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奇  知  外  記

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文鮮明先生み言葉選集(講演文)

2020.05.18
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​​​​​​​​​​​​​​天一国経典・平和経から文鮮明総裁のみ言をお送りします。





第三篇 宗教と理想世界 - 1. お一人の神様と一つの世界宗教


​お一人の神様と一つの世界宗教​

日付:一九七二年二月三日
場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーン・センター
行事:アメリカ九カ都市巡回講演



紳士淑女の皆様。今夜、このように悪天候にもかかわらず、大勢の方々が集まってくださったことに対して、心から感謝申し上げます。皆様に会ってみたいという思いは、数十年前からありました。今晩、初めて皆様にお会いでき、まず皆様の前に感謝申し上げると同時に、神様に心から感謝を申し上げる次第です。

​神様は実在するのか​

きょう、お話しするタイトルは、「お一人の神様と一つの世界宗教」です。このニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言えば、「神様は死んだ」という言葉を連想するかもしれません。しかし、神様が存在しているのに、存在する神様を「死んだ」と言うのは、これ以上の罪はないと思うのです。神様が存在しないのに「神様は存在する」と言うほうが、それよりまだ良いと見ることができます。

きょう、お話しする「お一人の神様と一つの世界宗教」というタイトルを見ても、ここに人がいなければ何の問題にもなりません。人がいるので、その人と一人の神様が必要なのであり、人がいるので、その人と一人の神様が一つになってつくられる宗教が必要だというのです。

万一、絶対者である神様がお一人でいるならば、その神様がいる所は幸せな所ではないと考えざるを得ません。神様であっても、その神様が一人で喜ぶならば、神様も正常な神様ではないでしょう。しかし、その神様がいくら小さな相対だとしても、その一つのものを見て「ははは」と笑いながら喜ぶとすれば、それは正常なのです。いくら小さなものでも、それを見て笑う神様に対して「狂っている」と言えば、そのように言う人がかえって狂った人になるのです。ですから、相対的存在がどれほど貴いかということを、皆様に最初にお話ししているのです。「不幸」や「悲しみ」という言葉は、相対がいないところから始まる言葉です。

それでは、神様が相対を好むとすれば、この世界でいったいどのような存在を好むと思いますか。感覚がない鉱物のようなものでしょうか。鉱物ではありません。植物でもありません。植物よりは動物のほうがより関心事になるでしょう。このように見るとき、この被造物の中で神様の関心事になり得る中心存在とは何かと尋ねれば、幼稚園児であっても、人間だと指摘するでしょう。皆様は、そのように思いませんか。このように見れば、人間は被造物の中で最高傑作だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねていくとすれば、人間を除いては訪ねるべき対象がないという結論が出てきます。

今日、この複雑な情勢の中で、今後のアメリカの運命や、あるいは世界の運命を考えるとき、神様がいれば良いのか、いなければ良いのかという問題は、深刻に考えてみる問題にならざるを得ません。

絶対者がいて、真は真とみなし、悪は悪として処断することができれば良いですが、そのようなお方がいないとすれば、今後の世界は問題にならざるを得ません。ですから、神様がいないより、いるほうが良いというのが、私たちの願いです。ですから、神様がいるか、いないかということが問題です。

​二性性相の神様​

この宇宙は、存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには、力がなければならないことを知っています。その力が存在するためには、力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ、存在もありません。ところが、その力というものは、作用をせずには現れないのです。力がある前に、作用という現象が必ず必要です。

また、作用をするためには、そこには必ず先行条件として、主体と対象が絶対必要だということを否定できません。この主体と対象が授受するところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。言い換えれば、力が存在する前になければならないものとは何かというと、主体と対象だというのです。

主体と対象は互いに異なる立場にあるので、これらが作用をするためには、互いに相手の内容に合うようにしなければならないのです。そのようにしなければ作用することができません。ですから、主体と対象が作用するためには、主体の目的と対象の目的が一致できる基点がなければならないのです。そうでなければ作用しないというのです。

私たちが何かの用で外に出ていくとき、自らが損をするために出ていく人はいないでしょう。ニューヨークのタイムズ・スクエアを大勢の人々が往来していますが、その人々が家から出るとき、「私はきょう、一ドルでも損をするために家から出ていく」といって出てきた人は一人もいないはずです。出てくる時は、必ず自分に利益になることを望み、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです。

皆様が友人たちに会って交流するとき、お互いがマイナスになり、今よりも悪くなりかねない立場では、絶対に一つにならないのです。甲と乙の二人が一つになるには、今よりプラスになる共通の目的があるからこそ、そこで作用が起こり、一つになるということが起こるのです。このように見るとき、力が作用するには、二重目的、すなわち主体と対象が互いの目的にプラスになるものがなければ、一つになることもなく、作用もしないという結論を出すことができます。

原子を例に挙げれば、原子は陽子を中心として電子が取り囲んでいます。それもやはり、二つの目的を結合して与え合う立場にあるので、一つの原子型を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的が追求するものを中心として、合わせているのです。大きく見れば、神様も存在者です。神様が存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に与え合うことができる二重目的を中心として、結合した位置に立たなければ、永遠に存在することはできないのです。それは、神様も結局は、主体と対象が一つになって、お一人の神様としていらっしゃるという話です。

​神様のかたちに創造された人間​

聖書の創世記第一章二十七節を見れば、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」という聖句があります。それを帰納的に追究してみれば、神様は、一人の男性と一人の女性を合わせた方だという結論が出てきます。

そのような神様が一人でいてはいけないので、対象を必要とされ、そのために、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで、造られたのが一人の男性であり、一人の女性です。一人の人について見ても、人には心と体があります。この心と体が与え合うのです。もしこれが食い違ってくると苦痛を感じるようになります。どちらか一方が傾くというのです。しかし、これが一つになって上がっていけば喜びがあるのです。これが完全に一つになった男性がいるとすれば、彼は完全な男性です。

もし絶対者がいるとすれば、どのような男性を要求するでしょうか。そのような男性を要求するでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるとすれば、神様は、その女性に会おうとせざるを得ません。絶対者の威信から見ても、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように、天のみ前に堂々と立つことができる人を天は求めるのであり、私たちも望むのです。

私たち人間を見れば、原因的な存在ではないことを否定できません。人は結果的な存在です。皆様は、存在する、しないを自由に決めることができますか。できません。原因になれないので、結果的な立場にいることを否定できないのですが、結果的な存在も、原因が絶対的ならば、絶対的な相対の位置に立つことができるのです。

​人体の神秘を通して見た神様の実在性​

皆様。神様がいるか、いないかについて、少しの間お話ししてみましょう。私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖が出てくるでしょう。その人類始祖は大地で生まれたのです。その生まれた最初の人間が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出てきたか、そうでなければ、それ自体は知らずに出てきたかということを考えてみます。

この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることができることを知り、目をそのように生じさせたのです。皆様の目を見るとまばたきしています。それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。

そして、目はあらかじめ汗が流れてくることを知っていました。それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。また、耳を見てください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。また、鼻を見てください。鼻がなぜこのように下に向かうようになっているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。すべて知ってつくられたというのです。それらが自然にそのようになるでしょうか。

このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。これがただそのままそのように生じることはありません。このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。そのように生まれたことに対して、「ただ生まれた」とは言えません。それをあらかじめ知っていた方が誰かというと、神様でいらっしゃいます。

​神様との関係から見た人間の本然の価値​

それでは、神様が人間を造ったとすれば、私たち人間をどのような立場に置いて、どのような関係を結ぶために造ったのかを調べてみましょう。神様が人間を造ったとすれば、造った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人間ならば、その人間自身にも目的があるのです。造られた人間の目的と造った神様の目的が別々だということはありません。必ずある一致点がなければならないというのです。その立場は神様も望み、私たち人間も望むでしょう。

ここに来た人々の中で、世界的に著名な大統領がいらっしゃるとすれば、その大統領よりも偉くなりたくないと思う人がいますか。偉くなりたいと思いますか、偉くなりたくないと思いますか。偉くなりたいと思うのです。最高に偉くなりたいと思います。世界で一番偉い人がいれば、その人と関係を結びたいと思うのが人間の欲望です。

そして、その偉い人を中心として一つになったとしても、それよりも偉い人がいれば、その人とも一つになりたいのです。男性も女性もそのような思いをもっています。いくら愚かな人だとしても、そのような思いをみなもっているというのです。もし天地を創造した絶対者である神様がいらっしゃるならば、その神様と関係を結びたいと思うでしょうか、結びたくないと思うでしょうか。

そして、その神様を占領したとしても、神様の中にただ一つしかない愛を占領できないときは、安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛までも占領すれば、万事OKです。そのお方の愛さえ占領する日には、そのお方のものは、私のものになるというのです。良心は私たちを、そこまでせき立てる作用をします。本来の人間は、そのような価値のある立場にいるので、そのような作用をしていることを否定できません。

神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならば、どのような立場で愛したいと思われるでしょうか。また、私たち人間は、どのような立場で神様の愛を受けたいと思うでしょうか。その立場は父子関係、すなわち父と息子の立場しかないというのです。ですから、今日、キリスト教で「父なる神」と呼ぶのです。父と息子なら上下関係です。人間の欲望を見るとき、その高い父の位置に私も一度行きたいと思わざるを得ないというのです。ですから、神様はそれまでも心配して、私たちの心、すなわち内的なところに入ってきて、私たち人間自身を外側、すなわち神様の体と同様の立場を許諾しようというのです。そのようになれば、同等な立場に立つようになります。

人間で見るとき、その父が貴いとすれば、一人しかいないその父を、どこかに持っていって保管したくはないのです。あの遠いところに置きたくないというのです。いつも自分と共にいて、自分だけに会い、自分だけが喜べるところに持っていって置いておきたいと思います。ですから、神様が見えないことを願うのです。神様をどこかほかのところに置いてはいけないというのです。私だけが分かる心の中に置きたいというのが、私たち人間の欲望であるに違いありません。

ですから、創造主である神様は、被造物である私たち人間を神様と同じ立場に置くというのです。私たち人間を、神様の息子の立場で愛することができるように、神様と同等な立場に立ててくださったのです。

神様は天地を創造する能力をもったお方なので、その創造の能力までももつようにさせたかったというのです。神様が人間を創造したあと、私たち人間を造ってみると、どれほどかわいく、愛らしかったのか、そのような妙味までも、私たち人間が感じるようにさせたいと思われたというのです。

その神様の創造の能力を受けようとするなら、神様はお一人の中に完全な男性と女性の姿でいらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も、完全な男性と女性が一つになって、神様の相手にならなければなりません。神様の相手になることによって、創造的役割を身代わりできるのです。

ですから、夫婦の愛を通して一つになることによって、神様のような立場で創造の能力を果たせるのが子女です。赤ん坊を生んで、どれほどうれしいかということを私たちに感じさせるために、神様は子女を愛する心を下さいました。このように見ると、神様は最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです。このように、永遠であられる神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように私たち人間を造られたのです。そのようになることによって、絶対的な神様のみ前に、神様の愛を中心として永遠に相対となる立場で、別れようとしても別れることができない幸福な人として生きるのが、人間の本然の姿だったということを、私たちは知らなければなりません。

​世界を救うべき宗教の使命​

絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから、反発が起こるのです。そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です。

神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです。

世界には多くの宗教がありますが、文化が異なり、あるいは民族の背景が異なるので、その基準によって、多くの宗教を立てて糾合してきたのです。宗教が望む目的は、世界を救うことです。神様が望む目的も、世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ、長く存続できません。

皆様、宗教指導者たちは、民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とした世界的な運動を提示した人々です。私たちは今、四大聖人として、イエス・キリスト、釈迦牟尼、孔子、ムハンマドを挙げます。ある人はソクラテスを挙げていますが、ソクラテスは哲人であって聖人ではありません。知識では生命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです。

ですから、四人聖人とはどのような人々かというと、すべて世界的な大宗教の教主になっています。天に仕えなかった人はいません。皆様、聖人を尊重しながら、天を無視する人になってはいけないというのです。

​世界的中心宗教はキリスト教​

したがって、この修理工場のような使命を宗教がするのですが、神様が絶対者ならば絶対者が一番好む宗教とはこの四大宗教の中でどの宗教かということを、私たちは知らなければなりません。 儒教を見れば、神様に対するはっきりとしたことを教えられませんでした。善を行えば天が福を与えて、悪を行えば災いを与えるという程度しか教えることができなかったのです。仏教を見れば、法則的な神様は認めますが、人格的な神様は知らずにいます。また、イスラームを見れば、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です。

ところが、ただイエス・キリストだけは、主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神のひとり子だ」と言いました。人類歴史上に、神様のひとり子だと主張した人は、イエス様しかいないのです。その次に「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四・九)と言いました。「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇・三八)と言いました。それだけでなく、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。このようなことを見るとき、誰を中心としてこれを成し遂げようとしたのかといえば、神様を中心として成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心として息子になり、一つの体になり、一つの新郎新婦になり、一つの家庭をつくろうというのがキリスト教の目的なのです。私たち人間に最高の価値として与えられた息子の位置と同等な立場、そして創造の偉業と創造したそれ以後の喜びまでも感じられる家庭的起源を、イエス様は教えてくださったのです。

​キリスト教の限界​

ところが、イエス様は神様の息子であり、天の父と一体になりましたが、相対である新婦を準備できませんでした。もし、イスラエルの国とユダヤ教が、その時、イエス様と一つになった立場で、イエス様が新婦を迎えられるようにしたならば、イエス様は神様と直接の相対となって、創造の能力を発揮できる基盤をもったはずですが、それを成し遂げることができずに逝きました。

このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくって、新しい氏族と民族と国家と世界になったとすれば、この地球星はすぐに天国になったでしょう。神様を中心とした天の国になったでしょう。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教徒たちが信じることができなかったためにイエス様が死んだのであって、信じたとすればイエス様は死ななかったでしょう。

もし、そのとき、イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じて、神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新しい出発をしていれば、第二次世界大戦中に六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されることもなかったでしょう。歴史始まって以来、初めて現れた、神様の対象となり、神様が愛することのできるお方を打ってしまったので、そのようになったのです。それ以上に大きな罪はないというのです。

今、ここにもイエス様を信じる人が大勢来ていると思います。しかし、皆様の信じているキリスト教がこのまま進んでいけば、追われていくイスラエル民族のようになるかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として一つになり、再び来られる主がこのような使命をもって来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなければ、今後、この世界の展望は悲惨だと見ざるを得ません。

そのお方が来て、新郎として新婦を迎えて婚宴をするというのが、ヨハネの黙示録に出てくる「小羊の婚宴」です。堕落したために、私たちは偽りの父母をもちました。神様がモデルとして考えていた善の真の父母は出てきませんでした。このように計画していたことを、終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて、再び生み、再び接ぎ木するみ業をしなければ、世界のすべての人は救援されないのです。

​新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教会​

今後、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落せずに善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び完成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛される道を開くために来られるお方が、再臨主です。神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くのが幸福でしょうか。今日、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母は天国に行き、父は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、氏族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません。

このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今日のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上の天国になるのです。そのようになるためには、皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知らなければなりません。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命です。

膨大な内容をこのように要点を整理して短時間で話そうとするので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。






一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2020.05.18 23:54:49
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