますが、そこで一度失敗したら、完全に滅んでしまうのです。しかしながらその人が、面で称賛されて、郡においても称賛されようと熱心に忠誠をつくしたなら、生きる道が残るのす。しかし郡でも称賛されようと、目を血走らせていたなら、一度失敗すればその人はむしろ滅んでしまうのです。しかしながら郡を忘れて、道のための目標を目指して行くなら、郡で失敗しても、また生き残ることができるのです。しかし我々統一教会員たちは、神を最も愛し、神の称賛を受けなければならないのです。世界のいかなる大統領の称賛が、問題ではありません。神から称賛を受ける体験だけが、永遠に残るのです。ところでいまだに、神からの称賛を受ける時が、ないのです。

 先生は我々統一教会が、大韓民国においてのみ称賛を受けることを、願っているのではありません。また、世界の30億人類が称賛したとしても、それで満足はしないのです。数多くの霊人たちが歓迎し、神から有難いと称賛されるそんな立場なで行かなければならないというのです。これはとんでもなく遠い基準です。

 自分が3年間、苦労して骨を折ったので、必ず称賛されなければと考えたなら、その間に苦労したことが、全て無駄になってしまうのです。民族と世界のために3年苦労したとしても、いまだ苦労した立場に立っていないと考え、より忠誠を誓わねばなりません。であればその苦労の値打ちが、ますます世界的に広がって、終いには大きな称賛、すなわち世界的な称賛を受けることができる立場に立てられるのです。そうなれば天の人間になるのです。


 先生が歩んだ道

 先生が皆さんを地域長にさせ、また皆さんに韓国に責任を持てと言ったことが、何の話か分かりますか? 全部アフリカ、南米、ヨ-ロッパ等、世界の五大洋、六大陸に送るためなのです。ところで韓国では、こんな考えを持っている人間がいないのです。日本人を見ても、全部が日本を離れて世界復帰のために力を尽くしていますが、韓国の統一教会の青年たちの中には、こんな人間がいないのです。いますか、いませんか?「います」いるといって、何がいる! であれば要件を持たなければなりません。

 皆さんが苦労し、骨を折って称賛されるという立場に立てば、その要件を得ることができません。ですから自分に任された責任を中心に、面を通して郡、郡を通して道を動かすと考えなければなりません。また、道を通してこの国を動かす、と考えよというのです。先生はこのようにやって来ました。

 先生は小さな土塀の家でひどい暮らしをしていても、今日のおかずは何にするか、明日は何を食べるか、という心配はしないのです。たとえ着る物はボロでも、食べるに困っていても、思いだけはこの世界を征服して天の国を造ってやると、そんな大言壮語をガンガンやったのです。

 ならば皆さんも地方に行って、一間の部屋、あるいは村の人々が入って来ない部屋、すなわち歳とって死にそうな人が暮らしていたのが息を引き取った、そんな部屋で生活したとしても、天下を統一する土台を残さなければなりません。そしてその土台の上に教会を立てたなら、天がどんなに貴く思うでしょうか?

 ですからその部落だけを中心にする、と考えるなというのです。そしてここで称賛を受けることを考えてはダメです。そんなことは、よくあることです。過ぎ行く旅人に、昼めしの一杯ももてなせば、その旅人が有難うというのと同じことだと、考えなさいというのです。

 こんな考えをもって、気分が悪いことがあったとしても「アイグ-、悔しくて、もうダメだ」と言って自分の胸に結んだ感情を、神のまえに訴える、そんな祈祷をしてはならないというのです。これをうまく克服して、み旨のために死ぬという立場まで行かなければなりません。何事があってもそのように考えたなら、み旨のまえに条件が立つのです。この条件に引っ掛かる人は、欲心が多い人です。欲心が多い人は、目の前にあることは全て自分のものと考えてしまうので、条件に引っ掛かるのです。

 教会の誰がどうで、誰がこうしたという人は、みんな欲心が多いのです。どんなに無いとしても、絶対そうであってはなりません。何が無くて、何が無いというのも、みな試練の舞台で神が私に、教訓とするためであり、私を教育するための材料として登場することだと、考えなければなりません。先生はこのように考えます。ですから全てのことを悔い改めて、その環境で皆さんは責任を果たさなければなりません。分かりましたか?


 侍ることと祝福

 皆さん、侍義が何ですか? 仕えるのは乞食ですか? では皆さんは、どれほど侍ってみましたか?

 皆さんはどこであっても腹がへった時や、ひどく難しい時に助けられたなら、とても有難く感じます。先生もそんな時がありました。今も学窓時代、困っていた時に助けてくれた人を忘れることができません。それでこの7年の間、先生が条件だけ立てたなら、その時は全部お返ししょうと考えているのです。先生は今まで復帰の道を歩んで来て、悲しみに出会う環境にある時、先生に恵みをほどこしてくれた人々をみな記憶しています。すなわち先生が世話になったことを、みな返そうと思っているのです。ところで今まで、なぜ返さなかったのでしょう? それは今返せば、小さなお返ししかできないからです。

 先生が一つ、恨めしく思っていることがあります。先生が以北で避難した時、先生を助けてくれた平安道の親友がいました。その人に対して、骨身に染みて有難く、いささかもその有難さを忘れることができません。それで先生はこの7年路程が終わって、世話になったことをお返しする時が来たなら、我々統一教会員たちの家は造ってあげなくとも、彼に家を造ってあげようと思っているのです。そんな人々にこれから真ごころを込めて、模範を示してあげたいと考えているのです。先生がこのように心で思っているのですが、その人がある時、食口たちの所に来て「あなたがたの先生が困っている時、私が助けてあげたのだから、私を助けて下さい」と言うのを先生が見る時、とても切ないのです。それで「気の毒な人だから、じっと耐えよう」と思うのです。先生はそのように忘恩の徒ではありません。先生はそのようにする深いみ旨があるのです。何の話か、分かりますか?

 皆さんは神に侍る者として、皆さんが嬉しい時、神をどれくらい喜ばしてあげていますか? 皆さんが腹がへっている時、ごはんを食べて感じる有難さ以上に、神に侍って差しあげなければなりません。

 皆さんは良い物を食べる時や、着る時、そして悲しい時や困っている時にも、常に神に侍らなければなりません。そして神の心に記憶される、事由を残さなければなりません。 皆さんが統一教会で出世するには、地方教会の教会長の心を占領して、その教会長の心に残る人間にならなければなりません。すなわち村なら村の中で、まず残ることができる人間、教会長の祝福を受けることができる人間にならなければならないのです。その次には、地域長の心に残り、地区長の心に残り、さらには協会長の心に残らなければなりません。そうすれば先生の心に残るのです。このように段階を経てゆくのです。


 7年路程は侍る生活の準備過程

 ですから皆さんが上の人の心に残るには、誠精を尽くさねばばりません。そのためには良いことが一つでもあったら、みな与えてあげたいという心が、皆さんに充満していなければなりません。

 心情の世界では、物をもって通じるのではありません。心で通じるのです。常に感謝する心で、上の人が悲しい時、同じく悲しみ、嬉しい時、同じく喜ぶことができる因縁をもって通じるのです。このように生きる人間に、神は共におられるのです。それで彼が悲しむ時、神も悲しまれ、彼が喜ぶ時、神も喜ばれるのです。

 ですから皆さんがこのような段階を経ないで、地区長に対し、地域長に対してはいけないのです。

 侍る時におきましては、段階があるのです。ですから統一教会員であるというなら、誰であっても7年路程をみな経なければならないのです。すなわち7年路程は、侍る生活に対する準備の過程として、堕落した人間にとって絶対的な過程として残っているのです。であるにもかかわらず、7年路程に対して、多くの人々が知らないのです。みな忘れているのです。皆さんはどうですか? 「7年路程が何だ? こうこうだ」このように考えてはダメです。ですから家庭で言えば、二人が暮らしていれば、4人で暮らす生活をしなければなりません。すなわち父母に侍らなければならないということです。しかし父母だけに侍っていたのではダメです。さらにはその息子まで、侍らなければならないというのです。分かりますか?

 ですから皆さん自身が「四位基台」を復帰するためには、父母だけに侍っていてはダメです。必ずその息子にまで侍らなければなりません。このようにして皆さんの全ての誠精を、そのまえに連結しなければなりません。そうすれば外的な面においては二人で暮らしていても、内的な面では何と4人、5人の生活基台となるのです。

 父母に侍る時は、3年は侍らなければなりません。なぜ3年ですか? 3数過程をいっぺんに復帰するためです。ですから皆さんが家庭を中心として生きる時には、先生がいつ何時に予告もなく、皆さんが暮らしている家を訪問しても、先生がくつろげる部屋がなければなりません。部屋がなければ、席でもなければなりません。その席は、誠精を込めた場所でなければなりまん。

 ですからその席を中心として、一間であっても、いつも誠精を込めた場所を造っておかなければなりません。そうして父母に侍ることができるその日が来たなら、服を着るにも準備された服を着て、履物を履くにも準備された履物を履いて、身ぎれいにして侍る準備をしていなければなりません。ほうきを取って庭をはくにも、みな掃いておかなければなりません。そして父母を千回、万回、偲ばなければなりません。皆さんたち、そのようにしてみましたか? そうしてみた? 生きた教会になるには、みなこのようにしなければなりません。教会にはお父様が来て、祈祷する所がなければなりません。平素、心情の蝋燭を灯して、誠精を尽くさなければなりません。

 慕わしい心を持て

 近頃、地域長を見ていると、いい加減な地域長が多いのです。仕事に行って礼拝の日になっても、礼拝は食口たちにやらせて自分はその日も忘れている地域長が多いのです。祭司は誰が管理するするのですか? 祭司長が管理するのです。そうでしょう? 祭司は客が管理してはダメです。ですから皆さんが地方で、公的な会合の場を重要視しなかったなら、発展しないのです。分かりますか、地域長たち? 区域礼拝も同じことです。

 主の日の礼拝の時には、必ず沐浴斉戒して、神のまえに敬礼を捧げ、また聖地を尋ねて祈祷しなければなりません。たとえ尋ねて来る人がいなかったとしても、神がその部落を思いやって、共にされる心情的な基台を築いておかなければなりません。神のまえに一人祈祷して、涙を流すその場は、絶対に心ぼそくはないのです。神が共におられますから、絶対に淋しくはないというのです。3年以上、皆さんが誠精を尽くしても、その村で得た人がいなかったら、その村は滅ぶのです。

 皆さんが爪を切るその時にも、お父様に侍ることができるその時、その時間が来たら、どうするのですか? どのように孝道をなすのでしょう? そしてどんな姿でお父様に侍るのか、考えてみなければなりません。お父様にどの川岸で、出会うことができるのか!どんな所で出会うことができるのか!

 皆さんが山奥に入って生活するなら、我々統一教会員の食口たちが尋ねて来たら大切にもてなし、また食口の中で誰か悲しいことがないかと、案じたりします。そして自分と最も親しい食口に会えたなら良かった、また先生に会えたなら、地区長に会えたなら、地域長に会えたなら良かった、という慕わしい心がなければなりません。

 毎日のように慕わしくないという人間は、神に侍ることができないのです。皆さんはこれが分からなければなりません。誰を慕うにも常に、慕わしさに染みていなければなりません。ところで夜、12時になると「やあ やあ ! さあ さあ 」という人間は、神に心配を掛ける人間なのです。親友には、夜も昼もないのです。心情の因縁を知ってゆく時には、夜が問題ではありません。

 他人から反対され、迫害された話を聞けば、その人よりさらに悔しくて胸が痛み、称賛された人を見たら、その人のことを地区長や地域長に報告して、誇ることができなければなりません。全部報告して誇りたいという心を、皆さんが持たなければなりません。

 ですから慕わしい心がない人は、侍る生活をすることができない人です。慕わしい心、すなわち本部を慕い、地区を慕い、兄弟を慕わしく思わなければなりません。こんな心で生活する人間は、絶対に淋しくはならないのです。

 そうなればその人によって、必ず繁殖が起こってくるのです。こんな基準で教会を立てれば、天上的教会になります。では、皆さんの教会はどうでしょうか? 全部みな冷え冷えとしているのです。このような慕わしい気分にならなかったなら、皆さんは写真でも見て、一人であったも慰めなければなりません。口にも言えないよじれた事由は、素晴らしいことなのです。であればお父様がその間に流した涙は、一つの感情によって解かされてゆくのです。皆さん、そのようにやってみましたか?

 その流した涙の中に、天に通じる感情が生じてくるのです。涙を流してアボジを呼ぶ時に、その声はどこに行くのですか? 食口たちの困難な様子を見る時、それは他のことではありません。皆さんが暮らしている村に、伝道隊員が来れば「彼らは自分の仕事を代身するために来てくれたのだから、彼らの所に行きたい」という心がなければなりません。


 修道の道を歩む人間は乞食の親類になれ

 孝子は父のことを代身して責任を負う立場ですから、父のことを代身して責任を持つことは無論ですが、その周囲に誠精の手を延ばすべき所があったなら、その場に行って見たく、またそこに行って涙を流し、そこの食口たちと一緒になりたいという懇切なる心がなければなりません。そんな心がない人間は、先生に侍ることはできません。そんな慕わしい心を持ってみない人間は、侍義の生活圏から離脱した人間です。すでに神と同じ目的を持っていないというのです。

 イエス様を信じる信者たちが、イエス様の愛の新婦である信仰の兄弟たちを愛すれば、これはイエス様を代身して愛したのですから、その人は早く蕩減復帰できるのです。

 完全なプラスは、完全なマイナスを生むのです。ですから完全に心情が一致すれば、完全なる心情の対象者が生まれ、新郎新婦の欣慕の心情を連ね、縦的にそんな関係を結べなければ横的に同志あるいはは食口、あるいは同胞の関係を結んで、繁殖してゆくのです。人間は腹がすけば沢山食べます。しかしどんなに腹がへっても、食べ物を横にいる人にも分けてあげなければなりません。

 皆さんよりもさらに忠誠をなした先知先烈たちが、皆さんと同じ立場で神のみ旨を立てることができなかったので、恨が残っているのです。ですから全体が神の対象になっているのです。

 皆さんたちに慕わしい心がありますか? 地域長が慕わし時がありますか? また、先生が慕わしくて会いたい時がありますか?「ハイ」時にはあるでしょう。皆さんが迫害され、悔しい時「先生! 先生を愛していますほどに、私を愛して下さい」とは言っても、自分がちょっと楽で嬉しければそうではなくなるのです。鞭打たれ、悲しい立場になった時には先生のこと考えるのですが、そうでない時には考えないのです。

​ ですからこれから環境がだんだん良くなって、統一教会を歓迎する人々が多くなる時、その時が正に統一教会の信者にとって、危機の非常時代になるのです。分かりますか?​

 まず財布にお金がちょっとあれば、祈祷する心も起きないというのです。皆さん、そうですか、そうじゃありませんか? それで修道の道を歩む人間は、みな乞食の親類になれというのです。家を捨て、山中修行するというのです。ところで我々は天国の門に入るまでは乞食の様子ですから、天国生活をする時にはいけませんので、我々は覆って行かなければなりません。

 その代わり心情だけは、いつも終始同じでなければなりません。皆さんは心情教育を受けていますから、今までそんな分野では道義的にゆくことができるのです。

 ですからまず、縦的な関係におきまして天的な基準を立て、縦横を蕩減しなければなりません。上下、前後、左右です。右左、後前、下上そのようになっているでしょう?「上下、前後、左右になっています」一切の影響は、根から上がって来るのです。


 勝利する生活

 先生は誠精を込める食口や家庭を、最も恐れるのです。そして苦労した食口を見ると、その食口が苦労したということを、先生はいっぺんに分かるのです。

 誠精を尽くすということは、むやみに求めることではないのす。ですから統一教会に入って、先輩たちが天に向かって誠精を尽くした基台の上でしくじったら、霊界に行って全部引っ掛かるのです。これが分からないで統一教会に入って、逆賊になる人々がいます。そんな人間は、7代が引っ掛かるのです。先生がさっと印を付けておけば、彼らはあの世に行って引っ掛かるのです。こんな怨痛なることがあるでしょうか? 悪の世界が滅ぶ時には、彼らはまず一番に滅ぶのです。

 ですから皆さんは、侍義の生活をしなければなりません。朝起きて、最初の一言を天のまえに捧げ、家を出る時には、最初の一歩を右足から踏み出して、天のまえに捧げるのです。平素の習慣がこのようになったら、皆さんの生活は侍義の生活となることができるのです。このような観点で皆さんは、原則的な基準で、生活における態度とするようにして下さい。

 さあ ! 今はこれくらいにして今日、記憶することを忘れませんか?「ハイ」

 今、皆さんは、自ら伝道基盤を築かなければなりません。ところで今、皆さんの心の姿勢で、できますか? さらに女性たちは伝道に行かなければなりません。統一教会食口たちは女性でも、3月以上伝道に行かなければなりません。そうしない女性たちは、これから嫁に行く歳になっても、嫁に行けないのです。これは蕩減条件が残っているからです。 また、結婚していない青年たちはどうなるのでしょうか? チョンガ-ですよ。チョンガ-なら、統一教会に来て女性たちを連れてこなければなりません。それで千年(青年)は一日の如く、一日は千年の如しです。間違いなく、目が落ち込んで待っているのです。ですからより多くの体験をしてみなければなりません。すなわち、霊的な感を通して相手方がどんな感じを持っているかということを、知らねばなりません。ところで大部分の霊界を通して預言されるいる人々が、これを失敗するのです。それでこれをよく判定しなければなりません。ですから霊界で教えても、むやみに喋ってはダメなのです。全て消化して、天的なものを追求するのに合致した位置に帰って、処理しなければダメです。でなかったら、パンクしてしまうのです。


 神のまえに忠誠なる先生

 先生はこんなことを体恤した人間なのです。先生が監獄に入っている時、どんなに裏寂しいでしょうか? ところで神は、先生に多くのことを約束して下さったのです。そんな時ごとに「あふ ! そんなにはるか遠いことを、どうして押し分けてゆくの」と言って神を怨むなら、千万にもわたる事由をもって怨むことができるのです。しかしながら男として生まれたからには滅んだとしても、天地を創造された偉大なる神を引きつれて立派に滅ぶというのです。本当にこれは、男らしいことです。

 神のまえに忠誠を尽くそうとしたのに、神が100パ-セント排斥されたとしても、これは素晴らしいというのです。しかし普通の人は、神が自分を100パ-セント排斥する立場に立ったなら、千べん万べん神に背反し、怨讐視して仇を返そうとするのです。しかしこんな立場に立っても、ホホと笑って「これくらいでは我が心は動きません」という人間がいたなら、神は「やあ 、こいつを見てくれ。千万の人間以上の気概を持っているなあ !」とされるのです。

 先生がこのように考えて決心しているので、神は先生を愛さずにはいられないのです。もしも神が愛さなかったなら、先生は千万の山場で間違いなく倒れたのです。しかし背骨が飛び出してものそりのそりと這って、死んでも心に抱いた決心を捨てはしないのです。 それで先生は拷問を沢山受けました。五体に全部血がまわるほど、また血が鉢に何杯も溢れるほど、鞭にも打たれたのです。


 時を失うなかれ

 日本統治時代には、軍靴で腹を蹴られる拷問も受けました。二人の男が左右から手を掴んで、また二人の男が上から踏みつけるのです。そうしたら腹の皮膚がどうなりますか?破れますか? 切れますか? それで便所にいって一度座って、起きてみなさい。それがどんなに苦しいでしょう。しかしながら先生は、気を落とさないのです。やあ ! 素晴らしいというのです。(笑い)神のためにこのようにしたということは、世の中にないことです。(笑い)考えてみて下さい、そうじゃありませんか? ではあっても私が出て行く時には、彼らに親切にしてやって行かなければなりません。約5・6時間、ひどい拷問を受けて、気絶してばったり倒れる時、その時むしろ彼に同情したのです。その同情は本物です。あ! その時その何某はどこにいるかと、考えたのです。享楽を追求する人間に、こんなことをいくら説明しても絶対に分かってもらえません。

 そんな場においては、アボジと共なるその時が慕わしいのです。鞭で打たれて血を吐いて、肉が熱くなるそんな場であっても「この血は歴史に背反した先祖の血だ。私には未だ行くべき道が残っているので、背負う十字架があるので、みな背負わせよ」という祈祷をしたのです。これはどんなにか男らしい祈祷でしょうか? 先生がこんな話をすれば、終わることがないのです。これまでこんな路程を、経て来ました。

 耐えて来たのですが、いつの日にか、返す日が来るのです。ですからアボジ、耐えて下さい。韓民族を審判されるなら、最後の審判をされる前に私に通告して審判して下さい。また、世界を審判されるなら、最後に私に通告して審判して下さい・・・。

 こんなことを考える時、運の悪さを嘆き、身の上を嘆く人間に比べれば、どんなにか素晴らしい男でしょうか? 歴史時代に一度現れて霊界に行くとしても、世界的に仰ぎ見られる人間になってみなさいというのです。どんなに素晴らしいことでしょうか? このようにすることは、一度しかないのです。この時を逃したら、ないというのです。この機会を捉えなければなりません。




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Last updated  2021.05.03 17:27:20
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2021.05.02
日韓トンネルプロジェクトを推進する国際ハイウェイ財団ホームページからの新着ニュースです。



2021.4.26
NEW
中国の4大ポータルサイト『網易』に日韓トンネルの記事が掲載されました
2021.4.26
NEW
サンデー世界日報に日韓トンネル特集記事が掲載されました


2021.4.22
NEW
世界日報に日韓トンネル計画についての記事が掲載されました


2021.4.21
NEW
ビジネスジャーナルに事務総長のインタビュー記事が掲載されました
2021.4.20
NEW
ビジネスジャーナルに理事長のインタビュー記事が掲載されました




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Last updated  2021.05.02 23:41:09
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天の父母様聖会 天苑宮天苑教会 聖日礼拝

日時 : 天一国 9年 3月 21日(2021年5月2日) 午前 9時30分
場所 : 神韓国オンライン非対面
中継 :






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Last updated  2021.05.02 12:00:58
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2021.05.01


オンライン生中継の映像(韓国語のみ)は​PeaceLinkホームページ​、5月2日AM09:30から配信される予定です。





韓国ニュースからです。

http://m.localsegye.co.kr/news/newsview.php?ncode=1065616888469715














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